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川柳的逍遥 人の世の一家言
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前線通過泣く恐る嗤う  本多洋子


  長井雅楽

「長井雅楽」

名門の家に生まれ、長州藩の藩校・明倫館で学んだ長井雅楽は、

藩主・毛利敬親の側につき、「奥番頭」となって

敬親から厚い信頼を受けるようになる。

安政5年(1858)には藩政監視役である「直目付」に就任して、

順調に昇進していった。

雅楽は「開国論者」だった。

窓を開けば梅干の種が丁  井上一筒

文久元年(1861)「航海遠略策」を敬親に建白して藩論となった。

これは、

「わが国は積極的に開国した上で、

   公武一和をもって交易を推進し、軍艦を製造して国力を上げ、

   欧米列強に並ぶ実力を備えてから、大陸へ進出すべし」

という内容だった。

この航海遠略策は、朝廷や幕府においても歓迎され、

雅楽は敬親とともに、江戸で老中と会見すると、

同策を建白して公武の周旋を依頼され、

長州藩は世間の評判を高めた。

窓一つ開き景色がひきしまる  嶋沢喜八郎

おもしろくないのは、藩内の尊王攘夷派である。

雅楽は「安政の大獄」を連座し、

江戸に檻送された松陰を見捨てた宿敵であり、

このため松陰の門下生で攘夷論者の久坂玄瑞前原一誠らに、

命を狙われることとなる。

雅楽は松陰を批判し過激派扱いさえしていた。

片や松陰は、雅楽は姑息な策を弄する奸臣と見なし、

憎悪していた。

バンカーも池もありますご用心  吉岡 民


   開国ー1    (画像を大きくしてご覧ください)

