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川柳的逍遥 人の世の一家言
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シャチの背中にこんにゃくの載せにくさ 井上一筒


    明倫館

毛利家家臣の子弟教育のための藩校。
現在は明倫小学校の敷地内にあり、文や松陰、
そして長州の志士たちのゆかりの史跡が残っている。

「松陰の兄・梅太郎(民治)」

梅太郎は杉家の長男として生まれる。

寅次郎とは二歳違いの兄で、

幼いころから父・百合乃助や叔父の文之進に学問を教わり、

文之進が塾を始めてからは、松陰とともに勉学に励むようになる。

寅次郎と梅太郎は、とても仲の良い兄弟であった。

松陰の妹・千代が77歳の時、インタビュー記事に語った言葉がある。

「長兄の梅太郎と松陰は、

   見る者が羨ましくなるほどに仲のよい兄弟でした。

   出かけるときも、帰るときも一緒で、寝るときは、

   一つの布団に入りますし、
食事の時は、

   一つのお膳で食べておりました。


   たまに別のお膳で食事を出すと、

   一つの膳に並べかえていたほどでした。


 影が形に添うように、松陰は長兄・梅太郎にしたがい、

   梅太郎の言いつけに逆らうようなことなどありませんでした」

似た声を拾って歩く左耳  八上桐子



寅次郎が故郷を離れ江戸へ遊学に出たときには、

その志を理解し、一家の生活を切り詰めて学費を送金をしている。

22歳のとき、藩校の明倫館に入り、やがて役職に就くようになる。

黒船来航後、江戸湾警備のため相模に出張した際、

寅次郎の「密航未遂事件」に遭遇、帰藩を命じられた。

寅次郎が何度も国禁を犯しては、勤皇思想を公言するので、

そのたびに、そのとばっちりを受け、監督不行き届きとされて、

職を辞さざるを得なくなったり、謹慎を命じられたりした。

しあわせも不幸も君と半分こ  清水すみれ

それでも、寅次郎の志を押さえつけようとしなかったのは、

自分自身も、そうした志を秘めていたからだ。

もともと長州には、かって織田信長足利将軍や

天皇家軽視を批判する向きがあったように、

勤皇の精神が根付いていたのである。

そして、応援し続けた松陰が処刑されたのちは、

役職に復帰し勤皇派の復権を期して、

「鎮静会」という組織を作った。

軍手でつかむつるりとした未来  高島啓子


   民 治

維新後は、数々の役職を務め、主として優れていたので明治2年、

「民治」という名を賜っている。

明治4年には、山口県権典事という重職に就任。

その後、明治11年に辞職して故郷へ帰り、

明治13年頃から「松下村塾」を再興して塾長になった。

やはり、弟と勉学に励んだ日々を忘れることができなかったのだろう。

この塾は25年続いた。

晩年は、私立修善女学校の校長として、

子女の教育に残りの人生を捧げている。

これも松陰の遺志を継いだものなのだろう。

かって松陰が、女学校の建設を提唱していたからである。

松陰は年配の教養ある武士の未亡人を教師にして、

女児に女性の道を厳しく教えることを主張している。

青空を生む一本のネジまわす  和田洋子

梅太郎が亡くなったのは、明治43年、83歳であった。

松陰は、梅太郎からもらった詩に対して次のような返書を認めている。

