ロンパリ!考える椅子
川柳的逍遥 人の世の一家言
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薩長同盟
その件は戦場を片付けてから 壺内半酔
上申書・叢裡鳴蟲
(そうりめいちゅう)
岩倉具視
が
和宮
降嫁に反対する公家と対立し、
岩倉村に蟄居
している間に書き上げた著作。
上申書には政の大綱は朝廷で起案し、諸藩を集めて評議させる、
ことなど卓越した提案がならんでいた。
「新島襄登場」
上州安中藩士の子として神田に生まれ、
しめた
1864年、鎖国の禁を破って米国船に乗り込んだ
新島七五三
は、
船長から
ジョー
と名付けられボストンに渡る。
地元資産家
ハーディ
夫妻の庇護の下、現地の大学や神学校に学び、
72年には岩倉 使説節団の通訳として渡欧。
そして74年。
米国の伝道組織アメリカン・ボードの総会で、
大学創設の夢を語った彼は、約5千どるの寄付を手に帰国。
翌75年、京都に借り受けた華族・
高松保実
邸で、
教師2名、生徒8名の
「同志社英学校」
を開校する。
ちなみにこの時力を貸したのが
八重
の兄・
山本覚馬
だった。
垢を落せば残った骨が光り出す 森 廣子
「薩長同盟」
「蛤御門の変」
の直後、長州はイギリスやフランスなど、
四国艦隊との戦争にも惨敗し、
いよいよ攘夷が困難であることを思い知る。
倒幕に根強く反対していた上層部も、
高杉晋作
らによる軍事クーデターに遭って淘汰され、
長州の藩論は、
「武力倒幕」
にまとまった。
四月からだんだん開く川の巾 笠原道子
こうして、長州の藩論が武力倒幕に固まるなか、
新たに倒幕へと傾き始めた勢力があった。
もとは公武合体派で、
長州と激しく対立していた薩摩藩である。
薩摩藩の
西郷隆盛
は、幕臣の
勝海舟
らから、
「幕府には時局をまとめる力がまったくない」
と聞かされたこともあって、
ひそかに倒幕を目指しはじめていたのである。
覇王になるはずの朝の目ん玉 山口ろっぱ
岩倉具視幽棲旧宅
ただし、薩摩藩のトップは、
「幕藩体制の遵守」
をかかげていた
島津久光
である。
たかちか
家臣にすべてを任せていた長州藩の藩主・
毛利敬親
と違い、
久光が倒幕行動を許すとは考えられない。
そこで
西郷
は盟友の
大久保利通
と協力して、
久光に相談せずに、武力倒幕の道を模索することになった。
君の仕業かと消しゴム付き鉛筆 酒井かがり
岩倉具視・岩倉村幽居の図-1
すると、倒幕という方針で共通する両藩を、
結びつけようという人物があらわれた。
土佐の脱藩浪士・
坂本竜馬
と
中岡慎太郎
である。
しかし、薩摩と長州は犬猿の仲。
とくに長州は、蛤御門の変で薩摩に手痛い敗北を喫しており、
強い恨みを抱いていたのだ。
そこで竜馬は、
まず両者が経済的に助けあえるように手を打つ。
この時期の長州は武器の不足に悩み、
薩摩は天災による米不足に頭を悩ませていた。
地平線つなぐ長芋and数珠 井上一筒
そこで竜馬は、薩摩藩が武器弾薬を買い付けて長州に渡し、
長州はその見返りに、米を渡すことを提案したのだ。
竜馬のこの狙いは的中し、長州と薩摩は経済同盟という形で、
まず手を結んだのである。
そして、慶応2年
(1866)
1月22日、両者は軍事同盟を結んだ。
「薩長同盟」
である。
結べとは言ったが括れとは言わん 兵頭全郎
岩倉具視・岩倉村幽居の図-2
岩倉具視、西郷隆盛
・薩摩藩、長州藩による
クーデターは成功した。
クーデター軍に守られながら、
最初の
小御所会議
が開かれた。
そこには
徳川慶喜
は出席していない。
「新政府に慶喜の姿がないのはおかしい」
と主張する
山内容堂
らの意見もあったが、
クーデター軍に銃口を突きつけられているような状況では、
慶喜サイドの大名も多くをいえず、
結局、ここに慶喜の官職辞任と、
領地変換が迫られることになったのである。
試着室に入って会議出てこない 井上しのぶ
[3回]
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y2013/04/13 09:09 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
政変のその後
表にはエホバ裏には桃太郎 田中博造
幕末の浮世絵