文久2年(1862)幕府で公武合体を進めていた老中・安藤信正

尊攘派の水戸浪士に襲撃された「坂下門の変」が起こると、

幕府権威の失墜は加速、長州藩内でも攘夷派の勢いが増していき、

雅楽の排斥運動は激しくなった。

やがて、玄瑞らの朝廷工作が功を奏し、

雅楽の「航海遠略策」が朝廷を軽んじる不敬な説として非難され、

代わりに、「朝主幕従を謳う薩摩藩の幕政改革」が用いられた。

坂下門外の変=坂下門外に於て安藤対馬守を水戸浪士が要撃した事件

悲しいね餃子の皮が破れると  岡谷 樹

長州藩は、航海遠略策を捨て、完全に尊皇攘夷へと藩論を転換し、

雅楽は敬親によって帰国謹慎を命じられる。

そして攘夷運動により謹慎していた間に久坂玄瑞は、
             かいらんじょうぎ
今後の藩の進路を『廻瀾条議』と題した意見書にまとめ、

藩主の敬親に上提した。

そこでは、長井雅楽を極刑に処すこと、

さらに松陰の「忠義の魂」を顕彰することで藩内刷新の契機にせよ

と説いている。

長州藩を急進的な攘夷論で一本化するにあたり、

「殉教者」とも言うべき松陰をシンボルとして、

祭り上げようというのだ。

まもなく雅楽は免職され、文久3年(1863)、44歳のとき、

長州藩の責任をとる形で切腹させられた。

渡りたい橋はとっくに流されて  合田留美子


  周布政之助

「周布政之助」

周布政之助は天保の藩政改革に取り組んだ長州藩の家老・

村田清風の影響を受けた。

村田が改革の途中で病に倒れ、

同じく家老の坪井九右衛門が藩政に実権を握った後、

「政務座役筆頭」に昇進。

村田を継いで財政再建や軍政改革、殖産興業などの改革に尽力した。

また桂小五郎高杉晋作をはじめとした松陰の門下を中枢に登用。

ところが、藩財政の悪化により失脚する。

安政5年(1858)に藩政へと復帰した政之助は、

直目付・長井雅楽「航海遠略策」に一旦は同意したが、

玄瑞や小五郎らとともに藩是を「破約攘夷」に転換させ、

尊王による挙国一致を目指した。

ドアノブの不機嫌にあう静電気  岡田幸子

経緯をみると、文久元年(1861)6月14日雅楽が江戸に着き。

周布は、藩主の公武周旋、御剣奉献の朝命を奉り、

6月15日に萩を発ち7月21日江戸に着いている。

そして、その10日後の7月30日、周布は江戸藩邸で

長井及び桂小五郎ら、水戸藩士とともに国事を談じた。

当時の情勢を見ると、桂・高杉・久坂に意見の小異はあるが、

彼らは「鎖国攘夷」で固まっている。

※ 攘夷論は、開国論と対置される場合があるが,
   現実政策としての開国論と対立するのは、鎖国論である。

確と矜持トカゲの尻尾である限り  山口ろっぱ


    開国ー2

一方、雅楽は「開国遠略・公武合体論派」である。

周布はその中間にあって、萩では長井の意見に同意していたが、

江戸にいる間、周布は桂や、久坂としばしば意見交換した以後は、

徐々に反対側に傾いていく。

その時の周布の心境は、いかばかりのものであったか。

長州藩を傷つけず、長州藩の面目を全保つことに、

長井と桂や久坂らの間に立って苦慮したに違いない。

しかし、周布は久坂の熱誠に動かされた。

狙うほど的はそっぽを向きたがる  下谷憲子

長井の立場から言えば、周布は開国遠略の意を翻し、
はくしじゃっこう
薄志弱行だろう。

だが周布から見れば、政治は時とともに変わり行くものだ。

今、天下正義の士が、尊皇攘夷を標榜し、朝廷はまた鎖国の復旧を、

幕府に要望している際に、長州藩がひとり正義に反して、

開国遠略などを主張をするのは、その名を「公武合体」にかりて、

その実は、「佐幕」の手先となるとの世評を免れ難い。

のみならず長州藩有為の志士は、

いずれも雅楽を国家を誤る姦賊視し、

いざとなれば、直接行動をあえてしようとする気勢を示している。

この際は、たとえ一旦藩論が確定したといって、

これに執着するのは、

長州藩を不幸に陥れ、藩主を孤立させるものだ、と考えた。

しかし、その後の「金門の変」「第一次長州征伐」で事態の収拾に

奔走するうちに、反対派に藩の実権を奪われることになり、

その責任を感じて切腹した。享年41歳。

オットト人の小骨に躓いた  嶌清五郎

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予言からやっぱり 茶柱が立たぬ  山本昌乃


    留魂録

留魂録とは松陰が安政6年、処刑前に獄中で塾生のために著した遺書。

松陰・留魂」

安政5年(1858)6月19日、日米修好通商条約が調印された。

「尊皇攘夷」を掲げる松陰には到底納得できなかった。

朝廷の勅許も得ず、手前勝手に外交を執り行うなど、
    もと
忠節に悖るものであり、

また異国の要求を唯々諾々と受け入れた開国では、

攘夷などおぼつかない。

松陰は時局に焦った。
                      まなべあきかつ
そんな中で考えたのが幕府老中・間部詮勝の要撃計画であった。

果たし状運ぶ切手は前のめり  雨森茂喜

しかしこの計画は未遂に終わる。

松陰のこのような過激な行動を警戒した藩は、

ふたたび松陰を野山獄に投じた。

松陰の「一刻も早く事をなさなければ」という危機感は、

獄中にあって日に日に増していく。

塾生たちの「時勢静観」の声や親族の叱責など、

耳に入らない松陰は、獄中からなお、
                        くっき
様々な策を練り上げては塾生らに、「崛起」を呼びかけていく。

メビウスの環になってゆくテロリスト 真鍋心平太


松陰はこの小伝馬町牢獄の西奥揚屋に囚われる。

そして、安政6年4月20日、

幕府はいよいよ江戸長州藩邸に松陰の差し出しを命じた。

すぐさま国元へ報せが走り、

5月14日、兄・梅太郎から松陰のもとへ報せられた。

10日後、護送。

夜来の雨の中、護衛の人数30名という物々しさだった。

松陰の江戸到着は、6月25日、

取調べを担当したのは大目付、勘定奉行、町奉行の3名である。

この折、確認したかったのは、梅田雲浜と共謀したかどうかであり、

かつまた、御所へ落し文したかどうかという、

いわば些細なことだった。

這い出した男はセロファンで包む  山口ろっぱ

松陰はこれに理路整然と答える。

しかし、奉行たちの詰問が終わると、

喋らずともよいことまでを語りかけた。

今現在、日本が直面している危機に対して、

幕府はどうあるべきなのか。

そもそも幕府はどう考えているのか…。
              うら
松陰の口から、胸の裡にあった言葉が次々と溢れ出していく。

一陣の風がたたらを踏んでいる  嶋沢喜八郎
  


「至誠にして動かざる者、未だ之有らざるなり」

その思いから、松陰は一心不乱に自説を語りかけた。
                                    とうとう
あたかも幕府の重職たちを説諭してくれんとばかりに滔々と述べた。

