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川柳的逍遥 人の世の一家言
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電池みな入れ替えましたけれど雨  山本早苗

(拡大してご覧下さい)
   生麦事件(明治になって想像で描かれた)

捕らえられた英国人が島津久光の前に連れてこられている。
実際には、久光は駕籠からでていない、
斬捨てを命じた記録もない。
当時は、久光の武勇伝となっていた。

「1862年」

大老・井伊直弼が非業の死を遂げた後、

混乱する幕府を担ったのは老中の安藤信正であった。
                                 ひろちか
信正は直弼によって罷免させられていた久世広周を老中に

返り咲かせ、政権内部の井伊色を一掃したのである。

そして老中による桜田門外事件の取調べは曖昧なままで終わらせ、

水戸斉昭が万延元年(1860)急死すると、

事件の要因となった「密勅返納問題」もうやむやにしてしまった。

もうおぼろ すべてはおぼろおぼろなり 大海幸生

安藤・久世政権は破綻していた公武の融和策を再開することを決定。

孝明天皇の妹・和宮を、将軍・家茂の正室に迎える計画を推進する。

これが実現すれば天皇と将軍が義兄弟となり、

国難に協力してあたる道筋ができるのだ。

こうして、和宮内親王に徳川家茂への降嫁が決まり、

翌文久元年10月、京を発って江戸へと向かった。

この降嫁は、尊皇攘夷を唱える勢力からは、

幕府が朝廷の力を利用したように映った。

矢印はいいな疑われたことが無い  中岡千代美


  島津久光

推進者であった安藤信正は、婚儀直前の

文久2年(1862)1月15日、

坂下門外で水戸浪士らに襲われた。

さすがに命を落とすことはなかったが、

安藤は4月11日に老中を解任されてしまう。

安藤解任と同じ頃、

薩摩藩主の実父で「国父」と称した島津久光

兵を率いて京に上り、幕政改革の意見書を朝廷に提出。

そして、文久2年4月23日に、過激な倒幕行動を画策していた、

薩摩藩や諸国の尊王志士が集まる伏見の寺田屋に使者を派遣。

命に従わなかったために、粛清している。

電線も黄泉の国まで雪になる  森 廣子               

この事件がきっかけとなり、久光は朝廷から絶大な信頼を得た。

そして勅旨を伴い江戸へ下向。

将軍に国政改革を要求した。

この一連の出来事は、藩主でもない久光が政局中央に

華々しく存在感を示したことになる。

建白の内容は、「公武合体」「朝廷の権威の振興」

「幕政改革を実現」させること、というものであった。

それは幕府独裁ではなく、有能な人材を配して朝廷と話し合い、

国の方針を決めるものであった。

生きて死ぬまではヒト形着ぐるみ  山口ろっぱ

そして久光の目論見通り、

将軍後見役に一橋慶喜、政事総裁職に松平春嶽を登用。

目的を果たした久光は、さらに江戸にとどまり、

慶喜と春嶽に幕政改革を要求した。

幕府は、権威を背景とした久光の要求を拒むことが出来ず、

国内外に自らの権威が失墜したことを晒してしまう。

6月7日から江戸に滞在していた久光一行は、

すべての周旋を終えて8月21日に江戸を後にした。

哲学の道で拾ってきた記憶  山本昌乃

 
事件の起こった生麦村付近の古写真 (拡大してご覧下さい)

この付近でリチャードソンの遺体が発見された。
右、リチャードソンの遺体。
英国人4名は、上海から避暑に来ていたため、
日本の事情には疎かった。


そして京都へ戻る途中、思いもよらぬ事件を起こしてしまう。
               たちばなぐん  なまむぎむら
久光の行列が武蔵国・橘樹郡・生麦村付近にさしかかった時、

乗馬のまま、島津久光の駕籠近くまで乗り入れた英国人4名に、
        ならはらゆきごろう
薩摩藩士・奈良原幸五郎は、「無礼者!」と一喝するやいなや、

腰の刀を引き抜き、一行に斬りかかった。

文久2年8月21日の 「生麦事件」である。

結果、チャールス・レイックス・リチャードソンという男性が死亡、

2名は重傷を負う。

当時の武士が主君を守る行為は自然のことだし、

久光が咎めなかったのも、普通のことだった。

しかし、これが幕末震動の重大な問題に発展していく。

跳び箱の内部はがらんどうでした  福光二郎


寺田屋で斬り合う薩摩藩士

「ついでに」ー二つの寺田屋事件

「一つ目の寺田屋事件」
(薩摩藩粛清)

