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川柳的逍遥 人の世の一家言
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99,9% 努力する  田口和代


散兵戦術「前方展開」の図 〔長門練兵場蔵板 活版 散兵教練書〕

「騎兵隊-3」

幕府側の史料では、

長州兵イコール騎兵隊とする表現が見受けられる。

実際には騎兵隊が参戦していなくても、

長州勢を騎兵隊と表現しているのだ。

それほど騎兵隊の印象は強く、

長州を象徴する存在になっていたということだろう。

その後も、騎兵隊は慶応4年の「北越戊辰戦争」などで活躍し、

「明治維新」を成し遂げる原動力となる。

午睡から醒めれば竹の騒ぐ音  赤松ますみ

どうして騎兵隊は、抜き出た強さを発揮できたのか。

その強さの訳は、西洋式の「散兵戦術」を駆使したとこある。

散兵戦術とは、最初、密集していた軍隊が、

進むにつれて広く散開していく戦い方で、

広く兵士が散開するため、指揮官の命令が行き届かず、

兵士各自が充分に散兵戦術を習熟している必要がある。

『散兵教練書』は、そのための訓練に用いられた。

いわゆる各兵士、各部隊長は全体の戦術を理解したうえで、

個別の判断で動かなくてはならない。

合同訓練を相当重ねていないとうまくいかない戦術なのだ。

やるだけはやった夕日に満ち足りる  前 たもつ


   白石邸浜門 (すべての戦術の出発点)

「長州軍の散兵戦術」

第二次幕長戦争において、

長州軍は騎兵隊による「散兵戦術」を駆使した。

この戦術は兵士を密集させず、散開させて行うので、

少数の兵で多数の兵に立ち向かう場合に有効となる。

対戦した相手方の史料には、長州軍の戦い方について、

「山々峰々から立ち現れ、まるで猿のように動き回り、

なかなか砲撃が当たらない」 と書かれている。

目の上のタンコブとして生きてやる あまのとーな

騎兵隊では、兵の一人一人が戦術を理解する必要があったので、

「軍事訓練」だけでなく「教養教育」についても熱心だった。

自分で文書を起案したり、指揮命令を書けるように、

剣術や砲術だけでなく、孟子などの「古典教育」も行なっていた。

また、騎兵隊には「付属」という見習いのような制度があった。

入隊者はまず付属に入り、精励したものが本隊に昇格するという

督励システムがあり、怠けていては昇格できないし、

勉強が足りない者は、外出を差し止められるなどの罰則もあった。

高い家格出身の武士が、それに胡坐をかいて努力を怠り、

降格となった例などもある。

総じて、総員の出世意欲をかきたて、勉学にも軍事訓練にも、

積極的に取り組むことを後押しするシステムが、

騎兵隊にはあった。

努力して報われぬから明日がある  西川ひろし


 騎兵隊結成地石碑

騎兵隊では、散兵戦術のために必要な体力作りも行なわれていた。

そもそも武士は馬に乗って戦うのがステイタスだったため、

自ら 走り回るということを忌避していた。

しかし、散兵戦術は不可能だ。

騎兵隊では「健歩」と称して、

40、50キロもの長距離を、8時間も疾走する訓練があり、

さらにその直後に相撲の稽古もしている。

散兵戦術という優れた戦術は、こうした日ごろの地道な訓練、

基礎体力作りがあってこそ可能となったのだ。

努力した事忘れぬ豆の蔓  森 廣子        


   来島又兵衛肖像  (山口県立山口博物館蔵)

騎兵隊の創設は藩内各地の志士を刺激し、

のちに「諸隊」と称される隊が生まれた。

その数は160にも上ったともいわれる。

「遊撃隊」は文久3年10月、来島又兵衛を総督として結成された。

翌元冶元年7月の「禁門の変」に参戦したが、来島が戦死、

石川小五郎が引き継いだ。

文久3年には、「集義隊」(桜井慎平)「衝撃隊」(岡部富太郎)

