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川柳的逍遥 人の世の一家言
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鳴き砂の過去を探しに行く素足  真鍋心平太


   足利学校

江戸時代落雷で焼け建物は1980年代に復元.。

水堀と土塁に囲まれた大きな茅葺屋根の重厚な古めかしい建物は、

建造された当時を偲ばせている。


  足利学校全景

周囲に堀がめぐらされ中世の館を彷彿とさせる。


    学校門

寛永8年の創建で数少ない現存物のひとつ。


   杏壇門

学校門と同年の壮健で、奥には「孔子廟」がある

「足利学校」

足利学校とは栃木県足利にあった「日本最古の学校」のこと。

最古といわれるが創設の明確な由来は分かっていない。

奈良時代、平安時代、鎌倉時代の三説あるが…

相当に古いことは間違いない。

室町時代には、間違いなく存在していたが、

その中頃には衰退し、存亡の危機にあった。
                  かんれい   のりざね
永享4年(1432)関東管領の上杉憲実が足利の領主になり、

再興に尽力したことが、記録からも明らかになっている。

再興した上杉憲実と、その息子・憲忠らあによって庇護され、

学校運営がスタートしたとき、その教育は『儒学』が中心であった。

儒学といえば、

中国の思想家・孔子の教えを発展させた学問である。

そのために孔子は古くから大成殿に坐像が置かれ、

崇拝の対象となっている。

まだ箱にしまったままの始発駅  加納美津子


学費は無料で学生は入学すると近隣の民家に寄宿して通った。

室町時代後期に入ると、

儒学はもちろん重要視されたのが「易学」「兵学」で、

折りしも戦国時代に入るころで、各地で戦さが盛んになると、

多くの戦国大名が、この足利学校に学んだという。

彼らは戦で、いかに勝利するかを常々考え、

「易学」つまり、「占い」を重視する者が多かった。

たとえば、出陣や撤退にあたり吉凶を占い、

その結果によって進退を決めたのである。

それは「兵学」とも密接に連動した。

それらの知識に精通した者が重んじられ、

大名に登用されたのである。

数え歌覚えてひとつ背が伸びる  ふじのひろし


歴代痒主(校長)の墓と創建時の井戸

「足利学校」で学んだ者が、大名に仕えることも多かったようだ。

甲斐の武田信玄は、易学に長けた者を引見し、

「占いは足利にて伝授か?」 と尋ねたことがあった。

信玄の軍師といえば、山本勘助が有名であるが、

彼も易学に通じていて信玄に重用されたという。

足利学校の存在は相当に有名であり、信玄も重要視していたようだ。

厳密にいえば、日本には「軍師」という役職は存在しなかった。

しかし、軍全体の進退を占う者は軍師という存在に等しく、

生死をかけた戦において重視されたのだろう。

紺碧のダイヤと競う蛍烏賊  田口和代


かっては3千人の学徒が学んだ教室。

「日本国中、最も大にして最も有名な坂東の大学で、

   日本全国の人が学びにきている」

と宣教師・F・ザビエルが本国に向けた手紙に紹介している。

さらに

「寺院の建物を利用し、本堂には千手観音の像があり、

