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川柳的逍遥 人の世の一家言
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つまずけば人間だもので済まず  藤本秋声

 (各画像は拡大してご覧下さい)
 左から二人目武廣遜

「騎兵隊ー1」

文久3年(1863)3月、14代将軍・徳川家茂と、

その後見役の一橋慶喜は朝廷や長州藩などの執拗な要求に押され、

5月10日をもって、攘夷を決行することを約束する。

しかし、実際に攘夷を行動で示したのは長州ただ一藩だけであった。

この日、馬関を通過しようとしていたアメリカ船に向かい、

長州の砲台が火を噴いた。

さらに続いてフランス、オランダの船にも砲撃を加えたのである。

しかしアメリカ、フランスから報復攻撃を受け、

軍艦や砲台を破壊されてしまう。

悔しいがここは脱帽他日期す  森清泰範


四国艦隊によって占拠された長州藩の砲台。

砲台の脇に立っている人物は軍服を着用していないので、
外交官や通訳といった役割のひとと思われる。

外国の圧倒的な軍事力を身を以って知らされた長州藩は、

萩で隠棲していた高杉晋作に下関の防備を一任する。

そこで晋作は、

6月6日、下関に赴き地元の商人・白石正一郎の居宅で、

外国の攻撃の際に、逃げ惑うばかりだった武士に、

藩の守りを任せることをやめ、身分を問わず、

藩を守る気概に満ちた人材を集めることにした。

こうして町人や農民も参加していた「騎兵隊」を結成。

翌7日に藩庁政府に騎兵隊の綱領を提出し、

27日には騎兵隊の総督を任されている。

骨のあるクラゲ突然出家する  上田 仁


   騎兵隊石碑

騎兵隊の母体となったのは、

久坂玄瑞が下関の光明寺で結成した「光明寺党」で、

最初に入隊したのは、15人と『騎兵隊日記』には記されている。

有志、すなわち志ある者は、身分にかかわらず参加を認めた。

長州藩では正規武士とは一線を画す「長州諸隊」という、

近代型の軍隊であった。

晋作は実際には、わずか2ヶ月ほどしか総督の座におらず、

以後、河上弥市、滝弥太郎、赤禰武人などが総督となり、

その後は名目だけの総督が立てられたりもしたが、

元冶元年(1864)以降は、隊の実権を握っていたののは。

山県有朋だった。

成り行きでわたしが長になりました  一階八斗醁


   武廣 遜

実際のところ、騎兵隊に参加したのはどのような人だったのだろう。

名簿総数640名のうち、武士出身が49・6%

農民出身が40・3%、町人出身が5・0%、寺社関係者が5・1%

見ての通り、実際には約半数が武士、半分が農民を含む庶民という

構成になっていたことが、『長州藩騎兵隊名簿』で分かる。
               たけひろゆずる
文頭の写真の帽子を被った武廣遜九一)は農民出身ながら、

実力で騎兵隊6番隊副隊長にまでなった。

常々写真に紹介される彼こそ、騎兵隊を象徴する人物といえる。

(ちなみにこの武廣は、昭和10年の西南戦争で戦死している)

定規より少し利口な分度器  筒井祥文


   高杉晋作像

騎兵隊がなぜ、旧来の正規兵にはない「強さ」があったのか。

最大の理由は、西洋式の「散兵戦術」を駆使したことにある。

散兵戦術とは、最初、密集していた軍隊が、

進むにつれて広く散会していく戦い方で、

基準となる兵から一分間に、

180歩という猛ダッシュで広がっていくため、

あらかじめ相当に訓練していないと難しい。

兵が広く散会すれば、隊長の指揮、命令は届かなくなる。

つまり各兵士、各部隊長は全体の戦術を理解した上で、

こべつの判断で動かなくてはならない。

猛訓練を積んでいないとできない戦術なのだ。

風の吹くままにノド飴しみてくる  山本昌乃


騎兵隊が生まれた白石正一郎の居宅

寄せ集めの自律性もなく、褒章や評価ばかりを求める幕府の兵士と

比較して、騎兵隊は全く真逆の組織だった。

騎兵隊は有志の集まりであり、

しかも実力しだいで武廣のように、指揮官に出世もできる。

総じて、隊員の出世意欲をかきたて、勉学にも軍事訓練にも、

積極的に取り組むことを後押しするシステムが、騎兵隊にはあった。

そもそも戦いに臨むモチベーションが違った。

これまでの有造無造を束ねよう  宇治田志寿子

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有為転変いろはにほへと散りぬるを  岡田陽一



       長州藩の攘夷戦を描いて絵

「文久3年(1863)」

「文久から元治」へ、幕末がいちばん慌しくなったときである。                                                    
江戸から京へ、京から江戸へ、萩からも薩摩からも京へと、