「精鋭隊」(太田市之進)「八幡隊」(堀真五郎)が結成された。

過激派の群れがあるのはヒト科だけ  ふじのひろし

しかし元治元年9月、急進派の井上聞多の暗殺未遂などもあって、

藩論は保守派にまとまり、諸隊には解散命令が出された。

これに対し晋作は12月15日、騎兵隊を率いて下関で挙兵、

諸隊もこれに呼応して激戦の末、騎兵隊と諸隊が保守派に勝利した。

慶応元年3月、諸隊を整理統合し、正規軍として藩は公認した。

これにより諸隊には、俸給や武器弾薬が支給されることとなる。

翌慶応2年に幕府軍が来襲した「第二次幕長戦争」では、

諸隊は国境に配備されて幕府軍を迎え撃つこととなる。

踏ん切りがつかない斜めへと進む  竹内ゆみこ


    下関戦争 (ワーグマン絵)

「第二次幕長戦争」(四境戦争)

幕末の動乱期、長州藩は内外で戦いの連続であった。

文久3年(1863)、「攘夷実行」のため外国船を砲撃、

元治元年(1864)7月に「禁門の変」により朝敵となり、

8月には、英仏蘭米の四国連合艦隊による「馬関戦争」敗戦。

この敗戦で藩論は、幕府への恭順に傾き、

「第一次幕長征伐」では三家老の切腹などにより恭順の意を示し、

戦闘に至らず終結する。

石になるコースと人になるコース  杉山太郎

この後、高杉晋作の決起による諸隊と藩政府軍との内戦を経て、

藩論は「武備恭順」へと一転され、

軍事組織の整備、大村益次郎を最高責任者とした西洋軍制の導入、

武器の購入などを行っていく。

そして慶応2年(1866)6月「第二次長州征伐」が始まる。

この戦いは長州藩を取り囲む四つの境で行われたため、

長州では「四境戦争」と呼ぶ。

この戦いに幕府は敗退し、権威を失墜、権力解体へと政局は動いていく。

武備恭順=幕府に対して恭順ではあるが、攻撃を受けたときは武力で戦う
四境とは=芸州口、大島口、石州口、小倉口

血流は酸っぱく明日の不透明  山口ろっぱ

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ビーナスの鼻はめがねを掛けにくい  井上一筒


 高杉晋作

高杉晋作は、小柄で本人もそれを気にしていたため、
立って写っている写真はない。
しかし小柄ではあったが、何故か長刀を好んで愛用していた。
そのため歩く姿は、刀を引きずって見えたという。

