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川柳的逍遥 人の世の一家言
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生き下手と死に下手三度食べている  森中惠美子

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 平家物語・「小督の事」

「高倉と小督(こごう)の悲恋」

『平家物語』には、清盛によって人生を変えられてしまう

悲劇の女性が登場する。

祇王はその代表だが、

双璧ともいえる悲劇のヒロインは

なんといっても「小督」だろう。

髪を梳いて縁のなかった人を知る  森中惠美子

高倉天皇が寵愛していた葵の前が死に、

天皇は食事ものどを通らなくなるほど落胆した。

中宮徳子は、天皇をなぐさめるために、

宮中一の美人で琴の上手な小督を、

天皇のもとにさしむけた。

ところが、この小督には、

清盛の婿である藤原隆房もいいよっていた。

大事な娘を嫁がせたふたりの婿(高倉天皇、藤原隆房)を、

取られた清盛は怒って、小督をなきものにしょうとした。

雨が降る降る標札のない女  森中惠美子

これを聞いた小督は、

「我が身はどうあれ、天皇の立場を思うと心苦しい」

と、ある暮れ方に内裏を出て行方をくらませてしまう。

天皇の嘆きは深く、

昼は寝所に引きこもり、

夜は月の光をながめあかすようになった。

曇天に愛のかたちを盗まれて  森中惠美子

清盛は、

「小督のことでふさぎこむのなら、こちらにも考えがある」

といって世話をする女房もさしむけず、

高倉を訪れる貴族たちにも、

にらみをきかせたので、宮中には、

暗い雰囲気がただよった。

もぐら叩きの頭を持って黄昏れる  森中惠美子

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      法輪寺

仲国がこの法輪寺のあたりまで来ると、琴の音が聞こえてきた。

こうして日が過ぎたが、8月10日あまりの夜更け、

天皇は宿直で宮中に詰めていた源仲国を呼んで、

「小督を探してほしい」 と頼んだ。

小督は嵯峨のあたりに隠れ住んでいると聞いた仲国は、

家の場所は分らなかったが、

このような月の美しい晩には、

きっと高倉のことを思って琴を弾いているだろうと、

馬に鞭をあてて嵯峨野へむかうと、

はたして嵐山のあたりで、かすかに琴の音が聞こえてきた。

偲ぶものばかりを抱いてこぼす萩  森中惠美子

『峰の嵐か松風か、たづぬる人の琴の音か、

 おぼつかなくは思へども、

 駒をはやめてゆくほどに、片折戸したる内に

 琴をぞひきすまされたる。

 ひかへて是を聞きければ、

 すこしもまがふべうもなき小督殿の爪音也』


≪これは「平家物語」のなかでも特に印象的な名文である≫

読切にすると女も美しい  森中惠美子

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      琴聴橋

右奥に見える橋は嵐山・渡月橋。

≪この辺りは、人力車の溜り場になっている≫

『風の音か琴の音かはっきりとは分らなかったけれども、

 馬を速めていくと片扉の家の中から、

 かすかに琴の音が聞こえてきた。

 耳を澄ましてみると小督のつま弾く琴の音に違いない。


 しかも、曲は夫を思って恋うと読む「想夫恋」という曲である』

じかに小督にあって話をした仲国は、

小督が出家しようとしていることを知る。

翌日に渡すことばを持つ女  森中惠美子

急いで内裏にとって返しこのことを報告すると、

天皇は、

「すぐに小督を連れ帰るよう」命じたのであった。

内裏に戻った小督は、

人目のつかないところに隠され、

夜な夜な天皇に召されるうちに、やがて皇女を産んだ。

これを知った清盛は激怒して、

小督を捕えて尼にして追放してしまう。

よろこびの日哀しみの日のたとう紙  森中惠美子

小督は23歳という若さで、

黒い墨染の法衣をまとう姿に変わり果てて、

嵯峨のあたりに住んだ。

こうした痛ましいことがあったために、

天皇は病気にかかり死んでしまったという。

≪平家物語・巻六「小督」。

 高倉天皇と小督局の悲恋を主題とした王朝物語風の章段である≫


ひとりではないよないよと仏の灯  森中惠美子

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文箱にぎっしり詰まる座右の銘  合田瑠美子

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安徳天皇を抱いて入水する二位尼

