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川柳的逍遥 人の世の一家言
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字引きから 《寝耳に水》 は削除する  岩根彰子

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乱後、後白河上皇二条天皇が協調する

政治体制となったが、

院政を続けようとする後白河上皇と、

親政を目指す二条天皇の間には、火種が燻っていた。

縦糸に水 横糸に水蒸気  井上一筒

そんな中清盛は、双方の良好な関係が維持されるよう、

気を配りつつ、両者に奉仕していく。

清盛としては、時の天皇である二条天皇を重んじる一方、

天皇家の家長として二条天皇を後見する後白河上皇も

尊重すべきと考えた。

「よくよく謹みて、いみじくはからいて、

   アナタコナタ しけるにこそ」


(用心し、よく配慮して、後白河と二条の双方に心を配っている)

                                                            『愚管抄』

がまんがまん丸虫のようになる  筒井祥文

権力者2人の間でバランスを保つのは、

「清盛の優れた政治力の表われ」 といえるだろう。

そんな清盛を

「貴族のようで、武士にあるまじき者」

と評する者もときにはいるが、、

清盛は、決して武士を捨てたわけではなく、

むしろ武士でありながら、

朝廷政治に加わることのできた存在なのだ。

清盛は、単に諸方面に気を配るだけでなく、

明確な政治スタンスを持っていた。

自転公転レモン一顆を遊ばせる  前中知栄

清盛は、保元・平治の乱のいずれも、

終始一貫して天皇を支持している。

いわゆる「時の天皇」に忠実でいるということ。

そのため、この時期の清盛は、

どちらかといえば、二条天皇寄りにも見え、

二条天皇も清盛の力を背景として、

少しずつ政治権限を強めていった。

キャベツ色して蝶々になりすます  山本早苗

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    二条帝

また二条天皇との関係で見過ごせないのは、

二条天皇の乳母が、清盛の正室・時子であるということ。

かつて、信西が後白河上皇の乳父として、

権勢を振るったように、清盛は二条天皇の乳父であり、

それが二人の強いつながりになっていた。

虚空引き裂く母方遺伝因子  山口ろっぱ

ところが、応保元年(1161)9月、

上皇と天皇の協調体制が崩れる事件が起こる。

上皇の皇子で天皇の弟・憲仁親王(高倉天皇)

