ロンパリ!考える椅子
川柳的逍遥 人の世の一家言
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天誅の嵐の中へ
速報を読む菜箸を持ったまま 久保田 紺
家訓を背負って
「会津藩政史」
かたひろ
7代藩主・
松平容衆
の時代。
文化4年
(1807)
11月、会津は幕命によって、
唐太
(サハリン)
へ出兵することになった。
これはロシア人が唐太や北蝦夷地の日本人集落を、
荒らしたため、居留地を保護する必要が生じた。
翌文化5年1月に出動した藩兵は、
唐太へ800人、松前へ270人、宗谷へ370人、
利尻島へ350人。
「大君の儀、一心大切に忠勤を存ずべく」
と幕府への絶対忠誠を求めた会津藩家訓の精神は、
名君・
保科正之
の死から135年後、
会津松平家を、国防の第一線に立たせた。
二礼二拍手して蒸す日本 森 茂俊
かたたか
8代藩主・
容敬
が弘化4年
(1847)
2月以降、
幕府から江戸湾警備を命じられ、
房総の富津・竹岡に陣屋を設けた。
容敬は、嘉永5年
(1852)
2月に生涯を終え、
その養子の9代・
容保
が9代にして、
最後の藩主に就任するが、
翌年6月3日には
ペリー
が浦賀に来航。
会津藩は小船多数で黒船を取りかこみ、
万一の場合に備えた。
一切を捨てて案山子になった由 筒井祥文
あけて嘉永7年
(11月27日・安政改元)
1月、
会津藩は江戸湾砲台
(お台場)
の守備を命じられた。
文久2年
(1862)
12月、
容保が新設の京都守護職に任命され、
尊王攘夷派の
天誅の嵐
が吹き荒ぶ京へ、
赴任せざるを得なくなった。
これらは、
「困ったときの会津藩頼み」
という発想が、
深く根付いていたことを物語る。
流れ星枯山水へ身を投げる 蟹口和枝
文久2年12月、容保は千名の精兵を引き連れ京に到着し、
黒谷金戒光明寺に入った。
当時、京に多くの藩士たちが集結していた長州藩は、
尊王攘夷の最たるもので、朝廷内の急進派公家を通じ、
幕府に攘夷の実行を迫っていた。
彼らの行動は、
攘夷決行の祈願のための天皇行幸を計画するなど、
孝明天皇
をも蔑ろにするものであったため、
文久3年8月18日、会津藩と薩摩藩はクーデターを決行、
三条実美
ら急進派公家7人を京都から追放した。
≪「8月18日の政変」≫
(拡大してご覧下さい)
火の山に向かうしばらく火にならん 前田扶巳代
誠実な人柄の容保は、
攘夷派の孝明天皇から信頼され、
「朝幕ともに国難に対処すべし」
とする公武合体の実現に努めた。
そんな折、容保の見通しが甘かった出来事が起こる。
オブラートがなくなった 苦い 田中博造
足利将軍3代の木像
徳川の身代わりとなった将軍
(左から尊氏、義詮、義満)
2月23日の早朝、
京の三条河原に木像の首が3つさらされていた。
首の下には、
「初代等寺院殿尊氏」
などと、
それぞれの位牌が吊るされ、
立て札には
「逆賊 足利尊氏、同義詮、同義満」
とあった。
朝廷を軽んじた逆臣、足利将軍に天誅を下すという意味で
徳川幕府へのあてつけだった。
首は、北山等持院にある足利将軍3代の木像から
引き抜かれたものだった。
盗んだ木像を三条河原にさらしたのは、
実は会津藩の密偵で、密かに、
攘夷浪人の監視をしていたはずの
大庭恭平
だった。
店を出た途端左は右になる 徳山泰子
2月10日発信の「会津家家訓の縛り」の中で誤記入がありました。
岩根彰子
さんには、大変、ご迷惑をおかけしました。
謝罪して訂正いたします。
誤
表紙
の桃は差し歯をされました
正
表装
の桃は差し歯をされました
北山等持院
足利将軍家の菩提寺(霊光殿に歴代将軍の木像を安置)
【豆辞典】ー足利将軍三代
室町幕府初代将軍・足利尊氏、2代・義詮、3代・義満のこと。
