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川柳的逍遥 人の世の一家言
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断崖の横で青空落語会  森 茂俊

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平家物語絵巻「殿下乗合事件」

「平重盛」

重盛は冷静沈着で用心深く、

人望も厚いうえ武勇にもすぐれており、

平治の乱における
悪源太義平との一騎打ちは、

後々までの語り草になった。


ドンキホーテになる才能は持っている  内藤洋子

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    平重盛

一般に『平家物語』重盛は評判が悪い。

つねに、聖人君子のように振る舞い、

清盛の横暴をいさめる役どころが鼻につくらしい。

特に有名なのが「鹿ケ谷事件」への対応だ。

法皇を幽閉しようとする清盛に対して、

その不忠をいさめ、

「君(法皇)に忠義をつくせば父への恩を忘れ、

  父への不孝から逃れようと思えば、

  君に背く逆臣となってしまいます。


  進退は極まりました。

  もはや私の首をお取りいただくしかありません」


と言って清盛を追い詰める。

うつぶせの空の左胸の勇気  酒井かがり

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頼みとする嫡男の懇願に、

さしも横暴な清盛も、

自分の非を認めて、ほこを収めるという筋立てだ。

それでもいっこうに改まらない清盛の「悪逆」を,

見かねた重盛は、

熊野に参詣し、自らの命を縮めてくれるよう祈願する。

はたして、帰京後いくほどもなく重盛は、

病の床についたが、あえて治療はしなかった。

切り口は緯度か経度か今日の玉葱  井上しのぶ

事情をしらない清盛は、宋の名医を派遣しようとしたが、

重盛は

「異国の医師を都へ入れるのは国の恥。

  もし医術によって回復すれば、

  わが国には医道がないのも同然になってしまう」


と言って診察を拒んだ。

最終兵器かかえて仏間から出ない  高橋 蘭

清盛は、

「これほど国の恥を思う大臣は昔も聞いた事がない」

と言って感心したという。

≪これは、重盛の聖人君子ぶりを強調することで、

清盛の無定見や、横暴を際立たせようとする『平家物語』の

常とう手段である≫


靴下を巻毛の中へ隠す音  井上一筒

しかし、このような重盛像は、

まったくの虚像かというとそうではない。

同時代の高僧慈円が著した『愚管抄』では、

「小松内府ハ イミジク心ウルハシクテ」

と述べられており、

誠実で立派な人柄であったことは広く知られていた。

≪鎌倉後期成立の歴史書『百錬抄』にも、

「武勇は人にすぐれているが、心ばえはとても穏やかである」

とあり、温厚・誠実な人であったことを裏付けている≫


仰ぎ見よ一旦カニの手を止めよ  きゅういち

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少年少女のための道徳的説話集である『十訓抄』にも、

重盛の用心深さを語る逸話がある。

あるとき、重盛は「賀茂祭」を見るために、

車を四、五両したてて一条大路にくりだした。

ところが、すでに見物の牛車は、

沿道にすきまなく立て並べられている。

人々は、

「いったいどの車がどかされるのだどうか」

とハラハラしながら見ていた。

ボーリング球の自由は拭きとられ  湊 圭史

すると重盛は、見物によさそうな場所に立っていた車を、

引きのけ始めた。

よく見ると、その車には誰も乗っていない。

人に迷惑をかけないよう、

あらかじめ無人の車をおいておいたのだった。

≪『源氏物語』で六条御息所が、

光源氏の正妻である葵上と車争いをして、

はずかしめを受け生霊となった昔話を教訓にしたのである≫


モニターをにっこり天使横切った  山田ゆみ葉

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雲占い「今日は出るな」というお告げ  新家完司

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奈良絵本「平家物語絵巻」・殿上乗合事件

(画面をクリックすれば拡大されます)