皇太子にしようとする企ての発覚で、

これは、時子の弟・平時忠が仕組み、

後白河上皇が加担したものだった。

憲仁親王の生母は、時忠の妹・滋子(建春門院)であり、

時忠は外戚の立場を得ることで、

平氏一門の繁栄をもたらそうとしたのだろう。

人生です紙風船を吹いてます  田中博造

しかしこの時、清盛は断固たる態度をとった。

二条天皇を擁護する立場をとって、

時忠を処罰するのみならず、

後白河上皇の院政を停止させるのである。

あくまでも、時の天皇を重んじる清盛は、

二条天皇の意向を無視した立太子を、

非常に無礼なことと考えたのだ。

祈る手は雑巾しぼる手に似てる  兵頭全郎

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この時、後白河上皇と清盛の間に、

感情のしこりが生じたのは間違いない。

滋子は清盛の義妹であり、後白河上皇が

「平氏一門の子が皇太子となれば清盛も喜ぶ」

と清盛にとっても良かれと思い、

為したことと、考えられなくもないからだ。

後白河上皇は、清盛に怒りを覚えたはずである。

俎板の窪みに溜まる雨の音  笠嶋恵美子

一方一門の子が、皇太子になり得たにもかかわらず、

それを阻止した清盛は、非常に筋を重んじたといえる。

後白河院政の停止後、二条天皇の親政が始まった。

もっとも清盛は、

後白河上皇への奉仕をやめたわけではない。

応保2年(1162)には、上皇から官職任命の儀式について

諮問を受けたり、後白河上皇のために、

蓮華王院(三十三間堂)を造営するなどしている。

≪この時期の清盛と後白河上皇について、

   政治的な対立があったとよく強調されるが、

   少なくとも、清盛にはそのような気持ちは一切なかった≫


三杯酢かけて亀裂を修復する  内藤洋子

この頃、一門の政治基盤を安定させるため、

清盛は摂関家に接近し、長寛2年(1164)に、

関白・藤原基実を娘の婿にとる。

翌永万元年(1165)7月には、僅か2歳の六条天皇に譲位し、

上皇となっていた二条天皇が崩御する。

ここで幼い六条天皇にかわって、

執政する立場となったのが、婿の藤原基実で、

清盛は8月に権大納言となった。

≪基実を支えるための任官である≫

ところが肝心の基実が、

あくる仁安元年(1166)7月病没し、

清盛は、二条天皇、藤原基実と立て続けに、

後ろ盾を失ってしまう。

うっすらと濡れている運命線の端  蟹口和枝

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これらを受け、再び後白河上皇による院政が始まる。

後白河は過去の経験から、

「清盛と提携した方が政権が安定する」と分っている。

そこで清盛と再び組むためにも、

清盛と縁の深い憲仁親王を皇太子に立てた。

清盛もこれを容認し、東宮大夫(とうぐうだいぶ)となった。

六条天皇は幼く、

母親が摂関家でも平氏出身でもないからである。

天皇家の安定を見据えるなら、

後白河、憲仁の系統が一番だと考え、

清盛は再び後白河と結んだのである。

一言めの「だから」の意味を解いている  佐藤美はる

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しずめてはうかべて祈ることばかり  赤松ますみ

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              「平家納経」

長寛2年(1164)9月、清盛は一門の繁栄を祈願して、、

法華経をはじめとする装飾経・三十三巻を厳島神社に奉納した。

国宝・
『平家納経』である。

料紙には、
「金銀」が贅沢にちりばめられ、

見返しには、「優美な大和絵やさまざまな模様」

が描かれており、その美しさは,目をみはるばかりである。

軸には「水晶と透かし彫りの金具」が用いられ、

経を納める経箱も「雲龍」をあしらうなど、

賛美を尽した意匠は、現存する「装飾経」の、

最高水準を示すものといわれる。

艶っぽいお経へゆれる絵ろうそく  山本昌乃

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清盛の願文には、

「厳島の霊験により家門の福禄、子弟の栄華がもたらされ、

この世の願望はすでに満ち足りました。

一門と家人32人がひとり一巻を分担して、

善美を尽して経づくりに励んだので、

その功徳をもって、往生を遂げることを願います」


と、厳島明神に対するあつい信仰と極楽往生の願い、

そして、一門の栄達への感謝の念がしたためられている。


6Bの芯に注ぎこむ僕の芯  新家完司

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「夢のお告げ」

海の中にそそり立つ大鳥居、

長い回廊に囲まれた朱塗りの社殿が

海の上に浮ぶさまは、

あたかも天上界のような美しさだ。

瀬戸内海有数の観光地のひとつ宮島。

そこに鎮座する厳島神社は、

江戸時代から松島・天橋立と並ぶ「日本三景」に数えられ、

