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川柳的逍遥 人の世の一家言
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続編はあるのでしょうか暈の月  合田留美子


 肥前名護屋城図屏風

狩野光信が描いた六曲一隻の屏風絵で、五層の天守閣を中心に
城内の様子や周辺の陣屋などが詳細に描かれている。

文禄2年頃の名護屋城を描いたものと考えられるが、
この時期は官兵衛が長政とともに朝鮮に渡海していた時期である。

へたくそが描いても富士山は分かる  新家完司

「名護屋城」

天正18年(1590)天下統一を果たした秀吉は、

翌19年に朝鮮出兵を決意し、

全国の武将たちに新たな戦の準備を整えるよう命じた。

一方、出兵するための軍事拠点となる城の築城にも着手し、

官兵衛に縄張りを命じた。

肥前国名護屋の東松浦半島の波戸岬に、「名護屋城」が築かれた。

当時の大坂城に次ぐ規模を誇り、

全国から集められた諸大名の割普請によって、築城が進められ、

わずか三ヶ月で完成させたという。

雑巾を絞りつづけてきた指だ  高橋謡々

  
  黒田長政陣跡

朝鮮出兵に際して、全国から名だたる戦国大名が集められた。

諸大名は名護屋城から3km圏内にそれぞれ陣屋を構え、

朝鮮へと旅立っていったのである。

その数は160余りにものぼると考えられ、

島津義弘陣跡、徳川家康陣跡、前田利家陣跡、黒田長政陣跡、

加藤清正陣跡、福島正則陣跡、伊達政宗陣跡、上杉景勝陣跡、

毛利秀頼陣跡、鍋島直茂陣跡、片桐且元陣跡、小西行長陣跡、

等々、確認されているものだけで120ヶ所にもなる。

一本の眉に小さな目が二つ  筒井祥文


 肥前名護屋城図屏風 (拡大してご覧下さい)

