川柳的逍遥 人の世の一家言
美しく書き足してあるエピローグ 新川弘子
三代目・団十郎 「詠史川柳」 団十郎ー3.4. 5 代
三代目・団十郎は、初代・団十郎の弟子筋(三升屋助十郎)の子で、五歳の時、
二代目の養子となった。従って血脈に関係はない。享保20年 (1735) 二代目は、 50歳になったのを節目に、養子の市川升五郎に三代目を襲名させ、自らは隠居 して二代目・市川海老蔵を名乗った。このとき三代目は、まだ14歳で将来を 嘱望されていたが、寛保元年(1741年)に大坂で『毛抜』を初演していた際、 突然病いに倒れ、そのまま翌寛保2年、22歳で早世してしまう。 進化論いつかは人になれそうで 竹内ゆみこ
後継者を失った二代目・海老蔵は、老躯に鞭打って舞台に立ち続けることさら
に12年に及んだ。そして65歳になった海老蔵は体力の限界を感じたのか、ここ に至って高弟の二代目・松本幸四郎を改めて自らの養子とし、これに市川宗家 を継がせることにした。これが四代目・団十郎である。彼は3歳の時、初代松 本幸四郎の養子になり、9歳の時松本七蔵と名のって初舞台。24歳までは女形 として舞台に立っていたが、享保の末から立役に転じ、享保20年(1735)11月、 二代目が海老蔵、升五郎が三代目・団十郎を襲名した興行で、七蔵も25歳 で二代目・松本幸四郎を襲名している。 靴紐を結びなおして生きて行く 吉崎柳歩
実は、四代目こと七蔵は、江戸堺町の大茶屋和泉屋勘十郎の次男とされるが、
茶屋の娘に生ませた二代目の落胤であり、四代目の継承を誰にするか、跡取 り息子が妾腹では世間体がどうかと揉め、いったん門弟の二代目市川升蔵に 引き取らせたうえで、そこからいとこの芝居茶屋和泉屋勘十郎の養子に出し、 数年後に改めて自分の養子として迎えるという、手の込んだ気配りをした経 緯がある。こうして団十郎の名跡は12年間の空白が続いた。 こうして七蔵が四代目を襲名したときは、すでに45歳になっていた。 跨いでいくしかない凡庸なオトコ 山口ろっぱ
四代目・団十郎 四代目は、神経質で喧嘩早い感情家であったらしい。体つきは長身で手足が
長く、顔は面長でふくらみに欠けた。二重の瞼で三角の険しい目つきは、実 悪(じつあく)の役者にふさわしく、また悲壮深刻な役に向いており、やく ざ者などをものともせず一喝でやり込めたかと思うと、桃太郎という孫が八 つで早世したときは、傍目もかまわず泣き悲しむといった、そうした陰影の ある芸と人とは、あるいは生い立ちによるものかも知れない。このような精 神性に特徴を持っていた四代目は、初代、二代目が作り上げた「市川団十郎」 のイメージとは明らかに異質で明快で楽天的な荒事の性格には不向きだった。 しかし、自分の芸風に適した「景清」のような役に活路を見出して精進し、 市川団十郎の名を恥かしめない名優になっただけでなく、息子の五代目へと 「市川水の流れ」の継承を果たした。 器ではないがいずれはしてみせる 磯部義雄
次の五代目・団十郎は異色の人である。
45歳で父・二代目・幸四郎が四代目・団十郎を襲名すると、入れ替わりに 三代目・松本幸四郎を襲名。また、父が松本幸四郎の名に戻すと、五代目・ 団十郎を襲名する。明和7(1770)年、29歳の時であった。五代目は役者 というより、むしろ文人肌で大田南畝や狂歌堂真顔、山東京伝といった文人 墨客との交遊を好み、いろんな雅号で『狂歌友なし猿』『市川白猿集』など かなりの述作も残している。烏亭焉馬(からすていえんば)などは団十郎を 崇拝し、団十郎の音を真似て立川談洲楼(たてかわ だんしゅうろう)」と 名乗ったほどである。 時どきの定形外が面白い 小谷小雪
