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川柳的逍遥 人の世の一家言
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時空移動してろくろ首になる  井上一筒


   醍醐の花見 (歌川豊宣)

秀吉が亡くなる年の春、女性ばかりを集めて催された醍醐の花見。

「秀吉の死」

文禄5年(1596)9月、明との和平交渉が完全に決裂する。

この年には各地で、大地震が発生、畿内でも伏見城の天守閣や石垣、

さらには方広寺の大仏殿が倒壊する地震が起きている。

それも理由のひとつとして、改元が行われ、「慶長元年」となった。

先入観消そうメガネ買い替える  北川ヤギエ

翌慶長2年(1597)、14万の大軍が再び、朝鮮半島へ渡った。

こうして「慶長の役」が始まったのだが、

健康を害しはじめた秀吉の関心は、

朝鮮ではなく、もっぱら世継ぎの秀頼に向いていた。

文禄2年、淀君は秀吉の第二子・秀頼を出産していた。

この時の秀吉の喜びようは、尋常ではなかった、と伝えられている。

我が子かわいさで目が曇ってしまった秀吉は、

いわれなき謀反の嫌疑を甥の秀次にかけ、

切腹にまで追い込んでいるように、― 以来、秀吉は、

「まさに心ここにあらず」の状態になってしまっていたのだ。

やっかいな方へと種は飛んでゆく  森田律子

慶長3年になると秀吉は、醍醐寺の再建と造園を命じ、

庭に700本もの桜を植えた。

そして3月15日、おね、淀、側室や諸大名、その配下にいたるまで、

女房女中約1300人を集めた花見を催した。

「醍醐の花見」である。

男性は秀吉と秀頼、それに前田利家だけであった。

あれをしてこれしてそれもせんならん  雨森茂喜

同じ年の5月になると、秀吉は床につくことが多くなった。

5月15日には、『太閤様被成御煩候内に被為仰置候覚』という名で、

徳川家康・前田利家・前田利長・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元

五大老及び、その嫡男らと五奉行のうちの前田玄以・長束正家に、

宛てた十一箇条からなる遺言書を出している。

これを受けた彼らは、起請文を書きそれに血判を付けて返答した。

秀吉は他に、自身を八幡として神格化することや、

遺体を焼かずに埋葬することなどを遺言した。
                              (『完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇Ⅱ』)

天国へ引っ越すまでのあれやこれ  オカダキキ

7月4日、自分の死が近いことを悟った秀吉は

居城である伏見城に徳川家康ら諸大名を呼び寄せて、

家康に対して子の秀頼の後見人になるようにと依頼した。

8月5日、秀吉は五大老宛てに二度目の遺言書を記す。


 豊臣秀吉遺言覚書案

秀吉の遺言状 (慶長三年八月四日) のこと。

『秀よりの事、なり立ち候やうに、此かきつけしゆへ、

  しんにたのみ申候。

 なに事も、此ほかは、おもひのこす事、なく候。かしく。

 いへやす(徳川家康)ちくせん(前田利家)てるもと(毛利輝元)

 かけかつ(上杉景勝)秀いへ(宇喜多秀家)

 返々、秀より(秀頼)事たのみ申候。

 五人のしゅ、たのみ申候。いさい、五人の物に申しわたし候。

 なごりおしく候』

消せるよう鉛筆で書く遺言書  伊達郁夫

秀吉の病は、前年に、秀吉の命令で甲斐・善光寺から京都・方広寺へ

移されていた善光寺の本尊である「阿弥陀三尊の祟りである」

という噂から、元々の信濃・善光寺に返すため、

8月17日に京都を出発したが、

8月18日、秀吉はその生涯を終えた。

秀吉の死、それは天下人の死である。

この時、秀頼は、6歳。

それは、天下が再び乱れる暗示でもあった。

守れない約束もある今日の風  靏田寿子

秀吉が亡くなったとはいえ、

まだまだ朝鮮の地では戦闘が行われている。

勢いに任せて突き進んだ「文禄の役」の際の、反省を生かし、

有利な戦で慎重に領土を拡大していたが、

秀吉の死は、戦いの意味をなくし、

朝鮮にいる大名たちは、秀吉逝去の報を聞き、

其々の思惑を秘めながら、日本に引き揚げてくるのである。

シャボン玉消えて下さい引きずらず  森 たみえ

こうして秀吉が亡くなると、豊臣政権の土台はすぐに揺らぎ始める。

多くの妻・妾を持ちながら、実子はまだ6歳の秀頼ひとり。

有能な弟・秀長もすでに亡くなっている。

その秀長にも成人した男子はいなかった。

数少ない身内であった秀次は、秀吉自らの手で粛正している。

こうした事情が、豊臣政権に暗雲をもたらすのであった。

「秀吉辞世の句」

"露と落ち露と消えにし我が身かな 浪花の事は夢のまた夢"

