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川柳的逍遥 人の世の一家言
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洗って洗って空は蒼に戻るべし  山口ろっぱ

 
       高杉晋作の憂国の楓 

大正時代に入ってから発見された「憂国の楓」の木には、
                    つ
「盡国家之秋在焉」(国家ニ盡<スノトキナリ)の文字が見られる。

これは、八月十八日の政変の直後に、高杉晋作が、 

“国家のために尽す時がきた”

という決死の思いを刻んだものである。

(湯田温泉の老舗ホテル「松田屋」に残る)

うつむいていると一生空はない  武智三成

「吉田松陰が高杉晋作を評した言葉」

【新知の暢夫(高杉晋作)、識見気魄、他人及ぶなし。

   但だ一、暢夫を得て之れに抗せしむるに非ずんば、

   必ず害を生ぜん。


   然れども両暢夫相抗すれば、必ず一暢夫の斃るる者あらん。

   是れ亦憂ふべきなり。

   此の間の苦心、吾れ桂(桂小五郎)と一言せしに、

   桂も之れを首肯せり。


   無逸(吉田利麿)の識見は暢夫に彷彿す。

   但だ、些かの才あり。

   是れ大いに其の気魄を害す。

   気魄一たび衰へば識見亦昏む、嘆ずべし嘆ずべし。

   諷するに老家の説を以てせば、或いは一開発あらんか。

   抑々面従腹誹せんか、亦未だ知るべからず】

切っ先は鋭いが芯は暖かい  森 廣子   



「松田屋ホテルの浴槽「維新の湯」

激動の幕末期、高杉晋作、木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通、
坂本龍馬、伊藤博文、大村益次郎、山県有朋、井上馨、三条実美らが
当宿に集い、夜 ごと密議を繰り広げたのち、湯田温泉に浸かって
疲れを 癒したといわれている。