薩摩藩主・島津久光によって鎮撫された事件である。

当時、薩摩藩には島津久光を中心とする公武合体を奉ずる

「温和派」と勤王討幕を主張する「急進派」との二派があった。

久光にはこの当時、倒幕の意志などはまったくなく、

朝廷から急進派鎮圧の密命をうけ、藩兵千名を率い上洛した。

これを知った有馬新七ら30余名の急進派の同志は、
                            なおただ
文久2年(1862)
4月23日、関白・九条尚忠

所司代・酒井忠義を殺害すべく、

薩摩藩の船宿であった寺田屋伊助方に集まった。

これを知った久光は藩士・奈良原ら8名を派遣し、

新七らの計画を断念さすべく説得に努めたが失敗、

遂に乱闘となり新七ら7名が斬られ、2人は重傷を負った。
                          つなよし
この後、
新七は示現流剣術の達人・大山綱良によって上意討ちされる。

好き半分嫌い半分石榴の朱  嶋澤喜八郎

「二つ目の寺田屋事件」ー(こちらの方が有名か)

慶応2年(1866)
1月23日、

京で「薩長同盟の会談」を斡旋した直後、


薩摩人として宿泊中の坂本龍馬を、伏見奉行の林肥後守の捕り方が

捕縛ないしは暗殺しようと寺田屋を取り囲んだ。

その異変にいち早く気づいたのが、後の龍馬に妻になるお龍

入浴中だったお龍は、裸のまま2階へ駆け上がり、

龍馬に危機を知らせた。

捕り方に踏み込まれた龍馬たちは、拳銃などで応戦。

龍馬は親指を負傷したが、何とか寺田屋を脱出して木材屋に潜む。

仲間の三吉慎蔵は、伏見薩摩藩邸に駆け込み、救援を要請。

救援をうけた薩摩藩は、川船を出して龍馬を救出した。

龍馬は、様々な人の機転により九死に一生を得た。

ナメタラアキマヘンという涙跡  森田律子

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満月の雫を綴る銀の針  井上一筒


  玄瑞自筆の書簡
4月27日に発見された、玄瑞が小田村文助にあてた書簡。

「玄瑞の手紙」 

手紙の日時は旧暦のため現在の暦に合わせるには、
一ヶ月半ほど後ろへ。
例えば、3月28日であれば、5月中頃となります。



「文久2年(1862)」 4月
3月28日と4月4日の手紙はたしかに受け取りました。
私たちもこの頃は京都藩邸のうしろに住み、
佐世、楢崎兄弟、寺島、中谷、真五郎など同居しています。
杉蔵、和作、弥二などが追々訪ねてきます。
面白く楽しいのはこのときでございます。
しかし3月13日松洞が切腹したことは非常に残念です。
松洞の家へ手紙を出したいのですが、何とも言いようがなくて、
手紙を出せないでいます。

梅兄にすぐにお金を借りることができ大きなしあわせです。
玉木文之進おじ様が藩の役職につかれて、お慶び申し上げます。

さて、毛利の若殿様がご上京になりますことは
非常にありがたいことです。
そして本当にありがたいご意向をお示しになられたそうで、
これまではいろいろと苦心いたしましたけれども、
御意を表明されたことで、私も生き返ったような心地がいたします。
このことはずいぶんとご安心してください。

四月朔日                    玄瑞在京都
尚々ご用心してください。
杉家の皆さん方へもよろしく申しあげられますよう、
お頼みします。          
以上。                    
お文どの