ほかに「孔子廟」が設けられている」と記している。

海外まで名を知られた学校だったのだ。

天正18年、秀吉が関東へ侵攻すると、学校は存亡の危機を迎える。

庇護者であった北条氏と足利長尾氏が滅ぼされ、

秀吉の養子・秀次が学校の蔵書の多くを京都へ持ち去ろうとした。

しかし、関東の領主・家康が交渉してそれを取り戻し、

保護者となって、足利学校を守り通したのである。

絡みつくものを月光で洗う  本多洋子


    方丈と書院を結ぶ渡り廊下と衆寮

しかし江戸中期になると、いわゆる、太平の世が到来して、

兵学も易学も存在意義を弱め、

「藩校」「寺子屋」の整備によって足利学校は急速に衰退する。

それからは貴重な古典籍を所蔵する図書館や、

孔子を祀った史跡としての役割へと変わり、

明治5年には廃藩置県の影響も受け、

学校としての役割も終えた。

省けないものの一つは無駄だろう  立蔵信子


  貴重な書物を置く遺跡図書館・中国の古典

しかし、学校としての末期、

幕末の志士たちの中にも、足利学校を訪れた者がいた。

安政5年(1852)には、吉田松陰が、

万延元年(1860)には、高杉晋作が訪れている。

松陰は中国の『論語』に影響されたと思われる言葉が多いが、

この足利学校においても、

孔子孟子の教えを書で読み、学んだのだろう。

冬の良さ味わい冬を乗り越える  新家完司


弟子に一生を通じて守るべきは?
と問われて孔子は、「恕」と答えた。
これが足利学校が目指す精神となった。

儒教の中心的な考え方は、

自分の身をきちんとして、人を治める(修己治人)

自分自身のわがままな気持ちに打ち勝ち、

人間として踏み行わなければならないことを実行する(克己復礼)

孔子の死後、儒家は「八派」に分かれた。

その八派の中で、孟子は「性善説」を唱え、

孔子の徳目「仁」に加え、

実践が可能とされる徳目「義」の思想を主張した。


庭園の字降松ー逸話として
質問を書いた札をくくりつけておくと、必ず回答の札が懸かっていた。


 渾天儀(こんてんぎ)

ほか貴重な書物をはじめ、往時を偲ばせる備品の数々が展示されている。



補義荘子因(ほぎそうじいん)        文選(もんぜん)
三月を開く痛みのないように  八上桐子

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焼酎の術羊羹に破られる  井上一筒


   吉田松陰

松陰「福堂策」の言葉
   けんぐ    いえども
人賢愚ありと雖も、各々一、二の才能なきはなし、
そうごう
湊合して大成する時は、必ず全備する所あらん。
         えっ
是れ亦、年来、人を閲して実験する所なり。
     きい                    ま
人物を棄遺せざるの要術、是れより外、復たあることなし。

(人間には賢愚の違いはあるが、どんな人間でも、
    一つや二つのすぐれた才能を持っている ものである。
    全力を傾けて、ひとりひとりの特性を大切に育てていく ならば
    その人なりのもち味を持った、一人前の人間になることができる。
    今まで多くの人と接してきて、
    これこそが人を大切にする要術である と確信した)

