忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[117] [118] [119] [120] [121] [122] [123] [124] [125] [126] [127]
魔がさして生まれた日から主人公  桑原すヾ代


 萩・反射炉

鉄製大砲の鋳造に必要な金属溶解炉。

長州藩の軍事力強化の一環として導入が試みられるも未完成に終る。

しかし、反射炉が現存するのは韮山と萩の二ヶ所だけであり、

貴重な文化遺産になっている。

「地雷火」


 松下村塾講義風景

松陰が松下村塾で塾生たちに、教えを施していた期間は2年余り。

建物を構えての正式な形での塾運営は、

安政4年(1857)11月から翌年12月までの、

約1年間に過ぎなかった。

その間に何があったかといえば、まず安政5年6月に、幕府が、

「日米通商条約」をアメリカと結び、正式に開国したことだ。

大老・井伊直弼は当初、天皇の許可が下りるまで、

なるべく条約の調印をしないよう命じていた。
                                   ただなり
しかし米の総領事ハリスと交渉にあたっていた岩瀬忠震らは、

「幕府の外交に勅許は不要」として、調印に踏み切った。

交渉を委任した以上、井伊直弼も開国を了承するしかなかった。

緩やかに確実に病む水の星  斉尾くにこ

これに対し怒ったのが尊皇攘夷を唱える知識人や志士たちである。

彼らは京都に向かい、朝廷に対して幕府の横暴を訴え出たのだ。

「反幕府」の声は全国に飛び火し、各地で議論が沸騰した。

この動きに朝廷の一部の公卿たちも同調し、

井伊直弼の排斥運動に出る。

朝廷が政治に関与してきたのは前代未聞のことだった。

身の危険を察した井伊直弼は、幕権を知らしめるため先手を打った。

京都に集結している尊攘派や幕府批判の志士たちを静めるべく、
        まなべあきかつ
腹心の老中・間部詮勝を京都に派遣。

騒ぎを起こしていた諸藩の志士をはじめ皇族、公家、僧侶、藩主、

幕臣、学者、町人を片っ端から捕らえ、粛清させたのだ。

その数、実に百名以上、「安政の大獄」のはじまりである。

雲母から作った真っ黒い画鋲  井上一筒


   村塾記

長州では松陰が、やはり幕府に対して憤りをあらわにしていた。
 
間部詮勝
が朝廷に乗り込んで、安政の大獄を行なっていることを

知った松陰は、尊皇攘夷の思想のもと、

「間部を暗殺すべし」と叫び、藩の重臣・周布政之助に宛てて

「武器・弾薬を提供していあただきたい」

と書き送ったほか、塾生にも決起を促がした。

松陰自身もまだ血気盛んな年頃。

言動がエスカレートし、いよいよ歯止めが利かなくなった。

驚いたのは当の塾生たち。

「先生、落ち着いてください」といった血判状を出して諌めた。

ハンカチをきれいに畳む愉快犯  くんじろう

後に倒幕思想を爆発させる長州も、この時はまだ、

そこまでの過激な行動に及ぼうとする者はいなかった。

だが、武器の貸与まで願い出た行動を危険視した藩は、

再び野山獄に松陰を投獄した。

その報は、京都や江戸にも届いた。

くちうらを合わせてからの多事多難 佐藤美はる

(拡大して読んでください)

