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川柳的逍遥 人の世の一家言
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湯豆腐の脇をくすぐる冬の底  岩根彰子
  

   松下村塾

「松下村塾の存亡」

安政5年(1858)松陰再投獄の命令が下る。

小田村はそれを阻止しようと運動するが、覆すことは出来なかった。

(ドラマでは小田村の苦渋の厚意で松陰を投獄したとしている)

このように、松陰のために寸暇を惜しんで活動した結果、

ままならないことも多く悩みは深かった小田村だが、

松陰は、江戸に送られる前、彼の働きに、

「三度の罪を犯したときは、すべて周旋にあたってくれた。

   今度ばかりは萩へ帰る見込みもなく、何か言い残したいが、

   いろいろ思いがこみあげてどうにもならない。

   生まれた甥の端午の祝いの詩を書いて別れの言葉にしたい」

と、感謝する言葉を遺している。

小田村としても、報いられる思いがしたであろう。

耳垢がごっそり取れて春うらら  合田瑠美子



そんな小田村に松陰は、

「松下村塾のことだが」と話しかけ、

「今は閉鎖の命を受けておるが、いずれは許されよう。

   再開されれば骨折ってやってください」

と頼んでいる。さらに松陰は、

「至誠にして動かざる者、未だ之有らざるなり」 

という孟子の言葉を使って、

至誠をもって、幕府に対決する決意を吐露した書を託している。

「江戸へ行ったら、誠を尽くして話そうと思う、

   もしそれが功を奏したら、

  これを世に伝え、うまくいかなかったら焼き捨てて欲しい」

と依頼している。

もろもろの傷やがて根っこに翼にも  小林すみえ

松陰は、誠を尽くして話したにもかかわらず、

刑死してしまうわけだが、

小田村は後世に残したいと考えたのだろう。

その後、松陰の誠は弟子たちに伝えられていったのだから、

小田村の判断は正しかったということになる。

志士としての情熱には物足りないものを感じ、

「小田村の論では、なかなか納得ものではない…」
                いぬころ
「伊之助その他 政府の狗子などと言ったことはあったが」

むしろそれゆえに後を託すにふさわしいと考えたのである。

正夢にしたい素敵な夢だった  吉岡 民



安政6年(1859)松陰が再び野山獄に投じられ、

補助役の富永有隣も故郷に去ると、松下村塾は立ち行かなくなる。

事ここに及び、小田村は明倫館での仕事の一部を捨てる覚悟を決め、

松下村塾での教育にあたった。

松陰は江戸に護送される際、

小田村に塾のことを頼み、塾生たちは今後、

後のことは小田村に従うよう言い残している。

エンディングノートは多色刷にする  本多洋子

しかし、松陰の刑死に前後して有能で知られた小田村は、

藩主の側近にとりたてられ、長州藩政に深く関わることとなり、

もはや、松下村塾での教育から退かざるをえなくなる。
                                   まじまほせん
それから後、弟子たちの中でも、学問を評価された馬島甫仙