人が動いた。

そこには、幕末を象徴する出来事が起きる。

長州藩による関門海峡での外国船砲撃や「薩英戦争」

京都では「八月十八日の政変」といわれる

佐幕派のクーデターが起き、

京都を牛耳っていた「攘夷派」が、一掃され、

次への事件を誘発していくのである。

流鏑馬の刹那の風になりにゆく  山本早苗


        御楯組血盟書

「文久三年の出来事」

  3月04日  徳川家茂入洛(家光以来229年振り)新撰組結成。
  3月07日  徳川家茂 参内し孝明天皇に拝謁。
  3月15日     高杉晋作、頭を丸めて名を「東行」と改める。
  4月20日     徳川家茂 朝廷に攘夷期日を「5月10日」と約束。
  6月10日        攘夷決行(馬関戦争火蓋を切る)
  5月12日        井上聞多、伊藤俊輔等、長州5傑禁を犯し渡英。
  6月01日        馬関にて米国軍艦に長州の軍船2隻撃沈される
  6月06日     高杉晋作 白石正一郎邸に入り「奇兵隊」編成開始。
  6月27日        英船艦7隻、生麦事件の責任を問い鹿児島湾に入る。
  7月02日  「薩英戦争」 英国艦隊、鹿児島を砲撃。  
     8月ー      天誅組挙兵。
  8月18日 「八月十八日の政変」 大和行幸中止。
  8月19日 「七卿の都落ち」
         新選組 三条木屋町に桂小五郎の捕縛に向う。
  9月27日    天誅組 大和で壊滅 吉村寅太郎死亡。
    11月19日        米国公使、将軍家茂に国書を呈し鎖国の不可を陳ず。
 12月15日        三条実美、萩より三田尻に帰る。
 12月24日        長州藩が外国船と誤って薩摩の船を撃沈する。

あかりを下さい 先が見えないのです  安土理恵


 長州藩の軍艦-庚申丸

孝明天皇の強い希望により、将軍徳川家茂は、

文久3年(1863)5月10日をもって攘夷の決行を約束する。

これをきっかけに、

武力をもって外国の勢力を追い払おうと考えたのが、長州藩であった。

もともと長州の藩論は、幕府が締結した不平等条約の破棄と、

強硬な攘夷実行が主流だったからである。

しかし、幕府は攘夷を必ずしも、軍事行動とは考えていなかった。

そんな幕府の態度に業を煮やした長州藩は、

馬関海峡を通過する外国船に対し単独で砲撃を仕掛けたのである。

底に着いたら挑戦状を突きつける 立蔵信子
  
   
英国軍に占領された前田砲台

だがその報復として翌月には、

アメリカとフランスの軍艦が長州藩所有の軍艦や砲台を砲撃。

壊滅的な打撃を加えたのである。

しかし長州藩はそれにめげることなく砲台を修復。

対岸の小倉藩領の一部をも占領し、

ここにも砲台を築いて海峡の封鎖を続けた。

甲冑の紐がほどけたままの湖  くんじろう


      外国の砲弾と外国の砲弾

ところが馬関海峡で攘夷のための砲撃を実行している長州藩に

同調する藩は現れない。

しかも欧米艦隊から同藩が攻撃されても、

近隣の藩はただ傍観するばかり。

6月になると、

攘夷の実行を約束していた将軍家茂も江戸へ帰ってしまう。

業を煮やした久留米の真木和泉久坂玄瑞ら、

急進的な攘夷論者たちは、

天皇による攘夷親征(大和行幸)の実行を画策した。

にっちもさっちも蛍一匹さしあげる  田口和代

だが、孝明天皇は攘夷論者ではあったが、

攘夷の実施などは幕府が中心となって行なうべきものと考えていた。
                           さねとみ あねがこうじきんとも
そのため朝廷内の攘夷急進派である三条実美姉小路公知らの

