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川柳的逍遥 人の世の一家言
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その紐を引くと雷落ちますよ  西田雅子

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伝説化された清盛の姿

(画面をクリックすれば拡大されます)

雷となって清盛を襲った悪源太義平の怨霊

清盛の生涯は、さまざまな伝説に彩られ、

人々に語り伝えられた。


「清盛ー布引の滝にまつわるエピソード」

時は仁安3年(1168)7月7日。

出家して福原の別荘で暮らしていた清盛は、

名勝として知られる布引の滝へ遊覧に出かけた。

ところがその帰り道、突然空が曇ったかと思うと、

雷が清盛の近くに落ち、

家人の難波経房が雷に打たれて惨死したのである。

お知らせが回るかなしいことばかり  森中惠美子

実はこの雷は、

「平治の乱」で処刑された源義平の怨霊であった。

義平は源義朝の長男で、

「悪源太」の異名を付けられたほどの勇将である。

ここでの「悪」とは、

優れた力量の持ち主に対して、

「恐るべし」という意を表した、一種のほめ言葉だ。

イメージを壊さぬように落し蓋  桑原伸吉

平治の乱でも義平は奮戦したが、義朝軍は敗れた。

義平は潜伏して、清盛の命を狙ったものの、

果せずに難波経房に捕らえられ、

六条河原で処刑された。

処刑される際、義平は処刑役の経房に向かい、

「死後には雷となり、

 清盛からお前に至るまでみな殺しにしてみせよう!」


と言い放ったという。

「悪源太」の異名に違わぬ、気概に満ちた逸話である。

持国天グイッと突き出す股関節  岩根彰子

当時の人々は、雷に打たれた経房の死に様を、

怨霊となった義平の祟りによるものと考えた。

その祟りはなぜ、清盛に降りかからなかったのか。

『平治物語』によると、その理由は、

清盛が身につけていた"あるお守り"のおかげであった。

雷が鳴ると冷酒に切り替える  井上一筒

504dd7e6.png  


空海自筆・金剛般若経開題残巻

清盛は首からかけた袋の中に、

弘法大師・空海の自筆の御経を入れており、

これを振ると雷は、鳴り止んだというのだ。

空海の霊力の加護で、

「清盛は祟りから逃れた」

と信じられていたのである。

それからのことはふれまい明日は晴れ  小林のこ

数々の戦乱を乗り越え、

貴族社会の頂点に登りつめた清盛。

その幸運の源を当時の人々が、

どのように考えていたのかをうかがわせる、

伝説の一コマと言えよう。


コバルトになるまでヘドロに届くまで  山口ろっぱ

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立ちつくすしかなくて立っているのです  河村啓子

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六波羅の自邸で出家のため剃髪する清盛
                      (画面をクリックすれば拡大されます)
(平家物語・「禿童事」)(林原美術館)

