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川柳的逍遥 人の世の一家言
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二番出口はもともとなかったことにする 河村啓子


「六代目団十郎」の画像検索結果 
      六代目・団十郎

「詠史川柳」 団十郎6・7代

六代目・市川団十郎は、五代目の庶子で母の名は知られて
いないが、いったん和泉屋勘十郎の養子となり、間もなく
五代目の養子に入った。寛政3年(1791)、ちょうど
七代目が生れた年に、14歳で団十郎を襲名し、荒事や
『忠臣蔵』の役々を手掛けたが、急病に倒れ不憫にも死期
を悟って
こはいかに折れし三升の菖蒲太刀という辞世
を残し、寛政11年5月13日
22歳の若さで逝った

たらればは言わないことに決めました 足達悠紀子

 é–¢é€£ç”»åƒ七代目団十郎

「詠史川柳―③」でも書いたように、宿命のままに生きた
のが、七代目である。彼は五代目の実孫だから、団十郎に
なる資格・素質に不足はない。ことに四代目の血が濃く流
れていたらしく、陰影のある容貌、豪放な性格、つねに変
化発展を求めるあくなき芸魂から、景清を得意としたとこ
ろまで似ている。晩年には海老蔵となり、深川木場に住ん
だ点も同じで、七代目が用いた「夜雨庵」もかつては四代
目の俳号だった。

うつろなる一日落葉のしとど 徳山泰子

 

さて十歳で襲名した七代目は『先代萩』の男之助、佐藤虎
之助(加藤清正)など、荒事の役を盛んに演じて成長する。
この間に「若立役」とすすみ、五代目が死んだ翌文化4年
17歳でいよいよ元服、評判記にも「立役」と記載される
ようになる。そして21歳のとき、曾祖父四代目の37回
忌、祖父五代目の7回忌、叔父6台目の13回忌と奇しく
も三つまで重なったので、追善として家伝の『助六』が選
ばれた。彼はこの好機を逃さず一挙に団十郎としての地位
を確立しようという野心にもえたのだろう。若くして江戸
第一の家門の重荷を負わされた団十郎が、先祖追善を機に
思い切り金や人脈をつかって、乾坤一滴の大デモンストレ
ーションを決行しようとした気持ちは、悲壮感さえ漂って
いたという。

わたくしを決める大きな水たまり 前中知栄

 

こうして、金と人の総力をかけたこの初役「助六」により、
七代目は市川宗家の地歩を固めることに成功した。そして
翌9年6月には『鳴神』『不動』を初役でつとめあげ、
先祖伝来の荒事の追い打ちをかける。このとき成田不動の
講中が連日見物におしかけ、賽銭が79貫にものぼったの
を、七代目は気前よく座方一同にわけてやっている。
こうした彼の個人的な性格にしろ、政略目的にしろ、金に
糸目をつけない派手なふるまいは、時に寛政や天保の改革
のなかで目をつけられることになる。事実、七代目誕生の
3年後の寛政6年以来、興行制度、狂言内容、災害対策そ
の他全般に亘って厳重な警告が続いている。七代目がその
嵐に巻き込まれたことは、詠史ー③に書いた通りである。

一線をなんなく超える回遊魚 松浦英夫

 

ともかくも七代目は、団十郎家伝来の荒事をはじめとして
時代物,世話物を問わず,
四代目・鶴屋南北『東海道四谷
怪談』民谷伊右衛門のような実事,実悪,敵役,また老役,
和事から女形に至るまで、広く巧みに演じた。所作事にも
長じ,文化文政期を中心とした後期江戸歌舞伎界の中心的
存在であった。

資源ゴミ置場からあんたのかけら  ろっぱ

 ã€Œè–徳太子」の画像検索結果

【詠史川柳】

≪聖徳太子≫

538年に百済から仏教が伝来すると、聖徳太子と新興
勢力の曽我氏たちは、仏教の教えを国家経営のバックボ
ーンにしようとした。これに旧勢力の物部、中臣氏たち
神道派が激しく抵抗。政界のボスで神道派の物部守屋は、

仏の座除けて守屋は六種粥

仏の座は春の七種の一つで、仏が嫌いだから六種にし食
したというのである。(※ 七種粥の習慣は、平安中期
以降のもの)信仰の問題だけに互いに譲らず、ついに武
力合戦に突入し、仏教派が勝ち物部氏は滅亡する。神道
派を退けた聖徳太子は593年、推古天皇の摂政に就任
し、冠位十二階の制定、十七条憲法の発布、法隆寺など
の寺院の建立を積極的に行い、律令国家の基礎を築いた。

ところで聖徳太子は死後の諡(おくりな)謂わば戒名み
たいなもので、生前の名前は「厩戸豊聡耳皇子(うまや
どのとよとみみのおうじ)」という。

御厩戸に取り揚げ婆駆けつける

母の穴穂部皇女(あなほべのこうじょ)が厩の前で急に
産気づき、その場で生まれたので「厩戸」の名がついた
と、また「豊聡耳」(とよみみ)は、十人が同時に話す
のを全部聞き分けたので、付いたと云われている。

まず耳が早いが守屋気にくわず

情報が先取り横取りされてはどうにもならず、守屋は負
けたのだろうと川柳子は解釈をし、その後太子の尽力で
仏教は目覚ましい興隆をみせ、

厩戸の壁に芽を吹く仏の座

太子の後ろ盾を得た曽我氏は馬子、蝦夷、入鹿の三代に
わたり絶大な権力を手にしたのである。

裏側は乳白色という夕陽 岡谷 樹

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