横暴ともいえる行動を内心では、不快に感じていたのである。

天皇は三条らを排除するため、島津久光の上京を期待していたが、

「薩英戦争」の影響もあってそれは叶わなかった。

攘夷親征の先駆けとなる大和行幸の詔は、

8月13日に発せられる。

それとともに会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派は、

尊攘派を一掃するために動き出した。

それはまだ世間知らずの蜃気楼  河村啓子



818の政変により京の都を追われた尊皇攘夷はの三条実美ら
7人の公家が、夜も明けない雨の早朝に長州へと落ちていく。
随行者には玄瑞の姿もあった。

まず、8月15日に京都守護職の松平容保の了解を得て、
                       ていじろう     あさひこしんのう
薩摩藩の高崎正風と会津藩の秋月悌次郎中川宮朝彦親王を訪ね、

親王を擁して尊攘派を一掃する計画を打ち明けた。

翌16日には、中川宮が参内して天皇を説得。

翌17日には、天皇より中川宮へ密勅が下る。

そして、運命の8月18日、

長州藩にとっては、信じ難い出来事が起こったのである。

スマホから頚動脈にメールあり  井上一筒

大和行幸は延期。

この日の早朝、御所の各門は会津、薩摩、淀の藩兵により固められ、

長州藩が守っていた堺町御門の警備の解任。

尊攘派公家と長州藩主父子の処罰が決定。

在京の諸藩主に参内の命が下り、

さらに三条ら尊攘急進派の公家には禁足、面会禁止が命ぜらる。

同時に、攘夷派公家の三条実美沢宣嘉ら7人を排除したのである。

うどんやも蟻のノレンに替えて夏  山本昌乃

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地下街を出て一瞬の方向音痴  木村良三


      江戸の本屋 (拡大してご覧下さい)

