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川柳的逍遥 人の世の一家言
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はーるよ来いはーやく来いとノックする 田口和代


    涙袖帖

玄瑞が生前文に宛てた手紙を集めたもの。
文は楫取素彦と再婚する際、これを持参することを条件としたという。

「長州藩・藩論の転換」

久坂玄瑞松陰の刑死後、

もはや幕府などたのむべきでなく、藩の枠組みを越えて、

連携することの大義を様々な書面で披歴している。

土佐の武市半平太への手紙では、

「大名や公家はもう頼りにならない。

    草莽の志士たちが立ち上がって、

    共に尊皇攘夷のために結ぶ他に道はない。

    大義実現のためならば、土佐藩や長州藩が無くなっても構わない」

と書いている。

明後日と今日の間の拝火教  井上一筒

文久2年(1862)玄瑞は藩の重臣・周布政之助などと協力し、

「破約攘夷(即今攘夷主義)という藩の新しい路線を確立した。

外国と結んでいる条約を即時に破棄し、

攘夷を結構すべきとの考えである。

毛利敬親は、「尊攘論にあらざれば耳を傾くる者なき形勢」

を悟り、家臣と会議の結果、7月、

長井の「航海遠略策」を破棄することに決し、

藩論は破約攘夷へと大きく転換した。

すなわち、「勅許なしで調印した条約を破棄し、攘夷を行う」

というもので、尊攘派の玄瑞の主張が通ったわけである。

夜は夜どおしサソリの話デビルの話  本多洋子


    品川宿
かっては桜の名所・品川宿も幕末には英仏公使館が建ち姿をかえる。
玄瑞・晋作らは品川宿の妓楼土蔵相模に集結し、
英国公使館焼き打ちを決行した。

この一環として、

玄瑞は長州のニューリーダーとして晋作らとともに、
       みたて
政治結社・御楯組を結成。

同年12月には、品川御殿山の「英国公使館焼き打ち」を行なう。

公使館焼き打ちの後、玄瑞は一時、水戸周辺に潜伏してから

中山道を信州松代に向い、蟄居が解けた佐久間象山に会った。

玄瑞は、松陰の師である象山を、

尊皇攘夷のため長州藩に招聘する任を帯びていたが、

結局それは果たせなかった。

落下傘みたいに血がにじむ  酒井かがり

帰国した玄瑞は藩命により、藩医から士分に取り立てられた。

髪の毛を伸ばして束髪にした玄瑞は、京都藩邸御用掛に任ぜられる。

玄瑞は再び、萩を離れ、

京都に出て公卿や他藩との応接を行なうことになった。
                  たかつかさすけひろ
そして関白になったばかりの鷹司輔熈の屋敷に定詰めとなる。

玄瑞に政治の表舞台での活躍の場が与えられたのだった。

半開きの着信音が呼んでいる  立蔵信子

文久3年の京都は尊皇攘夷運動の絶頂期を迎え、

肥後・長州・水戸・対馬・津和野藩などの尊攘派藩士が集結していた。

2月、玄瑞は長州藩同輩の寺島忠三郎らとともに、

鷹司関白に対して、攘夷の即日決定と
 げんろとうかい
「言路洞開」を建言書として差し出した。

結果、朝廷は幕府に命じて、

攘夷の期日を5月10日とすることになった。

 言路洞開=上層部が下層部の意見をくみ取り、
                      意志の疎通を図ることを意味している。
                               いわば、言論の自由への理解を示す言葉である。

時々は狼煙をあげて自己主張  永井玲子

4月になって、京都から長州に戻った玄瑞は、

攘夷実行の核となる「光明寺党」を結成した。

党首には朝廷の侍従・中山忠光を迎えたが、

実質的なリーダーはやはり玄瑞自身である。

このように激務に追われる中、

玄瑞は何通かの書状を杉家に送っている。

無論、多くは妻の文に宛てたものだ。

バーコード当てているのは僕の胸  八木侑子

「この度は萩に戻ることも出きないでおり、

   情けないことと思うでしょうが、

   これもお国の大事には引き替えられません」

玄瑞はそう書状に認めた。

夫婦の絆を思いつつも、国事の大切さへ決意・覚悟を語っている。

さらに五首の和歌を書き留めている。

”ふるさとの花さえ見ずに豊浦の にひさきもりと吾は来にけり”