「騎兵隊ー2」

高杉晋作は、「騎兵隊創設」にあたり、次のように述べている。

「兵には正と奇とがあり、戦には虚と実とがある。

 正兵は正々堂々として敵に対し、実をもって実にあたればよい。

 藩の部隊がまさに、正兵であろう。

 しかるに寡兵(小兵)をもって敵の大兵の虚を衝き、

    神出鬼没の兵があってもよい。

  私が創設する部隊は、常に奇道をもって相手を悩まし、

  勝利を制するのが目的である。

  よって、この部隊を”奇兵隊”と名付ける」 と。

泡立ちのよすぎる男ちょっとシャイ  雨森茂喜


 高杉晋作・産湯の井戸

しかし、長州藩の正兵はすでにある。

晋作は、義や徳を重んじる男でもある。

藩主にお伺いを立てなければならない。

「そうせい公」の異名をもつ、長州藩主・毛利敬親に、

申し立てたところ、

「緊急時だから、そうせい」 と快諾が下りたのである。

高杉のこうした考えに、反感をもつ長州藩士も多かった。

追いかけられる、命を狙われるで、

地元・萩で「奇兵隊」を創設するわけには行かない。

午睡から覚めてらくだの顔になる  藤井寿代

奇兵隊は、農民・僧侶、下級武士、商人の寄せ集め部隊だった。  

そんなわけで、晋作により、馬関で結成された「騎兵隊」は、

和洋折衷の軍服で、隊士の意識と機動力とを高めるとともに、

理解しやすい隊則で組織をまとめた。  

例えば、

「農道で牛や馬に出会えば、奇兵隊士は道を譲って、

   通り抜けるのを待て」

とか、「農家に押し入って動物とか物品を奪ってはいけない」 

など、隊則は理解しやすい内容をもって、

組織の集中力を強化することに、成功した。

月面にロングシュートを決めてみる  畑 照代


騎兵隊の結成地となった白石正一郎邸跡

「騎兵隊誕生は松陰の発想から」

長州藩は幕末の対外的危機を迎えたときに、

三方を海に囲まれていたため、

その危機を他藩よりも深刻に受け止めた。

そして長州の志士は、

アヘン戦争などにみる西欧列強の実力を正確に理解し、

植民地化を避けるためには、何が必要かを真剣に検討していた。

その代表的な人物が、松陰であった。

松陰は開国を迫る西欧列強に対し、ただ戦いを避けたいがために
 いいだくだく
「唯々諾々と従うのは、かえって植民地化を招く」

と指摘し、一方で、西欧に対抗するためには、

「西欧近代文明に学ばなければならない」と主張。
                                     ふきどくりつ
松陰がよく使う言葉に、束縛のない独立を意味する「不羈独立」