「長男にとって、上には父母がいて、下を見れば弟妹がいます。

   外に出ると、役職が忙しいし、家の中では家事がたくさんあります。

   静かに座って読書し、ものを書くいとまはないでしょう。

  私矩方(松陰)が長兄に望むことは、詩作ではなく、

  文書を書くことではなくて、人々に農事を教え、農業を指導して、

  人々を富ませる学問することに越したことはありません」

この文書から、「兄がいなければ自分はない」

と考える松陰の兄を敬う念が伝わってくる。

マリオネットの糸をゆるめる二十五時 赤松ますみ

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くもの巣を蜘蛛は命をかけて張る  笠原道子

    
   東北遊日記

「異国船は堂々と海峡を往来している、

自分の寝台の横で他人が寝ているのを許すよりもひどい状況だ」

と書かれている部分。

「小田村伊之助と松陰」

文政12年(1829)小田村伊之助は、藩医・松島家の次男として、

今の萩市内で生まれた。

12歳のとき、儒学者・小田村家の養子になり、小田村伊之助を名乗る。

小田村が「明倫館」に入学したのは、16歳の時。

その後、19歳のときに養父が死去したために小田村家を継ぎ、

明倫館の司典という書籍を司る役に就き、儒学者の道を歩み始める。

嘉永元年、20歳時、城の警護役である城番に加えられ、

翌年、教授・助教授に次ぐ「講師見習い役」に任じられる。

嘉永3年(1850)3月、江戸藩邸勤務を命じられ、
             あさかごんさい
儒学者の佐藤一斎安積艮斉の塾に入っている。

無限大の風へ懸命に生きる  都倉求芽



小田村伊之助寿と結婚したのは嘉永6年、江戸遊学を終えて帰国し、

明倫館の講師見習いに返り咲いたときである。

それは、松陰が脱藩の罪で士籍を剥奪され、
                はぐくみ
身分は父・百合乃助「育み」の下で、暮らすことになったものの、

彼の才能を惜しんだ藩主・敬親ら遊学を許されたときのこと。

寿の結婚を知らせる手紙を受け取った松陰は、

とても喜び、次のような返事を書いている。

 (「育み」=長州藩独特の制度で再教育の機会を与えること)

白ですね昨日と違う白ですね  河村啓子

「久しぶりに故郷の便りを聞いて、繰り返して何度も読みました」

そして

「妹の寿が小田村氏へ嫁いだそうで、喜ばしいのはこのことで、

   お喜び申し上げます。

   小田村の3兄弟は皆読書家で、このことでも私の喜ぶところです」

とはいえ、小田村は藩の役人としての仕事が、煩雑で忙しく、

家庭に落ち着くことは、ままならなかった。

修正は不可能な気がします  安土理恵

萩に戻った 嘉永6年(1853)に再び明倫館に入るが、

すぐに文武稽古所「有備館」の稽古係を命じられ、江戸に戻っている。

さらに安政2年(1855)には再び、萩で明倫館講師見習いに復帰し、

翌年、今度は警備のために相模国三浦郡の陣屋に派遣され、

その任が終わると、明倫館が待っているという具合に、

江戸と萩を頻繁に往来していた。

それだけ小田村が、藩に重用されていたことの証しでもある。

当時、松陰は杉家に蟄居中、多くの弟子が集まっていたが、

小田村は藩務に追われ、「松下村塾」には顔を出す間もなかった。

行きつ戻りつひと筆書きの人生さ  田口和代.