「小野為八」


為八は、文政12年(1829)藩医・山根文季の長男として生まれる。

その後、藩医小野家の養子となるも医業にはつかず、

15歳で松陰に入門。

安政2年(1855)に、外国船を警戒する三浦半島において、

警備の仕事につき、砲術家としての理論と実践を身につけた。  

安政5年(1858)、30歳のとき、ふたたび松下村塾をくぐる。

そして松陰が老中・間部詮勝の要撃を計画し、

「地雷火」の実験を試みた際、

幽閉の身の松陰を背負って現場に行き、

この実験を見学させたという。

ひらかないことを願って「ひらけゴマ」 清水すみれ


    長州砲
この長州砲は郡司鋳造所で製造された

文久3年(1863)長州藩が下関海峡で外国船を攻撃した攘夷戦では、

癸亥丸に乗り込み、砲戦の陣頭指揮をとった。

同年奇兵隊が結成されると、砲術の教師として兵士たちを指導。

その後、慶応2年の長州戦争などにも、砲隊を率いて活躍した。  

維新の後、写真や絵師(雅号・「等魁」)をしながら、

明治40年まで生きた。

あれは幻無かったことにしてしまう  籠島恵子


「郡司鋳造所遺構広場」
階段上にあるのが再現された実物大の「こしき炉」

嘉永6年(1853)のペリー来航をきっかけとして、

幕府が公布した「洋式砲術令」によって、

同年11月、萩藩は「郡司鋳造所」を藩営の大砲鋳造所に指定し、

大量の青銅製大砲を鋳造。  

鋳造された大砲は、江戸湾防備のため、

三浦半島に設けられた萩藩の陣屋に運ばれ、外国船の警戒にあたる。

また文久3年(1863)には、下関海峡での外国船砲撃、

元治元年(1864)、同海峡での下関戦争にも使用された。

正面にみてはいけないものを見る  佐藤正昭

拍手[4回]

PR
栃の木の最後のひと葉は誰だろう  田中博造

「椋梨藤太」

椋梨藤太は藩の歴史を編纂する役所にいたが、嘉永3年(1850)