行きつ戻りつ一筆書きの人生さ  田口和代


秀吉の辞世 (大坂城)

サインの「松」は秀吉の雅号。直筆とも言われている。

「秀吉のちょっといい、逸話」

ある時、秀吉がかわいがっていた鶴が、飼育係の不注意から、

空高く舞い上がって姿を消してしまった。

打ち首は免れないと、覚悟してお詫びに参上した飼育係に、

秀吉は言った。

「鶴は外国まで逃げたのか」

「とてもとても、日本国より一歩も出ることはありません」

「それなら案ずるな。日本国じゅうがわしの庭じゃ。

    なにも籠の中に置かなくとも、日本の庭におればよい」

と言ったそうな。

遠景へ遠景へ野火のゆらゆら  山口ろっぱ

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サムライかカボチャか叩いたらわかる  新家完司


   新形三十六怪撰

新形三十六怪撰は月岡芳年が幕末期に描いた妖怪浮世絵・伝奇物語である。
その29話目に小早川隆景が主人公として登場する。

「小早川隆景と天狗山伏問答」 

朝鮮出兵の前、小早川隆景関白秀吉から、

「渡海の為の造船をせよ」 と命じられた。

豊前の彦山の楠を伐採して、大船を造れと言うのだ。

彦山は羽黒山や熊野大峰山と並ぶ修験道の山で、

天正9年に大友義統の軍勢に攻め込まれるまでは、

数多くの僧兵を有した一大勢力だった。

そんな山だったので山の座主は、

色々理由を並べて、木材伐り出しを拒否した、が、

「関白殿下の仰せだ」 と隆景が伝えると座主は納得し、

隆景は座主の坊にしばらく滞在することとなった。

がはははは天下ご免の向こう傷  禮 子

ある夜のこと。 

外は秋雨が降っており、深山は寂寞たる風情であった。

隆景は一人灯りをともして心を澄まし、古詩を吟じていた。

すると風がさっと吹き、

どこからともなく、身の丈七尺はありそうな山伏が現れた。

頭巾をかぶり鈴懸を付け、数珠を持って隆景の前に座し、

大きな目を突き出して睨みつけてくる。

隆景は

「これは何かありそうな山伏だ。

 きっとこの彦山に棲むという豊前坊という大天狗に違いない」

と冷静に判断し少しも騒がず、

瞬きもせずに静かに山伏と睨み合った。

ゴキブリを睨めば睨み返される  筒井祥文

暫くして、山伏は話し出した。

「左金吾殿! この山の木は開基千百年の昔から一度も

  伐られたことがない。


   これは人々が神仏を敬い慕うがゆえに守られてきたことだ。

   それなのに、隆景が何の恐れもなく木を伐採し、

   舟具に用いるとはなんと奇怪なことか。

    貴公は仁義の大道に尽力し、仏神に帰依の心も深い。

    この末法の世には有り難い名将だと聞き及んでいたのに、

     こんな悪逆無道のことをするとはいかなることか」

と声を荒げて言いつのった。

トサカから声を出すのはヤメなさい  笠嶋恵美子

隆景は答えた。

「これは貴公のような山伏の仰せとは思えない。

    この彦山の樹木を、この隆景の私用の為に伐るのであらば、

    そのようなそしりを受けもしよう。

     しかしこれは関白殿下の御命であり、

      隆景はその奉行として、罷り出でたのだ。

      この山の木を伐らせるのに前例がないからと言って、

      殿下の命に背くのであれば、

      それは天下の下知に背くのと同じことだ。

     “普天のもと、王土にあらずということなし” という。

      秀吉は天子ではないが、畿内は天子の直轄地であり、

       そのほかは将軍の令を守るものだ。

         天下の下知に背くのは、いかなる道理があっても罷りならぬ。

         ゆえにこの命に背くなど,あってはならないことだ。

