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川柳的逍遥 人の世の一家言
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私をはずすと風が流れだす  河村啓子

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「朝敵揃えの事」ー平家物語

福原の自邸で頼朝挙兵の報告に接し激怒する清盛。

(画像はクリックしてご覧ください)

「わずか170日間で潰えた清盛の遷都の夢」

福原の内裏の造営や宅地の造成は続けられたが、

富士川の敗戦による平家の威信の低下は深刻だった。

還都に対する要求は日増しに高まり、

11月初旬には宗盛清盛と還都をめぐって、

激論を繰りひろげた。

棟梁の宗盛までが還都を公然と口にする状況となり、

もはや清盛の孤立は明らかであった。

8日には、遠江以東の15カ国が反乱軍に味方して、

「草木に至るまでなびかないものはない」

と報じられた。

十薬を煮込んでひとりきりの夜  桑原伸吉

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数日後、ついに清盛は還都を決意する。

新造の内裏において、

11月20日に行われた「豊明節会」帰洛することが、

正式に公表された。

結局、清盛の造営した内裏は、

節会のためだけに、作られたようなものだった。

天皇や群臣の前で、

繰りひろげられる五節の舞を見つめる清盛の、

心のうちには、どのような思いが去来していたのだろう。

遷都が未完に終ったことに対する無念の思いであったか、

あるいは、還都後の敵対勢力への反撃プランを思い描き、

闘志をたぎらせていたのだろうか。

ちょっとした旅の終わりに似た別れ  松田俊彦

清盛が遷都を断念したのは、寺社勢力の反発と、

高倉天皇の健康悪化にあるといわれている。

延暦寺や園城寺など、京周辺の寺院の究極の使命は、

国家的な儀式や祈祷を行うことで、

国家や朝廷を守ることにある。

守るべき朝廷が福原へ引越ししてしまったら、

自身の存在価値はなくなる。

≪そのため、以仁王に味方した園城寺や興福寺はもちろん、

   平家と協調関係を保っていた延暦寺の衆徒までが、

   東国の反乱勢力に呼応して蜂起し、

   還都の要求を激化させていたのである≫


これ以上笑うと空へ浮き上がる  加納美津子

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それ以上に清盛の心を動かしたのは、

高倉上皇の健康不良だった。

高倉上皇の病は7月下旬には、かなり深刻になっており、

「摂政・近衛基通に政務を譲りたい」

と弱音をはくほどであったが、

形式的にせよ高倉院政を勢力の基盤とする清盛が、

それを許すはずもなかった。

人間のエゴでブルーの薔薇が咲く  清水久美子

多忙な政務、遷都による心労、

慣れない海辺の環境などの、要因が重なって、

上皇の病気は、日を追うごとに悪化していったと考えられる。

「このような辺土(福原)で死にたくない」

という高倉の再三にわたる哀訴に、

さすがの清盛も耳をかさざるを得なかったのだろう。

また、棟梁の宗盛までが面と向かって,

還都を主張したことも、無関係でなかったかもしれない。

内乱が激化するなか、平家一門の結束が崩れるのは、

何としても、避けたかったのではないだろうか。

渋いしぶいと栗きんとんを食べる  井上一筒

だが遷都を断念する以上、

政権維持のために、

反乱勢力を根絶やしにするという決意も、

清盛は固めていたと考えられる。

京に戻るや清盛はただちに反撃態勢を整え、

敵対勢力の徹底的な弾圧に乗り出すのである。

眼差しを整えてから相手見る  たむらあきこ

拍手[3回]

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柔らかく小鳥の胸を突くフォーク  岩根彰子

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「源頼朝石橋山旗上合戦」


≪隠れている頼朝を家臣たちが平家方から守ろうとする様子≫

治承4年(1180)4月、この頃すでに蛭ヶ小島の配所を出て、

北条館で生活していた頼朝のもとへ新宮十郎行家から、

以仁王の「平家追討の令旨」が届いた。
 
それから4ヶ月、

深慮の後8月に頼朝は挙兵に踏み切った。

「旗揚げ」の第一戦は、

伊豆目代・山木判官兼隆の討伐と決まった。


(クリックで画像は拡大できます)