(故郷でまつ恋しい妻の顔を見ないまま、

   馬関防衛のための防人としてここにやって来た)

【余談】 玄瑞は文に愛の手紙を送っているこの時期(文久2年)

  京都には付き合っていた芸妓がおり、

  秀次郎という男子も生まれている。

何も無い訳では無いが語らない  森 廣子

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臍の緒が鼠の餌になっていた  新家完司



    丙辰丸

「高杉晋作・上海へ」

文久元年(1861)晋作は藩保有の軍艦・『丙辰丸』に乗船する。

丙辰丸は、長州藩が「黒船来航」を受けて建造した

初の西洋式軍艦であり、

軍艦として特筆する性能はあまり持っていなかったが、

新生長州海軍の象徴的な船であった。

晋作はこれに乗り、「海軍修練」と称して各地へ出向。

翌文久2年4月16日に、長崎から大陸の海都・上海へと渡る。

水仙の第一球を蹴り上げた  岩根彰子



晋作は上海で2か月滞在し、

そこで目にした光景に彼は愕然としてしまう。

かつての大国・清国が「太平天国の乱」「アヘン戦争」

余波で衰退し、欧米列強によって植民地化されつつある

という厳しい現実だった。

「このままでは、日本は中国と同じ運命をたどってしまう」

と晋作は強い危機感を抱くとともに、

攘夷より開国への転換の必要性を思った。

一方、晋作が大陸へ渡航している間に、

長州藩では政変が起こっており、

桂小五郎伊藤俊輔ら尊皇攘夷思想に基づく「倒幕派」が台頭した。

同年、帰国した晋作も旧態依然とした幕府への強い危機感から、

この一連の倒幕運動に積極的に参加していく事になる。

(この上海で晋作は土産として、リボルバー拳銃を二丁購入している
 うち、一丁は坂本竜馬に贈られる)

