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川柳的逍遥 人の世の一家言
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死神を盗みに臨終の見舞い  板野美子


大宰府天満宮の地に構えた草庵跡

如水が福岡城の普請の間、滞在して使ったという井戸が残っている。
如水はここで詩歌に耽った。

「如水終焉」

関が原の戦いが一日で終結し、石垣原の戦いにも勝利した如水は、

慶長6年(1601)福岡城普請の間、

大宰府天満宮に小さな庵を構え、隠居生活を始めた。

最後の九州平定への挙動は、世の大混乱に乗じて、

天下を獲ろうとした行動ととらえる推察が多い。

一方で、戦略を練り成功させることが如水にとって、

もっとも大きな喜びであり、政治的野心は無かったと説く意見もある。

確かに九州平定は、稀代の知略家でなければ仕組むことが出来ない

人生最後のド派手な祭りのようなものでもあった。

勢い余って靴べらになったんです  山口ろっぱ

しかし、思いのほか関が原の戦いが一日で終結したことによって、

如水の胸に芽生えていた天下取りの野望は露と消えた。

そのとき、如水の心中はどのようなものだったのだろうか?

失意がなかったといえば、嘘になるだろう。

だが、徳川家康の時代となった今、

おそらく二度と天下取りのチャンスは巡ってこない。

ならば、残りの人生を楽しもうではないか。

如水は大宰府天満宮の草庵での連歌三昧の暮らしを二年間も続けている。

その生活ぶりは、かねてよりこよなく愛した連歌三昧の日々であった。

存分に生きたか花を咲かせたか  佐藤美はる

正月、5月、9月の月忌20日には連歌会を催し、

連歌を通じて知り合いになった歌人たちと交流していたという。

おおよそ戦国時代の武将姿からは想像もできない穏やかな晩年であった。

  (拡大してご覧ください)

如水が死去する1ヵ月前に、昌琢らと千句連歌会を催し詠んだ二首。

仁と義と勇にやさしく心がけ あふ人ごとを敵と思ひて

不忠・不義私もなく今日暮れて又、明日もかくこそ

『黒田如水伝』によると、如水はこの2首を子孫への教訓とするため詠じたものとし、

息子の長政がこれを掛幅に仕立て、座右の銘として朝夕拝読したとする。

今という時を大事にして生きる  石神由子

  (拡大してご覧ください)

黒田如水辞世和歌短冊。(右端が如水の句)

” おもひをく言の葉なくてついに行く 道はまよハしなるにまかせて ”  
                             如水
” いまよりはなるにまかせて行末の 春をかそへよ 人のこころに ”   
                             昌琢
” なに事もなるにまかする心こそ よハひをのふるくすりなりけれ ”
                             玄朔