慶応元年(1865)に塾を再開させるが長続きせず、

明治にお入ると玉木文之進が再び教育にあたり、

最終的には松陰の兄・梅太郎が明治13年から、

日清戦争の前ごろまで「松下村塾」を続けた。

逆立ちをする充電をするために  前岡由美子               


 稔麿への情報依頼文

「飛耳長目」

「耳を飛ばして遠くのことを聞き、目を長くして遠くのものを見る」

ことを飛耳長目という。

つまり情報収集のことである。

松陰は兵学者として「情報」を非常に重視した。

全国を行脚し、ついには海外渡航を目論んだのも、

ひとえに情報を得るためだった。

そうして得た情報で、日本の採るべき道を模索しつづけたのである。

松下村塾では、塾生をはじめとする仲間から集まった情報をまとめ、

「飛耳長目帳」と題した。

窓口は三つ醤油味にする  山本早苗

単に情報を待つだけではなく、公用や遊学で藩外に出る仲間に

情報収集を依頼し、会うべき人物を教え、

飛脚を使う渡していたという。

『孫子』には情報の大切さを説かれているが、

自分で独自の情報ネットワークを築くことは、

今日でもなかなかできない。

力を注いだ甲斐あって松陰の情報入手の早さは、

時に藩政府をも上回っていた。

イヤホンの片方かりる待合室  河村啓子

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もう少し離れて歩け夜が明ける  森田律子


    雲浜の墓

「君が世をおもふこころの一すじにわが身ありともおもはざりけり」
                                                                          〔雲浜・辞世の句〕

「梅田雲浜」
                              よしちか
雲浜は、文化12年(1815)6月、小浜藩矢部義比の次男として誕生。
よしもと
名は義質のち定明。 

のちに矢部家を出て独立し姓を梅田とする。

そして古来より雲の浜と呼ばれた小浜の浜に因み「雲浜」を号とした。

8歳のときに藩校である「順造館」に入る。
        きもん
15歳で「崎門学」を学んだ。

崎門学は、朱子学の一派であり、尊王思想を内容とした。

16歳で江戸遊学。

江戸の藩校で崎門学を受け継いだ山口菅山に学ぶ。

ドロップの缶を抜け出したいのです  山本早苗
 
 
    順造館                

26歳で江戸の遊学を終え一旦、小浜に帰る。

矢部家から独立し梅田の姓にしたのはこの頃のことである。

その後、祖父の家系である梅田氏を継ぎ、

大津に「湖南塾」を開いて子供を教育。

天保14年(1843)京に上り藩の名門「望楠軒」の講師となる。

これによって雲浜の名は、崎門学者として広く知られるようになった。

しかし雲浜の講学の目的はもっぱら「経世済民」にあり、

海防を初め藩政の問題点を藩主・酒井忠義に建言したことから、

かえって酒井の忌憚に触れ、

38歳で士籍を除かれ浪人となってしまう。


自分の顔だけしっかり塗り潰す  皆本 雅                      


 旅姿の雲浜像 (小浜市立雲浜小学校内)  

嘉永6年(1853)ペリー来航後、江戸で松陰らと交流する中に、

雲浜は条約反対を訴え「尊皇攘夷」を求める志士たちの先鋒となり、

幕政を厳しく批判するようになる。

安政3年(1856)には長州に赴き、坪井九右衛門、来原良蔵らに

自説を説き、長州藩を動かすことに成功する。

(このとき松陰と再会し、松下村塾の額面「松下邨塾」を書いている)