忙しい中からひとときを摘む  立蔵信子



この頃の玄瑞の懊悩煩悶はひとえに、
    うた
長井雅楽「航海遠略策」が藩論となって、

跳梁跋扈していることだった。

松洞は長井雅楽の「公武合体論」に反対し、

暗殺を企てるが失敗し、京都粟田山で割腹自殺を遂げている。

26歳だった。

 杉蔵(入江九一)、和作(野村清)、弥二(品川弥二郎
         松洞(松浦亀太郎)、毛利の若殿(毛利定広)、
         楢崎兄弟(弥八郎と仲助
佐世(八十郎)、寺島(忠三郎
         中谷(正亮)・真五郎(堀真五郎


化石をほぐすとこぼれ出すロマン  和田洋子

「文久2年」5月28日
…前略…
さて、夏物の着物をお送りくだされ、大きな幸せでございます。
お国許を旅立ったときは、
なかなか夏物は必要と考えなかったのですが、
このところの様子では、
いつまで滞在しなければならないか予測が出来ず、
長期間の在陣になるかもしれません。
詳しくは杉蔵から聞いてください。

亀太郎のことは、さてもさても気の毒千万で、
老いた母の悲しみが思いやられます。
こちらでも墓は立派に建てましたが、
拙者もこの節はいろいろ心配ばかりで、
十のものが九までは思うようにならず、
ちっとも藩へのご奉公の効果がなくて、恥ずかしい次第です。
吉田松陰先生さえいらっしゃればと残念に思うばかりです。

錆び色の艶出しながら生きている  上山堅坊

…中略…
さてこのたびのことに関しましては、
婦人にもなかなか感心なものが沢山おります。
久留米の真木和泉という神主の娘はこのたびのことについて、
上方へ上ったときに詠んだ歌は素晴しいです。
"梓弓はるは来にけり武士の花 咲く世とはなりにけるかな"
(弓を張るのと、これから新しい春がやってくるというのにかけて、
   もののふの花咲く時代がやってくる、と長州が天皇を奉って
   大攘夷を実行するということを喜ぶ歌を詠んでいます)

和泉守というのは、私も非常に心安い男であります。
この弟は大鳥居理兵衛といって、
先日、筑前の黒崎というところで切腹されたほどの人でございます。
また、梅田源次郎の姪のお富という女の詠める歌もお送りします。
これはお富の直筆です。
杉蔵の妹もじつに感心な人です。
杉蔵の妹が杉蔵へ送った書状もお読みください。
私は今日も忙しいので、おおよそのところを申し送ります。

五月二十八日                玄瑞

当分はピンクで埋めておく余白  田岡 弘



真木和泉は玄瑞と最後まで行動をともにした同士であった。

いよいよ攘夷が実行されるときが来て、和泉の娘の歌には、

父・真木和泉がいかに攘夷を待ち望んでいたかが読みとれる。

梅田雲浜はこのときすでに亡くなっているが、

雲浜の姪である富子は玄瑞と文通し、

雲浜の遺志を継いで尽力する女傑であった。

うんうんと頷く人がそばにいる  河村啓子

いよいよ雲浜の遺志を実現できる世の中へと

変化しつつあることを喜び、玄瑞、九一、前原一誠などが、

富子を料亭に招待し、

その席上で富子は歌を詠んだ。

玄瑞が文への手紙に封入した直筆の歌がこれである。

"在りし世のことこそ思へ懐かしな 花橘の咲くにつけても"

"思ふかな枯れにし庭の梅の花 咲き返りぬる春の空にも"

