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川柳的逍遥 人の世の一家言
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蒸発をためらっているヘソの水  雨森茂喜



日本海に面した萩は、「関が原の戦い」後に、

長州藩の本拠となり、
幕末に至るまで城下町として栄えた。

「大河は戦国から幕末へと流れる」

因縁というのか、神のいたずらというのか、

徳川時代の始まりを助けたのも、徳川時代の終わりに楔を打ったのも毛利藩。

美濃において行なわれた「関が原の戦い」は、東軍の勝利に終わった。

傍観に徹した毛利軍は、戦わずに戦場を離脱する。

その報せは、直ちに大坂城にいる西軍総大将・毛利輝元へ届けられた。

輝元は迷った、

「関が原で西軍が敗れた以上、抵抗は無駄であろう。

  とはいえ、まだ大坂城には秀頼様と自分がいる。

   籠城して緒将に参戦を呼びかければ十分対処できるであろう」と。

実際、関が原で戦わずに終わった従弟の毛利秀元は、

徹底抗戦を望んでおり、輝元もそれに応えたい気持ちはあった。

ユーモアの影に冷酷な客観  八木侑子

しかし、東軍に内応した張本人である吉川広家は、

「輝元の西軍総大将就任は本人が望むところにあらず」

家康に弁明する。

家康はこれを許し、

「輝元は名目上の総大将に担ぎあげられたに過ぎないと聞く、

 毛利の本領は安堵する」

との書状を大坂城の輝元に送付した。

「これで毛利家は安泰である」 

そう安心した輝元は抵抗をやめ、

合戦から10日後の、9月24日に大坂城を退去した。

青竹の不意にしなってエラ呼吸  森田律子


   毛利輝元

その後、家康は輝元に代わって大坂城へ入城し、戦後処理に入る。

ここで家康は、西軍に加担した緒将を徹底的に弾圧にかかり、

反乱の芽をつぶしにかかった。

まず、西軍の首謀者である石田三成・小西行長・安国寺恵瓊の3人は、

打ち首としその領地を没収した。

五大老だった宇喜多秀家は57万石の領地を没収し、八丈島へ流罪。

上杉景勝を会津120万石から、米沢30万石に減封する。

マーキング柑橘類を滴らす  高島啓子

そして魔の手は毛利家にも伸びてきた。

輝元が西軍の総大将として積極的に活動していた証拠となる書状が、

多数発見されたためである。

「先の吉川広家の弁明は事実ではなかった。

   西軍の総大将となった罪は重い。よって毛利家は改易とし、

   吉川広家には周防、長門の2ヶ国37万石を与える」

と通告した。

これを受けた広家は仰天し、毛利本家存続のため必死の懇願を試みる。

鳩尾で軋む半分ほどの罪  上田 仁

「私に対するご恩顧は決して忘れませんが、

 毛利本家を残して戴きたくお願い申し上げます。

     万一、輝元が徳川に対し弓引くようなことがあれば、

     私が輝元の首をとって差し出す覚悟でございます」

 と、家康に直談判したのである。

10月10日、この熱意に家康も折れ、

広家に与えられるはずだった、周防、長門の2ヶ国を毛利本家に与え、

輝元、秀就父子の命えお保障すると約束した。

苦の種は蒔きたくはない余命表  有田晴子

関が原から3年後の慶長8年(1603)

家康は、江戸に全国の大名を統括する幕府を開く。

そして、慶長20年には「大阪の陣」によって豊臣家を滅ぼし、

名実ともに天下人の座についたのである。

毛利ほか諸大名は徳川家から、

「領地(藩)預かる」という形となり、幕府体制が始まった。

東北東から事実無根になってなってゆく 山口ろっぱ


長州13代藩主・毛利敬親(たかちか)

広家の嘆願により、お家の存続を許された毛利家はその後、

長門の一字から「長州藩」と通称されることになる。

元就以来から守り抜いてきた120万石を、

周防、長門2国37万石のみに減らされた恨みは、

江戸時代を通じ、「長州毛利家」に根付くこととなる。

「花燃ゆ」
幕末維新という激動の時代において、多大な役割を果たした長州藩。
その城下町である萩で有能な志士たちを育てたのが吉田松陰であり、
彼を助けたのが妹の杉文だった。
「花燃ゆ」は、家族や松下村塾生とともに破天荒な兄を支え、
「自分に何ができるか」を問いつづける一人の少女の物語である。