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 鵯越の坂落としの場面


「源平合戦」

「石橋山の戦い」といわれる合戦で頼朝は破れ、

いったん安房国に敗走するが、

治承4年(1180)10月20日の「富士川の戦い」で、

平氏追討軍を撃破。

その後、頼朝は鎌倉に戻り、

以後、源氏の棟梁である「鎌倉殿」として采配を振るう。

一方、信濃国の木曾谷では、木曾義仲が独自に挙兵、

「倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦い」では、

平氏勢に壊滅的なダメージを与えて、

平氏一門を京から追い出すきっかけをつくった。

物欲は歳の二乗に比例する  今井弘之

勇躍京入りした義仲だったが、

蜜月だった後白河法皇と次期天皇の継承をめぐって対立。

ついには、

朝敵として頼朝の命を受けた源範頼・義経勢に討ち取られた。

ポイントのLから飛び出した蛙  河村啓子

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 一の谷の戦い合戦図

源氏方の内輪揉めは、

平氏にとって、起死回生の絶好のチャンスだったが、

後白河法皇の絶大な信頼を得て勢いに乗る義経に、

「一の谷の戦い」で惨敗。

瀬戸内海をわたり四国へと逃れて捲土重来を期すも、

「屋島の戦い」でまたしても義経に敗れる。

西へ西へと敗走した平氏勢は、

やがて最終決戦「壇ノ浦の戦い」を迎える。

撤退が始まる人間らしくなる  岩根彰子

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   屋島の戦いの図

雌雄を決する戦いは、

寿永4年(1185)3月24日未明に始まった。

当初、源氏勢を防戦一方にさせた平氏勢だが、

潮流の変化もあって形勢は逆転。

最後を悟った平氏一門は、

次々に冷たい海の中に、自らの身を投じていった。

平安時代、そして無類の栄華を誇った平家の時代が、

終わりを告げた。

トンネルを抜けみまさかへさようなら  森中惠美子

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 「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」

「壇ノ浦の悲劇」

二位殿時子「浪ののしたにも都のさぶらふぞ」

先帝を抱いて飛び込む。

建礼門院も温石(暖房用の石)や硯を懐に

入れて沈むが、渡辺党の源五に引き上げられた。

船のはた板に弓で打ち付けられ、動けない女房もいた。

「内侍所」(御鏡)を開けようとする兵を制する平時忠も船に

残っていた。

首筋まで遠吠えだけで埋まる  酒井かがり

平教盛・経盛兄弟は、鎧の上に碇をくくりつけ、

資盛・有盛・行盛は手を組んで入水する。

宗盛・清宗父子は、

「四方見めぐらし、あきれたるさま」

部下に押されて落水するが、

「くッきょうの水練」のために沈まず、

伊勢義盛にともに引き上げられた。

飴色の顔で沈殿物となる  井上一筒

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那須与一扇の的の場面 (いろいろと信じがたい伝説)

「義経八艘飛びの真実」

箭種(やだね)を尽した能登守教経(のりつね)だけは違った。

大太刀と大長刀を両脇に抱え、判官義経を探し回る。

顔を知らないために、

「物の具のよき武者」 の船に乗り移る。

義経も、「おもてに立つ様にはしけれども」

ついに「判官の船にのりあたッて」しまう。

義経は「かなわじ」と長刀を脇に挟んで、

「みかたの船の二丈ばかりのいたりけるに、

  ゆらりととび乗り給ひぬ」


と逃げ出すのだ。

対岸に繋いだままの助け舟  清水すみれ

教経は

「はやわざやおとられたりけん、

 やがてつづいても飛び給はず」
と、冑を脱いで,

土佐の武士安芸太郎兄弟を道連れに入水する。

26歳の命であった。

世にいう「八艘飛び」の場面である。

しかし、一番大きく飛んだのは「一艘」であり、

およそ6メートルの距離にあるところだ。

小柄な彼の、世離れした行為に尾ひれがついて、

「八艘」も飛び越えていくようになったのは、

後世の拡大解釈である。

「判官びいき」の為せる業といえよう。

君が代を歌いつづける海の底  大森一甲

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読みふける伏せ字だらけの維摩経  井上一筒

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「入道逝去の事」 平家物語絵巻)

