ロンパリ!考える椅子
川柳的逍遥 人の世の一家言
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建春門院滋子の死
げんまんをしては懺悔をする小指 上嶋幸雀
平家物語絵巻
(大輪田埋立工事)
「滋子の死の大きさ」
高倉
の即位のため提携し、即位後は協調して、
政治を進めてきた後白河と清盛であったが、
諸権限をめぐって次第に対立を深めていた。
しかし、建春門院滋子が間に立って、
政治的に仲介する役割をはたしていたため、
なんとか協調関係は維持されていた。
生きているそれが一つの宝箱 河村啓子
三嶋神社(京都東山)
建春門院が三嶋神に祈願したところ高倉天皇を授かったことから、
後白河院の命で平重盛が社殿を造営したと伝わる。
そんな中、安元2年
(1176)
6月初旬から、
建春門院
の体調不安が伝えられている。
早速、6月9日には天台座主の
明雲
が、
建春門院の回復のため、
七仏薬師法
を修している。
さらに翌日には、蓮華王院において
千手法
、
16日には、
五壇法
を修している。
≪しかし、18日には院号,年官年爵
(ねんかんねんしゃく)
を辞し、
諸社に仏教を供養、非常赦
(ひじょうしゃ)
を受けていることから、
建春門院の病は、重くなる一方だったことがわかる≫
そして7月8日、種々の祈祷もむなしく
建春門院
は、
法住寺殿
において没し、その翌々日には、
蓮華王院の東の
法華三昧堂
に葬られた。
死んだように眠り 眠ったように死ぬ 新家完司
東大寺四月堂(三昧堂)
三月堂の西側にあり、毎年4月、法華三昧が行われるため、
三昧堂の名がある。
建春門院の死により、
高倉天皇
の地位は不安定なものとなった。
清盛
は、娘の
徳子
を高倉天皇の入内させていたが、
いまだ皇子の誕生はなく、
後白河院
は成人に達しようとする高倉天皇の皇太子に、
自身の幼い皇子をたて、
再び院政の強化を図ろうとしていた。
鳩尾に赤いゴーヤの種を蒔く くんじろう
さらに清盛と後白河院の関係の悪化は、
嫡男・
重盛
との間にも、溝をつくることになる。
重盛は院近臣である
藤原成親
との関係などから、
平氏一門の中でも、後白河院に近い立場にあり、
院近臣の立場を維持しようとしていた。
グウの音の出どころさぐってはみるが 中村幸彦
そのため、後白河院と清盛が提携関係にあった頃は、
矛盾も少ないが、
両者の間の対立が激しくなると、
重盛の平家一門としての立場と、
院近臣としての立場は、
大きな矛盾を生むことになった。
方角は悪いし味方は少ないし 片岡加代
もとより、藤原成親ら院近臣たちは、
平家一門が権勢をバックに高位高官を占めることに対して、
不満や妬み、憎しみを持っていた。
清盛と後白河の仲をとりもつ人・滋子がいなくなり、
嫌がうえにも、
反平家の機運は、高まっていくのである。
≪こうして反平家の機運が高まる中、
「鹿ヶ谷事件」の前哨戦というべき比叡山の強訴が起こったのは、
それから間もなくのことである≫
ほん横を象がキリンがハイエナが 酒井かがり
『梁塵秘抄口伝集』
梁塵秘抄とは、歌のジャンルや歌い方、
各種伝承や自らの今様歴を記した
平安時代末期、後白河法皇が編んだ
「今様歌集」
である。
今様とは
「今風の」
のことを言い、
平安中期から後期に大流行した流行歌集である。
≪今で言えば歌謡曲集≫
どこからどこまでわたくしでしょうか 吉川 幸
今様は和讃、催馬楽
(さいばら)
といった、
歌謡形式に影響を受け、七五調四句でうたわれた。
これを広めていったのが、
白拍子、遊女、傀儡女