1863年に3人の木像の首と位牌が京都・等持院から持ち出され、
賀茂川にさらされた。
これは倒幕を意味した挑発行為と考えられ、
また、江戸で募集した浪士組の上洛前でもあったため、
松平容保は激怒。
げんろどうかい
融和策である
『言路洞開』
を掲げ、討幕派とも話し合う
姿勢を見せていたが、それを一転させ、
浪士取り締まりを強化していく。
『言路洞開』ー「言路」とは君主や上役に意見を述べること。
「洞開」は開け放つこと。
(ぺりー来航を受け、開国か否かの判断に迷った老中・
阿部伊勢守
が
「言路洞開」を掲げて、広く意見を求めたという。
容保は浪士対策として「言路洞開」を掲げ前関白・
近衛忠熙
に建白した)
結界がどんよりしてるから跨ぐ 岩根彰子
【豆辞典】-北山等持院
京都市左京区にある臨済宗天龍寺派の寺院。
1341年に
足利尊氏
は等持院を、2年後に別院北等持寺を建立。
尊氏の死後、寺は墓所となり、名も等持院と改めた。
「応仁の乱」
で等寺院が焼失したため、
別院だった等寺院が本寺となる。
東西に分かれた庭園を持ち、
西の庭は、
芙蓉池
と称し衣笠山を借景にした池泉回遊式で、
北側には、茶室・
清漣亭
がある。
威風堂々等身大のグッドバイ 酒井かがり
[3回]
PR
y2013/02/16 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
山本家ファミリー
私が私であるための指紋 三宅保州
「八重の生まれた山本家」
裕福な暮らしではないが、
生真面目な父・
権八
をはじめ、
面倒見のよい母・
佐久
、自慢の兄・
覚馬
、
年の近い弟・
三郎
とともに
八重
は育つ。
時に射撃の音が響く家では、笑い声も絶えなかった。
「八重のファミリー」
山本権八ー八重の父
山本家の通りを挟んで、
向かい隣4軒目にあった
永岡家
の四男で、
八重の母・佐久とは幼なじみ。
19歳で山本家の養子となり、
名を繁之助から権八と改める。
山本家の家督を継いで、砲術師範役となるが、
十人扶持
(1日米五升)
で決して裕福ではなかった。
会津戦争時、すでに隠居をしていたが、
50歳以上の男性からなる
玄武隊
の一員として出陣する。
父あわれ太田胃酸が膝に散り 時実新子
山本佐久ー八重の母
会津藩砲術師範役の
山本左兵衛
の一人娘。
16歳の時に3歳年上の
永岡繁之助
と結婚し、
三男三女を産む
(次男と次女は早逝)
。
おおらかで気さくな性格で、貧乏暮らしも苦にせず、
困っている人がいると放っておけずに世話をした。
城下では賢夫人として評判で、
会津で初めて種痘が行われた時、
敬遠する領民たちに根気よく効用を説いてまわり、
疱瘡の流行を防いだ。
覚馬は
「母の聡明さにはとても及ばない」
と語っている。
母と子がだまって母が折れてくる 桜井六葉
山本覚馬ー八重の兄
八重があこがれた17歳年上の兄。
生傷が絶えないほどのわんぱくな少年であったが、
辛い家事を平然とこなし、佐久を助けた。
日新館に学び、
文武に秀で弓馬槍刀の師伝を得て褒章を受けた。
23歳の時に江戸に遊学して、洋学を学び、
先進的な見識を持つに至る。
日新館教授となり蘭学所を開設し、
軍事取調役兼大砲頭取に抜擢された。
割烹着つけた夫を見直そう 柚木奏子
山本うらー覚馬の妻
安政4年
(1857)
頃、
樋口家
から覚馬に嫁ぐ。
長女・初子を授かるが夭逝。
文久2年
(1862)
に次女・
みね
を産むと、
ほどなく夫・覚馬は藩命で上洛し、留守を預かることに。
「会津戦争」
では、城中の足手まといになることを恐れ、
避難することを望んだが、
八重に説得され、ともに籠城する。
戦友と呼びたい妻と幾山河 小泉国男
山本みねー覚馬の娘
文久2年
(1862)
覚馬・うら夫妻の次女に生まれる。