強烈な残像 真っ赤な人だった  都司 豊

「松陰ー言語録」

松陰は獄中で、獄制改革案といえる『福堂策』を記した。

「牢獄に幽囚された者は、希望を閉ざされているが、

   それを改め、牢獄を「福堂」にする必要がある。

   そのため、獄内の自治は囚人に任せ、

   読書や学芸に従事させることで人間性を回復させるべし」

という提案である。

伝馬町や野山獄での経験が、そのまま反映されている。

地に伏して星の流れる音を聞く  板垣孝志

松陰は孟子「性善説」を強く信じており、

その根拠を野山獄の人々に見いだしていた。

「罪は事にあり人にあらず」

「罪はなお病のごときか」

と断言する。

「罪が病であれば病を治せばよく、

   獄中で腐りかけた善も教導により取り戻すことができる」

と考えた。

※ 福堂とは、人を幸福にする施設。

わたくしの重さでひらく門がある  佐藤美はる

安政2年(1855)12月、出獄が許された松陰は、

謹慎の身ながら、近親者に『孟子』を講ずるようになり、

やがて「松下村塾」を主宰するようになる。

そこで行なわれた教育は、

まさに野山獄における相互教育の発展であった。

塾内では平等主義が貫かれ、松陰が一方的に授業することはなく、

対話を重んじ、時に塾生が教師を務めることもあった。

そして各人の個性や能力が尊重され、それを引き出す方策がとられた。

後悔を脱いで明日の糧にする  石田ひろ子



「牢内の授業風景」

松陰は入獄ご半年がたったころから、

囚人たちと『孟子』の読書会を行なうようになる。

テキストを回し読みし、相手からの質疑に答える形で、

松陰が講釈を述べた。

しばらくしてからは、

数人が順番に教師を務める輪講の形式がとられた。

読書会は各人が教えあうゼミナールへと発展。

女囚の高須久子と短歌のやり取りを通じて交流を深め、

恋情を揺らしたのも、このころのことである。

電球にかざして見えた命の芽  佐田房子



これらの授業や交流は、通常は牢越しに行なわれたが、

時には囚人たちが互いの独房を訪れたり、

一堂に会することもあった。

獄吏の福川犀乃助も孟子の授業を聴講するようになり、

勉強するために夜間の灯火が認められた。

囚人のほとんどが「借牢願い」による収監のため、

ある程度の行動の自由があったとはいえ、これは異例の事である。

福川のみならず、ほかの獄吏も松陰に協力的であったというから、

松陰の教育への情熱が、獄舎を教育の場へと転化させたのである。

気遣いが描いた円陣美しい  杉谷和雄

「小田村伊之助が松陰を見直すことになった『獄舎問答の中の言葉』」
            む
天下に機あり、務あり。

機を知らざれば、務を知ること能わず。
                                          しゅんけつ
時務を知らざるは、俊傑に非ず。

(この世の中に生じるできごとに対処するには、
   適切な機会があり、それに応じた務めがある。
   適切な機会がわからなければ、時局に応じた務めも知ることが出来ない。
   それぞれの場に応じてなすべき仕事ができないようでは、
   才徳のすぐれた人とは、言えないのである)

悩んでる暇はないのだ砂時計  小川賀世子


梅太郎と松陰の手紙のやりとり

二十一回猛士説について
兄・梅太郎は冒頭で、松陰の「二十一回猛士の説」は素晴らしいが、
家族が罰せられると困るので、秘密にするようにと忠告している。
対して松陰は、兄に直に会って注意されているようだと返事している。
他に梅太郎は、獄中で過ごす松陰の食べ物や身の回りを気遣うなど、
二人の絆がうかがえる興味ある手紙になっている。

【豆辞典】「二十一回猛士説」
        こういん
「私は天保元年、庚寅元年(1830年)に杉家に生まれた。

 その後成長して、吉田家を継いだ。

 甲寅(安政元年)に罪を得て獄へ入った。

 夢に神が現れ、一枚の名刺を差し出された。

 それには「二十一回猛士」とあった」

躓いた石に仏を見てしまう  萩原三四郎

『猛の未だ遂げざるもの尚お十八回あり』

 「夢から覚め考えるに、杉の字には二十一の形がある。

 吉田の字もまた、二十一回の形がある。

 私は生まれてこのかた、

   猛々しい行動をとったことがおよそ三回ある。

    一回目は、東北旅行のために脱藩したこと。

    二回目は、藩士としての身分をはく奪されたにもかかわらず、
                    「将及私言」など上書を藩主に意見具申したこと。

    三回目は、ペリー来航時に密航を試みたこと。

   それで罪を得たり、非難され、今は獄に入れられ、

   再び猛を行うことが出来ない。

 そして、猛のまだ成し遂げていないものは、十八回ある。

 その責任もまた重いのである。

 神はおそらく、私が日々弱くなり、

   微力となって、二十一回のを成し遂げられないことを恐れ、

   天意として私を啓発してくださったのであろう。
 
   とすれば、

   私が志と気を合わせ養うこともやむを得ないことである」

と、松蔭は自己を叱咤激励した。

二十一回猛士は松蔭の別号として下田事件以後用いるようになった)