てのひらに貧乏線が太く見え  古野つとむ


晋作が上海出航直前に叔父・長沼聡次郎へあてた書簡。

書簡は、渡航2週間前に長崎で書かれた。

攘夷派の中心人物だったにもかかわらず、

アジアにおける西洋の窓口だった上海へ赴くことへの心情を

率直に吐露している。

「藩主から大任を受けているのだから、自分を批判する

   風評や伝聞くらいのことでは動じることはない」

「風評がかなり多いが、列強の形勢は私であればこそ探索できる」

など、同志たちからの反発を感じながらも

使命感にあふれた言葉が並ぶ。

幕府の一員として、

外国へ行くことへの風当たりが強かったとされていたが、

本人の言葉でその事情が裏付けられたのは初めて。

梟が言うの嫌われたっていいじゃない 吉岡とみえ


読売新聞が報じる高杉渡航前の手紙

「外国人との接触は得ることが少なくない」


と叔父に伝え、長崎をたった晋作は、

上海で欧米列強による中国の半植民地化を目の当たりにし、

日本の将来への危機感を高めて7月に帰国。

以来、伊藤博文が「動けば雷電の如(ごと)く、発すれば風雨の如し」

と評した行動力を発揮する。
       うめたに
近現代史の梅渓昇・阪大名誉教授は、この手紙を

「生々しい言葉で本音が書かれた貴重な史料で、この史料から

   晋作が尊皇攘夷を振りかざすだけの並の志士より

   一歩抜き出た先見性のある人物であることが分かる」

と評している。

追伸にタバスコ開封に注意  小谷小雪

「晋作の名言」

『まず飛びだすことだ。思案はそれからでいい』


『どんな事でも周到に考えぬいた末に行動し、困らぬようにしておく』

『それでもなおかつ窮地におちた場所でも「こまった」とはいわない』

『困ったといった途端、人間は知恵も分別も出ないようになってしまう』

尖って生きても影は丸くなる  原 洋志



  アヘンに浸る民

【豆辞典】-「アヘン戦争」

18世紀、清との交易を進めるイギリスは、

大量の茶や絹、陶磁器などを清から輸入したが、

輸出品が少なく、大幅な貿易赤字を出していた。

そこで、すでに植民地としていたインドで生産されるアヘンを

輸出するようになる。

アヘンには強い常習性があるため、清ではアヘンの吸引者が急増。

国民の健康は蝕まれ、風紀も悪化して国力が低下した。

また、兵士にもアヘンが蔓延して、

地方で頻発し始めた反乱鎮圧に、苦慮するようにもなった。

からまった糸蒟蒻になじられる  野口 裕

さらに、清は輸入の決済に銀を使っていたため、

国内の銀の保有量が激減し、銀が高騰、貿易収支も赤字に転落した。

清は苦境を脱するため、

アヘン販売者は死罪という厳しい法律を作り、

イギリスとアメリカの貿易商が持ち込んだアヘンを没収して、

広州の海辺で焼却した。

これに怒ったイギリスは、艦隊を派遣して清を攻撃した。

1840年・「アヘン戦争」の始まりである。

圧倒的に戦力の優位なイギリス艦隊は清軍を殲滅し、

1842年、「南京条約」が結ばれて、

香港の割譲、広東や上海の開港などが定められた。

国民が怖さを知らぬ怖い国  ふじのひろし

アヘン戦争の顛末は日本にも伝えられ、

幕府や朝廷、諸藩に大きな衝撃を与えた。

幕府は異国船への対応姿勢を改め、

「異国船打払令」に代わって「薪水給与令」を出し、

外国船に燃料や水、食料の供給を認めることとした。

諸藩も欧米列強への備えを模索し始める。

脱皮して警戒心がつく鱗  竹内いそこ

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咲かせたのはどなた紫陽花はピンク  森田律子

(拡大してご覧下さい)
晋作が妻・雅子に送った手紙

この手紙には、
  

「高杉の両親も井上(雅子の実家)も大切にせよ」、

「武士の妻なのだから、気持ちを強く持って留守を良く守れ」

「曽我物語」や「いろは文庫」などを読んで、

   心を磨くことを心がけること」


「武士の妻は町人や百姓の妻とは違うのだから」

と「武士の妻」としての心得が綴られている。

「慶応2年4月5日付、愛人・おうのには」

「人に馬鹿にされないように」

「写真を送るので受け取るように」と綴り、

筆まめな晋作は、雅子以外、おうのにも同志たちにも、

数多くの手紙を送って、自らの思いを伝えた。

(雅子宛の手紙は漢字が多く、愛人・おうの宛の手紙は、

   平仮名が多く使われ晋作の細かな心遣いと優しさが垣間見える)

ほんのりと空気のように坐ってる  谷口 義


高杉雅子(政子)

「高杉晋作の妻・雅子)
 