(くぐつめ)
たちである。
そもそも
「梁塵秘抄」
の今様は庶民のものであった。
それが宮廷でも愛された。
≪しかし残念ながら今様の流行は、
武家政権の誕生、時代の移り変わりに呑まれて、
鎌倉時代をもって廃れる≫
聞き耳はガラス障子に阻まれる 山口ろっぱ
「今様歌」
〔熊野へ参るには〕
紀路と伊勢路のどれ近し どれ遠し
広大慈悲の道なれば
紀路も伊勢路も遠からず
〔熊野へ参らむと思へども〕
徒歩
(かち)
より参れば道遠し すぐれて山峻し
(きびし)
馬にて参れば苦行ならず
空より参らむ 羽賜べ
(はねたべ)
若王子
〔熊野の権現は〕
名草の浜にこそ降りたまへ
若の浦にし ましませば
年はゆけども若王子
〔花の都を振り捨てて〕
くれくれ参るはおぼろけか
且つは権現
(ごんげん)
御覧ぜよ
青蓮の眼
(まなこ)
をあざやかに
涅槃会に出かける森の仲間たち 本多洋子
熊野に詣でにかかる費用は莫大だったという。
経費労力は沿道を行きながら、
行きずりの民衆から強制的に集めた。
つまり強奪にひとしき行いである。
沿道の民には、購買宿泊でお金も落ちてくるが、
それ以上に、貴種たちの搾取には苦しめられた。
その苦しみが、唄のなかにも詠まれている。
隠れ家に柾目の下駄が鎮座する 山本昌乃
『枕草子』や『紫式部日記』
に始めて登場する
「今様歌」
は、
文字通り
当世風の歌
という意味だが、
当初、若い貴族たちによって牽引されたブームであった。
が、
後朱雀天皇
(1036-1045)の頃には、
宮中をあげての流行を見せはじめ、
白河院、鳥羽院の院政期には、
その隆盛を極めたとされている。
ごった煮の中から鶴が顔を出す 寺島洋子
遊びをせんとや生まれけむ
戯
(たはぶ)
れせんとや生まれけむ
遊ぶ子どもの声きけば
わが身さへこそゆるがるれ
母親の影響から、今様にどっぷり浸かった
後白河法皇
は、
往年の天皇たちが和歌に傾けたような情熱を、
今様に対して持ち続け、
ついには傀儡の
乙前
に弟子入りして、
今様の正統な後継者たらんとした。
これは趣味として今様を嗜むというレベルではなく、
いわゆる今様道を極めようと決意した、
求道者の如きものであった。
鳥居の下を掘り 鳥居が倒れた 井上一筒
[3回]
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y2012/10/14 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
宋との貿易ー②
いけません賽銭箱は入れるもの 筒井祥文
宋との貿易
(すべての画像は拡大してご覧ください。観光効果が味わえます)
「清盛の経済革命」
「金が要る」
清盛
はそれを
「日宋貿易」
に求めた。
父・
忠盛
が西海の海賊を鎮定して得た貿易権を、
継承したのだが、清盛はさらに本格的にしようとした。
海に向かって開かれた玄関口のような
「厳島神社」
から、
「音戸の瀬戸」
を通り、瀬戸内海の奥座敷ともいうべき、
茅渟
(ちぬ)
の海へと、
「宋船」
を導き入れたことがそれである。
攻めるより手をつなぐこと考える 合田瑠美子
大小の和船が先導し、かつ護衛してゆく先には、
摂津国矢部荘福原の港がある。
宋船はそこへ入港した。
港は、
「大輪田泊」
という。
清盛が惜しみなく私財を投じ、
阿波国の豪族・
田口成良
に修築させたものである。
清盛が土木工事に抜きん出た才能を持っていたのは、
この修築からも実感できる。
物忘れしてきたような臍の穴 河村啓子
大輪田泊記念碑