熱病に冒され、余りの熱さに体を冷すため水療法を試みる清盛

(クリックして画像を大きくご覧下さい)

正月27日  清盛病に臥せる。(25日頃からとも)

閏2月4日  九条河原口にある側近・平盛国邸で死去


この世にもあの世にもない色で咲く  上野楽生

「清盛の死」

2月27日、

藤原邦綱清盛の病が九条兼実のもとに伝えられた。

ゆっくりと療養する間もなく、

閏2月1日、

清盛が生きるのは、9割無理という状態になった。

結局、4日、清盛は九条河原口の平盛国邸で死去した。

発病から1週間、あまりにあっけない死であった。

一緒に生きた事実さえもがセピア色  山口美千代

『平家物語』では、「あっち死に」として高熱のために

「水風呂が沸騰したとか、頭に載せた雪が蒸発した」

といった極端な記述が紹介されている。

≪仏罰による死去をアピールしたかったためであろう≫

ただ実際に相当な高熱に苦しんだのは事実であり、

「それは東大寺・興福寺を焼いた報いだ」

と世間の人々は思っていた。

画鋲を抜くと熱をもっていた  畑山美幸

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「平清盛炎焼病之図」 国立国会図書館)

(画像を拡大してご覧下さい)



『入道滅す』

床の清盛の看病ですっかり疲労した妻の時子は、

今は出家して二位尼と呼ばれているのですが、

彼女が眠りに落ちるとまもなく、

夢の中で門を叩く音がした。


門を開けてみると、

真っ赤な猛火に包まれた車がありました。

車を引っ張っているのは、

ひとりは牛の頭を持ち、もうひとりは馬の頭を持つ。

つまり地獄の獄卒の中の牛頭(ごず)・馬頭(めず)が現れ、


車の前面には、

「無」と一文字だけかいた鉄板を立ててあるのです。


翔びたいんです鎖を外してくれますか  杉浦多津子

「その車はいずこより参ったものですか」

と二位尼が夢心で尋ねると

「閻魔の庁より、平家の太政大臣入道殿の御迎えに、

 参りましてございまする」


と答えます。

「それでその札は、いったい何ですか」

「須弥山南方の海深きところの国にある、

 金銅十六丈の廬遮那仏を焼き滅ぼされた罪により、

 無間地獄の底に落ちなさることが、


 閻魔大王の役所で定められましたが、

 無間地獄の印の無の字を書き入れて、

 まだ間の字を書いておらぬものでございます」


と申したところで、二位尼は目を覚ましました。

月の無い夜がわたしに忍び込む  たむらあきこ

みるとぐっしょりと寝汗をかいています

「誰かおりませぬか」 と屋敷内の人を呼び、

この話をしたところ、

みな身の毛もよだつほど恐れおののき、

霊験あらたかなる神社に、

金銀・七宝・馬・鞍・鎧・兜・弓矢・太刀・刀にいたるまで、


屋敷内のものをことごとく運び出しこれを奉納し、

清盛公の病気全快を祈念したのですが、

その験も見られず、

清盛の容体は悪くなる一方でした。


背中に冷気 ついて来るのは誰ですか  安土理恵

枕元には清盛公の皇子・娘の公達が常時数人詰めて、

清盛の様子を見守っていましたが、

嘆いても悲しんでも、

もはやどうすることもできなかったのです。


あとはもう気持ちがあるかだけのこと  岸和田喜世子

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沈んで行く清盛の大太刀

二日後の養和元年(1181)閏2月4日、

さらに熱病がひどくなり、

このまま何もせず黙って見ているよりは、

せめてもとのことに板張りの浴槽に水を注いで、


そこに臥してみたものの、

もはや少しも楽にならない様子。

もがき苦しんだ末に気絶し、

地に倒れてついに、”あつち死に”したのです。


死に神がもくろむ私の席次  宇野幹子

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      清盛塚

清盛、享年64でありました。

西八条の清盛邸には、

弔問の車の音が暗くなるまで響き渡り、

街路という街路から地響きが沸き起こり、

京の都を揺るがせました。

一天万乗の君、天皇が亡くなられたとしても、

「これほどのことはあるまい」

と思われるほどの弔問の規模でありました。

もうまったくと思うばかりで憎めない  中岡千代美

老死というべきではなかったのですが、

前世から定められた運命が、

たちまち尽きてしまわれたので、

仏教の大法秘法を尽くしても、

その効験もなく、神・仏の御威光も消え、

天の諸神もお守りくだされませんでした。

神仏さえもそうであったので、

ましてや人間の考えではどうすることもできません。

道徳が例え話で責めてくる  寺島洋子

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平相国廟

平家全盛期の時に平家一門から帰依を集めた。

清盛の800回大遠忌記念に平相国廟(能福寺)が造られた。


清盛の命が尽きるのなら、

「代りに我が命を召してください」、

と代って死のうというほどの忠義者数万の人々が、

堂下のみならず路上にまで、

命をかけてあふれていたのですが、

これら忠義の者の目にでさえ、

見えない力ではどうすることもできず、

「無常の死という殺鬼」を戦うことで追い返すことなどは、

できることではありません。

清盛は二度と戻れぬ三途の川を辿る、

冥途の死路の旅路を、

ただひとりで行かねばなりません。


魚にも鳥にもなれず靴を履く  山本早苗

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神さまは前触れもなく「来い!」と言う  新家完司

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「源平合戦図屏風」ー〔屋島合戦図〕

(画像をクリックすれば拡大されます。大きくご覧下さい)