富子はその後も長州藩の志士たちと公家の大原重徳卿との間の

書状の往復の使者の役目を請け負っていた。

宝石になるまで磨くつもりです  竹内ゆみこ

杉蔵の妹・すみ子の手紙も、玄瑞は杉蔵から見せてもらっていた。

兄二人が尊攘運動の中、父もおらず幼い頃から貧苦と闘いながら

年老いた母を助けて、家事をするすみ子に感銘を受けていた。

松陰も女性だから教養は必要ない、というような人ではなかった。

玄瑞はその師の教えを受け継いだというより、

玄瑞も、もともと人として、武士の妻として、

修養が心の糧となることを

文に一生懸命に伝えようとしたのである。

下書きの便箋だけが知る本音  上嶋幸雀


  真木和泉

「真木和泉」

筑後国久留米、水天宮の神職に生まれた真木和泉は、
            あいざわせいしさい
江戸に出て水戸の会沢正志斎に面会し、尊攘思想の影響を受ける。

久留米に帰ると水戸学の思想を盛んに唱え、
       よりとう
藩主・有馬頼永に藩政改革意見を上申したが受け入れられず、

蟄居を命じられた。

日の昇る水平線を信じたい  森田律子

11年におよぶ幽閉中、

和泉のもとを諸国の志士たちが密かに訪れることも多かった。

文久2年、大久保利通らと、公武合体政策推進派で

薩摩藩の最高権力者・島津久光を擁立して上京。

しかし、「寺田屋の変」で久留米に護送、幽閉される。

赦免後、「8月18日の政変」が起こると長州藩へ逃れた和泉は、

元治元年(1864)、攘夷派の玄瑞来島又兵衛ら同志と

「禁門の変」を起こすも敗れ去る。

そして、敗走中に新撰組の追撃を受けて自害した。

新しく今日も旅立つ千の風  大西將文

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はーるよ来いはーやく来いとノックする 田口和代


    涙袖帖

玄瑞が生前文に宛てた手紙を集めたもの。
文は楫取素彦と再婚する際、これを持参することを条件としたという。

「長州藩・藩論の転換」

久坂玄瑞松陰の刑死後、

もはや幕府などたのむべきでなく、藩の枠組みを越えて、

連携することの大義を様々な書面で披歴している。

土佐の武市半平太への手紙では、

「大名や公家はもう頼りにならない。

    草莽の志士たちが立ち上がって、

    共に尊皇攘夷のために結ぶ他に道はない。

    大義実現のためならば、土佐藩や長州藩が無くなっても構わない」

と書いている。

明後日と今日の間の拝火教  井上一筒

文久2年(1862)玄瑞は藩の重臣・周布政之助などと協力し、

「破約攘夷(即今攘夷主義)という藩の新しい路線を確立した。

外国と結んでいる条約を即時に破棄し、

攘夷を結構すべきとの考えである。

毛利敬親は、「尊攘論にあらざれば耳を傾くる者なき形勢」

を悟り、家臣と会議の結果、7月、

長井の「航海遠略策」を破棄することに決し、

藩論は破約攘夷へと大きく転換した。

すなわち、「勅許なしで調印した条約を破棄し、攘夷を行う」

というもので、尊攘派の玄瑞の主張が通ったわけである。

夜は夜どおしサソリの話デビルの話  本多洋子


    品川宿
かっては桜の名所・品川宿も幕末には英仏公使館が建ち姿をかえる。
玄瑞・晋作らは品川宿の妓楼土蔵相模に集結し、
英国公使館焼き打ちを決行した。

この一環として、

玄瑞は長州のニューリーダーとして晋作らとともに、
       みたて
政治結社・御楯組を結成。

同年12月には、品川御殿山の「英国公使館焼き打ち」を行なう。

公使館焼き打ちの後、玄瑞は一時、水戸周辺に潜伏してから

中山道を信州松代に向い、蟄居が解けた佐久間象山に会った。

玄瑞は、松陰の師である象山を、

尊皇攘夷のため長州藩に招聘する任を帯びていたが、

結局それは果たせなかった。

落下傘みたいに血がにじむ  酒井かがり

帰国した玄瑞は藩命により、藩医から士分に取り立てられた。

髪の毛を伸ばして束髪にした玄瑞は、京都藩邸御用掛に任ぜられる。

玄瑞は再び、萩を離れ、

京都に出て公卿や他藩との応接を行なうことになった。
                  たかつかさすけひろ
そして関白になったばかりの鷹司輔熈の屋敷に定詰めとなる。

玄瑞に政治の表舞台での活躍の場が与えられたのだった。

半開きの着信音が呼んでいる  立蔵信子

文久3年の京都は尊皇攘夷運動の絶頂期を迎え、

肥後・長州・水戸・対馬・津和野藩などの尊攘派藩士が集結していた。

2月、玄瑞は長州藩同輩の寺島忠三郎らとともに、

鷹司関白に対して、攘夷の即日決定と
 げんろとうかい
「言路洞開」を建言書として差し出した。

結果、朝廷は幕府に命じて、

攘夷の期日を5月10日とすることになった。

 言路洞開=上層部が下層部の意見をくみ取り、
                      意志の疎通を図ることを意味している。
                               いわば、言論の自由への理解を示す言葉である。