があるが、

「長州も、そして日本も、独立を守らなければならない」

という思想が松陰の根底にあった。

梟もニャンと鳴きたい時がある  倉 周三



騎兵隊の創設者は、高杉晋作だが、

その師である松陰の『愚論』には、

騎兵隊の基本構想につながる発想がすでに表れている。

松陰は、封建的な身分制軍隊は、石高に応じて兵を集めるという

「数合わせ」にすぎないので、決して強くないと見破り、
    つかまつ
「一戦仕るべしと願出で候もの」 つまり

「有志を登用しなければならない」と喝破している。

有志にさまざまな役割を与えて評価してやれば、

強力な軍隊が作れる。

そしてその費用は、家柄だけで高禄を貪る者に出させばいいと、

松陰は断じている。

中七に八分休符が利いている  井丸昌紀

また松陰の著した『西洋歩兵論』には、

「足軽以下、農民に至るまで、

   しっかりと演習させれば、いずれ精兵となるであろう」 

と記されていて、

身分を超え、庶民を西洋歩兵とするという発想を

松陰が持っていたことを端的に示している。

日本的、復古的といったイメージが強い松陰だが、

実際には西洋に学び、西洋的軍隊を作らなければならないという

開明的な思想の持ち主だったことが分かる。

その薫陶を受けた晋作が、騎兵隊を創設するのは、

自然な流れだった。

羞恥心なくせば一気にスターダム  ふじのひろし

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つまずけば人間だもので済まず  藤本秋声

 (各画像は拡大してご覧下さい)
 左から二人目武廣遜

「騎兵隊ー1」

文久3年(1863)3月、14代将軍・徳川家茂と、

その後見役の一橋慶喜は朝廷や長州藩などの執拗な要求に押され、

5月10日をもって、攘夷を決行することを約束する。

しかし、実際に攘夷を行動で示したのは長州ただ一藩だけであった。

この日、馬関を通過しようとしていたアメリカ船に向かい、

長州の砲台が火を噴いた。

さらに続いてフランス、オランダの船にも砲撃を加えたのである。

しかしアメリカ、フランスから報復攻撃を受け、

軍艦や砲台を破壊されてしまう。

悔しいがここは脱帽他日期す  森清泰範


四国艦隊によって占拠された長州藩の砲台。

砲台の脇に立っている人物は軍服を着用していないので、
外交官や通訳といった役割のひとと思われる。

外国の圧倒的な軍事力を身を以って知らされた長州藩は、

萩で隠棲していた高杉晋作に下関の防備を一任する。

そこで晋作は、

6月6日、下関に赴き地元の商人・白石正一郎の居宅で、

外国の攻撃の際に、逃げ惑うばかりだった武士に、

藩の守りを任せることをやめ、身分を問わず、

藩を守る気概に満ちた人材を集めることにした。

こうして町人や農民も参加していた「騎兵隊」を結成。

翌7日に藩庁政府に騎兵隊の綱領を提出し、

27日には騎兵隊の総督を任されている。

骨のあるクラゲ突然出家する  上田 仁


   騎兵隊石碑

騎兵隊の母体となったのは、

久坂玄瑞が下関の光明寺で結成した「光明寺党」で、

最初に入隊したのは、15人と『騎兵隊日記』には記されている。

有志、すなわち志ある者は、身分にかかわらず参加を認めた。

長州藩では正規武士とは一線を画す「長州諸隊」という、

近代型の軍隊であった。

晋作は実際には、わずか2ヶ月ほどしか総督の座におらず、

以後、河上弥市、滝弥太郎、赤禰武人などが総督となり、

その後は名目だけの総督が立てられたりもしたが、

元冶元年(1864)以降は、隊の実権を握っていたののは。

山県有朋だった。

成り行きでわたしが長になりました  一階八斗醁


   武廣 遜

実際のところ、騎兵隊に参加したのはどのような人だったのだろう。

名簿総数640名のうち、武士出身が49・6%

農民出身が40・3%、町人出身が5・0%、寺社関係者が5・1%

見ての通り、実際には約半数が武士、半分が農民を含む庶民という

構成になっていたことが、『長州藩騎兵隊名簿』で分かる。
               たけひろゆずる
文頭の写真の帽子を被った武廣遜九一)は農民出身ながら、

実力で騎兵隊6番隊副隊長にまでなった。

常々写真に紹介される彼こそ、騎兵隊を象徴する人物といえる。

(ちなみにこの武廣は、昭和10年の西南戦争で戦死している)

定規より少し利口な分度器  筒井祥文


   高杉晋作像

騎兵隊がなぜ、旧来の正規兵にはない「強さ」があったのか。

最大の理由は、西洋式の「散兵戦術」を駆使したことにある。

散兵戦術とは、最初、密集していた軍隊が、

進むにつれて広く散会していく戦い方で、

基準となる兵から一分間に、

180歩という猛ダッシュで広がっていくため、

あらかじめ相当に訓練していないと難しい。

兵が広く散会すれば、隊長の指揮、命令は届かなくなる。

つまり各兵士、各部隊長は全体の戦術を理解した上で、

こべつの判断で動かなくてはならない。

猛訓練を積んでいないとできない戦術なのだ。

風の吹くままにノド飴しみてくる  山本昌乃


騎兵隊が生まれた白石正一郎の居宅

寄せ集めの自律性もなく、褒章や評価ばかりを求める幕府の兵士と

比較して、騎兵隊は全く真逆の組織だった。

騎兵隊は有志の集まりであり、

しかも実力しだいで武廣のように、指揮官に出世もできる。

総じて、隊員の出世意欲をかきたて、勉学にも軍事訓練にも、

積極的に取り組むことを後押しするシステムが、騎兵隊にはあった。

そもそも戦いに臨むモチベーションが違った。

これまでの有造無造を束ねよう  宇治田志寿子

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有為転変いろはにほへと散りぬるを  岡田陽一



       長州藩の攘夷戦を描いて絵

「文久3年(1863)」

「文久から元治」へ、幕末がいちばん慌しくなったときである。                                                    
江戸から京へ、京から江戸へ、萩からも薩摩からも京へと、