里村昌琢は,後水尾院より古今伝授を授かった当代きっての連歌師。
曲直瀬玄朔は,後陽成天皇をはじめ豊臣秀次、徳川秀忠を診察をした医師。

舐めてみようかだきしめようか森伊蔵  田口和代


晩年、如水が幸圓と暮らした三の丸御鷹屋敷跡

その後、如水は福岡城三の丸に屋敷を建て、

生涯ただ一人の伴侶である幸円(光)と静かに暮した。

しかし、その暮らしも長くは続かず、

慶長8年(1603)頃から病がちになり、

たびたび床に伏せるようになった。

病名は不明である。 そこで療養のため、

かって秀吉が療養したことで名高い有馬温泉に逗留し、

湯治生活に入る。

有馬温泉から福岡はやや遠いため、

京都の伏見にある福岡藩邸で過ごすようになった。

点滅のつづく命と懇ろに  小林すみえ

病床で過ごすうち、如水は精神の起伏が激しくなり、

ちょっとしたことで怒るような始末だった。

健康な頃は家臣に対して寛容であり、怒ることは滅多になかったため、

家臣たちは戸惑って、息子の長政に相談した。

それを受けて見舞いに訪れた長政に向かい、如水は言った。

「これは乱心ではない。わしは疎まれてもよい。

    早くお前の代になって欲しいと思っているのじゃ」

すでに死期が近いことを悟ったのか、

さらに如水は家臣たちに、「殉死の禁止」を言い渡した。

辛抱強い愛だ嘘が添えてある  森田律子

当時は主君が死ぬとそれに殉じて、

腹を切る殉死が当たり前の習慣としてあったが、

如水はそれで貴重な人材が失われることを惜しみ、

生前に言い残したわけである。

また,

「葬儀は簡素にして費用はかけないこと、仏事に専心しないように」

と言い残している。

長政は看病に努め、自ら湯薬を父に与えてそばについたが、

ついに永遠の別れの時が迫る。

膝を抱く刻がこぼれていかぬよう  河村啓子


崇福寺 (福岡市) 境内にある- 福岡藩主黒田家の墓所

戦乱に明け暮れた生涯の中で、

ほんのひととき安らぎを得た福岡での暮し。

" おもいおく言の葉なくてつひにゆく 道はまよはじなるにまかせて "

と詠んだ辞世の句は、常に迷路のように複雑で、

行きつ戻りつ繰り返しだった人生を振り返り、

死を目前にして、まっすぐ終焉に向かっていく

自らの姿を一点の曇りもない青空のように、

すがすがしく感じていたのかも知れない。

(今さらおいていくような言葉もない。

    ついにあの世に行くが、道に迷うことはないであろう。

    なるがままにまかせて進んでいこう)

冥土のみやげに耳学問を太らせる  小林すみえ


慶長9年(1604)3月20日。 

黒田官兵衛孝高、逝去。

享年59歳、満年齢にして58年の波乱に満ちた生涯を閉じた。

法名は龍光院。

官兵衛の亡骸は京都・大得寺の三玄院に葬られた。

が、後に黒田家の菩提地となり、

歴代当主が眠る場所となる福岡の崇福寺にも分骨された。

天国へ近々移転あなかしこ  上田 仁

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積み上げたノートがわたくしの地層  勝又恭子


  家中善悪の帳

官兵衛は家臣の相性を帳面に書きとめ、家を丸く収めた。

「官兵衛の名言」

官兵衛と唯一の妻である幸圓(光)の間に生まれた嫡男・長政

幼少期を人質として過ごし、数々の武功をあげる武将へと成長した。

官兵衛は、そんな長政を頼もしく思いながら、

折にふれて、その猪突猛進な戦いぶりを窘めている。

「官兵衛(如水)の名言-4」

【是は汝が為なり。乱心にあらず】

官兵衛は病に伏せった頃から家臣を辱めたり罵ることが増えたという。

その言動を注意しに訪れた長政に、官兵衛はこう言った。

「これは措置のためにしているのだ。乱心ではない」

   官兵衛は求心力の強い指導者だった。

   自分が亡くなったあと、家臣たちが官兵衛を敬愛したままでは、

   後継者の長政にとって不都合が起こる。

   そこで自らが嫌われるように仕向けていたのだ。

けなすだけけなして最後には褒める  立蔵信子
         ひでり
【夏の火鉢、旱の傘ということを 能々味はい堪忍を守らざれば、

   士の我に服せぬものぞ】

暑い夏に火鉢は役に立たず。

同様に旱のときは傘はいらない。

しかし、必ずそれが必要になるときがくる。

家臣も同じで、そこをよく考え、無駄だと思えることも、

続ける忍耐力がなければ、人はついてこない。

夏の火鉢、旱の傘ということを 

よく味い、堪忍を守らなければ家臣は自分に従いてこないものだ。

短い言葉で気合いを入れられる  佐藤正昭


例-村田出羽と仲良き相手   仲悪しき相手

一人一人の家臣の相性の善し悪しを記した帳面。

【人の上に相口、不相口といふことあり】

ある時、如水(官兵衛)は、長政も同席させ、家老たちに言った。
                                 あいくち
「すべて人には相口と不相口ということがある。