「殿下乗合事件」

嘉応2年(1170)7月3日、

重盛の次男で13歳の資盛は、雪がまばらに降る中を、

若い侍30騎ばかりを連れて、鷹狩りに出かけた。

蓮台野や紫野で一日中狩りを楽しみ、

夕方になって、六波羅に帰ってきた資盛一行は、

大炊御門猪熊で参内途中の摂政・藤原基房

行列とであった。

いい顔をした時ふっと眼があった  松田俊彦

本来、貴族社会では身分の高い人に会ったとき、

下位の者が馬から降りて、礼をしなくてはいけない。

基房の従者たちは、

下馬の礼をとらない資盛一行の無礼を

とがめたが、平家の権勢をバックにおごり高ぶっていた

資盛の供の侍は、下馬するどころか、

行列をかけ破って、通りぬけようとした。

にんげんが小さい視野が狭過ぎる  内藤光枝

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怒った基房の従者たちは、あたりが暗かったこともあり、

まさか清盛の孫とも思わずに、

資盛をはじめ、供の侍たちを馬から引きずりおろし、

さんざんに辱しめた。

ほうほうの体で六波羅に逃げ帰った資盛は、

このことを祖父清盛に訴えた。

清盛は大いに怒り、

「いかに摂政といえども清盛の身内にこのような

  恥辱をお与えるとは許せぬ、他人にも見くびられるぞ」


と基房への報復を口にする。

プライドの高い鯨で臆病で  中村幸彦

しかし重盛は、

「そもそも下馬の礼をとらない資盛に非がある

  のだから、かえってこちらが謝りたいくらいだ」


と諌めた。

だが、重盛の諌言にも、清盛の怒りはおさまらない。

清盛は重盛に内緒で、難波経遠、瀬尾兼康をはじめ、

60余人の侍を集めて、基房への報復を命じる。

五百羅漢を伊勢えびのヒゲに吊る  井上一筒

そして事件から5日後、

完全武装した300余騎の六波羅兵は、

参内途中の基房一行を猪熊堀河辺で、

襲撃したのだった。

武者たちは逃げまどう従者たちを、

馬から引きずり落して乱暴したうえに

「お前の髻(もとどり)と思うな、主の髻だと思え」

といいながら、ことごとく髻を切り落した。

※ 髻=髪の毛を頭の上で結ったもの

真っ白になったとこまで覚えてる  喜多川やとみ

そして基房の牛車にまで弓を突きいれ、

簾を落すなどの狼藉を加えると、

兵たちは喜びの鬨をあげて、

六波羅に引きあげていった。

基房は参内することもできず泣く泣く邸へ帰ったという。

臣下として初めて摂政となった藤原良房以来このかた、

摂政関白がこのような目にあったのは、

初めてのことであり、

これこそ「平家の悪行のはじめ」であった。

人を憎めば河原の石もなま臭い  森中惠美子

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このことを知った重盛は大いに驚き、

関係した侍たちを罰した。

加えて、資盛に対して、

「このような無礼な振る舞いをして、

入道の悪名を立たせるとは、不孝のいたりである」


といって、資盛を伊勢国に下して謹慎させたので、

人々は大いに感心したという。

未来地図なぞって消して行く微罪  上田 仁

「実際は報復を命じたのは重盛だった」

・・・・物語がいうように、

資盛一行と基地房の行列が路上で鉢合わせして

乱闘におよんだのは事実だが、その後の経過はかなり違う。

実際に基房への報復を命じたのは清盛ではなく、

重盛自身だったのである。


当時の記録によると、

事件の経過は次のようなものだった。

すごすごと帰る胸部診断車  酒井かがり

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      藤原基房

その日(7月3日)は法勝寺の法華八講の初日で、

基房は法勝寺に参る途中だった。

そこで基房の行列は、女車に乗った資盛と出会った。

基房の従者は資盛の無礼をとがめ、

車をうち破るなどの恥辱を与えた。

それが重盛の子であることを知って、慌てた基房は、

乱暴を働いた従者を重盛に引き渡し、

勘当することで事件をおさめようとした。

恐縮しわびを入れたのはむしろ、

摂政基房の方だったのだ。

しゃべったのはペン僕は眠ってた  和田洋子

しかし、重盛はその従者たちを追い返した。

「その程度の謝罪では許さないぞ」