やり直すことを新月から学ぶ  竹内ゆみこ

「頼朝挙兵」

北条時政は周辺の武士を結集、

八十五騎余で山木館を夜襲した。

山木館は北条館の東2.5㎞ほどの近距離である。

この夜は、三島神社の祭典で、

山木方は無勢であったというが、

その必死の防戦に、時政らは手こずったという。
 
結局、頼朝の警護で北条館に残っていた加藤景廉

堀親家らが、時政の加勢に駆け付けて山木兼隆を討取り、

初戦はかろうじて勝利で飾ることができた。

逆心もまた良し雨を突っ走る  山本芳男

治承4年(1180)5月26日に、清盛以仁王の挙兵を鎮圧し、

6月2日、行幸という名目で福原への「遷都」を断行した。

しかし、清盛追討を命じた「以仁王の令旨」を、

新宮行家が送達したことが着火点となり、

やがて、諸国で反乱が勃発する。

猿の努力に猿の電車が走り出す  森中惠美子


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   山木館跡の碑

伊豆では、8月17日に頼朝が挙兵し、

同国目代の山木(平)兼隆を討っている。

治承4年(1180)4月27日、頼朝は、

叔父・行家が持参した以仁王令旨を受け取り、

舅の北条時政にも見せた。

≪ちなみに『平家物語』には、

  
文覚後白河院の院宣を持参して頼朝に挙兵を促したとある。

   疑うべき点も多いが、平治の乱以前の後白河天皇の

   側近だったことを考えれば無下に否定できない話でもある≫


人間は裏切るように出来ている  中村幸彦

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8月20日、頼朝は伊豆・相模の御家人を率いて、

伊豆から相模国土肥郷に赴いた。

しかし8月23日、

頼朝は相模国の石橋山で大庭景親以下の

平家被官との合戦に敗れ、箱根山に逃れている。

≪この大庭景親は、関東に住む源頼政の孫・仲綱子を、

  追討するために清盛が私的に遣わした武士であった≫


石橋山合戦で敗れた頼朝は、

8月28日、安房国に逃れた。

その後、頼朝は、上総国、下総国、武蔵国を経て、

10月6日、相模国に入っている。

翌日には、鶴岡八幡宮を遥拝し、

父・義朝の亀谷旧跡に邸宅の建造を始め、

15日に鎌倉御亭に入るのである。

秋雨の破片の傷が痒くって  くんじろう


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「武者鑑 -名人相合 源頼朝」

頼朝は10月16日に福原・京からの追討使・平維盛

13日に駿河国手越駅に着いたと聞き、

駿河に軍を進めた。

かくして起こったのが、有名な「富士川合戦」である。

東国では、

頼朝の伊豆での挙兵と南関東への展開のみならず、

甲斐・信濃・上野といった諸国でも、反乱が起こっていた。

9月には、

甲斐の武田信義、信濃の木曾義仲と次々に挙兵。

頼朝挙兵の報が京都に伝わったのは、9月3日頃であった。

続けて9月6日には、

賊軍500騎と官兵2000騎が合戦し、

賊が山中に逃げたという石橋山合戦の勝報が届いている。

秤をもって離さない落下傘  蟹口和枝

先遣隊ののち、本隊を派遣するという

平氏の軍勢派遣方式が予定され、

東国の大庭等の活躍に続いて、

京でも、9月5日に頼朝追討宣旨を発して、

東海道・東山道の武勇の者を動員している。

追討使は、平維盛・忠度・知度であった。

≪維盛は故重盛の息子、忠度は清盛の末弟、知度は清盛の末子であり、

   宗盛を後継者とする平氏一門では、いずれも傍流と言える≫


軽いとは秤が言うてくれなんだ  井上一筒

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      福原京        

一方の清盛は、厳島や宇佐に赴き、

従来どおり福原への首都移転構想を進めていた。

つまり当初、清盛は、

頼朝の挙兵・東国の反乱問題をあまり、

深刻に考えていなかったのである。

シーソーの一人を連れてきたトンボ  山本早苗

さて平氏は富士川の合戦でなぜ負けたのか?