これからのブログは、この「文」の史料が少ないので、
この時代に生きた人物や事件を中心に続けていきたいと考えています。
これからも、よろしくお願いいたします。

蓮根の不思議なる穴神の技  たかもり紀世

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その場所になくてはならぬ釘になる  森 廣子
 

黒田24騎、福岡城の前の福岡銀行のロビーに勢揃い。
               (拡大してごらん下さい)


  母里太兵衛        (拡大してごらん下さい)

黒田家は如水の父親の代から家臣を大切に扱ってきた。

如水は家臣団を信じ、家臣団も主君を信じて戦ってきた。

彼らは、「戦国最強の絆集団」だった。

その集団をうまく継承させるために如水は、

父に倣って早く隠居し、

黒田24騎に比べて若年の長政に家督を譲る。

自分と一緒に戦ってきた歴戦の勇士たちに、

若い長政を補佐してもらうようにした。

これは事業継承であり、後藤又兵衛を除いては、うまくいき、

如水から長政との連携で、黒田52万石の礎を築いた。
        たま
結び目の魂あるごとく発光す  大西泰世

「黒田24騎ー3、及び、福岡城を偲ぶ」

 (各写真は拡大してご覧ください)

原種良(弥左衛門)-1557~1639

<戦場のシンガー>

足利直冬に豊前国・宝珠山に領地を与えられて分かれた筑前の

名門・原田氏の一族の出で、

香春岳城主であった父が戦乱で領地を失ったため、救援を求めた。

秀吉の九州平定後に3百石で抱えられ、

原弥左衛門と名乗るようになった。

それまで名乗っていた宝珠山は長すぎると官兵衛に指摘されたため。

第一回城井攻めにて長政が敗北した際、

しんがりを務めていた種良は、馬を泥田に落してしまった。

すると日ごろ無口な種良は、突然歌を唄いだし

あっけにとられる敵の前で

悠々と馬を引き上げ帰陣したという逸話が残っている。

筑前入国後は2千石を拝領。

和歌をたしなみ、連歌のめいじんでもあった。

太陽が光る私は日に焼ける  谷口 義         


久野重勝(四兵衛)-1545~1592

<父の代から仕えた区画整理の達人>

一族の発祥地は駿河国久能山。

最初は官兵衛の小姓として仕えた重勝だが、後に黒田家の家老となる。

九州攻めの高祖城では一番乗りを務め、秀吉から感状を与えられた。

九州平定後は荒廃した博多の復興を命じられ、

駕籠代わりの桶に担がれて現地へ通った。

そして「20日間で町割りの基礎を作った」という言い伝えがある。

豊前国中津にて3千石を拝領。

官兵衛が肥前・名護屋城の縄張りを命じられた時も、

重勝は小銭を使って城下の陣屋割りを手際よく決め、

土地区画の名人ともいわれた。

2キロ向こうの鳩からも褒められた  井上一筒


吉田長利(六郎太夫)-1547~1623

<戦うために生れてきたかのような斬首の達人>

姫路の八代山に城を構えていた八代道慶の子として生まれた。

17歳で官兵衛に出仕。

黒田家家老の吉田姓を授かり、吉田太郎太夫長利を名乗った。

父譲りの豪傑で、常に二間半の槍を持ち歩き、

戦場に臨むこと生涯で59度。

一度に首2~3級を取るなど簡単に行い、

官兵衛に「首を取るより兜を取れ」と言われたほどだ。

生涯で挙げた首級は50級。

備中・高松城の水攻めで、

石を積んだ船を並べて一斉に沈める方法を考案した。

鮟鱇に鍋の中から睨まれる  真鍋心平太


    福 岡 城
