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川柳的逍遥 人の世の一家言
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夢抱いておたまじゃくしは池を出る  大西將文

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  祇園遺跡新聞ニュース           発掘現場


(文字を拡大〔クリック〕してお読み下さい)


「福原京様子」

清盛が福原への遷都を決意したのは、

「古い政治に決別するためには遷都という荒療治が必要だ」

と考えたからだ。

「平安京」は貴族たちにとって伝統と栄華の都だが、

自由な政治活動を束縛する窮屈な都以外の、

何ものでもなかった。

色褪せた鱗一枚ずつ剥がす  嶋澤喜八郎

一方、福原は軍事拠点としてもすぐれており、

日宋貿易も軌道に乗り始めていた。

福原遷都によって、平家の武力と財力が朝廷を守る、

新しい国家をつくりあげ、

平家の血統を継いだ新たな王朝の幕開けを内外に

知らしめようとしたのである。

そろそろと殻を捨てたい蝸牛  松本あや子

しかし、十分な準備のないまま行幸を強行したために、

平家一門や貴族たちの反発にあい、

新都の建設は進まなかった。

やがて、頼朝をはじめとする諸国の反乱が勃発、

遷都はわずか半年で頓挫した。

新しく花開こうとする痛み  森廣子

清盛が私財を投じて、安徳天皇の内裏を建設し、

貴族たちの邸宅も順次建てられたものの、

行政府である八省や役所はつくられず、

首都機能が本格的に移転することはなかった。

「福原京は存在しない」とする説があるのはそのためである≫

以後、清盛は反乱勢力の追討に全力を注ぎ、

二度と福原に足を踏み入れることはなかった。

描き足した色に時々だまされる  中博司

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往時の福原の様子(平家物語・〔福原落ち〕)から、

平家一門の豪華な邸宅が競い合うように甍をならべていた

情景が思い浮かぶ。

『春は花見の岡の御所、秋は月見の浜の御所、

泉殿、松陰殿、馬場殿、二階の桟敷殿、雪見の御所、

萱の御所、人々の館共、五条大納言邦綱卿の承って、

造進せられし里内裏、鴛(おし)の瓦、玉の石畳」


新しくなった使いにくくなった  森田律子

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    雪見御所跡

中心的な建物は、

何といっても福原の主である清盛の邸宅・平野殿だ。

平野の勝地、すなわち眺めのよい場所にあり、

建物正面に六本の柱がある寝殿で、

西に対屋がなく、

南に廊が伸びる変則的なつくりだったという。

厳島御幸の途中に立ち寄った源通親が、

「木立庭のありさまは、絵に描きとめたいほど」

であったと記している。

思案してまた思案して壁の色  俣野登志子

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雪見御所遺跡出土と伝えられる播磨系軒瓦

清盛邸から100㍍ほどの場所には「湯屋」もあった。

沸かした湯を浴びて身体を洗うタイプの浴室で、

清盛も日常的に用いていたのだろう。

流れゆく流れるものを追いながら  居谷真理子

もう一つの中心が、頼盛の邸宅である。

平野の南の大倉山の西麓にあったといわれており、

邸の様子は分らないが、

流鏑馬が行えるほどの広い馬場を備えていた。

遷都当初、安徳天皇の内裏になったほどだから、

清盛邸に劣らぬ広壮華麗な邸宅だったと思われる。

そのほか、規模は不明だが、

法皇の御所にあてられた教盛邸をはじめ、

宗盛重衡ら清盛の息子たち、

有力家人の平盛俊の邸などが、

遷都前から建てられていたと考えられている。

≪その後、遷都のプランが具体化するにつれて、

   平時忠や藤原邦綱、藤原忠親など公卿の邸宅が、

   次々と建築され都としての体裁を整えていった≫


遠くから見ると幸せそうな家  糟谷尚遊

寿永2年(1183)7月、平家の都落ちの折、

