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川柳的逍遥 人の世の一家言
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(べに)引くと生きてゆく気がする不思議  時実新子

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       白拍子

「白拍子」とは、平安末から鎌倉期にかけて大ブームとなった舞姫である。

水干(すいかん)、烏帽子に白鞘巻(しろさやまき)の太刀をさした男装で、

当時の流行歌謡である「今様」を歌いながら舞う男舞で、

鎌倉時代の朝廷には遊興のときに、

白拍子を集める
「白拍子奉行人」なるポストまであったという。

わたくしは遊女よ昼の灯を点もし  時実新子

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  静御前

徒然草によると、平治の乱で犠牲となった信西入道が、

舞女のなかから、特に芸道の熱心なものを選び、


磯禅師に教えて舞わせたのが始まりで、

それを娘の
が継いだのであるという。

静とは、いうまでもなく
源義経の愛妾であるが、

静こそ白拍子の正統の継承者であり、

義経を慕う歌を歌いながら舞う姿に、

並みいる御家人たちが、感動をもよおしたという。


(画面は拡大してご覧ください)

一月に生きて金魚の可能性  時実新子

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       祇 王

「祗王・祗女」

平家物語によると祗王・祗女の姉妹は、

都で評判の「白拍子の上手」だった。

この芸が時の権力者・清盛の目にとまり、

姉の祗王は邸に迎えられて、寵愛を受けるようになる。

清盛はふたりの母・とじにまで家をつくって与え、

毎月米百石に銭百貫文を送ったという。

清盛の祗王への執心が増すにつれ、

祗王の名声はますます高まり、

祗王にあやかろうと「祗」の字をつけた白拍子が急増した。

二ン月の裏に来ていた影法師  時実新子

それから3年ほどたったころ、

またしても白拍子の上手が現れた。

加賀生まれの16歳で名を(仏御前)という。

たちまち都の人気者となった仏は、

「天下に名前は知れ渡ったけれども、

 今をときめく太政入道殿に召されないのは残念なこと」


と思い、自ら清盛の西八条邸を訪れた。

三月の風石に舞うめくるめき  時実新子

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しかし清盛は、

「遊び女は呼ばれてから来るものだ。祗王がいる以上、

  神も仏も出入りは無用、さっさと帰れ」


と追い返そうとする。

それをとりなしたのが祗王だ。

「呼ばれなくとも参上するのが遊び女のならい、

 すげなく追いかえすのは同じ白拍子として、

 可哀そうでなりません」


といってとりなした。

四月散り敷いて企み夜になる  時実新子

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それならばと、清盛が仏を招いて歌い舞わせたところ、

これが祗王に勝るとも劣らない、至高の芸であった。

清盛はたちまち仏に心を移し、西八条にとどめようとする。

慌てたのは仏である。

「祗王御前のとりなしで舞を見ていただいたのに、