清盛、寸白を煩い、その2月11日出家し、青蓮と称す。

妻・時子も出家する。


途中下車尻尾の有無をたしかめる  嶋澤喜八郎

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「清盛倒れる」

仁安2年(1167)2月、清盛は左右大臣を飛び越えて、

律令国家最高の従一位・太政大臣に就任した。

ところが、そのわずか3ヶ月後、

突如、清盛は太政大臣を辞任する。

太政大臣は人臣最高の官職ではあるが、

これといった職務はなく、

摂関以外の上級貴族が晩年に賜る、

名誉職としての性格が強かった。

実権を伴わない官職なら不要であるが、

平家の官位を高めるために、

「肩書きだけは頂戴しておこう」

ぐらいの気持ちだったのだろう。

それからの清盛は、前大相国(しょうこく)として、

これまで以上に、国政に影響力を及ぼすようになる。

死を視野に入れると動きそうな今日  平尾正人

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その清盛が突如病に倒れたのは、

翌仁安3年2月2日のことであった。

「寸白」
(すんぱく)という寄生虫の病気にかかり、

一週間後には「危急」といわれるほどの、

重体に陥ったのである。

六波羅の清盛邸には、後白河の女御である滋子をはじめ、

多くの人が見舞いに訪れたが、回復の兆しは見えず、

死を覚悟した清盛は、妻・時子とともに出家する。

弱点を攻めてくるのは青とかげ  本多洋子

法名は静蓮(じょうれん)のち浄海と改めた。

平家に批判的な九条兼実すら、

「清盛の病気は天下の大事であり、

  万一のことがあれば、国家はいよいよ衰えるであろう」


と日記「玉葉」に記している。

ほらあれが密に溺れた黄昏よ  森田律子

15日には熊野詣に赴いていた後白河上皇が、

予定を切り上げて、清盛を見舞った。

このとき、後白河は近臣に「大赦」を行うよう命じたという。

摂関以外の臣下の病気や出家で、

大赦を行う例はなかったが、

国家の重臣であるという理由で特例とされたという。

そして病床の清盛と話し合い、

5歳の六条天皇を退位させ、

高倉天皇を即位させることを決め、4日後には、

早くも天皇位を継ぐ「践祚(せんそ)の儀式が行われた。

(ここに平家と血縁関係をもつ初めての天皇が誕生した)

黄昏の群れは儀式の帰り道  壷内半酔

出家の功徳か、

はたまた、高倉の即位に安心したためか、

清盛の病状は回復に向かった。

清盛の政治スタイルに、

大きな変化が現れるのはこのころである。

仁安4年、六波羅の邸宅を重盛に譲ると、

摂津国・福原に山荘をつくって隠棲した。

古語辞典心の傷の名をさがす  黒田忠昭

これ以後、日常の政権運営は、

京にいる一門や親平家公卿にゆだね、

清盛自身は必要に応じて上洛し、

政局を収拾すると福原に戻るという政治スタイルを貫く。

中央政界から距離をおくことで、

かえって存在感を高めようとする、

清盛一流の人心掌握術であった。

これからは5度傾いて生きてみる  中嶋智子

もっとも、清盛の福原引退はそれだけではない。

出家して自由になったのを機に、

本格的に「日宋貿易」に乗り出そうと考えたのである。

平家は忠盛の時代から、日宋貿易に携わり始め、

保元2年(1157)に清盛が太宰大弐に就任して以後、

さらに積極的に関与するようになった。

鳥の影一途なものを追っている  赤松ますみ

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それをさらに大規模に推し進めるために、

福原の外港である「大輪田の泊」を修築し、

「ここに宋船を向かえ入れよう」と考えたのである。

宋船を福原まで安全に導くための、

瀬戸内航路の整備も進められ、

貿易船の寄港地となる瀬戸内各港の整備、

「音戸の瀬戸」の開削などが行われた。

前年には厳島神社の造営にも着手していた。

(海中にたつ大鳥居や回廊でつながれた華麗な社殿は、

  この時に造営されたものである)


風の音カーテンコールくりかえす  久恒邦子

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平家物語・「禿童(かぶろ)」から

清盛は仁安三年十一月十一日、五十一歳のとき病に冒され、

延命のためにすぐさま出家し、入道した法名は[浄海]と号した。
    
その効験か、病はたちどころに癒えて天寿を全うする

    
出家の後も栄華はなお衰えを見せなかった。
 
人々が心を寄せ従うさまは降る雨が国土を潤すがごとく、

世間があまねく敬い慕うさまは、


吹く風が草木をなびかすがごとくであった。
    
痛点が笑い出したよ花水木  小川一子

六波羅殿の一家の公達と言えば、

清華家や英雄家さえも、肩を並べ、顔を向けられる者はいなかった。
    
清盛の小舅・
大納言平時忠は、
    
『平家にあらざる者は人にあらず』

    
と豪語した。
    
そのため、誰もが縁故を結ぼうとした。
    
烏帽子の被り方から、衣文の指貫の輪に至るまで、

何事も六波羅風とさえ言えば、世の人は皆これを真似た。


赤黒いもの躙りよる華氏3度  井上

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何色で向き合いましょうあなたとは  合田瑠美子

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   平忠度
(画面をクリックすると画像が大きくなります)

「忠度エピソード」

"さゞ波や志賀の都は荒れにしを 昔ながらの山桜かな"

