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川柳的逍遥 人の世の一家言
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納豆の醤油袋とカラシの袋  河村啓子  


   吉田稔麿

「吉田稔麿」

松陰の生家の近くで、足軽の子として吉田稔麿は生まれた。

13歳の時に江戸藩邸で小者の職に就き、萩に帰ってくると、

近所ということもあり「松下村塾」へ通い出した。

稔麿は高杉晋作久坂玄瑞と共に「松下村塾の三秀」と称せられる。

稔麿は無駄口を利かず、謹直重厚な人物であったといわれる。

松陰は稔麿を、

「才気鋭敏にして陰頑なり。

  稔麿の陰頑というのは、心に秘めた強い意志を持っている。

  それは人により安易に動かされるものではない」

と高く評価した。

松陰の処刑後、玄瑞らと攘夷活動に奔走、

玄瑞が下関で結成した「光明寺党」に加わった。

さらに高杉が「騎兵隊」を組織すると、

これに刺激を受けて各地で多くの緒l隊が作られたが、

稔麿は被差別部落の人々からなる「屠勇隊」を編成した。

元治元年(1864)、京都の旅籠・池田屋に、

長州藩を中心とする尊攘派の志士たちが終結。

その中に、たまたま江戸から出てきていた稔麿の姿もあった。

そこを新撰組が襲い、稔麿は体中に傷を負って重囲を脱したが死去。

享年24。

『結べども 又結べども 黒髪の 乱れそめにし世をいかにせん』

クラゲが出ると境界線を引きにくる  山本昌乃


  入江九一

「入江九一」

天保8年(1837年)、下級武士の家に生まれる。通称は万吉。

のち、明治政府の政治家となる野村靖は実弟。

妹・すみ子伊藤博文の最初の妻。

江戸藩邸の下働きをして家計を助けながら学問に励み、

短期間ではあったが「松下村塾」にも学び、松陰に深く傾倒した。

伏見要駕策では松陰の指示を受け、「尊攘運動」に奔走するも、

安政6年(1859)、捕らえられ、萩の岩倉獄に投ぜられた。

文久3年(1863年)1月には吉田稔麿らと士分に取り立てられたが、

無給の士分という扱いであり、家計の苦しさに変化はなかった。

また京都で尊皇攘夷のための活動を行なう一方で、

高杉の奇兵隊創設にも協力し、「奇兵隊」の参謀となった。

同年「8月18日の政変」により、萩藩が京都での地位を失うと、

失地回復のため奔走。

元治元年(1864)7月、「禁門の変」では参謀として戦ったが、

重傷を負い自決した。享年27歳。

後世、高杉・久坂・吉田稔麿とともに

「松門四天王」のひとりに数えられる。

『長門人の心 如何にと人とはば 月日を指して 教へたまへよ』

胸のうちわかったように猫がくる 上月真佐子


  野村 靖

「野村 靖」

野村靖は下級武士の家に生まれた。通称 和作。

「禁門の変」で戦死した入江九一の弟。

安政4年(1857)、16歳で「松下村塾」に入り、松陰に師事。

同5年、松陰が公家・大原重徳の西下を計画したさい、

密使となって京都に入るが失敗。

さらに同6年2月、兄に代わり松陰の伏見要駕策のため奔走したが、

これも失敗して3月、萩城下岩倉獄に投ぜられる。

万延元年(1860)3月、赦されて過激な攘夷運動に加わり、

公武合体を唱える長井雅楽の暗殺計画に名を連ねた。

文久3年(1863)、松陰に師事したことが認められ、

士籍に列せられる。

慶応元年(1865)の藩内戦や2年の「長州戦争」などでも戦う。

明治4年(1871)には岩倉使節団に加わり、欧米各国を視察。

同6年に帰国したのち、外務権大丞や神奈川県令を務める。