雅子は、弘化2年(1845)長州藩・井上平右衛門の次女に生れた。

「萩城下一の美人」と謳われ、早くから縁談が殺到したといわれる。

そこで絞り込んだ三件の書状をクジにし、

雅子が選び取った一つの中に書かれていたのが、

高杉晋作の名前で、安政7年(1860)1月に祝言をあげた。

時に雅子16歳、晋作22歳。

頂点の笑顔競ってきた笑顔  籠島恵子

しかし、「三国一の花婿を引き当てた」と祝福された雅子の

晋作との結婚生活は、7年余りの短いものとなる。

夫の晋作が志半ばで結核に倒れ、

慶応3年(1867)4月13日29歳で亡くなってしまうからだ。

さらにいえば、晋作は国事に東奔西走し、

萩の家に長くいることがなく、

一緒に暮らしたのは、約1年半という短さであり、

舅らと離れて住んだのは、文久3年(1863)4月、

晋作が萩郊外に隠棲していた2ヶ月ほどであった。

ただ、翌年には後継ぎとなる長男・梅之進(東一)も誕生し、

雅子は武家の嫁の役目を一つ果たしたと思っただろう。

美しいため息になる非常口  赤松ますみ


   晋作の手紙

雅子は常に不在の夫と手紙のやりとりをした。

晋作からの手紙は、ほとんど武士の妻たる心構えに終始し、

雅子に教養を積むように求めていたが、

晋作は時に長文になる雅子の手紙が届くのを、

楽しみにしていたという。

晋作は優しい夫で、雅子は一度も叱られたことがなかったというが、

やがて、夫に愛妾・おうのがいることを知った雅子は、

慶応2年2月、義母と息子と一緒に、

夫が同棲中の下関へ一時引っ越すこともした。

試験管の中で弾んでいる命  古久保和子

晋作がおうのと出合ったのは、下関の茶屋。

そこでは、おうのは「糸」と名乗っていた。

晋作が24歳、おうの20歳のときであった。。

伊藤博文らは、おうのを見て、

「晋作ほどの人物がなんであんなボケっとした女と…」

と不思議がったという。

だが、晋作にとって、とても大人しく優しい性格で、

おうのの、このぽけっとした天然の部分に、

日ごろ荒みがちだった晋作は癒されていた。

しかし小倉戦争後肺結核になった晋作の体調は悪化すると、

おのうは晋作の恩人・野村望東尼の援助を得て、

ひたすら晋作の看病に努めた。

(望東尼は、晋作の正妻の雅子が訪れる日に、

 雅子とおうのの緩衝役を買って出た人でもある)

カンツォーネおとなの恋をしています 美馬りゅうこ
  

  晋作の三味線

酒を愛し、三味線を愛し、詩歌を愛した晋作が、

妻・雅子とおうのの初体面に修羅場を想定し残した漢詩がある。

妻児将到我閑居    
       (妻児まさにわが閑居に到らんとす)
妾婦胸間患余有    
       (妾婦胸間患い余りあり)
従是両花争開落    
       (これより両花開落を争う)
主人拱手莫如何    
       (主人手をこまねいて如何ともするなし)

「妻の雅子と息子が下関の自分の住まいにやってきた」
「我が愛人のおうのは、そのことに驚き、そして大いに胸を痛めている」
「美しい花である二人の女性はどちらが咲き落ちるかを競い合っている」
「こんな光景を見て、僕は手をこまねいて見ているしかなかった」

この後も雅子は、望東尼の仲裁も得ておうのと交友関係を持ち、

晋作の死後も交流を続けたという。

同じ男を愛した女同士で気の合うところがあったのだろう。

また、おうのは後、尼となって、死ぬまで晋作を弔い続けた。

言い訳を太らせ今日を生き延びる  前岡由美子


 晩年の雅子

維新後、亡き夫・晋作の名声が高まってくると、

雅子は一人息子の教育のため、

東京に出て粛々と暮らし、息子・東一を育てあげた。

大正2年、雅子は、外交官などを努めた息子を先に亡くす、

悲しみにも遭ったが、孫への血脈は受け継がれ、

大正11年1月9日、78歳で死去した。

"文見てもよまれぬ文字はおほけれど なおなつかしき君の面影"