40代半ばを過ぎて、藩政を担う要職に抜擢された。

保守派であった椋梨は、尊攘派の周布政之助と藩政の主導権を争い、

周布が支援する松陰や松下村塾の塾生たちの活動を牽制した。

しかし嘉永6年(1853)、懐柔に成功したと思っていた

小田村伊之助が、周布と歩調を合わせて、

椋梨のまとめた「藩論」への異を藩主・毛利敬親に唱えたことから、

椋梨は彼の添役であった周布政之助に実権を奪われ、

隠居を命じられる。

ごまよりも小さな虫がいるんです   三輪幸子

しかし安政2年(1855)再び実権を掌握し、

周布とは何度か要職の座を争い、安政3年に退役する。

その後、文久3年の「8月18日の政変」続く「禁門の変」で、

長州藩が幕府に圧されると、椋梨は機に乗じて藩政に復帰。

周布政之助から実権を奪還。

奇兵隊ほか諸隊の解散令を発し、

益田右衛門介・福原越後・国司信濃の三家老を切腹させて

幕府へ謝罪し、尊皇攘夷派を次々に粛清し、

周布を自害に追い込んでいる。

ストローの先が八つに割れていた  前中知栄

しかし、この粛清に危機感を募らせた高杉晋作・伊藤俊輔らは、

元治元年(1864)12月、功山寺で決起、

諸隊を下関から萩へと進撃し、慶応元年(1865)1月の

「絵堂の戦い」で椋梨の鎮圧軍を敗退させた。

また潜伏していた桂小五郎が帰国して、長州の藩論を再び、

武備恭順・尊王攘夷・倒幕路線に統一するに及び椋梨は失脚、

同年2月、椋梨は岩国藩主・吉川経健を頼って逃亡したものの、

海が荒れたため、行き先を変更さざるを得なくなり、

最終的には津和野藩領内で捕らえられた。

そして5月、息子の中井栄次郎らとともに、

萩の野山獄において処刑される。 享年61歳。 

鉄筋の城に馴染めぬ鬼やんま  井上裕二

周布政之助

長州藩の家老筋に生まれ、藩校・明倫館に学んだ周布政之助は、

早くも才能を発揮し「都講」(現在の生徒会長)にもなっている。

弘化4年(1847)、24歳で祐筆・椋梨藤太の添役として抜擢され、

嘉永6年(1853)には政務役筆頭となる。

周布は天保の藩政改革を為した村田清風の影響を受けており、

いわば、この抜擢は村田清風と藩内政権争いをしていた坪井九右衛門派

椋梨藤太との連立政権、いわゆる抱き込みを意味していた。

周布は政務役筆頭となり、「財政再建」や「軍制改革」、「殖産興業」など、

藩政改革に尽力した。

ネジ一本あれば完成する」お城  みつ木もも花

しかし、ペリー来航で、江戸幕府より相州防備の任を萩藩が負うと、

藩の財政が悪化し、周布は失脚。

この後、長州藩は、改革派(周布)と保守派(椋梨)の二大派閥が、

政権を取ったり失ったりと、政権交代が繰り返されている。

文久2年(1862)には、藩論の主流となった長井雅楽の

「航海遠略策」に、藩の経済政策の責任者として周布は、

一時は同意したが、久坂玄瑞や桂小五郎らの攘夷派若手藩士らに

説得され、藩論統一のために「攘夷」を唱えた。

軟水で鼻 硬水で耳洗う  井上一筒

この頃、酒に悪癖のある周布は土佐藩前藩主・山内容堂に対し、

酔った勢いで暴言を吐き、謹慎処分となっっている。

山内容堂は長州藩藩主・毛利元徳に対し、周布の死罪を迫ったが、

彼の優秀さを惜しみ、毛利家は「麻田公輔」と改名させ、

江戸藩邸での勤務を続けさせた。

周布の酒酔い事件は数々あるが、元治元年(1864)には

「禁門の変」で、長州藩が窮地にあった頃、

高杉晋作が脱藩の罪で投獄されていた野山獄に、

泥酔して馬で乗り込み、抜刀して暴れ謹慎処分を受けている。

加減して飲めよとバッカスが叱る  新家完司

以後、保守派の椋梨藤太や開国派の長井雅楽と路線を異にし、

松陰ら尊皇攘夷派に共鳴し始めた周布は、

松陰が塾で正式に講義ができるように計らったり、

塾生らを江戸や京に送ったりするなど、松下村塾の活動を支援した。

しかし、松陰や塾生の思想や活動が過激さを増すにつれ、

その対処に追われるようになり、「禁門の変」に際しても、

事態の収拾に奔走している。

お湯を注ぐと冬がしゃしゃり出る  山本昌乃

元治元年、幕府による長州への出兵や、列強4国(英・米・仏・蘭)の

連合艦隊による長州砲撃を背景に、幕府恭順派が台頭すると、

周布は藩での実権を失っていく。

そしてその年の9月、「第一次長州征伐」が迫ろうとしていた頃、

開国派の井上馨が撰鋒隊に襲われて重傷を負った翌日、

藩が混迷している責任を感じて、周布は自ら腹を切っている。 享年42。

銀河鉄道の駅の時計の雪予報  墨作二郎

拍手[4回]

ひらかなの似合うおんなの物語り  美馬りゅうこ


    涙袖帖

明治の世になって、文は楫取素彦と再婚したが、
その際も彼女は前夫(玄瑞)からの大切な手紙の束を持参した。
書中には小田村伊之助(楫取)の名も親しげに登場する。
のちに楫取は、それを「三巻の巻物」に仕立てた。



「玄瑞の手紙」

15歳と玄瑞18歳という若い二人の結婚生活は、

いわゆる幸福とはかけ離れたものであった。
      ふたつき
婚礼から二月後の安政5年(1858)2月、

玄瑞は江戸遊学の途につく、

以後、蘭学から西洋学問までを学び、多忙を極めた。

これらは、玄瑞が広く世界を知るための糧となった。

松陰が唱えた「飛耳長目」の実践でもあった。

そして玄瑞25歳の死によって、終焉を迎えるまでの7年間、

東奔西走の日々を送る玄瑞は、萩にいることも少なかったので、

穏やかに二人で過ごした日々など、ごくわずかだった。

幸せをくらべはしない銀の匙  星出冬馬



とはいえ玄瑞も、文を顧みなかったわけではない。

二人は頻繁に文通しており、

そのうち玄瑞からの手紙のみ21通の文面が今に伝わっている。

読めば、恋愛の甘さはないものの、

温もりに満ちた玄瑞の思いやりが伝わってくる。

安政5年(1858)の冬、玄瑞が旅先から文に出した最初の手紙。

「一ふで参らせ候。

   寒さつよう候へども、いよいよおん障なふう、

   おん暮めでたくぞんじ参らせ候。

   まいまい文まゐる。此より何かいそがしく打絶申候。

   みなみなさま御無事くらし遊ばし、めで度御事に御座候。

   どうぞどうぞ、月に一度は六ヶ敷候へば、

   三月に一度は保福寺墓参りおん頼参らせ候。
 もうす   おろか   もっぱら
   申も疎御用心 専に候。 皆様ぇ宜おんつたえ頼参らせ候。

   何も後便に申候。 可しく。

   尚々きもの此のうち飯田の使まゐる。 慥に受取申候」

お文どの                  玄瑞

おとといをぽろり余白が消えました  森田律子

玄瑞は江戸・京都間を奔走し、

梁川静巌、梅田雲浜、頼三樹三郎などと往来し

公家の大原重徳卿に尊王攘夷の意見を上申したしているころであった。

「口語訳」

一筆お手紙差し上げます。
寒さが強いですが、益々差し支えなくお暮らしのことと存じます。
いつもいつもお手紙ありがとうございます。
こちらからは何かれ忙しくて、
お手紙を差し上げるのが切れてしまいました。
皆々様も御無事にお暮らしんなさり、めでたいことでございます。
どうかどうか月に一度が難しけらば、
三ヶ月に一度は保福寺への墓参りをお頼みいたします。
言うまでもございませんが、御用心なさることが大切です。
皆様へよろしくお伝えくださることをお頼みいたします。
いずれも次のお便りで申し上げます。     かしく。
なお、着物は先ごろ飯田の使いが持ってまいりました。
たしかに受け取りました。
                   