三宅家義(山太夫)-1552~1619

<無念の長政を窮地から救い黒田家滅亡を阻止>

姫路近郊の三宅の生れで、官兵衛の求めに応じ黒田家家臣となった。

上月城の支城大山城攻めの際、

「あんな小城を落城させるのは朝飯前」 と豪語し、

感心した官兵衛が孫子の一節「不動如山」からとって、

山太夫と名乗らせた。
     きい
第一回城井城攻めで敗北した際、敗北を悔やんで、

その場で討死を望む長政を、無理やり担ぎ上げ、

無駄死を戒めながら片手で馬を引き、


もう片手で長政に取り付いて、なんとか退却させた。

この判断と行動がなければ、

あるいは黒田家は途絶えていたかも知れない。

入道雲に突っ込んでゆく銀バイク  芳賀博子   


衣笠景延(久右衛門)-1552~1631

<武勇・知略に優れた24騎陰の実力者>

衣笠氏は鎌倉御家人の子孫で、代々播磨国・明石郡・端谷城主だった。

景延は最後の城主である範景の弟で、御着城主・小寺家に使えていたが、

与力として黒田家臣となる。

敵を深追いして窮地に立ち、死を覚悟していた栗山利安を制し、

捕えた馬に乗せて助けた。

豊前一揆の際は姫路城を井上之房、黒田一成らとともに猛攻し、

城主・日熊直次を降伏させている。

朝鮮の役では先手を勤め、

同じく先手の後藤又兵衛に引けを取らない活躍を見せた。

筑前入国後は3千石を拝領し、晩年は因幡守を名乗った。

文武両道に通じ、卜斎と号して和歌にも優れた才能を発揮した。
          
待っていて運が開ける筈がない  松本とし子              


    福岡城瓦

小河信章(伝右衛門)ー1554~1593

<文禄の役で活躍するも対馬で散った無念の生涯>

小寺政職の家老・小河良利の弟で、小寺家の没落後は官兵衛に仕えた。

豊前入国後は5千石を拝領。 

第一回・城井攻めの後、母里太兵衛と共に、

豊前一揆討伐のため大村城主・山田常陸守を暗殺した。

文禄の役では平壌と白川を繋ぐ竜泉城を守備。

小西行長が平壌で明軍に敗れて竜泉城まで後退したとき、

鉄砲を駆使して敵を食い止めた。

行長は共に漢城まで撤退することを勧めたが、信章は固辞。

白川城にて明軍の南下を阻止した。

これを聞いた秀吉は1万石への加増を約束し、

帰国命令を出したが、帰国途中に対馬鰐ノ浦で病没となった。

神様が発見される日も近い  栃尾泰子


   福岡城武具櫓 写真

桐山信行(孫兵衛)-1554~1625

<温厚な気性ながら同門・母里太兵衛と大喧嘩>

近江国坂田郡発祥の地侍の子孫で、信行の生れた場所は定かではない。

性格は温厚で16歳で初陣するものの井上之房と同じく、

当初職隆に仕えたため戦功は、ほとんど伝わっていない。

関が原の戦いでは中津の馬ヶ岳城の守備をまかされた。

筑前入国後は4千石を拝領。

晩年は中老に列せられて6千石に加増された。

「朝鮮の役」では、母里太兵衛が敗色と誤報してしまい、信行は激怒。

それ以来2人は、口も利かない間柄であったと伝えられている。

しかし長政は冷水峠の開拓に当たり、二人に盃を交わさせた上に、

脇差しを交換させ、仲直りさせている。

冬に入りわが身ひとつの置きどころ  樋口百合子


毛屋武久(主人)-1554~1628

<大胆な知略で家康の度肝を抜いた歴戦の曲者>
                        これまさ               
近江国神崎の生まれ。16歳で和田惟政に仕え、
      よしすけ
以後は、六角義弼、山崎片家、柴田勝家、前田利家、池田信輝、