   主君が家臣を使うのに、特にこのことがある。

   家人多しとはいっても、そのなかで主君の気に入る者がいる。

   これを相口というわけだ。

   この者がもし善人ならば、国の重宝となり、

   もし悪人ならば、国家の害物となるわけだから、

   大切なことだと思わなければならぬ。

さしのべて貰った温い手の他人  山本早苗
おのおの
各々もかねてより知っている通り、

 侍どものなかにもわしの相口の者がいて、傍近くに召し仕え、

 軽い用事などをも勤めさせてはいるが、それだからといって、

 その者に心を奪われるつもりはない。

 しかし相口だと、自然に場合によっては、

  悪いことに気づかぬこともあろうから、

 おのおの十分に気をつけて、それをみつけだし、

 そういうことがあれば、わしを諌めてくれ。

 またその者が驕って行跡がわるいときには、

 各々の側に呼びつけて意見してやってくれ。

人の手を借りホンモノの胡麻になる  下谷憲子

 それでも聞かないときには、わしに告げよ。

 詮議のうえ罪科に処す。

 わし一人の心では諸人の上にまでこまごまと及ばないから、

 自然に気づかないこともあろう。

 そういう時には、遠慮なく、すみやかに告げ知らせてくれ、

さっそく改めよう。

憎いわけでないけど鰯の首を切る  安土理恵

 さてまた、そちたちの身にも、相口・不相口によって仕置にも、

 間違ったことがでてくる場合があるであろう。
                                                                                                                              まいない
 相口な者には贔屓の心が起こり、悪を善と思い、あるいは賄に惑って、

 悪いこととは知りながら、自然と親しむことがあるものだ。

 反対に、不相口な者には、善人も悪人と思い、

 道理も無理なように思い誤ることがある。

 こういうわけで、相口・不相口によって仕置のしようも、

 私曲がでてくるものであるから、おのおのよく心得るべきである。

深追いはしない穴には入らない  竹内ゆみこ

 また家老たる者が威張りちらして諸士に無礼をし、

 末々の軽輩者にはことばもかけないようなことでは、

下に遠くなってしまい、そのため諸士は心をへだてて、

表面だけの軽薄な勤務をするようになるので、

 諸人の善悪・得手不得手をわからなくなり、

 諸士にも、その者の不得手な役を勤めさせるようなことになるから、

 かならず仕損じ、場合によってはその者の身も滅ぼし、

 主君のためにも悪いことである。

腰に手をこれからのこと考えて  河村啓子

 つねに温和で、小身者をも近づけて、その者の気質をよく見定め、

 それにふさわしい役を勤めさせるべきである。

 このようなことは、その方などがもっぱら詮議すべきことであるぞ」

(人間関係には、相口―良い相性、不相口―悪い相性がある。

 「相口の人」ばかりをまわりに集め、良い気分・・・となっていても、

    決してその人にとって、良いことではない。

    不相口の人の発言こそ、傾聴すべき大切なことだ‐‐‐と教える)

鑑真和上のクローンではないか  井上一筒

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臍の緒が鼠の餌になっていた  新家完司


   高台院像 (江戸時代 高台寺所蔵)

「三成と高台院は仲が悪かったか?」

豊臣秀吉の正室・高台院(ねね)

