くもの巣を蜘蛛は命をかけて張る 笠原道子
東北遊日記
「異国船は堂々と海峡を往来している、
自分の寝台の横で他人が寝ているのを許すよりもひどい状況だ」
と書かれている部分。
「小田村伊之助と松陰」
文政12年
(1829)小田村伊之助は、藩医・松島家の次男として、
今の萩市内で生まれた。
12歳のとき、儒学者・小田村家の養子になり、小田村伊之助を名乗る。
小田村が
「明倫館」に入学したのは、16歳の時。
その後、19歳のときに養父が死去したために小田村家を継ぎ、
明倫館の司典という書籍を司る役に就き、儒学者の道を歩み始める。
嘉永元年、20歳時、城の警護役である城番に加えられ、
翌年、教授・助教授に次ぐ
「講師見習い役」に任じられる。
嘉永3年
(1850)3月、江戸藩邸勤務を命じられ、
あさかごんさい
儒学者の
佐藤一斎や
安積艮斉の塾に入っている。
無限大の風へ懸命に生きる 都倉求芽
小田村伊之助が
寿と結婚したのは嘉永6年、江戸遊学を終えて帰国し、
明倫館の講師見習いに返り咲いたときである。
それは、
松陰が脱藩の罪で士籍を剥奪され、
はぐくみ
身分は父・
百合乃助の
「育み」の下で、暮らすことになったものの、
彼の才能を惜しんだ藩主・敬親ら遊学を許されたときのこと。
寿の結婚を知らせる手紙を受け取った松陰は、
とても喜び、次のような返事を書いている。
※ (「育み」=長州藩独特の制度で再教育の機会を与えること)
白ですね昨日と違う白ですね 河村啓子
「久しぶりに故郷の便りを聞いて、繰り返して何度も読みました」
そして
「妹の寿が小田村氏へ嫁いだそうで、喜ばしいのはこのことで、
お喜び申し上げます。
小田村の3兄弟は皆読書家で、このことでも私の喜ぶところです」
とはいえ、小田村は藩の役人としての仕事が、煩雑で忙しく、
家庭に落ち着くことは、ままならなかった。
修正は不可能な気がします 安土理恵
萩に戻った 嘉永6年
(1853)に再び明倫館に入るが、
すぐに文武稽古所
「有備館」の稽古係を命じられ、江戸に戻っている。
さらに安政2年
(1855)には再び、萩で明倫館講師見習いに復帰し、
翌年、今度は警備のために相模国三浦郡の陣屋に派遣され、
その任が終わると、明倫館が待っているという具合に、
江戸と萩を頻繁に往来していた。
それだけ小田村が、藩に重用されていたことの証しでもある。
当時、松陰は杉家に蟄居中、多くの弟子が集まっていたが、
小田村は藩務に追われ、
「松下村塾」には顔を出す間もなかった。
行きつ戻りつひと筆書きの人生さ 田口和代.
また、この嘉永6年、
ペリーが浦賀に来航した年でもあった。
こうした世情は世情として、
人々の生活に大きな変化が起きるはずもなく、
小田村夫婦の間には、翌年、長男・
篤太郎、
4年後の安政5年には、次男・
久米次郎が生まれている。
2人が結婚したとき、文はまだ10歳。
はるか年上の小田村が、のちに自分の夫になるなどとは思いもせず、
ただただ、敬愛する姉の結婚を眩しい思いで見ていた。
ただ、一見、穏やかな生活が続いた小田村家だったが、年下ながら、
義兄となった松陰の言動に振り回される伊之助であった。
水平線はおぼろ宇宙は鼻の先 佐藤正昭
江戸滞在時の小田村の日記に、
学問仲間の
中村百合蔵と松陰と3人で、藩主に講義したことや、
松陰が浦賀まで出かけたこと、
あるいは書物を読んで議論したことなど、多岐にわたって記述し、
交友関係が深まっていったことを伝えている。
こうして2人は親しく付き合っているが、
性格はかなりの違いがある。
損得抜きで行動をしてしまう激情型・松陰が、
通行手形の発行を待たずに、東北地方へ出発、
脱藩とされてしまったことがある。
半分は蜜 半分は毒 狂う 森田律子
そのときの小田村の日記には、
「吉田大次郎が、昨日脱藩したと言ってきた。
すぐに桜田藩邸へ行き来原良蔵、小川七兵衛に会って事情を尋ねた」
小田村は松陰の後先を考えない行動に、驚き慌てた。
そして松陰の脱藩を責め、すぐに帰ってくるよう忠告した。
その手紙に対する松陰の返事は、
「自分の気持ちを知っているはずなのに、責められるとは思わなかった」
そして
「何もしないままで帰ることなどできない、
もし、どうしても帰れというのであれば、
自分で首をはねて胸を刺し、自害して罪を償う」
という激しいものだった。
繰り返す脱皮に鋼鉄の皮膜 日下部敦世
小田村が松陰に関わった問題として、二例あげれば、
安政元年
(1854)、松陰が下田でアメリカへ密航を企てて失敗、
江戸の伝馬町獄に収容されたとき、寛大な処分を藩に働きかけ、
むくなし
その一方で、松陰を嫌う
椋梨藤太の派閥にあえて属し、
藩主・
毛利敬親に日米修好通商条約反対を進言するなど、
松陰の志を支えた。
又、小田村は獄中の松陰の安否を気遣い、
金銭や筆記用具を差し入れている。
後、伝馬町獄から野山獄の移された松陰は、安政2年、
その年に死去した
村田清風伝を書いてほしいと依頼をかけている。
しかし、小田村は忙しいうえに資料も不足していることから、
周りに相談の後、責任が果たせない旨の手紙を書いている。
シビレエイあんたの胸の超音波 井上一筒[6回]