もともと平氏の軍制は、先述の通り、

少数精鋭で前線の家人が敵を討伐し、

そのあとに追討使の大軍が到着するという

スタイルをとっていた。

しかし、頼朝の反乱軍がここにきて、

予想以上に膨れ上がっていた。

もはや通常の平氏の軍制では、

対応できなくなっていたのである。

ヒゲ剃りの途中で電池切れかかる  谷垣郁郎

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「平家物語」逸話

水鳥の羽音を源氏方の夜襲と勘違いして。

富士川の陣屋を捨て潰走する平家の軍勢。


(はっきり見る場合は画像を拡大してください)

追討軍は10月13日に駿河国手越駅に着き、

16日に同国高橋宿に着いた。

そこで彼等が見たものは、

路頭に懸けられた80余の首だった。

というのは、10月14日に駿河目代・橘遠茂が、

長田入道を率いて甲斐に攻め入ったが、

鉢田で武田一族に迎撃され大敗を喫していたのである。

つまり、屈強な前衛部隊は、

追討使が到着する前に殲滅させられていたのだ。

どこで縺れたのか毒リンゴ貰う  前中知栄

これが官軍の士気を大きく下げることになった。

平氏の陣に謀反の輩から牒状が送られてきたが、

子細を糺問したのち、使者の首を切った。

その後、頼朝が襲来するとの風聞があり、

彼等の軍勢が巨万であるのに対して、

追討軍の軍勢では敵対できそうになく、

引き返そうとしたところ、手越の宿館に矢火があった。

近江から東国にかけて動員した兵が、

官軍の弱さを見て逐電し、

残ったのは、京から下った兵のみであった。

断捨離から始まる墓場までの時間  荻野浩子

のこる官軍は、わずか1000~2000騎。

これではまったく勝ち目がない。

「官軍として断固戦うべし」と主張する維盛に、

伊藤忠清は撤退を説得した。

退却を考え始めたところへ、

多数の水鳥が富士川から一斉にいい飛び立った。

その羽音に驚き、

敵襲と錯覚した平氏軍は潰走してしまう。

この敗北は、清盛が後白河院を幽閉して成立させた

平氏政権の権威を崩壊させてしまった。

いい訳のところどころで座礁する  高島啓子

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脱ぎ捨てた喪服も黙り込んでいる  新家完司

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  平家物語「物怪の事」

福原岡御所の清盛寝所に現れた巨大な妖怪の顔

(画面をクリックし拡大してご覧下さい)