また、この嘉永6年、ペリーが浦賀に来航した年でもあった。

こうした世情は世情として、

人々の生活に大きな変化が起きるはずもなく、

小田村夫婦の間には、翌年、長男・篤太郎

4年後の安政5年には、次男・久米次郎が生まれている。

2人が結婚したとき、文はまだ10歳。

はるか年上の小田村が、のちに自分の夫になるなどとは思いもせず、

ただただ、敬愛する姉の結婚を眩しい思いで見ていた。

ただ、一見、穏やかな生活が続いた小田村家だったが、年下ながら、

義兄となった松陰の言動に振り回される伊之助であった。

水平線はおぼろ宇宙は鼻の先  佐藤正昭



江戸滞在時の小田村の日記に、

学問仲間の中村百合蔵と松陰と3人で、藩主に講義したことや、

松陰が浦賀まで出かけたこと、

あるいは書物を読んで議論したことなど、多岐にわたって記述し、

交友関係が深まっていったことを伝えている。

こうして2人は親しく付き合っているが、

性格はかなりの違いがある。

損得抜きで行動をしてしまう激情型・松陰が、

通行手形の発行を待たずに、東北地方へ出発、

脱藩とされてしまったことがある。

半分は蜜 半分は毒 狂う  森田律子

そのときの小田村の日記には、

「吉田大次郎が、昨日脱藩したと言ってきた。

   すぐに桜田藩邸へ行き来原良蔵、小川七兵衛に会って事情を尋ねた」

小田村は松陰の後先を考えない行動に、驚き慌てた。

そして松陰の脱藩を責め、すぐに帰ってくるよう忠告した。

その手紙に対する松陰の返事は、

「自分の気持ちを知っているはずなのに、責められるとは思わなかった」

そして

「何もしないままで帰ることなどできない、

   もし、どうしても帰れというのであれば、

   自分で首をはねて胸を刺し、自害して罪を償う」

という激しいものだった。

繰り返す脱皮に鋼鉄の皮膜  日下部敦世

小田村が松陰に関わった問題として、二例あげれば、

安政元年(1854)、松陰が下田でアメリカへ密航を企てて失敗、

江戸の伝馬町獄に収容されたとき、寛大な処分を藩に働きかけ、
                むくなし
その一方で、松陰を嫌う椋梨藤太の派閥にあえて属し、

藩主・毛利敬親に日米修好通商条約反対を進言するなど、

松陰の志を支えた。

又、小田村は獄中の松陰の安否を気遣い、

金銭や筆記用具を差し入れている。

後、伝馬町獄から野山獄の移された松陰は、安政2年、

その年に死去した村田清風伝を書いてほしいと依頼をかけている。

しかし、小田村は忙しいうえに資料も不足していることから、

周りに相談の後、責任が果たせない旨の手紙を書いている。

シビレエイあんたの胸の超音波  井上一筒

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行住坐臥なんの飾りがいりましょう  田口和代


        杉 家 旧 家

杉家の畳のある部屋は、四室で合計18畳。

別棟の馬屋、物置を含めても20坪。

ここに最大13人が身を寄せて暮らした。



「文の母・瀧子」

瀧子は、20歳のとき、杉百合之助のもとに嫁いでいる。 

百合乃助より3歳年下の瀧は、慈愛に満ち笑顔を絶やさなかった。

嫁いだときには、杉家には姑(岸田氏)

夫の二人の弟・大助・文之進が同居し、

さらに姑の妹も子連れで帰ってくるなど、大家族であった。

そして梅太郎松陰に次いで、天保3年には長女・千代が誕生する。

増える子供の世話も大変だが、

さらにここに瀧の姉が転がり込んできた。

マックス13人が暮らした杉家宅であった。

生い立ちの貧しさ青に近づけぬ  前田扶巳代

下級藩士の杉家は、決して裕福ではなく、

女中や下男を雇うことができなかった。

したがって瀧子は、夫と共に田畑を耕し家事の一切を引き受けていた。

しかし、そんな貧しい生活であるにもかかわらず、

子どもの教育に熱心で、「学問だけは怠らないように」と、

読書を勧めた。

松陰が後に継ぐことになる松下村塾を始めた父の弟・玉木文之進は、

人に厳しい人であったが、

その彼さえも瀧子を称賛してやまないほどだった。

松陰の弟子たちのことも可愛がり、貧しい中、

彼らを精一杯もてなした。

計算は嫌い貧しさにも馴れて  森中恵美子

それだけではない、姑は中風で寝込んだ上、

姑の妹までも半身不随となった。

長男・梅太郎が書いた『杉百合乃助逸話』に、

「瀧は三人の子供を抱えて、病人に行き届いた看護をなし、

   汚物の洗濯も意に介せぬ献身ぶりに、姑も泣いて感謝し、

   近所の者も涙した」 と書き記している。

こうした苦労の多い生活をしながら、ときには、

狂歌を作って披露し家族を笑わせるなど、

根っからの楽天家であった。

風呂は肉体と精神を爽やかにし、家族に平安をもたらすと、

毎日風呂を焚いた。

青を着る平常心のぶれぬよう  美馬りゅうこ



梅太郎の逸話に、

あかぎれで湯が沁み、つま先だって歩く母が、

「あかぎれはこゑしき人のかたみかな ふみみるたびにあいたくもある」

と、詠い皆を笑わせた とある。

(こゑ(恋)しき人、ふみは(文)と(踏む)の掛けことばになっている)

こうした瀧のもと、大家族は一つになっていた。

ゼロ番線の先で光っている青  広瀬勝博

だが総じて瀧子の生涯は、苦労多く、松陰だけでなく、

子どもや孫にも先立たれ、松陰の刑死は、夫にまで及んだ。

だが、瀧は、慌てず騒がず乗り越えてきた。

末娘・も、そんな母を見て育ったのだろう。

彼女が兄・松陰や夫(久坂玄瑞)の死を乗り越え、

再婚した楫取素彦のよき伴侶になり得たのも

こういう母のもとで多くのことを学んだからに違いない。

松陰の母への気持ちと、母の松陰に対する気持ちがこめられた

有名な句がある。

「親思うこころにまさる親心 今日のおとづれ何と聞くらん」

(江戸で罪人として処刑が決まった松陰が、郷里の両親に宛てた時の句)