お文どの (在萩16歳)       玄瑞 (在江戸19歳)

僕が居るシンメトリーに遠い位置  藤井孝作


8月18日の政変に言及している手紙

[万延元年(1860)8月20日の手紙]  (口語訳)

「一筆お手紙差し上げます。

   だんだん寒さに向かいますが、まずは杉家をはじめ、

   そのほかの皆様も無事とのことで、およろこび申し上げます。

   さて宇野おば様のことびっくりいたしました。

   さぞさぞ、お母様(瀧)にもひととおりでなく

   お力を落とされたと存じます。

   いつもいつも保福寺にも参詣してくださり安心いたしました。
                             いくも
   過去帳については、生雲(玄瑞の母の実家)へ言ってよこし、

   亡くなった宇野おば様を)お迎えなさるのがよろしいです。

   いずれも次のお便りで申し上げます。

   寒さからお身体を大事になさることは申すまでもありません。

 お文どの                 玄瑞 (在江戸)

(追伸)なお松陰先生の墓へも時々お参りしていますので、

    ご安心ください。

不義理して敷居の高いドアばかり  森 廣子

玄瑞はその後の手紙でも、

しばしば松陰亡きあとの杉家一家を気にかけ、

義兄・梅太郎の子供へ着物を贈るなど細やかな心配りを見せている。

『しら雲の たなびくくまは あしがきの ふりぬる里の 宿のあたりぞ』

など、故郷の杉家を懐かしむ歌もいくつか詠んだ。

早くに身寄りをなくした玄瑞は、

短い間でも一緒に暮らした杉家の人々に、

深い恩義と親愛の情を抱いていた。

そして言わずもがな、その思いが一番に注がれたのが、

妻の文であった。

的もまたこちらを向いて立っている  谷口 義



「万延元年9月24日の手紙」 (口語訳)

   「次第に寒くなりますが、

   杉家の皆々様差し障りなくお暮らしのようで喜んでいます。

   先ごろ生雲へお父上様と一緒にお訪ね下さったとのこと、

   生雲では喜んだことと存じます。

   母上様、姉様千代・寿子など、こぞって生雲を訪ねられたら、

   少しは母上様の気も晴れることと思います。

   品川弥二郎の便で、着物が届き、受け取りました。

   着物は当分間に合っております。

   今あるものを古い宝物のようになるまで着ますので、

   とくに着物は必要ございません。

   いずれも次のお便りで申し上げます。    かしく。

   なお杉家の皆様へもよろしくお伝えください。

   寒さからお身体を大事になさることは申すまでもありません。

お文どのご無事で           玄瑞 (在江戸)

このままでいい このままがいい玉椿  田口和代



杉家全員が玄瑞のことを想い、

玄瑞も家族同様に杉家の人を思いやり、

細やかなこころ遣いが伝わってくる。

文が人づてに手縫いの着物を届ければ、

「古い宝物のようになるまで着れば、格別に着物は要りません」 

と、家計の遣り繰りが大変なことを知っている玄瑞は、

たびたび着物を工面してくれる文に対して、

思いやりをみせるのである。

消したらあかん とろ火のまんま豆煮える 山本昌乃

拍手[3回]

北の果て余白の多い時刻表  ふじのひろし


  萩御城下絵図 (慶応元年)