佐々成政と次々に主を変え、肥後国に移った。

佐々成政が肥後平定に失敗し、秀吉から切腹を命じられると、

豊前国の黒田家に3百石で召し抱えられた。

蒲生氏郷が、会津92万石の大大名になり、

1万石で招こうとした際、黒田家に義理が立たないと断っている。
      しょくさん
慶長の役、「稷山の戦い」では歴戦の経験から少数であっても、

敵に討って出るよう進言し明の大軍を撃退した。

「関が原の戦い」では長政の元で旗奉行を勤め、

その知略で家康をも感服させた。

太陽のど真ん中で口論はじめよう 福尾圭司


堀定則(平右衛門)-1557~1636

<言いたいやりたい放題だった黒田家の爆弾男>

もとは黒田の家臣・住江茂右衛門の従卒だったが、

官兵衛によって士分に取り立てられ、明石久七と名乗って百石を拝領。

「文禄の役」にて先手の足軽大将を務め、負け知らずだったという。

一度言い出したら曲げることはない強情な性格で、

古参の重臣たちと口論になった時は、長政に謹慎を命じられた。

黒田家には年長者を立てるという決まりがあったからだ。

「晋州戦の戦い」では、一番乗りをかけて加藤清正の家臣と

後藤又兵衛が揉めている間を縫って一番乗りをするなど、

「傍若無人な振る舞い」と大口で嫌われたことから脱藩し、

小田原城主・稲葉正勝に仕えた。

しかし正勝没後二代目藩主・正則によって手打ちにされ最期を遂げた。

石よりも硬い頭が邪魔になり  橋本 康               


福岡城の壁は籠城に備え食べることが出来た。

益田宗清(与助)ー1542~1611

<水汲み係からのし上がった戦闘の達人>

貧しい農家に生まれ、もとは台所の水汲み係であった。

ある時、官兵衛が合戦に連れて行くと、

根気強く体も頑強だったことから、

益田姓を与えて83石の士分に取り立てた。

官兵衛はあらゆる階層から広く優れた人材を登用したが、

与助はその代表といっていいだろう。

農家出身のため足軽の扱いがうまく、

「関が原の戦い」「朝鮮の役」では、

ものの見事に足軽をつかいこなして戦功をあげた。

筑前入国後は3千石に加増され、鉄砲組頭になった。

読み書きが出来なかったことから、3千石に留められたが、

戦場での働きは1万石にも匹敵するといわれた。

プライドが変なところへ線を引く  北川ヤギエ



   福岡城石垣

野口一成(左助)-1559~1643

<肉弾戦に強く石垣名人とも呼ばれた異色の人物>

父・浄金は越後から来た僧で、官兵衛の囲碁仲間であった。

野口佐助は17歳で出仕し、地元の地名を姓とした。

豊前入国後は6百30石を拝領した。
         しげふさ
中津城で長政が宇都宮鎮房を謀殺した時は、家来7人を斬り伏せ、

「朝鮮の役」では晋州城で6尺の大男を組み伏せ、

「関が原の戦い」では、合渡川で鉄砲の一斉射撃を受けながら、

敵の首2つを取るなど、勇猛果敢な武勇伝に事欠かない。

筑前入国後は2千5百石を拝領し、

益田正親とともに福岡城の石垣奉行を命じられた。

江戸城、大坂城でも同じ働きをしたから、

「石垣造りの名人」とも呼ばれた。

書いてチョンなら墓石に刻れますか  田中博造


平山城の福岡城は天守閣はなく大中小の天守と47櫓があったとされている。     
すけかつ
野村佑勝(太郎兵衛)-1560~1597

<二代にわたり戦場で大暴れした母里太兵衛の異母弟>

姫路城下の西城戸の生まれ。父・曽我一信は西城戸城主で、

佑勝は妻の実家の野村姓を継いだ。

母里太兵衛の異母弟で、兄に似て勇猛な侍だった。

初陣は播磨の局地戦で、小牧・長久手の戦いの岸和田の陣では首2級、

九州では5級をとった。

豊前入国後は中津で3千石を拝領。

文禄の役に従軍し、平壌攻めでは首175級、晋州攻めで57級を挙げた。

しかし帰国後、病が原因で38歳の若さで没する。

木枯らしのせいにしておく怒り肩  森田律子


つぐさだ
竹森次貞(新右衛門)-1550~1621

<御旗の進退で味方の士気を鼓舞した片手の戦士>

播磨加古郡の日岡神社の社職だった父・清原貞俊黒田職隆に仕えた。

戦乱により社屋が焼かれ竹の森となり、姓を竹森と改めた。

16歳で官兵衛付きとなり、数々の戦功をあげた。

「毛利水軍との戦い」でも一番首を挙げ活躍したが、

左手の甲から手首までを、無惨に切り割られてしまう。

官兵衛が織田家の大名となった際、

旗奉行を命じられ2百石を拝領した。

「賎ヶ岳の戦い」では、敵の旗色が悪いことを見抜き、

それを受けた官兵衛は、次貞の旗を進めて攻め立て勝利した。

全軍の士気に関わる御旗の進退という任務を立派に果たしたことで、

筑前入国後は2千5百石を拝領した。

乗り切ってしまえば波が唄い出す  笠嶋恵美子


井口吉次(兵助)-1565~1621

<一人前の戦士になるべく邁進した熱き侍魂>

井口氏は播磨国加古郡井ノ口に興った赤松氏の分系。

井口吉次の父は戦いを嫌い御着城主・小寺氏のもと帰農していたが、

吉次は3人の兄とともに官兵衛に出仕した。

一人前になることを急ぎ「小牧・長久手の戦い」での岸和田の陣では、

敵の武具、刀槍、馬を奪い、戦いに臨んだといわれる。

豊前入国後に2百石を拝領した。

3人の兄が戦死し、井口家が絶えてしまうと考えた官兵衛は、

宇佐八幡宮に養子入りをさせようとしたが、吉次はこれを拒否。

「朝鮮の役」に従軍した。

筑前入国後は2千石を拝領し、甘木宿の代官を勤めた。

へらへらと笑っているが手強そう  三村一子       


二の丸多門櫓を北櫓から望む

菅 正利(六之助)-1567~1625)

