ロンパリ!考える椅子
川柳的逍遥 人の世の一家言
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八重が暮らした町
夕映えに染まり町の灯に染まる 新家完司
会津城周辺地図
(画像をクリックすると拡大されます)
「八重の暮らした会津城下町」
会津若松城下は、天正18年
(1590)
会津領主となった、
蒲生氏郷
(がもううじさと)
の造った町割りが、
幕末まで約280年間、ほぼ変わることはなかった。
城下は外堀と土塁を境に内側を
郭内
、外側を
郭外
と称した。
郭内は東西1782メートル、南北1273メートルと、
やや、楕円形状になっていた。
待ち惚けとも知らず弾んでいた時間 田中輝子
郭内には、鶴ヶ城や藩役所、藩校と上級武士の屋敷が、
幕末時点で四百数十軒置かれた。
維新後、外堀は埋め立てられ残っていないが、
東北角の部分に高さ約5メートル、
長さ約170メートルの外堀土塁の
一部が保存されている。
雨雲の切れたところで息をする 笠嶋恵美子
藩校日新館
郭外から郭内へ入るには、全部で16ヵ所の郭門があり、
厳重に守られていたが、今は甲賀町口郭門を除き、
その遺構は失われた。
戊辰戦争
で
「藩校・日新館」
はじめ、
郭内の武家屋敷はすべて、焼失してしまったが、
鶴ヶ城
は三之丸を除き、おおむね原形を保っている。
藩政時代の町名も多くは失われたが、
郭内郭外とも、
城下の旧町名由来などを記した標識が設置され、
町案内に役立っている。
せめて夕暮れをちょっと値切ってみたくなる 中 博司
米代四ノ丁地図
(画面は拡大してご覧下さい)
八重
の生家は鶴ヶ城の西、当時の
米代四之丁
にあった。
米代とは変わった地名であるが、
蘆名時代からあった名称で、
古くは稲台また米袋とも称された。
米代一之丁と米代二之丁のあいだには、
藩校・日新館があり、
現在は北西角にあった
天文台跡
のみが残る。
目を閉じて見えてくるのは過去ばかり 笠原道子
八重の住んだ米代四之丁の道は、今も残り、
当時は道幅約3・6㍍、家数は22軒で、
ほとんどが家禄百~二百石クラスであった。
八重の父・
権八
は砲術師範、
拾二石三人扶持と石高は低かったが、
身分的には上級武士であった。
正論を吐いて踏ん張るやじろべえ 岡内知香
日新館射撃練習風景
隣の白虎隊士・
伊東悌次郎
は八重に射撃を習い、
飯盛山で自刃した。
裏の米代三之丁には幼馴染の
日向ユキ
、
高木時尾
の住む屋敷があった。
現在は住宅街となり、当時の面影を偲ぶことは、
出来ないが、
「覚馬・八重生誕の地碑」
が建立されている。
生き死にの話はご飯食べてから 谷口 義
藩・家老たちの邸宅がある本二ノ丁
(画像は拡大してご覧下さい)
鶴ヶ城の北を東西に走る本一之丁には、
重臣の屋敷が立ち並んだ。
甲賀町通りを挟んで家老・
内藤介右衛門
邸と、
西郷頼母
邸が向かいあい、
現在裁判所となっている内藤家には当時の庭、
白露庭
が残る。
音立てて乾きはじめたのは昨日 大西泰世
西郷邸は戊辰戦争の際、
頼母の母や妻子ら一族21人が自刃したことで知られ、
「西郷邸址」
の大きな碑が立つ。
降伏開城後、
降伏式
はこの両邸のあいだの路上で行われた。
その際に敷かれた緋毛氈
(ひもうせん)
は、
泣血氈
(きゅうけつせん)
と名付けられ、
「この悔しさを生涯忘れまい」
と小さく切り分けられ藩士らが所持した。
カサコソと抱いた骨壷から返事 桑原伸吉
中央が甲賀町通り
(画像は拡大してご覧下さい)
地図下段に内藤・萱野・西郷の邸宅がある
本一之丁を東へ進むと、家老クラスの屋敷が建ち並ぶ。
萱野権兵衛
は、
「会津戊辰戦争」
の責任を一人で負い、
切腹したことで知られる。
向かいは藩の馬術練習場・
桜ヶ馬場
で、
往時は桜で囲まれていた。
萱野邸の隣は、
田中土佐
邸で、
土佐は甲賀町口郭門を破られた責任をとり、