この港は地理も水深も、充分なものがありながら、
風浪の激しいことが難点だった。
そこで中納言の頃の清盛は発案した。
「島を造って、風浪を弱めれば良いではないか」
海を埋め立てて島を造る。
だが、それにあたって公家たちが
「人柱を立てるべきだ」
と言い出した。
清盛はこれを一蹴し、
「一切経の経文を書いた石」
を沈めて基礎とした。
そのため、島は
「経が島」
と名付けられた。
白菜の真ん中にある決意 新川弘子
なぜ、これほどの大工事をして宋船を摂津まで、
導き入れる必要があったのか。
当時、日宋貿易の拠点となっていたのは、
九州の博多だった。
博多には宋の商人が屋敷を構え、
貿易を独占する勢いで商いを展開していた。
清盛はそんな状況に苛立った。
博多を通り越して、福原まで宋船を招き寄せれば、
膨大な利を得られよう。
そう信じ、私財を傾けて、
「大輪田泊」
の大修築に踏み切ったのである。
迷いだしたら金平糖エイヤ 蟹口和枝
宋 銭 宋の椀
かくして、宋船はこの完成間近な経が島を回り込んで、
投錨し、摂津の地に荷を揚げた。
荷は様々にあったが、代表はやはり
「宋銭」
であろう。
この宋国の貨幣は、
これまで僅かながら流通していた国産の貨幣を圧倒した。
当時、お多福風邪が諸国に蔓延しており、
たまさか宋銭が溢れ返り出した時期と重なったために、
「銭の病」
などと呼ばれたりもした。
痛い目に合わねば醒めぬ欲の夢 伊達郁夫
それくらい宋銭は猛威を振るったが、
貨幣経済を驚くほど進歩発展させもした。
言い換えれば、
清盛は日宋貿易によって、
「経済革命」
を引き起こしたのである。
革命は、清盛をして朝廷を凌ぐほどの富者にまで押し上げた。
だが、限られた国内において、ある勢力が伸し上がれば、
それとは別な勢力は凋落する。
前者は、
「平家」
、後者は、
「朝廷と寺社」
だった。
閂をはずせば街は水びたし 嶋澤喜八郎
清盛が肥大すればするほど、
そのせいで貧相になる者が出る。
当然、膨張してゆく側は、没落してゆく側から、
妬かれ、疎まれ、憎まれる。
このとき、清盛ごときに媚び諂うものか。
鬱勃
(うつぼつ)
と敵愾心を滾らせたのが、
後白河上皇
であった。
小石蹴る負けを認める認めない 西崎久美子
後白河は天皇在位の頃より、清盛と蜜月関係にあった。
互いに利用し、利用されることを好しとして、
邪魔な存在を次々に攻め滅ぼし、
遂には、この国の頂点に君臨した。
しかし、清盛が千僧供養を催した頃から、
蜜月に皹が入り始めた。
千僧供養は千人の僧を招いて読経をさせることで、
以後、清盛は春と秋の彼岸には必ず催した。
正面の顔がやっぱり阿修羅像 小林満寿夫
後白河も出家して法皇となってからは、
千僧の一人となって参加している。
否、参加させられた。
また福原を訪れた宋の使者との引見まで求められた。
これについて公家の九条兼実は、
「天魔の所為なり」と日記に綴っている。
凱旋門通り抜けたら只の人 井丸昌紀
天皇や法皇が外国人に覲えることなど、
「未曾有のことだ」
と騒ぎ、公卿たちは陰口を叩いた。
だが、清盛は他人が己をどのように思おうが、
そんなことはどうでもよかった。
清盛には、為さなくてはならないことがある。
平たく言ってしまえば、国を富ませることだった。
貿易を臍としたより一層の経済発展を成し遂げねばならない。
それによって平家一門もますます繁栄する。
運命線に風のみた銭ばかりある 森中惠美子
(秋月達郎・「歴史街道」)-Ⅱ
[3回]
y2012/10/11 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
