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川柳的逍遥 人の世の一家言
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地図なんかいらない僕の歩き方  立蔵信子

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 寺田屋登勢

商都大坂と淀川の水運で、直結していた”伏見”は、当時の京の表玄関。

諸国から集まってきた志士たちの、活動拠点でもある。

船着場近辺には、旅籠が軒をつらねていたが、

なかでも「寺田屋」は、彼らの定宿としてよく利用された。

それは、女将である”お登勢”の人柄によるところが大きい。

龍馬も薩摩藩からの紹介で、寺田屋に滞在するようになった。

≪豆辞典ー寺田屋は、山城の国久世郡・寺田出身の出身者が、

 始めた船宿なので、寺田屋という名がついた≫

盛り場で憩う疲れた男たち  長江時子

お登勢は、近江大津の旅籠屋の娘で、龍馬より6歳年上だった。

18歳で伊助と結婚してから、

病弱な夫に代わり、女将として船宿を切り盛りしていた。

そして、気難しい姑によく仕え、姑が病に倒れたあとも、懸命に看病した。

そんなことで、姑は、最後には涙を流し、

感謝しながら、息を引きとったと伝えられている。

この世からあの世へゆれるものばかり  森中惠美子

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男勝りの度胸と気風の良さ、

お登勢は、姉の乙女に似た感じがある。

「彼女は、学問の素養もある一角の人物」 

と、龍馬は、かなり尊敬もしていたようである。

そして、お登勢のほうも、龍馬には、かなりの好感をもっていた。

彼女は、もともと面倒見がよく、

それもあって志士たちに、慕われていたのだが、

なかでも、龍馬について、とくに気をかけていたいたという。

みじん切りしたい男がひとりいる  井丸昌紀

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龍馬という人間、

声高に理想論を語るような、角ばった気負いがなく、

茫洋とした自然体。

そこが、他の志士たちと異質で目立つ。

大人物の片鱗が見え隠れするのだが、

しかし、隙だらけで、どこか危なっかしくて・・・つい世話を焼いてしまう。

いつの間にか、お登勢は京における、『母のような存在』 になっていた。

背中にも目がある母を騙されぬ  玉利三重子

龍馬は寺田屋での暮らしについて、

「お国にて安田順蔵さんのうちにおるような、こころもちにて候」 

と、姉の乙女への手紙に書いている。

安田順蔵は、坂本家の親戚で、龍馬は幼い頃に、

よく乙女に連れられ遊びにいった。

居心地の良い場所だったようだ。

母さんの愛は時々煮えすぎる  山岡冨美子 

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志士にとって京は危険地帯であり、

寺田屋とて、完全に気の許せる場所ではない。

みなが緊張していて、よそよそしいところはあった。

だが、龍馬だけは、まるで親戚の家に遊びにきたように、

こころの底から、くつろいでいる。

無防備で自分の懐に入ってくる相手には、こちらもつい心をゆるしてしまう。

これが、龍馬の甘え上手の秘訣だろうか?

現実を受け止め風に水になる   安土柾子

彼が意識して、それをやったかどうかは解らない。

しかしお登勢は、この子供のような大男を家族同然に・・・というよりも、

本当の家族として世話をした。

その何よりの証拠は、妻のおりょうを、お登勢に預けたことだろう。

お登勢は、おりょうを養女にしたばかりか、

おりょうの母と、弟妹も預かっている。

やわらかくとどくありがとうの角度  森中恵美子

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また、龍馬の危機に際しては、我が身を挺して守ろうとした。

龍馬が幕吏に襲撃された時のこと。

その直前に、お登勢は数回にわたり奉行所に呼ばれ、

厳しく尋問されたが、

質問が龍馬に及ぶと、頑として口を閉ざしつづけた。

これも、”子を守ろうという母の心境” だろうか?