という重盛の無言の恫喝である。

震えあがった基房は、さらに多くの従者を勘当したり、

検非違使に引き渡したりして処罰した。

それでも重盛の怒りはおさまらない。

脱け殻もやっぱり怒り肩でした  山本早苗

7月16日には、二条京極に武者が集まって、

車を待ち受けているとの情報が入ったため、

基房は予定していた法成寺への参詣を中止している。

基房は外出もままならず、

おろおろと数ヶ月を過すばかりであったが、

3ヶ月後の10月21日、ついに事件は起こる。

預かっていたのは傷ついた夕陽  太田芙美代

基房が高倉天皇の元服の打ち合わせのために、

参内しようとしたところを重盛配下の武士達が襲撃し、

前駈5人が馬から引きずり落とされ、

4人が髻を切られたのである。

当時の社会において、

髻を切られるというのは、このうえない恥辱であったから、

基房を徹底的に辱しめようとする、

重盛のねらいは明らかだった。

小数点以下をしばらく泳ぎます  中 博司

この襲撃事件によって、基房の参内は中止され、

天皇の元服の打ち合わせは延期された。

24日には重盛、基房がともに参内したが、

この時は、重盛の方が報復を恐れて、

多数の武士を引き連れていたという。

基房は重盛によって、

泣き寝入りさせられたかたちとなってしまった。

取り巻きを連れてあんたの寂しがり  美馬りゅうこ

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駄菓子屋で買う 小銃と血の匂い  井上一筒

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   義朝の刃

「裏目に出た配慮」

清盛が太政大臣となり、平氏一門が繁栄を極める最中、

明暗を分けるように没落した一族がいた。

源氏である。

平治の乱後、河内源氏の棟梁・義朝は、

東国への撤退中に裏切りにあい横死。

次男・朝長もその道中に死んだ。

悪源太の異名を持つ期待の長男・義平は、

清盛暗殺に失敗して処刑されてしまう。

直線の右と左に生と死と  徳山泰子

源氏は壊滅に等しい打撃を受けたが、

しかし、血筋がすべて絶えたわけではなかった。

平治の乱に出陣した義朝の三男・頼朝は、

撤退中に捕らえられて清盛の前に引き立てられた。

その時、清盛の継母・池禅尼が、

「亡くなった家盛と容貌が似ている」

と命乞いをした。

逞しく育つ若木を見届ける  杉谷佳子

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周囲は頼朝の処刑を、当然と見なしていたが、

驚くべきことに、清盛は池禅尼の乞いを容れ、

頼朝の処分を伊豆配流にとどめたのである。

助けられたのは、頼朝だけではなかった。

義朝が愛妾・常盤御前との間に授かった、

今若、乙若、牛若(後の義経)の三人も、

仏門に入ることを条件に、清盛から助命されたのである。

≪なお、清盛は常盤御前が自身の愛妾になることを条件に、

   三人を助命したと巷間言われるが、忠実かどうかは分らない≫


オリオン座今日はあなたに預けとく  森田律子

「悪人」のレッテルを貼られてきた清盛であるが、

決して冷血な人物ではなく、

むしろ寛大であり、

敵対勢力を徹底的に叩き潰すようなことはしなかった。

それを示すかのように、

その後も源氏に配慮を怠らず、

平治の乱でともに戦った摂津源氏・源頼政を、

三位に推挙している。

ドクダミのじっと耐えている白さ  赤松ますみ

その際、

「源平はわが国の固め。

 平氏は朝恩が一族にいきわたっているが、

 源氏の勇士は逆賊(藤原信頼)に与して罰をうけており、

 その中で頼政のみが、勇名を轟かせている。

 紫綬の恩を授けてほしい」


と奏上しており、「源氏の勇士」という言葉からは、

源氏への敬意すら感じられる。

≪そこには源平の無用な戦を避けようとする意図が汲み取れる≫

脱皮した蝉の抜け殻にも拍手  新家完司

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ところが、清盛の配慮は裏目に出る。

治承3年(1179)、清盛が後白河院の院政を停止すると、

頼政は清盛に徐々に反発を抱く。

さらに翌4年(1180)