秀吉が没し、未亡人になってからの秀吉の正室・高台院は、

石田三成と仲が悪く、関が原の戦いでも、

東軍の加藤清正らと通じていたとされているが、

近年この解釈に疑問が唱えられている。

通説では豊臣家の将来を見かねた高台院が、

徳川家に頼って生きていくことを決め、

加藤清正福島正則、小早川秀秋らに関が原の戦いで。

東軍に加担するように仕向けたとされている。

これで豊臣政権を守るために挙兵した三成の立場をなくしたわけだ。

だが昨今、高台院と三成親密説が浮上してきているのだ。

引き出しにあなたを開ける鍵がある  桑原伸吉


   高 台 寺

ふたりが親密だった論拠はいくつかある。

まず、三成の娘が高台院の養女になっていたこと。

険悪な仲であれば、この関係は考えにくい。

次に、高台院の甥・小早川秀秋の兄弟の多くが、

西軍として関が原の戦いに参加し、領地を没収されていること。

高台院が東軍に通じていたとするなら、

秀秋以外の救済にも手を回しただろう。

敵と味方に埃を分けなさい  酒井かがり


  ねねの像

そして親密だったとされる高台院と東軍の加藤清正の関係だが、

これも信憑性のある資料はない。

では何故、不仲説が流れていたのか。

それは徳川幕府成立後に、「三成を悪人に仕立て上げよう」とする

動きが、あったことに起因している。

豊臣家滅亡後もその存在を認められていた高台院に対し、

三成は徳川家に生涯刃向い続けた人物。

三成を悪とし高台院と不仲だったことにすれば、

都合がよかったのである。

しかしならいつも鞄に入れてある  和気慶一

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悪口にぐっしょり濡れるのも修行  新家完司

  
 ごうすなりかぶと      戦の激しさを物語る傷み

官兵衛とともに歴戦をい抜いてきた「銀白檀塗合子形兜」

稀代の軍師・官兵衛が人並み外れて優れていたのは、

戦略や城下町づくりだけではなく、人心掌握術に長けていたことが、

黒田家譜や「名将言行録」によって伺い知ることができる。

「官兵衛(如水)の名言-2」

「本音」

【左手は、何事を為したりしか】

時は戦国時代。

関ヶ原の戦いで、官兵衛の嫡男・長政は、豊臣の旧臣たちを引き込み、

徳川方の勝利に貢献した。

領地の豊前中津城に戻ると、父・如水(官兵衛)に、

「家康公は感激して私の手を3度も押し頂いてくれました」

と得意げに報告した。

ところが、官兵衛は冷淡に、

「その時、空いていた方の左手は何をしていたのか」

と問うばかり。

長政は絶句した。

実は官兵衛、天下分け目の合戦が長引く間に九州を征服、

そのまま東に攻め上り、あわよくば天下を……との構想を抱き、

戦いを始めていた。

が、関ヶ原が1日で終わったことで野望は挫折。

その苦々しい心境を息子にぶつけたのだった。

私のノートだどうだ重いだろう  居谷真理子

「得手不得手」

【采配を振りて、一度に敵を千も二千も討ち取ることは得手者に候】

官兵衛の秀でたところの一つが、人や時勢を見つめる目であった。

それがよく表れていっるのが、

「采配を振りて、一度に敵を千も二千も打ち取ることは得て者の候】

という言葉である。

【人には得手・不得手のあるものなり おそるべし】

武士ならば、自らの手で手柄を挙げそれを自慢したいものだ。

しかし、自身の長所や短所をよく理解していた官兵衛は、

「槍を取り、敵を倒すのは不得意だが、

  指揮官として一度に大量の敵を倒すのは得意である」と言う。

このように自分の立つ位置をしっかりと認識し、

自分自身をも冷静に見つめる。

官兵衛の優れた観察眼は、他者にも向けられ、

それぞれの短所や長所を役立てることにより、組織の力を強めていった。

尺骨を弾けば六段の調べ  井上一筒

「官兵衛の金銭感覚」

【此後摺切たると着きたらば、曲事に申付べきぞ、
   必ず博打を打つな、又、無益な物を買うな、摺切らぬ様にせよ】

【人が物を買ひたると、自分に買ひたるとは、何れが嬉しきや】

【我、常に倹約をするは、取らせ度者に 思ふさま取らせ遺し度ためなり】

官兵衛は、野菜の皮や魚の骨も工夫しておかずにするよう命じるなど、

非情に倹約家だった。

一方、

【貯めこむだけの金は石ころにも劣る】という考えから、

家臣に褒美を与える際は、惜しげもなく与えており、

日ごろ倹約するのは、

「やりたいと思う者に十分くれてやりたいからだ」

と言っている。

ふところは四季を通じて寒気団  ふじのひろし

「天下について」

【君が御運開かせたもふべき始めぞ。 よく為させたまえ】

動揺する主君(秀吉)に悩んでる時ではないと発破をかけた言葉。

広く知られた言葉である。

逆にこの言葉は、秀吉に官兵衛の恐ろしさを教えることになり、

警戒心を持たせることになった。

【天下を望む者は、親も子も顧みては叶わぬなり】

