ロンパリ!考える椅子
川柳的逍遥 人の世の一家言
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清盛と重盛の溝
前略アイウエオ 早々にてナダレ 山口ろっぱ
平安後期の保元2年
(1157)
都では疫病が流行していた。
地蔵尊像を深く信仰されていた後白河天皇は、
皇位長久・王城守護、さらに広く庶民に疫病退散、福徳招来。
また都を往来する旅人たちの路上安全・健康を祈願のため、
都の出入り口に、
地蔵菩薩を祀るよう
平清盛
に勅命。
清盛は
西光法師
に命じ街道の入口に「六角堂」を建て、
一体づつ分置し
「廻り地蔵」
と名付けた
「鹿ヶ谷事件を機に深まる溝」
重盛
は人格、見識、立ち居振る舞いに関しては
理想的な貴族であり、周囲の尊敬を集めた。
清盛
をいさめるようなこともあったであろうが、
清盛や平家の利益と対立していたわけではなかった。
「嘉応の強訴」
では、
後白河
による比叡山への攻撃命令を何度も拒み、
わざわざ福原まで赴いて清盛の指示をあおいでいる。
赤とんぼ赤信号にとまらない 嶋澤喜八郎
承安2年
(1172)
に、重盛の家人が春日社の神官を殺害し
「興福寺の強訴」
をま招いた際も、
重盛は家人をかばいとおした。
理非をわきまえた君子というわけではなかったが、
そのような重盛だからこそ、清盛は、
平家の将来を頼むに足りる人物と見込んだのだろう。
清盛は、父への諫言をいとわない重盛の態度を苦々しく思う
一方、他のどの子どもにも示さない愛情や信頼を寄せた。
割り切ってみればさっぱりした虹に 谷垣郁郎
しかし、いつしか父・清盛との溝は大きくなっていった。
父への不信を募らせる契機となったのは、
「鹿ケ谷事件」
だったと言われる。
重盛の妻の兄である
藤原成親
は、
平家打倒を企てた中心人物として、
重盛の懇請むなしく、流罪先で殺害された。
事件直後、重盛が左近衛大将を辞任し、
内大臣の辞職もちらつかせたのは、
清盛の政治判断に対する、
不満の表明であったともいわれている。
≪『愚管抄』には、先の
「イミジク心ウルハシクテ」
の後に
「父入道(清盛)に謀反心があるとみて『早く死にたいものだ』
と言っていた」という文言がある≫
清盛の剛腕な政治手法に心を痛めていたあらわれだろう。
ほぐしてもほぐしてもまたくもの糸 三村一子
また
、時子
の長男・
宗盛
が急速に台頭してきたことも、
父子の溝を深める一因になったようだ。
宗盛は重盛より9歳年下で、人物も凡庸であったから、
本来であれば、重盛の地位を脅かす存在ではなかった。
しかし、現実には、鹿ヶ谷事件前に重盛の後任として
右近衛大将に就任し、事件の翌年に大納言に昇進、
さらに内大臣への昇進も噂されていただけに、
重盛にとっては、心穏やかではなかったであろう。
九分九厘ちゃぶ台をひっくり返してちょん 酒井かがり
六地蔵(徳林庵)
六ヶ所の寺を廻る地蔵巡りとは、
六道
(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)
に迷い苦しむ、
全ての人々を救済するように願って祀られた六体の地蔵菩薩を、
巡拝すること。
六角に裁断された水の耳 井上一筒
[3回]
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y2012/11/01 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
鹿ケ谷の結末
秋が光る誰に眼球を残す 森中惠美子
西光捕縛
「後白河院と清盛の駆け引き」
嘉応元年
(1169)
12月、
尾張守の目代・
藤原政友
と
平野神人
との間に
起きた争いが発端となり、
延暦寺の衆徒らが神輿を担いで入洛し、
藤原成親
の解官・配流を要求してきた。
衆徒らの上洛が迫ると、
朝廷側もこれを防御するための武士を派遣し、
今回も平氏に動員が要請された。
しかし、平氏軍制の中心にあった
重盛
は動かず、
その結果、
後白河院
は衆徒らの要求に屈して、