べらぼうめ矢でも鉄砲でもと訳す  石田柊馬
 
   次に、この隆景のことを悪逆と言ったが、

   山伏殿の方こそ、自分勝手なことばかり言っているではないか。

   役行者(修験道の開祖)以来、山伏の法には、

   私利私欲を優先して世の法を破れとでも書いてあるのか。

   もしそうなのであらば、山伏は邪魔外道の法で、正法のものではない。

   正法は私欲を禁ずる。

    ならば樹木に執着し、縛られるとはいかなることか」

すると山伏は、

「“普天のもと、王土にあらずということなし”とはもっともなことだ。

    貴公の科ではないというのも歴然だ。

    ではお暇申し上げる、さらばだ」

と言い残して、掻き消えるように姿を消した。

歯の抜けた人食い鮫は帰郷せよ  井上一筒

「解説」

ある晩、隆景の元に大柄な山伏が姿を現した。
山伏は隆景に向かって、
「この山の木々は、千年以上も切られたことのない神木である。
 それを切り出し、軍船に仕立てるとは何事か。
 天下に名高き仁将である小早川隆景殿が、
 そのような非道な行いをなさるとは信じられない」
と言った。


対する隆景は、山伏の異様な外見を見て即座に
「これは天狗だな」と見抜き、怖じた様子も見せずに、
「確かに、この隆景が私利私欲のために神木を切るというのであれば、
 非難されても仕方がない。
 だがこれは天子様の代行である関白秀吉殿のご命令であり、
 私は公の命令に従っているに過ぎない。
 そういう山伏殿こそ、たかが神木如きにこだわって,
 公儀を蔑ろにしているではないか。
 それこそが非道に値しないのか」
と切り返した。
これに山伏は隆景に反論することができず、
霞のように消え去ったという。

黒幕は逃亡ソナタはジ・エンド  山口ろっぱ

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イボイボを付けて蛙になる準備  井上一筒 


                         小早川隆景木像発見の記事  
                          (画像を拡大して右から読んでください)

『自分の心に合うことは、皆、体の毒になると思え。

   自分の心に逆らうことは、皆、薬になると思え』

これは小早川隆景の名言である。

その名言は、その人物の人となりを的確に投影するものになる。

「小早川隆景の名言に見るー隆景の人物像」


  小早川隆景の木像

小早川隆景は、類稀な計略の才で安芸の小規模な国人領主から、

中国地方ほぼ全域を支配し「三本の矢」で知られる毛利元就の三男。

元就には9人の男子がいたが、

その資質を最も色濃く受け継いだのが、隆景である。

事実外交手腕に長け、秀吉の心を巧みに掴む切れ者だった。

軍を率いて戦場に出れば、勇猛果敢に敵陣を駆け抜けてみせた。

幼少期に諸国をたらい回しにされた者の処世術か、

隆景は、世の趨勢を見通す眼力も備えていた。

毛利家は、秀吉に臣従する道を選ぶ。

襟足も腰のくびれもストライク  くんじろう 


 戦国武将列伝

毛利家は、隆景の判断で秀吉に臣従する道を選ぶ。

   『 陪臣にして、直江山城、小早川左衛門、堀監物杯は
                  しかねまじき
    天下の仕置をするとも、仕兼間敷ものなりと、称誉せられけり』

家臣達の中で天下を任せられる人材はいるか? との問いに、

秀吉が答えた言葉である。

天下人秀吉は、日本の「西は小早川隆景」に任せれば、

全て安泰であると評価していたのである。

因みに「東は徳川家康」である。

(『直江山城』は、直江兼続
   『堀監物』は、堀家の名宰相と呼ばれた堀直政

   そして両者と並び称されているのが、
  『小早川左衛門』こと小早川隆景である)