これは雅子が37歳の時に詠んだ歌である。

このころには彼女を困らせた晋作との思い出も

愛おしいものとなっていたのに違いない。

どんな絵を描いても青空に負ける  橋倉久美子   

「余談です」

晋作の辞世の句。

「おもしろき こともなき世をおもしろく」 

と晋作が詠むと、続けて望東尼が

「すみなすものは 心なりけり」 

と下の句を続け、晋作の死を看取った。

原色のままでこの世を泳ぎ切る  嶋沢喜八郎

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地球儀で探す地球の非常口  ふじのひろし



「桜田門の変の謎」

安政7年3月3日、江戸城で桃の節句の儀式が催される。

朝5ツ半(午前9時)ごろ、 前夜から降り続く雪の中、

井伊家上屋敷の門が開き、井伊直弼の乗った駕籠を真ん中にして、

行列がしずしずと江戸城に向け歩みだした。

供廻りの徒士26人、足軽、草履取り、駕籠持ち合わせて60余人。

行列の先頭が桜田門近くにさしかかった時、

森五六郎が直訴状を持ち、制止する警固の徒士をふり払い、

大老に接近を図る、まもなく、

1発の鉄砲の音が鳴りひびいた。

それが合図のように18人の浪士たちが、

直弼の乗る駕籠をめがけ、襲撃をかけてきた。。

駕籠のまわりには、直弼の家来がいたが、

雪のため、刀を袋で包んでおり、すぐには刀が抜けない。

それでも家来たちは直弼を守るため必死に闘い、8人を倒した。

良心が揺れると鬼が目を覚ます  栃尾奏子

直弼は幼いころから、読み書き、道徳となる儒教、剣道、弓道、

乗馬などを彦根藩の学者から学び、

埋木舎に住んだ17歳から32歳のころには、

和歌や茶の湯、剣術など、文武両道にわたる修行をつんだ。

直弼は、一度やり始めたら、途中で止めたりすることがなく、

納得するまでやりとげる性格だった。

その結果、居合いで「新心新流」の免許皆伝を取得している。

そんな直弼が、襲撃犯にいとも簡単に殺害されたのは何故なのか?

また当日早朝には、

彦根藩邸に「直弼暗殺計画」を密告する投書があったという。

しかし、

直弼は供揃えを厳重にすることなく出発した。

何故なのか?