北が日本海に面した萩の城下町。
中央部やや右よりに藩校・明倫館があり、
杉家、松下村塾は東のはずれにあった。

「長州の底力」

幕末を迎え、徳川幕府の権威が衰えるに従って、

歴史の表舞台に登場してくるのが「雄藩」という存在。

経済力・兵力に優れ影響力の強い藩をそのように称した。

とりわけ、外様大名は、戦国時代からの家臣団の結束力が高く、

幕府への反発力も強かったため、いくつかが雄藩へと成長を遂げた。

幕末には薩摩藩・肥前藩・土佐藩などが時代をリードした。

そして、その雄藩から優れた「志士」が現れるのである。

生きてゆく宇宙人など待ちながら  小川佳恵


    志 士

長州藩も雄藩のひとつであった。

関が原の戦い後、毛利家は120万石から37万石に減封された。

石高とは土地の生産性を石という単位で表したもの。

「一年間にそれだけの人を養える収入がある」

ことを示した数字である。

これが4分に1になっては、

今までのように、大勢の家来を養うことは不可能になる。

これ以上がんばれないと泣くわさび  竹井紫乙

毛利輝元は広島から長門の萩へ移る際、

「ついてこなくてもよい」 と言ったが、

元就以来からの家臣たちのほとんどが付き従った。

三方を山に囲まれ、日本海に面した痩せた土地である「萩へ」

移転も徳川幕府の命令だった。

道中は家財道具を運ぶ人の群で混雑し、

下級武士の中には、農民になって山野を開墾する者も多かった。

神さまはずっと熟睡中である  新家完司

長州藩では、新年拝賀の席で家老が、

「今年は倒幕の機はいかに」

と藩主に伺いをたて、それに対し、

藩主は「時期尚早」と答えるのが習わしになったという俗説もある。

そのように結束の強い家臣団だけに、

幕府に届け出た37万石は減封された慶長12年(1607)から、

わずか6年後の慶長18年には50万石、

貞享4年(1687)には、80万石を超えるまでになった。

長州は幕府に届け出た石高より、

はるかに高い生産高を実収入として得るようになったのである。

影がまだ人の形でよく弾む  嶋澤喜八郎


  村田清風

幕府が行なった「天保の改革」にともない、
長州藩の財政改革に取り組む。

庶民層に対しても教育を奨め、藩校・明倫館の拡大も行なった。
周布政之助がその志を継いだ。

そして何より、長州が雄藩になりえたのは、

生産高の向上ばかりでなく、「財政改革」に成功したためである。

その改革の指導者が、村田清風である。

清風は毛利斉房から敬親まで五代にわたって仕えた。

長州藩は長らく慢性的な借財に苦しんでおり、

歳入額に対して約20倍の借金があった。

清風は徹底した「倹約」および、「武士の負債整理と士風の一新」

「四白政策」の振興を行なう。

その結果、長年の弊害を取り除いて出費を節約し、藩政は一新。

士気は大いに高められ、

後に長州藩が「雄藩となる基礎を築き上げた」と評価される。

四白政策=紙・蝋・米・塩の振興を行なう政策。

深呼吸すれば咲けるのかも知れぬ  木村徑子


  鍋島閑叟

第10代鍋島藩主。
役人を「5分の1に削減」し、磁気・茶・石炭などの「産業育成」

交易に力を注ぎ財政を改善。
アームストロング砲など最新式の大砲を導入し、

「鉄砲の自藩製造」にも成功した。

ついでに言えば、薩摩藩も500万両にも及ぶ膨大な借金を抱えて、

破綻寸前だった。
              ずしょひろさと
これに対し、家老の調所広郷が改革にあたり、

薩摩藩の金蔵に250万両の蓄えができるまでに財政が回復した。
                  かんそう
また肥前藩では藩主の鍋島閑叟が自ら財政改革に乗り出し、

軍備の近代化に成功した。

一方、徳川幕府でも同時期に「天保の改革」として、

財政再建のための諸政策を実施したが、

全国的な効果が上げれなかった。

雄藩が各々の範囲で財政再建に成功したこととは対照的である。

いっぽんのポプラがあれば空広し  高橋かづき

拍手[6回]