「政変のその後」
元治元年(
1864)
、長州藩は池田屋において、
謀反の密儀をしていた同藩士らが、
京都守護職預かりの、新選組によって、
殺傷、捕縛されるという事件がおきた。
また蛤御門における会津・薩摩連合軍との攻防で、
長州藩は朝敵となる。 この一連の事件で、
会津藩・薩摩藩・新選組に対して抱く、
彼等の憎悪は一気に高まった。
泣き言をたっぷり詰めた虫歯です 早泉早人
その後、幕府軍は長州征伐に出陣するが、
期待ほどの成果は上がらず、一方で、
苦境にあった長州藩と、
しだいに倒幕に傾きつつあった薩摩藩は、
その距離を縮めていった。
こうして手を結んだ薩長は、
一気に倒幕への動きを加速していく。
ここから、会津藩をめぐる運命の歯車が少しづつ狂っていく。
教えます日暮れのお客の叩き方 酒井かがり
孝明天皇
崩御の五ヶ月前、慶応2年
(1866)
12月、
将軍・
家茂
は行き詰った長州征伐の心労がもとで病没し、
将軍となっていた
慶喜
は、
倒幕をめざす薩長の気勢を削ぐには、
土佐藩が建議した
「大政奉還」
しかないと判断した。
そして慶応3年
(1867)
10月、朝廷への政権返上を決定した。
ゆく末に安全ピンを敷き詰める 富山 悠
岩倉具視
意表を突かれ一時は慌てた討幕派だったが、
岩倉具視
は
薩摩
の
大久保利通、西郷隆盛
らと図り、
先に
容保
らが長州を追放した八・一八クーデターを真似て、
御所の外門を封鎖して
「王政復古」
の大号令を発した。
≪こうして12月9日、王政復古の大号令が出されると、
薩長を中心として発足した新政府から前将軍
慶喜
は除かれた≫
こんにゃくにボディブローをくらわせる 笠嶋恵美子
岩倉は、将軍職の廃止、京都守護職の停止、
旧幕府の領地返上などを強引に決定した。
母が有栖川宮出身であった慶喜は、
尊皇の想いが強く、天皇の都を血で汚したくないと、
戦いを嫌って大坂城に移る。
だが、薩長の横暴に憤る主戦論に抗しきれず出撃を命じた。
会津、桑名を主軸とした1万5千が京都をめざし、
慶応4年
(1868)
1月3日、
鳥羽伏見
で薩長軍と衝突した。
陽炎が人の形になるよすが 蟹口和枝
[3回]
y2013/04/10 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
覚馬の視力
鑑あるから目を合わす舌を出す 田中博造
「覚馬の視力」
慶応元年
(1865)
、国元会津から京都の
覚馬
にあてて、
吉報が届く。
妹の
八重
が盟友・
川崎尚之助
と祝言を挙げたのである。
時に八重21歳、尚之助30歳。
「慶応年間会津藩士人名録」
によると、
尚之助は藩校・日新館の砲術師範として、
洋式砲術を教授する身になったという。
幸せになる条件が揃いだす 福尾圭司
覚馬自身も、禁門の変の功績によって、
公用方に抜擢されており、38歳を迎えたこの年は、
本来であれば、前途洋々たる気に満たされるはずだった。
だがこの時、
覚馬はその生涯を左右する病魔に襲われていた。
暗闇の中で読書をし過ぎたためとも、
鉄砲の硝煙が目に浴びたともいわれ、
視力が急速に衰えていたのである。
海見える窓の真ん前ビルが建つ 新家完司
蛤御門での苦戦を反省した会津は、
藩兵に洋式銃を訓練させるため
丸太町東詰の畑を買い上げて練兵場にし、
覚馬に指導させた。
だが目の治療成果は上がらず、教えるのは不可能となる。
また洋学所通いも、一人歩きもできないほどになり、
京都の清浄華院での療養を余儀なくされる。
視力を失った砲術家に、一体、何ができるというのか・・・。
視力を失うのはただでも恐ろしい。
しかも、砲術の専門家である覚馬の心境はいかばかりか。
その懊悩は常人に推し量れるものではない。
何よりもあ行からリアリズム 柴田園江
そして慶応2年
(1866)
12月、
容保
にも不幸が訪れる。
孝明天皇
の崩御である。
容保は突然の不孝に呆然となった。
これには薩長と手を組む
岩倉具視
による毒殺が噂されていた。
彼らにとって、幕府寄りの天皇は邪魔な存在であった。
(※ 現在、毒殺は噂ではなく真実との見方もなされる)
気が付くと毒殺されていたわたし 井上一筒
天皇崩御の五ヶ月前、将軍
家茂
も行き詰った長州征伐の
心労がもとで病没し、
慶喜
が将軍となっていた。