城の周辺には、全国から集まった諸大名の陣屋が散在していた

秀吉が名護屋城に居住したのは、

凡そ1年半ほどだったと言われているが、

全国の諸大名も集結したこの時期の名護屋城は、

まさに日本の政治経済の中枢になっていたともいわれる。

城の周辺には大名や家臣だけでなく、商売を営む者や

様々な生活に必要なサービスを提供する人たちが集まり、

ピーク時には20万人以上の人々で大変な賑わいだったという。

海までの遊びにすこし朱を足そう  たむらあきこ

「名護屋城を訪ねてみよう」



玄界灘を一望できる小高い丘を利用して、

総面積17万㎡の広大な敷地に中央最上段に「本丸」を置き、

中段には本丸を取り囲むように「二の丸」・「三の丸」・「遊撃丸」

「東出丸」・「弾正丸」・「水手曲輪」を配置。

下段には「山里丸」・「台所丸」などが置かれた。

名護屋城の最も高い場所には、25~30mにもなると考えられている

五層7階の天守閣を備えた「天守台」があり、

ここから対岸の加部島や馬渡島、壱岐島を一望できる。

波かぶりもがいた後の現在地  山田葉子


名護屋城博物館内のジオラマ

名護屋城は現在国の特別史跡に指定されているが、

建物など一切残っていない。

崩れかけた石垣とわずかな遺構が残るだけである。

それでも、その敷地を散策すると、

そのスケールの大きさに圧倒される。

同時に秀吉の権力が、いかに絶大なものであったかを、

容易に想像できる規模なのである。

とてつもない河馬の欠伸はまだつづく  山本昌乃


名護屋城跡に立つ周辺陣跡配置図
この位置から秀吉は無謀な夢を眺めていたのだ。



石垣しか残っていないが、壮大さは推し量ることができる。



本丸から天守と遊撃丸方面を望むと背後には玄界灘の大海原が広がる。



青木月斗の歌碑。"太閤が睨みし海の霞かな" と書いてある。



朝鮮出兵の際に使われた可動式の大砲



安宅船ー文禄慶長の役で活躍した日本最強の軍船。

海を見た大腿骨を太くする  みつ木もも花

慶長3年8月、秀吉は伏見城にて62歳の生涯を閉じる。

東アジア有史以来、最大規模となる文禄・慶長の役は、

秀吉の死によって、日本軍が引き上げるという形で幕を閉じた。

主を失った名護屋城は、肥前唐津藩の寺沢広高に引き継がれたが、

広高は唐津湾に流れ込む松浦川の河口に唐津城を建てた。

唐津城築城の折には、名護屋城を解体した用材が使われたという。

徳川政権誕生後、一国一城令によって名護屋城は破却された。

動いたか動かされたか仕切り線  森田律子

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嘘をつく舌の手入れをおこたらず  井上一筒


  釜山城

「文禄・慶長の役」
                いあく
官兵衛は隠居後も秀吉の帷幄(陣幕)にあり、

小田原攻めで講和交渉に尽力した。

これで念願の天下統一が成り、戦乱の世は終わるはずだった。

ところが、秀吉は「朝鮮出兵」を断行。

文禄元年(1592)4月、釜山に上陸した小西行長の一番隊は、

最後通牒を朝鮮側に渡したが、その返事は届かなかった。

そこで小西軍は翌日から攻撃を開始する。

こうして「文禄の役」が始まった。

零という風が終着駅に吹く  板野美子


  小西行長

官兵衛もまた肥前・名護屋城の縄張りを行った上、

作戦指揮官として朝鮮に渡海することになる。

ところが小西行長をはじめとする緒将が好き勝手な戦をするため、

思い通りの采配を執ることができない。
            とんね              
そんなところへ、東莢にいた官兵衛を訪ねて、
             はんそん
石田三成がはるばる漢城からやってきた。

が、官兵衛は浅野長政と碁を打っており、

待たされた三成は立腹して帰ってしまう一幕があった。

官兵衛にとって朝鮮出兵は、無益な戦いでしかなく、

帰国する口実を得ようとしたとも考えられる。

手際よさすこし度が過ぎないですか  岩佐ダン吉

実際、三成が書状でこれを秀吉に訴えたため、

官兵衛は「釈明する」と言って、さっさと無断帰国してしまった。

だが翌年になると戦況は日本軍にとって不利な展開になってきた。

そこで再び官兵衛は渡海して、日本式の城郭の縄張りを担当。

現地で「倭城」と呼ばれる難攻不落の城を築いたのだ。

だが総奉行としてやってきていた三成との確執を生じ、

ここでも官兵衛は無断で帰国してしまった。
                           ざんそ
三成はこれを敵前逃亡と見なし、秀吉に讒訴した。

君の目が心拍数を押し上げる  武本 碧

秀吉は軍令違反を犯した官兵衛に激怒し、蟄居謹慎を命じた。

「天下統一がなった今、秀吉にとって自分は目障りでしかない」
                     えんせい
そう読んだ官兵衛は、即座に剃髪出家して、如水円清と号し、

野心がないことを世間に示した。

やがて朝鮮での戦争は膠着状態となり、休戦交渉が始まる。

日明両国の使者は交渉が穏便に運ぶように、

虚偽の報告書を作成した。

わたくしの中に私を打つ私  たむらあきこ

文禄の役における休戦交渉を穏便にすませようとする報告書が、

虚偽であることを知った秀吉は怒り、再度の朝鮮遠征を決断する。

「慶長の役」(1597)である。

如水は小早川秀秋の軍監を命じられ、釜山に着陣する。
 うるさんわじょう
「蔚山倭城の戦い」で黒田長政加藤清正の救援に出かけている隙に、
やんさん
梁山城に明の大軍が来襲した際、