隆景は秀吉から「羽柴筑前宰相備後中納言」などと呼ばれて、

その才覚を愛され、そして同時に警戒されたという。

命一枚めくって冴える物語  池 森子

隆景と官兵衛が、四国・九州・小田原各征伐にも揃って出征した折。

官兵衛は、「私に比べ、小早川殿の判断には狂いがない」

と評した。

一方、隆景は官兵衛に対して、

「あなたは才智鋭く、一を聞いて十を知る。

   だが、私は一を聞いても その一に引っかかるため、

   決断には時間がかかる。

    だが、それだけ思案に時間をかけた決断なので、

    後悔することはない」


と答えたという。

ひと言が私の胸を踏んでいく  合田瑠美子



年齢は隆景が一回り上だが、主君の懐刀という同じ立場にある者同士、

器量を認め合う仲だった。

また小田原城攻略の長期化にしびれを切らし、

大坂城へ帰ろうとする秀吉に、逗留を促したのが隆景だった。

やがて北条方は戦意喪失し、降伏を申し出る。

「この殿は深い思慮をもって、平穏裡に国を治め、

   日本では珍しいことだが、伊予の国には騒動も叛反もない」

と評したのが、宣教師のがフロイスである。

持ち上げてもらえる時は長くない  小西 明

隆景が死ぬ直前に、家臣達に言い含めたとされる文言がある。

 「私の死後、豊前の黒田殿が我が領地の中に休憩所を建てたいから、

    土地を貸して欲しいと言ってきても、絶対に貸してはならない。

    彼の言葉には、裏の意味が必ずあるからである」

豊前の黒田殿、というのはもちろん黒田官兵衛のことである。

隆景は官兵衛と非常に仲が良かったとされ、

互いを『切れ者』 『賢人』と褒め称え合う仲だったが、

同時に領地を接する仮想敵でもあった。

隆景が死んだ際、官兵衛は、

「日本からは、これで賢人がいなくなった」

と嘆いたと言われているが、

これは隆景を称賛する言葉に偽りはないところだが、

裏にはどんなことがあるのか分からないのが、戦国の世なのである。

どこまでが海どこからが愛ふたり  雨森茂喜


    小早川秀秋

隆景の死後、小早川家の家督は養子として迎えた小早川秀秋が継ぐ。

秀秋は秀吉の甥にあたる人物であり、

小早川家が毛利一族から外れたことで、

毛利両川の機能は、一時的に失われることになる。

だが隆景の志は分家を立てた毛利秀元小早川秀包に引き継がれた。

秀秋は元々毛利本家に入り、

毛利家を豊臣家内に取り込む予定だったのを、

隆景が半ば強引に引き受けたものである。

これは毛利本家を守るための隆景の捨石であった。

その後、秀秋は関ヶ原の合戦で東軍に寝返って、

毛利家を改易の危機に晒し、継嗣もなく御家は断絶してしまった。

老いてもなお、的確だった隆景の慧眼を証明するものである。

初雪の合図で降りる駅がある  笠原道子              


   小早川隆景像
長兄・隆元の遺児である毛利輝元に対しては、

当主として接する以上に叔父として厳しく接したという。

遺言で毛利輝元に、

「天下が乱れても領国の外に欲を出してはならない。

 領国を堅く守ってこれを失わないことに力を注ぐべき」

また、

「安国寺の言を謀を用いれば、国家を失う」

と警告したともいわれる。

しかし輝元はせっかく隆景が守った毛利家120万石という

大大名の地位から、あわやお家断絶の一歩手前迄たどることになる。

虚しさの残る言葉に蓋をする  小川一子
          ほいだもときよ
元就の四男の穂井田元清同じく病床にあった隆景と

「どちらが先に逝くか」と語り合ったといわれる。
     
元清はよほどすぐ上の兄・隆景を信頼・尊敬をしていたのだろう

5人の弟達の中でも特に仲が良かった元政に、

「困ったことがあったら、何事も景さまに相談するように」

と話したというエピソードが残る。

その後、少ししてから隆景が亡くなり、

1ヶ月後に元清も亡くなった。

陽炎が人の形になるよすが  蟹口和枝

『我慢するより、その原因を解決せよ』

『長く思案し、遅く決断すること。
 
   思案を重ねた決断であるなら、後戻りする必要はない』

うまくいかないことがあったら、我慢して耐えることより、

どうすれば解決できるかを考えることが大事。

これは「分別とは何か」と質問した黒田長政に対し、

答えたことばである。

躓いた石に質問してしまう  籠島恵子

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左巻きのソフトクリームは甘くない  田口和代


