うしろの正面不動明王にらみおり 田口和代
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山東京伝黄表紙
寛政の改革は、天明7年(1787)から寛政5(1793)にかけて、享保の改革を下敷きに老中・松平定信が行った幕政改革である。改革における禁止条目は、増加することはあっても減るようなことはない。先の享保の改革では、まだ緩やかだった取り締まりが、寛政の改革でいっそう厳しいものになる。
「詠史川柳」-寛政の改革
田沼政治を覆した白河藩主・松平定信は、御三家や11代将軍・徳川家斉の実父・一橋治済(はるさだ)の強力な推薦を受け、1787年6月老中に就任、寛政の改革を開始した。定信は8代将軍・吉宗の孫であり、新参成り上がりの田沼の政治に対し、不満をもつ大名グループの指導者であった。彼は老中に就任するや、これら同志の大名を次々に幕府の要職に登用し、改革推進の体制固めを行った。定信は、けっして独裁せず、改革の重要政策は彼らと十分協議し、さらに御三家および治済の意見を聞いたうえで実施された。定信は率先して倹約を励行し、華美な風俗を取り締まり、綱紀を粛正した。
コンパスで描いた円はつまらない
竹内ゆみこ
この寛政の改革のひとつの眼目は、出版に対する強烈な弾圧であった。書物および草紙類の新規出版禁止。禁じたものは、『当世を一枚絵等にすること、通説以外の異説を題材にすること、風俗に拘わる好色本、無用の手を加えた高価なもの、古代を装って不束なことを展開する子供向け草双紙、浮説を写本にして貸し出すこと』義務付けられたのは、『華美贅沢にならないよう質朴を守ること、奥書には、作者と板元の実名を記すこと』もっともどうしても出版したいというのであれば、『奉行所へ伺いを立て許可を得ること』というものであった。
黒子がいいそれが一番よく似合う
桑原スゞ代
ともあれ今後、書物・草紙屋は、相互に吟味して制禁書物類の密かな流通を見逃さないようにする。また手許に送られてきたら、必ず奉行所へ届け出てその差図を受けるように命じられたのである。この取締り方針は基本的には、享保7年11月の触書を踏襲している。それに現存する諸大名や旗本の先祖について書くことも禁止されたし、博奕及び遊里の趣を書き表すことも厳禁された。
すたすたとやってくるのは冬だろう 山本昌乃
偐紫田舎源氏
これで女郎買いをおもしろおかしく書いて人気を博していた洒落本は息を止められた。寛政の改革に好意的だった「文武二道万石通」の作者・喜三二も、戯作の筆を折ることを余儀なくされ、同じ傾向の「鸚鵡返文武二道」(おうむがえしぶんぶにどう)の作者・恋川春町にいたっては、切腹したという噂が伝わっている。山東京伝は「錦の裏」で手鎖50日に、また為永春水は、長い吟味の後、翌13年2月に手鎖50日に処せられ、翌14年2月14日に病死している。柳亭種彦の合巻『偐紫田舎源氏』は十三年の正月出版は叶ったものの旗本の組頭から「高屋彦四郎(種彦)其方に柳亭種彦という者差置き候由、右の者戯いたすこと宜しからず、早々外へ遣わし、相止めさせ申すべし」と断筆を迫られ、その6月19日には病死している。
トトロとすれ違う暗渠の中ほど
井上一筒
その他では、出版社・蔦屋重三郎は身上半減の罰金、その出版を容認した書物行司ふたりは商売を禁止された上、現住地から追放された。この厳しい改革の中で狂句や川柳がのうのうと風刺を書いていることが許されるわけがない。こうして風刺や滑稽を効かせた575は、詠史川柳へ逃げるほかはなかったのである。
一八〇度の転身をして返り咲く
清水久美子
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≪素戔嗚尊≫(スサノオノミコト)
どっちらも好きで大蛇(おろち)はしてやられ
天照大神岩戸隠れの原因を作った素戔嗚尊は、神の国から下界へ追放されるが、そこでは「八岐大蛇(やまたのおろち)退治」という偉業をなしとげる。八岐大蛇は八頭八尾を持ち、身体には苔や木が生え、長さは八つの谷や丘にわたり、毎年現れては娘を食べるという怪獣である。スサノオは八塩折(やしおおり)という強い酒を作って八つの酒器に入れ、大蛇がやってきてその酒を飲んで眠ったところを見計らって退治したのである。句は、大蛇が女も酒も両方とも好きだったからやられたのだという。
神代にもだますは酒と女なり
昔も今もとこの句の解釈は不要だろう。スサノオが退治た大蛇切り刻んでいると、尻尾から剣が出てくる。これが草薙剣(くさなぎのつるぎ)で岩戸隠れのときに作った勾玉・鏡とともに「三種の神器」とされる。
名案がある荒縄を置いてゆけ くんじろう
【知恵袋】
素戔嗚尊は「古事記」では須佐之男命。伊邪那岐命(イザナギノミコト)が黄泉国の穢れを落とすために日向の檍原で禊を行なった際、左眼からアマテラス(天照大御神)、右眼からツクヨミ(月読命)、鼻からスサノオの三貴子が生まれた。イザナギは、その三貴子にそれぞれ高天原・夜・海原の統治を委任した。
見込みある男飛びだす土砂降りへ 柴本ばっは
≪日本武尊≫(ヤマトタケルノミコト)
女形その始まりは日本武
景行天皇の第三皇子である小碓尊(オウスノミコト)は、勅命によって西方の賊・熊曽建(クマソタケル)の平定に出かけ、女装して宴席に潜り込み討ち果たす。その時、熊曽建が皇子を称え日本武尊の名をこう奉ったといわれている。
御神徳氷で草の火を鎮め
日本武尊は続いて東国の平定に向かうが、相模国の草原の中にいた時、地元の国造(くにのみやつこ)が日本武尊を焼き殺そうと火を放った。その危機に日本武尊は、草薙剣で風上の草を払い、火打石で風下の草に火をつけて脱出をしたという。(氷は剣のこと)
ピンチでも平常心という強さ 神野節子
[3回]
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