「江戸の学問」

江戸時代、社会が安定すると「儒学」の教えが俄かに普及していく。

儒学には、大きく「朱子学」「陽明学」「古学」の3派があり、

その主流をなしたのは、支配者に都合のよい朱子学であった。
しゅし
「朱子学」は南宋の朱熹という人物が大成した学問で、

すでに日本には鎌倉時代に伝来していたが、

君臣上下の身分的秩序を絶対しする「大義名分論」が、

封建的支配の正当性を唱える支配層に、都合がよかったことから、

急速に大名や武士の間に広まった。

この先も隠しと通そと折りたたむ  山本昌乃

「陽明学」は、明の王・陽明が創始した学派で、

知識・道徳はただちに実践に移せと説く

「知行合一」を何より重視する。
とうじゅ
日本で最初に陽明学を信奉したのは中江藤樹であり、

彼は近江聖人と崇められ、多くの門弟を得た。
               ばんざん
その門弟の一人に熊沢蕃山がいる。

熊沢蕃山は岡山藩主・池田光政に登用されたが、
        だいがくわくもん
その著書・『大学或門』で武士は土着すべきだと説いたり、

藩政を批判したため、下総国・古河に幽閉された。

陽明学者には、佐久間象山、吉田松陰、大塩平八郎といった

反体制派の人々が多く、幕末の志士にも同学を奉じる者が多数いた。

行き先は左右の足に聞いとくれ  佐藤美はる


   山鹿素行

朱子学や陽明学にあきたらず、

孔子や孟子の原点から学ぼうとした一派を「古学派」と呼ぶ。

同派は山鹿素行の聖学派、伊藤仁斎の堀川学派、
おぎゅうそらい
荻生徂徠の古文辞学派に分かれる。

山鹿素行は、朱子学を非難して赤穂に流されたが、

のちに赤穂の浅野家に仕えている。

松陰が相続した吉田家が代々、山鹿流師範家となっており、

松陰の根っ子には、山鹿素行の教えがある。

分裂のきざし何かスタートするらしい 安土理恵


「講孟余話」

松陰がペリー艦隊に密航しようとして失敗し、

江戸伝馬町の獄につながれた後に、故郷の長州へ移送され、

萩城下の野山獄と杉家幽室で幽囚の身であった時、

囚人や親戚と共に、孟子を講読した読後感や批評し、
               こうもうさっき
意見をまとめた書を『講孟箚記』という。

「箚」は針で刺すという意味で、松陰の書物を読む姿勢を示しているが、

のちに「講孟余話」と改題している。

鋭角に刺す某日の反射角  徳山泰子



国民の海外との交流を制限することで、江戸幕府は250年という

気の遠くなるような月日を、安穏と支配することおが出来た。

しかしそのせいで、国民には世界情勢がまったく伝わらず、

日本という小国が世界のすべてであるかごとき

錯覚を与えてしまった。

そんなところへ、

近代を象徴する巨大な蒸気船に乗ったペリーが来航。

錆びついた鎖を断ち切って日本国の扉をこじ開けたのである。

泥よけて生きてきたけど泥の中  石橋能里子



 海防憶測

このように強力な諸外国の開国要求に直面している状況の真っ只中、

急速に変化する状況で新しい対応策が必要であると、

松陰は痛感していた。

そして松陰は、『海防憶測』『近時海国必読書』

海外の「禁書」を読み漁った。

そして孟子の『至誠にして動かざる者は未だ之れ有らざるなり』

の言葉に行きつくのである。

「誠心は高い極限の形であり、強く人に訴える力を発揮する」

と松陰は確信。

その確信をまず身の回りの人々へ伝播・実践したのが、

まさに「講孟」である。

挫折した枝から伸びてきた新芽  森 廣子        


松洞が描いた松陰像7枚の内の一枚(違いを見て下さい)

松陰はつぎのような言葉から話し出した。
                         や   ひこう  ふせ
『我れ亦た人心を正しくし、邪説を息め、詖行を距ぎ、
                   つ
淫辞を放ち、以て三聖者を承がんと欲す』

「全章の主意は、この一節にある。

またこの一節は、人心を正しくするというこの言葉に帰着する。

まさしく孟子が終身みずからに課したものもここにあった」と。
                    う
「そもそもこの章は、むかし禹が洪水を治め、
    いてき
周公が夷狄を征服し、猛獣を駆逐して百姓を安らかにし、

孔子が『春秋』を完成した事蹟に、

孟子がみずからを対比しているところである」と。

あれからの海とこれからの生き方と  墨作二郎
  

松洞が描いた松陰像7枚の内の一枚

重ねて、松陰は孟子を引用する。

「今日もっとも憂うべきものは、人心の不正ではなかろうか」

「そもそもこの人心が正しくない場合には、洪水を治めたり、

猛獣を駆逐したり、夷狄を征服したり、

逆臣を誅殺したりすることなど、
どうしてできるはずがあろうか。

天地は暗黒と化し、人道は絶滅してしまうのだ。

まことに思うだに恐ろしいことで注意すべきことである。

それゆえ孟子はこのことを深くおそれて、

邪説から人心を救おうとつとめたのである」と。

今日には今日の華として六根清浄  山口ろっぱ


海防論のきっかけになったモリソン号の図

【豆辞典】ー〔禁書〕
                     またすけ
松陰は16歳のとき、長沼流の兵学者・山田亦介から

禁書・『海防憶測』を勧められた。
                   どうあん
海防憶測は昌平坂学問所の儒者・古賀侗庵がロシアなどに対する

海防の必要と対策を記し、亦介が印刷・配布したものだが、

幕府はこれら海外事情を伝えるもののほとんどを禁書にしていた。

コンパスで描いた円はつまらない  竹内ゆみこ

海外情報に関する当時の禁書には次のようなものがある。

『近時海国必読書』は、西洋人の渡日記録や西洋史の翻訳をはじめ、

諸家の海防論などをまとめた大部の書で、

文化~天保年間(1804~1843)に刊行された。

陸奥仙台藩士林子平『海国兵談』はロシアの南下を警戒した林が、

全国を回って諸外国の状況を説いた書である。

どこの版元にも断られて自費出版したが、幕府の絶版処分を受け、

林は蟄居処分を受けた。

大粒の涙がモノクロで写る  前中知栄

三河の渡辺崋山の著・『慎機論』と陸奥・高野長英『夢物語』は、

ともにモリソン号事件(天保8年〔1837〕)での幕府の対外政策を

批判した本で、渡辺崋山は国元蟄居を命じられ、自害し、

高野長英は捕らわれてのち、自害した。

(モリソン号はアメリカ商船で、救出した日本人の漂流民を

送還してきたが
幕府は漂流民を受け入れないままモリソン号を撃退した)

栞に化けたナポレオン・ボナパルト  井上一筒

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電池みな入れ替えましたけれど雨  山本早苗

(拡大してご覧下さい)
   生麦事件(明治になって想像で描かれた)