官兵衛の戦場で学んだ冷静さと冷淡さが伝わってくる。

【大将たる人は、威と云うものなくては 万人の押さへ成り難し】

大将に威厳がなければ多くの人を統率することはできない。

【上になれば、太閤に仕えずして天下を取るなり
    又下にてもなければこそ、国を取り居り候】

上でしたら、太閤殿下に仕えて天下を取ります。

また下ではありませんから、国を取って国持ち大名になっております。

これが官兵衛の「天下についての考え方」である。

この後、無欲な官兵衛は名を「如水」と改め、現役を引退している。

幽閉の歯型が船を漕いでいる  高橋 蘭            



「長政へー道を説く」

【神の罰より主君の罰おそるべし。主君の罰より臣下百姓の罰】

という考えを官兵衛は基本にしている。

主君への忠節が一番だった武士の世の中で、

官兵衛は、神や主君罰以上に、臣下や百姓の罰は、

恐ろしいものだといっている。

神や主君の罰は、功績と引き換えに許されるかもしれない。

しかし、為政者が間違った判断や政治を続ければ、

人々の心は次第に離れる。 

家臣や民の心が離れていくことが、何よりも恐ろしいこと、

慈しみ気配りを忘れるな、とこれもまた、長政に説いた言葉である。

流れる雲と反省会をしています  西澤知子 

「処世」

【自分の行状を正しくし、理非賞罰をはっきりさせれば、
   叱ったり脅したりしなくても家臣は自然に自分を敬うようになり、
   法を軽んじるものもいなくなる。故に、自然と威厳が備わるもの】

【人の思付、我に及ばず、是人の使ひ様悪き故なり】

【人を殺すと言うは、容易ならざることなり】

【道にて余に逢ふとも避くべからず】

【我、不媚人、不望富貴】 (ー我、人に媚びず、富貴を望まず)
   こしらえ
【拵え事で、いかにも威を身につけたようにふるまってみても、

   それはかえって大きな害になるものだ】

他人から恐れられることが、威厳だと勘違いすると、

誰に対しても威張りちらすようになり、

誰も忠義を尽くそうとしなくなる-----と、言うのである。

真っ直ぐに歩いた路を子に残す  西田百合子

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針のない時計と獏を飼っている  奥山晴生


 石垣原の合戦布陣図

「もう一つの関が原」

家康と三成の天下分け目の戦いが関が原で、

今にも始まろうとしていた。

如水は関が原の戦いが起こると同時に、

蓄えていた金銀を大放出して、浪人や農民を傭兵として雇い入れ、

一世一代の大勝負に出る。

如水は、「関が原の戦い」が一ヶ月は続くと予測していて、

その隙に九州を平定し、余勢を駆って東へ進撃して、

関が原の勝者と対決すれば、天下を取れると目論んでいた。

果たして、慶長5年7月13日

大坂雑説(うわさ)の騒動が起こった。

三成が毛利輝元を大将に担いで、家康を打倒することを決し、

家康派と三成派の内戦が勃発したのだ。

夢を盛る器はでかい方がいい  須磨活恵

 
   母里太兵衛         栗山善助

この報せは大坂留守居役・栗山善助、母里太兵衛から早舟によって、

17日に、如水のもとに届けられた。

隠居の仮面をかなぐり捨て、気鋭の軍略家に戻った如水は、

「急いで軍勢を催し、まず九州の敵を掃討し、中国地方に進攻して、

  毛利家の領国を平定し、播磨から京へ攻め上って我が運命を試そう」

と宣言する。

倹約家・家康の地味ななりを思い浮かべながら、

如水は肥後熊本の加藤清正に連携の使者を発した。

これに対し清正からは、

「三成らと仲が悪い自分が今さら彼らに味方など出来ないから、

   如水殿のお考えに従って判断したい。

   相談の上、秀頼様への奉公第一で動く」 

という回答である。

ハイエナの名に恥じぬようよういきていく 笠嶋恵美子        

こうして猛将・清正という心強い同盟者を確保した如水は、

中津城天守の金蔵の金で9千にも及ぶ急ごしらえの軍勢をかき集め、

8月中旬に軍義を開く。

家臣たちの中には、

「家康公がいまだ関東から上方へ発向したとも連絡を受けないうちに、

   私的に兵を発するなはまずいのではありますまいか」

と慎重論を唱えるものもいたが、如水は、

「三成の反逆は明らかなのだから、家康公が関東を出ようと出まいと、

  九州の平らげるべきだ」 とした。

自分の顔だけしっかり塗り潰す  皆本 雅                         

そんな如水のもとに、

8月25日付けで、家康の重臣・井伊直政が発した書状が届く。

如水は長政を通じて家康に味方し、九州の西軍拠点を攻めることを、

申し送っていたのだ。

その一文に、
          はいりそうろう     おんてにいるべきところ おおせつけられるべく
「何分にも此節に候入條、御才覚候で可入御手所、可被仰付候」

(お手にはいるところはいくらでもお手に入れられよ)