ほどなく父・覚馬は上洛したため、
幼少期の父との触れ合いはほとんどなかった。
会津戦争時は7歳で、
八重やうら、佐久と行動をともにしたと思われる。
ユーモアを覚え泣かなくなった次女 桑原伸吉
山本三郎ー八重の弟
八重の2歳年下の弟。
幼い頃から八重にくっついて遊び、八重も心底可愛がる。
一人前の会津藩士になるため鍛錬に励み、
藩命で京都勤めとなる。
「鳥羽伏見の戦い」
で負傷し、海路江戸に戻るが、
傷がもとで芝新銭座にあった藩邸で死去。
会津の山本家には三郎の遺髪と衣服だけが戻り、
八重はその衣服を着て、籠城戦に参加する。
弟が好き 弟も姉が好き 平良航海子
川崎尚之助ー八重の夫
八重の最初の夫。
但馬出石藩に仕える医家の家系に生まれ、
せいみ
蘭学と舎密術を学ぶ。
砲術家・
佐久間象山
の塾で知り合った覚馬が惚れこみ、
会津に連れ帰って日新館の蘭学所教授に就けた。
山本家に居候し、慶応元年
(1865)
頃に八重と結婚。
「会津戦争」
では籠城戦に参加し、
銃隊や砲隊の指揮をするなどの活躍をする。
計算の下手な家族の灯が丸い 渡辺静江
[3回]
y2013/02/13 09:35 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
会津家家訓の縛り
常温で弾む程度の黒魔術 井上一筒
会津松平家初代・保科正之
会津藩家訓。保科正之が寛文8年
(1668)
に制定。
その精神は代々の藩士に受け継がれた。
「京都守護職就任」
「京都守護職」
就任から
「会津戦争」
終結まで
なぜ会津藩は
「朝敵」
の汚名を着せられたのか?
確かに会津藩は終始、幕府と行動をともにし、
薩長両藩と鋭く対立することもあった。
だが最後の将軍よりも、過酷な処罰が科され、
最後は悲惨な籠城戦に追い詰められている。
そこには初めは称えられ、次に恐れられ、
末は憎しみの的になる、強者ゆえの悲劇がある。
雲ひくく漢方薬を少し買う 森中惠美子
藩祖の家訓に従い京都守護職に
文久2
年(1862)
閏8月1日、
第九代会津藩主・
松平容保
は京都守護職を拝命する。
これが、会津藩が幕末動乱の渦に巻き込まれていく、
端緒であった。
おぼつかぬ道です内股でいきます 河村啓子
容保は初め、就任を固辞した。
会津藩はすでに、
蝦夷の警固
や
房総の守備、
品川砲台
の守りを勤めている。
度重なる飢饉で出費がかさみ藩財政は苦しい。
その上、京都に出兵し、
暗躍する尊王攘夷過激派を取り締まり、
治安を回復するのは、
「火中の栗」
を拾うようなものだ。
家老の
西郷頼母
ら家臣も猛反対した。
丸ごとを生きるいのちを愛しむ 前中知栄
しかし春嶽は諦めずに、次のような手紙を容保に認めた。
「土津公
(はにつこう)
以来のお家柄と申し、
かたがた今の艱難を御亮察くだされ、
只今お受けに相成り候へば・・・・」
土津公
(保科正之)
以来のお家柄ならば、
幕府が苦境の今こそ、
京都守護職を受けるべきと説いたのだ。
さらに春嶽はこの後に、
「もし正之公でしたら、お受けになったことでしょう」
と殺し文句を続けている。
どこまでも従いてくる昨日のしっぽ 清水すみれ
"大君の義、一心大切に忠勤を存ずべく、
列国の例を以て自ら処るべからず・・・"
容保は
「会津藩の家訓」
を思い出し、
「ここまで言われては、もはや断れぬ」
と観念した。
純真な人から嵌る落とし穴 河津寅次郎
容保に京都守護職の白羽の矢が立ったのは、
条約調印や将軍継嗣をめぐる、政争を収拾する際、
大きな功績があったからだでもある。
大老・
井伊
による日米修好通商条約の無勅許調印、
十四代将軍に
徳川慶福
(家茂)
を推す南紀派の勝利、
一橋慶喜
擁立をめざした一橋派の粛清
(安政の大獄)
、
そして、桜田門外の変・・・・。