「高杉晋作 憂国の楓」

幕府の長州征伐の方針の動きを受けて、長州藩内は激動した。

禁門の変の翌月には、前年に受けた砲撃の報復として、

異国船が、馬関に到来、猛攻を見せた末に、藩砲台を完全に制圧。

高杉晋作が主導した和議交渉と並行し、

藩内では、「俗論派」とも称される佐幕派勢力が台頭する。

彼らは、禁門の変の際に上京した国司信濃ら3家老を切腹させ、

さらに4名の参謀を処断、幕府への恭順姿勢を示した。

これに加えて、幕府軍は長州に対し、

藩内に滞留する三条実美ら5名の公家の身柄の移管と、

山口の藩城の棄却、

そして、藩主父子の謝罪状提出を条件に撤兵した。

流木に沖のことなど聴いている  中野六助

その後、藩内は尊皇倒幕を唱える「急進派」

幕府に従おうとする「恭順派」

対立で混乱を極め元治元年には、周布政之助の自刃、

井上聞多が恭順派の一派に急襲され、瀕死の重傷を負い、

「松田屋」に運び込まれるという事件も起こった。

さらに急進派の重鎮が政権から一掃され、こうして、

長州の藩論は、椋梨藤太を中心とする保守派一色となった。

とりあえず保護色になる輩達  伊藤志乃



藩政を牛耳った保守派は家老や参謀を処分するだけで収まらず、

急進派の幹部を次々に投獄していった。

小田村伊之助も投獄された一人である。

晋作は間一髪のところで捕縛から逃れ、

一時筑前へ身を潜めた。

しかし藩内における幕府恭順派の目に余る暴挙に、

怒りを覚えた高杉は、ほどなく帰藩し、

諸隊の幹部に決起を呼びかけた。

だが当初は騎兵隊総督・赤根武人による藩との融和策が、

進んでいることもあり、

諸隊幹部で決起に応じるものはいなかった。

ココロ地方に異常乾燥注意報   佐藤美はる

「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし、

                      生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」

それでも高杉は決起に関して、師・松陰の言葉を噛みしめ、

長府の功山寺にいた三条実美ら5人の公卿たちに決意表明をする。

その上で力士隊総督の伊藤俊輔の賛同を取り付け、

さらに遊撃隊総督・石川小五郎を説き伏せ、

わずか80人ほどの兵力であったが、

元治元年12月16日、挙兵した。

これは公卿たちに決意表明した場所から「功山寺挙兵」と呼ばれる。

雲は城に漂い無頼の日のかたち  墨作二郎

高杉らは、その日のうちに「下関新地会所」を襲撃、
           きがい    へいしん
さらに三田尻では帆船「癸亥」「丙辰」を奪取。

これに対し、藩政府は19日になって、急進派幹部7人を斬首し、

さらに追討隊を組織した。

これにより赤根による融和策は瓦解、

武装解除を通達された諸隊は、高杉らと合流することとなった。

下関新地会所=下関に設けられていた萩藩の出先機関で、
        高杉は食料や武器を調達するため、ここを襲撃した。

ひとつだけ倒れぬドミノございます  田口和代

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書きとめて発酵させているノート  美馬りゅうこ

(画像は拡大してご覧下さい)
   江戸流行菓子話
船橋屋織江著ー天保12年(1841)刊)

深川佐賀町の菓子の名店・船橋屋は文化初めの創業で、

練羊羹を売り物としていた。本書は その船橋屋の主人が、

店に伝わる菓子の製法を、素人の菓子好みの人々が作れるようにと

分量付きで記した。

『料理通』の菓子編といった趣があり、

同じく「江戸流行」 の角書きを持つ。

紛れもなく、初代の、いわゆる初心者用のレシピ本なのである。

間違いなく、本好きの杉家の人々、特にはこれを購入し、

読み漁ったに違いない。

後年、この菓子作りが高杉晋作の命を救うことにもなる。

切り取った空一枚の使いみち  山本早苗

内容は、次のようなものである。(1915年刊「雑藝業書」第2・活字版より)

『この本は、お菓子好きの素人の方のために書いたもの。

   商売でなく趣味でお菓子を作ってみたい方は、

   この本に書かれている製法通りに作ってみましょう。

   まずまずのお菓子が出来上がるはずです』

ページを繰っていくと最後に、

『利潤を離れて製する時は、珍しく至りて面白き品も出来るなり。

   宜しく工夫在して製して見給ふべし。

   また,商売でなく趣味としてつくれば、

   かえって面白い珍菓が出来るでしょう。

   さあ皆さん、それぞれ工夫してお菓子を作ってみましょう』

ある。

作り方は、ほぼ現在と同じ。

それにしても、売り物の秘伝を教えるとは、

菓子商・船橋屋織江氏は度量の広い人である。

黄金糖の角で磨いている言葉  河村啓子

「羊羹の歴史-①」

「羊羹」はもともと中国から伝来したもので、『庭訓往来』によると、

日本では室町時代の初期茶道の湯の菓子「点心」から出た間食だった。
            あつもの
間食で献肉を使って羹を出したのが、羊羹のような蒸しものであり、

羊の肝臓に似ていたことから「羊肝」といわれた。

が、菓子では字体が好ましくなく、字を改めて今の「羊羹」になった。

「点心」=定食の間の小食を意味する。

六月の右手は右のポケットに  嶋沢喜八郎


尾張・徳川家の御用達だった羊羹屋

ともかく初期の羊羹は、

小豆を小麦粉または葛粉と混ぜて作る「蒸し羊羹」であった。
                       ウイロウ
蒸し羊羹からは、「芋羊羹」「外郎」が派生している。

また、当時は砂糖が国産できなかったために大変貴重であり、

一般的な羊羹の味付けには、甘葛などが用いられることが多く、

砂糖を用いた羊羹は特に「砂糖羊羹」と称していた。

17世紀以後、琉球王国や奄美群島などで、

黒砂糖の生産が開始されて薩摩藩によって、

日本本土に持ち込まれると、

砂糖が用いられるのが一般的になり、

甘葛を用いる製法は廃れていき、

後に、大河ドラマで活躍する「煉羊羹」が考案された。

飛んだ日の空気を知っている翼  菱木 誠

「練り羊羹」が日本の歴史に登場するのは、慶長4年(1599)
                         てんぐさ
鶴屋(後の駿河屋)の五代目、善右衛門が天草・粗糖・小豆あんを