平成8年(1996)には、

ユネスコの世界文化遺産に登録された。

真っ先に麒麟に放つ蜃気楼  岩根彰子

厳島の歴史は古く、社伝によると、

創建は推古天皇の時代にさかのぼる。

古代から弥山を中心に、

島全体が神としてあがめられ、

安芸国第一の零社として、瀬戸内の民の尊崇を集めた。

ただし、安芸国一宮といっても、

この時点では、地方の一神社に過ぎない。

その厳島に上皇の御幸をあおぎ、

都人がこぞって参詣するほどの、

名社にしたてあげたのが、清盛であった。

どこまでが海かどこからが君か  くんじろう

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清盛の厳島信仰は、

安芸守だった仁平元年(1151)から、

保元元年(1156)までの間に、始まったと言われている。

それは不思議な因縁であった。

清盛が安芸守の再任を願って、

高野山の大塔を造営していた時のこと。

材木を自らかついで造営を進めたが、

ある日、香染めの衣をまとった僧侶が現れ、

「日本国の大日如来は、

伊勢大神宮と安芸の厳島である。

大神宮はあまりにも尊い。

汝はたまたま安芸の国司となった。

早く厳島に奉仕しなさい」


といって忽然と姿を消した。

香染衣=丁子の煎じ汁で染めた衣服。

たらちねと凌ぐ過去の過去の昨日  山口ろっぱ

その後、厳島に参詣し社殿の修築を行なったところ、

巫女の口をとおして、

「あなたは従一位太政大臣になるであろう」

と告げられ、果たしてそのとおりになったという。

                   鎌倉初期の説話集『古事談』

暇に飽かして大気圏脱出  酒井かがり

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何とも神秘的な話であり、荒唐無稽に思えるが、

長寛2年(1164)に平家一門が、

厳島神社に奉納した「平家納経」の、

清盛自筆の「願文」にも、

夢に一沙門(僧侶)が現れて、

厳島を信仰するようすすめ、

その「お告げ」通り、ひたすら信心した結果、

その恵は明らかであったと、

『古事談』の逸話をなぞるような、

体験が記されているから、

神秘的な宗教体験が、

厳島信仰のきっかけになったことは、

事実のようだ。

一万回聞いても分からないお経  新家完司           

「『平家物語』にも同じような話がある」

高野山の大塔修理が終わり、清盛が、

弘法大師の廟のある奥の院に参ったときのこと。

まゆ毛の白い、ふたまたの杖をついた僧侶が現れて、

「厳島を修理すれば、

肩を並べる人もいないほどに出世するだろう」


と予言した。

見知らぬ人の心に残る思いやり  森 廣子

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弘法大師の化身であると感じた清盛は、

厳島の造営に着手する。

やがて工事が終わり、清盛が厳島に参詣すると、

うたたねの夢の中に、童姿の神の使者が現れて

「この剣ををもって一天四海をしずめ、

朝廷の守りとなれ」


といって銀柄の小長刀を清盛に与えた。

その後、厳島大明神のお告げがあり、

「高野の聖がいったことをわすれるな。

ただし悪行があれば、子孫まではかなうまいぞ」


と述べたという。

優しげな顔してきついことを言う  藤井孝作

未来に起こる平家の滅亡を前提として、

「悪行があれば、栄華は一代限りである」

とクギを刺しているところが興味深い。

神仏に対する信仰というものは、

このような神秘体験があると、

いっそう深まるものである。

まして、清盛のように、

破格の出世をとげた人物はなおさらであろう。

事実、清盛の厳島に対する熱烈な信仰は、

年を追うごとに高まり、一門はもちろん、

都の貴族たちにも、

大きな影響をおよぼすようになる。

鰐鮫の目ヤニの色はルビー色  井上一筒

≪当時、清盛は従二位権中納言、

  嫡子・
重盛も正三位の公卿に任じられ、

   平家の栄
華は絶頂期を迎えつつあった≫

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風見鶏風のなさけは当てにせぬ  森中惠美子

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「摂関家との提携」

政治的な発言力を高めるために、

多数派工作が有効なのは、

いつの世も変わらない。

そのために清盛が用いたのが「婚姻政策」だ。

有力貴族に多くの娘を嫁がせて、

平家のシンパを増やし、

政界における平家のプレゼンスを高めようと努力した。

高倉天皇の中宮となり安徳天皇を生んだ徳子は、

その代表だ。

≪ほかにも後年に従一位に進む花山院兼雅

  
後鳥羽天皇の外祖父となる藤原信隆

  
高倉天皇の寵姫でもあった小督(おごう)と浮名を流す藤原隆房

   などの有力貴族に娘を嫁がせた≫


一言で鬼千匹の牙を抜く  笠嶋恵美子

清盛の娘のうち徳子に次いで、

重責を担ったのが盛子だろう。

長寛2年(1164)