遮那王
太刀風に木の葉を散らす御曹司 古川柳
義経
は、牛若丸時代
(
遮那王
)
、
清盛の命令で、
「僧侶になるよう」
、
京都の鞍馬寺に預けられたものの、
仏道の修行はそっちのけで、
木の葉天狗を相手に、剣術の稽古に熱中した。
そして、洛中に出ては腕試しをしていた。
鞍馬から夜な夜な通う五条橋 古川柳
その時の牛若は、
鳥の尾がピンと立ったような髪形
(跳ね元結)
で、
足下は高歯の下駄という出で立ちである。
牛若はどこへ行くのも足駄がけ 古川柳
また、少年とはいえ、腰には長刀二本しめていた。
いつもの橋の上で、たまたま肩を触れ合った相手に、
「無調法者!」
と言って、
振り向くと鋸、斧、槌など七つ道具で、
完璧に身を固めた武蔵坊弁慶であった。
武蔵坊とかく支度に手間取られ 古川柳
弁慶は比叡山延暦寺の僧兵崩れで、
比叡山と三井寺が争ったとき、
三井寺の梵鐘を取り降ろして、
比叡山まで担ぎ上げたという、
前代未聞の大怪力の持ち主である。
弁慶が悪さで刻が知れぬ也 古川柳
牛若はそんなすごい相手とも知らず、
決闘を始めたのである。
七つ道具を取っ替え引っ替え使用し、
猛然と攻めてくる弁慶。
一方、牛若は橋の欄干を、
前後左右、東西南北、上中下と、
身をかわして弁慶を翻弄する。
これにはさすがの弁慶も疲れ果て、
足腰が立たず降参し、
その場で牛若の家来になった。
その明日橋の欄干傷だらけ 古川柳
またこのころ、強盗専門の熊坂長範を退治たという話もある。
熊坂の一派は訓練された組織で、
美濃の青墓では、
金銀を満載した荷車を狙っていることを知った牛若は、
彼らを待ち伏せ根こそぎ退治した。
熊坂もついに(普段)覚えぬ胸騒ぎ 古川柳
まもなく牛若は、
「黄金花咲く奥州へ行こう」
と、
黄金商人の
吉次信高
に誘われ、
鞍馬を飛び出し、奥州平泉の
藤原秀衡
の元へ向かう。
出発一日目に鏡の宿に着き、
自ら前髪を落として
「源九郎義経」
と名乗った。
牛若は腹っぷくれと連れになり 古川柳
平泉では奥州の王者・藤原秀衡の客人として、
多感な青春時代を過ごし、
兄の
頼朝
が、
平氏を打つために兵を立ち上げたことを知ると、
弁慶・忠信兄弟
など引き連れて、
300騎余りの兵と共に頼朝のもとへ向かった。
鵯(ひよどり)の道をば鷲がよく教え 古川柳
こうして「鵯越え伝説」へとなっていくのである。
鞍馬山探訪へ
義経跳び移る油から油 井上一筒
[4回]
y2012/10/07 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
宋との貿易ー①
たてよこななめ桃源の風通し 山本早苗
『餓鬼草子』
(東京国立博物館)
平安末に描かれたという「餓鬼草子」から、
崩れた塀や壁などの様子にも、
末法時代の京の町のありさまを窺いしれる。
「厳島神社の美」
平安時代末期は仏教でいう、
仏の教えが行われない
「末法」
の世とされ、
世の中は乱れる一方と考えられていた。
そんな人々が先行きに希望の持てない時代にあって、
清盛は、確かな希望を見据えていた。
その視線の先にあったのは、
「海」
。
盛り上げてと言われ未来の話など 夏井せいじ
宋船が持ち込んだ陶磁器など
嘉応元年
(1169)
の頃、
瀬戸内の波は、どのような色をしていたのだろう。
恐らく透き通るような、
瑠璃色に煌めいていたことだろうが、
その光り輝く波の上を、見上げるような船が航ってくる。
頑丈な竜骨をもった
「宋船」
である。
積まれているのは、
数え切れないほどの
「宋銭」
を始として、