「清盛の遺言」


清盛は、仁安2年(1167)、太政大臣となり、

武士としてはじめての平氏政権を樹立し、一時は、

「平氏にあらずんば人にあらず」

といわれるほどの全盛を誇った。

煙突を抜けると美しい敬語  山本早苗

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しかし、清盛後白河法皇の近臣たちとの間に摩擦が生じ、

「打倒平氏」の声があがり、

ついに以仁王の令旨が出される。

以仁王の挙兵はすぐ鎮圧されたが、

源頼朝・木曾義仲らの挙兵によって、

国内は「治承・寿永の内乱」といわれる争乱状態となる。

触角の端にこの世のならずもの  清水すみれ

そうした中、養和元年(1181)閏2月4日、

清盛は熱病で64歳の生涯を閉じる。

死に臨み、死後、堂塔を建てて供養するより、

「頼朝の首をはね、我が墓の前に懸けよ」

と遺言したことが『平家物語』巻第6にみえる。

蔓伸びる先はかなしい空である  中野六助

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「壮絶な清盛の最期の言葉」

死を目前にした閏2月4日朝、

清盛は、円実法眼を使者として、後白河に

「自分が死んだ後は万事を宗盛と相談して遂行してほしい」

と言った。

指きりの語尾の辺りの生返事  美馬りゅうこ 

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それに対する後白河院の返事は曖昧であった。

清盛は怒りをあらわにして、藤原行隆に、

「天下のことは宗盛が専断するのだ。

 異論があってはならない」


と言った。

それは、東国追討のことだけでなく、

中央のことについても、同様との考えであった。

首までにしとく情けに沈むのは  清水すみれ

『吾妻鏡』閏2月4日条は、清盛の遺言として、

「三ヶ日以後、葬儀あるべきである。

  遺骨は播磨国山田法花堂に納めて、

  七日ごとに形の如く仏事を修せ。


  毎日は修するな。

  また京都で追善をなすな。

  子孫はひたすら東国帰往の計らいを営め」


と言ったとする。

散骨にしてくれ閉所恐怖症  播本充子

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しかし、実の息子が伝えたところによれば、

清盛の遺言はもっとすさまじかった。

のち治承5年8月1日以前、

後白河宗盛に、頼朝から、

「源平相並んで仕えるべきだ」 という、

和平の申し出があったことを内々に伝えた。

コップをかじるほど水を欲している  福尾圭司

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すると宗盛は、清盛が死ぬ直前に、

「我が子孫は、一人生残る者であっても、

  骸を頼朝の前に曝せ」


と遺言したので、

「和議には応じられない」 と返答している。

確かに父の喪中にも関わらず、

平重衡は閏2月15日に東国の追悼に発向したが、

『明月記』によれば、

それは清盛の遺言によるものであった。

逢いにゆく光を少し研いでから  たむらあきこ

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わたくしのあばらへ蔓草がのびてくる  大西泰世

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      清盛像

「興福寺の焼き打ち」によって、

南都方面の反平家勢力が壊滅したことは確かだった。

南都の悪僧に呼応した河内源氏の石川義基も討ち取られ、

畿内周辺の戦況はいったん落ち着いた。

すべて拭った少し新しい朝になる  山口ろっぱ