三度目は逆立ちもする注意書き  佐藤正昭

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千切りにしてエレベーターのドアに貼る 湊 圭司


   松陰先生絵伝

吉田松陰とはどんな人―

顔に痘痕があり、お世辞は言わない、一見無愛想のようだが

一度二度、話してみると年長年少の隔てなく、相手に応じて話をし、

懐かないものはないほど、人柄のよさがあった。

また客が来たときは喜び率先して、その客をもてなし、

食事時にはご飯を出し、
客に空腹を我慢させて

話を続けさせることはなかった、という。
 BY/妹・千代

やわらかい言の葉品がにじみ出る  山本昌乃


  杉家の系図 (拡大してご覧下さい)

「松陰の人となり」

幼名は、寅之助、号は松陰。

いわゆる、松陰という呼名はあだ名である。

兄弟は虎之助を入れて7人。

2歳上の梅太郎、2歳下の千代、9歳下の寿、11歳下の

13歳下の、15歳下の敏三郎となる。

両親は困っている人を放っておけない性分で、

介護が必要になった親戚なども迎え入れ、

多いときには、10人以上が小さな家に同居していた。

しかし、杉家は禄の少ない貧乏所帯。

田畑を耕し、山で木を切り、後に父・百合之助が仕事で家を離れると、

母・が馬を使って農耕にいそしみ、家計を支えた。

遊ぶ金ないのでずっと見てる空  むさし      


 百合乃助と敏三郎

そんな杉家が大切にしたのが教育であった。

父・百合之助は、人を訪ねても無駄話はせず、

さっさと帰り、寸暇を惜しんで読書したという。

畑仕事には、梅太郎や虎之助も連れて行き、畑で素読を教えた。

寅之助は藩の兵学師範だった叔父の吉田家を幼くして継いだため、

兵学者で、もう一人の叔父・玉木文之進からも学問を教わった。

文之進は厳しい人で、寅之助の物覚えが悪いと本をすぐ取り上げ、

ひどいときには、「机と寅之助とを引き抱えて外に投げ出した」

という激烈ぶり。

母の瀧は文之進らからあまりにも厳しく教育され、

それでも逃げようとしない寅之助を見て、

「早く座を立てば、そんな目に遭わずに済むのに、
          ためら
   なぜ寅之助は躊躇うのか」

と歯がゆがったという。

せめてこの一瞬凍らせてみたい  立蔵信子


     瀧

冗談好きの母と、学ぶことを共に楽しんだ兄・弟・妹たち

大家族で貧しく、勤勉で厳格。

そんな杉家のムードメーカーはであった。

瀧は冗談が好きで、後年のこととして次のような逸話がある。

それは梅太郎の嫁・亀子が蚊帳を破ってしまったときのこと。

亀子がため息をつくと、瀧が、

「破れた蚊帳ほどめでたいものはない」

「『つる』と『かめ』とが舞いおりる」という意味の、

「蚊帳をつる」と「鶴」、「蚊め」と「亀子」を掛けた狂歌を詠んで

笑わせたという。

ピンチでも大阪弁はよう脱がん  オカダキキ



楽天家の母に支えられ、父と叔父の厳しさに耐え、

成長した松陰は嘉永3年、21歳のとき、九州を巡る旅に出る。

それは松陰が長州から出る初めての旅。

訪問先でアヘン戦争などの書物を貪るように読み、

洋式砲術を学びオランダ船に乗り、欧米列強の脅威に衝撃を受けた。

旅日記に記している。

「心が動くきっかけは旅することで得られる」

松陰はその後、全国各地を旅し、見聞を広めていった。

地球儀は金平糖になる模様  井上恵津子

そんな九州の旅の途中、松陰はまどろみ、ある夢を見る。

それは生まれ育った山荘「樹々亭」でのこと。

夜、兄と父と漢詩を読んで唱和し、眠りに就いたところ、

幼い妹や弟が群がって来て、「自分たちにも読んで」

とせがむので、起きて、皆で唱和した、という夢である。

幼い兄弟妹とも共に学ぶことを楽しんだ、

昔の光景が夢に出てきたのだ。

松陰にとって初めての旅は、

行動こそ大事であることを学ぶとともに、

家族を思い、ホームシックにかかった旅でもあった。

遡る時間網目をほどいてる 岡田幸子