「間部詮勝要撃計画」という充分死罪に値する企てを

吐露してしまったのは、この時だった。

結果、松陰はすぐさま捕縛され、

小伝馬町牢獄の西奥揚屋に押し込められた。

予報に逆らって雨中を駈ける天邪鬼  木村良三

高杉晋作から、小伝馬町牢獄の松陰に、一通の手紙が届けられた。
                    いかん
「男子たる者の死すべき所や如何」

晋作の悩みが記されていた。

これに対し松陰は、
                    にく                        
【死は好むべきにも非ず、亦悪むべきにも非ず、
               すなわち
   道尽き心安んずる、便ち是れ死所】

と答えた。

意味は、

「死はむやみに求めたり避けたりするものではない。

   人間として恥ずかしくない生き方をすれば、

   まどわされることなくいつでも死を受け入れることができる」

という。

散り際の美学をならう寒椿  渡辺信也

もはや松陰は、己の死を恐れてはいなかった。

処刑される直前、血の気の失われた顔を、

一瞬、引き攣らせたのは、

自分の死を知る家族のことを思ったのかもしれない。

しかし松陰はすぐに従容として処刑の場に臨み、

ご苦労様」と会釈して、端座(正座)した。

その一糸乱れざる堂々たる態度には、

幕吏たちも感嘆しきりであったという。

分度器をはみだしてからの眼光  河村啓子

松陰が30歳の時、晋作に次のような手紙も送っている。

                    こらいまれ
【人間僅か五十年、人生七十古来希、

    何か腹のいえる様な事を遣って死なねば成仏は出来ぬぞ】

意味は、

「人間の命は僅か五十年といわれている。

   人生七十年生きる人は昔からまれである。

   何か人間としてしっかり生きた証を残さなくては、

   満足して死ぬことはできない」

そして、享年30歳という若さで松陰は散っていく。

歩いては戻れないほど遠ざかる  八上桐子

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独房に弁才天の膝まくら  井上一筒
  

   千 代

「杉家長女・千代と松陰」

松陰の妹・千代は天保3年(1832)年に誕生。

長州藩士・児玉祐之(初之進)の妻。 後、名を「芳」と改める。

松陰の妹たちの中で最年長者という自覚から

妹たちの代表となって、よく兄の教訓に応へたという。

また千代は、松陰とは年歳の差が2つで齢も近いということもあり、

妹中でもっとも親しい仲だった。

その為かたびたび松陰は、千代宛に手紙を書いている。

明日は晴れわたしの鼻が乾くから  吉田わたる

千代は、その思い出を次のように語っている。

『私は早く縁づきましたし、今の娘さんたちのように、

  どこに嫁いっても、

  いつでも構わず生家に往き来をするというような、

  そんな事は中々出来もせず、また自分でも好みませんから、

  生家に参るようなことは滅多にありませんので、

  兄はとても私を懐かしがってくれまして、

  時々便りをくれるときには、


  今度はいつ来るか、来られるときには前以って知らせてくれ、

  待っているからなどと申してまいりました』

絵の中にぽっかり月が出ましたら  蟹口和枝

千代の嫁ぎ先は、母の瀧子が結婚するにあたって、

杉家とのつりあいから養女となった児玉家であった。

舅となった太兵衛は、非常に厳しい人とされていたので、

松陰は、千代に嫁としての心得を諭した。

「あなたの家のおばさまもお亡くなりなったのだから、

   あなたもいろいろことに心がけていなくてはいけませんよ。

   ことにおじさまも年をとって、高齢でいらっしゃるので、

   とくに孝行を尽くしなさい」

その他、2人の子の母となった千代に母としての役割、