 邸に召し置かれたら祗王御前はどのように思うでしょうか」


と固く拒んだ。

ところが清盛は、

「祗王をはばかるならば、祗王を追い出そう」

といって祗王を邸から追いたてたのである。

美しい五月正当化す別離  時実新子

噂を聞き伝えた都人たちは、

それならば祗王を呼んで、

遊んでみようとしきりに使いを送ったが、

いまさら人に芸を見せる気にもならない。

そんなある日、

傷心の祗王のもとに西八条から使いがやってきた。

「仏が退屈そうだから邸にきて舞をみせよ」 という。

六月の雨まっさきに犬に降る  時実新子

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あまりの仕打ちに祗王が返事をしないでいると、

重ねて清盛の使いがやってきて、

「どうしても来ないならこちらにも考えがあるぞ」

と威しをかけた。

「都を追い出されるのはつらい」

という母の言葉に背中を押され、

しぶしぶ西八条へ出頭する祗王。

七月に透ける血脈陽を怖れ  時実新子

清盛の前に姿を現した祗王は、涙をおさえて、

「仏もむかしは凡夫なり、我等も終には仏なり、

  いづれも仏性具せる身をへだつるのみこそかなしけれ」


と歌った。

〔仏もむかしは人であった。我々も悟りを開けば仏になる身である。

  いずれも仏性をもっているのに差別されるのは悲しい・・・〕


仏と仏御前をかけて、

このように悲しみを歌に託したのである。

八月の蝉からからと完(おわ)りける   時実新子

これを見て、平家一門の公卿、殿上人、家人にいたるまで、

涙を流さない者はいなかったが、

清盛だけは彼女の心のうちに気づかず、

上機嫌で、

「舞も見たいが今日は忙しい。

  今度は呼ばれなくてもくるように」


と命じるのだった。

脈うつは九月の肌にして多恨  時実新子

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悔しさに打ちひしがれて、泣く泣く家に帰った祗王は、

「これほど辛い目にあうくらいならいっそ死んでしまいたい」

と打ち明けたが、

「娘に死におくれ、生きながらえてもしかたない」

という母の言葉を受けて、ようやく思いとどまる。

そして親子三人は、髪をそって尼となり、

嵯峨野の奥に庵を結んで、念仏三昧の日々を送り始めた。

祗王21歳、祗女19歳であった。

十月の藍の晴着に享(う)く光  時実新子

ところが、その年の秋、意外な人物が庵を訪れた。

いつものように三人が念仏を唱えていると、

竹の網戸を叩くものがいる。

仏道修行を妨げる悪魔が来たのかと思いながら、

恐る恐る戸を開けてみると、

立っていたのは何と仏御前であった。

あくまでも白し十一月の喉(のんど)かな  時実新子

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      祇王寺

仏は、

「いずれ自分も同じ身になると思うと,

  嬉しくありませんでした。

  この世の栄華は夢の夢、一時の楽しみに誇って、

  来世の幸福を得られないのは悲しいとおもい、

 邸を出てきました」


といい、被っていた布をとるとすでに尼姿になっていた。

それから4人は、一緒に念仏を唱えながら日を送り、

ついに極楽往生の本懐を遂げたのであった。


(うてな)=極楽に往生した者の座る蓮(はす)の花の形をした台

極月のてのひらなれば萼(うてな)です  時実新子

拍手[2回]