一門の人々によって、邸宅に火がかけられ、

清盛の夢の都は灰燼に帰した。

終の住処だから菱型の畳  井上一筒


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この福原京の痕跡を留めるものはほとんどないが、

近年発掘調査が進み平家時代の遺跡が確認されるようになってきた。


有馬街道を北上した上祇園町一帯は、

かっての福原の中心地であるが、

この祇園遺跡からは、

庭園や水路、石垣、土坑などが発掘された

庭園遺構からは、

山城でつくられた瓦などが発見されており、

京都から移築した邸宅が建っていたと考えられている。

清盛邸の南にあったと伝えられる雪御所は、

現在の雪御所町あたりにあったといわれており、

湊山小学校の校庭からは、

明治期に礎石や土器などが多数発見された。

過去の一つは桐箱にしまい込む  たむらあきこ

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空クジと阿保な夢が風に飛ぶ  森中惠美子

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 「東大寺大仏殿焼失」

左方には掲げられた赤幟のもと奈良に入る平重衡(しげひら)の軍勢、

右方に炎上する大仏殿が見える。

奈良に入った重衡は12月28日、夜陰に紛れ、攻撃を開始した。


(のちに一の谷合戦で重衡は、南都衆徒の強い要望で処刑され、

  その首は奈良坂にさらされた)


(画面は拡大〔クリック〕してご覧ください)

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「福原還都」


富士川合戦の敗北を目にして、

清盛も平安京への還都を決断する。

11月12日、高倉院のもとに有識の貴族が集まって、

帰都について検討し、清盛との意見調整の末、

夜に還都の方針が決まった。

11月26日、入京した安徳天皇藤原邦綱の五条東洞院亭に、

高倉院は平頼盛の六波羅池殿に、

後白河院は、故・平重盛の六波羅泉殿に入った。

11月29日に清盛も福原から上洛した。

それ以上走ると元の位置になる  杉野恭子

清盛が還都に同意したのは、

東国追討使が帰洛した直後の、

11月10日頃のことであり、当時は改めて、

東国に追討軍を派遣するという計画も出ていた。

院や貴族、一門内のも還都主張者がおり、

追討軍の編制・動員に天皇の権威高揚が必須という状況で、

清盛は追討軍の編制を万全なものとすべく、

福原から京への還都を決断したのである。

≪その頃美濃・近江を中心に畿内近国の諸勢力が反乱を起していた≫

 壊れても繕う蜘蛛の巣のように  新家完司

清盛は、兵糧米や兵士役を貴族や寺社に賦課し、

東国の反乱を鎮圧する体制に、無理やり組み込んでいった。

その一方で、後白河院藤原基房を復帰させている。

清盛が、福原から京への還都に続き、

治承3年11月、政変時の自身の非を認めるかのような、

処置を認めたのも、

反乱鎮圧の遂行のためであった。

上手から下手へ消えただけの人  井上一筒

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もし高倉院が没すれば、

後白河院政という形式をとるほかない。

清盛は彼等を復帰させた上で、

後白河院の院政再開後も、

自身が政治の実際を主導する体制を、

維持しようとしたのである。

お醤油をたらしてちょうどいい厚み  井上しのぶ

まず、近江の悪僧・武士に対しては、

知盛以下の大軍を派遣した。

そして、大和の悪僧に対しては重衡を派遣し、

12月28日には衆徒を退散させ、

興福寺・東大寺を炎上させている。

≪以上のように、知盛・重衡といった一門主流の有力武将が出陣し、

   還都に伴う軍事動員が機能したことで、

   近江・大和とその周辺の反乱鎮圧に成功したのである≫


ピリオドのために踏み出す第一歩  植田斗酒

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「南都炎上」

燃え盛るなか干戈を交える南都の僧兵と平氏軍の激闘が描かれている。

(クリックすると画面は大きくなります)