   千 代

【千代が後年、松陰について次のように語っている】

『兄・松陰は、幼いころから「遊ぶ」ことを知らないような子供で、

   同じ年頃の子どもと一緒になって、凧を揚げたり、独楽を回して、

   遊んでいる姿を見たことがありませんでした。

   いつも机に向かって、中国の古典を読むか、

   文章を書いているか、で、
ほかのことは何もしていませんでした。

   運動とか、散歩とかはしていたのか…、

   と言いますと、
それもほとんどしていなくて、

   記憶に残っているものはありません。


   また、「寺子屋」とか「手習い場」とかに通ったわけでもなく、

   父・百合之助と、叔父・文之進に就いて、学んでいただけです。

   ある時期には昼も夜も、叔父の所に通って教えを受けていました。

   叔父の家は、わずか数百歩くらいしか離れていなかったので、

   三度の食事の時には、家に帰ってくるのが常でした」

うふふあはは好きなことでは迷はない  前中知栄           

   杉家の兄の梅太郎と松陰は、見る者が誰も羨まないものがないほど、

   仲が良かったのです。

   出かけるときも一緒、帰るときも一緒、寝るときも布団を一緒にし、

   食べるときのお膳も一緒で、たまに別のお膳で食事を出すと、

   一つの膳に並べかえていたほどでした。

   影が形に添うように、松陰は兄に従い、

   その命令に背いたことはありませんでした。

   梅太郎は、松陰より二歳年上で、自分は二歳歳下で、

   年の差が小さかったので兄弟のなかでは、

   特にこの三人は仲がよかったのです」

梅太郎は、明治43年死去。享年88歳。

千代は、大正13年死去。享年93歳。

このように長命の家系にあって、

松陰は安政6年、
30歳で死去している。

因みに、文は79歳で死去している。

貴重品袋に肺と胃と腸と  くんじろう

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窓の雪黄色く見えるのも恋か  雨森茂喜


高須久子の長州藩の裁判記録
久子の真実の生き様が記されている
                        おうち
松陰の出獄当日、 "手のとわぬ雲に樗の咲く日かな"

と別れの一句を久子が送ると、松陰は一通の手紙を彼女に渡した。

"声をいかで忘れんほととぎす" の句が手紙の中に入れてあった。

(意味を読み解いてください…、儚く、可愛いではありませんか)

「松陰も恋をしたことがありました」

生涯、恋愛とは無縁の人と言われた松陰が、

野山獄の獄中で、ほのかに恋心を抱いた女性がおりました。

その相手の名は、美貌の未亡人・高須久子である。

久子は毛利家家臣団・杉原三家の「高須家」の出身。

高杉晋作の遠縁にあたるともいわれる人である。

石高330石取りの家柄の跡取り娘として生まれ、

婿養子を迎えるも、その夫は若くして死に、

久子は寂しさを紛らわすように、

三味線に興味を持つが次第に没頭するようになる。

それは歌や浄瑠璃、ちょんがれ(浪花節の一種)などにも傾倒し、

萩で有名な芸能人(被差別部落民)勇吉弥八らと交流、

自宅に招いて酒を振舞ったり、

翌朝まで宿泊させたりするものであった。

(封建時代、当時は被差別部落民と接触することは罪とされた)

価値観の違いとレモン搾り切る  山本昌乃



身分制度が明文化されていた封建時代のこと、

「武士が被差別部落民と交際するとはけしからん」

元夫の実家の義父は、「不義密通」を疑ったが、久子は、

「普通の人と普通の付き合いをしたまで」

と不義を否定したが、家族の申し出で野山獄へ「借牢」となる。

『三味線弾きなどについて、「すべて平人同様の取り扱いをした」

 とたびたび久子は供述しており、彼女の中に封建時代であれ、

「人はみな人」という平等思想の萌芽のようなものがあった

   ことは疑いない』 (裁判史料より・久子の供述)