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影があるかと振り向いてばかりいる  森田律子

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       源行家


新宮十郎行家(源行家)は、

源氏の総帥・
八幡太郎義家の孫であり、源為義の十男である。


「新宮十郎行家」

為義後白河院の熊野御幸に検非違使として随行した際、

第15代熊野別当・長快の娘をみそめて結ばれる。 

「熊野の女房」とか「立田の女房」とか呼ばれていた彼女は、

生地の新宮で一女一男を産んだ。

女児が丹鶴姫で、男児が新宮十郎行家だ。

頼朝義経にとって、

丹鶴姫は叔母であり、十郎は叔父になる。

卵焼きの匂いがする始発駅  神乃宇乃子  

為義の10男として生まれた行家は、

最初は源氏の御曹司らしく「義」の一字をいただいて、

「義盛」と名乗っていた。

新宮で生まれ育った行家が、

源平の争乱のなかに乗り出すきっかけとなったのは、

同じ源氏の源頼政の口ききによる。

見せ掛けはスムーズだった方程式  北原照子

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 頼政のにらみ

まっさきに平家に反旗をひるがえした頼政にとって、

血筋がよく、弁舌達者な行家は重宝な存在だった。

頼政は、行家を八条院蔵人に推したうえ、

「平家を討つように」 という、

以仁王の令旨を伝達する使者として白羽の矢をたてた。

≪頼政、
以仁王主役説に別の見解もある≫

その泥は冷えたご飯に合うのです  中村幸彦

以仁王の令旨を携えた行家は、

治承4年(1180)5月1日、鎌倉の北条館に到着した。

令旨を受け取った頼朝は、水干の装束をつけ、

男山八幡宮に向かって遥拝してから目を通したという。

鎌倉から信濃へと足を伸ばした行家は、

甥の木曾義仲に会って挙兵を説くなど、

諸国の源氏一族に伝えた。

行家には、天性の情報収集能力と、

今でいうコーディネーターとしての、

才能に抜きんでたものがあったと伝わる。

ピノキオの鼻は味方をたんと持ち  森中惠美子

行家が「義盛」から「行家」に改名したのは、

熊野別当第19代・行範と関わる「行」がついているほうが、

諸国に散らばっている熊野山伏たちの、

庇護を受けられると考えたからと解釈される。

地元では仮面はずして輪に入る  佐藤正昭

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    源頼政

「源頼政」


頼政は、武将であり歌人である。

その才が後白河天皇に愛され、

保元の乱(1156)では、後白河方の源義朝の下で戦う。

続いて義朝が起こした平治の乱(1159)では、

清盛に味方し、

源氏でありながら平家の政権下に名を残す。

しかし、出世は遅く、昇殿を許されたのは63歳のとき、

清盛の推挙で従三位に叙せられたのは、

75歳になってからである。

空遠く消して眼球だけ残す  富山やよい

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     頼政句碑

平家物語によると清盛は、

頼政の階位について完全に失念しており、

そのため長らく正四位であった頼政が、

"のぼるべきたよりなき身は木の下に椎(四位)をひろひて世をわたるかな"

という和歌を詠んだところ、

清盛は初めて頼政が正四位に留まっていたことを知り、

従三位に昇進させたという。

ゆで卵ツルンとむけた今日の運  山本昌乃

治承3年(1179)11月、法皇と対立した清盛は、

福原から兵を率いて京へ乱入して、クーデターを断行、

院政を停止して法皇を幽閉する挙に出た。

「治承三年の政変」と呼ぶ。

たこ焼きが焼けた革命始めよう  石橋芳山

翌治承5年(1180)2月、清盛は高倉天皇を譲位させ、

高倉帝と清盛の娘・徳子との間に生まれた3歳の、

安徳天皇を即位させた。

これに不満を持ったのが、

後白河法皇の第三皇子の以仁王である。

以仁王は法皇の妹・八条院暲子内親王の猶子となって、

皇位への望みをつないでいたが、

安徳天皇の即位で、その望みが全く絶たれてしまった。

頼政はこの以仁王と結んで、

平氏政権打倒の挙兵を計画した。

ピリオドのために踏み出す第一歩  植田斗酒

諸国の源氏と大寺社に、

「平氏打倒」を呼びかける令旨の伝達は、

先述の源行家にまかされる。

しかし、5月にこの挙兵計画は露見、

平氏は検非違使に命じて以仁王の逮捕を決めた。

だが、その追っ手に頼政の養子・兼綱が含まれていたことから、

まだ平氏は、頼政の関与に気付いていなかったことがわかる。

以仁王は園城寺へ脱出して匿われた。

海は弧に砂のトルソを覗き込む  湊 圭史

5月21日に平氏は園城寺攻撃を決めるが、

その編成にも、頼政が含まれていた。

その夜、頼政は自邸を焼くと、

仲綱・兼綱以下の一族を率いて園城寺に入り、

以仁王と合流。

平氏打倒の意思を明らかにした。

ピボットのガスは斑に腐敗する  井上一筒

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    源頼政vs鵺

「頼政エピソードー鵺(ぬえ)退治」ー(平家物語から)

仁平3年(1168)夏、近衛天皇は奇病に悩まされていた。

深夜になると黒雲が御所をおおい、

鵺の鳴き声が聞こえてくる。

その度に天皇は苦しまれた。

薬も名僧たちの祈願も効かず、

やがて雲の中に住む妖怪の仕業と考え、

弓の名手・源頼政に妖怪退治が命じられた。

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きっと見上げた頼政は弓をひき

「南無八幡大菩薩」と心の弓に祈念して、

矢を力一杯放つと見事命中、

落ちてきた妖怪を家臣の者の早太が刺し殺した。

火をともして見ると、

顔は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎、

恐ろしいという以上である。

天皇は感心され獅子王という名剣を下された。

破れ目をつくろいにゆく接続詞  たむらあきこ

拍手[3回]