成親は配流となってしまった。
問答は無用と水茄子の皿で 立蔵信子
ところが、後白河院はすぐに成親を配流先から呼び戻し、
かわりに、この件で後白河院へ取次ぎを行ったにすぎない
平時忠
と
平信範
を解官・流罪とした。
これに対して、衆徒らが再度強訴の構えを見せると
清盛の命により、
重盛
・
頼盛
は福原下向している。
両人の福原下向は、
平氏が強訴の防御に協力しないことを
無言でアピールしていた。
墓石のてんとう虫が動かない くんじろう
さらに福原に居を移して以来、
めったなことでは上洛しなかった清盛がとうとう上洛した。
すると後白河院は、態度を変えてふたたび成親を配流とし、
平時忠と平信範は呼び戻された。
以上が、嘉応元年に起きた延暦寺の強訴をめぐる、
清盛と後白河院の駆け引きである。
寸劇の終わりに下駄の緒が切れる 清水すみれ
サイコロの目
「鹿ヶ谷事件ー始末」
6月1日未明、清盛は、
西光
(藤原師光)
を捕らえて八条第に禁固した。
その理由は、年来積み重ねてきた悪事、
そして
明雲
を配流して、後白河院に讒言したこと、
という2点で、同日中に藤原成親も捕えて禁固した。
彼らに対する扱いは手荒いものであった。
立ちくらむこの世の出口見てしまう 大海幸生
尋問の結果、西光が
「清盛を討つべき」
ことを、
後白河院と近臣等が謀議していたと認め、
その謀議に関わった人々の名を白状した。
即日、清盛は西光を斬首。
翌2日成親は備前に配流された。
が、これは重盛の命乞いの結果であった。
齧り残した麹町局区内 井上一筒
さらに6月3日夜にかけて、
いずれも後白河院の近習である
法勝寺執行俊寛、基仲法師
、
中原摸基兼、惟宗信房、平佐行、平康頼、平業房
を捕えた。
平業房は、後白河院の再三の乞いにより放免されたが、
他の俗人4名は、3日間のうちに官職を罷免されている。
6月5日には、俊寛が解却された。
翌日、いったん放免していた
式部大夫章綱
を、
再び召し取り禁固した。
6月7日に、基仲法師・平佐行を放免したが、
尾張の家人に命じて、流人・藤原師高を殺害させている。
れんげ菜の花この世の旅もあとすこし 時実新子
一方で6月5日、明雲を召し返すことが宣下された。
同日、成親の姻族である重盛が左大将を辞した。
6月18日に、藤原成親・成経・盛頼・親実が解官されたが、
成親の解官の前に配流したのは、
清盛の個人的な遺恨によるものであった。
清盛は成親を7月9日に備前で殺害。
さらに同月中に、
藤原成経、平康頼、俊寛
を鬼界島に、
蓮浄
を佐渡に、
中原基兼
を伯耆に、
惟宗信房
を阿波に、
平佐行
を美作に配流した。
我が死おもえば誰かが笑う冬景色 大西泰世
「清盛の胎」
そもそも比叡山攻撃を回避したい清盛にとって、
謀議の内容など、どうでもよいことであり、
院近臣を処分する口実さえあれば、よかったのではないか、
西光逮捕の罪状は、
讒言によって明雲を配流に追い込んだことにあった。
平家打倒の謀議は、その後の拷問の中で出て来たのだから、
謀議自体がでっちあげだった可能性もある。
別件逮捕で身柄を拘束しておいて、
「謀議」
を演出し、平家に反感を持つ近臣たちを、
一網打尽にしたというわけだ。
忘れもの昨日の昨日のその昨日 小嶋くまひこ
もうひとりの首謀者である成親の行動も、
謀議を凝らしていたにしては不自然である。
『愚管抄』
によると、
西光が斬首される前日、成親は清盛に呼び戻されて出頭し、
「何事かお召しがあったので参りました」
と、公卿の座にいた重盛に挨拶して奥に入ったところ、
そのまま監禁されたという。
「平家打倒の謀議」
という重大な秘密を持った人物が、
当の清盛の呼び出しを受けて、のこのこ参内し、
このような屈託のない挨拶をするものだろうか。
耳ふたつ猜疑の沼を出られない たむらあきこ
[4回]
y2012/10/28 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
鹿ヶ谷・真相-②
解体新書でユーレイの足探す 中川隆充
俊寛僧都山荘跡