伊藤博文内閣では内務大臣、松方正義内閣では逓信大臣を務めた。

晩年は富美宮・泰宮両内親王の養育掛長を務め、鎌倉で病没。

遺言により、世田谷の松陰墓所の傍らに葬られ、

師よりもひと回り小さな墓碑が建てられた。

おしまいに羽音をたてる洗濯機  芳賀博子


  前原一誠

「前原一誠」

長州藩士の長男として生まれた前原一誠は、

安政4年(1857)24歳の時、

久坂玄瑞高杉晋作らと共に「松下村塾」に学んだ。

松陰は一誠を

「その才は久坂に及ばない、その識は高杉に及ばない。

  けれども、人物完全なることは両名もまた佐世(一誠)に及ばない」

「勇あり、智あり、誠実人に過ぐる」

と評している。

松陰の死後は長崎に遊学して洋学の修得に励む。

文久2年(1862)に脱藩し、

久坂らと共に直目付・長井雅楽の暗殺を計画するも失敗に終わる。

その後も倒幕活動に尽力。

文久3年の「8月18日の政変」後、都落ちした七卿の用掛となり、

元治元年(1864)下関で英・仏・蘭・米の4ヵ国連合艦隊に応戦した。  

「長州戦争」(四境戦争)では小倉藩の降伏に尽力し、

戊辰戦争では長岡城攻略や会津戦線で武功を挙げた。

新政府において参議を務め、

大村益次郎の後任で兵部大輔などを兼ねた。

しかし大村の方針であった徴兵制に反対し木戸孝充と対立。

やがて徴兵制を支持する山県有朋に政界を追われる。

帰郷した前原は明治9年、

不平士族を統率して「萩の乱」を起こしたが、鎮圧されて処刑。

松陰の叔父・玉木文之進は、

塾生たちが萩の乱事件に関与した責任を感じて切腹した。
       たいへん
『これまでは いかい御苦労からだどの

               よびだしの声まつむしや 秋の風』

ギトギトの人とは握手したくない  森田律子

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くどくどと昔のことはええんちゃう  田口和代


  毛利敬親

三代続けて藩主が急死し、若くして藩主となった。

政治は村田清風と藩政改革に取り組み、抵抗が強まると別の人材を登用。

ちまちま・くどくどしたことは聞かず、家臣の判断を信頼、尊重し、

大方のことは、家臣の思いを受け止める寛大な藩主であったようだ。

「そうせい候」と呼ばれたのもその辺に理由がある。

『人こそこの長州の宝』 は毛利敬親の言葉。

遠心分離機に胡麻のプロファイル  中村幸彦

幕末の長州といえば、吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞、

桂小五郎といった「志士」たちの名は次々と挙がるが、

藩主の名が挙げられることはほとんどない。
                     ひでなり
長州の藩主は、毛利輝元の子・秀就を初代とし、

代々の毛利家当主によって受け継がれていた。
                              たかちか
そして幕末の藩主は、13代目にあたる毛利敬親であった。

この殿様はどのような人物だったのだろう。

牛の涎からおおよそ見えること  井上一筒
                なりもと
敬親は11代藩主・毛利斉元の子として生まれるが、

17歳の頃に父が急死し、
                                 なりひろ
その跡を継いで12代藩主となった婿養子の毛利斉広も、

幕府への手続きが済んでから、わずか20日足らずで亡くなった。
                             なりひろ
実はこの年、10代目の藩主を務めた毛利斉煕も急死したばかり。