金星をメガネケースに仕舞いこむ  河村啓子
  

       文

「文の結婚」

久坂玄瑞は美男子、声も良く、当時では珍しいほどの長身、

現代風にいえば、超イケメンというところである。

しかし、杉家の末の妹に生まれ、松陰には特に可愛がられ、

愛情いっぱいに伸び伸びと育ち、当時の女性としては稀なほど、

兄から学問の手ほどきを受けたである。

一方、玄瑞はまっすぐな性質で博学であるが、

父母や兄とは早くにしに別れ、天涯孤独の身の上。

二人の共通点と境遇の違いは、

ほどよく二人の愛を育んでいけそうな予感を持たせる。

裏窓を開けるとロックンロールかな  本多洋子

当時、結婚式の日までお互いの顔も知らないという結婚も

珍しくなかった時代だが、

玄瑞は、早くから松陰の弟子として「松下村塾」に通っており、

また、村塾で寮母や女幹事のように、塾生に慕われながら、

塾を切り盛りしていた文との間に、

恋愛感情が芽生えるシチュエーションは十分整っている。

だから、兄・松陰が文に玄瑞との縁談話を持ち掛ける前に、

文は眉目秀麗の玄瑞を意識していないわけがない。

恋していますねとリトマス試験紙  美馬りゅうこ
  


松陰は女子教育にも熱心だった。

女が書物を読んだりすると、生意気になると言うのが、

世間の常識だったが、子供は母親から大きな影響を受けるのだから、

娘時代から教養を持つべきだという。

そのため月に一度「お因み会」と称し、

嫁いだ姉たちや親戚の女たちが母屋に集まり、

松陰の講義を受けた。

講義の後は、女たちはいつもの素食ではなく、

自分たちが用意したご馳走に舌鼓を打ち、

お喋りに花を咲かせた。

チンと言うたのはエビマヨ二人分  井上一筒

そうした合間に15歳になっていた文に、松陰が聞いた。

「久坂をどう思う?」

「どう思うとは?」

「嫁ぐ相手としてだ。悪くはないだろう」

文は気持ちを見透かされたようで、気恥ずかしかったが、

戸惑いを正直に打ち明けた。

「私などお気に召しませんでしょう」

松陰は首を横に振った。

「おまえは、私が教えたとおりに育ったし、自慢の妹だ。

   自信を持て、久坂なら似合いだ」

そして人を介して、久坂自身の気持ちを確かめた。

梅一輪 私の敵はワタシだけ  岡谷 樹

ところが玄瑞に、文との縁談が持ち上がったとき、

玄瑞が「文の器量が気に入らず」最初は断ったという説がある。

村塾の横山幾太「松陰全集」(明治24)に次のような記録が残る。

「この人先生の気持ちを悟って久坂にその妹を嫁がせようとした。

   久坂はそのとき、まだ非常に若くて、

 断るのに、その妹が醜いと言った。

   そしたら中谷が、厳しく姿勢を正して、

 『これは、君に似合わない言葉を聞くものだ、

   大の男が容色で妻を選ぶものなのか』 と言った。

   そこで久坂は言葉に窮して遂に承諾した」

取り札は小野小町と決めていた  杉浦多津子

ここに出てくる中谷とは、松陰の友人でのちに玄瑞らとともに、
            うた
長井雅楽の公武合体策に反対活動を起こす中谷正亮のこと。

松陰の死後も、松下村塾の指導にあたった熱血漢で、

正亮は松陰先生の胸中を察し、

文と玄瑞との仲介を買って出たのであった。

このように、最初玄瑞が文との縁談を渋ったのは、

文の器量が気に入らなかったという話が、今日にも伝わる。

受け止めて畳んで丸くなる話  嶌 清五郎


   敏三郎

が、しかし文の晩年の写真を見ても決して醜いとは思えない。

不思議なことに杉家の写真で、松陰の顔写真だけがないのだが、

一説に弟・敏三郎が松陰に最も似ているといわれている。

その写真で見る限り、文と敏三郎とがまた似ている。

ということは、文と松陰が似ていることになり、

弟子としては、師匠に風貌のあまりにも似た女性を妻にするのは、

抵抗があったのかも知れない。

血縁の四人ぬくいと言うている  八上桐子

話が横道にそれるが、文の縁談話は玄瑞が始めてではなかった。

その相手は松陰の弟子というより、

友人というべき存在の桂小五郎で、

小五郎に「文を嫁にやらないか」と勧めたのは月性であった。

月性は松陰、梅田雲浜とも親しく、

「人間到る処青山あり」という、

言葉でも知られる詩人としての才能も豊かな人物で、

「尊皇攘夷論」「海防の急務」を説き、世に海防僧と呼ばれた。

カーンと空 私の影はどこですか  山口ろっぱ

さて小五郎と文の縁談話である。

小五郎は、酒色を好み、女性に対する目は厳しく、

何度か結婚と離婚を繰り返し、浮名の尽きない人物として有名。

現に京都には深い愛情を交わす相手がいた。

歴史的にも知られるところの、祇園の芸伎・幾松である。

加えて、小五郎は150石の中以上の家柄、

一方、松陰は57石の小禄、その上に幽閉中という差がある。

いろいろな要素を考えると、

文との縁の結果は最初からみえていた。

玄瑞が文を娶ると決まったのち、月性の松陰に宛てた手紙には

「小五郎は壮士に候えども、

   読書の力と攘夷の志は久坂生遥かに勝るべく候」

と久坂を称えている。

たくさんの初めましての中に君  前中知栄

拍手[5回]



Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開