「鹿ケ谷事件は本当にあったのか?」
騒動の起点である
藤原成親・西光
等の隠謀について、
『平家物語』
は、
成親
と
宗盛
に右近衛大将をめぐるライバル争いがあり、
安元3年
(1177)
正月に、
平重盛・宗盛
が兄弟で左右の近衛大将に補任されたため、
願望の叶わなかった成親が、
「平家討伐の隠謀」
(鹿ヶ谷事件)
を企てたとする。
≪しかしこれは、虚構と考えられている≫
裏切りを地獄の釜に投げ入れる 高橋謡々
当時の右大将就任者が摂関家や大臣家の子弟、
もしくは、天皇の外戚に限られていることから、
成親が大将に補任される可能性は、ほぼなかった。
また『平家物語』は、
成親を始とする
後白河院
近臣
が、
多田行綱
を総大将として
清盛
を討つ陰謀を企てていたところ、
「行綱が清盛に密告して露顕した」
とする。
その時へ脈を鍛えているところ 壷内半酔
行綱
の武力が平家に比して、はるかに小規模であることや、
多田荘が当時、
清盛の実質的な支配下にあった摂関家領であることを、
勘案すれば、隠謀の内実には、疑わしいところもある。
隠謀の露顕は、清盛にとって
「比叡山攻撃を回避」
し、
かつ
「院近臣を一網打尽にする絶好の機会」
となった。
西光の捕縛・自白の経緯からしても、
清盛側で筋書きを描いた感が否めない。
たたんだら袋ひとつで足りました 桜 風子
ただし、行綱の密告自体は、
『百錬抄』『六代勝事記』『愚管抄』
にも記されており、
事実の可能性が高い。
とりわけ現在の権大納言・成親以下、
院近臣複数名を殺害・配流するというのは尋常ではなく、
よほどのことがあったと考えなければならない。
真相は不明であり、
「平家物語」は事態を誇張しているであろうが、
何らかの後白河院近臣の陰謀は、
あったと考えるべきであろう。
片割れの茶碗はなにもしゃべらない 桑原伸吉
重盛を諫言する清盛
「重盛の立場」
成親
と
清盛
の間で板挟みとなったのが、
重盛
である。
重盛は、成親の妹婿にして子息同士も姻戚関係にあり、
成親の命乞いをした上、配流された成親には、
密かに衣類を送るなどの支援をしていた。
踝に鼻すりつけて旅なかば 酒井かがり
また重盛は、
「平治の乱」
以前から、
後白河院近臣である藤原成親の同母妹を妻とし、
乱後は、後白河院の御給で昇進するなど、
早くから後白河院に近い立場にあり、
当初は後白河院と清盛の協調関係の下で、
清盛・嫡男としての道を順調に歩んでいた。
運命と割り切ったのに出る余り 松本柾子
しかし、清盛の妻・時子とその所生・宗盛以下の子女が、
応保元年
(1161)
の
高倉天皇
(時子の甥)
の誕生、
徳子
(時子の娘)
の高倉天皇への入内、
さらには
安徳天皇
(時子の孫)
の誕生により、
清盛一門の中で、存在感を増してくる。
高倉・安徳と血縁関係にある弟が台頭することで、
相対的に一門内での重盛の立場は後退し、
従来以上に、後白河院や院近臣に接近することとなる。
わたしの腎臓を医者が嗅いでいる 井上一筒
それでも、後白河院と清盛の関係が協調的であれば、
嫡男としての重盛の立場に、
特段の問題は生じなかったはずだが、
建春門院
の死去後、
清盛と後白河院の競合的側面が顕在化していくと、
重盛は一層微妙な立場に置かれることとなる。
かかる不安定要素を抱えたまま、
4月に
「安元の強訴」
、
6月には、
「鹿ヶ谷事件」
が起こり、
成親が殺されてしまったのである。
ひけ目でもあるのか雨がそっと降る 嶋澤喜八郎
重盛の墓
重盛が後白河院と成親に従えば、
平氏は分裂する危機にあった。
父清盛に「
謀叛心」
ありと見て
「早く死にたいものだ」
等と、
厭世的な発言をしていたと
『愚管抄』
は伝えるが、
一連の騒動で重盛の立場が、
決定的に悪化したことは言うなでもない。
やがて重盛は、体調不良により、
治承3年
(1179)
7月末に42歳で没する。
順不同に消え去る旅にいるのです たむらあきこ
[2回]
y2012/10/25 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