用いて炊き上げる「煉羊羹」を開発、その後も改良を重ね

万治元年(1658)に、完成品として市販されるに至る。

しかし、寒天を使用した練羊羹が一般に広く普及したのは、

江戸時代の中期からであって、

それまでは依然として「蒸し羊羹」が主流を占めていた。

その後、十八 世紀後半になり寒天で固める練羊羹が、

口当たり日持ちのよさで人気を集め、各地に広まった。

白というその一点の毅然かな  徳山泰子


   鶴屋八幡

「羊羹の歴史-②」

「練羊羹」は餡に寒天と砂糖を加えて、練りながら煮つめたもので、

材料の寒天の創製は万治年間(1658-61)といわれている。
 きゆうしょうらん
『嬉遊笑覧』1830)には練羊羹は寛政(1789-)の頃からとあり、
ほくえつせっぷ
『北越雪譜』(1842)にも、練羊羹は寛政の初めに江戸で作られて、

諸国に広まり、今は江戸から遠い小千谷(新潟県中越)にもあると記す。

江戸の練羊羹は、寛政の初め日本橋の喜太郎という者が作りはじめ、

文化年間(1810ー)には、

上菓子屋の鈴木越後金沢丹後でも練羊羹を売り出し、

文政年間(1818-)には、「江戸流行菓子話」の著者でもある、

深川佐賀町の船橋屋織江の練羊羹が評判になる。

よいニュースそっと耳うちいい笑顔  北山惠一

この船橋屋の主人が著した「近世菓子製法書」には、

練羊羹の作り方以外に、

羊羹がおいしく頂ける大きさまで、親切に書いてある。
        さお となふ
『練物類一棹と唱るは、長さ六寸(約20cm)に巾一寸(3.3cm)

   一船にて十二棹に切るなり。
                     つうげん
   製して流し入る箱を、菓子屋の通言に船という。

   今は練羊羹を製せざる所もなく、常の羊羹はあれども無きが如く、

   練を好み玉ふ様にはなりたり』

雨が降るいちご白書の五ページ目  清水すみれ

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重力が消えた凸面鏡の街  くんじろう


   
 俗論派         正義派

幕末、長州藩内は、改革派と保守派とに分かれており、
藩主・毛利敬親の下で2つの派閥が主導権を争っていた。
のちに改革派は「正義派」と称するようになり、
幕府に恭順しようとする保守派を「俗論派」と呼んで区別した。



「椋梨藤太 VS 周布政之助」

毛利敬親は、教育に関しては、非常に熱心な藩主であった。

22歳から26歳までの4年間、11歳の寅次郎(松陰)を城に招き、

「孟子」「孫子」の講義を受けたこともある。

このとき、寅次郎の授業に対し、次のようなことを述べている。

「儒者の講義はありきたりの言葉ばかりが多く眠気を催させるが、

    寅次郎の話を聞いていると、自然に膝を乗り出すようになる」

いわば藩主は、玄瑞や晋作と同じ村塾の門下生であったことになる。

ただ藩政に関しては、何にでも「そうせい」と答えて、

すべて家臣にまるなげする藩主と見られていた。

七転び八起き普通にくり返す  富山やよい

敬親の下、長州藩は幕末、周布政之助高杉晋作「正義派」

これに抵抗する椋梨藤太らの保守系・「俗論派」が対立していた。

敬親も、もちろん松陰門下として、常に松陰門下生を見守ってきた。

だから、心情的には正義党を支持しながら、

両者の対立に揺れることなく中立を標榜した。

ただ、「そうせい君」と揶揄されながら、

生涯に二度だけ、「そうせい」と言わなかったことがある。

せまいせまい箱から出たいかくし事  柴本ばっは

その一度が、第一次長州征伐で藩内が「恭順派と抗戦派」に分かれ、

意見がまとまらなかった時。

「我が藩は幕府に恭順する」と藩主自ら宣言をしている。

毛利には幕府に対し恨みがある、その恨みを勘ぐらせないためにも、

13代へと続く歴代の毛利の藩主には、幕府に従順である姿勢を

見せるための、裏の顔が必要であった。

敬親はもともと革新論者で口癖の「そうせい そうせい」

本当の本心を読ませないパフォーマンスなのである。

一般的見解と違い、藩主・敬親は実は名君だった。

(古い頭の持ち主・椋梨藤太と激情型の周布政之助の対立に、

 藩主・敬親の基本的な信条・本心を垣間見ることができる)