時々は狼煙をあげて自己主張  永井玲子

4月になって、京都から長州に戻った玄瑞は、

攘夷実行の核となる「光明寺党」を結成した。

党首には朝廷の侍従・中山忠光を迎えたが、

実質的なリーダーはやはり玄瑞自身である。

このように激務に追われる中、

玄瑞は何通かの書状を杉家に送っている。

無論、多くは妻の文に宛てたものだ。

バーコード当てているのは僕の胸  八木侑子

「この度は萩に戻ることも出きないでおり、

   情けないことと思うでしょうが、

   これもお国の大事には引き替えられません」

玄瑞はそう書状に認めた。

夫婦の絆を思いつつも、国事の大切さへ決意・覚悟を語っている。

さらに五首の和歌を書き留めている。

”ふるさとの花さえ見ずに豊浦の にひさきもりと吾は来にけり”

(故郷でまつ恋しい妻の顔を見ないまま、

   馬関防衛のための防人としてここにやって来た)

【余談】 玄瑞は文に愛の手紙を送っているこの時期(文久2年)

  京都には付き合っていた芸妓がおり、

  秀次郎という男子も生まれている。

何も無い訳では無いが語らない  森 廣子

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臍の緒が鼠の餌になっていた  新家完司



    丙辰丸

「高杉晋作・上海へ」

文久元年(1861)晋作は藩保有の軍艦・『丙辰丸』に乗船する。

丙辰丸は、長州藩が「黒船来航」を受けて建造した

初の西洋式軍艦であり、

軍艦として特筆する性能はあまり持っていなかったが、

新生長州海軍の象徴的な船であった。

晋作はこれに乗り、「海軍修練」と称して各地へ出向。

翌文久2年4月16日に、長崎から大陸の海都・上海へと渡る。

水仙の第一球を蹴り上げた  岩根彰子



晋作は上海で2か月滞在し、

そこで目にした光景に彼は愕然としてしまう。

かつての大国・清国が「太平天国の乱」「アヘン戦争」

余波で衰退し、欧米列強によって植民地化されつつある

という厳しい現実だった。

「このままでは、日本は中国と同じ運命をたどってしまう」

と晋作は強い危機感を抱くとともに、

攘夷より開国への転換の必要性を思った。

一方、晋作が大陸へ渡航している間に、

長州藩では政変が起こっており、

桂小五郎伊藤俊輔ら尊皇攘夷思想に基づく「倒幕派」が台頭した。

同年、帰国した晋作も旧態依然とした幕府への強い危機感から、

この一連の倒幕運動に積極的に参加していく事になる。

(この上海で晋作は土産として、リボルバー拳銃を二丁購入している
 うち、一丁は坂本竜馬に贈られる)