人が動いた。

そこには、幕末を象徴する出来事が起きる。

長州藩による関門海峡での外国船砲撃や「薩英戦争」

京都では「八月十八日の政変」といわれる

佐幕派のクーデターが起き、

京都を牛耳っていた「攘夷派」が、一掃され、

次への事件を誘発していくのである。

流鏑馬の刹那の風になりにゆく  山本早苗


        御楯組血盟書

「文久三年の出来事」

  3月04日  徳川家茂入洛(家光以来229年振り)新撰組結成。
  3月07日  徳川家茂 参内し孝明天皇に拝謁。
  3月15日     高杉晋作、頭を丸めて名を「東行」と改める。
  4月20日     徳川家茂 朝廷に攘夷期日を「5月10日」と約束。
  6月10日        攘夷決行(馬関戦争火蓋を切る)
  5月12日        井上聞多、伊藤俊輔等、長州5傑禁を犯し渡英。
  6月01日        馬関にて米国軍艦に長州の軍船2隻撃沈される
  6月06日     高杉晋作 白石正一郎邸に入り「奇兵隊」編成開始。
  6月27日        英船艦7隻、生麦事件の責任を問い鹿児島湾に入る。
  7月02日  「薩英戦争」 英国艦隊、鹿児島を砲撃。  
     8月ー      天誅組挙兵。
  8月18日 「八月十八日の政変」 大和行幸中止。
  8月19日 「七卿の都落ち」
         新選組 三条木屋町に桂小五郎の捕縛に向う。
  9月27日    天誅組 大和で壊滅 吉村寅太郎死亡。
    11月19日        米国公使、将軍家茂に国書を呈し鎖国の不可を陳ず。
 12月15日        三条実美、萩より三田尻に帰る。
 12月24日        長州藩が外国船と誤って薩摩の船を撃沈する。

あかりを下さい 先が見えないのです  安土理恵


 長州藩の軍艦-庚申丸

孝明天皇の強い希望により、将軍徳川家茂は、

文久3年(1863)5月10日をもって攘夷の決行を約束する。

これをきっかけに、

武力をもって外国の勢力を追い払おうと考えたのが、長州藩であった。

もともと長州の藩論は、幕府が締結した不平等条約の破棄と、

強硬な攘夷実行が主流だったからである。

しかし、幕府は攘夷を必ずしも、軍事行動とは考えていなかった。

そんな幕府の態度に業を煮やした長州藩は、

馬関海峡を通過する外国船に対し単独で砲撃を仕掛けたのである。

底に着いたら挑戦状を突きつける 立蔵信子
  
   
英国軍に占領された前田砲台

だがその報復として翌月には、

アメリカとフランスの軍艦が長州藩所有の軍艦や砲台を砲撃。

壊滅的な打撃を加えたのである。

しかし長州藩はそれにめげることなく砲台を修復。

対岸の小倉藩領の一部をも占領し、

ここにも砲台を築いて海峡の封鎖を続けた。

甲冑の紐がほどけたままの湖  くんじろう


      外国の砲弾と外国の砲弾

ところが馬関海峡で攘夷のための砲撃を実行している長州藩に

同調する藩は現れない。

しかも欧米艦隊から同藩が攻撃されても、

近隣の藩はただ傍観するばかり。

6月になると、

攘夷の実行を約束していた将軍家茂も江戸へ帰ってしまう。

業を煮やした久留米の真木和泉久坂玄瑞ら、

急進的な攘夷論者たちは、

天皇による攘夷親征(大和行幸)の実行を画策した。

にっちもさっちも蛍一匹さしあげる  田口和代

だが、孝明天皇は攘夷論者ではあったが、

攘夷の実施などは幕府が中心となって行なうべきものと考えていた。
                           さねとみ あねがこうじきんとも
そのため朝廷内の攘夷急進派である三条実美姉小路公知らの

横暴ともいえる行動を内心では、不快に感じていたのである。

天皇は三条らを排除するため、島津久光の上京を期待していたが、

「薩英戦争」の影響もあってそれは叶わなかった。

攘夷親征の先駆けとなる大和行幸の詔は、

8月13日に発せられる。

それとともに会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派は、

尊攘派を一掃するために動き出した。

それはまだ世間知らずの蜃気楼  河村啓子



818の政変により京の都を追われた尊皇攘夷はの三条実美ら
7人の公家が、夜も明けない雨の早朝に長州へと落ちていく。
随行者には玄瑞の姿もあった。

まず、8月15日に京都守護職の松平容保の了解を得て、
                       ていじろう     あさひこしんのう
薩摩藩の高崎正風と会津藩の秋月悌次郎中川宮朝彦親王を訪ね、