神保内蔵助
とともに自刃した。
三寒四温まだ咲いていた寒椿 籠島恵子
甲賀町通りは、
郭内への正門である甲賀町口郭門と鶴ヶ城をつなぐ、
南北のメインストリートである。
郭内から郭外の甲賀町へ、つながる道であることで、
この名が付けられた。
通りの長さは、本一之丁から甲賀町口郭門まで、
約585メートル、往時の道幅は約18・2メートル。
重臣の屋敷が置かれ、本一之丁、大町通りと同じく、
郭内の最重要路の一つであった。
南端の本一之丁から北へ五之丁まで、
東西の道と交差する。
郭内まで東側9軒、
西側11軒の武家屋敷が建ち並んだ。
悲話眠る箱階段の艶光り 荻野浩子
藩士の水練の風景
甲賀町口郭門は、
両側が高石垣になった厳重な門が設置されたが、
現在は石垣のみ残る。
戊辰戦争の際は、大手口であるこの門に、
新政府軍が大挙押し寄せ大激戦となった。
外堀を越えると東側には、
中級藩士の学校・
北学舘
があった。
その北、一之丁との角には、
会津藩の迎賓館である御宿屋敷が置かれ、
参勤交代の越後藩士たちや幕府役人が宿泊した。
米粒のひとつひとつに遺言書 くんじろう
[3回]
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y2013/01/30 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
妖霊星流れる
人間をすぐに数える紙コップ 森中惠美子
ドナチ彗星
イタリア人の天文学者・
ジョヴァンニ・P・ドナチ
が発見した彗星。
「ドナチ彗星―箒星」
尾が伸びたように見える姿から、
箒星
(ほうきぼし)
と呼ばれる。
彗星
のこと。
その形状が流星と似ているが、
移動速度が異なるため、
彗星は天空に、留まっているように見える。
1858年10月10日に最も地球に接近した。
次に接近するのは3811年とされている。
どうしても流れの先を見てしまう 立蔵信子
井伊直弼
「難問にケリをつけた幕末の剛腕大老―井伊直弼」
井伊直中
の子として生まれた
直弼
は、
14男で兄弟が多かった上に、庶子であったこともあり、
養子の口もなく、父の死後、三の丸尾末町の屋敷に移り、
17歳から32歳まで、
三百俵の捨扶持の部屋住みとして15年間、
茶道や和歌、禅、居合術などを学び、
世捨て人のように生きた。
その風流な姿から
「チャカポン」
(茶・歌・鼓)
とあだ名された。
昼寝から欠伸ひとつをした大器 辻内次根
ところが弘化3年
(1846年)
、
第14代藩主で兄の直亮
(なおあき)
の世子であった、
直元が死去したため、人生一変、
兄の養子という形で、彦根藩の後継者に決定する。
そして、36歳のとき、第15代彦根藩主となる。
彦根藩時代は
藩政改革
を行ない、名君と呼ばれた。
その実績から江戸城にスカウトされ、辣腕を振るう。
そして、安政5年
(1858)
4月、
将軍
家定
の後継に
慶福
(よしとみ)
を推す
「南紀派」
の、
政治工作により、将軍に次ぐポストである、
大老
に登りつめる。
弾むたび古い鱗を振り落とす 嶋澤喜八郎
彼が
「桜田門外の変」
で命を落とす、
およそ2年前のことである。
井伊は、幕府がかかえていた二つの大きな問題を、
強引な手法で解決へと導いていく。
ひとつは、
「日米修好通商条約」
。
日本側に不利な
不平等条約
であったが、
井伊は日本の行く末を考え、
孝明天皇
の勅許を得ないまま、
強引に条約締結へと踏み切った。
そして、もうひとつが、
「将軍の跡継ぎ問題」
である。
投げかけた答は長い長い貨車 山本早苗
時の将軍・家定に子がいなかったため、
直弼は、当時まだ13歳だった紀州徳川家の
慶福
(家茂)
を、
十四代将軍の座にすえた。
後継候補にはもう一人、水戸徳川家出身で、
聡明だとして評判の高かった当時22歳の
一橋慶喜