奇妙なことに長州藩は同年に、3人の藩主を亡くしているのだ。

花柄の柩が予約してあった  米山明日歌


    村田清風

そのため急遽、敬親は第13代藩主に就任することになった。

若干19歳の時である。

当時、長州が財政難に苦しんでいると聞いた敬親は、

木綿の質素な服装で江戸から長州入りし、

国民に好感をもたれたという。

また、長州に赴任した後、「百姓というのはどんなものか」と、

庶民の目線にたって、

自ら田植えや稲刈りを行なったこともあったようである。

そして若い敬親にとって幸いだったのは、

9代目から毛利に仕える村田清風のような有能な家臣がいたこと。

清風は、「質素倹約と貨幣流通の改正」を敬親に提案し、

これを成功させて藩の財政を立て直した。

村田の死後、ともに藩政の改革を担った坪井九右衛門を登用し、

政務を執らせた。

浮いてさえいれば何とかなるクラゲ  原 洋志


 御前講義・松陰絵伝

敬親が藩主となって3年後の天保11年、ひとりの少年が萩城を訪れた。

その少年の名は吉田寅次郎

11歳にして「山鹿流兵学」を指導する、

教授見習いとなっていたため、特別に城に招かれたのである。

寅次郎の堂々とした講義を聞いて、

敬親はいたく感心し、秀才ぶりを称賛。

自分よりも11歳も若い寅次郎の門下となることを決め、

毎年城にきて講義するよう頼んだ。

「儒者の講義はありきたりの言葉ばかりが多く、

   眠気を催すが松陰の話は自然に膝を乗り出すようになる」

と褒めたとする逸話が伝わる。

止まったらすぐ追いついてくる眠気  一階八斗醁    



後に松陰が投獄され、藩政を批判する文を送ってきたときも、

「寅次郎の心を慰めてやらねばならぬ。

   思うことをすべて書かせ、余に見せるように。

   採択するのは余じゃ。

    誰にも迷惑はかけはせぬ」

と言うほど、彼を買っていたのである。

その後、長州藩は幕末動乱の中へ飛び込んで行くが、

敬親は若い者を登用して積極的に用いた。

これは罠かしら信号青ばかり  丸山芳夫

彼の政治姿勢としては、家臣の意見に対して、

異議を唱えなかったことが有名である。

「うん、そうせい」と返答していたため、

「そうせい候」と呼ばれたほどであった。

このように寛大な藩主だからこそ、

長州は身分の隔てなく、有能な志士に活躍の場が与えられ、

明治維新への原動力と成り得たとも考えられる。

短命な藩主も多かった長州藩にあって、

敬親は歴代二位の32年にわたって藩主を務めた。
                 もとのり
明治2年になって子の毛利元徳に家督を譲り隠居。

明治維新を見届けた後、2年後に53歳で世を去る。

大根の太さと比べられている  日下部徳子

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フランスパンと出会ってからの春キャベツ 山本早苗



「村塾の日々」

仮釈放であったが、萩へ戻った松陰は、生家の一室で父や近親者に

『孟子』『武教全書』を講じた。

講義の様子は近所に広まり、

それを聞こうとする若者たちが集まってきた。

次第に三畳一間の塾が手狭になったきたため、

杉家敷地の一角の家屋を改装し、新たに松下村塾を開いた。

塾生の顔ぶれは、

久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一らが筆頭で、

特に玄瑞と晋作は「双璧」と呼ばれた。

町内の十軒ほどが我が世間  新家完司                

中級武士の晋作は萩の藩校・明倫館に通いながらも、

松陰を慕って松下村塾を訪ねてきていた。

また、伊藤博文は百姓出身だったため、

藩校に通うことができなかった

それで松下村塾に来たが、武士の身分でないため遠慮し、

外で立ち聞きしていた。

貧乏ゆえ寺子屋に通えなかった幼い頃の松陰と同じような境遇だ。

様々な境遇の塾生が集まり、最大80名にまでふくれた。

一巡し黒光りしてくる噂  森井克子


   松陰の文机
               そうもうくっき
松陰が後年に残した「草奔崛起」という言葉がある。

草奔は草木の間に潜む隠者のことで、転じて一般大衆を現すもの。

崛起は一斉に立ち上がることを現すもので、

「在野の人よ立ち上がれ」 という意味がある。

松陰は、藩校に通えない身分のものにも分け隔てなく教えることで、

それを実践したのであった。

正か負かいやゼロという妥協点  有田晴子

塾における礼儀作法はごく簡略なものだったようである。

「いま世間でいうところの礼法が末に流れ、

   上っ面で浅薄なものとなっているから、

   誠心誠意、真心のこもったものにしたい」

というのが松陰の考えであった。

武士だけでなく農民も町民も一緒に汗を流し、

身分を超えた新しい関係を育むことを松陰は望んだ。

ぜんざいも飴もケーキも出す飲み屋  近藤北舟


  幕末の寺子屋

時間割といったものはなく、昼夜を問わず授業を行い、

月謝も取っていなかったため、

晋作のように余裕のある者が金を持ってくるほどだった。

実際の講義は、松陰が門弟たちに教え諭すばかりではなかった。

弟子に問うことで考えさせ、積極的に発言させ、

討論を是とする血の通った指導法だったようである。

親指を舐めて右よし左よし  くんじろう

また、学問だけでなく武芸も奨励した。

異国と戦争にでもなれば、学問だけでは太刀打ちできないためだ。

「撃剣と水泳の二つは、武技のうち最も大切なものだ。

   わが国の周辺をしきりと外国がうかがっている今、

   一日たりともおろそかにできない。

   怠ることは慎まねばならない」

とし遠出しての軍事訓練まで行なった。

常識にとらわれない教えに若者たちは熱狂し、

松陰に心酔していったのである。

文芸の力よスプーンが曲がる  芳賀博子    


       高杉晋作

高杉晋作は藩命により江戸に出て、剣術のほか、

昌平坂学問所や大橋庵の大橋塾で学んだ。

(これは若き日の晋作とされる写真だが、別人説もある)