無印で生きる本音で生きてます  荻野浩子


         久子の独房 (テレビのイメージセットより)

松陰が海外密航未遂の罪で捕らえられ、江戸の獄から萩に護送され、

「野山獄」に入ったのは、安政元年(1854)10月だった。

野山獄には12の独房があり、松陰の入獄で満室となる。

獄には、女囚が1人収容されていて、

これが、300石取り藩士の奥方だった高須久子である。

37歳だった。 (このとき松陰は25歳)

久子の罪は「姦淫」というが、

武家の女が身分低き者と親しくすることを

不行跡と咎める封建的な親戚の「借牢願い」によって、

野山獄に収容されたものである。

すでに在獄4年であった。

聖女かな懐中時計持っている  やよい



野山獄は藩の罪人は2名のみで、他の者は親族から申し出による

禁錮だったので、囚人同士が一箇所に集まることは自由であった。

松陰は久子の境遇に同情し、「自信をもって生きよ」と励ました。

反面、松陰は久子の「自由な考え方」にふれて、

新しい時代の理念を掴むきっかけになったとも言われる。

(人間平等の思想に徹する松陰は、やがて主宰する松下村塾でも、

  身分の別を問わず、向学心にもえる若者たちを受け入れた)

君の手が触れたとこからムズ痒い  森 廣子



久子は、獄中で松陰に学ぶ機会を得たひとりの女性である。

彼女の松陰に対する尊敬と感謝の念は、

自由を奪われた獄囚の身に、もだえ苦しむ憂国の青年への、

母性本能をふくむ「恋愛の感情」に昇華していく。

久子の一途な恋慕に、戸惑いつつも応えていくうちに、

「安政大獄」の魔手は松陰にせまり、極限状況に近づいていく。

2年足らずの短い期間、松陰と久子の間に、

プラトニックな恋が交わされたと信ずるに足る

「相聞の歌句」が存在する。

恋ひとつ隠して雪は降りやまず  伊達郁夫

"清らかな夏木のかげにやすらへど  人ぞいふらん花に迷ふ"

久子に渡した松陰の和歌である。

俳諧の心得のある久子は、ときに発句を松陰に送っている。 

松陰が仮出獄するとき、囚人一同がひらいた送別句会の久子の句.

  しぎ
”鴫立つてあと淋しさの夜明けかな"

鴫は、松陰のあざな「子義」にかかっている。 

久子が松陰に贈った絶唱ともいうべき別れの相聞の句。
          おうち
"手のとはぬ雲に樗の咲く日かな"

(私にとってあなたは雲の上のお方。
そして栴檀の花もあなたをたたえるかのようにおります)

それにたいする松陰の返し歌は、

「高須うしに申し上ぐるとて」として

"一声をいかで忘れんほととぎす"

(どうして貴方のその美しい声を忘れることがありましょう)

振りしぼるような一句を吐いている。

囚われのこめかみに吹く北の風  真鍋心平太


           松陰の独房 (テレビのイメージセットより)

出獄後松陰は、長州藩に野山獄の囚人釈放を働きかけ、

約8割の囚人が出獄できた。

獄中で知り合った富永有燐を松下村塾に招いて、

高杉晋作、久坂幻瑞,木戸孝充、山県有朋、伊藤博文らが学んだ。

しかし、久子は親族が反対して釈放されていない。

安政5年(1858)松陰の幕府の老中・門部詮勝を暗殺する計画と、

仲間である梅田雲浜の奪還計画を知った長州藩は、

再び、松陰を野山獄に投獄する。

二度目の投獄、そして、翌安政6年、江戸評定所に召喚され、

死出の旅にたつ松陰に、久子は餞別に手布巾を贈った。

松陰はお返しに

"箱根山越すとき汗のい出やせん 君を思ひて拭き清めてん"

という句を贈っている。

(世に言う「安政の大獄」で松陰は、まもなく斬首された)