もいたが、
直弼は、慶福のほうが将軍家の血が濃いとし、
慶福を将軍職につけたのだった。
器からはみだしていくボヘミアン 高島啓子
水戸斉昭
これには、血統を重んじて、
徳川将軍家の権威を強化するという意図のほかに、
自分の意のままになる若い将軍をすえ、
「自身の権力を強めたい」
という狙いがあったと考えられる。
しかし、直弼が行った強権的な政治は激しい反発を呼んだ。
とくに不満をつのらせたのは、
慶喜の出身家である水戸藩である。
水戸藩をはじめとする
尊王攘夷派
は、
直弼が、勅許を得ずに条約に調印したことを理由に、
直弼の諸政策に対して、
真っ向から反対の姿勢を示していく。
塩壺の底に貧乏神がいる 新家完司
そこで、直弼は
「安政の大獄」
という大弾圧で、
反対派を多数処罰した。
水戸斉昭、一橋慶喜、松平春嶽
、ら一橋派が、
違勅調印と詰め寄ると、
「不時登城」
を理由に隠居謹慎を命じ、
一橋派の朝廷工作
(戌午の密勅)
が明らかになると、
斉昭らを蟄居、橋本左内、吉田松陰ら、志士を斬刑に処し、
皇族や公卿も粛清した。
異議のある人は方物線上に 井上一筒
しかし、直弼の独裁政治も長続きはしなかった。
自派の幕閣も次々と罷免し、孤立を深めていく。
そして、安政7年3月3日雪の朝、
外桜田の藩邸から江戸城に向かう途上、
水戸脱藩浪士ら18名に襲撃され、
井伊直弼は44年の生涯を閉じる。
(桜田門外の変)
何が変わったか おそらく風とおし 下谷憲子
パリの夜空に輝いた巨大な箒星(1858年)
「大河-ちょっと覗き見」
井伊直弼
への談判のあと、
直弼邸の裏門から出た
松平容保
は、
空に長い尾を引く巨大な箒星を見て、
不吉な思いにかられる。
容保が見た箒星を会津の
八重
も見ていた。
「あれ、見らんしょ!妖霊星だし」
妖霊星が現れると幕府が滅ぶなど、
不吉な予兆と言われていたが、
八重の不安をよそに、
覚馬
や
尚之助
は迷信だと切って捨てる。
あいまいにしておく影のことなんか 清水すみれ
ところが八重の不安が的中する。
長崎で流行りだしたコレラは、
瞬く間に広まって大勢の死者を出し、
薩摩藩主・
島津斉彬
の命も奪った。
さらに幕政では、
井伊直弼による大粛清が始まっていた。
水戸藩への密勅に関わった者たちへの、
一斉検挙が行われたのだ。
雲行きが怪しい笑顔片付ける 和田洋子
当時の箒星の出現についての日記
宮崎県・
「宮崎県史史料編近世5」
より。
「一 安政五年戊午八月酉戌之間ニ
ほうきぼし
出、
長さ一丈五尺計・横壱尺計、暮六時下刻ニ出、
夜五時上刻ニ入、星入時者弐丈五尺計ニ尾を引相見合候」
永浜家文書・高原所系図壱冊(天保四年十二月吉日)」
(永浜公法氏所蔵)に、と書かれている。
※ 一丈五尺(約4.5メートル) 弐丈五尺(約7・5㍍)
悠遠を斬る一瞬の流れ星 中島国夫
[2回]
y2013/01/27 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
西郷頼母
とりあえず意思は曲げない接続詞 たむらあきこ
西郷頼母
会津藩祖・
保科正之
の同族で、
代々家老職を務めた西郷家、西郷近思の嫡男として、
天保元年
(1830)
に生まれた
頼母
は、
万延元年
(1860)
、31歳で家老職を継ぐと、
藩主・
松平容保
に忠誠をもって仕えた。
しかし、時代は幕末に向かって混乱を極め、
頼母は会津藩とともに、歴史の渦の中に巻き込まれる。
ひん曲がり斜めに咲いてそれも花 山下怜依子
頼母、そして会津藩にとって、
後の命運を左右することになったのは、
文久2年
(1862)
だった。
幕府は容保に
「京都守護職」
を命じた。
これを知った頼母は急ぎ江戸へ上り、
朝廷と幕府の間に入り、
「難局にあたることは容易ならざるため、
京都守護職は辞退すべし」
と容保に説いた。
咲きなさい自分の好きな色かたち 嶋澤喜八郎