「人・高杉晋作」

高杉晋作久坂玄瑞、吉田稔麿とともに、松下村塾三秀のひとり。

150石どりの上士の一人息子で、

高杉家は晋作が村塾に通うのは許さなかった。

晋作を松陰に引き合わせたのは、玄瑞であったという。

松陰はわざと晋作の前で玄瑞を褒め、晋作を発奮させた。

松陰の狙い通り学力が「暴長」した晋作は、

玄瑞とともに「松門の双璧」と称されるまでに至る。

龍になって去るモグラになり戻る  井上一筒


    高杉家

後年、小伝馬町牢獄の松陰に、一通の手紙が届けられた。

晋作からであった。
                    いかん
「男子たる者の死すべき所や如何」

晋作の悩みが記されてあった。

これに対し松陰は

「死は好むべきでもないし、憎むべきものでもない。

   道が尽き、心が安んじられた時、そこが死所である。

  『死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし』

  『生きて大業の見込みあらばあくまで生くべし』

  『死生は度外に置くべし』」

と答えて寄越した。

タテ罫のノートは体臭がきつい  居谷真理子

その答えが、あるいは晋作の生涯を決定づけたかもしれない。

安政6年11月、師の松陰が処刑された一カ月後、

晋作は藩重役の周布政之助への手紙に、

「わが師松陰の首、ついに幕吏の手に掛け候の由。
                 つかまつ
…仇を報い候らわで安心仕らず候」

と記している。

その後、晋作は身分に縛られない近代的軍隊「騎兵隊」を組織、

四カ国連合艦隊との交渉、「功山寺挙兵」

「四境戦争」と命を削って疾駆した晋作の死生観は、

まさに、松陰の教えるものであった。

ただ一度風のかたちを見た枯野  板野美子

晩年、松陰が残した門下生評の中で高杉晋作と久坂玄瑞を、
   がぎょ
「人の駕馭を受けざる(恣意のままにうごかされぬ)高等の人物なり」

と絶賛している。

また、昭和14年まで生存した松下村塾出身の渡辺高蔵は、

「久坂と高杉との差は、久坂には誰も付いてゆきたいが、

   高杉にはどうもならぬと皆言う程に、

   高杉の乱暴なり易きには、人望少なく、

   久坂の方、人望多し」

と語っている。

反時計回りに生きてきた男  井上恵津子

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乱心は不調空涙は殉死  山口ろっぱ



「久坂玄瑞」
                      りょうてき
久坂玄瑞は天保11年(1840)久坂良迪、富子の三男として誕生。

幼少の頃、高杉晋作とともに、

萩城下の私塾・吉松塾で四書の素読を受けた。

ついで藩の医学所・好生館に入学したが、

14歳の夏に母を亡くし、翌年には、

優れた医者であり蘭学者であった兄・玄機が20歳の若さで病没。

そして、その僅か数日後に父も亡くし、

15歳の春に秀三郎は家族全てを失い天涯孤独となった。

こうして秀三郎は藩医久坂家の当主となり、

者として頭を剃り、名を玄瑞と改めた。

顎の線削りなおして風に立つ  笠嶋恵美子


    月性像

16歳の玄瑞は、背は高く、眉目秀麗、青年才子として、

早くも藩の内外に知れ渡り、その年に九州に遊学する。

熊本に宮部鼎蔵を訪ねた際、

吉田松陰に従学することを強く勧められた。

玄瑞はかねてから、亡き兄の旧友である月性上人から、

松陰に従学することを勧められており、

この遊学によって、松陰に対する敬慕の気持ちが深まった。

偏頭痛雨の匂いもする序章  加藤美津子

久坂は萩に帰るとすぐ松陰に手紙を書いた。

が、この手紙のやりとりはかなりの激論となった。

玄瑞が松陰に送った手紙の内容は、

「弘安の役の時の如く外国の使者を斬るべし」

という、強硬な外国排撃論であり、

その論に対して敬慕する松陰の賛を得ようというものであった。

しかし、この手紙に対して松陰は、その返書で、
ふはん
「議論浮泛、思慮粗浅、至誠より発する言説ではない」

(中身がなく、考え方は浅はかで、真心から言っている言葉ではない)