「南都焼討」

治承4年(1180)12月28日、

清盛の息子・重衡に率いられた軍勢は奈良に入った。

民家を焼いた炎が風に煽られ、

東大寺・興福寺が類焼し、

大仏殿も焼け落ち、

逃げ込んだ女・子供までが巻き込まれ、

あたかも地獄の様相だったとされる。

仏像を間近に罪を数えてる  松本としこ

焼討の前提となった平氏政権と南都北嶺について述べると、

延暦寺と平氏との関係は、良好であったものの、

園城寺や興福寺との関係は悪く、

以仁王の挙兵失敗の際、

以仁王が頼みとしたのは、園城寺や興福寺であった。

こうした対立の続くなか、

平氏は反平氏の拠点、南都に攻め入ったのである。

雨天につき第二関節まで決行  酒井かがり

また、「南都焼討」の直前には、

園城寺焼討が重衡によっておこなわれており、

南都焼討が、平氏と寺院勢力との衝突の

一齣であったことを物語っている。

そして、両者の対立は、

園城寺と南都が攻められ焼き払われたことにより、

平氏政権側の勝利で締めくくられ、

寺院勢力は平氏政権に屈することになる。

躓いたところへ飾る余命表  桜風子

その後、東大寺・興福寺の所領・庄園は没収され、

重衡の兄に当たる宗盛が、畿内近国の惣官となるなど、

平氏政権はいよいよ、

体制を強化する方策を打ち出してくる。

しかし、「南都焼討」は、平氏政権を仏敵と認識させ、

完全に寺院勢力が平氏の敵にまわったこと、

京の公家の心も、平氏から離れさせたことなど、

長期的に見れば、

「政権を窮地に立たせる原因」 となった事件であった。

挽歌流れてオリオン父を引いてゆく  太田のりこ

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私をはずすと風が流れだす  河村啓子

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「朝敵揃えの事」ー平家物語

福原の自邸で頼朝挙兵の報告に接し激怒する清盛。

(画像はクリックしてご覧ください)

