紐つきのファイル蔵から出してくる 河村啓子
元祖・団 十 郎
「詠史川柳―⑤」 団十郎初代~2代目
市川団十郎が、代々江戸の歌舞伎界に君臨した名優の名で
あることは言うまでもない。昭和40年癌のため57歳で
惜しまれつつ逝った11代・団十郎。未完の大器であった
ものの芸格の大きさにおいて、また類い稀な役者ぶりにお
いて、紛れもなく、戦後20年の歌舞伎を代表する名花だ
った。その父が早世したあとは、その長男である10代・
海老蔵が39歳で12代目・団十郎を継承、若々しい魅力
と独特な愛嬌・格調の高い芸風を発揮し、お家芸の「歌舞
伎十八番」はもとより、荒事、世話物、義太夫狂言、新歌
舞伎と多彩な役々を演じ分けた。しかし十二代目は58歳
で白血病を患い、9年間に及ぶ闘病の末死去した。
それから7年,途絶えていた市川団十郎の名跡が11代・
海老蔵から十三代目・団十郎白猿として、2020年5月
に蘇ることとなった。ここから団十郎のルーツを綴る。
父母の一語一語を接ぎ木する 井上恵津子
市川団十郎を襲名するにあたり、現海老蔵が述べた口上。
「俳名として二代目・団十郎から栢莚(はくえん)を名の
り、その俳名を五代目が、人間に及ばない猿という俗信を
ふまえ、名人に及ばないという意で白猿に変えました。
私も父や祖父にまだまだ足もとにも及ばぬ、これからもっ
と精進していこうという気持ちも含め、白猿を俳名として
名のることにしました」と、同時に、海老蔵の長男・堀越
勸玄(かんげん)が八代目・市川新之助として、5月の初
舞台を行う。そして新之助も7代目以降、団十郎へ繋がる
名前となっており。時が繰れば、勸玄こと新之助が14代
目へと続いていく。しかし、ここに至るまで、改革に巻き
込まれた7代目のように、様々な団十郎の生き様があり、
芝居のような出来事がある。
ゆらめいて早うおいでと背後霊 木口雅裕
元祖・団十郎は侠客の父と母の間に万治3年(1660)に生ま
れる。幼名は堀越海老蔵。幼い頃のことは不明だが、16
歳で団十郎を名乗り、荒事を創始し、江戸の劇界の注目を
一手にする。その荒々しい芸と逞しい芸魂には、士族の血
(武田家の家臣)を引く先祖と侠客の父から受けた雄健豪
放な血脈が、原動力になっていた。七代目が武家の芸能だ
った「能」を忠実に真似て『勧進帳』を創演するのも、九
代目が、「忠臣義士」を主題とする史実一点張りの活歴劇
を演じたのも血のなせるわざなのだろう。
だが初代は、荒事一辺倒でそれなりに画期的存在ではあっ
たが、芸術性においてはあまり高い評価はされていない。
芸とは別に柄が貧弱で、音調ははなはだ急、つまり、せき
こんだ口調だったらしい。
似顔絵が残っているが、顔は四角張って、目はつり上がり、
歯をむいている。荒事にうってつけだが役者面とはいえず、
深い知性や情感が感じられるものではなかった。その役者
生活30年、44歳の時(元禄17年(1704)2月)市村座の
『わたまし十二段』に佐藤忠信の役で出演中、役者の生島
半六に舞台で刺殺された。半六は「恨みがございました」
というだけで、あとは黙秘を貫いた。何らかの事情があっ
てことだろうか、真相は隠蔽された。
紙芝居ほどのジャンルで生きている 武本 碧
二代目・団 十 郎
名実ともに「団十郎」を江戸随一に、また名跡への礎を築
いたのは、二代目である。初代の実子だが、はるかに美男
で声もよく、流れるような台詞の持ち主だった。この天与
の柄を生かして、二代目は上方育ちの「和事」芸を身につ
け、近松門左衛門の最初の世話浄瑠璃『曽根崎心中』を演
じもした。父譲りの荒事にその和事の艶めかしさを取り入
れて、『助六』を創演したのも二代目、父が紅と墨で無造
作に塗りたくって出た顔の化粧を、白粉地に紅でぼかし隈