てのひらに貧乏線が太く見え  古野つとむ


晋作が上海出航直前に叔父・長沼聡次郎へあてた書簡。

書簡は、渡航2週間前に長崎で書かれた。

攘夷派の中心人物だったにもかかわらず、

アジアにおける西洋の窓口だった上海へ赴くことへの心情を

率直に吐露している。

「藩主から大任を受けているのだから、自分を批判する

   風評や伝聞くらいのことでは動じることはない」

「風評がかなり多いが、列強の形勢は私であればこそ探索できる」

など、同志たちからの反発を感じながらも

使命感にあふれた言葉が並ぶ。

幕府の一員として、

外国へ行くことへの風当たりが強かったとされていたが、

本人の言葉でその事情が裏付けられたのは初めて。

梟が言うの嫌われたっていいじゃない 吉岡とみえ


読売新聞が報じる高杉渡航前の手紙

「外国人との接触は得ることが少なくない」


と叔父に伝え、長崎をたった晋作は、

上海で欧米列強による中国の半植民地化を目の当たりにし、

日本の将来への危機感を高めて7月に帰国。

以来、伊藤博文が「動けば雷電の如(ごと)く、発すれば風雨の如し」

と評した行動力を発揮する。
       うめたに
近現代史の梅渓昇・阪大名誉教授は、この手紙を

「生々しい言葉で本音が書かれた貴重な史料で、この史料から

   晋作が尊皇攘夷を振りかざすだけの並の志士より

   一歩抜き出た先見性のある人物であることが分かる」

と評している。

追伸にタバスコ開封に注意  小谷小雪

「晋作の名言」

『まず飛びだすことだ。思案はそれからでいい』


『どんな事でも周到に考えぬいた末に行動し、困らぬようにしておく』

『それでもなおかつ窮地におちた場所でも「こまった」とはいわない』

『困ったといった途端、人間は知恵も分別も出ないようになってしまう』

尖って生きても影は丸くなる  原 洋志



  アヘンに浸る民

【豆辞典】-「アヘン戦争」

18世紀、清との交易を進めるイギリスは、

大量の茶や絹、陶磁器などを清から輸入したが、

輸出品が少なく、大幅な貿易赤字を出していた。

そこで、すでに植民地としていたインドで生産されるアヘンを

輸出するようになる。

アヘンには強い常習性があるため、清ではアヘンの吸引者が急増。

国民の健康は蝕まれ、風紀も悪化して国力が低下した。

また、兵士にもアヘンが蔓延して、

地方で頻発し始めた反乱鎮圧に、苦慮するようにもなった。

からまった糸蒟蒻になじられる  野口 裕

さらに、清は輸入の決済に銀を使っていたため、

国内の銀の保有量が激減し、銀が高騰、貿易収支も赤字に転落した。

清は苦境を脱するため、

アヘン販売者は死罪という厳しい法律を作り、

イギリスとアメリカの貿易商が持ち込んだアヘンを没収して、

広州の海辺で焼却した。

これに怒ったイギリスは、艦隊を派遣して清を攻撃した。

1840年・「アヘン戦争」の始まりである。

圧倒的に戦力の優位なイギリス艦隊は清軍を殲滅し、

1842年、「南京条約」が結ばれて、

香港の割譲、広東や上海の開港などが定められた。

国民が怖さを知らぬ怖い国  ふじのひろし

アヘン戦争の顛末は日本にも伝えられ、

幕府や朝廷、諸藩に大きな衝撃を与えた。

幕府は異国船への対応姿勢を改め、

「異国船打払令」に代わって「薪水給与令」を出し、

外国船に燃料や水、食料の供給を認めることとした。

諸藩も欧米列強への備えを模索し始める。

脱皮して警戒心がつく鱗  竹内いそこ

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咲かせたのはどなた紫陽花はピンク  森田律子

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晋作が妻・雅子に送った手紙

この手紙には、
  

「高杉の両親も井上(雅子の実家)も大切にせよ」、

「武士の妻なのだから、気持ちを強く持って留守を良く守れ」

「曽我物語」や「いろは文庫」などを読んで、

   心を磨くことを心がけること」


「武士の妻は町人や百姓の妻とは違うのだから」

と「武士の妻」としての心得が綴られている。

「慶応2年4月5日付、愛人・おうのには」

「人に馬鹿にされないように」

「写真を送るので受け取るように」と綴り、

筆まめな晋作は、雅子以外、おうのにも同志たちにも、

数多くの手紙を送って、自らの思いを伝えた。

(雅子宛の手紙は漢字が多く、愛人・おうの宛の手紙は、

   平仮名が多く使われ晋作の細かな心遣いと優しさが垣間見える)

ほんのりと空気のように坐ってる  谷口 義


高杉雅子(政子)

「高杉晋作の妻・雅子)
 