とりあえず目と鼻を描いてきた  蟹口和枝



「椋梨藤太」

椋梨藤太は藩の歴史を編纂する役所にいたが、

40代半ばを過ぎて藩政を担う要職に抜擢された。

保守派であった椋梨は、尊攘派の周布政之助と藩政の主導権を争い、

周布が支援する吉田松陰や松下村塾の塾生たちの活動を牽制した。  

しかし、懐柔に成功したと思っていた小田村伊之助が、

周布歩調を合わせて

椋梨のまとめた藩論への異を藩主・毛利敬親に唱えたことから、

椋梨は要職を追われ、隠居を命じられる。

薬から見ればきたない腹である  小池正博

しかし「8月18日の政変」続く「禁門の変」で長州藩が

幕府に圧せられると、第一征長後では幕府への恭順を訴え、

藩主の「恭順宣言」を得て、椋梨は藩政に復帰、

周布を失脚させ、奇兵隊はじめ諸隊へ「解散令」を出し、

益田親施・福原元僴・国司親相三家老を切腹させて、幕府へ謝罪。

そして政敵である周布を自害へと追い込み、

尊攘派の面々を大量に処刑していった。

人材を育成する明倫館の教えを踏みにじる椋梨に

藩主・敬親は顔を曇らせた。

どーだどーだと限りなく黒い唇  酒井かがり



この粛清に危機感を募らせた高杉晋作・伊藤俊輔らは、

元治元年(1864)12月、功山寺で決起、

諸隊を編成して下関から萩へと進撃し、

慶応元年(1865)1月の「絵堂の戦い」によって形勢は逆転、

潜伏していた桂小五郎が帰国して、長州の藩論を再び、

武備恭順・尊王・破約攘夷・倒幕路線に統一する。

高杉晋作がクーデターを成功させると、

敬親は政権交代を容認し、「薩長同盟」から「討幕」へ邁進する。

断面から昨日の風が吹いている  みつ木もも子

これによって椋梨は完全失脚、

同年2月に岩国藩主・吉川経健を頼って逃亡した。

椋梨は逃亡したものの、

海が荒れたため行き先を変更さざるを得なくなり

最終的には津和野藩領内で捕らえられた。

そして5月、息子の中井栄次郎らとともに萩の野山獄において処刑。

討幕派側の取調べの際に、

「私一人の罪ですので、私一人を罰するようにお願いします」

と懇願しており、斬首の形で死んだのは椋梨のみであった。

享年・61歳。

ただし、実際には同時期に中川宇右衛門も切腹させられているほか、

小倉五右衛門・岡本吉之進もその際に自決している。

おひとりさま一枚ですよ冥土行き  岡田幸子



「周布政之助」

周布政之助は長州藩の家老筋に生まれ、藩校・明倫館に学び、

祐筆・椋梨藤太の添役として抜擢され若くして政務役筆頭となる。

政之助は天保の藩政改革を行った家老の村田清風の影響を

受けており、この抜擢は、村田の政敵である坪井九右衛門派の

椋梨との連立政権、いわゆる抱き込みを意味していた。

酒好きが高じてたびたび舌禍による失敗を起こしたが、

その優秀さゆえに要職を担い続けた。

金の卵になりなさい勉強なさい  山口ろっぱ

その後、保守派の椋梨や開国派の長井雅楽と路線を異にし、

藩の中枢に居ながら在野の吉田松陰の声に耳を傾けた。

また外では、松陰が塾で正式に講義ができるように計らったり、

松陰没後は、彼の門下生を登用したり、

塾生らを江戸や京都に送ったりするなど、

松下村塾の志士たちの活動を支援した。

こうして幕府の政治に懐疑的であった周布に対し、

幕府恭順派の間に派閥争いが表面化していく。

安政の大獄後、椋梨との主導権を争いで周布は一時、

藩政の中枢から外される。

だって太陽の黒点なんだから  森田律子    



しかし政権を握った坪井派が、京都と長州の交易を推進したことが,

疑心暗鬼をうみ、サボタージュが発生して失敗したことで、

周布は再び藩政に復帰。

文久2年(1862)当時、藩論の主流となった長井雅楽の

「航海遠略策」に経済政策の責任者として同意したが、

久坂玄瑞ら松下村塾の藩士らと歩調を合わせ、

藩論統一のために攘夷を唱えた。

しかし、松下村塾の塾生の思想が過激さを増すにつれ、