雲浜は長州滞在中に交易業を営んだ。

これは将軍に一橋慶喜擁立のための資金集めだったとも言われている。

雨粒の音はあなたの鼻濁音  雨森茂喜

そして将軍継嗣問題が起こると、

南紀派である大老・井伊直弼の謀臣・長野主膳の知るところとなり、

安政5年9月7日、「安政の大獄」で摘発される。

捕縛後は京都から江戸に送られ、小倉藩小笠原邸に預けられるが、

安政6年9月14日、獄中で脚気を悪化させて死亡する。

脚気の悪化は拷問によるもので、一週間続いた拷問で雲浜は、

固く口を閉ざし、「攘夷の大儀」としか言わなかったという。

山吹が咲いて濡れてゆくガーゼ  河村啓子


赤禰の故郷・柱島の墓

「真は誠に偽りに似、偽りは以て真に似たり」
                       赤禰武人の辞世

「裏切り者」とされた心境を、着用していた獄衣に記したとされる。

「赤禰武人」
あかねたけと
赤禰武人は天保9年(1838)岩国柱島の百姓医の子供として誕生。

安政4年(1857)、長州藩士浦家の家老・赤禰雅平の養子となる。

15歳の時に尊皇攘夷派の僧侶・月性に学び、
         うらゆきえ
月性の紹介で浦靱負「克己堂」で学ぶ。

安政3年克己堂で学んだのち、「松下村塾」開校時に入門する。

同年、萩での梅田雲浜の教議に感銘し翌年、雲浜の「望南塾」に入る。

安政5年9月、雲浜が 「安政の大獄」で幕府に捕らえられたとき、

幕吏は雲浜の家宅捜索を行ったが、 武人は関係書類をすべてを焼却し、

その他の同志に累が及ぶことを防いだ。
 
菜の花の畑に置いてきた時間  立蔵信子


   赤禰武人

赤禰もまた安政の大獄で逮捕されるが、微罪で釈放されている。

その後、松陰らに相談し、江戸において雲浜の救出を試みる、

が失敗、藩から謹慎処分を受ける。

文久2年(1862)4月、謹慎が解かれると江戸に赴いて

尊王攘夷結社、高杉晋作らの「御楯組」に加盟。

同年12月12日、赤祢、高杉、伊藤、久坂、井上を含め13名と、

攘夷の名のもと江戸品川御殿山の英国公使館の焼き討ちを行った。

「イギリス公使館焼討事件」である。

文久3年5月、長州藩は関門海峡を通過 する諸外国の商船を砲撃。

この「下関戦争」で手痛い反撃を受けるが、

長州はこれを契機として、攘夷から開国へと急展開してゆく。

そして赤禰は同年10月、「奇兵隊」の第三代総管に就任した。

これからを占うように髪を梳く  桑原伸吉

元治元年(1864)「第一次長州征伐」の後のこと、

赤禰は当時、藩政を主導していた俗論派と正義派の調停を図るが、

そのことが同志に二重スパイとして疑われる契機となる。

さらに、高杉晋作が武力により藩論の統一を図ると、

幕府の攻囲を前に、「内輪もめをしている場合でない」と、

赤禰はこれに反対し高杉と対立する。

元治元年12月、高杉による「功山寺挙兵」が成功すると、

藩内での立場を失い、出奔して上方へ脱走し、

新選組の伊藤甲子太郎のもとに身を寄せる。

隠し事はないよと足裏を見せる  竹内ゆみこ

その後、幕府方に身を寄せてた赤禰を、

幕府大目付・永井尚志や伊東甲子太郎らは、

長州藩の非戦工作に利用することを画策。

赤禰は長州尋問のために下向する永井の随員となった。

これも、赤禰が更に「裏切り者」の汚名を着る原因となった。

幕府による長州攻撃から藩を救おうと考えた赤禰は、

広島から長州に潜入し、かつての同志らと接触して、

主戦論の転換を図るが、「裏切り者」と認識されていた赤禰の言は、

全く受け入れられなかった。

そして逆賊の名のもと捕縛され、一切の取調べもなく、

慶応2年1月、赤禰は、
山口の鍔石で処刑された。 享年28。

十五年通って躓いた段差  松谷大気

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炬燵から出て来た人がリンカーン  井上一筒


開港間もない横浜で力士が西洋人を投げ飛ばす風刺絵

蕩児、実際に力士と西洋人のレスラーの試合が行なわれたという。
攘夷論が高まるなか、人々は喝采を送ったのであろう。

「松陰ー崛起」

松陰は天下の情勢に詳しかった。

密航の罪で入った野山獄を出されたとはいっても、

幽閉蟄居の身でり、杉家敷地から出られずにいたが、

江戸に遊学していた玄瑞ら塾生や、

松陰を慕って杉家に出入りしていた様々な人々から,

世情について話を聞いた。

さらには遠近の知り合いとも書簡を往来させていたお蔭で、

萩という僻地にあっても、世の移ろいには誰よりも鋭敏で、

熟知し自ら「飛耳長目」なる冊子にも編んでいた。

この中には、安政5年(1856)6月19日に調印された

「日米通商条約」についての情報もあった。

松陰は「尊王攘夷」を掲げるがゆえ、

この調印に到底納得ができなかった。

キリストの眉間に砂が舞っている  石橋芳山
  
朝廷の勅許も得ず手前勝手に外交を執り行うなど、
     もと                      いいだくだく
忠節に悖るものであり、また異国の要求を唯々諾々と