<猛虎を一太刀で仕留めた伝説を持つ文武両道の達人>

播磨国揖保郡越部に生まれ、官兵衛が1万石の大名になった際、

黒田家に出仕した。

初陣では首2級を取り、官兵衛から称賛された。

剣の腕がとりわけ高く、「文禄の役」慶尚道で行われた虎狩りにて、

一刀のもとに斬り殺した虎の「顎骨と爪」が子孫の家に伝わっている。

朝鮮で虎を斬った刀は後に林羅山から「南山」の号をもらった。

茶もたしなみ、自ら「南山茶匙」なる茶杓を作った。

筑前入国後は3千石を拝領。

長政は文武両道の正利を家老にしたかったが、

朝鮮で受けた毒矢によりできた右頬の痣を気にして辞退した。

次の角曲がりたくないあみだくじ  山本早苗


林 直利(太郎右衛門)-1569~1629

<挑戦の戦争孤児を連れ帰った心優しき槍の使い手>

武田家旧臣・松本主税助の次男で信濃国軽井沢に生れた。

主税助は「長篠の戦い」の後、姫路に移り黒田家に仕えたという、

24騎の中でも特異な経歴だ。

24騎の中で2番目に若く、いずれの戦いでも常に長政に従った。

「朝鮮の役」での虎狩りでは、

皆が現場から去った後に現れた虎を槍で仕留めた。
                    とらつき
この槍は帰国後修理され、銘も長政によって「虎衝」と命名された。

この逸話は、

後に加藤清正の虎退治のエピソードにすり替えられてしまった。

名古屋城に最大の石を運んだのも、清正でなく直利だったらしい。

朝鮮の戦争孤児の少女を連れ帰って養育したことでも知られており、

妙清地蔵として、今も林家の菩提寺・金龍寺に祀られている。

十年単位で臑毛が薄くなる  井上一筒



    黒田家譜     (拡大してご覧下さい)

黒田家は主君が一人で藩を背負うのではなく、

家臣と一丸となって藩を率い、

そして領民を労る君臣一如の藩風が出来上がった。

その藩風が乱れてくると黒田二十四騎の図を新しくし、

立藩の原点に戻れと警鐘を鳴らした。
 
家臣や領民を大切にし、立藩当時の気風を大切にしてきた。

それが「黒田藩」である。

粘るとはベストを尽くすことなんだ 嶋澤喜八郎


 黒田家二十四騎の図
 
「黒田家二十四騎の図」は、貝原益軒の黒田家譜を基に

いろんな絵師の手により描かれた。

栗山家は黒田騒動から他藩へ、

母里家は没落し、


後藤家「大坂夏の陣」の前には出奔と19世紀には

黒田家は廃絶になっている。

現存した家の者に代々伝わる鎧兜を寄せ集め、

精密に絵師に書き留めさせたのだという。

佳き年をいっぱい背負う飾り馬  菱木 誠

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男に泣く涙は音をたてぬもの  森中惠美子     


    櫛橋 光  (報土寺蔵・京都)