揚州の金、荊州の珠、呉郡の綾、蜀江の錦
のほか、
陶磁器、香料、薬品、筆、硯、書画、経巻
といった、正に
七珍万宝
と呼ばれた品々だった。
曲尺で測る鯨の鼻の下 藤井孝作
日本側からの積載品
陸揚げした後には、
砂金、銅、硫黄、木材、扇、屏風、漆、蒔絵、
日本刀
などが積み込まれる。
船楼を目が痛くなるほど、
鮮やかな赤や黄の原色に塗りこめられた宋船は、
やがて真紅に包まれた、壮麗な社の正面へと導かれた。
安芸の
「厳島神社」
である。
対極の悲哀に天の林とも きゅういち
濛気に包まれたこの国を代表する建築物と言っていい。
「・・・・・・おお!」
と、声を上げるところからしても、
宋船に乗り込んだ商人や水夫は、
海の彼方に浮ぶ小さな島国が、
予想を遥かに超えた文化を持っていることに、
驚嘆したにちがいない。
少し待てば五段活用いたします 山口ろっぱ
こうした貿易相手の目を瞠らせるような、
仕掛けを創り出したのは、
当時、
静海入道前太政大臣・平朝臣清盛公
と呼ばれた、
平清盛
である。
祖父・
正盛
や父・
忠盛
に倣って西海を拠り所とした清盛は、
安芸守を拝命した頃に、
厳島神社の主祭神・
宗像三女神
を信奉するようになり、
太政大臣を辞して、
摂津福原に別荘
「雪見御所」
を造営するのと、
時を一にして、
老朽化していた厳島神社の大改修を行なった。
A座標に流星群を連れてくる 蟹口和枝
海上楼閣という、これまでに誰一人、
夢にも思わなかった建築物を造り上げたのは、
清盛が備えていた美意識によるものであろう。
清盛の美に対する才能は、
当社に奉納された
「平家納経」
の芸術性の高さからも、
容易に察せられるが、
同時に、清盛は土木技術においても
抜きん出た才能を持っていたことも充分に想像できる。
揺らす風ならば揺られてもみようか 下谷憲子
宋 銭
瀬戸は元々船が通れるだけの深さを持ち、
大船の往来に何の支障もなかった。
ただ、伝説は何らかの真実を語っている。
「わしは航路を開かせられるだけの
権勢を手に入れたのだ」
という絶対的な自負と事実である。
自負は、就任三か月にして、
太政大臣を退いたことからも窺い知れる。
うわずみの灰汁に命をためされる 皆本 雅
「名誉職的な地位など、余計なものだ」
といわんばかりに辞意を表明し、
前大相国となって、国政に参与する覚悟を固めた。
そして、院政を執る
後白河上皇
や
藤原基房
との、
合議によって政事を推し進めていった。
とはいえ、地位や立場だけでは、
絶対的な権力たりえない。
「金が要る」
清盛はそれを
「日宋貿易」
に求めた。
宝石箱になるハコフグの系図 井上一筒
(秋月達郎・「歴史街道」)-Ⅰ (Ⅱへつづく)
[2回]
y2012/10/04 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
平徳子
人脈の端に片足乗っけてる 谷垣郁郎
平徳子
(国立国会図書館)
(画像をクリックすれば大きく見れます)
「徳子の入内」
承安元年
(1171)
12月、
清盛
は
時子
の間に生まれた娘・
徳子
を、
高倉天皇
のもとに入内させた。
徳子の母・
時子
と高倉の母・
建春門院
(平滋子)
は、
姉妹だから、いとこ同士の婚姻である。
徳子の入内に大きな役割を果たしたのが、
高倉天皇の母・建春門院である。
ひらがなで話すと流れだす小川 和田洋子
この背景には、
後白河院
と清盛の対立が、
深刻になっていたことが関係している。
後白河院は院政を継続するため、
まもなく成人を迎える高倉天皇を退位させ、
「幼い皇子を即位させよう」