官兵衛は1500の兵をもって、敵兵を打ち破っている。

だが、日本の侵攻が行き詰る中、秀吉が死去の報が入る。

そして朝鮮出兵は、慶長3年にようやく終わりを向かえることになる。

だんどりは360度を視野に  池 森子


 建設途中の蔚山倭城

慶長2年11月中旬ころから、官兵衛と加藤清正が縄張りを行い、
毛利秀元・浅野幸長・清正の軍勢を中心に蔚山倭城の築城を始める。

「蔚山倭城の戦い」

築城を急ぐ日本軍に対して、明・朝鮮連合軍5万7千の兵が襲撃し、

攻城戦をしかけてくるが、加藤清正を始め日本軍は鉄壁の守りで、

明朝連合軍に大きな損害を与えた。

そのため明朝連合軍は強襲策を放棄し、包囲戦に切り替える。

未完成の蔚山城で日本軍は、食料不足の籠城戦となり苦境に陥る。

年が明けた慶長3年1月になると蔚山城は飢餓により、

落城寸前まで追いつめられていた。

しかし3日、毛利秀元・黒田長政らの援軍が到着し、

翌日から日本軍の水陸からの攻撃で、

明・朝鮮連合軍を敗走させ多大の損害を与えて勝利した。

まもなく城が完成し、九州衆が城の守備のために朝鮮に残留、

四国・中国衆と小早川秀秋は一時帰国し、翌年の再派遣に備えた。

秀吉は慶長4年に再び大軍を派遣して朝鮮掃討を指示していたが、

8月18日に死去し、行長ほか派遣隊は朝鮮からの撤収が始まる。

自画像の中を流れてゆく時間  三宅保州

「官兵衛の次男」

名は熊之助

天正10年(1582)、賤ヶ岳の合戦時に山崎城で誕生した。

兄・長政とは15歳差。

慶長2年、順調に成長をした熊之助は、16歳のとき初陣として、

父・官兵衛と兄・長政が慶長の役を戦う朝鮮の地へ、

母里太兵衛の嫡男・母里吉太夫、黒田一成の弟・黒田吉松

を従え中津城から船で向かった。

ところが、不幸にも玄界灘で暴風に見舞われ、

船は沈没し、元服を前に熊之助は家臣とともに命を落としてしまう。

母・はこの知らせを大阪の天満屋敷で聞き知ったという。

前髪がそろりと旅に出る話  和田洋子

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カマ首をときどき起こし風を聴く  森中惠美子


  橋立の茶壺

利休が持つ数々の茶道具の中で最も愛したのがこの橋立の茶壺である。
それを知った茶好きの秀吉は、自分の立場を利用して利休に、
「それをよこせ」と強引に望んできた。
しかし利休は秀吉がいくら望んでも、この橋立の茶壺を手離さなかった。
これを渡さなかったことが、秀吉の勘気を買い利休切腹の一因に、
なったとも言われている。