長年、光の詠み方は "てる "とされてきたが平成25年8月に、
 "みつ"だったことが福岡圓応寺に残されていた略伝から偶然みつかった。

「糟糠の妻・光」

地方大名の家老だった官兵衛の妻に嫁いだ(幸圓)は、

夫婦ともに文芸に長じ、仲睦まじく暮らしていた。

しかし、この夫婦の人生は、

信長の播磨国進出を境にあわただしくなる。

しかし、常に、光の心の支えとなったのは浄土宗の教えだった。

夫や息子がキリスト教に改宗しようとも、

頑なに阿弥陀様の教えを守った。

有岡城で荒木村重により官兵衛は、地下牢に囚われの身になる。

その期間一年を超えての長さである。

これは何より本人が一番大変で、馬にも乗れない体となるのだが、

後に残る妻・光にとっても、

阿弥陀様なしではいられない大変な一年だった。

南京錠で自分の心を塞いだ  福尾圭司



村重を説得に行ったはずの夫は帰ってこず、主家の小寺氏

さらに実家・櫛橋氏信長に叛旗を翻すという

八方塞がりの状態だった。

さらに信長の勘気を蒙ったため嫡子・松寿丸は、

信長から「殺せ」との命令が届く。

夫の生死も不明で長男も殺せとの命令に、

どれだけ辛い思いをしたことだろう。

くずれゆく母性本能冬景色  鳴海賢治

朝鮮出兵時、次男・熊之助が兄を追って、

朝鮮に同年代の家臣太兵衛の嫡子)と共に渡海を試みるが、

非情にも玄界灘の藻屑と消えてしまう。

熊之助の出生については、いささか疑義もあるが、

そうは言っても我が子を失った悲しみは、

母としては耐え難いものであろう。

それも戦場へ行きつく前に、儚くも十代の命を散らしたのだ。

しかも譜代の家臣たちの子弟を巻込んでのことである。

異国の戦場にいる如水や長政の心配を含め、

その悲しみの大きさが人の親なら分かるはずだ。

その時も心のよりどころは信仰であった。

押しピンの上で膨張する世界  加納美津子                 



文禄2年(1593)頃に官兵衛が出家して、如水と号すると、

ほぼ同時期に出家して「照福院」と称した。

しかし、出家後も試練が二人を襲った。

慶長5年(1600)「関が原の戦い」が間近に迫ると、

黒田家も東軍につくべきか、西軍につくべきか決断を迫られていた。

当時、光は大坂城下にあり、関が原の戦い前夜に石田三成が、

大坂に在住する大名の妻子を、人質にしようとしたのである。

折りよくガラシャ夫人が大坂城入城を拒否して、

火を放った時の、混乱に乗じて、黒田24騎の中でも、

黒田八虎と称えられた井上九郎衛門、栗山善助、母里太兵衛らが、

三成の見張りをかいくぐり、長政の正室・と共に光を、

大坂・天満屋敷から船で、どうにか大坂を脱出させたのだった。

ことごとく死んだ痕跡を隠す  蟹口和枝       



当時、長政小早川秀秋を東軍に寝返らせる調略をしており、

九州では如水が、農民や浪人を集めて加藤清正らと、

島津の北上に備えていた。

もし石田方に掴まれ、妻子を人質にその動きを封じ込められていたら、

関が原の戦いにおける東軍の勝利は、危うかったかも知れない。

明治時代、参謀教育のため来日した天才メッケル少佐は、

関が原の戦いの布陣を見て、「西軍の勝ちだ」と言い切った。

それほど、あの戦いの小早川への調略と、

島津の北上を抑えた黒田の働きは大きく、

その結果が筑前52万石に繋がった。

激流も蛇行もこえていま大河  宇野幹子


官兵衛も光も長政も眠る黒田家墓所

慶長7年(1602)、光は福岡市に4ツ目となる円応寺を建立する。

中津、唐津、小倉にもそれぞれ圓応寺を建立するが、

最後に福岡城の北側に黒田家の菩提寺を建てるのである。

もちろん浄土宗のお寺で、開山法要は如水の父・職隆の葬儀の

導師も務めた同郷の見道上人であった。

又、如水の没後は夫の菩提を弔う日々を送り、

如水の死の慶長9年(1604)から、

20年余りのち、筑前・福岡で没した。 享年74歳。

この圓応寺は昭和20年の福岡大空襲の際に焼け落ちてしまう。

その際、光の墓石をもう一つの黒田の菩提寺である宗福寺に

届けたはずだったが、

光が臨済宗の寺に行くことを拒んだのか、行方不明になっており、

その墓石の在処は、いまだ謎のままだ。

スイッチを切って人間ひと休み  佐藤美はる

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死神を盗みに臨終の見舞い  板野美子


大宰府天満宮の地に構えた草庵跡

如水が福岡城の普請の間、滞在して使ったという井戸が残っている。
如水はここで詩歌に耽った。

「如水終焉」

関が原の戦いが一日で終結し、石垣原の戦いにも勝利した如水は、

慶長6年(1601)福岡城普請の間、

大宰府天満宮に小さな庵を構え、隠居生活を始めた。

最後の九州平定への挙動は、世の大混乱に乗じて、

天下を獲ろうとした行動ととらえる推察が多い。

一方で、戦略を練り成功させることが如水にとって、

もっとも大きな喜びであり、政治的野心は無かったと説く意見もある。

確かに九州平定は、稀代の知略家でなければ仕組むことが出来ない

人生最後のド派手な祭りのようなものでもあった。

勢い余って靴べらになったんです  山口ろっぱ

しかし、思いのほか関が原の戦いが一日で終結したことによって、

如水の胸に芽生えていた天下取りの野望は露と消えた。

そのとき、如水の心中はどのようなものだったのだろうか?