立って聞くニュース座って聞くニュース 岡谷 樹
 


その後,久子は野山獄に入った高杉晋作と出合っているものと、

推察されるが、明治元年、新政府が樹立されたとき野山獄が廃止され、

久子の出獄が叶った。

この時、久子は51歳。

しかし、久子は高須家には戻らなかった。

その後、明治に入って久子がどんな生活をしたかは分かっていない。

晩年の久子は、18年におよぶ獄中生活が祟り,

目は衰え、足が萎えて、曲がらなかったという。

享年88歳。

(長寿を全うしたことに深い意味を感じる生涯であった)
                  (参考・古川薫 『野山獄相聞抄』

過去ひとつ座るわたしのなかの北  たむらあきこ

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一山に盛られたじゃこに俺もいる  北野哲男


 小伝馬町牢獄図-1

【豆辞典―①】-「松陰時代の牢獄の環境」
               しょうかい
獄舎について、安政元年6月21日に松陰土屋蕭海へ送つた手紙に、

「極暑の候ではあるが牢内は、甚だ清凉で凌ぎよい故、

   御放念願ひたい」

と言ってゐる。

「江戸獄記」の中には、

「江戸獄ば裏表が格子となつて居り、日影が遠い故、夏でも凉しい」

と記してゐる。

更に夏になると「凉み」と云つて、隔日に昼の2,3時頃には、

外鞘の内に出してくれる等、なかなか行届いたものであつた。

日溜まりは恵み日暮れは早いまま  栗田久子

松陰が傅馬町の牢へ入つたのは二度共、夏から秋へかけてであって、

冬の経験はないが、牢内で他の囚人から聽く處に據ると、

「冬になれば格子へ紙を張つてしまふ故、甚だ暖い」

と記してゐる。

又、冬は參湯を給し、

夜になると熱湯を徳利に入れたものを、囚人へ與へ暖を取らせる。

獄中と云へども、相当の情があつた事が分る。

悩むのはよそうミカンに手を伸ばす  嶋沢喜八郎

松陰は最初の入牢の時は、友人達から金を取り寄せ、

それを牢名主に贈つて、遂に「名主の次ぎ」の添役と迄なるに至ったが、

地獄の沙汰も金次第であることは申す迄もない。 

然しながら、

何から何まで金次第だと考へると、大いに違ふとも云つてゐる。

「それは立引と称して、人から頼まれた囚人は、

   名主以下も決して粗末にしない。

   手当囚人は勿論の事だが、諸役人から託された囚人とか、

   或は有名な侠客や博徒から頼まれた囚人等は、

   特別扱ひにしたものであつて、金の力が物を云ふ獄中であつても、

   役付の囚人達に、唯、徒らに金のみを振り廻したとて、

   それは少しも顧みられぬものだ」

   と松陰は獄中の囚人にも猶意氣と云ふものがある事を泌々と感じた。

そうか君は明日も生きてるおつもりか 居谷真理子

又一方、牢屋係の役入獄卒達は賄賂を取る事に吸々として、
       いや
松陰も賤しむべき人達だとは感じたが、

他方に於いて、一度賄賂を貰つて承諾した事は必ず実行する。

約束を違える様な事がないのは実に意外であつて、

誠に左様な賤しい心の人達ではあるが、義理堅いものだと驚いている。

松陰が初めて傅馬町の牢へ入つた時、

友人の手紙の往復、金錢其の他の届物などを託したのは、

獄卒の伊八と云ふ者であつたが、

此の伊八は前に云つた義理堅さはなく、甚だ良くない奴であつた。

其の度に松陰から貰ふ使賃だけでなく、

小倉健作の處へなども度々行つて迷惑をかけたので、

松陰は小倉へ其の事を詫び、以後は伊八に託さぬ事とした。

伏線はあった接続詞が消えた  森吉留里恵

其の後は伊三郎と云ふ獄卒に託したが、