愛から愛 花から花が生まれます  津田照子



「文の父・百合乃助」

名は常道。

通称で百合乃助と呼ばれた。

家禄は26石。

因みに同居の二人の弟は、

吉田家と玉木家に養子に行き57石と40石を得ている。

天保14年、文が生まれた年に、百合乃助に慶事が訪れる。

藩政改革のなか、中間百人頭兼盗賊改方に抜擢されたのだ。

杉家は家禄26石だったが、

借金や召し上げ米もあって実収入は年7.7石。

これは大人四人分ほどの食い扶持にすぎなかった。

だからこそ杉家は夫婦して農耕に勤しみ、何とか生計を立ててきた。

凛として木目通して父の椅子  山本早苗

日ごろの百合乃助は、読書家で暇さえあれば本を読んでいた。

畑仕事をするときも、いつも、座右に本を置いて、

それを読みながら作業に励んだという。

「杉百合乃助逸話」では、

「百合乃助はもっぱら農耕を生業とし、農作業をしながら、

   常に読書を怠らず、梅太郎、松陰の素読はほとんど畑で教えた」

とある。

息子たちを耕作の休憩中に畦に座らせ、「四書五経」を教え、

山への道すがら、「詩文」を吟じて覚えさせた。

また夜の米つき、藁仕事の合間を惜しんで、

楠木正成児島高徳など天皇の忠心の物語を聞かせた。

(松陰が天皇を敬う「尊王」の考え方も、父の影響だった)

私がまず抽出しになっている  河村啓子

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薄氷そんな約束したかしら  美馬りゅうこ


   杉 寿

「文の次姉・寿」 (楫取素彦の最初の妻)

杉家の次女・寿は高禄の長州藩士との結婚が決まっていたが、

兄・寅次郎が脱藩の罪に問われたため、破談となる。

寅次郎は、江戸でともに学んだ同郷の小田村伊之助の資質を見込み、

「寿は学問好きの小田村とは、必ず似合いの夫婦に相成り候」

という手紙を杉家に送っており、それがきっかけとなり、

松陰とは9歳年下の寿は15歳で、松陰より1歳上の小田村に嫁ぐ。

小田村は「明倫館」の講師でもあり、松下村塾の中心人物でもあった。

松陰は、村塾を彼に託そうとしたくらい、よくできた人物だった。

しかし、ペリー来航で騒然とする中、彼もまた不在がちの毎日で、

寿は、子どもを連れて実家で生活することが多かった。

無駄骨を何本折ったかで決める  立蔵信子

松陰は、長姉・千代に比べて優しさよりも勝気が勝る彼女を心配して、

それを戒める手紙を出している。

「お寿は、若い時は心が偏ったところがありました。

 この気性は生まれた子にとっては、わざわいになるでしょう。

 しかし、今子どもを抱く身になったのだから、

 決して若い時のようにしてはいけません。

 穏やかで素直で心を広くして幼子を育てて、

 将来、勉強に精を出すもとを作りなさい。

 それを大いに祈っています」
ひさいえ
(小田村夫婦の間には、結婚の翌年、長男・篤太郎(希家)

4年後の安政5年(1858)次男・久米次郎(道明)が生まれている)