清盛は盛子と関白・藤原基実を結婚させ、

摂関家と婚姻関係を結ぶことに成功する。

盛子は正室として迎えられたが、

これが明らかな政略結婚だったことは、

すでに基通という息子までいる

22歳の基実に対して、わずか9歳の盛子が、

あてがわれたことからもわかる。

罪ひとつ軽い形にぶら下げる  吉川哲矢

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   藤原基実

基実が平家との結婚を受け入れたのは、

「平家の武力と財力に期待をかけたからだ」

と思われるが、

清盛に対する親近感も、あったのではないだろうか。

摂関家は、「保元の乱」により、

源為義など仕えていた武士を多く失ったことで、

荘園などの管理にあたる武士が不足し、

各地で混乱が生じていた。

そのため、基実は武門貴族である

藤原信頼に目をつけ、その妹と婚姻し、

彼の持つ武力に頼った。

しかし、今度は「平治の乱」で信頼を失ってしまった。

≪そしと、平治の乱の「六波羅行幸」のおり、

   信頼の妹を妻にもつ基実を、

   快く迎えてくれた清盛の度量の大きさに感銘を受け、

   頼むに足る人物と見込んでいたことも、提携の条件になった≫


竹薮で見た銀色の脚の人  井上一筒

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     藤原基房

清盛にとっても、「摂関家との提携」は、

政治的な発言力を高める、絶好のチャンスだったが、

それ以上に魅力だったのは、

摂関家が全国に所有する、膨大な荘園だった。

清盛は、配下の家人を預所に任命したり、

在地領主を下司に任じたりして、在地支配にあたらせ、

摂関家・領荘園からの中間搾取をねらったのである。

≪ところがその目論見は、

   その2年後に基実が24歳で急死したことで頓挫してしまう≫


金箔を纏えば僕もほとけさま 新家完司

こうした下りにおいて、その後、後白河上皇は、

二条天皇の親政を支えた摂関家を弱体化するため、

「摂関家領は清盛が管理せよ」

という院宣を下した。

いわば、盛子の摂関家領相続は、

政府の公認のもとに行なわれた。

清盛が見た夢の話が、貴族の日記に残る。

砂のない砂場に時を遊ばせる  山本早苗

「あるとき、春日大明神の使者が清盛のもとへ、

宝の山をもってきて、しばらく預かってくれるように命じた。

宝の山には藤の花が盛んに咲いて,

覆っていたというものだ。

その後、基実が亡くなり、

財産を清盛に管理させよという院宣が下された。


筋からいえば辞退すべきであるが、

『神のおはからいである以上、

断るのは恐れ多いのでしばらく預かることにした』
と、

清盛自身が語ったという」


日記の主が基房の弟・九条兼実であるのが面白い。

≪この夢に対し、批判めいたことは一切記されていない≫

斜めに歩いて衝撃を避ける  本多洋子

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うつろいやすき愛へ湖があふれ  森中惠美子

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       法住寺

法住寺は七条坊門小路、観音堂大路、東山山麓より法性寺大路を、

敷地とする広大な寺域を持ち、


後白河法皇らの院御所(『法住寺殿』)として、

1161年に、この地から、後白河法皇の長い院政が始まった。

千体の観音像を安置する「三十三間堂」もその敷地内の一部で

法皇を極楽浄土に導くため、仏像は全て法住寺に向いている。


「建春門院滋子」は、後白河院とともにここに眠っている。

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     千体の仏像

街角の一理に変わるしじみ蝶  筒井祥文

「建春門院滋子」

永禄元年(1160)清盛は念願の公卿の座にのぼった。

謁見する清盛に後白河院は皮肉たっぷりに言った。

「まさか朝廷の番犬が、そこまでのぼる日が来るとはのお」

「お戯れをこの日が来ることを上皇様は、

  保元の戦さの折より、お気づきであったはず」


不敵な態度の清盛に、ご白河もまた不敵な笑みを返した。

清盛と後白河院の長い長い「すご六遊び」の、

新たなる始まりであった。

身の上のここは泣くとこ笑うとこ  清水すみれ

家貞美福門院もこの世を去り、

時代は大きく変わりつつあった。 

そんな折、上西門院後白河院の姉)の女房として

仕える滋子(清盛の義妹)が、兄・時忠から、

「二条天皇のもとへ入内しないか」

ともちかけられる。

それを滋子はきっぱりと拒否する。

二条天皇とそりが合わず、

面白くない後白河上皇はある日、宮中で滋子と会い、

一目見て、その姿と気の強さに心ひかれる。

あっという間に後白河上皇の子を懐妊した滋子に、

平家一門は大騒ぎになる。

好きですと言ってくれたら好きになる  新家完司

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「平滋子」

平家の時代の中で、

歴史的に重要な役割を果たしている女性がいる。

父は平時信(堂上平氏)時子の異母妹。

建春門院滋子である。

鳥羽法皇の娘・上西門院に女房として仕え、

その美貌と聡明さが、

後白河の目にとまって寵愛を受け、

高倉天皇を生んで女御となった。

後白河の寵愛は、

他の妃とは比較にならなかったといい、

生前は後白河と清盛の対立を、

調整・緩和する存在であった。

前略 アイウエオ 早々にてナダレ  山口ろっぱ

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「その素顔」

滋子の女房として仕えた健寿女(藤原定家の同母姉)

『たまきはる』〔建春門院中納言日記〕に、

滋子の素顔を書き残している。

掟を脱いだら象形文字になった  岩根彰子

「たまきはる」には、彼女の容姿を

「あなうつくし、世にはさはかかる人のおはしましけるか」

       (なんと美しい、この世にはこのような人もいらしたのか)

と記されている。

≪滋子の美貌は、

  「言ふ方なくめでたく、若くもおはします」

            (言葉にできぬほど美しく、若々しい)