「安徳天皇の福原への遷幸」

以仁王方の軍勢には、

興福寺・園城寺の衆徒も参加していた。

反乱軍と寺社勢力が手を結ぶのは、

従来の寺院と国家権力の

関係からは考えられない事態であった。

≪平安後期以降に頻発した南都甫北嶺の大寺社の強訴が

   時々の政権にとって悩ましい課題であったことは周知の通りだが、

   その要求は寺院内部の既得権益に関するものであり、

   俗界の政治問題に口出しをする性格のものではなかった≫


しかし今回は清盛の打倒という以仁王の目的に沿って、

両寺院の大衆が参戦したのである。

靭帯の切れた人から泣きなさい  井上一筒

京近辺の大寺社にとって、

後白河院を幽閉し厳島神社を偏重する清盛と、

彼が成立させた高倉院・安徳天皇という体制は

到底認められるものではなかったのだ。

京に都があれば、

地理的に大寺社の行動に直面せざるをえない。

また、自身の血を継ぐ皇統に、

「新王朝に相応しい首都を造りたい」

との思いは自然であろう。

その地として、清盛は大陸との貿易の一拠点であり、

日常生活をいとなむ福原周辺を構想した。

清盛は始まる前も騒がしい  北野哲男

以仁王に加担した興福寺の処分など、

事後処理の途中であったが、

ここに清盛は福原への遷都計画を実行に移したのである。

移動の理由として、南都を攻めるためという噂があった。

また京に留まる貴族には、刑があるという話もあった。

すでに5月30日に、藤原邦綱から九条兼実のもとに、

「来月3日に福原への行幸がある」

という情報が入り、兼実は仰天している。

後輪をぐっとつかんで黙らせる  湊 圭史

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      御幸略記

6月2日、後白河院・高倉院、安徳天皇が京都を出発し、

摂津国福原に向かった。

≪京外の行宮への天皇の移動は平安遷都以来初めてであり、

   当初は「行幸」すなわち天皇の移動に院も同行するという

   名目であった≫


6月3日、一行は福原に着いた。

安徳天皇は平頼盛の邸宅を、後白河院は平教盛の邸宅を、

高倉院は、清盛の別第を、

摂政基通は、大宰府安楽寺別当・安能の房を、

それぞれ御所としたが、

翌4日には、安徳は清盛の別第に遷り、

高倉院は頼盛の第に遷っている。

家主の頼盛は正二位に叙された。

油断して鬼と添い寝をしたようだ  中野六助

6月11日には、右大臣・九条兼実が、

「清盛が遷都の方針にほぼ決まったが、

  右大臣の参入を待っている」


という伝聞を聞き、13日に京を発している。

しかし和田に造営する計画が、土地の広さ等の問題で、

15日に小屋野に変化し、16日には厳島内侍の託宣で、

小屋野を改めよとあって、印南野になるなど、

都の造営計画も二転三転したのだった。

この歳になっても音程定まらず  嶋澤喜八郎

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      高倉御幸

7月16日に福原をしばらく天皇の皇居とすることとした。

8月4日以前には、

なおも故郷たる平安京は放棄せず、福原は

「離宮として、八省や大内を移転することはない」

としたが、8月12日には、

中山忠親等の公卿も福原に宅地を与えられている。

清盛は、なしくずし的に遷都計画を進めていった。

水仙と梅で始まる物語  立蔵信子

この頃には、清盛の親類の中にも、

福原への遷都計画に異を唱える者が現れはじめた。

7月の末頃から、高倉が体調不良となり、

29日には尊号等を辞退した。

8月4日には高倉が、

「実母建春門院が自分を捨てて、遷幸したのは不本意」

と言ったという夢を見たといいだした。

中宮徳子藤原隆季も同様の悪夢を見たという。

高倉の体調不良は事実であるが、

夢にかこつけて「遷都への不満」を表明したのだろう。

体の中のどこかが痛む霧の中  森中惠美子

7月30日には、

「大嘗会を今年京でするか福原でするか」

という諮問が人々になされ、それに対して藤原隆季が、

「遷都はどうせ無理だろう」

と言った事が清盛に伝わり、清盛を激怒させている。

天皇の重要な就任儀礼である大嘗会を行うにあたって、

その場所が帝都であるべきであり、

離宮では問題であるとする声も強かった。

しかし、清盛は形通り里内裏を造ることで、

福原で大嘗会を行う方針を示した。

銀食器行進曲で攻めてくる  岩根彰子

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8月12日以前には、隆季や平時忠が、清盛に

「京都に遷都せよ」という高倉の仰せを伝えた。

しかし清盛は、「参るつもりはない」 と返答し、

さらに、「なぜ大嘗会を行わないのか」

と言っている。

そのため以後は、遷都を言う者はいなくなった。

本日は晴天なりで幕が開く  橋倉久美子

8月19日、清盛は厳島参詣に出発し、

さらに宇佐八幡宮に参詣している。

8月29日以前には、皇居を造営し、

八省と重要な官司を建てて

内裏を移転するという方針を決定した。

福原を正式の首都とする清盛の構想が、

現実になってきたのである。

真っすぐの鉄条網はありえない  森田律子

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幻覚の馬は石臼で挽かれた  井上一筒

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平家物語「朝敵揃えの事」

福原の自邸で頼朝挙兵の報告に激怒する清盛

(画面は拡大してご覧下さい)

「治承4年(1180)のこと」ー以仁王の反乱

2月20日 大輪田泊の修造が認可される。

2月21日 高倉天皇が上皇となり、高倉院政の開始。

かわって3歳の安徳天皇が践祚(天皇の位を受け継ぐこと)し、

藤原基通を摂政とした。

ここに清盛の血統が皇位を継承する体制が確立した。

ピカピカのブランド着た日は疲れます  梅谷邦子

3月17日  

高倉上皇が清盛の妻・時子の八条邸に入る。

高倉院の退位後初の社参として、

厳島に参詣する予定であったが、

園城寺・比叡山・南都の大衆が、

後白河院と高倉院を奪取、

両院の御所を警固して、御幸は3月19日に延期された。

≪従来の院は、退位後の社参で、京近辺の神社に参詣しているため、

 京近辺の神社よりも、厳島神社を重視するという宗教秩序の改変に

 つながる計画に対して、大衆は抗議の意を示したのである≫


指きりの語尾の辺りの生返事  美馬りゅうこ

3月20日~3月26日 清盛、高倉上皇を厳島に迎える。

(上皇一行は福原で清盛と別れ、4月8日帰洛)

4月22日  

安徳天皇即位式が紫宸殿で行われた。

しかし水面下では、

すでに4月9日に、後白河院の第2皇子・以仁王が、

「清盛追討」を呼びかける令旨を、

八条院蔵人となった源行家に命じて諸国に発していた。

感情の正面衝突おお危な  柴本ばっは

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高倉宮跡(以仁王の御所があった)

「以仁王」


以仁王は仁平元年(1151)