慶喜は倒幕をめざす薩長の気勢を削ぐには、
土佐藩が建議した
大政奉還
しかないと判断した。
意表を突かれ一時は慌てた討幕派だったが、
岩倉は薩摩の
大久保利通、西郷隆盛
らと図り、
先に容保らが長州を追放した八・一八クーデターを真似て、
御所の外門を封鎖して、王政復古の大号令を発した。
もの言わぬ闇をこまかく切り刻む 嶋澤喜八郎
[2回]
y2013/04/06 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
尚之助の消息
つきつめてゆくと愛かなてんと虫 時実新子
大河ドラマ「八重の桜」の怪しいところ。
八重の実家である山本家が広すぎるんです、
下級武士の家庭だから、こんな立派な屋敷には住めません。
また射撃練習場が小さな家にあるわけがなく、
射撃の練習はもっぱら、
鶴松城の三の丸にあった操連場を利用していたと思われます。
(余計なお世話)
難しいことは言わない山桜 中野六助
「川崎尚之助の消息を尋ねる」
近年になって、
八重
が
川崎尚之助
の妻となったことが、
確認できる資料が発見されたため、
二人が夫婦だったことは間違いないとされる。
しかし、二人の夫婦生活がどのようなものであったか、
が分るエピソードは残っていないし、
八重自身も尚之助のことについては、
口を閉ざして語りたがらなかった。
夕日の海に色を塗ったのは誰だ 内山雅子
一方、二番目の夫・
新島襄
については、
回顧録で思い出の数々を語っており、
まだ封建的な道徳観念が色濃く残っていたことを、
差し引いても、あまりにも対照的な扱いといえる。
それでも八重にとって尚之助との夫婦生活が、
忘れたい過去だったかといえば、
決してそんなことはないはずだ。
特に兄・覚馬が京都に発ってからは、
洋学に明るい尚之助が、
兄に代わる八重の心の拠り所となったことは確かだろう。
あらましは流れ星から聞きました 桑名知華子
尚之助は
会津戦争
の敗戦と時を同じくして、
八重と別れたとされるが、
それまでは会津藩士ではないので、
開城の際に会津を去ったというのが定説であったが、
近年になって、
尚之助は会津藩士だったことがわかっているので
疑問の余地がある。
他藩出身の尚之助に責めが及ばないように、
八重の方から別れたという説もあるが定かではない。
(ドラマではここのところを強調しているが)
会津藩が斗南に移封になると、
尚之助も斗南藩士として同行している。
その後、廃藩置県を経て斗南藩も消滅、
尚之助は裁判に巻き込まれて東京に身柄を送られ、
判決を待たずに獄中でひっそり死んだ。
真実は多数決に棄てられた 岡田幸子
にょこうば
明治5年4月14日、京都府の
「新英学校及女紅場」
の
開校へ、
「出頭女」
として八重が奉職したのは、
同年4月25日、川崎八重の名での奉職の可能性がある。
4年8月米沢城下、内藤方寄留時は、
「川崎尚之助妻」
と記されており、
その後の7ヶ月程の間に、
尚之助と離縁したとする記録はない。
消しゴムは買えるわたしを消すために 田中博造
八重が京都府の辞令で山本姓となるのは、
8年2月8日付けの
「山本屋ゑ女紅場権舎長兼機織教導試補申付候事 京都府」
とあるのが初見である。
いわゆる、明治4年~8年のどの時点かで、
八重は川崎から山本姓に戻ったのである。
可能性として、尚之助が
槇村正直
救出のための上京時に、
八重と再会していたかもしれない明治6年か。
尚之助が対ら
プラキストン裁判
のため、
また東京から函館に向かったとされる明治7年か。
漂うていましたアリバイなき時間 きりのきりこ
明治7年5月時点での尚之助の動向を伝える資料が
青森県立図書館にあり、
京都へ行ったとする内容である
これらを考え合わせると、
尚之助は開拓使には函館にと届出、
密かに上洛して八重や覚馬に会い、将来について話し合い、
旧姓に戻ったのは、この7年の時点とする可能性がある。
やっと見つけた出口扉にノブがない 森田律子
ところで、八重の母親・
さく
にとって尚之助はどのような
存在であったのだろう。
さくの同志社女学校寄宿舎の舎監時代
(明治11年~16年)
八重と新島との結婚後であるが、
八重や前夫・尚之助の会津籠城戦での、
勇ましい戦いぶりを、
女子生徒に幾度となく話して聞かせている。
(高畑菊「回想録」より)