捕らえられた英国人が島津久光の前に連れてこられている。
実際には、久光は駕籠からでていない、
斬捨てを命じた記録もない。
当時は、久光の武勇伝となっていた。

「1862年」

大老・井伊直弼が非業の死を遂げた後、

混乱する幕府を担ったのは老中の安藤信正であった。
                                 ひろちか
信正は直弼によって罷免させられていた久世広周を老中に

返り咲かせ、政権内部の井伊色を一掃したのである。

そして老中による桜田門外事件の取調べは曖昧なままで終わらせ、

水戸斉昭が万延元年(1860)急死すると、

事件の要因となった「密勅返納問題」もうやむやにしてしまった。

もうおぼろ すべてはおぼろおぼろなり 大海幸生

安藤・久世政権は破綻していた公武の融和策を再開することを決定。

孝明天皇の妹・和宮を、将軍・家茂の正室に迎える計画を推進する。

これが実現すれば天皇と将軍が義兄弟となり、

国難に協力してあたる道筋ができるのだ。

こうして、和宮内親王に徳川家茂への降嫁が決まり、

翌文久元年10月、京を発って江戸へと向かった。

この降嫁は、尊皇攘夷を唱える勢力からは、

幕府が朝廷の力を利用したように映った。

矢印はいいな疑われたことが無い  中岡千代美


  島津久光

推進者であった安藤信正は、婚儀直前の

文久2年(1862)1月15日、

坂下門外で水戸浪士らに襲われた。

さすがに命を落とすことはなかったが、

安藤は4月11日に老中を解任されてしまう。

安藤解任と同じ頃、

薩摩藩主の実父で「国父」と称した島津久光

兵を率いて京に上り、幕政改革の意見書を朝廷に提出。

そして、文久2年4月23日に、過激な倒幕行動を画策していた、

薩摩藩や諸国の尊王志士が集まる伏見の寺田屋に使者を派遣。

命に従わなかったために、粛清している。

電線も黄泉の国まで雪になる  森 廣子               

この事件がきっかけとなり、久光は朝廷から絶大な信頼を得た。

そして勅旨を伴い江戸へ下向。

将軍に国政改革を要求した。

この一連の出来事は、藩主でもない久光が政局中央に

華々しく存在感を示したことになる。

建白の内容は、「公武合体」「朝廷の権威の振興」

「幕政改革を実現」させること、というものであった。

それは幕府独裁ではなく、有能な人材を配して朝廷と話し合い、

国の方針を決めるものであった。

生きて死ぬまではヒト形着ぐるみ  山口ろっぱ

そして久光の目論見通り、

将軍後見役に一橋慶喜、政事総裁職に松平春嶽を登用。

目的を果たした久光は、さらに江戸にとどまり、

慶喜と春嶽に幕政改革を要求した。

幕府は、権威を背景とした久光の要求を拒むことが出来ず、

国内外に自らの権威が失墜したことを晒してしまう。

6月7日から江戸に滞在していた久光一行は、

すべての周旋を終えて8月21日に江戸を後にした。

哲学の道で拾ってきた記憶  山本昌乃

 
事件の起こった生麦村付近の古写真 (拡大してご覧下さい)

この付近でリチャードソンの遺体が発見された。
右、リチャードソンの遺体。
英国人4名は、上海から避暑に来ていたため、
日本の事情には疎かった。


そして京都へ戻る途中、思いもよらぬ事件を起こしてしまう。
               たちばなぐん  なまむぎむら
久光の行列が武蔵国・橘樹郡・生麦村付近にさしかかった時、

乗馬のまま、島津久光の駕籠近くまで乗り入れた英国人4名に、
        ならはらゆきごろう
薩摩藩士・奈良原幸五郎は、「無礼者!」と一喝するやいなや、

腰の刀を引き抜き、一行に斬りかかった。

文久2年8月21日の 「生麦事件」である。

結果、チャールス・レイックス・リチャードソンという男性が死亡、

2名は重傷を負う。

当時の武士が主君を守る行為は自然のことだし、

久光が咎めなかったのも、普通のことだった。

しかし、これが幕末震動の重大な問題に発展していく。

跳び箱の内部はがらんどうでした  福光二郎


寺田屋で斬り合う薩摩藩士

「ついでに」ー二つの寺田屋事件

「一つ目の寺田屋事件」
(薩摩藩粛清)