この歌は、忠度が、

「今後勅撰の歌集が作られるようなことがあれば、

  この中から一首でも載せてほしい」


と平家都落ちの際に藤原俊成に託した歌集の中の一首。

その後、「千載和歌集」の選者となった俊成は、

この一首を選んだが、

忠度は、朝敵として死んでいたため、

「詠み人しらず」として載せらたという。

急きなさい影が半分消えている  森田律子


「平家物語⑨-『忠度最期』」

平忠度は、一の谷の西の手の大将軍でした。

その日の出で立ちは、紺地の錦の直垂、黒糸縅の鎧、

太い黒い馬に"い懸け地"の鞍を置いていました。

100騎ほどで源氏に囲まれていました。

しかし、少しも騒がず、防ぎ、防ぎながら退却していました。

そこに、武蔵の国の住人で岡部六弥太忠純が、

「よき敵」と目をかけ、馬を駆けさせて追いかけました。

白黒をはっきりさせたがる右手  清水すみれ

「あれはいかに。よき大将軍とこそ見える。

見苦しくも敵に後ろを見せるものかな。返せ、返せ」


岡部六弥太がそう声を掛けると、

忠度は振り返って「味方ぞ」と声を掛けましたが、

振り向いたその甲の内を見ると、

歯を黒く染めていました。

後ずさりしながらジャブをくり返す  三村一子

岡部六弥太は、

「あれ味方に、お歯黒をした者はいない。

いかようにも、これは平家の公達に間違いない」


と馬をおし並べて組みました。

それを見た忠度の兵たちは、

諸国から集めた借りものの武士でしたので、

1騎も戦おうとせず、われ先に皆、逃げていきました。

見なかったことにしますか果たし状  新川弘子
 
忠度は熊野育ちのうえに、噂に聞こえた怪力で、

屈指の早業の持ち主。

岡部六弥太をつかみ、

「味方といっているので、

  味方ということにしておけばよいものを」


と、引き寄せ馬の上で二太刀、落ちていく時に一太刀、

合計で三太刀、突きました。

二刀は鎧の上なので通りませんでしたが、

一刀は内甲へ突き入れました。

しかし、浅傷なので致命傷にはならず、

取り押さえて、首をかこうとしました。

ひとことの棘で沼底にしゃがむ  たむらあきこ

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そこに岡部六弥太の童が遅ればせながらやってきて、

馬から飛び降り、太刀を抜き、

忠度の右ひじを、根元から切り落としました。

忠度は、もはやこれまでと思ったのでしょう、

「しばしのけ。最後の念仏を十回唱えさせろ」

と岡部六弥太をつかんで、弓の長さ程投げ飛ばしました。

その後、西へ向かい、

「光明遍照十万世界、念仏衆生摂取不拾」

と唱えているときに、念仏が終わってもいないのに、

岡部六弥太が後ろから、忠度の首を取りました。

枇杷の樹と夾竹桃に割って入る  岩根彰子

岡部六弥太は、よい首を取ったとは思いましたが、

名前を誰も知りませんでした。

しかし、えびらに結び付けられた文をほどいて、

見てみると、「旅宿花」という題の歌が一首、

詠まれていました。

"行き暮れて木(こ)の下陰を宿とせば 花や今宵の主ならまし"

そこに、忠度と記されていました。

ポップコーンになって診察室を出る  小川佳恵

岡部六弥太はようやく、

薩摩の守・平忠度を討ち取ったことを知りました。

すぐに首を太刀の先に貫き、高くかかげ、

大声で、

「このごろ、日本国に鬼神ありと聞こえた薩摩の守殿を、

  武蔵国の住人・岡部六弥太忠純が討ち取った」


と名乗りました。

敵も味方もそれを聞き、

「ああ残念だ。

  武芸にも歌道にも優れ、よき大将でもあった人を」


と皆、鎧の袖を濡らしました。

カチリっと鍵 別れの音ですね  くんじろう

「忠度ーその他の代表句」(平家物語)

 別れ路を何か嘆かん越えて行く関も昔の跡と思へば

 月を見し去年の今宵の友のみや都に我を思ひ出づらん


ポケットに溜ってしまう日の欠片  佐藤美はる

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     忠度供養塔               忠澄墓・石碑

「岡部六弥太忠澄のこと」

岡部六弥太 が平忠度の菩提を弔うため、

「清心寺」(埼玉県深谷市萱場)内に建てた供養塔。

また清心寺から約2キロほど離れた普済寺には、

岡部六弥太の墓と


「行きくれて木の下陰を宿とせば 花やこよひの主ならまし 忠度」

と書かれた平忠度の句碑がある。

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「岡部六弥太忠澄の墓」案内板)
(画面をクリックすれば画像が大きくなります)