子どもへの教育の仕方など、折りあるごとに、

長い手紙を書いている。

絵日記のかあさんの眼が凄すぎる  河村啓子

松陰刑死後、さらに3人の子に恵まれ、

二男三女の母となった千代には、義弟の久坂玄瑞の戦死、

もう1人の義弟・小田村伊之助の入牢など、

つらい出来事が続いたが、松陰の諭しを胸に立派に対応している。

明治9年当時、明治政府の方針に不満を持つ士族たちが、

「萩の乱」といわれる叛乱を起こしたときのことである。

叔父の文之進が、弟子がこの乱に参加していた責任をとり、

祖先の墓地で自決した時、千代はなんとその場に立会い、

一刀をとって介錯をしたともいわれている。

また夜になって荒れ模様の天候の中、

千代が1人であとの処理をもしたというエピソードが残る。

平静をよそおっている無表情  吉岡 民

その後、長男万吉に死なれるという悲しみも味わうが、

吉田家を相続した次男・庫三が住む東京の家の隣に家を持ち、

穏やかな晩年を過ごした。

亡くなったのは大正13年、93歳の長寿を保ち、

兄弟姉妹を見送ってのちの大往生であった。

まだ続くひと針抜きの地平線  山本早苗

「生前の松陰についてー松陰の人となりが伝わってくる、

   千代77歳の時のインタビュー記事」

 『兄・松陰は、好んで酒を飲むということはなく、

     煙草も吸わず、


     いたって謹直な人でした。

     松下村塾を主宰していたころのことです。

     ある日、門人のなかに煙管を吸う方がいたので、それを注意して、

     煙管をもっている者は、自分の前に出させ、

     松陰はそれを紙で結んでつなぎ、

     天井から吊るしていたことがあります』

無いほうがましだと思う薄情け  森 廣子

  『もとより酒は口にしなかったので、

   甘いもの、餅などを好むなどということはなかったのか、

  ということですが、私には、よくわかりません。

     特別に〝これが好物だった〟というものをあげてほしい、

     と言われても、思い浮かびません。

      兄は、いつも大食することを、自分で戒めていました。

      ですから、今の人たちのように、

       特別に「食後の運動」などを心がけなくても、

       胃を害したり、腸を痛めたりするようなことは、

       ありませんでした』

千代さんは

「70余年前の昔が偲ばれ、私も子供の時に帰るようです」

と言って、さも昔を懐かしむように話し出された。

満を持し触れてみました温くかった  田口和代

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ボクが乗ると揺れるノアの方舟  田口和代


絹本着色吉田松陰自賛肖像 (画像は拡大してご覧下さい)

幕府から杉家に、松陰を小伝馬町牢屋送りにするという

無情な報らせが届いたのは安政6(1859)年5月、

その知らせは、その日のうちに

松陰の兄・梅太郎から野山獄に収監中の松陰に伝えられた。

そしてその日から毎日のように梅太郎は松陰を励ましに通った。

一方、千代・寿・文の3人の妹は、萩を出ていく兄に、

二度会えないかも知れないという不安な思いを抱きつつ、

「心得になることを授けてほしい」と頼んだ。

それに応えて松陰が作った和歌が、
ならい
" こゝろあれや人の母たる人たちよ  かゝらん事ハ武士の習そ "

「武士の母となる妹たちよ、私のように公のために身を尽くして

   命を落とすことは武士にとって当たり前のことなのだから、

   動じないよう、心していなさい」 と言うのである。

言葉尻揺れて別れの予感する  原 洋志

まもなく、小田村伊之助久坂玄瑞は、江戸に旅発つ前に松陰を
                        ふくがわさいのすけ
実家に帰らせたいと野山獄の獄史・福川犀之助に嘆願する。