伊三郎は眞面目な人物であつて、松陰が小倉へ送つた手紙にも、

「伊三郎は容貌は怪異ではあるが、

   決して悪い人物ではない故安心してくれ」

と云つてゐる。

松陰が再度、傅馬町の牢へ入つた時は、

獄卒の金六に託して、外部との連絡を取つてゐた。

高杉晋作へ宛た手紙にも、

「金六は前回の入牢以來知つてゐる人物であつて、慥な者故、

   萬事此の者へ託してくれ」
 したた
と認めてあつた。

松陰が處刑になつた後、其の遺骸の引渡を請けやうと尾寺新之丞

飯田正伯が獄吏に賄賂を贈つた時も、この金六の手を通してであつた。

少し訳あり余白に太く引く破線  上田 仁


 小伝馬町牢獄図-2

獄中へ金銀や書物を入れる事は許されない。

即ち牢内法度の品として金銀、刄物、書物、火道具類は、

堅く禁じられて居る事項、松陰が友人から金を取り寄せたり、

或は「靖献遺言」「十八史略」等の書物を入れてもらつたのも、

皆内密の事で、それには此の獄卒を使つたものであった。

着物其の他の必需品は願出れば公然と差入れを許される。

松陰は初めの入牢の時、

紋付袷、紋付帷子、五布蒲團、單物、襦袢、下帯、手拭、

半紙、錢二百文等を差入れて貰つてゐる。

再獄の時も大体同様である。       

オラの画鋲は金に画鋲でごぜえやす  くんじろう

以上の如く松陰の傅馬町牢に於ける揚屋の生活は、

相当気楽なものであつたようだ。

松陰のゐた東口揚屋は間口二間半、奥行三間の部屋に、

同囚が十三人ゐたが、無宿牢となると間口四間奥行三間の部屋に、

いつも6、70人から80人にも達する囚人が押し詰められて居り、

毎日のやうに病死人が出た事は松陰も「江戸獄記」の中に記している。

以上の通り松陰の獄中記を読めば、同じ傅馬町牢の中でも、

揚屋と無宿牢とでは、囚人生活に如何に多くの相違があるかが分り、

又貴重な記録である。       (「梅丘庵・クラシマ日乗」より

後悔を埋めたあたりを掘り返す  美馬りゅうこ


    ホエ駕籠

【豆辞典ー②】「罪人の護送」

江戸時代、町人や農民など庶民の重罪人を運ぶとき、

竹で編まれた円筒状の駕籠が使われた。

これを「唐丸駕籠」又は「目駕籠」と呼ぶ。

「唐丸」とは中国渡来のシャモの愛称で、シャモを飼うときに使う

円筒状の籠を模して作られたことから名付けられた。

唐丸駕籠は、武士の罪人を運ぶために使われる場合もあったが、

一般的に武士を運ぶときには、普通の駕籠に施錠し、

上から青網をかぶせたものが用いられた。

帽子からはみ出す雄鶏のトサカ  井上一筒



唐丸駕籠は高さ90センチほどで、横には中の様子を見たり、

食べ物を差し入れたりする穴が、

底の台には、大小便の落とし穴があけられていた。

駕籠の中央には柱が立てられ、罪人の首にかけた縄を結びつけた。

罪人は手足も縛られ、

舌をかまないように、口に竹の管をくわえさせられることもあった。

真暗がり破って見ても明日がない 森 廣子

唐丸駕籠が通行するときは、前もって沿道の宿場に、

罪人を送り出した大名の名前などの名前や、駕籠の数(罪人の数)、

役人の人数などを記した「触れ書き」が届けられた。

「遠島刑」という刑罰では、離島に罪人を送るために、

船上に小さな牢が設けられた「流人船」という船が使われた。

江戸からは大島・三宅島・八丈島などが、

京、大阪、西国、九州からは壱岐・隠岐などが流刑地に選ばれ、

春と秋の2回出帆した。

船賃をお地蔵さまに借りたまま  笠嶋恵美子

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