「わずか170日間で潰えた清盛の遷都の夢」

福原の内裏の造営や宅地の造成は続けられたが、

富士川の敗戦による平家の威信の低下は深刻だった。

還都に対する要求は日増しに高まり、

11月初旬には宗盛清盛と還都をめぐって、

激論を繰りひろげた。

棟梁の宗盛までが還都を公然と口にする状況となり、

もはや清盛の孤立は明らかであった。

8日には、遠江以東の15カ国が反乱軍に味方して、

「草木に至るまでなびかないものはない」

と報じられた。

十薬を煮込んでひとりきりの夜  桑原伸吉

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数日後、ついに清盛は還都を決意する。

新造の内裏において、

11月20日に行われた「豊明節会」帰洛することが、

正式に公表された。

結局、清盛の造営した内裏は、

節会のためだけに、作られたようなものだった。

天皇や群臣の前で、

繰りひろげられる五節の舞を見つめる清盛の、

心のうちには、どのような思いが去来していたのだろう。

遷都が未完に終ったことに対する無念の思いであったか、

あるいは、還都後の敵対勢力への反撃プランを思い描き、

闘志をたぎらせていたのだろうか。

ちょっとした旅の終わりに似た別れ  松田俊彦

清盛が遷都を断念したのは、寺社勢力の反発と、

高倉天皇の健康悪化にあるといわれている。

延暦寺や園城寺など、京周辺の寺院の究極の使命は、

国家的な儀式や祈祷を行うことで、

国家や朝廷を守ることにある。

守るべき朝廷が福原へ引越ししてしまったら、

自身の存在価値はなくなる。

≪そのため、以仁王に味方した園城寺や興福寺はもちろん、

   平家と協調関係を保っていた延暦寺の衆徒までが、

   東国の反乱勢力に呼応して蜂起し、

   還都の要求を激化させていたのである≫


これ以上笑うと空へ浮き上がる  加納美津子

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それ以上に清盛の心を動かしたのは、

高倉上皇の健康不良だった。

高倉上皇の病は7月下旬には、かなり深刻になっており、

「摂政・近衛基通に政務を譲りたい」

と弱音をはくほどであったが、

形式的にせよ高倉院政を勢力の基盤とする清盛が、

それを許すはずもなかった。

人間のエゴでブルーの薔薇が咲く  清水久美子

多忙な政務、遷都による心労、

慣れない海辺の環境などの、要因が重なって、

上皇の病気は、日を追うごとに悪化していったと考えられる。

「このような辺土(福原)で死にたくない」

という高倉の再三にわたる哀訴に、

さすがの清盛も耳をかさざるを得なかったのだろう。

また、棟梁の宗盛までが面と向かって,

還都を主張したことも、無関係でなかったかもしれない。

内乱が激化するなか、平家一門の結束が崩れるのは、

何としても、避けたかったのではないだろうか。

渋いしぶいと栗きんとんを食べる  井上一筒

だが遷都を断念する以上、

政権維持のために、

反乱勢力を根絶やしにするという決意も、

清盛は固めていたと考えられる。

京に戻るや清盛はただちに反撃態勢を整え、

敵対勢力の徹底的な弾圧に乗り出すのである。

眼差しを整えてから相手見る  たむらあきこ

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柔らかく小鳥の胸を突くフォーク  岩根彰子

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「源頼朝石橋山旗上合戦」


≪隠れている頼朝を家臣たちが平家方から守ろうとする様子≫

治承4年(1180)4月、この頃すでに蛭ヶ小島の配所を出て、

北条館で生活していた頼朝のもとへ新宮十郎行家から、

以仁王の「平家追討の令旨」が届いた。
 
それから4ヶ月、

深慮の後8月に頼朝は挙兵に踏み切った。

「旗揚げ」の第一戦は、

伊豆目代・山木判官兼隆の討伐と決まった。


(クリックで画像は拡大できます)