失意がなかったといえば、嘘になるだろう。

だが、徳川家康の時代となった今、

おそらく二度と天下取りのチャンスは巡ってこない。

ならば、残りの人生を楽しもうではないか。

如水は大宰府天満宮の草庵での連歌三昧の暮らしを二年間も続けている。

その生活ぶりは、かねてよりこよなく愛した連歌三昧の日々であった。

存分に生きたか花を咲かせたか  佐藤美はる

正月、5月、9月の月忌20日には連歌会を催し、

連歌を通じて知り合いになった歌人たちと交流していたという。

おおよそ戦国時代の武将姿からは想像もできない穏やかな晩年であった。

  (拡大してご覧ください)

如水が死去する1ヵ月前に、昌琢らと千句連歌会を催し詠んだ二首。

仁と義と勇にやさしく心がけ あふ人ごとを敵と思ひて

不忠・不義私もなく今日暮れて又、明日もかくこそ

『黒田如水伝』によると、如水はこの2首を子孫への教訓とするため詠じたものとし、

息子の長政がこれを掛幅に仕立て、座右の銘として朝夕拝読したとする。

今という時を大事にして生きる  石神由子

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黒田如水辞世和歌短冊。(右端が如水の句)

” おもひをく言の葉なくてついに行く 道はまよハしなるにまかせて ”  
                             如水
” いまよりはなるにまかせて行末の 春をかそへよ 人のこころに ”   
                             昌琢
” なに事もなるにまかする心こそ よハひをのふるくすりなりけれ ”
                             玄朔

里村昌琢は,後水尾院より古今伝授を授かった当代きっての連歌師。
曲直瀬玄朔は,後陽成天皇をはじめ豊臣秀次、徳川秀忠を診察をした医師。

舐めてみようかだきしめようか森伊蔵  田口和代


晩年、如水が幸圓と暮らした三の丸御鷹屋敷跡

その後、如水は福岡城三の丸に屋敷を建て、

生涯ただ一人の伴侶である幸円(光)と静かに暮した。

しかし、その暮らしも長くは続かず、

慶長8年(1603)頃から病がちになり、

たびたび床に伏せるようになった。

病名は不明である。 そこで療養のため、

かって秀吉が療養したことで名高い有馬温泉に逗留し、

湯治生活に入る。

有馬温泉から福岡はやや遠いため、

京都の伏見にある福岡藩邸で過ごすようになった。

点滅のつづく命と懇ろに  小林すみえ

病床で過ごすうち、如水は精神の起伏が激しくなり、

ちょっとしたことで怒るような始末だった。

健康な頃は家臣に対して寛容であり、怒ることは滅多になかったため、

家臣たちは戸惑って、息子の長政に相談した。

それを受けて見舞いに訪れた長政に向かい、如水は言った。

「これは乱心ではない。わしは疎まれてもよい。

    早くお前の代になって欲しいと思っているのじゃ」

すでに死期が近いことを悟ったのか、

さらに如水は家臣たちに、「殉死の禁止」を言い渡した。

辛抱強い愛だ嘘が添えてある  森田律子

当時は主君が死ぬとそれに殉じて、

腹を切る殉死が当たり前の習慣としてあったが、

如水はそれで貴重な人材が失われることを惜しみ、

生前に言い残したわけである。

また,

「葬儀は簡素にして費用はかけないこと、仏事に専心しないように」

と言い残している。

長政は看病に努め、自ら湯薬を父に与えてそばについたが、

ついに永遠の別れの時が迫る。

膝を抱く刻がこぼれていかぬよう  河村啓子


崇福寺 (福岡市) 境内にある- 福岡藩主黒田家の墓所

戦乱に明け暮れた生涯の中で、

ほんのひととき安らぎを得た福岡での暮し。

" おもいおく言の葉なくてつひにゆく 道はまよはじなるにまかせて "

と詠んだ辞世の句は、常に迷路のように複雑で、

行きつ戻りつ繰り返しだった人生を振り返り、

死を目前にして、まっすぐ終焉に向かっていく

自らの姿を一点の曇りもない青空のように、

すがすがしく感じていたのかも知れない。

(今さらおいていくような言葉もない。

    ついにあの世に行くが、道に迷うことはないであろう。

    なるがままにまかせて進んでいこう)