その対処に追われるようになり、

禁門の変に際しても事態の収拾に奔走。

幕府による長州への出兵や、

列強4国の連合艦隊による長州砲撃を背景に

幕府恭順派が台頭すると、藩での実権を失っていく。

不器用な男手風を真に受ける  上田 仁

そして元治元年9月26日、

革新派の暴走を止められなかった責任を感じて、

周布は山口矢原の庄屋・吉富藤兵衛邸にて切腹した。

そのわずか3ヶ月後に、高杉晋作が功山寺で挙兵し、

大田絵堂の戦いを経て、長州の政権は再び革新派が握る。

藩論は周布が望んだ方向にすすんでいくことになるにも関わらず、

そこには周布の姿はなかった。

遺書には、

「道の近くに埋めてくれ。幕府が攻めてきたら、

   地下からにらんで止めてやる」

と書いてあったという。

享年42歳、この若さが惜しまれる。

消しゴムでそっとあなたを泣きながら  北原照子

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じっとしていたら名詞になっちゃった 竹内ゆみこ


     周布の偉勲を永久に伝える碑

周布政之助は、豪胆なひとであった。

土佐の山内容堂に暴言を吐いたエピソードも、

酒の上に乗せた本音であったと、長州の藩主も、

そして、私も理解する。

現にそのような切腹ものの罪を犯しながら、

謹慎処分だけで済んでいるのだから。

そんな豪胆な周布も幕末から明治にかけて、

多くの歴史上に名前を残した人の中では、名前を知る人は少ない。

彼は何を仕出かすかわからない長州の尊攘の志士たちの

活動を陰で支え、椋梨藤太以下、頭の固い保守派の壁になった。

明治維新という新しい夜明けを見ることが出来たのは、

彼がいたればこそなのかも知れない。

彼の残した偉業の一つが、幕府の定めた海外渡航の禁を犯してでも、

藩主・毛利敬親を説得し、長州の5傑を英国留学させたことである。

白紙からボート一隻あぶり出す  岩田多佳子


  長州五傑


上段左から、遠藤謹助、野村弥吉、伊藤俊輔、
下段左から、井上聞多、山尾庸三

「五傑の英国留学」

文久3年(1863)5月10日、馬関海峡を通過する外国船に対し、

単独で砲撃を開始した長州藩。

その一方で、5人の若者が英国への留学へと旅立つことになった。

その理由は、強大な国力を持っていると考えられていた清国でさえ、

アヘン戦争以来、西欧列強に蹂躙されていたことが挙げられる。

同藩は攘夷を成功させるには、

まず敵である西欧の文明技術を学ばねばならないと考え、

ヨーロッパへの留学生派遣を決めたのだ。

虹の見つめる彼方うみ洋洋  徳山泰子


 チェルスウィック号

しかし当時は幕府によって海外渡航が禁じられていたため、

「密航」という形を取ることになる。

これは大きな危険を伴う役目で、藩からその内命を受けたのは、
ようぞう
山尾庸三、野村弥吉、遠藤謹助、そしてわずか半年前には

英国公使館の焼き討ち事件に加わっていた

伊藤俊輔、井上聞多の5名であった。

5人は藩が馬関海峡で外国船への砲撃を開始した2日後の

5月12日、ガワー総領事の斡旋により、

ジャーディ・マセソン商会所有のチェルスウィック号に乗り

横浜を出航、まずは上海を目指した。

山桃とグミを搾って脱獄す  井上一筒

そこで彼らが目にしたのは、

アジア最大の西欧文明中心地として栄える町と、

100隻を越える外国軍艦や蒸気船が停泊している

港の光景であった。

「この圧倒的な国力の差は何だ。

   攘夷などという無謀なことを実行すると、日本は滅びてしまう」

5人の胸の内には、そんな思いが去来したであろう。

その後、すぐさま開国へと心が動いたことでも予測できる。

上海から先は2隻の船に分乗し、11月4日にロンドンに到着した。

見わたせば西洋タンポポばかりなり  福光二郎

一行を迎え入れたのは、ロンドン大学の一校で名門の(U・C・L)

『ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン』であった。

入学の手引きは、

アレクサンダー・ウイリアムソン教授が行なってくれた。

そこで彼らはウイリアムソン教授の分析化学の講義だけではなく、

さまざまな学問に触れたことで、

「攘夷の無意味さ」をさらに実感する。

計り売りしておりますよ今日の空気  北原照子

翌文久4年4月、ロンドン滞在中の5人のもとに、

「過激な攘夷行動を改めない長州藩に対して、

   列強4カ国が共同で攻撃を行なう準備が進められている」

という情報がもたらされた。

驚いた5人は相談の結果、伊藤と井上馨の2人が緊急帰国、

藩の上役を説得し、

列強との戦いが無謀であることを説くことにした。

とぼとぼを見守る細いほそい月  山本早苗


水戸の浪士に襲われた東禅寺事件
右はオルコット。


伊藤と井上は元治元年6月初旬、横浜に到着する。

駐日英国公使・ラザフォード・オールコックに面会し、

「自分たちが藩論を変えるために帰国するので戦闘を待って欲しい」

旨を伝えた。

公使はフランス、アメリカ、オランダの三ヶ国にも了承を取り付け、

書簡を手渡した。

ただし書簡への返答は、ふたりが帰国してから12日後まで、

という条件が付けられたのであった。

色あせた希望をいつも抱いている  嶋澤喜八郎

攘夷の急先鋒とされていた長州藩だが、
実際には将来的に開国することを視野に入れていた。
5人は新しい時代に対応できる人材として選ばれ、
マセソン商会所有の船で密航した。



伊藤博文(俊輔)

渡英から半年後には帰国することになるが、その後の活躍は目覚しい。
初代内閣総理大臣。

井上馨(聞多)
伊藤と同じく半年で帰国することになる。
しかし初代外務大臣を務めたことから「外交の父」と呼ばれる。

井上勝(野村弥吉)
山尾庸三とともに5年間留学。鉄道庁長官を務め「鉄道の父」と呼ばれる。
また小岩井農場も設立した。

山尾庸三
帰国後には工部少輔、工部卿などで工学関連の重職を任された。
さらに法制局の初代長官も務めている。

後日談書くとかすれるボールペン  合田瑠美子

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揺るぎなく在りたいレ点返り点  美馬りゅうこ


  山口御屋形門
明治から大正初期まで県庁の正面玄関だった。
(敷地内には、今も当時の堀や土塁、石垣の一部、旧山口藩庁門が残り、
  攘夷、討幕へと揺れた萩藩の動乱の幕末期を伝えている)

「山口から萩へ」

萩藩主・毛利敬親は湯田温泉への日帰り湯治と称して,

幕末の政情に処するため、藩庁を萩から山口に移し、

今の県庁のところに政治堂を建てたのが、文久3年(1863)4月。

その時、この建物近くに「露山堂」という茶室を設け、

茶事にこと寄せて身分に関係なく敬親は、この一室に有志を集めて、

討幕王政復古の大業について密議を凝らしたという。

実際の藩主の目指す政治は、ここで行なわれていたのである。

ずっと青い空ではいられない事情  笠原道子


    露山堂


その翌年の元治元年10月、藩政の中枢となる山口御屋形が竣工する。

山口御屋形(山口城)は、天守閣がそびえる前時代的な城ではなく、

北と西の2つの山を天然の要害とし、

堀や土塁をめぐらし、その中に築かれた一部は二階建てで、

大砲を据え敵に備えるため、

八角形に近い敷地の西洋式城郭として築かれた。

弱点をとても大切にしている  雨森茂喜


    山口城

しかし、萩藩は「8月18日の政変」で京都から追放され、

さらに翌元治元年には「禁門の変」で敗れ、

幕府から「征討令」が下り、そうした窮地の中で、

御屋形は10月に竣工したが、翌11月、

幕府は征討中止の条件のひとつとして、

竣工したばかりの御屋形の破却を命じてきた。

こうして藩主・敬親及び元徳父子、正室の都美姫・銀姫、

奥の女中たち、家臣らは山口から萩城へ退去することとなった。

(御屋形は慶応2年5月、最築される)