「利休が秀吉に死刑を命じられる原因を探る」

天正18年(1590)秀吉が小田原で北条氏を攻略した際に、

利休の愛弟子・山上宗二が秀吉への口の利き方が悪いとされ、

即日処刑された。

奈良の茶人・久保利世が自叙伝の中で、

「茶説・茶話」を収録した原文に、

『小田原御陣の時、秀吉公にさへ、御耳にあたる事申て、

   その罪に耳鼻をそがせ給ひし』 とある。

この事件から、秀吉と利休の間に、「思想的対立」がはじまる。

もう二度と熱くなれない君と僕  松山和代

利休は、最晩年の天正18年(1590)から、

天正19年にかけて、『利休百会記』として、

その記録が伝わる、およそ「百会の茶会」を開いた。

徳川家康毛利輝元らの大名衆、堺や博多の豪商、

大徳寺の禅僧など、多様な人々が出席した。

また、この茶会記には、

利休七種にもあげられる「赤楽茶碗・木守」や、

利休愛用の「橋立の茶壷」などの道具を用いた。

有り様もあらざるモノも現世  山口ろっぱ

 
    利休の愛した瀬戸黒茶碗  黒楽茶碗

そして、1月13日、黄金の茶碗を所望した秀吉に、

「わび茶は無駄ともいえる装飾性を省き、

    禁欲的で緊張感のある茶である」

と主張する利休は、あえて『黒茶碗』を出した。

これが、秀吉の勘気に触れた。

黄金の茶室と利休についても、

   「利休の美意識と黄金の茶室の趣向は相反するもの」

であった。
                    
そこにいるあなたの声が聞こえない  河村啓子
 

   羽柴秀長

 そして10日後の22日、秀吉の弟・秀長が病没。

秀長は、諸大名に対し、

「内々のことは利休が」、

「公のことは秀長が承る」

と公言するほど、利休を重用していた人徳者である。

秀長は秀吉のそばにあって、唯一利休の理解者で後ろ盾であった

それから、1ヵ月後の2月23日、

突然、秀吉から、

「京都を出て堺で自宅謹慎せよ」

と利休に命令が届く。

止められぬ時の流れがごうごうと  岡田幸男

       
   大徳寺山門

千利休は、山門の閣を増築し二層とし、自らの像を安置する。
秀吉はこれに怒り、寺を破却しようとしたが、宗陳に止められる。 

2月25日には、利休の木像が聚楽大橋に晒され、

翌26日、上洛を命じられる。

前田利家や、利休七哲の古田織部、細川忠興ら、

大名である弟子たちは、大政所北政所が密使を遣わし、

命乞いをするから、秀吉に詫びるようすすめた。 が、

「天下ニ名をあらハし候、我等ガ、命おしきとて、

 御女中方ヲ頼候てハ、無念に候」 

と断った。           『千利休由緒書』に残る利休が利家に答えた言葉」

遺言と書いて江戸小噺を一つ  筒井祥文             

そして、2月28日、
               よしや
利休の屋敷がある京都葭屋町を訪れた秀吉の使者が伝えた伝言は、

「切腹せよ」

この使者は、利休の首を持って帰るのが任務だった。

利休は静かに口を開く

「茶室にて茶の支度が出来ております」

使者に最後の茶をたてた後、

利休は一呼吸ついて切腹した。  享年70歳。

利休は天下人の気紛れにも似た、理不尽な命を、

粛々と受け入れることで、信長や秀吉の上に立ったのである。

血液はサラサラですが生き下手で  山本昌乃              


   利休の茶室

利休の死から7年後、秀吉も病床に就き他界する。

晩年の秀吉は、短気が起こした利休への仕打ちを後悔し、

利休と同じ作法で食事をとったり、

利休が好む「枯れた茶室」を建てさせたという。

「利休が死の前日に詠ったとされる辞世の句」

  じんせいしちじゅう     りきいきとつ
【 人生七十      力囲希咄  
 わがこのほうけん      そぶつともにころす
     吾這寶剣      祖佛共殺     
  ひっさぐる                わがえぐそくの       ひとたち
  堤る             我得具足の    一太刀 
 いまこのときぞ     てんになげうつ
    今此時ぞ          天に抛 】               

転がってみたいと思うまっ四角  合田瑠美子

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澄んでしまえば生きにくい白である  前中知栄


                    たいあん
      国宝二畳敷の茶室『待庵』

利休が考案した「にじり口」といわれる入口は、極限まで削りとった
間口は
狭いうえに低位置にあり、
いったん頭を下げて這うような形にならないと
中に入れない。

それは天下人となった秀吉も同じ。
しかも武士の魂である刀を外さねばつっかえてくぐれない。
つまり、一度茶室に入れば人間の身分に上下はなく、
茶室という小宇宙の中で「平等の存在」になるということなのだ。
このように、茶の湯に関しては、
秀吉といえども利休に従うしかなかった。


「世の中に茶飲む人は多けれど 茶の道を知らぬは茶にぞ飲まるる」
                            〔利休〕
カンナ屑私は何を削りとる  森田律子

小田原城を落とし天下統一がなった天正19年(1591年)

秀吉周辺には、いくつもの不幸が続いた。

1月、秀吉の弟で右腕と頼んでいた大和大納言・秀長が死去する。

前年、家康に嫁いだ妹・が聚楽第で亡くなっているから、

秀吉は、妹と弟を相次いで失ったことになる。

2月、北条家に出仕していた利休の高弟・山上宗二が、

秀吉に面会を許された折、無礼を働いたとして、打ち首になる。
           びとうとものぶ
7月、小田原では尾藤知宣が、島津攻め「根白坂の戦い」の失敗の、

反省もなく敵に塩を送ったかたちに秀吉が激怒、打ち首になる。

同7月、織田信雄の長女で秀吉の養女・小姫がわずか7歳で死去。

小姫は、徳川秀忠と結婚することになっていた。

8月、秀吉の愛してやまない「鶴松」が、わずか3歳で亡くなる。

秀吉の嘆きはあまりに深く、東福寺に入って髷を切ったという。

蝙蝠はなんで頭にこないのか  武智三成        


 南宗寺内・利休茶室

「茶人・千利休」

千利休は、堺で納屋衆(倉庫業)を営む商家に生まれる。
                      ととや
商家の屋号は、なぜかユニークに魚屋という。
                      げっしん
父は、田中与兵衛、母の法名は、月岑妙珎、