  秀 次

文禄2年、秀吉に実子・秀頼が生まれると秀吉から疎まれるようになり、
謀反の疑いをかけられ、高野山で切腹を命じられた。

「羽柴秀次」

羽柴秀次は、秀吉の姉・日秀の子で、秀吉の養子となる。

天正19年(1591)8月に秀吉の嫡男・鶴松が死去した。

秀次は11月に秀吉の養子となり、12月に関白に就任。

関白就任後の秀次は、聚楽第に居住して政務を執ったが、

秀吉は全権を譲ったわけではなく、二元政治となった。

その後、朝鮮との戦に専念する秀吉の代わりに

内政を司ることが多かった。

しかし、文禄2年(1593)に秀吉に実子・秀頼が生まれると、

秀次は秀吉から次第に疎まれるようになる。

バイオリズムバッチリのはずやったのに  雨森茂喜

文禄4年、秀次は秀吉に謀反の疑いをかけられ、

7月3日、聚楽第で秀次は秀吉から「高野山蟄居」を命じられる。

7月8日、秀次は謀反についての釈明の為に、

秀吉の居る伏見城へ赴くが、福島正則らに遮られ、

対面することが出来ず、同日、高野山へ入る。

それから1週間後、秀次の許へ福島正則・池田秀氏・福原直堯らが訪れ、

秀次に対し秀吉から、切腹の命令が下ったことを伝えられる。

また、秀次及び秀次の小姓らを含めた嫌疑をかけられた人々も 

切腹を命じられる。

バリトンで届いた神様のお告げ  竹内ゆみこ


   瑞泉寺絵縁起

(「秀次事件」の16年後に角倉了以が荒廃したその「塚」の跡に、
 江戸幕府の許しを得、墓地と堂を建立した。
 寺号は秀次の戒名から「瑞泉寺」と名付けられた)

7月15日、秀次は雀部重政の介錯により切腹し、

そして重政と東福寺の僧・玄隆西堂も切腹した。

秀次及び同日切腹した関係者らの遺体は青巌寺に葬られ、

秀次の首は三条河原へ送られた。

8月2日には三条河原において、秀次の首が据えられた塚の前で、

5人の遺児(4男1女)をはじめ、側室・侍女ら39名が処刑された。

止まった時計雨は降りつづいてる  柴田桂子

約5時間かけて行われた秀次の家族らの処刑後、

遺体は一箇所に埋葬され、

埋葬地には、秀次の首を収めた石櫃が置かれた。

その後、ここは、「畜生塚」と呼ばれるようになる。

この秀次ら一族の埋葬地は慶長16年(1611)に、

豪商の角倉了以によって、再建されるまで、

誰にも顧みられることなく放置されていた。

凹凸の道をくねると墓地にでる  和気慶一


 専称寺駒姫肖像画

「駒 姫」

この処刑された秀次の側室のなかに、駒姫という女性がいる。

駒姫は、その類稀な美しさから父母に溺愛されて育った。

時の関白・秀次が、東国一の美少女と名高い駒姫の噂を聞き、

秀次は「側室に」と駒姫の父である最上義光に熱望した。

義光は丁重に断りを入れたが度重なる要求に折れ、

「15歳になったら娘を山形から京へと嫁がせる」と約束をする。

文禄4年(1595)、約束の15歳になった駒姫は、

秀次のいる京の聚楽第に向かう。

そして、駒姫が京都に到着して間もない7月15日、

最上屋敷で駒姫は、「秀次事件」の報を聞くことになる。

ここからは神へ近づく登山道  赤松ますみ

「すでに秀次の側室である」 とされた駒姫は、

8月2日、他の側室達と共に、三条河原に引き出されたのである。

実質的には、聚楽第には一歩も足を踏み入れることなく、

側室として、輿入れすうる前日であった。

義光は必死に愛する娘の助命嘆願に走り廻り、

各方面から不条理な処刑は反対という大勢の賛同の声も得た。

秀吉もついにこれを無視できなくなり、

「鎌倉で尼にするように」 と早馬を処刑場に走らせた。

シグナルは点滅行き場に揺れている  山本昌乃


      専称寺と駒姫

ところが、後一歩のところで間に合わず、処刑はすでに終わっていた。

彼女らの遺体は、遺族が引き渡しを願ったが許されず、

その場で掘られた穴に投げ込まれ、

さらにその上に「畜生塚」と刻まれた碑が置かれたのである。

駒姫の死を聞いた母の大崎夫人も、

悲しみのあまり処刑の14日後に亡くなった。

自ら命を絶ったと推察されている。

この惨劇事件より、義光は反豊臣の急先鋒となり、

慶長出羽合戦では奥羽における東軍の要として活躍した。

またこの一件より、大名家の豊臣家に対する不信感を増幅させ、

豊臣政権の寿命を縮める一因ともなったのである。

(駒姫の死の翌年、義光は高擶で布教中の真宗僧乗慶に帰依、
    専称寺を山形城下に移し、駒姫と大崎夫人の菩提寺とした)