今朝一つピラカンサスの実がはじけ  河村啓子

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「平家物語」(御産の事)

徳子の皇子誕生。

御簾から顔を出し皇子出産を喜ぶ後白河法皇の言葉に、

思わず泣いてしまった清盛。


(画面は拡大してご覧ください)

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点滅にいよよ華やぐ膝頭  酒井かがり

「1178年」

治承2年(1178)11月12日、高倉天皇徳子の間に、

清盛念願の男子が生まれた。

のちの安徳天皇である。

皇子の無事の生誕を見届けた清盛は、

11月16日に京から福原に戻っていった。

しかし、京で廷臣達が、皇子の立坊の儀(皇太子になる儀式)を、

2~3歳の先例が不吉なので、

1歳の時に行うか、4歳で行うかで意見調整していると、

清盛は急遽26日夕方に京に上洛した。

もう少しわくわくせよと山笑う  新家完司

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     妙順寺(京都市東山区)安徳天皇産湯の井戸

当時の年齢は、産まれたときに1歳で、

正月毎に歳をとる数え年で計算するため、

皇子は生まれた次ぎの年に2歳になる。

1歳で立坊するのであれば、残り2ヶ月をきっているが、

上洛した清盛の意向が影響して、

皇子は1歳の時に立坊することに決まった。

決まったが四十八手にない決め手  松井富美代

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  安徳天皇(泉湧寺)