≪お登勢の孫・相部さんによれば、龍馬は土佐風に、「おかあ」と呼んでいたという≫

胸奥の余韻 括弧でとじておく  安土理恵

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寺田屋と、お登勢の名を有名にしたのが、

文久2年(1862)に起きた「寺田屋騒動」である。

この頃、公武合体路線に反発する薩摩藩の志士たちが、

京都所司代襲撃を企んで、寺田屋に集結していた。

薩摩藩主・島津久光は、この企てを察知して、

藩内でも、使い手で知られる9名の刺客を送り込む。

すなわち、薩摩藩士同士の激しい斬り合いが、始まったのだ。

2階の客間からは、刀が激しくぶつかりあう金属音が響き、

足音とともに、怒号や悲鳴も聞えてくる。

お登勢は、女中たちをかまどの中に隠れさせて、

自分は帳場に灯りを点して、平然と2階の乱闘を見守ったという。

忍耐を磨く地獄の一丁目  西美和子

やがて、斬り合いは終わり、

抜き身の血刀を手に持った薩摩藩士たちが、階下に降りてきても、

お登勢は、帳場から一歩も動かず、平然と応対してくる。

この態度には、さすがの剣客たちも驚いた。

薩摩の男は剛胆であることを、ことのほか尊ぶ気風がある。

以後、お登勢は薩摩藩士から、最も尊敬される京女となる。

それ以前からも薩摩藩士たちに、

定宿として利用されてきた寺田屋であるが、

この事件を契機に、いっそう信頼は深まるようになった。

生き抜いた証手のしわ顔のしわ  武内美佐子

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『龍馬伝』・第25回‐「寺田屋の母」 あらすじ

京から神戸村へ帰る途中、

伏見の船宿・「寺田屋」のそばを通りかかった龍馬(福山雅治)は、

おかみ・お登勢(草刈民代)を見て、驚愕する。

幼い頃に亡くなった生母・幸(草刈2役)に、うり二つだったからだ。

思わず寺田屋に泊まることにした龍馬は、

お登勢に、「自分の亡き母親とそっくり」 だと打ち明ける。

脱藩浪士となり、「もう土佐には戻れない」 という龍馬を優しく励ますお登勢。

彼女の言葉に力を得た龍馬は、

新たな気持ちで海軍操練所へ戻っていく。

そうとしか思えぬ幽霊からの手紙  有田晴子

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  燃える京都(禁門の変)

そのころ、京の町を震撼させる大事件が起きる。

池田屋で多くの同志を殺された長州藩が、帝を奪還するため、

京へ攻め入ったのだ。

長州を迎え撃ったのは薩摩、会津ら幕府軍。

激しい攻防の末、長州藩は総崩れとなり、

久坂玄瑞(やべきょうすけ)は自刃。

後に、「蛤御門の変」と呼ばれるこの戦いにより、

京の町は焼け野原と化した。

大風呂敷の中は溶けかけた氷  柿花和夫

「海軍操練所」にも、戦の様子が知らされ、

龍馬は、戦場を見るため京へ向かった。

焼け野原となった京で龍馬は、桂小五郎(谷原章介)と再会する。

彼は、長州の仲間を、死に追いやった薩摩を激しく憎んでいた。

 草笛を吹くとトラウマ疼き出す  清水久美子

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その後、龍馬は、お龍(真木よう子)のもとへ向かう。

幸い彼女の家は焼け残ったものの、働き口だった扇岩は焼けていた。

「どうしてうちらがこんな目に遭わされんの」

はき捨てるように言うお龍に、龍馬はかける言葉もない。

「おまんの言うとおりじゃ・・ こんなことはおかしい」

どうにか、お龍だけでも助けてやりたい。

龍馬は、お登勢に、お龍のことを相談する。

うねる物抱いて竜馬は懐手  菅野泰行

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一方、幕府内部では、長州の決起により、

「長州を徹底的に叩くべき」 だという一橋慶喜(田中哲司)と、

「内戦は避けるべき」 だという勝(武田鉄矢)とが対立する。

そんな中、勝の指揮する海軍操練所の訓練生の中に、

脱藩浪士が多数いること、

池田屋事件に、訓練生の1人であった亀弥太が関与していたことを理由に、

勝は、軍艦奉行を免職となる。

江戸での蟄居を命じられた上、

さらには、操練所まで、閉鎖されることになったのだ。

エンジンの無い自動車に乗っている  井上一筒    

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振り出しに戻った、「日本のために海軍を作る」 という龍馬の夢。

龍馬たち訓練生は、予想だにしない状態に、

驚きを隠せない・・・。

日本の海軍を目指す龍馬たちの、行く末に暗雲がたちこめる。

歩いても歩いてもまだ藪の中  毛利元子

拍手[7回]

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Rg
ロンパリ 考える椅子
ひょっこりとネットで再会した我が句

素敵なブログですね。思いがけず 我が句に再会して嬉しかったです。奈良県川柳大会での入選句でしたでったと思います。
y2011/06/25 15:45z NAME[毛利元子] WEBLINK[] EDIT[]


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