濡れた目に何を映すか冬の馬  合田瑠美子

さらに慶長3年(1598)八町四方の土地と寺領14石を寄進し、

城下最大の伽藍を建立、敷地に真宗寺院十三ケ寺を塔頭として集め、

のちに寺町と呼ばれるようになる町を整備した。

この寺には、山形城より駒姫の居室が移築されており、

大崎夫人像とともに彼女の肖像画が保存されている。


  駒姫辞世和歌懐紙

この辞世は彼女愛用の着物で表装され、
他の処刑者のものとともに、京都国立博物館に保存されている。

"罪をきる弥陀の剣にかかる身の なにか五つの障りあるべき"

 (何の罪もない私なのですが、こうして斬られてあの世にいくのは、
     弥陀の慈悲の剣で引導をわたしていただく思いです。
     なぜって、こうしてこの身の業の深い五障の罪も、
      いっしょに消えていくのですから)

この橋を渡るとやさしい風になる  神野節子

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晩秋のコントは塩分控えめに  本多洋子 


  官兵衛の和歌

天正15年(1587)7月、官兵衛は豊前の国に入封して、まもなく、
                           くぼてさん
情報網に長けていた山伏の力を頼みにして求菩提山に上り、

挨拶方々友好関係を築いた。

その後も官兵衛は幾たびか求菩提山を訪れており、

求菩提山座主と過すひと時は、官兵衛の心を癒す唯一のものであった。

この「山深く」の歌は、

そこで催した歌会でを詠んだ歌であろうといわれている。



「如水円清」

官兵衛が「如水」と名乗ったのは、

天正17年(1589)家督を長政に譲って隠居の身となってからで、

44歳の時であった。

正式には「如水円清」と号したが、通称で如水と呼ばれた。

ルイス・フロイスの記述によると、

『官兵衛は剃髪した。

    権力・武勲・領地・および多年に亘って戦争で獲得した功績、

    それらすべては今や、水泡が消え去るように去って行った

     といいながら、
ジョスイ、すなわち「水の如し」と自ら名乗った』
                                                              
どつかれる寸前サボテンに化ける  井上一筒               

「上善如水、水善利万物而不浄、居衆人之所悪」

(上善は水の如し、水はよく万物を利して争わず、衆人の忌む所にある。

     理想的な生き方をしようと思うなら、、水のあり方に学べ、

     水は万物に恩恵を与えながら、自分は人のいやがる低い所に流れていく)

これは『老子』の一節である。

この一節は,さまざま人にも影響を与え、

とくに中国の古典にもさまざまに、応用されている。

深層心理読み取れますかバーコード  オカダキキ

【孫子兵法】
                                                                                                                      おもむく
「夫れ兵の形は水に象る。水の行は高きを避けて下きに趨く。

 兵の形は実を避けて虚を撃つ。

 水は地に因りて流れを制し、兵は敵に因りて勝を制す。

 故に兵に常勢なく、水に常形なし」

【礼記】ー「君子交淡如水」

「君子の交わりは淡きこと水の如し」

(才徳のあるものの交際は水のようにさっぱりしており、

    濃密ではないが長続きする)