しかし、幕府の執拗な要請に、
容保は、京都守護職を受諾してしまう。
それでも、強固に辞任を求めたことで、
容保の怒りを買った頼母は、家老職を解かれ、
蟄居させられてしまう。
残照を描き私を俯瞰する 前中知栄
鶴ヶ城外景
(画像は拡大してご覧下さい)
慶応4年
(1868)
「戊辰戦争」
が起こると、
頼母は急ぎ家老職に復帰する。
江戸藩邸の後始末を終えた後に会津へ帰ったが、
維新後の新政府は、
「会津藩征伐令」
を出し、
会津に攻め入る。
「不戦恭順
」を唱えていた頼母だったが、
恭順の意が朝廷に届かず、
総督として新政府軍を迎え撃ったが敗れて、
鶴ヶ城に帰る。
頼母は長子の
吉十郎
を伴って城を出たが、
母をはじめとする一族は籠城の末、全員が自刃した。
字余りのままで流れてゆくのです 中 博司
その後、頼母は、
榎本武揚
らと合流し、
箱館で政府軍と戦ったが、最後には降伏、
館林藩に預けられて幽閉される。
明治5年
(1872)
に開放されると、
伊豆に私塾を開設し、
塾長として里人らに学問の指導を行った。
明治8年
(1975)
からは福島県の霊山神社の宮司を勤め、
明治36年
(1903)
会津若松の旧藩邸のすぐ近くにある、
十軒長屋で74年の生涯を終えた。
手も足も口も出さない石となる 河村啓子
[2回]
y2013/01/23 09:35 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
川崎尚之助
太陽と月を跨いでいるひたい 谷垣郁郎
木の上で読書に耽る八重
(画像は拡大してご覧ください)
「川崎尚之助」
八重
の兄・
覚馬
は江戸での
「遊学」
を通じて、
幕府や諸藩の開明の士との間に、人脈を広げていったが、
その中の一人に、
川崎尚之助
がいた。
八重の最初の夫となった人物である。
本名は
「正之助」
だが、
会津松平家の始祖である
保科正之
と、似ているため、
配慮して改名したという。
薄皮を剥いでシーラカンスは昆布〆 山口ろっぱ
尚之助は、出石藩の医者の家に生まれ、
覚馬と同様に、江戸で医学や蘭学を学んでいた。
出石藩きっての俊才と評判の若者で、
覚馬は会津藩の藩校・
日新館
に設立した蘭学所の
教授陣を充実させるために、
尚之助をスカウトして、会津に呼んだのだ。
尚之助は蘭学所で教鞭をとるかたわら、
覚馬の「軍制改革」を補佐した。
大文字山を盆地で摺り下ろす 筒井祥文
木の上の八重を見上げる尚之助
近年の研究では、尚之助は、
覚馬の肝いりで後に正式に会津藩士として、
取り立てられたことがわかっている。
覚馬は尚之助を、自分の家に寄宿させていたため、
八重は十代前半の頃には、
尚之助と一つ屋根の下で、暮らしていたことになる。
≪八重と尚之助のそれ以上の馴れ初めについては不明≫
アッハッハ女心が描けない 徳山泰子
近年になって八重が、尚之助の妻となったことが、
確認できる資料が発見されたため、
二人が夫婦だったことは、間違いないとされる。
しかし、
「二人の結婚生活がどのようなものであったか」
が解るエピソードは残ってないし、
八重自身も尚之助のことについては、
口を閉ざして、語りたがらなかった。
擂鉢の節目に点滅信号 岩田多佳子
一方、二番目の夫である
新島襄
については、
回顧録で思い出の数々を語っており、
まだ封建的な道徳観念が色濃く残っていたことを、
差し引いても、あまりに対象的な扱いといえる。
それでも、八重にとって尚之助との夫婦生活が、
忘れたい過去だったかといえば、
決してそんなことはないはずだ。
美辞麗句君はフリーズドライ刑 岩根彰子
特に兄の覚馬が京都に発ってからは、
洋学に明るい尚之助が、
兄に代わる八重の心の拠り所となったことは、
確かだろう。
尚之助は、
「会津戦争」
の敗戦と時を同じくして、
八重と別れたとされる。
それまでは、会津藩士ではないので開城の際に、