感動のフィナーレ辛子明太子  くんじろう           



「城替え」

奥の一日は、「総触れ」と呼ばれる朝の挨拶から始まる。

美和(文)は廊下の末席に座した。

都美姫銀姫が互いにぴりぴり牽制し合っている。

奥の女たちは、皆、その様子にハラハラしている。

藩主・敬親元徳も、そんな2人に少々手を焼いている。

美和の席から、おもしろくも悲しくもすべてが見通せた。

やがて敬親の朝の一言が始まった。

「互いによきところを敬い、力を合わせ奥を盛りたてよ。

   長州はこれより、いささか険しい道を辿ることになるゆえ」

サボテンとバラがすったもんだする  黒田忠昭

やがて美和は奥総取締り役・園山から呼び出され、

山口から萩への「城替え」の話を聞かされる。

200名もの女たちが、住まいを替えることになるのだ。

この数は萩の部屋には収まりきれない。

ゆえに女中たちの人員を削減をするというのである。

「暇乞いさせる女中たちの名簿をつくるように」

と園山は美和にその任を与えた。

美和は思うところがあってこの仕事を引き受けることにした。

まずは右筆の女中から、奥のすべての者の名前と

お役目が記されている帳面をもらう。

美和は勢い込んだが女中の誰もが、協力を拒んだ。

ギブアンドテイクですかいけにえですか 藤井孝作 

簡単な仕事ではない。

そこで奥に務めて50年になるお蔵番の国島に協力を求めた。

しかし国島は、

「奥で生きた者の歳月は、そこに暮らしたものにしか分からぬ

   奥で生きた誇りは誰にも誰にも手放せぬ」

と一蹴されるが、姉・寿の励ましもあり美和は諦めなかった。

「私は、これまでのすべてを捨て、ここに参ったのです。

   どんなに非情と責められようと、臆せず誇りを見極めて、

   お役目を果たしとうございます」

この強い美和の覚悟は、国島を動かした。

弱点は弱点のまま餅になる  和田洋子



美和は次の策として都美姫銀姫に、

納戸にある2人の道具を、出来る限り売りたいと申し出る。

女中たちが唖然とする中で、美和は熱弁をふるう。

「病の者、老いた者、萩へ移動するのが難儀な者たちに、

   すべて与え、相応の屋敷と人を 配して、山口に残す。

   手厚く遇された者たちは、生涯毛利家に尽くすだろう、

   毎日手入れをされるだけで使われていなかった品々も、

   日の下でまた大勢の者の目を楽しませるだろう。

   真心を尽くし、誠を貫けば必ずや人の心は動きます。

   お家の繁栄は至誠の先にあると、そう信じるものにございます」

滔々と述べた美和の熱弁に対し、意外にも銀姫が

積極的に女中削減と道具売却の件を許すと口を開いた。

そして都美姫もこれに追随するという。

こうして美和は役目を消化していく。

喜怒哀楽使い果たして点になる  古田祐子


    萩の城

やがて奥御殿の者たちが「萩城」に移ってきた。

そこには若く美しい女たちが、にこやかに控えている。

銀姫は瞠目して絶句した。

美和も同じだ。

女中に暇乞いをさせたのは、

なかなか世継ぎの出来ない銀姫の代わりとなる

側室を城に招きいれるためだったのだ。

美和は都美姫に理由を尋ねた。

「我らが何のために萩へ参ったと思う。

   この長州の危機を生き延びるためじゃ。

   表では、毛利家を残すために、

   藩主はじめ多くの家臣が身を削り働いている。

   われらも又同じ、お世継ぎを産み育て、毛利家を守らねばならぬ。

都美姫はきっぱりと美和に言い放った。

彼女が言うなら蜜柑は四角です  奥山晴生

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