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川柳的逍遥 人の世の一家言
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かさかさと骨の崩るる日を思う  森中惠美子

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無情の船を追いかける俊寛像

「鹿ヶ谷事件 流人たちのその後」

「鹿ヶ谷事件」において、清盛が、

西光とともに首謀者と目していたのが藤原成親である。

平治の乱のとき、妹が藤原信頼の妻であった

関係から謀反に加担したが、

同じく妹婿である重盛のとりなしにより命を救われた。

その後は、『愚管抄』に「院ノオトコノオボへ」と、

紹介されているように法皇と男色関係を結ぶことで、

西光とならぶ法皇の寵臣にのしあがった。

そこはかと変ではないか香を焚く  山本昌乃

清盛に呼び出された成親は、

平盛俊という屈強な武者によって押し込められたうえで、

備前に配流され、一週間ばかり食事も与えられず、

最後は酒を飲まされて殺害された。

『平家物語』によると、毒入りの酒をすすめられたが

用心して飲まなかったので、崖から突き落とされ、

下にうえられた尖った菱に貫かれて死んだという。

≪平治の乱の際、重盛の縁故によって助命されながら、

   なお平家にたてつこうとした成親の忘恩を、

   清盛は許すことができなかったのだろう≫


蝶になれないさなぎの悔いを懐に  杉浦多津子

鬼界ヶ島に流された俊寛、平康頼、藤原成親は、

成経の妻の父である平教盛のはからいで、

教盛が所有する肥前の荘園からの仕送りで、

命をつないでいた。

康頼と成経は、島のあちこちを熊野三山に見立てて、

日々巡礼を怠らなかったが、

僧侶でありながら、信仰心の薄い俊寛は、

加わらなかったという。

マヨネーズあれば何も怖くない  森田律子

また、康頼と成経はそれぞれの名前と帰京の願いを込めた

「和歌を書いた千本の卒塔婆」 をつくって海に流した。

やがてそのうちの一本が、

安芸の厳島に流れ着いたことから

都で評判となり、それを聞いた清盛も哀れに思ったと

『平家物語』は伝えている。

秋の真ん中辺で変換キーを押す  笠嶋恵美子

やがて、徳子の出産による恩赦によって、

鹿ヶ谷事件の流人たちも召し返されることになったが、

なぜか、俊寛だけは赦免からもれた。

俊寛は、

「われら三人は罪も同じ、配所も一つところなのに、

  なぜ私ひとりが残らねばならないのだ」


といって取り乱すが、船は無情にも沖へ漕ぎ出していく。

俊寛が去っていく船を追いかけ、

母を慕う子どものように足摺りしながら、

「これ乗せていけ、具していけ」

といって叫ぶ場面は、

平家物語屈指の名場面として知られている。

坂道を阿闍梨の湯気が駆け下りる  くんじろう

物語によると、俊寛が赦免からもれたのは、

謀議の場所を提供した俊寛に対する、

清盛の怒りが、大きかったからであるという。

が、真相は不明である。

あるいは恩赦が出た時、

すでに俊寛は死亡していたのかもしれない。

京に帰った成経は許されて、公卿にまで昇進、

配流に先だち出家していた康頼は、東山に隠棲して、

『宝物集』という仏教説話集を書いて後世に名を残した。

丑三つ刻になると深爪痛み出す  美馬りゅうこ

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 平家転覆を謀り、鬼界ヶ島に流された康頼の卒塔婆

その内、1本がここ宮島に流れ着き、老母、妻子の元に届けられた。

老母達の嘆きが法皇にも伝わり嘆かれ又、

清盛にも伝わり哀れんだという。


取り残された俊寛のその後は不明だが、

平家物語によると、

俊寛が長年召し使っていた有王という童が、

鬼界ヶ島におもむき、

やつれ果てた俊寛と対面し最期をみとったという。

≪鬼界ヶ島に比定されている硫黄島には、

   俊寛堂や船を追いかける
俊寛像が、厳島神社には、

   康頼の卒塔婆が流れ着いたという
卒塔婆石が残されている≫

秋冷をかこつ深夜のにごり酒  本多洋子

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「もう一つの鹿ヶ谷」

もう一つ、鹿ヶ谷事件においてよく知られているエピソードに

重盛の「教訓状」がある。


後白河が謀議に加担していることを知った清盛が、

法皇を幽閉しようとするが、

重盛に諫められて、思いとどまるというものである。

しかし、鹿ヶ谷事件の時点で、

清盛に法皇を幽閉する考えはなかった。

後白河の命令で、

比叡山攻撃を了承せざる得なかったことをみても、

清盛が依然として、