会津を去ったというのが定説であったが、
近年になって、尚之助は会津藩士だったことが
わかっているので、疑問の余地がある。
ボンネットバスに二人で乗った頃 井上一筒
他藩出身の尚之助に責めが及ばないように、
「八重の方から別れた」
という説もあるが定かではない。
会津藩が斗南に移封になると、
尚之助も斗南藩士として同行している。
その後、廃藩置県を経て斗南藩も消滅。
尚之助は裁判に巻き込まれて、
東京に身柄を送られ、
判決を待たずに獄中でひっそり死んだ。
花屋のない街を通って来た別れ 森中惠美子
[2回]
y2013/01/19 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
八重と覚馬
始まりはリンゴと蛇と好奇心 板垣孝志
「八重と覚馬」
八重
にとって、
権八
のほか父親のような存在が、もうひとりいる。
兄・
覚馬
である。
八重の自慢はこの兄だったが、
実をいえば、幼い頃、
八重はこの兄が苦手だった。無理もない。
歳が17も離れているし、
八重が6歳から7歳にかけて、
また、9歳から12歳にかけて、
江戸へ留学してしまったため、
幼女の思い出に兄の影はほとんどない。
さらにいえば、留学を終えて帰ってきた兄は、
あまりにも、眩しすぎた。
朝日から私へさらの一ページ 徳山みつこ
覚馬は江戸で
佐久間象山
に学び、
洋式砲術の泰斗として帰藩し、
藩校・
「日新館」
に蘭学所を開設してその教授となるや、
さらに立身して、
軍事取調役兼大砲頭取にまで駆け上がった。
それだけではない。
覚馬が衆に秀でていたのは、理論だけではなかった。
弓馬刀槍はもとより、
鉄砲を撃ち放つ技術も、人並み波外れている。
ゲーベル銃の命中率だけでも当代随一といわれ、
理論と実践を兼ね備えた一流の人物として、
藩と藩の垣根を越え、
諸国の藩士から信頼を得ていたのである。
見てたんだこの私が見てたんだ 嶋澤喜八郎
八重は、父よりも畏怖の対象ともいうべき兄から、
砲術を手ほどきされた。
そうしている内に、徐々に慣れ親しみ、
歳の離れた妹として、
愛情を一身に注がれていることに、気付いていった。
畏怖は消え、尊敬が生じ、自慢が湧いた。
「砲術だけではなく、裁縫にも励むのだぞ」
と言われれば、直ちに
「はい」
と明るく答え、
針と糸を手に取ったものだ。
要するに、八重にとって覚馬は、
絶対的な存在といっていい。
助けたり助けてほしい位置にいる 山本昌乃
象山の発明品
こんなことがあった。
ある日、覚馬は江戸留学中に知己となった、
但馬出石藩出身の、
川崎尚乃助
を招き、
洋砲伝習と
舎密術
(せいみじゅつ)
の教授として、
務めさせたのだが、そればかりか、
いきなり八重に縁談を持ち掛け、縁づかせようとした。
自分の片腕の尚之助を藩士の身分に引き上げて、
「いつまでも側に置いておきたい」
とする策略以外の何者でもなかったが、
驚いたことに、
八重は、この兄の頼みに素直に応じた。
行間に助けもとめる息遣い 清水すみれ
自我の強い八重とは思えないような、素直さだったが、
それだけ会津の発展に精魂を傾けている兄を、
支援したかったのだろう。
それを期に覚馬は、八重に砲術の訓練を控えさせた。
これもまた素直に従った八重であった。
新しい風が吹き始めたようだ 岡内知香
【豆辞典】
-舎密術(せいみじゅつ)
舎密とは蘭学者・
宇田川幸庵
がオランダ語で、
科学を意味する「Chemie]に漢字をあてたもの。
1840年、幸庵の翻訳本「舎密開宗」が出版される。
1869年には大阪に科学研究や教育・勧業のための、
公的機関「舎密局」が設置されている。
マジシャンの腋の下からアマリリス 井上一筒
[3回]
y2013/01/16 09:30 z
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