松陰の弟子でも会った犀之助は、早速、藩の奉行にかけあい、

出立の前日に一晩だけという条件で、「実家一泊」の許しが下りた。

その実家での最後の夜を、長女の千代が後にこう語っている。

「母が兄に向かって

  『江戸に行っても、どうかもう一度無事な顔を見せてくれよ』

  と申しますと、兄はにっこりとほほ笑みまして、

 『お母さん、見せましょうとも、

   必ず息災な顔をお見せ申しますから、
安心してお待ちください』 

   と事もなげに答えておりました」


隙間には春の序曲を詰めておく  松宮きらり


松陰が最後に入った杉家の風呂

続いて千代の記述である。

「父は申すまでもなく、母も気丈な人でしたから、

   心には定めし不安もあったのでしょうが、

 涙一滴こぼしもせず、


   私共に致しましても、たとえどんな事があっても、

   こういう場合に涙をこぼすということは、

   武士の家に生まれた身として、

   この上もない恥ずかしい女々しいことと考えておりますから……」

松陰の最後の夜における家族の心境を伺いしることができる。

ありふれた午後にひと駅のりすごす  山本昌乃                    


   涙松の石碑

千代が塾生らから聞いた話として、次のような話も伝わる。

獄に戻った松陰がいよいよ萩を出発し、

誰もが国との別れを惜しみ涙流したという「涙松」の峠に

さしかかったとき、松陰もまた、しみじみと故郷を振り返った。

「兄もそこまで参りますと、

  『かへらじと思ひ定めし旅なれば 一しほぬるる涙松かな』

  と詠んだというのです」

松陰が死を覚悟し、それでも実家では母を思い、

振る舞っていた姿が浮かんでくると松陰の心境をが述べている。

塩瀬の帯結んだり解いたり  森田律子


 松陰絶筆

その日松陰は、最も信頼する友であり、寿の夫である伊之助

『至誠にして動かざるは未(いま)だ之有らざるなり』

「自分は、この孟子の言葉を実践しに江戸へ行く。

   ただ幕府の取り調べを受けるのではなく、

   最上の誠の心を尽くして自分の考えを主張し、

   幕府を動かすのだ」

 と決意を述べている。

最上の誠の心を尽くせば、相手を動かすことができる、

そう信じたいと伊之助に伝えた松陰。

困難に何度直面しても、その考えを貫くことが出来たのは、

家族の至誠に一貫して、支えられ続けていたからかもしれない。

雨粒の音はあなたの鼻濁音  雨森茂喜


江戸に送られる松陰との別れの日

左から入江杉蔵、吉田栄太郎、松浦松洞、文、滝、富永有隣、松陰

「松浦亀太郎」

亀太郎は天保8年(1837)、長州藩内で魚屋を営む家に生まれ、

藩士・根来主馬に仕える。
                  むきゅう
号は松洞。名は温古(後・無窮)亀太郎は通称である。
                             はざませいがい
幼少期から絵を描くのが好きで、四条派の羽様西涯に師事。
                       かいせん
絵画を志して京都に赴くと、小田海僊から学んだ。

そして吉田松陰の肖像画を残した画伯となる。

商人の息子ながら政治や世界情勢に感心が高く、

20歳の時、松下村塾に入門。

当時の画家は「漢詩」を勉強する必要があった為に、

松下村塾に学んだが、亀太郎は画家になるよりも、

「尊王攘夷運動」にも参加する志士となった。

五言絶句は歯間ブラシも通さない  上嶋幸雀


奥の町人風が亀太郎

安政5年(1858)江戸に出ると儒学者・吉野金陵の塾で学び、

江戸の情勢を松陰に報告もしている。

9月になると幕吏に従いアメリカへの渡航を試みたが、

叶わず翌年2月に帰国。

安政6年の「安政の大獄」により、

松陰の江戸護送が決定すると、

小田村伊之助の勧めで、松陰の肖像画を描いた。

松陰は複数あった肖像画に、

賛文を書き入れて江戸へ向かったという。

松陰は亀太郎を、

「才能があって気概もあり、普通とは違う優れた男子だ」

と褒め言葉を残している。

背もたれがときどき欲しくなる此の世  桑原伸吉


絹本着色吉田松陰自賛肖像

久坂玄瑞が高杉晋作に充てた手紙では

「僕は獄におられる先生をのぞき見た。

   からだは痩せて棘々しく、髪が乱れて顔を覆っていた」 

と心配している。

しかし、亀太郎が描いた吉田松陰の肖像画は、

やつれておらず、師への尊敬の念が見受けられる。

このように制作された「吉田松陰自賛肖像」は、

形見として門下生や松陰の家族の元に届けられた。

文久2年(1862)亀太郎は、久坂玄瑞・前原一誠らと上洛し、

公武合体・開国派であった長州藩士・長井雅楽を暗殺計画に参加。

しかし、ある人から翻意を促され、京都粟田山にて切腹して果てる。

同年4月13日、松下村塾で最初の殉難となった。

享年26歳。

髭が動いたじいさまの肖像画  井上一筒 

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一升瓶並べて輪投げでもするか  新家完司


  参勤交代の図   (画像は拡大してご覧下さい)

長州藩の参勤交代による江戸入府を描いた浮世絵。
吉田松陰や高杉晋作も、この大名行列に従って江戸へ出ている。

「尊皇攘夷」

和親条約の締結から2年後の安政3年(1856)