と一刀両断。

かぞえ損なう蟹の吹く泡の数  井上一筒

「私はこの種の文章を憎みこの種の人間を憎む。

   アメリカの使節を斬るのは今はもう遅い。
   おうせき
   往昔の死例をとって、

   こんにちの活変を制しようなど、笑止の沙汰だ。

   思慮粗浅とはこのことをいうのだ。

   つまらぬ迷言を費すよりも、至誠を積み蓄えるがよい」

と、さらに痛烈な言葉を書き連ね、玄瑞の論を酷評した。

松陰の痛烈な批判の裏には、

玄瑞を鍛えてやろうという下心があった。
             しょうかい
玄瑞を紹介した土屋蕭海への手紙に、松陰は、

「久坂生、士気凡ならず。
                             べんばく
   何とぞ大成致せかしと存じ、力を極めて弁駁致し候間、

   是にて一激して大挙攻寇の勢あらば、僕が本望これに過ぎず候。

   もし面従腹背の人ならば、

   僕が弁駁は人を知らずして言を失うというべし」

と、激しくやりかえしてくることを期待していたのである。

※ 面従腹背=うわべだけ上の者に従うふりをしているが、
                      内心では従わないこと。


生きるのに飽きたら死んでやるつもり  大西將文



松陰の期待通り、玄瑞は大いに憤激し猛然と反駁した。

玄瑞は松陰に、

「誠(玄瑞)の大計を論ずるは、憤激の余り出づるのであって、

   強く責めるにはあたるまい。

   今、義卿(松陰)の罵言、妄言、不遜はなんと甚だしいことぞ。

   誠は義卿にしてこの言あるを怪しむ。

   もし果たしてこの如き言をなす男だとすれば、

   先の日に宮部生が賞賛したのも、

   が義卿を豪傑だと思ったのも、各々誤ったようである。

   紙に対して、憤激の余り覚えず撃案した。」

と書いた。

不機嫌を眉の角度で知りました  合田瑠美子

松陰はこの反論に対し。約1カ月の間をおいて、筆を執り、

「あなたは僕が貴方に望みを託し、

   あなたの成長を願っているのを察しないで、

   相変わらず空論を続けている。

   そのことを僕は大いに惜しんでいる。
                                                                                     とうとう
   なるほど、あなたの言うところは滔々としているが、