『建礼門院右京大夫集』でも絶賛している≫


この世です「ああ」がいっぱい詰まります  徳永政二

性格をというと、

「大方の御心掟など、まことにたぐひ少なくやおはしましけん」

      (心構えが実に比類なくていらした)

万事につけて、しっかりとして几帳面な性格で、

女房が退屈しないよう気配りを怠らず、

いつ後白河や高倉が来ても良いように、

絶えず威儀を正し、

後白河が御所にいる時は、

いつも同殿して食事を共にとったという。

出会ったんだもの私の半分と  居谷真理子

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そのことについて、”たまきはる” で滋子は、

「女はただ心から、ともかくもなるべき物なり。

  親の思ひ掟て、人のもてなすにもよらじ。

  我心をつつしみて、身を思ひくたさねば、

  おのづから身に過ぐる幸ひもある物ぞ」


     (女は心がけしだいでどうにでもなるもの。

      親や周囲のせいではない。

      自分の心をしっかりもって我が身を粗末にしなければ、

      自然と身に余る幸運もある)


と折に触れて、自戒の意を込め語っていたとある。

楕円を引っ張ればほんのり唇  下谷憲子

「逸話」

後白河院が9月に滋子を伴って、

熊野参詣を行った折のこと、

熊野本宮で滋子が「胡飲酒」を舞っていたところに、

突然大雨が降ってきた。

が、滋子はいささかもたじろがず、舞を続けたという。

滋子の信念の強さ、気丈な性格を表した一面である。

さあ今日も私が地球回さねば  高橋謡々

滋子は、後白河院が不在の折には、

除目や政事について奏聞を受けるなど、

家長の代行機能の役目も果たした。

「大方の世の政事を始め、

  はかなき程の事まで御心にまかせぬ事なし」


   (政治の上でのどんな些細なことでも、

    女院の思いのままにならないことはなかった)


≪こうした政治的発言力により、滋子は、信範(叔父)や、

   宗盛(猶子)、時忠・親宗(兄弟)の昇進を後押しもした≫

キツネが憑いていた頃の声の艶  井上一筒

安元2年(1176)3月4日から6日にかけて、

後白河院の50歳の賀のために「法住寺殿」において、

盛大な式典が催された。

後白河院滋子高倉徳子上西門院平氏一門

公卿が勢揃いしたこの式典は、

平氏の繁栄の絶頂を示すものとなった。

その後3月9日、

後白河院と滋子は有馬温泉に御幸する。

帰ってまもない6月8日、

滋子は突然の病に倒れる。

そしてそのまま、35歳でその生涯を終える。

一+一まではつじつま合っている  谷垣郁郎

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四角い雲は物置に積んでおく  井上一筒

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    義朝の墓

愛知県野間大坊にある義朝の墓。

義朝はここで家臣に殺された。


おびただしい数の木太刀が奉納されている。

(写真は観光として画面をクリックして大きく見てください)