鹿ヶ谷事件・真相
鬼ごっこ転ぶドロップの缶が鳴る くんじろう
平家物語絵巻(〔小教訓の事〕)
引き据えた
藤原成親
と対面する
清盛
。
治承元年
(1177)
6月1日、
多田行綱
の密告により、
後白河法皇第一の近臣
・西光
を問責し、
「鹿ヶ谷の陰謀」
(鹿ヶ谷事件)
が発覚、
藤原成親も呼び出され捕縛される。
(各絵巻の画面は、クリックすると拡大され見やすくなります)
平家物語(〔鹿ヶ谷の事〕)
院近臣が平氏打倒を謀議したとされる「鹿ヶ谷山荘での酒宴」
院近臣の静賢の山荘に後白河が御幸。
催された酒宴の席で
藤原成親、西光、俊寛
らと、
平氏打倒を謀議したとされるが、真相は不明である。
「鹿ヶ谷事件ー序章」
延暦寺強訴の発端は、
藤原師高
の弟で目代の
師経
が、
延暦寺の末寺と所領問題を起こし、
師経が末寺を焼き払ったことにあった。
延暦寺は師高の配流を求めたが、
師高が法皇の寵臣・
西光
の子であったため、
後白河
は、師経だけを罰して乗り切ろうとした。
≪西光はもと信西の家人で俗名を藤原師光といったが、
信西が死んだだのち出家して後白河に仕え、
「法皇第一の家臣」
にまでのしあがった人物である≫
何もかも忘れ縺れてしまおうか 山本昌乃
しかし、延暦寺側は後白河の処分に納得せず、
4月13日、日吉社や祇園社など、
七基もの神輿をかつぎ出して、
高倉天皇
の閑院内裏に押し寄せた。
このとき、内裏を警備していた
重盛
の軍兵の放った矢が、
神輿の一つに命中し、
延暦寺の衆従にも、死傷者が出る事態に発展した。
きりきりと刺してくるのは赤い月 笠嶋恵美子
怒った大衆は神輿を置き去りにして、
いったん比叡山に帰ったが
武力攻撃を命じたのは、後白河自身であったという。
間もなく、悪僧たちがふたたび強訴を行う姿勢を見せたため、
後白河は神輿を射させた責任から、
やむなく、師高を尾張へ配流、
神輿を射た平家の武者を監獄へ送った。
だが、これで黙っている後白河ではなかった。
人間は裏切るように出来ている 中村幸彦
強訴の責任は、
「延暦寺座主の明雲にある」
といいはじめ、座主職の解任と所領の没収を命じ、
公卿たちの反対を押し切って、
明雲の伊豆配流を断行したのである。
しかし、延暦寺の悪僧たちは大胆にも、
護送中の明雲を近江の瀬田大橋付近で奪い取り
比叡山に連れ帰ってしまった。
渋滞がほぐれたように突然に 吉川幸
激怒した後白河は
重盛、宗盛
の兄弟に出撃を命じたが、
二人は
「清盛の指図に従う」
といっていうことをきかない。
比叡山憎しの一念にとりつかれた後白河は、
福原に使者を派遣して清盛を呼び出し、
ついに、比叡山攻撃を了承させてしまう。
山頭火以上に垢じみた男 井上一筒
さすがに政界一の実力者である清盛も、
治天の君である後白河の直々の指令は、
拒むわけにはいかなかったのだろう。
この時の清盛は、はたからみても、
「内心よろこばず」
という様子だったという。
要らんこと言いなややこしなるだけや 一階八斗醁
平家にとって、比叡山を敵に回して得るものはなにもない。
しかも、天台座主・
明雲
は、
清盛が出家したときの受戒役なのである。
かって
信西
は後白河を評して、
「こんな愚かな君主はみたこともないが、
何かしようと思うことがあれば、
必ず成し遂げるのが取り得である」
と述べた。
言い出したら聞かない後白河の性分は、
清盛も十分承知していたのだろう。
清盛は窮地に立たされた。
テッペンはあるのか明日は見えるのか 和田洋子
平家物語(〔西光被斬〕)
西光(藤原師光)の斬首が決定される。
ところが、比叡山攻撃を間近に控えた6月1日、
事態は急変した。
明け方、明雲を讒言したかどで西光が捕縛され、
厳しい拷問の末、
「入道相国を危うくすべきの由」
とした清盛を倒す計画を、
法皇や近臣と謀議したことを白状し、
翌日、五条坊門朱雀で斬首された。
秋桜もつれたあたりから刺客 前中知栄
「下部の分際で父子ともに分不相応な振る舞いをしおって」
という
清盛
に対して、
西光
が、