とにかく五代目は洒脱な人柄で、江戸市村座で市川蝦蔵を襲名したときには、
「親父は海老蔵を襲名したが、おれはえびはえびでも雑魚えびの蝦」と語り。 同時に俳名を白猿としたが、これにも口上で「祖父の栢筵の音だけを頂戴し、 名人には毛が三本足らぬおれは白猿」と述べたという。 芸のほうでも、荒事から女役まで申し分なくつとめ、古今の名優の一人にあ げられてきたがこうした役柄は、実は父・四代目が開拓したものを奇麗に洗 い上げて示したものにすぎず、『忠臣蔵』の由良之助を市川家としてはじめ て演じたことが、画期的といえばいえるくらい。 落し蓋の下で弾んでいる男 谷口 義
五代目・団十郎 五代目は芸の信条を記したものを残している。
例えば、「下手と組まず、上手と組む。下手と付き合わず、下手と外歩かず。 巻き添えにならぬように引きずりこまれぬように」というものである。この 箇条だけをみても、過不足なく、守勢一方の消極的態度がわかる。 とにかく彼は良識に富む賢明なる文化人であった。松浦静山の『甲子夜話』 には、小さな別荘を本所の地に持っていたが、その辺で御鷹狩などある時は 「河原者の身として御通路傍にいることは恐れ多い」とわざわざ本宅に帰っ たとある。すなわち何事にも慎重な五代目は、幕府に咎められぬよう用心に 用心を重ねた生活をしている証なのである。 透明になるまで自転しています 合田瑠美子
五代目は寛保元年(1741)に生まれ、文化3年に死んでいる。すなわち
その活躍期は田沼時代から天明の大飢饉、そしてその結果の「寛政の改革」 という多難な時代である。もし、五代目が後の7代目のように意の赴くまま 奔放に生きていたら、おそらく追放になったろうし、歌舞伎は手痛い制裁を 受けて衰亡していたかもしれない。彼は、風の強い土地の樹木が枝葉を縮め て自己防御するように、謹慎堅固に身を持して、改革の風を頭上にやり過ご したのだった。松尾芭蕉の作風を慕い俳諧もよくし、残した辞世の句がある。 「木枯らしに雨もつ雪の行衛かな」
地下茎を太らせながら風を待つ 前岡由美子
【詠史川柳】
松浦佐用姫 ≪松浦佐用姫≫ さよひめ
松浦佐用姫は万葉集などに出てくる伝説上の人物。
山の上で領巾(ひれ)を振りながら見送り、悲しみのあまりそのまま石に
なったという話が伝わる。次の句は、この話を詠んだもので、身体が石に なったからには、涙は砂利になったろうというわけである。 早う戻ってくだんせと石になり
彦様のうと言ううちに足は石
まさに貞女の鑑であるが、すんなりと褒めないところが、江戸川柳。
貞女でも石になるとは悪堅い
なんぼ留守でも堅過ぎるは佐用姫
「悪堅い」とは頑固なまでに堅いという意味。
決心はダイヤモンドの堅さほど 髙田美代子
≪衣通姫≫ そとおりひめ
神話上、木華咲邪姫(このはなさくやひめ)と並び称される極上美人が
19代・允恭天皇(いんぎょうてんのう)の后の妹の衣通姫。 肌が抜けるように白く、しかも燦燦たる光を放ち、衣装を通して肉体が 見えたという伝承から。 緋の袴召さんとみんな透き通り
十二枚召しても肌が透き通り
≪木華咲邪姫≫
木華咲邪姫はルックスもバディも抜群のミス神代である。
三国一の富士山をあざむくほどの気高く清い美しさから、富士山と
同一視され、富士山頂の浅間神社の御神体として祀られ。 咲邪姫俗名「お富士さま」と云い
咲邪姫日本一の山の神
美しい会釈でずっと席を立つ 山本昌乃 PR |
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