「忠度を討った岡部六弥太忠澄は、

源義朝の家人として保元・平治の乱に活躍した。

その後、源氏の没落により岡部にいたが、


治承4年(1180)、頼朝の挙兵とともに出陣し、

はじめ木曽義仲を追討し、その後平氏を討った。

特に一の谷の合戦では平家の名将平忠度を討ち、一躍名を挙げた。

恩賞として荘園5ケ所および伊勢国の地頭職が与えられた。


その後、奥州の藤原氏征討軍や頼朝上洛の際の、

譜代の家人313人の中にも、

六弥太の名が見える。

忠澄は武勇に優れているだけでなく、情深く、

自分の領地のうち一番景色のよい清心寺に平忠度の墓を建てた」


膝の水を抜く空海的な意味  井上一筒

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葬儀屋の事務所に置けぬ招き猫  ふじのひろし

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    平忠度

(画面をクリックすると大きく見れます)

「清盛の五十歳を祝う宴」

名の"ただのり"から無賃乗車のことを、

「薩摩守」(さつまのかみ)という隠語にもなった、平薩摩守忠度は、

天養元年(1144)平忠盛の六男として生まれる。

母は藤原為忠の娘ともいわれ、いわゆる、

種も畑も違う、清盛の一番下の弟にあたる。

忠度が生まれたとき、忠盛は49歳、

長男の清盛は29歳であった。

そして謎として、何故か正盛・忠盛一族で、

"盛"の字がついていないのは、忠度だけである。

≪清盛の長男・重盛(1138生)は、6歳年下の忠度を、

  やはり
”叔父上”と呼んだのだろうか≫

いい名前つけてもらった黄金虫  新家完司

忠度は、文武両道に優れ、ことに「歌人」としては、

当代随一といわれた人である。

このような素質を持った忠度の、DNAを見てみよう。

父・忠盛は、武家の棟梁としてのみならず、

和歌や音楽の道でも一流であることをめざした。

特に和歌は『金葉和歌集』に入集するほどの、

名手であった。

『平家物語』にも備前から帰ってきた忠盛が鳥羽院

「明石浦はどうであった」と聞かれて、即座に

"有明の月も明石のうら風に 浪ばかりこそよるとみえしか"

(残月の明るい明石の浦に、風が吹かれて波ばかり寄るとみえました)

とよんだエピソードが残る。

広重の雨は45度に降る  井上一筒

管弦では笛をよくした。

小枝という笛を鳥羽院から賜り、

それを子の経盛に譲り、さらに孫の敦盛に伝わったことが、

同じく『平家物語』の「敦盛最期」にある。

舞は元永二年(1119)「賀茂臨時祭」で舞人を務め、

見物の公卿に

「舞人の道に光華を施し、万事耳目を驚かす」

と称えられた。

生まれつき器用だったのであろうが、

朝廷における平家の地位を高めるために

血のにじむような努力も、重ねていた人なのである。

飛躍するためにしゃがんでいるのです  嶋澤喜八郎 

一方、忠度の母親は、

平家物語①「鱸(すずき)の事」で、

忠盛の「最愛の女房」だったとある。

ずっと以前に、このブログに記したことだが、

忠盛が月の絵が描かれた扇を、

この女性のもとに忘れ、ほかの女官たちが、

「これはいづくよりの月影ぞや、出所(いでどころ)覚束なし」

とふざけると、女房は機転よく、

”雲居よりたゞ盛り来たる月なれば おぼろげにては云はじとぞ思ふ”