法皇を治天の君として尊重していたことがわかるし、

院近臣の処分についても、

西光と成親以外は、後白河の許可を得たうえで、

処罰を進めており、ことさら法皇の反発をあおることがないよう

配慮しているのである。

月朧そこでちょいちょいロバになる  山口ろっぱ

清盛としては、「治天の君」が不在になることで、

院政が継続不可能になることを避けたかったのだろう。

法皇の幽閉は、重盛の聖人君子ぶりを強調することで

清盛の横暴を際立たせようとする、

平家物語の創作とみてよい。

そもそも、重盛は成親の妹を妻にしている弱味があり、

清盛に意見できるような立場ではなかった。

≪平家物語の「鹿ヶ谷事件」は史実にあう部分も多いため

   歴史的事実として受け止められることが多いが、

   平家のおごりや清盛の横暴を際立たせるための演出が,

   多分に盛り込まれている≫


解熱剤だけは防潮堤を越え  井上一筒

これにより反平家勢力の台頭は抑えられたが、

その一方、代償も大きかった。

まず、後白河との関係がさらに悪化したことは痛手であった。

また、処罰された近臣の中には、

平家と縁戚関係を結んでいる者も多かった。

藤原成親の妹は、重盛の妻、

維盛の妻も、成親の娘であり、

藤原成経は、教盛の娘婿、

俊寛の姉妹は頼盛の妻であった。

事件直後、重盛が左大臣を辞任しているのは、

成親に対する処分に対して、

清盛に抗議する意図もあったのだろう。

事件は平家一門の内部にも、しこりを残す結果となった。

あなたとの間合い枯葉が舞っている  桑名知華子

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退屈を煮込んだ旨い塩昆布  杉本柾子

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袈裟御前宅に忍び込む盛遠

同僚の妻であり、血縁筋にもある袈裟御前に横恋慕した遠藤盛遠は、

「私と一緒になりたければ、

 今夜、寝静まった頃に寝所に押し入って、夫を殺して下され」


といわれ、夜も更けたころ袈裟の夫の寝所に忍び込み、

すっかり寝入っている様子の布団に太刀を突き立てました。

確かな手応えがあって、夫は血吹雪の中に息絶えたと思われました。

ところが、手に持ったそのを首確かめると、月明かりが照らし出しのは、

夫ではなく袈裟御前の首だったのです。

このような数々の罪を重ねて盛遠は出家して文覚となのります。


線の通り歩くと三途の川がある  田中博造

「頼朝と文覚」

平治の乱に初陣して敗れ、伊豆蛭ヶ島に流された源頼朝

頼朝はそこで20年間という長い期間をすごし、

1180年に平氏討伐を目標に掲げ挙兵。

その挙兵の影には、ひとりの僧の存在があった。

空色の封筒で来る督促状  増田えんじぇる

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     文 覚

その僧とは、真言宗の僧・文覚

彼はもともと殿様の雑役を務める侍だった。

そして出家後には、

全国の山や寺で修業や荒行をこなしてきたという。

このような特異な生き方からか、

文覚は不思議な説得力を備えた修験僧として、

知られるようになる。

その文覚が頼朝と出会ったのは、

伊豆に流されたときのこと。

文覚は神護寺再興を後白河上皇に強要したために、

伊豆に流されていた。

踝に鼻すりつけて旅なかば  酒井かがり

文覚はそこで平家打倒の挙兵を強く頼朝に促す。

これほど文覚が平家打倒を訴えたのには、

その時代の"国家仏教"の時代背景が窺える。

当時、文覚は、「仏法と政治は結びあうことで互いに栄える」

という思想を持っており、

法皇の仏教に対する信仰も篤かったのだが、

清盛がその法皇を幽閉してしまったために、

文覚にとって、平家は仏敵だったのだ。

煮て焼いて振り掛けにする言掛り  岩根彰子

頼朝に出会った文覚は、

懐から白い布に包まれた"ある物" を取り出した。

それはなんと頼朝の父・義朝のドクロだった。

文覚は、

「あなたの父の頭です。

  これを首にかけてずっと山や寺で修業してきました。

  義朝公はあなたが立ち上がるのを願っております」、


といい、

「あなたの流罪の許しをお願い申し出て、院宣を頂戴してきます」

と言い残して、京都との間をわずか7日間で往復して、

法皇の院宣を持ち帰ったといわれている。

広目天なら体温をあずけよう  森中惠美子

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前略アイウエオ 早々にてナダレ  山口ろっぱ

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平安後期の保元2年(1157)都では疫病が流行していた。