親王を擁して尊攘派を一掃する計画を打ち明けた。

翌16日には、中川宮が参内して天皇を説得。

翌17日には、天皇より中川宮へ密勅が下る。

そして、運命の8月18日、

長州藩にとっては、信じ難い出来事が起こったのである。

スマホから頚動脈にメールあり  井上一筒

大和行幸は延期。

この日の早朝、御所の各門は会津、薩摩、淀の藩兵により固められ、

長州藩が守っていた堺町御門の警備の解任。

尊攘派公家と長州藩主父子の処罰が決定。

在京の諸藩主に参内の命が下り、

さらに三条ら尊攘急進派の公家には禁足、面会禁止が命ぜらる。

同時に、攘夷派公家の三条実美沢宣嘉ら7人を排除したのである。

うどんやも蟻のノレンに替えて夏  山本昌乃

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地下街を出て一瞬の方向音痴  木村良三


      江戸の本屋 (拡大してご覧下さい)

「江戸の学問」

江戸時代、社会が安定すると「儒学」の教えが俄かに普及していく。

儒学には、大きく「朱子学」「陽明学」「古学」の3派があり、

その主流をなしたのは、支配者に都合のよい朱子学であった。
しゅし
「朱子学」は南宋の朱熹という人物が大成した学問で、

すでに日本には鎌倉時代に伝来していたが、

君臣上下の身分的秩序を絶対しする「大義名分論」が、

封建的支配の正当性を唱える支配層に、都合がよかったことから、

急速に大名や武士の間に広まった。

この先も隠しと通そと折りたたむ  山本昌乃

「陽明学」は、明の王・陽明が創始した学派で、

知識・道徳はただちに実践に移せと説く

「知行合一」を何より重視する。
とうじゅ
日本で最初に陽明学を信奉したのは中江藤樹であり、

彼は近江聖人と崇められ、多くの門弟を得た。
               ばんざん
その門弟の一人に熊沢蕃山がいる。

熊沢蕃山は岡山藩主・池田光政に登用されたが、
        だいがくわくもん
その著書・『大学或門』で武士は土着すべきだと説いたり、

藩政を批判したため、下総国・古河に幽閉された。

陽明学者には、佐久間象山、吉田松陰、大塩平八郎といった

反体制派の人々が多く、幕末の志士にも同学を奉じる者が多数いた。

行き先は左右の足に聞いとくれ  佐藤美はる


   山鹿素行

朱子学や陽明学にあきたらず、

孔子や孟子の原点から学ぼうとした一派を「古学派」と呼ぶ。

同派は山鹿素行の聖学派、伊藤仁斎の堀川学派、
おぎゅうそらい
荻生徂徠の古文辞学派に分かれる。

山鹿素行は、朱子学を非難して赤穂に流されたが、

のちに赤穂の浅野家に仕えている。

松陰が相続した吉田家が代々、山鹿流師範家となっており、

松陰の根っ子には、山鹿素行の教えがある。

分裂のきざし何かスタートするらしい 安土理恵


「講孟余話」

松陰がペリー艦隊に密航しようとして失敗し、

江戸伝馬町の獄につながれた後に、故郷の長州へ移送され、

萩城下の野山獄と杉家幽室で幽囚の身であった時、

囚人や親戚と共に、孟子を講読した読後感や批評し、
               こうもうさっき
意見をまとめた書を『講孟箚記』という。

「箚」は針で刺すという意味で、松陰の書物を読む姿勢を示しているが、

のちに「講孟余話」と改題している。

鋭角に刺す某日の反射角  徳山泰子



国民の海外との交流を制限することで、江戸幕府は250年という

気の遠くなるような月日を、安穏と支配することおが出来た。

しかしそのせいで、国民には世界情勢がまったく伝わらず、

日本という小国が世界のすべてであるかごとき

錯覚を与えてしまった。

そんなところへ、

近代を象徴する巨大な蒸気船に乗ったペリーが来航。

錆びついた鎖を断ち切って日本国の扉をこじ開けたのである。