虫メガネ無ければ読めぬ注意書  小金澤貫一

歌舞伎役者の3代目・中村仲蔵は、出入りの商人から、

「桜田門外の変」の目撃談を聞き取り、詳細を日記に残していた。

それには、少人数で成功した理由や、

短時間で決着した理由、

また直弼がなぜ抵抗しなかったのかが疑問だ と書いている。

それによると、直弼が襲われたのは、屋敷から桜田門の移動中で、

桜田門からわずか六町(600m)ほどの場所での出来事だったとある。

事件時、カゴに乗っていた井伊直弼の座布団をみると、

「刀で斬られたにしては、血痕はほんの少し」

という風聞も記されていた。

ゆっくりと雲間好奇心がのぞく  竹内いそこ


    発見された拳銃

桜田門外の変の一発の銃撃は、当時から噂になっていた。

当時は、潜んでいた襲撃犯への合図だと思われていたが、

(最近の研究で)この銃撃が直弼に致命傷を負わせたのではないか

という考えが有力になっている。

発見された拳銃は、

なぜか黒船のペリーが日本にもたらした拳銃とまったく同型、

表面には美しい「桜の模様」が全面に彫られ、

純銀製グリップの贅沢な拳銃である。

そこで直弼を銃撃した鉄砲の本当の持ち主について話題になった。

同サイズ―銃のコピーを命じた人物が事件の黒幕なのだ。

薬きょうに鶏のミンチを百グラム  くんじろう

浮上したのは御三家のひとつ、水戸藩の徳川斉昭であった。

斉昭は大名の中でも最も早く「尊皇攘夷」を唱えた人物で、

色々な兵器を作っており、軍事教練もやっていた。

中には拳銃を制作している部門もあった。

こうした状況から斉昭なら、コピー銃が作ることは簡単。

また斉昭には、天皇家と吉野の桜に対する強い思いもあり、

桜の模様を銃に彫ったのではないかとされた。

反骨のペンは折らない曲がらない  中前棋人



事件直後。

直弼の遺体は藩の屋敷に運ばれ、

お抱えの医師・岡島玄達が検死した。

遺体には、太ももから腰に弾が貫通した跡があり、

駕籠の間近から発砲たれたものと報告された。

この状況から判断して、森五六郎が直訴状の下に銃を、

隠し持っており、発砲したものだろうと決定づけられた。

この銃撃を受けた直弼は、いかに剣術の達人だとはいえ、

動くことができず、反撃できなかったのだろうとされた。

真ん中を射抜かなければならぬ的  前田咲二

桜田門外の変の一年前にも、直弼を銃撃事件があった。

直弼は2度、銃撃されていたのである。

そのときの狙撃犯も森五六郎であった。

一回目の狙撃は失敗に終わっている。

この失敗を踏まえて、綿密に計画が練られた。

一年前の事件の襲撃グループが残した手紙によると

組織的に正確に襲撃を達成させるため、

各々の役割・配置をしっかりと決め、

その中で、

森五六郎が至近距離から直弼を狙うことが決まった とある。

足組んでひとつの案を産み落とす  青木公輔

変の当日、暗殺計画は筋書き通りに進み、直弼の暗殺に成功した。

浪士18人のうち、即死1人、重傷のため自刃4人、

自首・捕縛11人。

生存者は増子金八、海後蹉磯之助の2人。

襲撃犯は、水戸藩脱藩者17名と薩摩藩士1名。

内訳を見ても、

水戸斉昭が主犯であることは間違いないところだが、

捕まった者たちは、誰一人として黒幕の正体を明かさなかった。

森五六郎もまた、銃撃のことは決して語らずして処刑された。

窓際にぽつんとおいてある台詞  山本昌乃

   

水戸藩が直弼の暗殺に奔ったわけ。

日米修好通商条約は、日本側に不利な不平等条約であったが、

直弼は日本の行く末を考え、勅許を得ないまま、

強引に条約締結へと踏み切ったこと。

もう一つは将軍の跡継ぎ問題である。

時の将軍・家定に子がいなかったため、
                             よしとみ
直弼は、当時まだ13歳だった紀州徳川家の慶福(家茂)

14代将軍の座にすえた。

後継候補にもう一人、斉昭の嫡子・一橋慶喜もいたが、

直弼は慶福のほうが将軍家の血が濃いとして、

慶福を将軍職につけたのだった。

論点がずれてますえと渋いお茶  徳山泰子



これには、

血統を重んじて,徳川将軍家の権威を強化するという意図のほか、

自分の意のままになる若い将軍をすえ、

自身の権力を強めたいという、狙いがあった。

この直弼が行なった強権的な政治は、激しい反発を呼んだ。

とくに不満をつのらせたのが、水戸藩であった。

しかし、幕府の最高首脳が暗殺されたことで、

幕府の権威は大幅に失墜。

直弼襲撃の主力となった水戸藩の急進派は、

幕府打倒を目指していたわけではなかったが、

結果的には、幕藩体制を弱体化させる大きなきっかけを作った。

錆びついた貝殻節を聞かされる  井上一筒

           
  直弼画像

安政の大獄が一段落すると、直弼は自分の姿を絵師に描かせ、

先祖の墓がある清涼寺に収めた。

絵の上に書いた和歌は,その時の気持ちを詠っている。
 近 江
"あふみの海磯うつ浪のいく度か 御世に心をくだきぬるかな"

(来た道は怒涛であったが、やるべきことをやった何の悔いも残らない)

直弼が、暗殺計画の密告文に身を守る策を取らなかったのは、

すでに、己の運命を予期していたのである。

息吸うて死にたい息吐いて死にたい  井上恵津子

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生き霊と死霊の話聞き分ける  井上一筒


    留魂録        (拡大してご覧ください)