地蔵尊像を深く信仰されていた後白河天皇は、

皇位長久・王城守護、さらに広く庶民に疫病退散、福徳招来。

また都を往来する旅人たちの路上安全・健康を祈願のため、

都の出入り口に、
地蔵菩薩を祀るよう平清盛に勅命。

清盛は
西光法師に命じ街道の入口に「六角堂」を建て、

一体づつ分置し「廻り地蔵」と名付けた

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「鹿ヶ谷事件を機に深まる溝」

重盛は人格、見識、立ち居振る舞いに関しては

理想的な貴族であり、周囲の尊敬を集めた。

清盛をいさめるようなこともあったであろうが、

清盛や平家の利益と対立していたわけではなかった。

「嘉応の強訴」では、

後白河による比叡山への攻撃命令を何度も拒み、

わざわざ福原まで赴いて清盛の指示をあおいでいる。

赤とんぼ赤信号にとまらない  嶋澤喜八郎

承安2年(1172)に、重盛の家人が春日社の神官を殺害し

「興福寺の強訴」をま招いた際も、

重盛は家人をかばいとおした。

理非をわきまえた君子というわけではなかったが、

そのような重盛だからこそ、清盛は、

平家の将来を頼むに足りる人物と見込んだのだろう。

清盛は、父への諫言をいとわない重盛の態度を苦々しく思う

一方、他のどの子どもにも示さない愛情や信頼を寄せた。

割り切ってみればさっぱりした虹に  谷垣郁郎

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しかし、いつしか父・清盛との溝は大きくなっていった。

父への不信を募らせる契機となったのは、

「鹿ケ谷事件」だったと言われる。

重盛の妻の兄である藤原成親は、

平家打倒を企てた中心人物として、

重盛の懇請むなしく、流罪先で殺害された。

事件直後、重盛が左近衛大将を辞任し、

内大臣の辞職もちらつかせたのは、

清盛の政治判断に対する、

不満の表明であったともいわれている。

≪『愚管抄』には、先の「イミジク心ウルハシクテ」の後に

   「父入道(清盛)に謀反心があるとみて『早く死にたいものだ』

   と言っていた」という文言がある≫

清盛の剛腕な政治手法に心を痛めていたあらわれだろう。


ほぐしてもほぐしてもまたくもの糸  三村一子

また、時子の長男・宗盛が急速に台頭してきたことも、

父子の溝を深める一因になったようだ。

宗盛は重盛より9歳年下で、人物も凡庸であったから、

本来であれば、重盛の地位を脅かす存在ではなかった。

しかし、現実には、鹿ヶ谷事件前に重盛の後任として

右近衛大将に就任し、事件の翌年に大納言に昇進、

さらに内大臣への昇進も噂されていただけに、

重盛にとっては、心穏やかではなかったであろう。

九分九厘ちゃぶ台をひっくり返してちょん  酒井かがり


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   六地蔵(徳林庵)