せめてからやがてにかわるその日まで 北原 照子
水戸脱藩浪士らの井伊大老暗殺に激怒した将軍
家茂
は、
水戸家問罪の出兵を命じようとした。
この時、容保が、
「事件は脱藩浪士が起したもの。
今は国内で争っている時ではありませぬ」
と諫止、家茂がこれを容れ、
水戸家処断は
「沙汰止み」
となった。
この功績で容保は左近衛権中将に昇任、
さらに水戸藩に下った密勅の返納もやり遂げ、
家茂の信頼はいよいよ厚くなる。
表装の桃は差し歯をされました 岩根彰子
松平容保
28歳の
「会津中将」
は幕閣の中でも、
一目も二目も置かれる存在になったのだ。
文久2年6月、
兵を従え上洛した薩摩藩国父
島津久光
が、
攘夷督促の勅使・
大原重徳
らを伴い江戸に入り、
幕府に圧力をかける。 その結果、
一橋派が幕政に復帰、
一橋慶喜が将軍後見職、
松平春嶽
が政事総裁職に就き、
3代将軍家光以来となる
将軍家茂の上洛も決まった。
これを機に、新設されたのが
「京都守護職」
であった。
水のことばがわたくしを点すこともある たむらあきこ
【P・S】
容保は高須藩から養子で、
会津松平家に入っていただけに、会津藩主として、
「こうあらねば」
とより重く受け止めていたのだろう。
「我らには正之公の遺訓がある。
また、数代にわたり隆恩に浴くしていることを、
余は不肖といえども一日も忘れたことはない」
容保は家臣たちを前に、悲壮の覚悟を口にし、
「京師の地を死に場所にしよう」
と、藩士一同、泣きながら覚悟を固めたのである。
かくして会津藩は、将軍家のため、
また、宸襟
(しんきん)
を案ずるため、
全身全霊で京都治安維持の任務にあたり、
動乱の渦中に突入していくのであった。
生と死の話へ遮断機が下りる 板野美子
[4回]
y2013/02/10 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
新島八重の掛け軸
白旗をうつくしく持つときもある 森中惠美子
(画面をクリックすると拡大されます)
「新島八重の掛け軸」
新聞紙面の内容より。
ときは1868年。戊辰戦争で
新島八重
は、
会津若松城に籠り、鉄砲を構えました。
新政府軍に追い詰められ、
次の日は、慣れ親しんだ城の明け渡しという夜。
八重は城内の蔵の壁に和歌を書き残したそうです。
後ろ手で寒い雑音閉めました 美馬りゅうこ
アスノヨハ イヅクノタレカ ナカムラム
明日能夜盤 何国乃誰可 な可むら舞
ナレシオシロニ ノコスツキカゲ
な連し御城尓 残須月可計
(原文のまま)
八十四歳 八重子
和歌からは、無念さが伝わってくる。
きらきらと月射し渡る霧氷かな 大西泰世
雑物蔵に和歌を刻む八重
(会津図書館)
(画像を拡大してご覧ください)
3年後、八重は京都にいた兄・
覚馬
を頼って上洛。
同志社創設の
新島襄
と結ばれた後も、
この和歌を、掛け軸や短冊に記したとされる。
位置はいま踏んばることへささやいた たむらあきこ
その一つで、八重が80歳を過ぎて記した掛け軸が、
浄土宗大本山・金戒光明寺で初公開されている。
寺には幕末・会津藩主・
松平容保
が就いた京都守護職の、
本陣が置かれ、1千人の藩士が駐屯。
幕末の動乱などで戦死した藩士の墓もある。
溜息のかたちで椿落ちました 河村啓子
(拡大して読んでみて下さい)
「この和歌はリセットの歌です」
と、寺の僧侶・
橋本周現
さんは、そう解説される。
「故郷を失うという絶望だけなら自刃する選択肢もあった。
それを乗り越え、明日への希望を忘れない強さ、
先行き不透明な現代にも生きる歌なのです」
今ぞ今 死は生きること生きて死ぬこと 時実新子
[2回]
y2013/02/06 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