透明になるまで自転しています  合田留美子

水のような清らかさや柔軟さを求めて改名に至った如水は、

ほどなく「茶の湯」に目覚める。

官兵衛と茶の湯との出会いは遅く、

秀吉の小田原討伐に従軍した折のことだった。

改名の翌年のことだ。

それまで、無骨な如水は丸腰になって狭い茶室に入るのは、

無用心と考えて敬遠していたというのである。

あるとき官兵衛は、秀吉から茶室に招かれ、しびしぶ茶室に入った。

しかし不思議なことに、秀吉が茶を点てる気配はまったくなく、

むしろ戦に関わる密談に終始した。

ここで秀吉は官兵衛に対して次のように述べた。

ゆっくりと開く明日も明後日も  谷口 義

「これこそが茶の一徳(得)というものである。

   もし茶室以外で密談を交わせば、人から嫌疑を掛けられる。

   しかし、茶室で密談を行えば、人から疑われることはない」

この言葉を聞いた如水は、茶会の重要性に気付き、茶の道に入った。

この話の舞台になったのは、

天正18年(1590)の小田原合戦の頃の話であるといわれている。

秀吉は千利休を茶頭として呼び、たびたび茶会を催したが、

官兵衛もそれに出席して感心を深めたという。

背番号3は漢方薬になる  小林満寿夫


    利 休

"底井なき心の内をくみてこそお茶の湯者とは知られたりけれ"

"万代の声もけふよりまし水の清き流れは絶えじとぞ思ふ"

ある茶会で秀吉が詠んだものに対し、返したのが下の歌だ。

この頃、秀吉は京都に「聚楽第」という大邸宅を構えたが、

その敷地内に家臣の屋敷も建てて、そこに利休を住まわせている。

同じ天正18年、利休はそこへ秀吉を招いて茶会を催したとき、

如水もまた、津田宗凡らとともに積極的に参加している。

如水の屋敷は、千利休邸と隣り合っていたことで、

直接に茶道を学ぶ機会も多く、親密度も増していったという。

この先も空気でいようあとうん  美馬りゅうこ

秀吉はやがて世継ぎと考えていた養子の羽柴秀次に聚楽第を譲り、

自身はその近くに伏見城を築いて移り住んだ。

新たに聚楽第に住んだ秀次は何度か碁会、将棋会をひらいている。

将棋は官兵衛も相手をさせられたおいう。

秀次は相当強かったようで如水は負けることも多かったが、

「お前、わざと負けただろう。もう一勝負しろ」

といわれたことがある。

半眼で話ふるいにかけている  竹内いそこ

秀吉は将棋が下手だったが、対局者は天下人が相手なので、

わざと負けることがあった。

秀吉は、もちろんそれをお見通しの上で大げさに、

「勝った、勝った」と喜ぶ。

如水は二人の器量の違いを見て、

「秀次は後継者の器ではない」と悟ったという。

如水の判断が正しかったのか、文禄4年に「秀次事件」が起き、

秀次は高野山に追放のうえ切腹させられた。

のぼったら降りんならんの忘れてた  山田葉子

「如水の日常」

家康の次男である結城秀康とも、如水は親しく交流している。

秀康は小牧・長久手の戦いの和睦の際、

人質として秀吉に差し出され、彼の養子となっていた。

しかし、天正18年に秀吉に実子・鶴松が誕生すると、

北関東の名門・結城晴朝の養子に出された。

二度目の養子である。

その時に縁組の世話をしたのが如水だった。

父を一盛 祇園囃子の添え物に  山口ろっぱ

以来、秀康は如水を頼りにし、

伏見の屋敷に住んでいた如水を三日に1度は訪ねたという。

隠居後、如水は屋敷に身分の低い者の子供らが、

泥のついた足で廊下を走ったり、相撲を取ったりして、

襖や障子を破ることがあったが、怒ることも叱ることもなかったという。

隠居して、名の通りに水の如くに生きる彼の生き様を慕う人も多かった。

途中下車して煙突になっている  たむらあきこ             

【余談】


官兵衛の短冊ー桜狩りの和歌 (画像をクリックすると拡大されます)

  "山深く分入花のかつ散りて 春の名残もけふのゆふ暮"     円清

法名「円清」と署名が確認できる。
(中津平野では、もう桜は終わってしまった。
   花を求めて求菩提山の山深く分け入ると桜の花は咲きつつも、
   はや散り始めている。
   春の名残もいよいよ尽きようとしている今日の夕暮れだなあ)


  官兵衛従者の和歌

官兵衛と同行した従者が詠んだ短冊が13首残っている。


豊前国に入封直後、求菩提山の山伏たちに出された命令書

秀吉からの禁制札が史料にあり取次ぎ者として、
官兵衛の署名・花押が記されている。

思い出の山で背伸びをしてごらん  立蔵信子

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