六ヶ所の寺を廻る地蔵巡りとは、

六道
(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)に迷い苦しむ、

全ての人々を救済するように願って祀られた六体の地蔵菩薩を、

巡拝すること。


六角に裁断された水の耳  井上一筒

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秋が光る誰に眼球を残す  森中惠美子

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     西光捕縛

「後白河院と清盛の駆け引き」

嘉応元年(1169)12月、

尾張守の目代・藤原政友平野神人との間に

起きた争いが発端となり、

延暦寺の衆徒らが神輿を担いで入洛し、

藤原成親の解官・配流を要求してきた。

衆徒らの上洛が迫ると、

朝廷側もこれを防御するための武士を派遣し、

今回も平氏に動員が要請された。

しかし、平氏軍制の中心にあった重盛は動かず、

その結果、後白河院は衆徒らの要求に屈して、

成親は配流となってしまった。

問答は無用と水茄子の皿で  立蔵信子

ところが、後白河院はすぐに成親を配流先から呼び戻し、

かわりに、この件で後白河院へ取次ぎを行ったにすぎない

平時忠平信範を解官・流罪とした。

これに対して、衆徒らが再度強訴の構えを見せると

清盛の命により、重盛頼盛は福原下向している。

両人の福原下向は、

平氏が強訴の防御に協力しないことを

無言でアピールしていた。

墓石のてんとう虫が動かない  くんじろう

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さらに福原に居を移して以来、

めったなことでは上洛しなかった清盛がとうとう上洛した。

すると後白河院は、態度を変えてふたたび成親を配流とし、

平時忠と平信範は呼び戻された。

以上が、嘉応元年に起きた延暦寺の強訴をめぐる、

清盛と後白河院の駆け引きである。

寸劇の終わりに下駄の緒が切れる  清水すみれ

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   サイコロの目

「鹿ヶ谷事件ー始末」

6月1日未明、清盛は、

西光(藤原師光)を捕らえて八条第に禁固した。

その理由は、年来積み重ねてきた悪事、

そして明雲を配流して、後白河院に讒言したこと、

という2点で、同日中に藤原成親も捕えて禁固した。

彼らに対する扱いは手荒いものであった。

立ちくらむこの世の出口見てしまう  大海幸生

尋問の結果、西光が「清盛を討つべき」ことを、

後白河院と近臣等が謀議していたと認め、

その謀議に関わった人々の名を白状した。

即日、清盛は西光を斬首。

翌2日成親は備前に配流された。

が、これは重盛の命乞いの結果であった。

齧り残した麹町局区内  井上一筒

さらに6月3日夜にかけて、

いずれも後白河院の近習である法勝寺執行俊寛、基仲法師

中原摸基兼、惟宗信房、平佐行、平康頼、平業房を捕えた。

平業房は、後白河院の再三の乞いにより放免されたが、

他の俗人4名は、3日間のうちに官職を罷免されている。

6月5日には、俊寛が解却された。

翌日、いったん放免していた式部大夫章綱を、

再び召し取り禁固した。

6月7日に、基仲法師・平佐行を放免したが、

尾張の家人に命じて、流人・藤原師高を殺害させている。

れんげ菜の花この世の旅もあとすこし  時実新子

一方で6月5日、明雲を召し返すことが宣下された。

同日、成親の姻族である重盛が左大将を辞した。

6月18日に、藤原成親・成経・盛頼・親実が解官されたが、

成親の解官の前に配流したのは、

清盛の個人的な遺恨によるものであった。

清盛は成親を7月9日に備前で殺害。

さらに同月中に、

藤原成経、平康頼、俊寛を鬼界島に、

蓮浄を佐渡に、中原基兼を伯耆に、

惟宗信房を阿波に、平佐行を美作に配流した。

我が死おもえば誰かが笑う冬景色  大西泰世

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「清盛の胎」

そもそも比叡山攻撃を回避したい清盛にとって、

謀議の内容など、どうでもよいことであり、

院近臣を処分する口実さえあれば、よかったのではないか、

西光逮捕の罪状は、

讒言によって明雲を配流に追い込んだことにあった。

平家打倒の謀議は、その後の拷問の中で出て来たのだから、

謀議自体がでっちあげだった可能性もある。

別件逮捕で身柄を拘束しておいて、

「謀議」を演出し、平家に反感を持つ近臣たちを、

一網打尽にしたというわけだ。

忘れもの昨日の昨日のその昨日  小嶋くまひこ

もうひとりの首謀者である成親の行動も、

謀議を凝らしていたにしては不自然である。

『愚管抄』によると、

西光が斬首される前日、成親は清盛に呼び戻されて出頭し、