清盛の後押しで安徳天皇が即位すると、

頼政はそれによって、

皇位が絶望となった以仁王(後白河院の第三子)とともに

打倒平氏の計画を立て始めた。

反省をすぐに忘れる猫の鼻  中村登美子

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かくして同年4月、以仁王は頼政の進言を受け、

全国に雌伏する源氏に「打倒平氏」の令旨を発する。

清盛はこの動きを察知して、

二人の挙兵を短時間で鎮圧するが、

発せられた令旨によって、

反乱は、燎原の火の如く全国に広がることとなる。

そして、平家追討の中心となったのが、頼朝と義経であった。

皮肉な事に、打倒平氏の狼煙を挙げ、

それを成したのは、いずれも、

清盛が救いの手を差し伸べた人物だったのである。

一年に一度石を拾って恐くなる  蟹口和枝

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赤黒いもの躙りよる華氏3度  井上一筒

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     大輪田泊

「出家して福原に居住する清盛」


清盛は、仁安3年(1168)に出家した後、

基本的には摂津国福原に移り住み、

京にはほとんど滞在しなかった。

福原が選ばれたのは、

近くに瀬戸内海交通の要所、

大輪田泊があったことによる。

流れ星きっと引退する星だ  星井ごろう

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清盛が福原に住むようになった理由は、

貿易に専念するためとも、

後白河院との対立が深まる中で、

距離をとろうとしたともいわれる。

最近、清盛と福原の関係を権門都市という位置づけで、

かんがえられている。


≪権門都市」とは、摂関家にとっての宇治、王家にとっての、

  鳥羽や白河のように公的地位を退いた権門の家長が、

   自由な活動を行う拠点のことである≫


三叉路の今日は左に折れてみる  合田瑠美子

「西八条邸は、現在の京都市下京区、梅小路公園あたりである」

ちなみに、清盛の妻・時子は京の西八条邸に住まい、

清盛が福原から上洛した際は、ここに滞在している。

ちなみに当時この邸宅は、

清盛でなく時子の邸宅と認識されていた。

こうして清盛が福原に居住するようになったことで

福原周辺の開発が一気に進み、

「福原遷都」に繋がる素地ができあがっていった。

縁から縁へ結び目は堅い  瀬川瑞紀

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また、福原では春と秋の2回千僧供養が行われ、

後白河院は、高倉天皇の母・滋子を連れて、

たびたび福原を訪れている。

清盛が千僧供養を行ったのは、

海上交通の安全を祈願するだけではなく、

主要な寺院の高僧を自在に動員できる上に、

仏教界の支配者であるということを、

アピールすることにあった。

そこに、後白河院が列席するというのは、

清盛と後白河院の緊密な連携を象徴する儀式であった。

晩年が涙あつめて会いにくる  河村啓子

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「後白河院と清盛の協調関係にほころび」

後白河院清盛は、高倉天皇の即位を目的に、

提携関係を結び、即位を実現させた。

しかし、清盛は、

「平氏一門の発展、大臣家としての家格の安定」 を、

後白河院は「院政の強化」を目指していた。

両者の間には提携関係が結ばれた当初から、

政治構想において、大きな隔たりが生じていた。

さらに、清盛は、院近臣との間にも対立を深めていた。

後白河院政の発展による院近臣たちの地位上昇は、

現在の平氏の地位を脅かしかねないからだ。

万匹の狸一匹連れ帰る  黒田忠昭

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院の専制強化を阻止しようとする清盛は、

院の重要な権限の一つである人事へ介入している。

具体的には、「除目」への介入である。

白河院による院政の開始以来、摂関の任免など、

人を左右して政治を主導してきたため、

人事権は院の持つ権限の中でも

特に重要なものであった。

頭平信範は、除目叙位などを伝える使者として

清盛邸に「両度往反」したとあり、

清盛が人事に対して、納得するまで

調整させていたことがうかがえる。

≪なお、これが行われたのは高倉天皇即位以前のことで、

  提携関係が結ばれた直後から、

  清盛と後白河院の間にあった緊張関係を物語っている≫


黄河へ流すぞとたこ焼きをおどす  森 茂俊  

「強訴をめぐる後白河院と清盛の駆け引き」