後白河天皇と藤原季成娘・成子の間に生まれた。

高倉院のライバルとなることを危惧した建春門院等の、

圧力により、親王宣下を得られなかった。

その後以仁王は、天台座主・最雲に預けられたが、

応保2年(1162)の最雲の死去により、出家しないまま、

永万元年(1165)12月に人目を忍んで元服し、

八条院の猶子となり彼女の支援を受けていた。

さらに安徳天皇の践祚により、

以仁王が天皇となる可能性はほぼなくなっていた。

髭も髪も白優勢となるオセロ  村岡義博 

5月10日、清盛が急遽上洛し、翌日には福原に下向した。

当日の京は騒がしかったというが、

それは以仁王の「謀反」が露顕したからである。

吹雪襲来わたしがなにをしたという  夏井せいじ

5月15日、以仁王の乱が発覚し、

臣籍降下・土佐国配流を決定する。

しかし、検非違使・源光長・源兼綱が以仁王の、

三条高倉邸に到着した時には、

以仁王はすでに園城寺に逃亡していた。

その後数日間、以仁王の捜索を続け、

5月18日、園城寺に以仁王の引き渡しを命じたが、

悪僧たちは拒否した。

≪園城寺悪僧・律上房は、下総の武士・千葉常胤の子息であった≫

目を閉じて見えてくるのは過去ばかり  笠原道子

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「芳年武者无類(ぶるい) 源三位頼政」

平等院境内で頼政は自決する

5月21日、平宗盛以下9人の平氏一門と源頼政で、

23日に、園城寺を攻めることに決まったが、

同日夜には、源頼政と仲綱・兼綱等の子が、

軍勢を率いて、以仁王に合流した。

頼政の養子兼綱も、15日に以仁王邸を捕縛に向っていた。

そんな彼らが、以仁王方として動いたことは衝撃であった。

≪以仁王が逃げおおせたのは、

    彼らが事前に内部情報を伝えていたからであろう≫


歯車の一つがダダをこねている  嶋澤喜八郎

5月22日、比叡山の大衆300人が以仁王に与力し、

大和の興福寺衆徒も蜂起したという情報が京に伝わった。

5月23日頃には、天皇の行幸、院の御幸に合わせて、

官兵が、洛中の諸人を引率して、

福原に下向するという風聞もあった。

5月25日には、

天台座主・明運が比叡山に登り、

叡山僧に園城寺を攻めるよう伝え、過半が承諾した。

叡山が頼れないとなった以仁王らは、

5月26日未明、園城寺から南都に向った。

足し算の途中で夕陽が沈んだ  森田律子

5月26日、以仁王等の脱出を知り、

平氏家人で検非違使の藤原景高・忠綱・兼綱

300騎を派遣した。

景高等は、宇治の平等院で以王に追い着き、

合戦して源頼政とその男仲綱・兼綱を討ち取った。

藤原景綱等が出撃した後、京で平宗盛と相談して、

平重衡・維盛が主力を率いて宇治に向ったが、

すでに合戦は終っており、

彼らは敵軍の首を見たのみであった。

こうして以仁王の乱は、鎮圧(宇治川橋合戦)

清盛、福原から上洛。

方程式狂って影を切り刻む  上田仁

宇治平等院境内の塔頭最勝院にある頼政の墓

5月28日、高倉上皇を自邸に招き、

源頼政の首を実見に供する。

5月30日、以仁王・頼政追捕の賞で、

清宗(三男・宗盛の長男)が従三位に叙任される。

「福原潜幸」が6月3日と決定する。

『平家物語』は、

源頼政が、子息・仲綱が平宗盛に侮辱されたことを怒り、

以仁王に挙兵を勧めたとする。

しかし、政治的立場を考えれば、

以仁王こそが、反平家活動の起点であり、

養母・八条院に祗候していた頼政を動員した、


と考えるべきである。

裸一貫惜しいものはなにもない  前中知栄

拍手[4回]

そのままで雲は移ろいゆくアート  新家完司

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          福原遷都

以仁王が寺社勢力と組んで反乱を起したため、

清盛は福原に遷都を断行する。


(画面は拡大してご覧下さい)