改めて自由通商の交渉を行なうべく、

タウンゼント・ハリスが総領事として日本へ派遣されてきた。

幕府は正式な「開国」を拒否しようと、返答を先延ばすが、

ハリスは粘り強い交渉によって江戸城への登城、

新将軍・徳川13代・徳川家定との謁見にも成功。

そして安政5年、幕府は朝廷からの許しを待たずに、

「日米修好通商条約」を締結した。

共犯になるかも知れぬ耳を貸す  原 洋志               

これを皮切りに幕府は、同様の条約を英・仏・蘭・露とも結んでいく。

これに対し世論が爆発した。

「外国との戦争になっては日本の危機だ。開国はやむを得ない」

と賛同する声に対し、

「孝明天皇が攘夷を望んでいるのに、

   幕府は朝廷の許しもなく開国した」

と騒ぎ出したのは水戸藩・長州藩・薩摩藩を忠心とする

「尊皇攘夷派」の知識人であり、

それに影響を受けた若者たちであった。

これ以降、藩という枠組みに関係なく活動する若者らを指す

「志士」という存在が現れたのである。

春の熱出して罪状増えている  竹井紫乙   


二大字「尊攘」 (画像は拡大してご覧下さい)

水戸藩の藩校だった弘道館に残る書。
安政3年、水戸藩の9代藩主・徳川斉昭の命により、
水戸藩医で能書家として知られていた松延年が書いたもの。   

黒船来航以後。

「日本を外国の侵略から守れ」という思想は急激に高まっていた。

『尊王攘夷』 をスローガンに京都へ集結し、

開国派・佐幕派の者とみれば、「天誅」と叫んで、片っ端から、

斬り捨てるという過激な行動に出る者たちが現れるようになる。

尊王は「王を尊ぶ」

攘夷は「夷を打ち払う」という意味が込められている。

日本の「王」とは天皇のこと、「夷」とは外敵。

つまり外国人のことだ。

これに対し、幕府を補佐するという思想の「佐幕派」

開国すべきであるという「開国派」の思想と対立する形になった。

凹凸を約してからの不眠症  山本早苗

この思想の総本山は徳川御三家のひとつ、「水戸藩」だった。

水戸藩は江戸時代のはじめに家康の11男・徳川頼房によって

立藩した親藩である。

二代目藩主は「水戸黄門」として知られる徳川光圀で、

彼は儒学を発展させた「水戸学」を藩士たちに奨励した。

幕末において、幕政に大きく関わった徳川斉昭や、

その息子・徳川慶喜も影響を受けていた。

当の幕府内にも、佐幕ばかりとは限らず、

「尊皇攘夷」の思想を持つものが多く、

幕府存亡の危機を迎えるに当り、議論が沸騰していくことになる。

ミミズクの瞼の母は飛び去った  井上一筒

そもそも「尊王」というのは、幕末に突然生じた思想ではなく、

江戸前期から、幕府も公認の「武士の常識」だった。

幕府の将軍を任命するのは、天皇であり、

その存在を"尊い"と認めなければ、幕府にとっても都合が悪くなる。

また本居宣長平田篤胤らが確立した「国学」の普及も、

尊王思想の広がりを後押しした。

国学というのは、仏教や儒教が流入する前の、

[古来の日本人の考え方を明らかにしようとする学問] のこと。

特に豪農の間では、国学に傾倒して、

「記紀」「神道」の研究が盛んとなり、

その過程で天皇や朝廷という存在の重要性が認識されていった。

するめいか焙るとスルメ起き上がる  泉水冴子         

「攘夷」という言葉も儒学に由来する。
               いてき
周辺の野蛮な異民族(夷狄)が中国領内に侵入してきたなら、

迎え撃って追いはらうー。

この攘夷が、幕末の日本において、

「日本の独立を脅かす列強を打ち払う」

という考えに変換されたのである。

この言葉の流布にも、水戸藩が大きく関わっている。

地動説ボクは乗り物酔いをする  岡田陽一

きっかけは文政7年、水戸藩領・大津浜に英国人が上陸した事件。

これを目の当たりにした水戸藩の儒学者・会沢正志斎は、

強い衝撃を受け、

今まで別個の概念であった「尊王」と「攘夷」を併せた

「尊皇攘夷思想」を打ち出しはじめた。

異国の侵略から日本を守るため、幕府を筆頭に日本人は今こそ、

「由緒正しき天皇の下に結集して夷狄を追い払うべし」 

「天皇の国、神国である日本を異国人に汚されてはならない」

という民族意識を高める意味でも、重要な言葉であった。

虚をつかれ男拙い芸をする  上田 仁

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