皇子は12月8日に親王となり、言仁と名付けられた。

同日、近侍する者を任命する「侍始の儀」も行われた。

こうして12月15日に言仁親王(安徳天皇)は、

生後1ヶ月あまりで皇太子となった。

満ちて今影の形を整える  上田 仁

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「武者鑑ー源三位頼政」

「源頼政が従三位に出世する」

さて、治承2年(1178)12月24日に摂津の源頼政が、

「従三位」に任じられた。

清盛一門を別とすれば、

公卿としての待遇を得る従三位が武士として、

きわめて高い位階であることは言うなでもなく、

頼政の父祖で、三位に昇進できた者もいない。

家格からすれば分相応な昇叙に、

貴族たちは大いに驚いたが、

それは清盛の奏請によるものであった。

木星へビオラの弦を張りにゆく  くんじろう

清盛の奏請の状には、

「源氏と平氏は我国の堅めである。

 平氏は、朝恩がすでに一族に広く行き渡り、

 威勢が天下に満ちているが、これは勲功によるものだ。

 一方、源氏の勇士は、多くの者が逆賊に味方し、全て罰を受けた。

 頼政はひとりだけ正直で、勇名が世に知られているが、


 いまだ三品に昇進していない。

 すでに70歳余の年齢で、かわいそうである。

 しかも、近日は重病だということだ。

 黄泉に趣く前に、特に紫綬の恩を授けよう」


とあったという。

青以上に青い君のアンビシャス  和田洋子

朝廷を守護する武力の第一人者となり、

さらには将来の天皇となる孫が生まれ、

得意の絶頂であった清盛の様子が窺える。

安徳誕生の喜びに満ち溢れた清盛の内祝というべき、

推挙である。

頂点のあたりで赤ん坊が叫ぶ  湊 圭史

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「安徳天皇誕生の様子」

「清盛の政治構想」

安徳天皇が誕生し一歳で皇太子となり、

後白河院との対立が明白なものとなった清盛は、

後白河院の代わりとなる政治体制を発足させようとした。

より具体的にいうと、

高倉天皇を王家の家長とし、

「治天の君」とすることを考えていた。

高倉天皇の子が天皇となり、

上皇となった高倉院が院政を敷き、

それを清盛が誘導するというのが理想形であった。

蓮根の穴になれたらしめたもの  森田律子

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「1179年」

「摂関家領をめぐる後白河院方の介入」

治承3年(1179)6月17日、清盛の娘・盛子が没する。

享年24歳。

盛子は、摂政・藤原基実の室であり、

基実没後は、その遺領たる摂関家領を継承していた。

永万2年(1166)の基実の急死により、

藤原基房が摂政に就任し、氏長者に相続される興福寺や、

方上荘などの殿下渡領を伝領したものの、

基実の遺領の大半は、

後家の盛子が伝領していたのである。

幕が開きいきなり雪が舞いしきる  嶋澤喜八郎

当時11歳の盛子が伝領した摂関家領が、

実質的に清盛の支配下にあったことは言うまでもない。

亡くなった盛子の遺領は、高倉天皇が伝領した。

この措置は、

盛子が高倉天皇の准母であったことに基づき、

盛子の遺領となった摂関家領を、

高倉天皇が伝領することで、

平氏による実質的支配の継続を狙っていた。

≪准母=天皇の生母ではないが、母に擬して優遇するための待遇≫

断捨離をそのまま持ってお引越し  森中惠美子

それに対して、藤原基房と後白河院は結託して、

摂関家領の奪取を企てた。

摂政となった藤原基房は、

盛子の没時に「一ノ所ノ家領文書」

伝領を後白河院に申請した。

基房にしてみれば、基実の死去時に、

その遺領の大半を獲得できず、

清盛の娘・盛子に押領されたも同然であった。

しかも嘉応2年(1170)の所謂「殿下乗合事件」でも、

平重盛の逆恨みを受けるなど、平氏との対立もあった。

目立たないように白旗上げている  高橋謡々

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基房の摂政就任・摂関家領奪取の野心は、

平氏に対する恨みと連結していたのである。

後白河院は、高倉天皇領となった盛子の遺領の年貢を、

実質的に管理しようとして、

白河殿倉預に近臣の藤原兼盛を補任した。

10月8日には、基房の三男・師家が従三位に叙され、

10月9日には、

従二位右中将で20歳の藤原基通をさしおいて、

師家が僅か8歳で権中納言に補任された。

師家が将来の摂関となり、

摂関家領を伝領する予定であることが、

明示されたのである。

埴輪のような目にしてもらう手術  井上一筒

さらに同じ10月9日の除目で、

後白河院は、平維盛の知行国であり、

通盛が国守をつとめる越前を、

清盛に断りなく没収して、院分国とし、

院近臣・藤原季能を国守としてしまった。

これら摂関家領への介入、

師家の任権中納言、越前没収といった諸問題を、

主たる動因として、


清盛は政変を決断することとなる。

辛抱の箍がはずれてくる夕日  たむらあきこ

拍手[4回]