をとるという、今日見るような「隈取」に進化させたのも
二代目であった。
裏側の貌は見せない薔薇の艷 前岡由美子
「助六」を初演した正徳3年(1713)の立春の日に二
代目は、親交のあった俳人・其角を訪ねているが、その時、
其角は「今宵は唐では鍾馗さまの画像を門に貼るというが、
わが日本ではあなたの舞台姿を描いて門に貼れば、悪魔も
降伏するだろう」と言って大太刀をさした鍾馗の墨絵を描
き、賛として次の一句を書き添えて渡している。
”今ここに団十郎や鬼は外”
言うまでもなく悪魔外道を追い散らす超能力の顕現として
の荒事への賛美だが、もうここまで団十郎の力が浸透普及
していたことが察せられる。
狙いますあなたのハート鷲摑み 藤内弥年
【付録】 2代目ルーツ
天目山の戦いで武田氏が滅亡した天正10年、堀越十郎は、
下総の幡谷村に落ち延び帰農、定住する。この堀越十郎が、
初代・団十郎の曾祖父とされる。そして父・重蔵の代に至
って江戸に出る。農業を嫌ってのことだが、その後、彼は、
堀越ではなく出身地である幡谷重蔵と称した。重蔵は学問
があるうえ、武士の血を引いたせいだろう、剛毅な気性で
町民の畏敬の的となり、地子総代人に立てられた。が一方
で唐犬十右衛門はじめ、当時名うての遊侠の徒と親交を結
び「菰の重蔵」とか「面疵重蔵」と異名をとったという。
また侠客の世界で知り合った妻女もただものではなかった
ようだ。ところで、先に書いたが海老蔵という名は、もと
もと初代・団十郎の幼名で、以来今日まで、市川宗家にた
びたび現れる名称だが、もとは侠客の親分・十右衛門が、
男子出生を祝ってつけてくれた縁起のよい名前であった。
にんべんを繕いコスモス揺れている 嶋澤喜八郎
≪光明皇后≫
千人目鼻をつまんで湯を浴びせ
光明皇后は、奈良時代の聖武天皇の皇后。仏教への信仰が
厚く、施行風呂を建てて千人の垢を落そうと決意されたが、
丁度千人目に体中膿だらけで、悪臭を放つ男がやってきた。
しかし皇后が、我慢してその身体を洗い、膿を吸われたと
ころ、男は光明を放って、自分は阿閦如来だ、と名乗った
という伝説がある。
千人の垢万代に名が光り
というような貴い施行風呂の話も、細かい観察で茶化して
しまうのが川柳子である。
垢擦りを貸せとりきんで勅(みこと)のり
白綾の垢擦りもあり施行風呂
皇后様は意気込んで、垢すりを貸せと命じられただろうが、
その垢擦りも皇后さまがお使いなのだから、きっと白綾製
だろうと川柳子は推測する。
頑な私にまぶす塩麹 松本柾子
≪阿倍仲麻呂≫
日本の寝言だという天の原
阿倍仲麻呂は、717年に吉備真備などと一緒に遣唐使
として、唐に渡ったが、真備たちが735年に日本に帰
るときも同行せず唐に残り、玄宗皇帝に仕えて学問を続
けた。
他人劫の入ったのは安倍仲麻呂
他人劫(たにんごう)は他人の入知恵のこと。ここでは
仲麻呂が他国で知識を得たことを一捻りして表現した。
753年になって、日本に帰ろうとしたとき、唐の友人
たちが餞別の宴をしてくれた。そのときに仲麻呂は、
天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも
という一首を詠んだ。
四角な文字の中で詠む三笠山
仲麻呂は月を見上げては、望郷の念に浸っていたが、
在唐54年に及び,かの地で生涯を終える。
仲麻呂は頭を垂れて山の月
遣唐使が帰国するたびに、仲麻呂の消息が天皇に伝えら
れ、(奏問とは天皇に伝えること)
月の歌ばかり帰朝と奏問し
小道具になってくれないほつれ髪 佐藤美はる
[3回]
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