とあった。

領国は切り取り次第、攻め取り放題、

という家康の意を体した保証書である。

こうして家康側の言質を得た如水は、満を持して作戦を開始した。

花びらをまとって風も狂うとき  居谷真理子



9月9日、如水は9千余りに膨れ上がった軍勢を率いて 

豊後へ進軍を始める。

翌10日、国境を越えて豊後高田城下に入った。
しゅそりょうたん
首鼠両端を持していた高田城主・竹中重隆は如水が、

攻囲の姿勢を見せるや、驚愕して与党を約し、

息子の重義に兵2百を添えて如水に同陣させた。

次の標的は富来城だ。

行軍を再開して国東半島を東進して、

赤根峠で野営中の11日未明、早馬が陣中へ駆け込んできた。
    よしむね      きつき
「大友義統の軍勢が杵築城を攻撃中。助勢をお願いしたい」

首鼠両端=どちらに付くのがよいか決め兼ね曖昧な態度で形勢を窺うこと。

右肩が嵐が丘になっている  清水すみれ


   大友義統

大友義統宗麟の嫡子で、もともと豊後国を領有していたが、

朝鮮の役で敵前逃亡をした罪で秀吉から改易され、大坂に幽居していた。

そこへ西軍の誘いの手が伸びた。

恩賞は旧領の返還だ。

義統は首を縦に振り、9月9日、豊後別府に上陸し、

廃城になっていた立石城に本陣を置いた。

直後から吉弘統幸ら旧臣が続々と馳せ参じてきて、

10日、義統は3千ほどに急増した軍勢をもって、

周辺で唯一の東軍である細川忠興の支城・杵築城を囲んだのである。

そこで如水は井上九郎衛門らに兵3千を預け、

杵築城救援に向かわせた。

いち早く救助被災のボランティア  柴辻疎星

杵築城を落城寸前まで追い込んでいた義統は、

黒田軍の支援を知ると、立石に転進した。

如水はそれを追う形で全軍を南下させ、
                  かくどの
立石に対峙する実相寺山と角来殿山に布陣する。

両者の間に広がる「石垣原が決戦」の舞台となった。

戦闘が始める前、如水は義統に降伏を勧める書状を送った。

しかし拒絶されたため、9月13日に戦いの火蓋が切って落とされた。

人生の赤エンピツがやけに減る  田口和代

両軍が激突すること都合7度。

最終的に凱歌をあげたのは黒田軍を主力とする連合勢であり、

義統は立石城に立て籠もった。
   しょうほう                          かしらなり
如水が捷報に接したのは、石垣原から約8キロの地の頭成だった。
        そじ
立石城への卒爾な攻撃禁止を命じ、その日の夕刻に

如水は実相寺山に本陣を構えた。

そして翌14日に如汚水は首実検が終わると、東方の浜の手を空け、

残る三方から立石城を囲ませた。

その上で母里太兵衛に和睦交渉を命じた。

太兵衛の正室は宗麟の娘。

縁戚関係を利用しての和睦交渉である。

15日の早朝、戦意を喪失した義統は剃髪して、

黒衣をまとって如水の軍門に降った。

エンディングノートに書いておく寓話 合田留美子           


大友軍の武将・吉弘統幸が最後を遂げた七ッ石稲荷大明神

奇しくもこの15日、関が原の大戦で東軍が勝利していたが、

如水は知る由もない。

それからは大友軍の降兵の大半を配下に組み込んで進軍を再開し、

日の出の勢いで、小倉・久留米・柳川方面へ進撃をする。

開城した緒城の降兵を取り込んでいった如水の軍は、

柳川城を包囲するころには、4万人にふくれあがっていた。

そして、11月初め

九州における最後の西軍勢力である島津氏討伐のために

南進を開始したが、11月12日、熊本城の加藤清正と合流して、

水俣まで進軍したところで、家康からの停戦命令が届いたのであった。

ルーペの向こうの風が差し出す片道切符 たむらあきこ         

ここに至り官兵衛は、自分の夢が終わったことを悟る。

幸いなことに九州のほとんどの大名が西軍に属していたので、

如水はあたかも家康の代理として、九州を平定したかたちで

軍を中津へ撤退させたのである。

疾風迅雷、出陣からわずか2ヶ月ほどで、

縦横無尽に九州を席巻した「如水の関が原」の終幕であった。

真っ二つに割ると梅干と味醂  井上一筒

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