と返した。
 
というように、忠度は、父からも母からも、

和歌の名人になるべく、その才能を受け継いでいる。

酒も背も追い越した子に期待する  松本綾乃

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「本編へ」

藤原摂関家の基房、兼実の兄弟は、

武士である清盛が、

「貴族を蔑ろにして、国のことを決めている」

と苛立ちをおぼえていた。

なんとか、「目にものを見せてやりたい」と、

その機会を狙っていた。

その時は、すぐにやってきた。

六波羅の清盛の館で、

清盛の「五十歳を祝う宴」が催されたのだ。

犬猿の三水偏と二水偏  筒井祥文

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宴には、平家一門はもとより、

源頼政と、その嫡男の仲綱など平家に仕えるものたちや、

今は公家の一条長成に嫁いだ常磐も、

我が子の牛若丸と共にやってきた。

牛若丸は、五歳の頃まで清盛の館で生活していたからか、

清盛のことを父と慕っていた。

清盛としても、友であり、ライバルだった亡き義朝の、

忘れ形見の牛若丸が可愛かった。

新しい形の愛を模索中  三村一子

そんな和気あいあいとした雰囲気の中、

摂政・基房と、右大臣・兼実の兄弟も宴にやってきた。

二人は、最初こそ儀礼的に祝いの言葉を述べたが、

言動は挑発的だった。

「政とは、花鳥風月、雅を解する目と、

 心があるものが行うのが、道理であり、

 長い間、太刀を振り回すばかりの王家の番犬に、

 その才があるとは思えない」


と言い放ったのだ。

継ぎ足した言葉が致命傷になる  平尾正人

しかし、清盛は二人の挑発には乗らず、

「客としてもてなそう」と家来に命じて膳を運ばせた。

その膳は、貴族並みの豪華なもので、

二人は驚いたが、ある企みを実行に移した。

兼実がもてなしの祝いにと、

得意の舞を舞って見せたのだ。

ふらふらと湯立て神楽の湯を浴びる  岩根彰子

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その返礼にと経盛、重盛、宗盛が舞った。

それは、兼実に勝るとも劣らない立派なものだった。

面目を潰した格好の兼実は、

次に和歌で挑む。

清盛が指名したのは、

今日の宴に出るために熊野から都に出てきた、

清盛の末の弟・忠度だった。

教室に鶴を呼んではいけません  湊 圭司

「兼実 VS 忠度ー歌合戦」

”帰りつる名残りの空をながむれば 慰めがたき有明の月”

(あのひとが帰ってしまったあとの、なごり尽きない空を眺めると、

  ただ有明の月が残っているだけ・・。なんの慰めにもなりはしないわ)


兼実がこの句で挑むと、忠度は次の歌で返す。

”たのめつつ来ぬ夜つもりのうらみても まつより外のなぐさめぞなき”

(期待させながら、来ない夜が積もり積もった。

津守の浦ではないけれど、いくら恨んでみたところで、

結局、松ならぬ待つよりほか、私には慰めなどないのだ)


つよ気とよわ気はしる稲妻もて余す  桜 風子

さらに、兼実が

”行きかへる心に人の馴るればや 逢ひ見ぬ先に恋しかるらむ”

(いつもあの人のもとに通っている私の心に、

 あの人も馴れ親しんだのではないか。  だからきっと、

 実際に逢う前からもう、私のことが恋しくてならないことだろうよ)


と詠うと忠度は、負けずに

”恋ひ死なむ後の世までの思ひ出は しのぶ心のかよふばかりか”

(私はもう、恋に焦がれて死んでしまうだろう。 そうして来世まで、

  持ち越す思い出といったら、ただお互いに堪え、

  隠し通した恋心だけなのか)


と受けた。

寿限無じゅげむ今日はなんだか暇だなあ  河村啓子

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清盛は初めて会った弟が、どれほどの力量があるか

わからなかったが、自分の勘に賭けたのだ。

その賭けは、見事に清盛の勝ちだった。

忠度は、そのがさつなみかけからは、

想像できないくらいの和歌の才能を発揮し、

見事、兼実を打ち負かしてしまったのだ。

一本のロープと揺れている小舟  笠嶋恵美子

さらに清盛は、

二人に厳島神社の完成予想絵図を見せた。

それは海に浮かぶ社ともいえる、「雅やか」なものだった。

二人は逃げ出すようにして帰っていった。

くちびるをふさぐ とどめの五寸釘  上嶋幸雀

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(画面をクリックすると拡大されます)

清盛は、気分よく飲み酔った。

酔って、ふらつきながら立ち上がると、

懐から扇子を取り出して陽気にいう。

清盛 「ああ、愉快じゃ。愉快じゃ。かように愉快な日が、

     終わってほしゅうない。おもしろや、おもしろや・・・」


そういうと、沈みゆく夕陽を扇子であおいでみせた。

すると、あろうことか夕陽が再び昇り、

清盛を照らしたのだ。

この話が都中に知れ渡ると、

清盛の世が未来永劫に続くと人々は噂した。

着地まで夢を見る長い睫  酒井かがり

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産道は賽銭箱へ通じたり  筒井祥文

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       宋 船

(画面をクリックすれば大きくなります)