破れ目から何かころりと抜け落ちる  山本昌乃



二人が結婚したとき、はまだ10歳そこそこの少女であった。

はるか年上の小田村が、後に、

自分の夫になるとは思いもしなかっただろう。

ただただ敬愛する姉の結婚を眩しい思いで見ていたに違いない。

この姉は、松陰も認めるほどの、賢く気丈夫な女性だったからである。

小田村が「野山獄」に囚われたときのことである。

寿は人目のつかない夜中に、彼のもとを訪れ食物や衣類を届けた。

同行した文が怖がっているのに、寿はびくともせず、

面白がるふうもあった。

そして、松陰が刑死、義弟の久坂玄瑞も戦死して、

維新を迎えた寿は、楫取素彦と名を改めた小田村に対する

妻としての役割を務め上げている。

彼女の勝ち気な性格が功をせいした一場面である。

丸描いて平常心を呼び戻す  菱木 誠



他にも楫取が群馬県令として赴任したときは、

「寿の助けがなくては、やりとげられなかった」

と思われる役割を果たしている。

当時、道徳教育が津々浦々まで行き届いていたとはいえず、

赴任地の群馬も、「難事県」と呼ばれていた。

寿は、荒くればかりの群馬の人々を救うには、

「宗教しかない」 と思いあたり、

昔から信仰していた浄土真宗の教えを広めようとした。

彼女が言うなら蜜柑は四角です  奥山晴生

それは見事に成功し、その活躍は、

「荒くれし地にもみのりの花は咲く 名もゆかりある熊谷の里」

と詠われた。

また寿は「関東開教の祖」といわれた。

やがて楫取素彦が携わった「製紙業」も盛んになる。

群馬県が「養蚕」で有名になり、「教育県」と呼ばれるなったのは、

寿の協力があったればこそであった。

この製糸場と絹産業遺産群が、いわゆる、

「世界遺産」・
「富岡製糸場と絹産業遺産群」となる。

こうして、内助の功以上の功績を残した寿だったが、胸を病み、

明治14年2人の息子を残して、44歳の若さで亡くなった。

満月は嫌いだすぐに欠けるから  嶋澤喜八郎

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タコとイカ契り九本足を生む  清水久美子


玉木文之進邸(旧・松下村塾

文や松陰の近くにある玉木文之進の旧邸。
玉木はここに松下村塾を開校、その弟子だった松陰が受け継いだ。

「叔父・玉木文之進」

松陰の父・百合之助には2人の弟がいる。

一人は、当主が早世し6歳で吉田家の養子になった吉田大助で、

この吉田家が、松陰の養子先である。

義父・大助もまた、学問に優れた人であったが、

松陰が養子となって間もなく病没している。

短い期間でも松陰は、この義父にいろいろなことを教えられている。

このときを教訓に松陰の言葉が残る。

「亡父の教えを尊敬している者が、どうして泥棒になって、

    何もしないで家禄をもらっていられようか」

「賢くて善良な人が大志を抱きながら若死にしたことは、

   実に悲しむべきことだ。

   彼の遺言を守って、自分は勤皇の心をさらに強くしよう」

と、言って自らを励ました。

割り算の余りがとても愛おしい  雨森茂喜



2番目の弟が、玉木文之進である。

という名は、この叔父からの一字をもらったものである。

当時は家の存続のため養子縁組は頻繁にあり、

文之進の姓が、杉でないのも、彼もまた、

玉木家へ養子に行ったためである。

もともと、杉家は吉田家の出であり、

山鹿流兵学を修める家柄だったので、

その伝統が、吉田家、杉家、玉木家に伝わることになった。

ええたしか足がここにありました  河村啓子

文之進は、文武両道に優れ、結婚後も杉家に同居していたから、

杉家の子どもたちの教育は彼の役割だった。

その後、「明倫館」に出仕するようになるが、

ここでも、松陰兄弟のよき師として務めた。

しかも松陰が育てた「松下村塾」の創始者でもある。

明倫館での活躍の一方で、異国船に対する防御については、

祐筆などの要職を務めている。

したがって藩の上役たちも「玉木先生」と呼んで尊敬していたという。

棘を脱ぎ栗は大人になっていた  斉尾くにこ

とくに各地の代官を歴任したときは、16人いた代官の中で、

もっとも優れた代官といわれた。

しかし、明治9年「萩の乱」が勃発したときに、

その責任をとって自刃している。

文之進は、首謀者に前原一誠がこの乱を組織して、

内乱を起こそうとしているのを知り、その軽はずみな計画を諌めたが、

一誠は言うことを聞かず、兵を挙げてしまったのだ。

「松下村塾」年長の塾生だった一誠は、

倒幕を松陰の敵討ち、と捉えていたかのように活躍したが、

明治政府の高官になってのち、政府の主流と対立していた。

松陰もその性格を心配していたように、

一誠の「誠実で生一本」の性格が招いた乱でもあった。

指先が余る君の音も拾えない  酒井かがり

文之進は自刃の前に次のようなことを語っている。

「これは私のかねての教育がよくなかったから起こったことである。

    何の面目があって、亡くなった父兄に申し開きができるだろうか、

    また弟子の教育ができるだろうか。

    その責任は私にある」

文之進、67歳の時であった。

七三に裂いた残りが渡月橋  井上一筒

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