「何事かお召しがあったので参りました」

と、公卿の座にいた重盛に挨拶して奥に入ったところ、

そのまま監禁されたという。

「平家打倒の謀議」という重大な秘密を持った人物が、

当の清盛の呼び出しを受けて、のこのこ参内し、

このような屈託のない挨拶をするものだろうか。

耳ふたつ猜疑の沼を出られない  たむらあきこ

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解体新書でユーレイの足探す  中川隆充

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   俊寛僧都山荘跡

「鹿ケ谷事件は本当にあったのか?」

騒動の起点である藤原成親・西光等の隠謀について、

『平家物語』は、

成親宗盛に右近衛大将をめぐるライバル争いがあり、

安元3年(1177)正月に、

平重盛・宗盛が兄弟で左右の近衛大将に補任されたため、

願望の叶わなかった成親が、

「平家討伐の隠謀」(鹿ヶ谷事件)を企てたとする。

≪しかしこれは、虚構と考えられている≫

裏切りを地獄の釜に投げ入れる  高橋謡々

当時の右大将就任者が摂関家や大臣家の子弟、

もしくは、天皇の外戚に限られていることから、

成親が大将に補任される可能性は、ほぼなかった。

また『平家物語』は、

成親を始とする後白河院近臣が、多田行綱を総大将として

清盛を討つ陰謀を企てていたところ、

「行綱が清盛に密告して露顕した」とする。

その時へ脈を鍛えているところ  壷内半酔

行綱の武力が平家に比して、はるかに小規模であることや、

多田荘が当時、

清盛の実質的な支配下にあった摂関家領であることを、

勘案すれば、隠謀の内実には、疑わしいところもある。

隠謀の露顕は、清盛にとって「比叡山攻撃を回避」し、

かつ「院近臣を一網打尽にする絶好の機会」 となった。

西光の捕縛・自白の経緯からしても、

清盛側で筋書きを描いた感が否めない。


たたんだら袋ひとつで足りました  桜 風子

ただし、行綱の密告自体は、

『百錬抄』『六代勝事記』『愚管抄』にも記されており、

事実の可能性が高い。

とりわけ現在の権大納言・成親以下、

院近臣複数名を殺害・配流するというのは尋常ではなく、

よほどのことがあったと考えなければならない。

真相は不明であり、

「平家物語」は事態を誇張しているであろうが、

何らかの後白河院近臣の陰謀は、

あったと考えるべきであろう。

片割れの茶碗はなにもしゃべらない  桑原伸吉

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重盛を諫言する清盛

「重盛の立場」

成親清盛の間で板挟みとなったのが、

重盛である。

重盛は、成親の妹婿にして子息同士も姻戚関係にあり、

成親の命乞いをした上、配流された成親には、

密かに衣類を送るなどの支援をしていた。

踝に鼻すりつけて旅なかば  酒井かがり

また重盛は、「平治の乱」以前から、

後白河院近臣である藤原成親の同母妹を妻とし、

乱後は、後白河院の御給で昇進するなど、

早くから後白河院に近い立場にあり、

当初は後白河院と清盛の協調関係の下で、

清盛・嫡男としての道を順調に歩んでいた。

運命と割り切ったのに出る余り  松本柾子

しかし、清盛の妻・時子とその所生・宗盛以下の子女が、

応保元年(1161)高倉天皇(時子の甥)の誕生、

徳子(時子の娘)の高倉天皇への入内、

さらには安徳天皇(時子の孫)の誕生により、

清盛一門の中で、存在感を増してくる。

高倉・安徳と血縁関係にある弟が台頭することで、

相対的に一門内での重盛の立場は後退し、

従来以上に、後白河院や院近臣に接近することとなる。

わたしの腎臓を医者が嗅いでいる  井上一筒

それでも、後白河院と清盛の関係が協調的であれば、

嫡男としての重盛の立場に、

特段の問題は生じなかったはずだが、

建春門院の死去後、

清盛と後白河院の競合的側面が顕在化していくと、

重盛は一層微妙な立場に置かれることとなる。

かかる不安定要素を抱えたまま、

4月に「安元の強訴」

6月には、「鹿ヶ谷事件」が起こり、

成親が殺されてしまったのである。

ひけ目でもあるのか雨がそっと降る 嶋澤喜八郎

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      重盛の墓

重盛が後白河院と成親に従えば、

平氏は分裂する危機にあった。

父清盛に「謀叛心」ありと見て「早く死にたいものだ」等と、

厭世的な発言をしていたと『愚管抄』は伝えるが、

一連の騒動で重盛の立場が、

決定的に悪化したことは言うなでもない。

やがて重盛は、体調不良により、

治承3年(1179)7月末に42歳で没する。

順不同に消え去る旅にいるのです  たむらあきこ

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