地下街を出て一瞬の方向音痴 木村良三
江戸の本屋 (拡大してご覧下さい)
「江戸の学問」
江戸時代、社会が安定すると「儒学」の教えが俄かに普及していく。
儒学には、大きく
「朱子学」「陽明学」「古学」の3派があり、
その主流をなしたのは、支配者に都合のよい朱子学であった。
しゅし
「朱子学」は南宋の朱熹という人物が大成した学問で、
すでに日本には鎌倉時代に伝来していたが、
君臣上下の身分的秩序を絶対しする
「大義名分論」が、
封建的支配の正当性を唱える支配層に、都合がよかったことから、
急速に大名や武士の間に広まった。
この先も隠しと通そと折りたたむ 山本昌乃
「陽明学」は、明の王・
陽明が創始した学派で、
知識・道徳はただちに実践に移せと説く
「知行合一」を何より重視する。
とうじゅ
日本で最初に陽明学を信奉したのは
中江藤樹であり、
彼は近江聖人と崇められ、多くの門弟を得た。
ばんざん
その門弟の一人に
熊沢蕃山がいる。
熊沢蕃山は岡山藩主・
池田光政に登用されたが、
だいがくわくもん
その著書・
『大学或門』で武士は土着すべきだと説いたり、
藩政を批判したため、下総国・古河に幽閉された。
陽明学者には、
佐久間象山、吉田松陰、大塩平八郎といった
反体制派の人々が多く、幕末の志士にも同学を奉じる者が多数いた。
行き先は左右の足に聞いとくれ 佐藤美はる
山鹿素行
朱子学や陽明学にあきたらず、
孔子や孟子の原点から学ぼうとした一派を
「古学派」と呼ぶ。
同派は
山鹿素行の聖学派、
伊藤仁斎の堀川学派、
おぎゅうそらい
荻生徂徠の古文辞学派に分かれる。
山鹿素行は、朱子学を非難して赤穂に流されたが、
のちに赤穂の浅野家に仕えている。
松陰が相続した吉田家が代々、山鹿流師範家となっており、
松陰の根っ子には、山鹿素行の教えがある。
分裂のきざし何かスタートするらしい 安土理恵
「講孟余話」
松陰が
ペリー艦隊に密航しようとして失敗し、
江戸伝馬町の獄につながれた後に、故郷の長州へ移送され、
萩城下の野山獄と杉家幽室で幽囚の身であった時、
囚人や親戚と共に、孟子を講読した読後感や批評し、
こうもうさっき
意見をまとめた書を
『講孟箚記』という。
「箚」は針で刺すという意味で、松陰の書物を読む姿勢を示しているが、
のちに
「講孟余話」と改題している。
鋭角に刺す某日の反射角 徳山泰子
国民の海外との交流を制限することで、江戸幕府は250年という
気の遠くなるような月日を、安穏と支配することおが出来た。
しかしそのせいで、国民には世界情勢がまったく伝わらず、
日本という小国が世界のすべてであるかごとき
錯覚を与えてしまった。
そんなところへ、
近代を象徴する巨大な蒸気船に乗ったペリーが来航。
錆びついた鎖を断ち切って日本国の扉をこじ開けたのである。
泥よけて生きてきたけど泥の中 石橋能里子
海防憶測
このように強力な諸外国の開国要求に直面している状況の真っ只中、
急速に変化する状況で新しい対応策が必要であると、
松陰は痛感していた。
そして松陰は、
『海防憶測』や
『近時海国必読書』や
海外の
「禁書」を読み漁った。
そして孟子の
『至誠にして動かざる者は未だ之れ有らざるなり』
の言葉に行きつくのである。
「誠心は高い極限の形であり、強く人に訴える力を発揮する」
と松陰は確信。
その確信をまず身の回りの人々へ伝播・実践したのが、
まさに
「講孟」である。
挫折した枝から伸びてきた新芽 森 廣子
松洞が描いた松陰像7枚の内の一枚(違いを見て下さい)
松陰はつぎのような言葉から話し出した。
や ひこう ふせ
『我れ亦た人心を正しくし、邪説を息め、詖行を距ぎ、
つ
淫辞を放ち、以て三聖者を承がんと欲す』
「全章の主意は、この一節にある。
またこの一節は、人心を正しくするというこの言葉に帰着する。
まさしく孟子が終身みずからに課したものもここにあった」と。
う
「そもそもこの章は、むかし禹が洪水を治め、
いてき
周公が夷狄を征服し、猛獣を駆逐して百姓を安らかにし、
孔子が『春秋』を完成した事蹟に、
孟子がみずからを対比しているところである」と。
あれからの海とこれからの生き方と 墨作二郎
松洞が描いた松陰像7枚の内の一枚
重ねて、松陰は孟子を引用する。
「今日もっとも憂うべきものは、人心の不正ではなかろうか」
「そもそもこの人心が正しくない場合には、洪水を治めたり、
猛獣を駆逐したり、夷狄を征服したり、
逆臣を誅殺したりすることなど、どうしてできるはずがあろうか。
天地は暗黒と化し、人道は絶滅してしまうのだ。
まことに思うだに恐ろしいことで注意すべきことである。
それゆえ孟子はこのことを深くおそれて、
邪説から人心を救おうとつとめたのである」と。
今日には今日の華として六根清浄 山口ろっぱ
海防論のきっかけになったモリソン号の図
【豆辞典】ー〔禁書〕
またすけ
松陰は16歳のとき、長沼流の兵学者・
山田亦介から
禁書・
『海防憶測』を勧められた。
どうあん
海防憶測は昌平坂学問所の儒者・
古賀侗庵がロシアなどに対する
海防の必要と対策を記し、亦介が印刷・配布したものだが、
幕府はこれら海外事情を伝えるもののほとんどを禁書にしていた。
コンパスで描いた円はつまらない 竹内ゆみこ
海外情報に関する当時の禁書には次のようなものがある。
『近時海国必読書』は、西洋人の渡日記録や西洋史の翻訳をはじめ、
諸家の海防論などをまとめた大部の書で、
文化~天保年間
(1804~1843)に刊行された。
陸奥仙台藩士
林子平の
『海国兵談』はロシアの南下を警戒した林が、
全国を回って諸外国の状況を説いた書である。
どこの版元にも断られて自費出版したが、幕府の絶版処分を受け、
林は蟄居処分を受けた。
大粒の涙がモノクロで写る 前中知栄
三河の
渡辺崋山の著・
『慎機論』と陸奥・
高野長英の
『夢物語』は、
ともに
モリソン号事件(天保8年〔1837〕)での幕府の対外政策を
批判した本で、渡辺崋山は国元蟄居を命じられ、自害し、
高野長英は捕らわれてのち、自害した。
(モリソン号はアメリカ商船で、救出した日本人の漂流民を
送還してきたが幕府は漂流民を受け入れないままモリソン号を撃退した)
栞に化けたナポレオン・ボナパルト 井上一筒[5回]