「平家の経済観念」

9世紀末、菅原道真の建議によって、

「遣唐使」が廃止されて以来、

外国との正式な国交は、途絶えていた。

京の貴族の間では、

中国文化の影響を離れた日本独自の、

国風文化が花開く一方、

外国をケガレの対象と見るようになり、

国際社会に対する無関心や、

外国人に対する排外思想が広まっていった。

真っ直ぐな道だ真っ直ぐ歩かねば  山本芳男

早くも9世紀末の宇多天皇は、皇子に対して、

「天皇が外人と会わなければいけない場合は、

  簾の中から見よ、直接対面してはならない」


と戒めている。

このような、海外に対する忌避感は、

実現不能の攘夷を主張し続けた幕末の、

孝明天皇まで続くのだから、

貴族の外国嫌いは、筋金入りなのだ。

関節が固くて交合成は無理  吉澤久良

それだけに、

自身の立場をわきまえない後白河の行動に、

貴族たちは眉をひそめ、

うるさがたの九条兼実などは日記に、

「天魔の所為か」と大袈裟に書きたてたのである。

目の前を過ぎる気ままな風ばかり  赤松ますみ
 
しかし、この批判のもとをつくった清盛は、

まったく悪びれる風もなく、

宋との貿易はむしろ活発になっていった。

そもそも清盛たちを批判している貴族たちも、

大陸からもたらされた文物を「唐物」などと呼んで喜び、

密貿易を行ったり、

大宰府の役人に手をまわしたりして、

手に入れていたのだ。

合理主義者の清盛にとって、貴族たちの排外意識は、

カビの生えた伝統か愚かな迷信くらいにしか

思えなかったであろう。

アルプスを斜めに越える足慣らし  井上一筒

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  宋人との貿易風景(兵庫県立考古博物館)

日本側役人の後ろに輸出品、宋人の後ろに輸入品

(写真をクリックすれば拡大されます)

清盛が貿易を重要な経済基盤としたことは、よく知られているが、

平家と日宋貿易の関係は、いつ始まったのだろうか。


遣唐使が廃止された後も、日本と中国との交流が、

完全になくなったわけではなかった。

対外貿易は九州の大宰府が一元管理していたが、

やがて国禁を破って、海外に渡り、

大陸の文物を輸入する商人が現れ、

日宋貿易はかえって活発化していく。

運命線に風の見た銭ばかりある  森中惠美子

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   宋からの輸入品

12世紀半ばには、大宰府による管理貿易とは別に、

九州沿岸の有力な荘園領主による直接貿易も

行われるようになった。


長承2年(1133)有明海に面した肥前国神崎荘に、

「宋船」が来着した。

さっそく大宰府の役人が来て、取引を始めようとしたところ、

荘園を管理していた忠盛が、

「鳥羽院の命令である」といって、

役人たちを追い払ってしまった。

攻めるのに槍を持つ人舌の人  武智三成

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  宋への輸出品

当時の神崎荘は、鳥羽院の直轄領で、

忠盛は院の命令により、荘園を管理する立場にあった。

その特権を利用して、

大胆にも鳥羽院の院宣を偽造して、

貿易を独占したのである。

忠盛が日宋貿易に目をつけたのは、

「海賊討伐」によって配下となった海賊や、

西国の在地領主から、

貿易の利益についての知識を得ていたからだろう。

また、忠盛は保安元年(1120)に越前守に任じられたが、

このころからすでに、

貿易にかかわっていた可能性も指摘されている。

三日後の空気に触角が動く  桂 昌月

宋商人は、九州の大宰府のはか、

ときには日本海の敦賀にきて、交易を行うこともあった。

敦賀は越前守の管轄下にあり、

このときに貿易のメリットを実感したのかもしれない。

神崎荘の管理も、さらに本格的に貿易に取り組むために、

鳥羽院に頼んで許されたのであろう。

せわしなく時計回りを行ってみる  中野六助

忠盛の子の代になると日宋貿易はさらに活発化し、

荘園や知行国の収入と並んで、

平家の重要な財政基盤のひとつになる。

清盛は平治の乱の前年に、

大宰府の実質的な長官である太宰大弐に任じられると、

腹心の平家貞藤原能盛を大宰府に派遣して

現地の役人を組織した。

薔薇満開もうこれ以上笑えない  倉 周三

永万2年(1166)に太宰大弐となった頼盛にいったては、

自分で直接貿易を管理するために、

大宰府の「責任者は赴任しない」という慣例を破って、

自ら現地に赴いているほどだ。

平家の経済基盤として、

貿易の重要性は、一門の人々にも、

十分認識されていたのである。

自画像の昨日の顔と今日の顔  本田哲子

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