薩摩藩主・島津久光によって鎮撫された事件である。

当時、薩摩藩には島津久光を中心とする公武合体を奉ずる

「温和派」と勤王討幕を主張する「急進派」との二派があった。

久光にはこの当時、倒幕の意志などはまったくなく、

朝廷から急進派鎮圧の密命をうけ、藩兵千名を率い上洛した。

これを知った有馬新七ら30余名の急進派の同志は、
                            なおただ
文久2年(1862)
4月23日、関白・九条尚忠

所司代・酒井忠義を殺害すべく、

薩摩藩の船宿であった寺田屋伊助方に集まった。

これを知った久光は藩士・奈良原ら8名を派遣し、

新七らの計画を断念さすべく説得に努めたが失敗、

遂に乱闘となり新七ら7名が斬られ、2人は重傷を負った。
                          つなよし
この後、
新七は示現流剣術の達人・大山綱良によって上意討ちされる。

好き半分嫌い半分石榴の朱  嶋澤喜八郎

「二つ目の寺田屋事件」ー(こちらの方が有名か)

慶応2年(1866)
1月23日、

京で「薩長同盟の会談」を斡旋した直後、


薩摩人として宿泊中の坂本龍馬を、伏見奉行の林肥後守の捕り方が

捕縛ないしは暗殺しようと寺田屋を取り囲んだ。

その異変にいち早く気づいたのが、後の龍馬に妻になるお龍

入浴中だったお龍は、裸のまま2階へ駆け上がり、

龍馬に危機を知らせた。

捕り方に踏み込まれた龍馬たちは、拳銃などで応戦。

龍馬は親指を負傷したが、何とか寺田屋を脱出して木材屋に潜む。

仲間の三吉慎蔵は、伏見薩摩藩邸に駆け込み、救援を要請。

救援をうけた薩摩藩は、川船を出して龍馬を救出した。

龍馬は、様々な人の機転により九死に一生を得た。

ナメタラアキマヘンという涙跡  森田律子

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満月の雫を綴る銀の針  井上一筒


  玄瑞自筆の書簡
4月27日に発見された、玄瑞が小田村文助にあてた書簡。

「玄瑞の手紙」 

手紙の日時は旧暦のため現在の暦に合わせるには、
一ヶ月半ほど後ろへ。
例えば、3月28日であれば、5月中頃となります。



「文久2年(1862)」 4月
3月28日と4月4日の手紙はたしかに受け取りました。
私たちもこの頃は京都藩邸のうしろに住み、
佐世、楢崎兄弟、寺島、中谷、真五郎など同居しています。
杉蔵、和作、弥二などが追々訪ねてきます。
面白く楽しいのはこのときでございます。
しかし3月13日松洞が切腹したことは非常に残念です。
松洞の家へ手紙を出したいのですが、何とも言いようがなくて、
手紙を出せないでいます。

梅兄にすぐにお金を借りることができ大きなしあわせです。
玉木文之進おじ様が藩の役職につかれて、お慶び申し上げます。

さて、毛利の若殿様がご上京になりますことは
非常にありがたいことです。
そして本当にありがたいご意向をお示しになられたそうで、
これまではいろいろと苦心いたしましたけれども、
御意を表明されたことで、私も生き返ったような心地がいたします。
このことはずいぶんとご安心してください。

四月朔日                    玄瑞在京都
尚々ご用心してください。
杉家の皆さん方へもよろしく申しあげられますよう、
お頼みします。          
以上。                    
お文どの


忙しい中からひとときを摘む  立蔵信子



この頃の玄瑞の懊悩煩悶はひとえに、
    うた
長井雅楽「航海遠略策」が藩論となって、

跳梁跋扈していることだった。

松洞は長井雅楽の「公武合体論」に反対し、

暗殺を企てるが失敗し、京都粟田山で割腹自殺を遂げている。

26歳だった。

 杉蔵(入江九一)、和作(野村清)、弥二(品川弥二郎
         松洞(松浦亀太郎)、毛利の若殿(毛利定広)、
         楢崎兄弟(弥八郎と仲助
佐世(八十郎)、寺島(忠三郎
         中谷(正亮)・真五郎(堀真五郎


化石をほぐすとこぼれ出すロマン  和田洋子

「文久2年」5月28日
…前略…
さて、夏物の着物をお送りくだされ、大きな幸せでございます。
お国許を旅立ったときは、
なかなか夏物は必要と考えなかったのですが、
このところの様子では、
いつまで滞在しなければならないか予測が出来ず、
長期間の在陣になるかもしれません。
詳しくは杉蔵から聞いてください。