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      大御堂寺


3月の涅槃会では、義朝の供養も行なわれる。

寺は義朝ゆかりと伝わる太刀などを所蔵する。


長い道歩いて人は人となる  田原喜久美

「義朝の最期」

永暦元年(1160)1月4日、

義朝は、長男・義平・次男・朝長・三男・頼朝ほか、

一族郎党とともに、東国に逃げ落ちていった。

雪辱を果たすため、

本拠地で再起を期すつもりだったのだろう。

だが、執拗な落ち武者狩りによって、

朝長は深手を負って死を選び、

頼朝は途中で、一行からはぐれてしまう。

義朝は郎党の鎌田正清を従えて、

尾張に着いたところで、

正家の舅である長田忠致(おさだだだむね)の館に宿を得た。

生と死を見つめ直して生きている  神野節子

しかし、

忠致は、義朝を襲って首を刎ねたのだった。

首は清盛に届けられ、9日に獄門に晒された。

再挙をめざした義平は、

近江の石山寺付近に隠れているところを捕縛され、

1月21日に六条河原で斬首された。

かなしみの言葉ばかりが地に溜まる  森中惠美子

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同じ大坊にある義朝の首を洗ったという池

頼朝もまた、2月9日に近江で捕まり、

処刑されるところだったが、

清盛の継母である池禅尼の、

「亡くなった実子に似ているからと助命を嘆願した」

の一言で死一等を減じられ、伊豆配流となった。

頼朝14歳、3月11日のことである。

人見知りする鏡だなすぐ曇る  谷垣郁郎

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京都市北区の総神社

かってここに義朝の別荘があり、

常磐御前がここで義経を産んだとされる。


弟たちもみな助命され、

また義朝に従った東国武士も、

特に処罰された形跡がない。

ただし、生き残った彼らは、義朝という後ろ盾を失い、

それぞれに、厳しい立場を生きることになるのである。

今日中に咲かせるための腹話術  井上しのぶ

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「藤原信頼の最期」

清盛の二条天皇の脱出作戦の一芝居に

引っかかって、

まんまと二条天皇をさらわれた信頼たちの、

あわてぶりは、ひどかった。

二条天皇を失った今、信頼たちの有効な手立ては、

もはや残されていなかった。

かっての主君である後白河院は、

自分たちで裏切ってしまったのだし、

関係を修復しようにも、

肝心の後白河院は、二条天皇よりも先に、

仁和寺に脱出してしまっていた。

てぶくろの中にて指が汚れだす  清水すみれ

慌てふためいて、信頼は仁和寺に逃げ込んだが、

同行した藤原成親とともに捉えられた。

六波羅の清盛の前に連れ出され、

助命を請うたものの、清盛は首を縦に振らない。

そのまま引き立てられて、六条河原で斬首された。

刃こぼれは月を削っただけのこと  くんじろう

保元の乱で処刑されたのは、武士に限られていたが、

今回は貴族の信頼ですら、死罪を免れなかった。

その理由は、

信頼が乱の主導的役割を果たしたことと、

信頼自身が武装して参戦していたため、

戦闘員として扱われたことによる。

刻々と迫る私の持ち時間  佐藤后子

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一方、藤原成親は死罪を免れ、流罪にもならず、

解官だけの処分ですまされたのは、

成親の妹が重盛の妻だったからだろう。

また、「とるに足らない殿上人」

と見くびられたからともいう。

≪のちに成親は、打倒平家のクーデター(鹿ケ谷事件)の、

   首謀者の一人に、なるが計画が発覚して失敗に終わり、

   配流されることになる≫


万匹の狸一匹連れ帰る  黒田忠昭

これらの戦後処理によって、

「平治の乱」は終りを告げたが、

最後の最後に、どんでん返しが待ち受けていた。

乱の余韻のまだ残る翌・永禄元年(1160)2月、

藤原経宗・惟方の二人が捕らえられ、

経宗は阿波国へ、

惟方は長門国へと流罪にされたのである。

スキップで出かけて腹這いで帰る  森田律子

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二人の直接の罪状は、後白河院に対する侮辱であった。

二条天皇脱出の功労者である二人は、

これでいよいよ自分達の時代の到来とばかりに、

後白河が街中の様子を見物していた桟敷に、

板を打ち付け、

視界を遮ってしまったのである。

同情の余地はあれども罪は罪  徳山泰子

これは公衆の面前で行なわれたわけで、

後白河の権威を、白昼堂々と否定してみせた行為である。

もちろん後白河院は激怒したが、

今となっては頼れる近臣もなく、

二人を処罰してくれるよう清盛に泣きついた。

雷が転げそうだよおーい雲  泉水冴子

泣きつかれた清盛は、二人をひっ捕らえただけでなく、

院の面前に引き据えて、拷問にかけている。

清盛がこれだけの仕打ちを行なったのは、

平治の乱の片棒を担いでおきながら、

乱平定の功労者面をし、

二条天皇の威をかりて、やりたい放題をする2人に、

対する周囲の憤懣が込められていた。

砂漠からとどく青色鳥語集  松本 泉

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 源氏ゆかりの銘刀・行平

こうして後白河派・二条天皇派の近臣たちは、

一掃された。

義朝など有力な武士たちも、ことごとく壊滅した。

この「誰もいなくなった」とでもいうべき状況で、

ただ一人、清盛だけが勝ち残ったのである。

清盛自身は事態を主導せず、

状況を受身に対応した結果ではあるが、

清盛がただ幸運に、恵まれていたというわけだはない。

こころざしのような背骨はもっている  たむらあきこ

他のものたちが焦って自滅していく中で、

正盛以来蓄えられた実力を持つ清盛だからこそ、

状況を冷静に見極め、

判断を過たずに勝ち残ることができたのである。

その意味で清盛は、

勝つべくして勝ったのだといえよう。

乱後に清盛は従三位を飛び越えて、

正三位に昇進し、念願の公卿昇進を果たしている。


大の字で見る回天の一部始終  兵頭全郎

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