   一としてあなたの実践からでたものではないし、

   すべて空言である。

   一時の憤激でその気持ちを書くような態度はやめて、

   歴史の方向を見定めて、真に、日本を未来にむかって,

   開発できるように、徹底的に考えぬいてほしい」

と返書した。

待ってたと絶対言わぬ背中だよ  奥山晴生    

しかし今度も玄瑞は、自分の理論が誤っていると認めなかった。

説得できないと悟った松陰は、

今度は打って変わって玄瑞の理論を認めたうえで、

「あなたが外国の使いを斬ろうとするのには名分がある。

   今から斬るようにつとめてほしい。

   僕はあなたの才略を傍観させていただこう。

   僕の才略はあなたに到底及ばない。

   僕もかつては、アメリカの使いを斬ろうとしたことがあるが、

   無益であることを悟ってやめた。

   そして、考えたことが手紙に書いたことである。

   あなたは言葉通り、

   僕と同じにならないように断固としてやってほしい。

   もし、そうでないと、

   僕はあなたの大言壮語を一層非難するであろう。

   あなたはなお、僕に向かって反問できるか」

と書いた。

ハンカチに包めるほどの自尊心  斉藤和子        

この書簡を通して松陰は、自分の発言がどんなに重要なものか、

「自分の発言には、自分の生命をかけて必ず果たさねばならない」

と玄瑞に教えた。

松陰の実践と思索に裏付けられた強い言葉に玄瑞はたじろいだ。

玄瑞は、安政4年の晩春、18歳で正式に松陰門に弟子入りし、

幼友達の高杉晋作にも入門を勧めた。

松陰が最も信頼した一番弟子の玄瑞は、

「才能は自由自在、縦横無碍」

「才あり気あり、駸駸として進取す」

と師から最大級の賛辞を送られている。

忘れ物捜しに出口から入る  板垣孝志



  高杉晋作

「松陰からの賛辞」

『僕はかつて同志の中の年少では、久坂玄瑞の才を第一としていた。

   その後、高杉晋作を同志として得た。

   晋作は識見はあるが、学問はまだ十分に進んでいない。

   しかし、自由奔放にものを考え、行動することができた。

   そこで僕は玄瑞の才と学を推奨して、晋作を抑えるようにした。

   そのとき晋作の心は、はなはだ不満のようであったが、

   まもなく、晋作の学業は大いに進み、議論もいよいよすぐれ、

   皆もそれを認めるようになった。

   玄瑞もそのころから、晋作の識見にはとうてい及ばないといって、

   晋作を推すようになった。

   晋作も率直に玄瑞の才は、当世に比べるものがないと言い始め、

 二人はお互いに学びあうようになった。

 僕はこの二人の関係をみて、

   玄瑞の才は「気」に基づいたものであり、


   晋作の識は「気」から発したものである。

   二人がお互いに学びあうようになれば、

 僕はもう何も心配することはないと思ったが、

   今後、晋作の識見を以て、

 玄瑞の才を行っていくならば、できないことはない。

   晋作よ、世に才のある人は多い。

   しかし、玄瑞の才だけは、どんなことがあっても失ってはならない

号外が降ってきそうな日本晴れ  久岡ひでお 

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木枯しはきっと担担麺あたり  山本早苗


    松下村塾

「村塾オープン」

安政2年(1855)12月、明ければは14歳という年の瀬に、

松蔭は実家に戻ってきた。

家族は無事を喜び、涙で迎えた。 

とはいえ、まだ許されたわけではなく、

三畳ほどの狭い部屋で幽閉状態で暮らした。

「入牢中、松蔭が囚人たちに孟子を輪読させ、解説をしていた」

と聞いた、父と兄と叔父が幽閉中の松蔭の気を紛らわせればと、

三畳間に集まって耳を傾けるようになった。

敏三郎は手習いを見てもらった。

松蔭は難しい「孟子」でも、弟・妹たちがわかるように、

具体例を出して面白く説明する。

文はすっかり学問が好きになった。

牛乳の所為かも牛は姿勢いい  小出順子


ここの三畳間で村塾は始まった

半年ほど経つと、親類や近隣の若者が受講に加わり、

さらに評判を聞きつけて、入門希望者が相次いだ。

いつしか藩の規制も緩やかになったため、

「松下村塾」の名で私塾を開くことにした。

村塾は叔父・文乃進が開いた塾だったが、

松陰がその看板を引き継いだ。

以前は子供相手の読み書きの塾だったが、

松蔭は、「漢字から兵学、国内外の事情」まで幅広く教えた。

それも一斉に教えるのではなく、

それぞれの能力や時間の都合に合わせて柔軟に対応した。

物欲も性欲もなく動く口  田口和代


杉家旧宅・農作業の道具

塾生は十代が多かったが、

九ツの子供もいれば、三十でも通う者がいた。

また足軽から百姓、魚屋の子まで身分の差なく学び、