妹は、、茶道・久田流へと続く宗円
                           きたむきどうちん
若いころから、茶の湯に親しみ、17歳で北向道陳
     たけのじょうおう
ついで、武野 紹鴎に師事し、師とともに茶の湯の改革に取り組んだ。

その流れから、織田信長が堺を直轄地としたときに、茶頭として雇われ、

のち秀吉に仕えた。

よろこびをつつんで生きている人だ  居谷真理子           


  利休の手水鉢

利休という名は晩年、天正13年(1585)10月の、

秀吉の禁中茶会で、正親町天皇から賜った居士号であり、

それまでは「千宗易」という法名を名乗った。

利休は、わび茶の完成者で、「茶聖」と称される。

わび茶は、無駄ともいえる装飾性を省き、

”禁欲的で緊張感”のある茶である。

その世界を追求するため、利休は草案と呼ばれる二畳の茶室」

創出し、また楽茶碗、万代屋釜、竹の花入れなどの

「利休道具」を考案し、露地の造営にもこだわり、

茶の湯を、「一期一会の芸術」にまで高めたのである。

理想論でうごくこの世であるならば  たむらあきこ

一時期、利休は聚楽城内に屋敷を構え、聚楽第の築庭にも関わり、

禄も三千石を賜わるなど、茶人として名声と権威を誇った。

天正15年(1587)「北野大茶会」を主管し、

一時は、秀吉の重い信任を受けていた。

が、天正18年(1590)、秀吉の弟・秀長が死去した辺りから、

秀吉と利休の関係がおかしくなってくる。

秀吉と大名たちの、つなぎ役でもあった秀長がいなくなったことは、

豊臣政権にとっても利休にとっても打撃だった。

螺旋の底で水の澄むのを待っている  森 廣子


   利休庵の茶釜

その矢先の2月、秀吉が小田原で北条氏を攻略した際に、

利休の愛弟子・山上宗二が、秀吉への口の利き方が悪いとされ、

その日のうちに処刑される事件があった。

利休は大きな衝撃を受けた。

茶の湯に関しても、秀吉が愛したド派手な「黄金の茶室」は、

利休が理想とする「木と土の素朴な草庵」と正反対のもの。

秀吉は自分なりに茶に一家言を持っているだけに、

利休との思想的対立が日を追って激しくなっていく。

添うた背いた花筏の蛇行  岩根彰子

だが実は、官兵衛と同様、何かと秀吉に諌言する利休の不遜な態度を、

最も苦々しく思っていたのは、秀吉の忠実な側近・三成だった。

秀吉があまりにも、利休を重用することで、

誰もが利休を頼るようになり、

また利休もそれを利用して、出世していくことに、

懸念を示していたのだ。

そんなことから、同年2月13日、石三成の讒言により、

利休は、大坂城から堺へと追放が決まった。

利休は頑なに謝罪を拒否し、秀吉も引くに引けなくなり・・・。

あしたという字は暗い日と書くのね  喜多川やとみ

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夕焼けが旨い口笛が聞こえる  徳山泰子



   大坂城
 
「大坂城」


大坂城の起源は明応5年(1496)蓮如が別院を設けたのに始まる。

天文元年(1532)、山科本願寺が焼き討ちされると、

証如によって「本願寺」が大阪の地に移された。

別名「石山城」と称されるほど堅固なものであった。

のちに、本願寺は織田信長と対立するが、

天正8年(1580)に和議が結ばれ本願寺は退去した。

本能寺の変後、秀吉は大坂の経済上・地理上の重要性に着目して、

大坂城の築城を決意するのである。

幕下りた舞台を漂白してしまう  前田ひろえ

大坂城は、秀吉が天下を治めるために築いた最初の城だが、

工事が開始されたのは、天正11年(1583)8月ころ。

秀吉は各国から職人や人夫を動員して大工事を敢行した。