火中の栗を拾う
折り紙は品行方正で通す 谷口 義
松平容保
「火中の栗を拾う」
嘉永6年
(1853)
、黒船が来航し、
強硬に開国を迫る
ペリー
を前に、幕府は翌年、
日米和親条約
を締結。
続いて安政5年
(1858)
に、
大老・
井伊直弼
が
孝明天皇
の勅許を得ないままに、
日米修好通商条約を結んだ。
この幕府独断での締結に、
尊王攘夷を唱える人々が反発する。
が、井伊は彼らを大弾圧を実行する。
(安政の大獄)
しかしこれが、尊王攘夷派暴発の引き金となった。
樟脳がころころと落ち冬近し 森中惠美子
安政7年
(1860)
の
桜田門外の変
で井伊が討たれると、
文久2年
(1862)
には、老中・
安藤信正
も襲撃されるなど、
各地でテロの嵐が吹き荒れる。
その最たる地が、京都であった。
この頃の京都は、長州藩を中心に
過激な尊王攘夷派志士が跋扈し、
彼らは
安政の大獄
で、幕府に協力した者たちを、
「天誅」
と称して、次々と暗殺していくのである。
砂漠が増えたねと月が言うている 井上一筒
吉田松陰処罰の場面
こうした状況下で、
幕府が京の治安を回復すべく設けたのが、
「京都守護職」
である。
京都守護職は、京都の警察機構の頂点にあたる。
京都役所代
や
京都町奉行
という、
従来の治安維持機構を傘下に置き、非常時には、
畿内の諸藩に対する軍事指揮権を持つという、
絶大な権限が付与されていた。
格子の向こう花魁ですか神ですか 安土理恵
しかし、尊王掛激派の取り締まりは容易ではなく、
当然、人も金も莫大にかかり、
幕府からの年5万石の投料ではとても賄いきれない。
さらに、恨まれることはあっても、さしたる実利はない。
そう考えると
「貧乏くじ」
と言わざるを得ない役職なのだ。
そのお鉢を回されたのが、会津藩だった。
まだ横に貧乏神がいるようで くんじろう
松平春嶽
「ぜひとも就任していただきたい」
幕府政事総裁職・
松平春嶽
が
松平容保
に、
京都守護職を打診したのは、文久2年5月3日のこと。
会津藩が選ばれたのは、幕府にとって、
「頼りがいのある」
存在だったからで、
会津藩は
「軍事力」
の面からも幕府を支えていた。
横っ腹に草間弥生の玉受ける 三村一子
文化3年
(1806)
から翌年にかけてのこと。
ロシア船が蝦夷地を襲撃するという事件が発生すると、
会津藩は幕府に出兵を願い出た。
藩の武威を天下に示す狙いがあった。
その9ヵ月間の樺太警備を務め、
藩兵の規律正しい行動は、世間でも評判となった。
大根の髭は他人を騙さない 桑原伸吉
また、文化7年
(1810)
から相模沿岸警備を10年間、
さらに、弘化4年
(1847)
からは、
房総海岸警備に7年間就いたことで、
会津藩は幕府にとって、
「非常に強力な軍備を持った雄藩」
であるとの認識に、つながったのである。
君のこと好きです広い意味ですが 前原正美
また、黒船来航時には、江戸湾防備に当たった。
強悍で知られ、
かつ幕府に絶対の忠節を尽くす会津藩が
京都守護職を命じられたのは、
ある意味必然的な流れだった。
君が代を歌いつづける海の底 大森一甲
もっとも、会津藩にとっては、
京都守護職就任の打診は青天の霹靂のこと。
江戸湾防備に続き、
混迷を極める京都市中の取り締まりが、
「火中の栗を拾う」
任務であることは、
誰しも分っていたことである。
ゆえに
西郷頼母
や
田中土佐
ら重臣たちは反対し、
容保も、
「不肖の身である自分は、そのような大任に堪えない」
と松平春嶽の求めを一度は断っている。
吹雪襲来わたしがなにをしたという 夏井せいじ
[4回]
y2013/02/02 09:30 z
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