松陰は誰に対しても丁寧な言葉を使った。

しかし人数が増えるにつれ、三畳間ではとても入りきれなくなった。

そのため畑の中に建っていた物置に古畳を敷いて、

八畳の座敷にした。

松陰はここに移り、

家が遠く通えない塾生も一緒に寝泊りするようになった。

本物の和みの味の旨さかな  庄田順子
 
とともに、せっせと食事を運び、繕いなどの世話もした。

昼の弁当を持ってこない塾生や、来客にも食事を出す。

何人来てもいいように、飯を多めに炊いて用意しておき、

余った分は、翌日、女たちが食べた。

そのため、文は温かい飯など滅多に口にできなかったが、

兄が熱心に教えている様子を見ると、それだけで不満は消えた。

松陰は入門料は取ったが、日頃の謝礼は受け取らなかった。

その代わり、塾生たちと田畑を耕して食料の足しにした。

講義をしながらの農作業で、文も手伝いながら兄の話を聞いた。

いつ以来だろうこのような安らぎ  下谷憲子

いよいよ人気が高まり、塾生は総勢90人にも達し、

毎日2、30人も通ってくるようになった。

もはや八畳間では手狭になったが、

建て増しは費用の面で無理だった。

松陰が塾生たちに解決策を考えさせると、

「自分たちの手で建て増ししてはどうか」

と言う者がいた。

「そんな職人仕事など、素人に出来るはずがない」

「畑仕事なら、先生のお話を聞きながらでもできるが、

   大工仕事になると無理だしな」

否定的な意見が相次いだ。

松陰は黙って聞いている。

そこへ若医者の久坂玄瑞が、口を開いた。

「自分たちが使う家くらい建てられなくて、

   どうして自分たちの国を立て直せようか」

ネギ焼きの葱のこげ目が主張する  山本昌乃



久坂は文よりも3歳上で、背が高く、目元が涼しく、顔立ちがいい。

医者の常で頭を剃り上げており、

大勢の塾生の中でも何かと目立つ存在だ。

入門前、久坂は「外国の使者は斬るべし」と、

激烈な手紙を送ってきて、松蔭にたしなめられたことがある。

「もっと現実を見て、実現できることを目指せ」

と教えられた。

以来、久坂は実践を重視するようになり、

塾の建て増しも実践主義の表れだった。

誰もが久坂の言葉に納得し、建設を決めた。

まずは手分けして具体策を探ったところ、

城下の空き家が安く手に入ることになった。

そこで大工を呼んで教えを請い、一旦解体して建築することにした。

バラでもナイフでも銜えられますの  山口ろっぱ

物置だった八畳の傍らに塾生たちの手で、

古材や古瓦が運ばれてくる。

共同作業は思いがけないほど楽しく、

皆、ねじり鉢巻きで生き生きと働いた。

文も手ぬぐいを姉さんかぶりにし、袖をたすき掛けにして、

大量の握り飯や茶を出し、

道具の準備や片付けにも精を出した。

一方、久坂はよく通る声で、てきぱきと指示を出す。

それは文の目にも頼もしく映った。

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松蔭も率先して作業に加わった。

ある時、品川弥二郎という塾生が梯子に登り、

高所の壁塗りをしていた。

松蔭は下で、土を捏ねてはひょいと塊を投げ上げる。

それを品川が取っ手のついたコテ板で受け取るはずだったが、

手元が狂って受け損ねた。

すると土が師の顔を直撃。

品川は青くなって梯子を下りたが、松陰は顔を拭いながら、

「師の顔に泥を塗るか」 と言った。

ほかの塾生たちも文も、心配して集まって来たものの、

松陰の冗談と知り、結局は大笑いになった。

雑音のひとつひとつに意味がある  水野黒兎


   杉家旧井戸

土だらけになった着物を文は井戸端で洗いながら、

「塾生の中には自分を嫁にもらってくれる人がいるだろうか」

と夢を見た。

できればそれが久坂であってほしかった。

ただ容姿に自信がない。

女にしては背が高すぎるし、兄に似て細面で目は切れ長だが、

決して美人でないと自覚している。

「こんな自分が久坂のような魅力的な男と一緒になれるはずがない」

と、密かに溜息をついた。

憎らしいあなた愛しいのもあなた  勝山ちゑ子



大工仕事は大勢が力を合わせた結果、

ひと月ほどで10畳半ほどの建物は完成し畳も入った。

土間に炊事場、中二階、廊下、そして便所までついており、

素人仕事とは思えない出来映えだった。

松蔭は

「職人仕事など出来ないと思い込まず、

   皆で力を合わせて実行すれば、これほど立派なものができる。

   これを自信にして、もっともっと大きなものに挑もう」

塾生たちは目を輝かせて頷く。

文は兄の教えを改めて知った。

自分たちで働いて、自分たちの新しい国をつくる。

それを最も心得ているのが、久坂なのだと思った。

味方にも敵にも飴ちゃんをあげる  森田律子

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