雅子は、弘化2年(1845)長州藩・井上平右衛門の次女に生れた。

「萩城下一の美人」と謳われ、早くから縁談が殺到したといわれる。

そこで絞り込んだ三件の書状をクジにし、

雅子が選び取った一つの中に書かれていたのが、

高杉晋作の名前で、安政7年(1860)1月に祝言をあげた。

時に雅子16歳、晋作22歳。

頂点の笑顔競ってきた笑顔  籠島恵子

しかし、「三国一の花婿を引き当てた」と祝福された雅子の

晋作との結婚生活は、7年余りの短いものとなる。

夫の晋作が志半ばで結核に倒れ、

慶応3年(1867)4月13日29歳で亡くなってしまうからだ。

さらにいえば、晋作は国事に東奔西走し、

萩の家に長くいることがなく、

一緒に暮らしたのは、約1年半という短さであり、

舅らと離れて住んだのは、文久3年(1863)4月、

晋作が萩郊外に隠棲していた2ヶ月ほどであった。

ただ、翌年には後継ぎとなる長男・梅之進(東一)も誕生し、

雅子は武家の嫁の役目を一つ果たしたと思っただろう。

美しいため息になる非常口  赤松ますみ


   晋作の手紙

雅子は常に不在の夫と手紙のやりとりをした。

晋作からの手紙は、ほとんど武士の妻たる心構えに終始し、

雅子に教養を積むように求めていたが、

晋作は時に長文になる雅子の手紙が届くのを、

楽しみにしていたという。

晋作は優しい夫で、雅子は一度も叱られたことがなかったというが、

やがて、夫に愛妾・おうのがいることを知った雅子は、

慶応2年2月、義母と息子と一緒に、

夫が同棲中の下関へ一時引っ越すこともした。

試験管の中で弾んでいる命  古久保和子

晋作がおうのと出合ったのは、下関の茶屋。

そこでは、おうのは「糸」と名乗っていた。

晋作が24歳、おうの20歳のときであった。。

伊藤博文らは、おうのを見て、

「晋作ほどの人物がなんであんなボケっとした女と…」

と不思議がったという。

だが、晋作にとって、とても大人しく優しい性格で、

おうのの、このぽけっとした天然の部分に、

日ごろ荒みがちだった晋作は癒されていた。

しかし小倉戦争後肺結核になった晋作の体調は悪化すると、

おのうは晋作の恩人・野村望東尼の援助を得て、

ひたすら晋作の看病に努めた。

(望東尼は、晋作の正妻の雅子が訪れる日に、

 雅子とおうのの緩衝役を買って出た人でもある)

カンツォーネおとなの恋をしています 美馬りゅうこ
  

  晋作の三味線

酒を愛し、三味線を愛し、詩歌を愛した晋作が、

妻・雅子とおうのの初体面に修羅場を想定し残した漢詩がある。

妻児将到我閑居    
       (妻児まさにわが閑居に到らんとす)
妾婦胸間患余有    
       (妾婦胸間患い余りあり)
従是両花争開落    
       (これより両花開落を争う)
主人拱手莫如何    
       (主人手をこまねいて如何ともするなし)

「妻の雅子と息子が下関の自分の住まいにやってきた」
「我が愛人のおうのは、そのことに驚き、そして大いに胸を痛めている」
「美しい花である二人の女性はどちらが咲き落ちるかを競い合っている」
「こんな光景を見て、僕は手をこまねいて見ているしかなかった」

この後も雅子は、望東尼の仲裁も得ておうのと交友関係を持ち、

晋作の死後も交流を続けたという。

同じ男を愛した女同士で気の合うところがあったのだろう。

また、おうのは後、尼となって、死ぬまで晋作を弔い続けた。

言い訳を太らせ今日を生き延びる  前岡由美子


 晩年の雅子

維新後、亡き夫・晋作の名声が高まってくると、

雅子は一人息子の教育のため、

東京に出て粛々と暮らし、息子・東一を育てあげた。

大正2年、雅子は、外交官などを努めた息子を先に亡くす、

悲しみにも遭ったが、孫への血脈は受け継がれ、

大正11年1月9日、78歳で死去した。

"文見てもよまれぬ文字はおほけれど なおなつかしき君の面影"

これは雅子が37歳の時に詠んだ歌である。

このころには彼女を困らせた晋作との思い出も

愛おしいものとなっていたのに違いない。

どんな絵を描いても青空に負ける  橋倉久美子   

「余談です」

晋作の辞世の句。

「おもしろき こともなき世をおもしろく」 

と晋作が詠むと、続けて望東尼が

「すみなすものは 心なりけり」 

と下の句を続け、晋作の死を看取った。

原色のままでこの世を泳ぎ切る  嶋沢喜八郎

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