嘉応元年(1169)12月、尾張守の目代・藤原政友

平野神人との間に起きた争いが発端となり、

延暦寺の衆徒らが、神輿を担いで入洛し、

尾張国の知行国主成親の解官・配流を要求してきた。

衆徒らの上洛が迫ると、

朝廷側もこれを防御するための武士を派遣し、

今回も平氏に動員が要請された。

青い星赤い戦火が止まらない  早泉早人

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しかし、平氏軍制の中心にあった重盛は動かず、

その結果、後白河院は衆徒らの要求に屈して、

成親は配流となってしまった。

けれど、後白河院はすぐに成親を配流先から呼び戻し、

かわりに、この件で後白河院へ取次ぎを行ったにすぎない

平時忠平信範を解官・流罪とした。

これに対して、衆徒等が再度強訴の構えをみせると、

清盛の命により、重盛・頼盛は福原に下向している。

≪両人の福原下向は、平氏が強訴の防御に協力しないことを

無言でアピールしていた≫


煮て焼いて振り掛けにする言い掛かり  岩根彰子

さらに、福原に居を移して以来、

めったなことでは上洛しなかった清盛がとうとう上洛した。

すると後白河院は態度を変えて再び成親を配流とし、

平時忠と平信範は呼び戻された。

以上が、嘉応元年に起きた「延暦寺の強訴」をめぐる清盛と

後白河院の駆け引きである。

なぜ重盛は、義兄にあたる成親を救うために、

動かなかったのだろうか。

鉛筆を曲げてかじって壊す癖  伊庭日出樹

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重盛が後白河院の動員要請に応じなかった背景には、

平氏一門内の複雑な事情があった。

重盛は平氏一門の中でも、後白河院に近い立場にあった。

しかし、父・清盛はというと、

後白河と政治的に協調関係にあるものの

院政の専制強化を警戒し、院近臣にも反感を抱いていたため、

その救済には非協力的だったのだ。

正確に言うと、重盛は動かなかったのではなく、

成親救済に動けなかったのである。

綿菓子の円運動は搾取の図  一階八斗醁

後白河の要請よりも、

清盛の指示が優先されたことからも明らかなように、

両者が協調関係にありながら、

諸権限において対立していたことがわかる。

自分にはごめんと言える燗冷まし  杉野恭子

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さあ今日も私が地球回さねば  高橋謡々

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「清盛と後白河の提携関係の結実」


仁安3年(1168)2月9日、清盛が重病に陥った。

11日には死を覚悟したのか出家し、

妻の時子もあわせて出家した。

また、熊野詣に出かけていた後白河院も急ぎ帰京するほど、

清盛の病がいかに重篤であったかがわかる。

後白河院は、清盛と、

「憲仁親王を即位させること」で提携しており、

万が一清盛が没すれば、有力な支持者を失い、

さらに、六条天皇を擁立する勢力が、盛り返すことで、

憲仁の地位が危うくなると、考えたのかもしれない。

この先を読んで闇夜のカラス描く  谷垣郁郎

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     以仁王

後白河院が
憲仁天皇の即位を急いだ理由は、

ほかにもあった。

それは、後白河の第2皇子・以仁王の存在である。

以仁王は六条を推す八条院の養子となっていた。

さらに以仁王は、出家を拒否し、

憲仁の親王宣下の直前に元服している。

即位を狙っているためと噂された。

すでに成人をむかえ、

八条院という強力な支援者を得ていた以仁王の存在は、

憲仁を即位させ、

自身の院政強化を目論む後白河院にとって

大変な脅威であった。

疑えば針の先まで恐くなる  森中惠美子

そして2月16日、六条天皇が即位し、

憲仁親王(高倉天皇)が践祚(せんそ)した。

ついに、清盛と後白河院の提携関係が実を結んだ。

これにより、後白河院の権力は頂点に達したといえよう。

その後、清盛は病を克服、高倉天皇の即位を機に、

清盛と後白河院の関係は、「提携から協調」へと変化した。

空白を埋めるゲームだ終れない  岩田多佳子

しかし、突然の譲位、高倉天皇の即位に対して、

不満を抱く者も少なくはなかった。

即位した六条天皇を擁立していた勢力だけでなく、

一般の貴族でも、反発する者がいた。

その要因は、

高倉天皇の母・滋子が平氏の出身だったことである。

平安時代に入ってから、

皇女や藤原氏以外の国母は誕生しておらず、

「平氏出身の国母の誕生が忌避された」からである。