かさかさと骨の崩るる日を思う  森中惠美子

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無情の船を追いかける俊寛像

「鹿ヶ谷事件 流人たちのその後」

「鹿ヶ谷事件」において、清盛が、

西光とともに首謀者と目していたのが藤原成親である。

平治の乱のとき、妹が藤原信頼の妻であった

関係から謀反に加担したが、

同じく妹婿である重盛のとりなしにより命を救われた。

その後は、『愚管抄』に「院ノオトコノオボへ」と、

紹介されているように法皇と男色関係を結ぶことで、

西光とならぶ法皇の寵臣にのしあがった。

そこはかと変ではないか香を焚く  山本昌乃

清盛に呼び出された成親は、

平盛俊という屈強な武者によって押し込められたうえで、

備前に配流され、一週間ばかり食事も与えられず、

最後は酒を飲まされて殺害された。

『平家物語』によると、毒入りの酒をすすめられたが

用心して飲まなかったので、崖から突き落とされ、

下にうえられた尖った菱に貫かれて死んだという。

≪平治の乱の際、重盛の縁故によって助命されながら、

   なお平家にたてつこうとした成親の忘恩を、

   清盛は許すことができなかったのだろう≫


蝶になれないさなぎの悔いを懐に  杉浦多津子

鬼界ヶ島に流された俊寛、平康頼、藤原成親は、

成経の妻の父である平教盛のはからいで、

教盛が所有する肥前の荘園からの仕送りで、

命をつないでいた。

康頼と成経は、島のあちこちを熊野三山に見立てて、

日々巡礼を怠らなかったが、

僧侶でありながら、信仰心の薄い俊寛は、

加わらなかったという。

マヨネーズあれば何も怖くない  森田律子

また、康頼と成経はそれぞれの名前と帰京の願いを込めた

「和歌を書いた千本の卒塔婆」 をつくって海に流した。

やがてそのうちの一本が、

安芸の厳島に流れ着いたことから

都で評判となり、それを聞いた清盛も哀れに思ったと

『平家物語』は伝えている。

秋の真ん中辺で変換キーを押す  笠嶋恵美子

やがて、徳子の出産による恩赦によって、

鹿ヶ谷事件の流人たちも召し返されることになったが、

なぜか、俊寛だけは赦免からもれた。

俊寛は、

「われら三人は罪も同じ、配所も一つところなのに、

  なぜ私ひとりが残らねばならないのだ」


といって取り乱すが、船は無情にも沖へ漕ぎ出していく。

俊寛が去っていく船を追いかけ、

母を慕う子どものように足摺りしながら、

「これ乗せていけ、具していけ」

といって叫ぶ場面は、

平家物語屈指の名場面として知られている。

坂道を阿闍梨の湯気が駆け下りる  くんじろう

物語によると、俊寛が赦免からもれたのは、

謀議の場所を提供した俊寛に対する、

清盛の怒りが、大きかったからであるという。

が、真相は不明である。

あるいは恩赦が出た時、

すでに俊寛は死亡していたのかもしれない。

京に帰った成経は許されて、公卿にまで昇進、

配流に先だち出家していた康頼は、東山に隠棲して、

『宝物集』という仏教説話集を書いて後世に名を残した。

丑三つ刻になると深爪痛み出す  美馬りゅうこ

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 平家転覆を謀り、鬼界ヶ島に流された康頼の卒塔婆

その内、1本がここ宮島に流れ着き、老母、妻子の元に届けられた。

老母達の嘆きが法皇にも伝わり嘆かれ又、

清盛にも伝わり哀れんだという。


取り残された俊寛のその後は不明だが、

平家物語によると、

俊寛が長年召し使っていた有王という童が、

鬼界ヶ島におもむき、

やつれ果てた俊寛と対面し最期をみとったという。

≪鬼界ヶ島に比定されている硫黄島には、

   俊寛堂や船を追いかける
俊寛像が、厳島神社には、

   康頼の卒塔婆が流れ着いたという
卒塔婆石が残されている≫

秋冷をかこつ深夜のにごり酒  本多洋子

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「もう一つの鹿ヶ谷」

もう一つ、鹿ヶ谷事件においてよく知られているエピソードに

重盛の「教訓状」がある。


後白河が謀議に加担していることを知った清盛が、

法皇を幽閉しようとするが、

重盛に諫められて、思いとどまるというものである。

しかし、鹿ヶ谷事件の時点で、

清盛に法皇を幽閉する考えはなかった。

後白河の命令で、

比叡山攻撃を了承せざる得なかったことをみても、

清盛が依然として、