留魂録は、

「身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」

という辞世の句を巻頭にして始まる。

「松陰を偲ぶ」

松陰が世を去った今、故郷の萩にあって玄瑞たち弟子は、

師が何を伝えたかったのか、思いを巡らせることしかでかない。

玄瑞と晋作は、松陰が護送された日の足跡を辿るように、

いや、真実を探るように歩き続けた。

萩城下から松本川を渡り、大木戸を出、萩と三田尻を結ぶ往還を行き、

金谷天神を過ぎ、観音橋を目に留めた。

カナリヤも唄わぬシャッター街の雨  奥山晴生

 
  江戸へ帰らぬ旅                          (拡大してご覧ください)

橋の手前に老松が佇んでいる。

「涙松」と呼ばれる松で、護送の一行はこの根方で休息した。

その際、松陰はそぼ降る雨に打たれながら歌を詠んだという。

"帰らじと思いさだめし旅なれば ひとしほ濡るる涙松かな "

この地から城下が一望される。

一行の誰もが、松陰は故郷に戻れないと思っていた。

萩の見納めさせてやろうという、

憐れみからの小休止だったに違いない。

お魚のなみだか海のしょっぱさは  下谷憲子


 松陰絶筆

玄瑞「先生はやはり決死のお覚悟だったのだろうか」

と呟いたとき、妻のが駈けて来た。

和紙を一片、握りしめている。

どうしたのかと問えば、

文は『留魂録』にも『永訣書』にも見られぬ

「絶筆」が届けられたのですと涙ながらに答えた。

刑死の直前に詠んだものらしい。
                               こそ
"此れ程に思い定めし出で立ちは けふきく古曽 嬉しかりける"

あの世に旅立つ覚悟はとうにできていたし、

今日それを告げられたのは実に嬉しい、という意味になる。

毛筆のかすれに他意はありません  嶋沢喜八郎



これが先生だと、玄瑞はおもわず声をあげた。

「これが吉田松陰だ、

   命を賭してでもあくまで志を成し遂げようとした。

   大和魂をもった男子ではないか]

「首を刎ねられるその瞬間、先生は、

   誇りある死を体現されていたに違いない。

   その死こそが津々浦々に集う志士たちへの檄となるのが、

   わかっておられたからだ。

   先生は、己の死は希望へと繋がると確信し、

   受け入れられたのだ」

抱きしめる癌細胞ごと君を  居谷真理子



松陰は『留魂録』の中に、

【人間にもそれに相応しい春夏秋冬があると言えるだろう。

  十歳にして死ぬものには、その十歳の中に自ずから四季がある。

  二十歳には自ずから二十歳の四季が、

  三十歳には自ずから三十歳の四季が、

  五十、百歳にも自ずから四季がある。

  十歳をもって短いというのは、

  夏蝉を長生の霊木にしようと願うことだ。

  百歳をもって長いというのは、

  霊椿を蝉にしようとするような事で、

  いずれも天寿に達することにはならない。

  私は三十歳、四季はすでに備わっており、花を咲かせ、

  実をつけているはずである。

  それが単なる籾殻なのか、成熟した栗の実なのかは、

  私の知るところではない。

  もし同志の諸君の中に、私のささやかな真心を憐れみ、

  それを受け継いでやろうという人がいるなら、

  それはまかれた種子が絶えずに、穀物が年々実っていくのと同じで、

  収穫のあった年に恥じないことになるであろう。

  同志諸君よ、このことをよく考えて欲しい

と記している。

来るものが来た歳時j記と向き合って 森中恵美子



この身が果てても、この志は受け継がれると信じていたのだ。

眼を剥く晋作に対して、玄瑞は、

「草莽志士を糾合し義挙するほかに策などはない」

と嗤ってみせた。

晋作は、「なるほど。先生の唱えておられた草莽崛起か」

と嗤い返した。

草莽とは、

草木の蔭に潜む隠者。

すなわち在野にあって志を抱いている民衆のことだ。

この草莽をかき集めて攘夷を実行するしかない。

それよりほかに松陰の言い遺したものはないだろう。

「狂うか」

不適に嗤った晋作とともに、玄瑞は師の遺志を継いでへと奔ってゆく。
                          (秋月達郎・記)

旨いもんやはり最後は水だろう  岩佐ダン吉

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