虹をあおぐ前頭葉に残る足あと  湊 圭司

716d0b4b.jpeg  

平氏一門内でも、六条天皇の即位、

高倉天皇の即位に対して、反発する動きをみせる者もいた。

それは、清盛の異母弟・頼盛である。

頼盛は忠盛の正室・池禅尼を母とする。

池禅尼が保元の乱における平氏の去就に、

大きな影響を与えたように、後家としての力は、

家長である清盛でも、無視することができなかった。

その子である頼盛は、平氏一門の中で、

清盛や重盛に次ぐ力を有しており、

その動向には清盛も、注意する必要があった。

上座とはなんと寂しい指定席  こはらとしこ

仁安3年(1168)11月11日、大嘗会が行われた。

大嘗会とは、天皇の即位後、

初めて行われる新嘗祭(にいなめさい)のことである。


そこで頼盛の子・保盛は、

五節の舞姫を献上しておきながら、

何度も催促されたにもかかわらず、

出仕しないなど不手際が多く、

譴責(けんせき)は5度に及んでいた。

鼻詰まりの忍者 天井で屈む  井上一筒

ついに、後白河院は頼盛・保盛父子を解官した。

頼盛が就いていた太宰大弐は、藤原信隆に代わり、

知行国の尾張は没収され、成親に与えられた。

頼盛父子がこのような態度をとった背景には、

頼盛が、八条院の女房を妻とし、

八条院領の預所を務めるなど、

八条院と政治的に近い関係にあったからだ。

山芋のぬるぬる少し甘えるか  山口ろっぱ

六条天皇を支える有力な勢力である八条院と

その周辺に仕える者たちにとって、

六条天皇を強引に即位させた後白河院、

それにより、即位した高倉天皇、母后・滋子に対する反発は強く、

頼盛がこのような行動をとるに至ったと考えられる。

≪なお、頼盛は同年12月30日には還任している≫

このように、清盛の意思とは裏腹に、

独自の行動をとる存在は、平氏一門とはいっても、

一枚岩ではないことを表している。

薄皮を残して今日は墓参り  酒井かがり

平氏一門内には、頼盛のように、

高倉天皇即位に対して、反発した行動をとる者もいれば、

高倉天皇の即位によって、地位を後退させた者もいた。

清盛の嫡男・重盛である。

高倉天皇の即位は、清盛の念願だっただけに、

その嫡男である重盛の地位が後退するとは、

どういうことだろうか。

除籍入籍 椿ぽたぽた落ちる中  時実新子

その最大の要因は、重盛は嫡男であったが、

母は高階基章(たかしなもとあき)の娘と、

高倉天皇の母・滋子の姉・時子の所生ではなかったことにある。

重盛と対照的なのが、時子の所生の宗盛である。

宗盛は、滋子の猶子となり、その妹、つまり叔母を妻とし、

その間には清宗が生まれていた。

清宗は、重盛と成親の妹・経子との間に生まれた、

清経よりも、年少にもかかわらず、

官位の上で超越し、序列が逆転していた。

五円玉よりも尊い五百円   新家完司

こうして高倉天皇の即位を契機として、

時子所生の子達の地位が上昇し、

重盛やその子たちの地位が後退することになった。

これは、重盛の嫡男の座を脅かし、

嫡流と庶流の交代が起こりかねない事態である。

これにより、重盛はさらに後白河へ接近し、

院近臣の中心人物・藤原成親との連携を、

強化する動きをみせている。

つまり、重盛と時子の子たちとの間には・溝が存在し、

それが対立に発展する可能性もあった。

抜けない棘忘れよう忘れよう  杉谷佳子

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   重盛          宗盛

「重盛と宗盛ー人物像」

『平家物語』は、有能な重盛と無能な宗盛と、

両者を対比して描いているが、これは事実ではない。

宗盛の官位昇進過程をみていくと、

仁安2年(1167)に宗盛は、

実務能力を必要とする参議に就任している。

もし宗盛に実務能力がなく、

『平家物語』にみえるような無能な人物であったならば、

公卿昇進の過程は、

実務能力を必要としない非参議従三位となるはずである。

ワンタンの皮で事実を覆っても  岩根彰子

しかし、宗盛は参議という、

実務能力を伴う昇進コースをとっている。

このことから宗盛の無能説は否定され、

能吏としての顔も見えてくる。

さらに、嘉応元年(1169)に宗盛は平野祭の上卿を務め、

その実務能力を発揮している。

重盛は、保元・平治の乱における戦功により、

官位昇進を果たしたが、

一方の宗盛には、

実務能力による官位昇進の道が選択されていた。

『平家物語』で宗盛が、無能な人物として描かれた背景には、

平家滅亡の責任を、

宗盛の優柔不断な性格に負わせるねらいがあったのだろう。

微調整している秋の鍵かっこ  永原潤子

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