各国から人員を集めることは、秀吉の権力を誇示する狙いもある。

もちろん、官兵衛も大坂城の工事に動員された。

官兵衛が居城として建設したのは、中津と福岡だけだが、

すでに中国攻めの頃から、自らの居城である姫路城を秀吉に譲り、

これを織田軍中国方面司令官の居城に

「ふさわしいもの」とすることに貢献している。

そこで官兵衛は、縄張りにおける類なき才能を買われたのである。

反骨に入り浸る虫チーと鳴く  きゅういち

天下人となった秀吉のために官兵衛は、今までにも、

大坂・聚楽第・高松・広島・名護屋などの各城の普請に、

なにがしかの立場で参加し助言を与えてきた。

大坂城築城にあたっては、

官兵衛は城普請の監督という積極的な地位を任されていた。

何しろ巨大な城郭であるので、

持ち場によって複数の監督が置かれたのだ。

秀吉の古くからの家臣・前野長泰もそのひとりであった。

注目の的でなかなか手は抜けず  山本昌乃


   大坂城石垣     羽柴秀吉大坂築城持掟書

持掟書の末尾には官兵衛のサインがある。

秀吉がこの二人に対して5つの掟を定めた。

「普請石持付而掟」という。

① 石の採取は自由であるが、奉行があらかじめ取り置いた石は取らぬ事。

② 宿をあっちこっちに取ると石の採取場まで遠いので、石場に野宿する事。

③ 石を運搬する際、片側通行にする事。

④ 喧嘩口論は禁止する。(訴えがあれば、喧嘩をふっかけた者を罰する)

⑤ 百姓に対して乱暴狼藉を働く輩は処罰すうる。

これらの条項からみて、大坂城の工事では不特定多数の職人や人夫が

一気に押し寄せる混乱排除のため、

一定の秩序を保つ必要があったようだ。

長話が嫌いな雲形定規たち  田中博造



築城が開始されると、まもなく官兵衛の姿は見えなくなる。

官兵衛の役割は、普請の初期の段階において、

筋道をつけるところ、いわゆる設計に携わっただけで、

軍師として秀吉に呼び戻されたのであった。

話がいったり来たりするが、官兵衛は、

備中・高松城の水攻めの際に足守川から蛙ヶ鼻まで、

高さ7メートル、3キロメートルに及ぶ堤防の築造をみても

分かるように、土木技術にも精通していた。

その知恵は大坂の地でも発揮される。

上町の北端に築かれた大坂城は、「南側に空堀を掘って」防備を固め、

また淀川とその支流が「天然の堀」の機能を果たすとともに、

城内の堀へと、水を引き込むのに利用している。

マーキング柑橘類を滴らす  高島啓子


   大坂城周辺図

難攻不落といわれる大坂城は、三木城ならびに鳥取城の兵糧攻め、

水攻めなどによって落城させた備中・高松城など。

数々の城を知り尽くした官兵衛だからこそ、

成し得た城及び町造りであった。

現在、我々が何気なく走り回っている大坂城周辺は、

城下町を一体として設計された、官兵衛の知恵そのものなのだ。

余談だが黒田家譜に、

「大坂城普請がはじまると、秀吉から長政に対して、

河内国丹北郡住持村に初めての知行地が与えられた」

と記されている。

これは大坂城普請に際しての、

造作料や馬の飼育料に充てるものであった。

如何とも枚挙なく空繰り出して  筒井祥文

「最後に」

秀吉の大坂城は、本丸の築造に約1年半を費やし、

その後も秀吉が存命した15年の全期間をかけて、

徐々に難攻不落の巨城に仕上げられた。

また、城づくりと同時に町づくりが行われ、

秀吉時代の大坂は、近世城下町の先駆けとなった。

領主の邸宅である城を中心とした広大な領国の首都、そして、

政治・経済・軍事・文化の中心都市として、

「城下町大坂」が建設されたのである。

ええたしか足がここにありました  河村啓子

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