受け入れた開国では、「攘夷」など覚束ない。

松陰はここに反幕の志を立て激越な文章そのままに革命家となった。

松下村塾を反幕の震源地とし、

家財道具を売り払って武器を購い、軍事教練の資金ともした。

武士だけではない。町人であろうが僧侶であろうが、

すべての教え子を尊攘憂国の士とし、民兵として養成した。

長州だけではない、勤皇の志士と呼ばれる尊王攘夷論者が京を闊歩し、

大いに都を騒がせ始めたのもこの頃だ。

しかし、それに恐れを抱いた幕府は大老・井伊直弼主導のもと、

志士の壊滅に乗り出した。 いわゆる安政の大獄である。

四つ角をまっすぐに来た波頭  井上しのぶ


    梅田雲浜

こうした中、京都伏見奉行所に捕縛されたのが、
                          うんぴん
かって萩を訪ねてきた小浜藩士の梅田雲浜だった。
                  あかねたけと
松陰は一計として、門弟の赤禰武人に密命を与え、

志士を集めて伏見の獄舎を襲わせ、雲浜を救けだすことも考えた。

しかし事前に察知した藩庁によって赤禰が捕縛され、

目論みは水泡に帰す。

松陰はいよいよ、時局に焦った。

そうした中で考えたのが、

井伊の側近で京へ派遣された老中・間部詮勝の要撃計画であった。

しかし、これも実行に移す間もなく、藩が松陰の行動を警戒し、

再び野山獄へ投ぜられた。

転がった先で宙ぶらりんになった予知  山本昌乃


松陰が獄中で書いた幽囚録

松陰の「一刻も早く事を為さなければ」という危機感は、

獄中にあって日に日に増す。

江戸にいた高杉晋作久坂玄瑞が諫言したのは、このときである。

松陰の唱える「義旗一挙」は容易ではなく、

藩にも害を及ぼしかねないため、

「今は座して時勢を静観すべきだ」、と。

しかし「僕は正義をするつもり」などと記した書簡を各所に送った。

それだけではない。

「国変に節を守って死ぬもののない事、幾重も幾重も残念」

とまで認めている。

今こそが「狂う」時ではないか。

松陰は思わず、己の偽らざる思いを書簡にぶつけた。

結局、親族の懐柔と叱責を受けて弟子たちと和解したものの、

「義挙」については止まらず、譲らなかった。

そして獄中からなお、
くっき
様々な策を練り上げては、塾生らに「崛起」を呼びかけてゆく。

座右の遠浅を左耳で聞く  酒井かがり


    幽囚録

幽囚録は予言集とも言われる
松陰の門下生たちは、この松陰の予言に導かれるように、
革命を実行していく。
また松陰は維新後数十年先のことまで予測し言い当てている。

【草莽崛起】

 草莽は「民間とか在野」、 崛起は「立ち上がること」

安政の大獄で収監される直前に松陰は、

今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。

    草莽崛起の人を望む外頼なし。

    されど本藩の恩と天朝の徳とは如何にして忘るゝに方なし。

    草莽崛起の力を以て、近くは本藩を維持し、

    遠くは天朝の中興を補佐し奉れば、
   まこと
    匹夫の諒に負くが如くなれど、神州の大功ある人と云ふべし」

 と北山安世に宛てた書状の中に 草莽崛起を記した。

(匹夫の諒とは、道理をわきまえない教養のない男の行い)