さくには、八重の襄との再婚は隠す必要もなく、
「尚之助は語るに誇るべき存在であった」
といえるし、
これは八重を含む山本家の尚之助に対する気持ちを、
如実に表している。
(『創設期の同志社』より)
てのひらを重ねて違う虹を見る 前田一石
「八重の女紅場時代」
女紅場とは、女子に読書き算盤・裁縫・料理を教えた施設。
女紅場時代について八重
(78歳)
の懐旧談の引用に、
かねおはぐろ
「生徒の服装は鉄漿
をぬり、
懐剣をさし、実にその美麗な事は
今日では想像もつかない様であると思ひました」
とある。
(福沢諭吉『京都学校の記』)
髪梳けば富田林の痩せギツネ 井上一筒
なお、明治8年7月に女紅場に入学した
岡田しげ子
は、
旧会津藩の老女だった芦沢鳴尾が舎長として居り、
人格者で子猫を可愛がっていた様子を懐旧し、さらに、
「新島八重子女史、山本うら子刀自、梅田千代子刀自、
同ぬい子女史
(梅田雲浜先生未亡人と令嬢)
は、
機織や養蚕の先生でありました・・・」
と述べている。
(『鴨沂会雑誌』第50号)
霜柱まことに遺憾に存じます 酒井かがり
当時の女紅場の女生徒には、明治維新になって、
我が世を迎えた公郷
(250石位)
の子女が多く、
会津戊辰戦争に敗れ、
惨たる戦場と辛苦の生活を味わってきた八重にとって、
女生徒の容姿が如何に強烈な印象を与え、
一生忘れ得ぬものであった事が判る。
これが当時、京風に同化できぬ八重の其後の、
和洋ない交ぜた美装の一要因になった。
バラの花銜えりゃカルメンになれる 下谷憲子
「為念」
奥田は女紅場教員に八重と並んで、
「山本うら子刀自」
が居たと述べている。
が、これは
山本覚馬
の妻・
うら
ではあり得ず、
八重の姉で窪田家に嫁した女性で
「山本八重の姉」
ということで
「山本うら子」
とされたものと思われる。
8年4月~18年8月29日迄、
「授業補」として「窪田うら」が女紅場に在籍している。
なお、女紅場には後に跡見学園を創設した
跡見花蹊
が
絵画を教えていたと説をなす人もいるが、
跡見玉泉
と娘の
玉枝
であって花蹊でない。
生きのびて軽い名前を持ち歩く 森中惠美子
[5回]
y2013/04/03 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
長州の運命
横っ腹に草間弥生の玉受ける 三村一子
幕末の京都地図
「長州のやってきたこと」
日本の歴史をまったく知らない人でも、
長州藩が当時置かれていた状況を把握すれば、
戦争回避、そして外国との講和以外に道はない、
とわかる。
長州は既に米、仏と個別に戦って惨敗しているし、
それ以後、武器の改良がなされたわけでもない。
しかも今度の敵は、
米仏に英蘭が加わった
連合軍
なのである。
爆発のための言い訳考える 清水すみれ
長州藩は皮肉なことだが、トップである藩主は、
「敵であるはずの欧米」
を嫌ってはいなかった。
にもかかわらず、開戦した。
元治元年
(1864)
7月26日連合艦隊は横浜を出航し、
8月2日から3日にかけて、姫島沖に集結した。
ここで陣形を整えると、4日の午前9時には、
全艦関門海峡へ向かった。
この日には攻撃は行われなかった。
絶壁の端ならいつも空いている 森田律子
下関(馬関)戦争図
午後までに各艦は、関門海峡に設けられた、
長州側の砲台から充分な距離をとって、投錨した。
つまり、長州側の旧式大砲の射程距離の外に、
身を置いたのだ。
逆に攻める側の戦艦の大砲は、充分に陸まで届くのである。
午後3時、旗艦ユーリアラスのマストに戦闘旗が掲げられた。
各艦は一斉に地上の長州側砲台に向けて砲撃を浴びせた。
連なる一本の道にて真昼の花火 山口ろっぱ
連合軍の砲弾
≪長州藩の前田砲台跡で行われた発掘調査で見つかった砲弾。
4カ国連合軍の艦船から撃ち込まれたものと考えられる≫
一方、長州側砲台も応戦するものの、
弾丸は敵艦の前で、ポチャンと落ちるだけで、
何の打撃も与えられない。
結局、アメリカ、フランスの単独攻撃の時と同じことになった。
長州は負けた。
負けるべくして負けた。
しかし、勝てないと解りつつ戦争に挑んでくる日本人の、
闘志や根性に、
「日本人恐るべし」
の印象を刻んだことは、
日本が外国の植民地化にされずに済んだという、