としていた可能性がある。
それに対して、
清盛は平氏を中心とした政治体制を目指しており、
そのためには、
中核となる
「高倉天皇の王権を強化」
する必要があった。
あの屋根を越えたいのですしゃぼん玉 三村一子
そこで高倉天皇の母である建春門院の協力を得て、
実施させたのが
「徳子の入内」
である。
徳子の入内は、
高村天皇の周辺を強化したい清盛と、
建春門院の連携により行われた。
さらに徳子の入内は、
平氏にとって、天皇家との結びつきを強化し
大臣家としての家格を安定させる目的があった。
陽の方へせめて向かむと花の首 前岡由美子
京都東山にある新熊野神社
熊野参詣が好きな後白河院は、
この地に熊野の神を勧請して、神社を創建した。
「高倉の母・建春門院滋子」
建春門院こと滋子は、
平時信
の娘、
清盛の妻・時子や
時忠
とは、異母兄弟である。
もとは、後白河院の姉・
上西門院統子
に仕える女房で、
小弁
(しょうべん)
と呼ばれていた。
その関係から後白河院の寵愛をうけ、
応保元年
(1161)
に、
憲仁親王
(高倉天皇)
を産んでいる。
袖口の緩んだこれからの時間 河村啓子
仁安3年
(1168)
高倉天皇の即位により、
皇太后に冊立、
嘉応元年
(1169)
に、院号宣下を受け女院となっていた。
清盛と同じ平氏とはいっても、
時子や滋子が属した平氏は武士ではなく、
代々摂関家の家司を務める公卿で、
故実に通じた貴族であった。
きぬぎぬの別れは死語となりました 高原まさし
後白河院は、生涯で34回も熊野参詣に行っているが、
建春門院もそれに何度か同道している。
また福原における
「千僧供養」
にも、
後白河院は建春門院を伴っており、
後白河院が建春門院を、
非常に寵愛していたことがわかる。
逮捕状なしであんたを逮捕する 井上一筒
建春門院については
『たまきはる』
(藤原定家の姉健寿御前)
に、
何事にも几帳面で、周囲への細やかな
気配りを欠かさないなど、その聡明な人柄が記されている。
また、建春門院のもとに初めて出仕し、
対面を果たした
健寿御前
は、
「この世の中には、こんなに美しい人がいるのかと思った」
と記している。
また、建春門院は後白河院が熊野詣でなどで不在の時に、
政務運営の代行機能を果たしていたといわれ、
通常時にも政務運営に参加していたと推測される。
≪『たまきはる』にも、建春門院が
「政治において思いのままにならないことは、何もなかった」
と記されている≫
お日さまの笑顔一億万ボルト 新家完司
建春門院が、このような人物であったからこそ、
政治的に対立を深めつつあった清盛と、
後白河院の間に立って、
両者を仲介する役割を果たすことができたのであろう。
清盛にとって建春門院は、
後白河院との関係維持のため、
欠かすことのできない貴重な存在であった。
七色のフェイント入れた薬箱 桂 昌月
高倉の即位のため提携し、即位後は協調して、
政治を進めてきた後白河と清盛であったが、
諸権限をめぐって次第に対立を深めていた。
しかし、建春門院が両者の間に立って、
政治的に仲介する役割を果たしていたため、
なんとか協調関係は維持されていた。
そんな中、安元2年
(1176)
6月初旬頃から、
建春門院の体調不安が伝えられる。
人脈の真ん中へんに落ちがある 立蔵信子
[4回]
y2012/09/30 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
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