 草莽は「民間とか在野」、 崛起は「立ち上がること」
       たの
「竟に諸候恃むに足らず、公卿恃むに足らず、

   草莽志士糾合義挙の他にはとても策これ無き事 」

玄瑞が土佐の武市半平太に宛て、坂本龍馬に託した書簡にも、

「草莽」「義挙」の言葉があり「崛起」を煽っている。

志ある在野の人よ立ち上がり、今やるべき事を成し遂げよう。

鳩尾に溜まるせめてが発火する  藤井寿代

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腐乱するまでA 4に色を塗る  くんじろう


  井伊直弼

「井伊直弼」

井伊直弼は先々代の藩主・井伊直中の14男として彦根に生まれる。

兄弟が多く庶子であったため、藩政の表舞台に立つ機会はなく、

世捨て人のように、諦観を抱えながら生きていた。
               なおあき
そんな時、兄で藩主、直亮の子が急逝する。

直亮には他に嫡子がなく、

「井伊家の血を絶やすことはできない」

と、考えた彦根藩は、直弼に白羽の矢を立てた。

経験上から枯木に花は咲きません  勝比古

こうして井伊直弼は嘉永3年(1850)直亮の死を受けて、

第15代藩主となる。

藩主に就任すると、「藩政改革」を実施して、名君と呼ばれた。

しかし不安定な幕政や外国船による脅威など、

こころ休まる暇はなかった。
たまりのま
溜間詰大名の筆頭となった直弼は、黒船来航に伴う江戸湾防備で活躍。
まさよし
この頃、江戸城内は水戸藩ら尊王攘夷派と

老中・堀田正睦ら開国派の対立が深刻な問題となっていた。

不遇だった青少年期から諸国の情勢を学んでいた直弼は、

もともとは「鎖国論者」だったが、わが国を守るためには

列強との通商貿易が必要であるとして「開国」を主張。
                           よしとみ
また、将軍継嗣問題では紀伊藩主・徳川慶福を推挙し、
               よしのぶ
直弼ら南紀派は、一橋慶喜を推す一橋派と対立した。

ライオンの尻尾こすって火をおこす  岡田幸雄



南紀派の政治工作によって、安政5年(1858)に直弼は、

「大老」に就任する。

「通商条約」の締結を求めるアメリカ総領事・ハリスに対し、

直弼は孝明天皇の勅許を待ち、朝廷や幕府、諸藩をまとめた上で

調印に臨もうとしていたが、実現することはなかった。

同年「通商条約」に調印。

これが「違勅調印」にあたるとして、

直弼は一橋派や尊皇攘夷派から攻撃を受ける。

狙われているからツケマツゲをしてる  田中博造

一方の幕府は、そうした反対勢力を粛清する。

いわゆる「安政の大獄」を断行。

直弼はこの弾圧の首謀者とみなされ「井伊の赤鬼」と揶揄された。

外国の脅威を知る直弼は、時勢に「鬼」にならざるを得なかった。

憤怒した志士から命を狙われる存在となった直弼は、

安政7年(1860)桜田門前において、

水戸脱藩浪士ら18人に襲撃され、命を落とした。

この「桜田門の変」によって、江戸幕府の権威は大きく失墜、

尊皇攘夷運動が激化することとなり、

世はさらなる激動期に入っていく。

ロッキングチェアー速報はテロと言う  上嶋幸雀


 間部詮勝像

「青鬼・間部詮勝」
 まなべあきかつ                                       あきひろ
間部詮勝は文化元年(1804)鯖江藩5代藩主・詮煕の3男として誕生。
えつのしん
幼名は鉞之進。
                           あきさね
文化11年7月、兄である6代藩主・間部詮允の急死により、