やり直すことを新月から学ぶ  竹内ゆみこ

「頼朝挙兵」

北条時政は周辺の武士を結集、

八十五騎余で山木館を夜襲した。

山木館は北条館の東2.5㎞ほどの近距離である。

この夜は、三島神社の祭典で、

山木方は無勢であったというが、

その必死の防戦に、時政らは手こずったという。
 
結局、頼朝の警護で北条館に残っていた加藤景廉

堀親家らが、時政の加勢に駆け付けて山木兼隆を討取り、

初戦はかろうじて勝利で飾ることができた。

逆心もまた良し雨を突っ走る  山本芳男

治承4年(1180)5月26日に、清盛以仁王の挙兵を鎮圧し、

6月2日、行幸という名目で福原への「遷都」を断行した。

しかし、清盛追討を命じた「以仁王の令旨」を、

新宮行家が送達したことが着火点となり、

やがて、諸国で反乱が勃発する。

猿の努力に猿の電車が走り出す  森中惠美子


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   山木館跡の碑

伊豆では、8月17日に頼朝が挙兵し、

同国目代の山木(平)兼隆を討っている。

治承4年(1180)4月27日、頼朝は、

叔父・行家が持参した以仁王令旨を受け取り、

舅の北条時政にも見せた。

≪ちなみに『平家物語』には、

  
文覚後白河院の院宣を持参して頼朝に挙兵を促したとある。

   疑うべき点も多いが、平治の乱以前の後白河天皇の

   側近だったことを考えれば無下に否定できない話でもある≫


人間は裏切るように出来ている  中村幸彦

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8月20日、頼朝は伊豆・相模の御家人を率いて、

伊豆から相模国土肥郷に赴いた。

しかし8月23日、

頼朝は相模国の石橋山で大庭景親以下の

平家被官との合戦に敗れ、箱根山に逃れている。

≪この大庭景親は、関東に住む源頼政の孫・仲綱子を、

  追討するために清盛が私的に遣わした武士であった≫


石橋山合戦で敗れた頼朝は、

8月28日、安房国に逃れた。

その後、頼朝は、上総国、下総国、武蔵国を経て、

10月6日、相模国に入っている。

翌日には、鶴岡八幡宮を遥拝し、

父・義朝の亀谷旧跡に邸宅の建造を始め、

15日に鎌倉御亭に入るのである。

秋雨の破片の傷が痒くって  くんじろう


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「武者鑑 -名人相合 源頼朝」

頼朝は10月16日に福原・京からの追討使・平維盛

13日に駿河国手越駅に着いたと聞き、

駿河に軍を進めた。

かくして起こったのが、有名な「富士川合戦」である。

東国では、

頼朝の伊豆での挙兵と南関東への展開のみならず、

甲斐・信濃・上野といった諸国でも、反乱が起こっていた。

9月には、

甲斐の武田信義、信濃の木曾義仲と次々に挙兵。

頼朝挙兵の報が京都に伝わったのは、9月3日頃であった。

続けて9月6日には、

賊軍500騎と官兵2000騎が合戦し、

賊が山中に逃げたという石橋山合戦の勝報が届いている。

秤をもって離さない落下傘  蟹口和枝

先遣隊ののち、本隊を派遣するという

平氏の軍勢派遣方式が予定され、

東国の大庭等の活躍に続いて、

京でも、9月5日に頼朝追討宣旨を発して、

東海道・東山道の武勇の者を動員している。

追討使は、平維盛・忠度・知度であった。

≪維盛は故重盛の息子、忠度は清盛の末弟、知度は清盛の末子であり、

   宗盛を後継者とする平氏一門では、いずれも傍流と言える≫


軽いとは秤が言うてくれなんだ  井上一筒

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      福原京        

一方の清盛は、厳島や宇佐に赴き、

従来どおり福原への首都移転構想を進めていた。

つまり当初、清盛は、

頼朝の挙兵・東国の反乱問題をあまり、

深刻に考えていなかったのである。

シーソーの一人を連れてきたトンボ  山本早苗

さて平氏は富士川の合戦でなぜ負けたのか?

もともと平氏の軍制は、先述の通り、

少数精鋭で前線の家人が敵を討伐し、

そのあとに追討使の大軍が到着するという

スタイルをとっていた。

しかし、頼朝の反乱軍がここにきて、

予想以上に膨れ上がっていた。

もはや通常の平氏の軍制では、

対応できなくなっていたのである。

ヒゲ剃りの途中で電池切れかかる  谷垣郁郎

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「平家物語」逸話

水鳥の羽音を源氏方の夜襲と勘違いして。

富士川の陣屋を捨て潰走する平家の軍勢。


(はっきり見る場合は画像を拡大してください)

追討軍は10月13日に駿河国手越駅に着き、

16日に同国高橋宿に着いた。

そこで彼等が見たものは、

路頭に懸けられた80余の首だった。

というのは、10月14日に駿河目代・橘遠茂が、

長田入道を率いて甲斐に攻め入ったが、

鉢田で武田一族に迎撃され大敗を喫していたのである。

つまり、屈強な前衛部隊は、

追討使が到着する前に殲滅させられていたのだ。

どこで縺れたのか毒リンゴ貰う  前中知栄

これが官軍の士気を大きく下げることになった。

平氏の陣に謀反の輩から牒状が送られてきたが、

子細を糺問したのち、使者の首を切った。

その後、頼朝が襲来するとの風聞があり、

彼等の軍勢が巨万であるのに対して、

追討軍の軍勢では敵対できそうになく、

引き返そうとしたところ、手越の宿館に矢火があった。

近江から東国にかけて動員した兵が、

官軍の弱さを見て逐電し、

残ったのは、京から下った兵のみであった。

断捨離から始まる墓場までの時間  荻野浩子

のこる官軍は、わずか1000~2000騎。

これではまったく勝ち目がない。

「官軍として断固戦うべし」と主張する維盛に、

伊藤忠清は撤退を説得した。

退却を考え始めたところへ、

多数の水鳥が富士川から一斉にいい飛び立った。

その羽音に驚き、

敵襲と錯覚した平氏軍は潰走してしまう。

この敗北は、清盛が後白河院を幽閉して成立させた

平氏政権の権威を崩壊させてしまった。

いい訳のところどころで座礁する  高島啓子

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脱ぎ捨てた喪服も黙り込んでいる  新家完司

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  平家物語「物怪の事」

福原岡御所の清盛寝所に現れた巨大な妖怪の顔

(画面をクリックし拡大してご覧下さい)