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「最後のサイコロ」

治承5年(1181)1月14日、高倉上皇が崩御し、

東山の清閑寺に葬られた。

享年21歳。

天皇になりながら、何ごとも思うにまかせず、

父・後白河と義父・清盛の政争に、

翻弄され続けた生涯だった。

ある人の提案により、

清盛夫妻が中宮・徳子を後白河の後宮に

入れようとしたのはこのときである。

「いっそ出家したい」

という徳子の必死の訴えによって、

代わりに厳島内侍との間にできた娘が送られたが、

法皇はそれほど喜ばなかったという。

月並みの銀の涙の乱反射  岩根彰子

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色好みの法皇といえども、

みえみえの懐柔策にのるほど愚かではない。

平家の権力維持のために、

治天の君の掌握は必要であったが、

清盛はそのような旧態依然とした宮廷対策だけに

奔走していたわけではない。

以上の政策と並行して、武家政権にふさわしい、

大規模な「軍制改革」を進めていた。

あいまいを許さぬ針が錆びている  たむらあきこ

上皇の死の2日後、

惣官職というポストを新設して宗盛を任命した。

畿内(山城・大和・河内・和泉・摂津)と近江・伊賀・伊勢・

丹波の9ヵ国に対して、

武士の動員と兵糧米の徴収を行う

高度の軍事指揮権が与えられたといわれている。

まんべんにレーズンパンな秋にする  山本早苗

2月7日には、

有力家人・平盛俊を丹波国諸荘園総下司に任じた。

≪京に隣接する丹波を対象に兵糧米の徴収を行うものである≫

畿内を中心とする広域の軍事指揮権を、

平家が直接掌握することで、

全国規模の内乱に対処する体制を構築するのが、

狙いであった。

平家政権はより高度な軍事機能を備えた

武家政権へ脱皮を図りつつあったのである。

秋蝶の膝関節もリハビリ中  河村啓子

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京の防衛体制も急速に整えられていった。

1月下旬頃から、

九条の末に六波羅、西八条に続く、

新たな拠点づくりを開始したのだ。

この付近には九条兼実皇嘉門院(崇徳天皇の中宮)など、

上級貴族の邸宅もあったが、

所領の一部を強制的に没収して、

武者たちの宿舎にあてた。

お醤油をちょっと切らして借りに行く  津田照子

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2月17日には、安徳天皇を八条の頼盛邸に移した。

公卿たちは反対したが、

清盛が防衛上の必要性を主張して、強行したのである。

2月2日には、六波羅にいた後白河上皇も、

八条に近い最勝光院に移されている。

かみそりが鏡台にあるおそろしさ  森中惠美子

この時期、

清盛が九条周辺に拠点を構えようとしたのは、

南都や宇治に通じる交通の要衝をおさえる

戦略的な意味があった。

後年、木曾義仲の上洛に対して、

平家が京都を放棄したことからも分るとおり、

「京都は攻めるに易く、守るに難い」

平家の軍事施設と

天皇の御所が一体化した拠点を建設し、

新王朝の新都にすることが清盛の狙いだった。

打ちのめされてからが始まりである  森田律子

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しかし、真のねらいが明らかにされることはなかった。

安徳の八条行幸から一か月も経たないうちに、

突如清盛が熱病で、

帰らぬ人になってしまったからである。

宗盛は九条末の軍事拠点を放棄し、

ふたたび、六波羅を平家の拠点にした。

私は絶滅危惧種です多分  高橋謡々

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