11歳の若さで7代藩主の座につく。

文政9年(1826)6月、22歳の時。奏者番として幕政に関わる。

奏者番=一万石以上の譜代大名が任命される職で、
年始や節供などに大名が将軍に謁見するときその取次ぎ。
その姓名や進物を披露するなど、殿中の礼式を取り仕切った。

以後、奏者番の任命を皮切りに、詮勝は順調に出世階段を上っていく。

天保元年(1830)寺社奉行見習い(27歳)、翌年、加役に昇進。

天保8年に大坂城代に就任(34歳)、翌年には京都所司代を務める。

そして、天保11年1月、詮勝は37歳で、

幕閣の最高位である西丸老中となる。

一本の靴紐として参加する  筒井祥文

しかし天保14年、「天保の改革」を進めていた水野忠邦から、

病気を理由に西丸老中職を解任され、幕政から離れる。

地元に帰った詮勝は、悠々自適の中で、琴や碁、書画に親しむ一方、

広く蘭学者と接し、海外事情の研究を進めた。

また公園をつくったり、「学業奨励」など、「藩政改革」

「海防策」を整え、「洋式兵制の採用」

藩校・「進徳館」を設置している。

ボクの頭に中二階をつくる  本多洋子

安政5年(1858)、井伊直弼に罷免された堀田正睦に代わる形で

詮勝はふたたび、幕閣の老中の座に座ることとなる。

世に言う「井伊の赤鬼」に並ぶ「間部の青鬼」のタッグ誕生である。

詮勝にとって、実に15年ぶりの幕政への復帰になった。

大老からは早速、「老中勝手掛兼外国御用掛」の職を任された。

当時、日本は開国をめぐり是非の論議が激しく交わされ、

国情が不安定な時である。

このようなときに詮勝は老中として、外国問題を託されたのである。

即戦力託されました紙コップ  徳山泰子

時代の流れに逆らえず、詮勝は直弼の命で「安政五カ国条約」に調印。

詮勝の独断にも見える形で、朝廷の許可を得ず、条約調印を果した。

その後、詮勝は朝廷に参内し、条約調印の説明をしているが、

「朝廷無視・条約調印」に怒る尊攘派の暗殺の対象にされる。

そこで幕府はその抵抗派を摘みとっていく政策を断行する。

それが「安政の大獄」である。

亀甲を焙るヒトラーが飛び出す  井上一筒



その後詮勝は「安政の大獄」の志士の処分をめぐって、

厳罰主義の大老・井伊直弼と意見を異にし、老中を解職され帰郷。

この時、詮勝は志士の命を擁護したという。

青鬼は意外と「いい鬼」だったのだ。
あきざね
そして、文久2年(1862)に藩主の座を詮実に譲り、

雅号を「松堂」とし詩とか絵画を嗜み、控えめな余生を過ごしつつ、

明治17年11月28日まで生きた。享年81歳。

 なお、松陰が「間部詮勝襲撃計画」を画策したのは、

  松陰が京都から戻った塾生から、

  詮勝が朝廷無視の主謀者と聞いたから といわれる。

先ず生きる色や形はそのうちに  嶋沢喜八郎

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魔がさして生まれた日から主人公  桑原すヾ代


 萩・反射炉

鉄製大砲の鋳造に必要な金属溶解炉。

長州藩の軍事力強化の一環として導入が試みられるも未完成に終る。

しかし、反射炉が現存するのは韮山と萩の二ヶ所だけであり、

貴重な文化遺産になっている。

「地雷火」


 松下村塾講義風景

松陰が松下村塾で塾生たちに、教えを施していた期間は2年余り。

建物を構えての正式な形での塾運営は、

安政4年(1857)11月から翌年12月までの、

約1年間に過ぎなかった。

その間に何があったかといえば、まず安政5年6月に、幕府が、

「日米通商条約」をアメリカと結び、正式に開国したことだ。

大老・井伊直弼は当初、天皇の許可が下りるまで、

なるべく条約の調印をしないよう命じていた。
                                   ただなり
しかし米の総領事ハリスと交渉にあたっていた岩瀬忠震らは、