法皇を治天の君として尊重していたことがわかるし、

院近臣の処分についても、

西光と成親以外は、後白河の許可を得たうえで、

処罰を進めており、ことさら法皇の反発をあおることがないよう

配慮しているのである。

月朧そこでちょいちょいロバになる  山口ろっぱ

清盛としては、「治天の君」が不在になることで、

院政が継続不可能になることを避けたかったのだろう。

法皇の幽閉は、重盛の聖人君子ぶりを強調することで

清盛の横暴を際立たせようとする、

平家物語の創作とみてよい。

そもそも、重盛は成親の妹を妻にしている弱味があり、

清盛に意見できるような立場ではなかった。

≪平家物語の「鹿ヶ谷事件」は史実にあう部分も多いため

   歴史的事実として受け止められることが多いが、

   平家のおごりや清盛の横暴を際立たせるための演出が,

   多分に盛り込まれている≫


解熱剤だけは防潮堤を越え  井上一筒

これにより反平家勢力の台頭は抑えられたが、

その一方、代償も大きかった。

まず、後白河との関係がさらに悪化したことは痛手であった。

また、処罰された近臣の中には、

平家と縁戚関係を結んでいる者も多かった。

藤原成親の妹は、重盛の妻、

維盛の妻も、成親の娘であり、

藤原成経は、教盛の娘婿、

俊寛の姉妹は頼盛の妻であった。

事件直後、重盛が左大臣を辞任しているのは、

成親に対する処分に対して、

清盛に抗議する意図もあったのだろう。

事件は平家一門の内部にも、しこりを残す結果となった。

あなたとの間合い枯葉が舞っている  桑名知華子

拍手[2回]

退屈を煮込んだ旨い塩昆布  杉本柾子

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袈裟御前宅に忍び込む盛遠

同僚の妻であり、血縁筋にもある袈裟御前に横恋慕した遠藤盛遠は、

「私と一緒になりたければ、

 今夜、寝静まった頃に寝所に押し入って、夫を殺して下され」


といわれ、夜も更けたころ袈裟の夫の寝所に忍び込み、

すっかり寝入っている様子の布団に太刀を突き立てました。

確かな手応えがあって、夫は血吹雪の中に息絶えたと思われました。

ところが、手に持ったそのを首確かめると、月明かりが照らし出しのは、

夫ではなく袈裟御前の首だったのです。

このような数々の罪を重ねて盛遠は出家して文覚となのります。


線の通り歩くと三途の川がある  田中博造

「頼朝と文覚」

平治の乱に初陣して敗れ、伊豆蛭ヶ島に流された源頼朝

頼朝はそこで20年間という長い期間をすごし、

1180年に平氏討伐を目標に掲げ挙兵。

その挙兵の影には、ひとりの僧の存在があった。

空色の封筒で来る督促状  増田えんじぇる

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     文 覚

その僧とは、真言宗の僧・文覚

彼はもともと殿様の雑役を務める侍だった。

そして出家後には、

全国の山や寺で修業や荒行をこなしてきたという。

このような特異な生き方からか、

文覚は不思議な説得力を備えた修験僧として、

知られるようになる。

その文覚が頼朝と出会ったのは、

伊豆に流されたときのこと。

文覚は神護寺再興を後白河上皇に強要したために、

伊豆に流されていた。

踝に鼻すりつけて旅なかば  酒井かがり

文覚はそこで平家打倒の挙兵を強く頼朝に促す。

これほど文覚が平家打倒を訴えたのには、

その時代の"国家仏教"の時代背景が窺える。

当時、文覚は、「仏法と政治は結びあうことで互いに栄える」

という思想を持っており、

法皇の仏教に対する信仰も篤かったのだが、

清盛がその法皇を幽閉してしまったために、

文覚にとって、平家は仏敵だったのだ。

煮て焼いて振り掛けにする言掛り  岩根彰子

頼朝に出会った文覚は、

懐から白い布に包まれた"ある物" を取り出した。

それはなんと頼朝の父・義朝のドクロだった。

文覚は、

「あなたの父の頭です。

  これを首にかけてずっと山や寺で修業してきました。

  義朝公はあなたが立ち上がるのを願っております」、


といい、

「あなたの流罪の許しをお願い申し出て、院宣を頂戴してきます」

と言い残して、京都との間をわずか7日間で往復して、

法皇の院宣を持ち帰ったといわれている。

広目天なら体温をあずけよう  森中惠美子

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