「安徳天皇の福原への遷幸」

以仁王方の軍勢には、

興福寺・園城寺の衆徒も参加していた。

反乱軍と寺社勢力が手を結ぶのは、

従来の寺院と国家権力の

関係からは考えられない事態であった。

≪平安後期以降に頻発した南都甫北嶺の大寺社の強訴が

   時々の政権にとって悩ましい課題であったことは周知の通りだが、

   その要求は寺院内部の既得権益に関するものであり、

   俗界の政治問題に口出しをする性格のものではなかった≫


しかし今回は清盛の打倒という以仁王の目的に沿って、

両寺院の大衆が参戦したのである。

靭帯の切れた人から泣きなさい  井上一筒

京近辺の大寺社にとって、

後白河院を幽閉し厳島神社を偏重する清盛と、

彼が成立させた高倉院・安徳天皇という体制は

到底認められるものではなかったのだ。

京に都があれば、

地理的に大寺社の行動に直面せざるをえない。

また、自身の血を継ぐ皇統に、

「新王朝に相応しい首都を造りたい」

との思いは自然であろう。

その地として、清盛は大陸との貿易の一拠点であり、

日常生活をいとなむ福原周辺を構想した。

清盛は始まる前も騒がしい  北野哲男

以仁王に加担した興福寺の処分など、

事後処理の途中であったが、

ここに清盛は福原への遷都計画を実行に移したのである。

移動の理由として、南都を攻めるためという噂があった。

また京に留まる貴族には、刑があるという話もあった。

すでに5月30日に、藤原邦綱から九条兼実のもとに、

「来月3日に福原への行幸がある」

という情報が入り、兼実は仰天している。

後輪をぐっとつかんで黙らせる  湊 圭史

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      御幸略記

6月2日、後白河院・高倉院、安徳天皇が京都を出発し、

摂津国福原に向かった。

≪京外の行宮への天皇の移動は平安遷都以来初めてであり、

   当初は「行幸」すなわち天皇の移動に院も同行するという

   名目であった≫


6月3日、一行は福原に着いた。

安徳天皇は平頼盛の邸宅を、後白河院は平教盛の邸宅を、

高倉院は、清盛の別第を、

摂政基通は、大宰府安楽寺別当・安能の房を、

それぞれ御所としたが、

翌4日には、安徳は清盛の別第に遷り、

高倉院は頼盛の第に遷っている。

家主の頼盛は正二位に叙された。

油断して鬼と添い寝をしたようだ  中野六助

6月11日には、右大臣・九条兼実が、

「清盛が遷都の方針にほぼ決まったが、

  右大臣の参入を待っている」


という伝聞を聞き、13日に京を発している。

しかし和田に造営する計画が、土地の広さ等の問題で、

15日に小屋野に変化し、16日には厳島内侍の託宣で、

小屋野を改めよとあって、印南野になるなど、

都の造営計画も二転三転したのだった。

この歳になっても音程定まらず  嶋澤喜八郎

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      高倉御幸

7月16日に福原をしばらく天皇の皇居とすることとした。

8月4日以前には、

なおも故郷たる平安京は放棄せず、福原は

「離宮として、八省や大内を移転することはない」

としたが、8月12日には、

中山忠親等の公卿も福原に宅地を与えられている。

清盛は、なしくずし的に遷都計画を進めていった。

水仙と梅で始まる物語  立蔵信子

この頃には、清盛の親類の中にも、

福原への遷都計画に異を唱える者が現れはじめた。

7月の末頃から、高倉が体調不良となり、

29日には尊号等を辞退した。

8月4日には高倉が、

「実母建春門院が自分を捨てて、遷幸したのは不本意」

と言ったという夢を見たといいだした。

中宮徳子藤原隆季も同様の悪夢を見たという。

高倉の体調不良は事実であるが、

夢にかこつけて「遷都への不満」を表明したのだろう。

体の中のどこかが痛む霧の中  森中惠美子

7月30日には、

「大嘗会を今年京でするか福原でするか」

という諮問が人々になされ、それに対して藤原隆季が、

「遷都はどうせ無理だろう」

と言った事が清盛に伝わり、清盛を激怒させている。

天皇の重要な就任儀礼である大嘗会を行うにあたって、

その場所が帝都であるべきであり、

離宮では問題であるとする声も強かった。

しかし、清盛は形通り里内裏を造ることで、

福原で大嘗会を行う方針を示した。

銀食器行進曲で攻めてくる  岩根彰子

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8月12日以前には、隆季や平時忠が、清盛に

「京都に遷都せよ」という高倉の仰せを伝えた。

しかし清盛は、「参るつもりはない」 と返答し、

さらに、「なぜ大嘗会を行わないのか」

と言っている。

そのため以後は、遷都を言う者はいなくなった。

本日は晴天なりで幕が開く  橋倉久美子

8月19日、清盛は厳島参詣に出発し、

さらに宇佐八幡宮に参詣している。

8月29日以前には、皇居を造営し、

八省と重要な官司を建てて

内裏を移転するという方針を決定した。

福原を正式の首都とする清盛の構想が、

現実になってきたのである。

真っすぐの鉄条網はありえない  森田律子

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