「福原遷都への総括」

日宋貿易は後白河にも多大な恩恵を与えている。

畿内まで宋船を入れる許可を下すだけで、

清盛から捧げられてくる謝礼も、莫大なものとなった。

しかし、福原の別荘に居館を移して以来、清盛は、

あたかも陰の上皇であるかのように振る舞っている。

後白河法皇を中心とした院の勢力は、

こうした清盛の肥大を、好まなかった。

てっぺんに登ると見えぬものもあり  河村啓子

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「この国を統べる者は一体誰だと思うておるか」

後白河の憤懣は、8年後の安元3年(1177)に,

「鹿ケ谷の陰謀」となって奔出した。

延暦寺の大衆との軋轢が嵩じ、

左大将の平重盛と右大将の平宗盛に対して、

武力討伐を命じたものの、

「清盛公の指示がない限りは動けない」

と拒絶されたことから、

遂に「平家打倒の謀議」を凝らしたものだった。

癇癪玉なら何発も打ち上げた  高橋謡子

だが、院近臣の藤原成親・西光・俊寛などから、

平家討伐の大将に望まれていた摂津源氏・多田行綱が、

裏切り、京にある清盛の西八条邸へ駆け込んで、

密告したことから、露顕したのである。

かくして事件関係者のあらかたは処罰された。

が、後白河だけは処分されなかった。

胸底の礫低温火傷する  荻野浩子

そのため、2年後にまた別の事件が生じた。

治承3年(1179)の政変。

清盛による武力革命である。

事の起こりは、後白河の清盛に対する報復行為だった。

摂関家へ嫁いでいた清盛の娘の白河殿・盛子が急逝し、

重盛が病を患って死去したのだが、

その知行地を後白河法皇が、

何の前触れもなく没収したのである。

患部から出るのが好きな奇人変人  山口ろっぱ

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この処置について怒髪天を衝いた清盛は、

六千騎という尋常でない数の兵力を擁して上洛し、

院政を止めさせた。

「もはや後白河を野放しにしておくことはできない」

と考えたからだ。

後白河は京の南にある鳥羽離宮へ幽閉されたが、

事件の処置は、それだけではない。

おどり食い喉を過ぎるころ臨界  松原末湖

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常に自分の周りには自分が殺した者たちの怨霊や,

源氏の呪縛がつきまとい、神経が休まることがなかった清盛


後白河の第3皇子の以仁王も所領を没収され、

関白の藤原基房が大宰府へ配流された他、

太政大臣の藤原師長をはじめ、

39名の公卿や殿上人などが、

一気に官を解かれてしまったのである。

肉食の顔で雑草抜いている  毛利由美

こうして清盛は、おのが手に国家の実権を握り締めた。

ただ、この強引な権力奪取は新たな問題を生んだ。

基房の配流に異を唱えた興福寺

後白河と密接な絆を持った園城寺などとの確執である。

とはいえ、元より清盛は、仏敵ではない。

出家したのも、寸白による高熱に魘された折の

奇蹟的な快癒は、仏法に護られたためであると思い、

その謝意を表すには、

仏教に帰依するのが良いと、判断したからである。

大根の白あくまでも平和主義  新川弘子

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  福原怪異

厳島神社への篤い信仰心を見ても解ることながら、

常より神仏を敬い仏法を尊んできた。

後に南都の焼討が行なわれて、

東大寺などの大伽藍を灰燼に帰させてしまったのも、

家の子の狼藉は、おのが責任であるとし、

自ら悪逆の汚名を着た結果であろう。

「度の過ぎた家族への愛着が為してしまったもの」

と言っていいが、清盛にしてみれば、

「家族を罪に陥れるよりも、己を穢させる方がよい」

と言ったところだったのだろう。

真夜中の神と卵は同じ罪  定金冬二

ところが、興福寺や園城寺といった寺社は、

清盛の信心などどうでもよく、

ひたすら旧来の朝廷と結託して、

平家との対立姿勢を深めていった。

かのように旧態依然とした都で、夢が語れるものか。

清盛は数珠を振り上げ、

「福原へ都を遷す」 と叫んだ。

マテ貝は泣きだすぼくは手を合わす  湊 圭史

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    厳島神社神殿

いまだ大輪田泊は修築工事の真っ最中だったが、

都や港の完成を待っていたのでは、

何の進歩も発展もない。

天皇家すらも意のままになるような立場となった今、

日宋貿易は平家の私貿易ではなく、

国家事業とできる。

ならば、福原に政事の機能を全て遷してしまった方が好い。

大宋国と対等となるような海の都を築くのだ。

かくして、治承4年(1180)6月2日、

行幸が行なわれるとともに、行宮もまた置かれた。

平安京が築かれて以来、実に386年ぶりの遷都である。

浮気ならしましょうスープ皿をあけ  森中惠美子

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