「殿上のまじわりさえ嫌われる人
(忠盛)
の子でありながら、
太政大臣にまであがることこそ過分である」
とののしったという。
≪『平家物語』の有名なエピソードは、このときのものである≫
煮崩れたらしい人相変わってる 喜多川やとみ
平家物語(〔新大納言流罪〕)
流罪になる藤原成親
続いて、藤原成親、成経父子も捕縛されて、
西八条邸に押し込められ、
成親
は翌日備前へ配流、流刑地で暗殺された。
俊寛僧都・平康頼・成経
の3名は、
薩摩の鬼界ヶ島
(硫黄島)
に流された。
6日には、明雲の赦免が決定され、
比叡山への武力攻撃は、未然に回避されたのであった。
咳払い一つで幕が下りました 谷垣郁郎
[4回]
y2012/10/21 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
人工島築造エピソード
仏滅の睫毛しずしず燃え尽きる 井上一筒
経ヶ島縁起
「大輪田泊ー人工島築造エピソード」
福原の外港は、
「大輪田泊」
と呼ばれ、
奈良時代から瀬戸内有数の港として知られていた。
港の西側に和田岬があって、
自然の防波堤の役割を果たしていたが、
東南は海に開かれており、
風波のために、しばしば船が難破した。
清盛
が宋と貿易を始めるにあたって、
この港の整備が最大の難題であった。
いらだちの輪切り重ねて不整脈 たむらあきこ
経ヶ島
一つずつ石を積み上げて完成させたものの、
翌年、大きな風波が来て、たちまち崩れ去ってしまった。
そこで、表面にお経を書いた石を船に積み込み、
船ごと海に沈めて島を築いた。
工事は承安3年
(1173)
に始まり、
2年がかりで完成したが、この築港によって、
付近を航行する船が、
「風波にわずらわされることがなくなった」
と、
『平家物語』
は、たたえている。
息一つ吐いてしっかり打つ句点 笠嶋恵美子
経 石
はじめ石堤が崩れたとき、
公卿たちは
「人柱」
を立ててはどうかと提案した。
人柱とは、人間をいけにえとして生き埋めにし、
工事の成功を祈願する古代の呪術の一種である。
なんともおぞましい提案であるが、
「それは罪業である」
という清盛の一言によって、人柱計画は立ち消えとなり、
石にお経を書いて埋める工法がとられたという。
立ち位置が決まらないので吠えてみる 美馬りゅうこ
来迎寺
ところが、
『源平盛衰記』
によると、
逆に清盛が、人柱を発案したことになっている。
幸若舞の
『築島』
にいたっては、
清盛が30人の人柱を立てる計画にこだわったが、
最終的に清盛の近習である
松王
が、
人柱にたち、人々を救う筋立てになっており、
清盛の非道ぶりは、ここに際立っている。
≪現在、神戸市兵庫区の来迎寺には、
このとき犠牲になった松王の墓なるものまで残されている≫
ごった煮の中から真実のあぶく 三村一子
松王墓
「松王小児伝説」
清盛には、そば仕えの侍童が何人かいた。
その中のひとり、讃岐国の武将の子・松王丸という
十七歳の侍童が、人柱になる人々の惨状をみかね、
「人柱などというむごいことは、おやめください。
私が三十人の身代わりになりましょう」
と清盛に言い出した。
「侍童」=高貴な身分の人に仕え雑用や話相手などをつとめる少年のこと。
侍童には、頭脳明晰の美少年が選ばれていたという。
わが死語のあおき空かも罌栗(けし)坊主 大西泰世
松王墓台座
しかし、清盛はなかなか聞き入れなかった。
それでも松王丸はあきらめず、何度も清盛に訴え、
ついには、清盛も、松王丸の熱意に負け、
申し出を聞き入れるのである。
その後、石の櫃
(ひつ)
に入れられた松王丸は、
白馬の背に乗り港へと運ばれ、
千人の僧侶の、読経の声がひびく中で、
海の中へと沈んでいった。
それを見送った人々は、涙を流しながら、
お経を書き写した大小さまざまの石を、
海へ投げ入れたと言う。
里山の無縁仏に絶えぬ花 ふじのひろし
[2回]
y2012/10/18 09:30 z
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