泥よけて生きてきたけど泥の中  石橋能里子



 海防憶測

このように強力な諸外国の開国要求に直面している状況の真っ只中、

急速に変化する状況で新しい対応策が必要であると、

松陰は痛感していた。

そして松陰は、『海防憶測』『近時海国必読書』

海外の「禁書」を読み漁った。

そして孟子の『至誠にして動かざる者は未だ之れ有らざるなり』

の言葉に行きつくのである。

「誠心は高い極限の形であり、強く人に訴える力を発揮する」

と松陰は確信。

その確信をまず身の回りの人々へ伝播・実践したのが、

まさに「講孟」である。

挫折した枝から伸びてきた新芽  森 廣子        


松洞が描いた松陰像7枚の内の一枚(違いを見て下さい)

松陰はつぎのような言葉から話し出した。
                         や   ひこう  ふせ
『我れ亦た人心を正しくし、邪説を息め、詖行を距ぎ、
                   つ
淫辞を放ち、以て三聖者を承がんと欲す』

「全章の主意は、この一節にある。

またこの一節は、人心を正しくするというこの言葉に帰着する。

まさしく孟子が終身みずからに課したものもここにあった」と。
                    う
「そもそもこの章は、むかし禹が洪水を治め、
    いてき
周公が夷狄を征服し、猛獣を駆逐して百姓を安らかにし、

孔子が『春秋』を完成した事蹟に、

孟子がみずからを対比しているところである」と。

あれからの海とこれからの生き方と  墨作二郎
  

松洞が描いた松陰像7枚の内の一枚

重ねて、松陰は孟子を引用する。

「今日もっとも憂うべきものは、人心の不正ではなかろうか」

「そもそもこの人心が正しくない場合には、洪水を治めたり、

猛獣を駆逐したり、夷狄を征服したり、

逆臣を誅殺したりすることなど、
どうしてできるはずがあろうか。

天地は暗黒と化し、人道は絶滅してしまうのだ。

まことに思うだに恐ろしいことで注意すべきことである。

それゆえ孟子はこのことを深くおそれて、

邪説から人心を救おうとつとめたのである」と。

今日には今日の華として六根清浄  山口ろっぱ


海防論のきっかけになったモリソン号の図

【豆辞典】ー〔禁書〕
                     またすけ
松陰は16歳のとき、長沼流の兵学者・山田亦介から

禁書・『海防憶測』を勧められた。
                   どうあん
海防憶測は昌平坂学問所の儒者・古賀侗庵がロシアなどに対する

海防の必要と対策を記し、亦介が印刷・配布したものだが、

幕府はこれら海外事情を伝えるもののほとんどを禁書にしていた。

コンパスで描いた円はつまらない  竹内ゆみこ

海外情報に関する当時の禁書には次のようなものがある。

『近時海国必読書』は、西洋人の渡日記録や西洋史の翻訳をはじめ、

諸家の海防論などをまとめた大部の書で、

文化~天保年間(1804~1843)に刊行された。

陸奥仙台藩士林子平『海国兵談』はロシアの南下を警戒した林が、

全国を回って諸外国の状況を説いた書である。

どこの版元にも断られて自費出版したが、幕府の絶版処分を受け、

林は蟄居処分を受けた。

大粒の涙がモノクロで写る  前中知栄

三河の渡辺崋山の著・『慎機論』と陸奥・高野長英『夢物語』は、

ともにモリソン号事件(天保8年〔1837〕)での幕府の対外政策を

批判した本で、渡辺崋山は国元蟄居を命じられ、自害し、

高野長英は捕らわれてのち、自害した。

(モリソン号はアメリカ商船で、救出した日本人の漂流民を

送還してきたが
幕府は漂流民を受け入れないままモリソン号を撃退した)

栞に化けたナポレオン・ボナパルト  井上一筒

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