「幕府の外交に勅許は不要」として、調印に踏み切った。

交渉を委任した以上、井伊直弼も開国を了承するしかなかった。

緩やかに確実に病む水の星  斉尾くにこ

これに対し怒ったのが尊皇攘夷を唱える知識人や志士たちである。

彼らは京都に向かい、朝廷に対して幕府の横暴を訴え出たのだ。

「反幕府」の声は全国に飛び火し、各地で議論が沸騰した。

この動きに朝廷の一部の公卿たちも同調し、

井伊直弼の排斥運動に出る。

朝廷が政治に関与してきたのは前代未聞のことだった。

身の危険を察した井伊直弼は、幕権を知らしめるため先手を打った。

京都に集結している尊攘派や幕府批判の志士たちを静めるべく、
        まなべあきかつ
腹心の老中・間部詮勝を京都に派遣。

騒ぎを起こしていた諸藩の志士をはじめ皇族、公家、僧侶、藩主、

幕臣、学者、町人を片っ端から捕らえ、粛清させたのだ。

その数、実に百名以上、「安政の大獄」のはじまりである。

雲母から作った真っ黒い画鋲  井上一筒


   村塾記

長州では松陰が、やはり幕府に対して憤りをあらわにしていた。
 
間部詮勝
が朝廷に乗り込んで、安政の大獄を行なっていることを

知った松陰は、尊皇攘夷の思想のもと、

「間部を暗殺すべし」と叫び、藩の重臣・周布政之助に宛てて

「武器・弾薬を提供していあただきたい」

と書き送ったほか、塾生にも決起を促がした。

松陰自身もまだ血気盛んな年頃。

言動がエスカレートし、いよいよ歯止めが利かなくなった。

驚いたのは当の塾生たち。

「先生、落ち着いてください」といった血判状を出して諌めた。

ハンカチをきれいに畳む愉快犯  くんじろう

後に倒幕思想を爆発させる長州も、この時はまだ、

そこまでの過激な行動に及ぼうとする者はいなかった。

だが、武器の貸与まで願い出た行動を危険視した藩は、

再び野山獄に松陰を投獄した。

その報は、京都や江戸にも届いた。

くちうらを合わせてからの多事多難 佐藤美はる

(拡大して読んでください)

「小野為八」


為八は、文政12年(1829)藩医・山根文季の長男として生まれる。

その後、藩医小野家の養子となるも医業にはつかず、

15歳で松陰に入門。

安政2年(1855)に、外国船を警戒する三浦半島において、

警備の仕事につき、砲術家としての理論と実践を身につけた。  

安政5年(1858)、30歳のとき、ふたたび松下村塾をくぐる。

そして松陰が老中・間部詮勝の要撃を計画し、

「地雷火」の実験を試みた際、

幽閉の身の松陰を背負って現場に行き、

この実験を見学させたという。

ひらかないことを願って「ひらけゴマ」 清水すみれ


    長州砲
この長州砲は郡司鋳造所で製造された

文久3年(1863)長州藩が下関海峡で外国船を攻撃した攘夷戦では、

癸亥丸に乗り込み、砲戦の陣頭指揮をとった。

同年奇兵隊が結成されると、砲術の教師として兵士たちを指導。

その後、慶応2年の長州戦争などにも、砲隊を率いて活躍した。  

維新の後、写真や絵師(雅号・「等魁」)をしながら、

明治40年まで生きた。

あれは幻無かったことにしてしまう  籠島恵子


「郡司鋳造所遺構広場」
階段上にあるのが再現された実物大の「こしき炉」

嘉永6年(1853)のペリー来航をきっかけとして、

幕府が公布した「洋式砲術令」によって、

同年11月、萩藩は「郡司鋳造所」を藩営の大砲鋳造所に指定し、

大量の青銅製大砲を鋳造。  

鋳造された大砲は、江戸湾防備のため、

三浦半島に設けられた萩藩の陣屋に運ばれ、外国船の警戒にあたる。

また文久3年(1863)には、下関海峡での外国船砲撃、

元治元年(1864)、同海峡での下関戦争にも使用された。

正面にみてはいけないものを見る  佐藤正昭

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