亀太郎のことは、さてもさても気の毒千万で、
老いた母の悲しみが思いやられます。
こちらでも墓は立派に建てましたが、
拙者もこの節はいろいろ心配ばかりで、
十のものが九までは思うようにならず、
ちっとも藩へのご奉公の効果がなくて、恥ずかしい次第です。
吉田松陰先生さえいらっしゃればと残念に思うばかりです。

錆び色の艶出しながら生きている  上山堅坊

…中略…
さてこのたびのことに関しましては、
婦人にもなかなか感心なものが沢山おります。
久留米の真木和泉という神主の娘はこのたびのことについて、
上方へ上ったときに詠んだ歌は素晴しいです。
"梓弓はるは来にけり武士の花 咲く世とはなりにけるかな"
(弓を張るのと、これから新しい春がやってくるというのにかけて、
   もののふの花咲く時代がやってくる、と長州が天皇を奉って
   大攘夷を実行するということを喜ぶ歌を詠んでいます)

和泉守というのは、私も非常に心安い男であります。
この弟は大鳥居理兵衛といって、
先日、筑前の黒崎というところで切腹されたほどの人でございます。
また、梅田源次郎の姪のお富という女の詠める歌もお送りします。
これはお富の直筆です。
杉蔵の妹もじつに感心な人です。
杉蔵の妹が杉蔵へ送った書状もお読みください。
私は今日も忙しいので、おおよそのところを申し送ります。

五月二十八日                玄瑞

当分はピンクで埋めておく余白  田岡 弘



真木和泉は玄瑞と最後まで行動をともにした同士であった。

いよいよ攘夷が実行されるときが来て、和泉の娘の歌には、

父・真木和泉がいかに攘夷を待ち望んでいたかが読みとれる。

梅田雲浜はこのときすでに亡くなっているが、

雲浜の姪である富子は玄瑞と文通し、

雲浜の遺志を継いで尽力する女傑であった。

うんうんと頷く人がそばにいる  河村啓子

いよいよ雲浜の遺志を実現できる世の中へと

変化しつつあることを喜び、玄瑞、九一、前原一誠などが、

富子を料亭に招待し、

その席上で富子は歌を詠んだ。

玄瑞が文への手紙に封入した直筆の歌がこれである。

"在りし世のことこそ思へ懐かしな 花橘の咲くにつけても"

"思ふかな枯れにし庭の梅の花 咲き返りぬる春の空にも"

富子はその後も長州藩の志士たちと公家の大原重徳卿との間の

書状の往復の使者の役目を請け負っていた。

宝石になるまで磨くつもりです  竹内ゆみこ

杉蔵の妹・すみ子の手紙も、玄瑞は杉蔵から見せてもらっていた。

兄二人が尊攘運動の中、父もおらず幼い頃から貧苦と闘いながら

年老いた母を助けて、家事をするすみ子に感銘を受けていた。

松陰も女性だから教養は必要ない、というような人ではなかった。

玄瑞はその師の教えを受け継いだというより、

玄瑞も、もともと人として、武士の妻として、

修養が心の糧となることを

文に一生懸命に伝えようとしたのである。

下書きの便箋だけが知る本音  上嶋幸雀


  真木和泉

「真木和泉」

筑後国久留米、水天宮の神職に生まれた真木和泉は、
            あいざわせいしさい
江戸に出て水戸の会沢正志斎に面会し、尊攘思想の影響を受ける。

久留米に帰ると水戸学の思想を盛んに唱え、
       よりとう
藩主・有馬頼永に藩政改革意見を上申したが受け入れられず、

蟄居を命じられた。

日の昇る水平線を信じたい  森田律子

11年におよぶ幽閉中、

和泉のもとを諸国の志士たちが密かに訪れることも多かった。

文久2年、大久保利通らと、公武合体政策推進派で

薩摩藩の最高権力者・島津久光を擁立して上京。

しかし、「寺田屋の変」で久留米に護送、幽閉される。

赦免後、「8月18日の政変」が起こると長州藩へ逃れた和泉は、

元治元年(1864)、攘夷派の玄瑞来島又兵衛ら同志と

「禁門の変」を起こすも敗れ去る。

そして、敗走中に新撰組の追撃を受けて自害した。

新しく今日も旅立つ千の風  大西將文

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