ある意味立派な勝利となるものであった。
分った振りするしかない地動説 三宅保州
「ではなぜそんなバカなことが起こるのか」
それは第一に、そもそも実行不可能な攘夷、
それも
完全攘夷
を、
藩を団結させるためのイデオロギーとして、
採用してしまったからである。
そして第二に、その完全攘夷を至高の存在である
「天皇が求めている」
という形で権威付けされたからだ。
これが
「尊王攘夷」
ということ。
そもそも尊皇と攘夷は別次元の話で、
尊皇とは、天皇に忠義を尽くすことであり、
攘夷は、外国勢力を国から排除することだ。
直接の関連性はない。
それを
孝明天皇
が望んでおられるという形で、
絶対に逆らえないスローガンに変えたのが、
この時代であった。
≪こう読むと長州は、何らかの行き違いがあり孝明天皇に嫌われたが、
朝廷の敵でないことがわかる≫
夕凪の裏に罵詈雑言の立つ 酒井かがり
徳川慶喜・勝海舟・松平春獄
「長州生き残る」
下関戦争から3ヶ月後の元治元年
(1864)
10月、
大坂城評議の間で、征長軍総督の
徳川慶勝
(尾張藩)、
副総督の
松平茂昭
(越前藩)、大目付、軍目付、
諸藩の代表者ら、
勝海舟
も
西郷隆盛
も列席して、
軍議が開かれていた。
諸藩に長州総攻撃の作戦が指示され、
征長軍十数万の兵を進軍させて、
「いつ攻撃するか」
を話し合うだけだった。
躓いたところへ飾る余命表 桜風子
ところが席上、西郷が
「長州に恭順を促す」
「首謀者の三家老の切腹で事を治める」
と提案すると、一同はざわめき猛反発が始まる。
慶勝
は声を荒げて西郷に噛みつき、
茂昭
も、
計画通り領地割譲のために、長州を打つと引かなかった。
西郷は、十数万の大兵力を進軍し、
包囲して公議の威光を示せば、
下関戦争
で諸外国連合に惨敗している長州は、
必ず従うと自信があった。
梅雨前線通過中です揉めてます 美馬りゅうこ
西郷の
「和平交渉案」
は征長軍の方針を一変させ、
その結果、長州は三人の家老の首を差し出して、
幕府に恭順の意を示し、一戦も交えることなく、
征長軍は兵を解いた。
守護神は電子レンジと申します 井上一筒
禁門の変が7月19日、そこから3ヶ月のあいだに、
長州とは正反対の位置にいた西郷に何があったのか。
9月11日の夜のこと、
長崎から神戸に戻っていた
勝海舟
は所用あって、
大坂へ出張していた。
それを知った西郷は手紙を出して、面会を求めた。
なぜ西郷は面識のない勝を訪ねようと思ったのか。
それは西郷が神のように崇拝した亡君・
島津斉彬
であった。
持国天グイッと突き出す股関節 岩根彰子
こうして勝と西郷は大坂の専称寺で、密談の席を持った。
そこでどんな話し合いがなされたか。
密談だから、知りようもないが、多分、そこで勝は、
「今は欧米列強が日本を植民地化しようと狙っている、
時代ではないか、日本人は一致団結すべきであって、
身内で争って場合ではない。
薩摩も長州にいろいろ言いたいこともあろうが、
ここは心を広く持って寛大な処分で許してやるべきだ」
とでも言ったのであろう。
こうして一つの出会いが歴史の歯車を大きく動かすのである。
バイブルに般若心経書いてある 坂田こういち
対面の後、西郷は
大久保利通
宛に有名な書簡をおくっている。
「勝氏へ初めて面会仕候処、実に驚入候人物にて、
つもり ささしこし
最初は打叩く賦にて差越候処、頓と頭を下げ申候。
どれ丈けか智略のあるやらしれぬ塩梅に見受申候。
先英雄肌合の人にて佐久間
(象山)
より
事の出来候儀は一層も越候半、
学問と見識においては佐久間抜群の事に御座候へ共、
現時に臨候では、此勝先生とひどくほれ候』
"勝氏に初めて会いましたが、実に驚くべき人物です。
最初はへこませるつもりだったのですが、すぐに頭を下げました。
どれほど智略があるやらわからないほどで、
まず英雄の肌合を持った人物でしょう。
佐久間象山より実行力があり、学問と見識でも、
いまや勝先生の方がまさっているかもしれません。
いやはやひどく惚れこみました"
もちろん勝も、
西郷をべた誉めしていることは衆知の通りである。
一年に一度はベッドから落ちる 新家完司
[3回]
y2013/03/30 09:30 z
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