冥土のみやげに耳学問を太らせる  小林すみえ


慶長9年(1604)3月20日。 

黒田官兵衛孝高、逝去。

享年59歳、満年齢にして58年の波乱に満ちた生涯を閉じた。

法名は龍光院。

官兵衛の亡骸は京都・大得寺の三玄院に葬られた。

が、後に黒田家の菩提地となり、

歴代当主が眠る場所となる福岡の崇福寺にも分骨された。

天国へ近々移転あなかしこ  上田 仁

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積み上げたノートがわたくしの地層  勝又恭子


  家中善悪の帳

官兵衛は家臣の相性を帳面に書きとめ、家を丸く収めた。

「官兵衛の名言」

官兵衛と唯一の妻である幸圓(光)の間に生まれた嫡男・長政

幼少期を人質として過ごし、数々の武功をあげる武将へと成長した。

官兵衛は、そんな長政を頼もしく思いながら、

折にふれて、その猪突猛進な戦いぶりを窘めている。

「官兵衛(如水)の名言-4」

【是は汝が為なり。乱心にあらず】

官兵衛は病に伏せった頃から家臣を辱めたり罵ることが増えたという。

その言動を注意しに訪れた長政に、官兵衛はこう言った。

「これは措置のためにしているのだ。乱心ではない」

   官兵衛は求心力の強い指導者だった。

   自分が亡くなったあと、家臣たちが官兵衛を敬愛したままでは、

   後継者の長政にとって不都合が起こる。

   そこで自らが嫌われるように仕向けていたのだ。

けなすだけけなして最後には褒める  立蔵信子
         ひでり
【夏の火鉢、旱の傘ということを 能々味はい堪忍を守らざれば、

   士の我に服せぬものぞ】

暑い夏に火鉢は役に立たず。

同様に旱のときは傘はいらない。

しかし、必ずそれが必要になるときがくる。

家臣も同じで、そこをよく考え、無駄だと思えることも、

続ける忍耐力がなければ、人はついてこない。

夏の火鉢、旱の傘ということを 

よく味い、堪忍を守らなければ家臣は自分に従いてこないものだ。

短い言葉で気合いを入れられる  佐藤正昭


例-村田出羽と仲良き相手   仲悪しき相手

一人一人の家臣の相性の善し悪しを記した帳面。

【人の上に相口、不相口といふことあり】

ある時、如水(官兵衛)は、長政も同席させ、家老たちに言った。
                                 あいくち
「すべて人には相口と不相口ということがある。

   主君が家臣を使うのに、特にこのことがある。

   家人多しとはいっても、そのなかで主君の気に入る者がいる。

   これを相口というわけだ。

   この者がもし善人ならば、国の重宝となり、

   もし悪人ならば、国家の害物となるわけだから、

   大切なことだと思わなければならぬ。

さしのべて貰った温い手の他人  山本早苗
おのおの
各々もかねてより知っている通り、

 侍どものなかにもわしの相口の者がいて、傍近くに召し仕え、

 軽い用事などをも勤めさせてはいるが、それだからといって、

 その者に心を奪われるつもりはない。

 しかし相口だと、自然に場合によっては、

  悪いことに気づかぬこともあろうから、

 おのおの十分に気をつけて、それをみつけだし、

 そういうことがあれば、わしを諌めてくれ。

 またその者が驕って行跡がわるいときには、

 各々の側に呼びつけて意見してやってくれ。

人の手を借りホンモノの胡麻になる  下谷憲子

 それでも聞かないときには、わしに告げよ。

 詮議のうえ罪科に処す。

 わし一人の心では諸人の上にまでこまごまと及ばないから、

 自然に気づかないこともあろう。

 そういう時には、遠慮なく、すみやかに告げ知らせてくれ、

さっそく改めよう。

憎いわけでないけど鰯の首を切る  安土理恵

 さてまた、そちたちの身にも、相口・不相口によって仕置にも、

 間違ったことがでてくる場合があるであろう。
                                                                                                                              まいない
 相口な者には贔屓の心が起こり、悪を善と思い、あるいは賄に惑って、

 悪いこととは知りながら、自然と親しむことがあるものだ。

 反対に、不相口な者には、善人も悪人と思い、

 道理も無理なように思い誤ることがある。

 こういうわけで、相口・不相口によって仕置のしようも、

 私曲がでてくるものであるから、おのおのよく心得るべきである。

深追いはしない穴には入らない  竹内ゆみこ

 また家老たる者が威張りちらして諸士に無礼をし、

 末々の軽輩者にはことばもかけないようなことでは、

下に遠くなってしまい、そのため諸士は心をへだてて、

表面だけの軽薄な勤務をするようになるので、

 諸人の善悪・得手不得手をわからなくなり、

 諸士にも、その者の不得手な役を勤めさせるようなことになるから、

 かならず仕損じ、場合によってはその者の身も滅ぼし、

 主君のためにも悪いことである。

腰に手をこれからのこと考えて  河村啓子

 つねに温和で、小身者をも近づけて、その者の気質をよく見定め、

 それにふさわしい役を勤めさせるべきである。

 このようなことは、その方などがもっぱら詮議すべきことであるぞ」

(人間関係には、相口―良い相性、不相口―悪い相性がある。

 「相口の人」ばかりをまわりに集め、良い気分・・・となっていても、

    決してその人にとって、良いことではない。

    不相口の人の発言こそ、傾聴すべき大切なことだ‐‐‐と教える)

鑑真和上のクローンではないか  井上一筒

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