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川柳的逍遥 人の世の一家言
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きまぐれに開けるときしむお仏壇  新家完司

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    保元合戦図屏風

11日未明、清盛、義朝、義康の兵六百騎は、

内裏・高松殿を出陣し、白河北殿へ押し寄せた。

天皇方は
義朝の弟で強弓を誇る

鎮西八郎為朝の攻撃に苦しめられたが、

義朝が白河殿に火をかけると、崇徳方は浮足立ち、

合戦はわずか、4時間で天皇方の勝利に終わった。


                    (画像は拡大して見れます)

わたくしの代わりに轢かれたのは杖  山田ゆみ葉

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「清盛参着の衝撃」

「さて、どうしたものか」

と思案に暮れたのは清盛である。

父・忠盛が亡くなり、平家一門の頭領となって3年半、

39歳の男盛り。

この騒乱をどう乗り切るかは、

己のこれからの人生だけでなく、

一門の人々の命運がかかっていた。

一天地六に神様は手を貸さず  ふじのひろし

戦になるからには、

勝つ方につかなければならない。

が、何しろ初めてのことだ。

しかも、

『この戦はどうやら武力と武力の衝突、

というものだけではなさそうだ』


摂関家の分裂を見ても、政治闘争という色合いが濃い。

新院方、内裏方の双方から招集のかかる中で、

清盛は、しきりと思案を凝らした。

白を一枚クレパスは十二色  さて  北原照子

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人々も清盛の動向を注目していた。

亡き父・忠盛が、重仁の後見役だったこともあり、

「新院方につくのではないか」

という見方が多い。

だが、上皇や摂関家に恩義があるから新院方へとか、

愛人がいるから内裏方へとか、

そうしたことで、決めるべき問題ではないだろう。

曇りなら曇りにあった眠り方  吉澤久良

どちらが優勢なのかはわからないが、

この動乱は、

『兵馬の多寡だけで、勝敗が決まるものでもなさそうだ』

考えるべきは「大義」ではないか。

強いほうが勝つのではなく、

「大義を掲げたほうが勝つ」

そういう戦になるだろう、と清盛は思った。

前向きに生きれば風も味方する  嶋澤喜八郎

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では、新院方に体技はあるか。

市中では、「新院ご謀叛!」と叫んでいる。

天皇に反逆しようとしている、というのだが、

この当時の天皇は、

後世のような絶対的な存在ではなかった。

しかも、その天皇の座にいるのは、

「あの放蕩三昧の・・・・・」

と陰口を叩かれてきた後白河である。

「謀叛」、という言葉にも重みはなく、

「崇徳が反旗を翻すのも当然だ」

と受け止める向きも多かったのだ。

二極モーター歌舞伎役者と同じ声  くんじろう

しかし、世の中の仕組みの頂点にいるべきものが、

天皇という存在ではないのか。

「泰平」を維持するために、

そういう仕組みを守り立てていくことこそが、

『大義』だろう。

後白河がどんな陰口を叩かれようとも、

彼が天皇なのだ。

「内裏方につく!」  

清盛が一門にそう告げ、三百騎を率いて内裏方に

駆けつけたのは、7月10日のことだった。

舌打ちを三回粉吹き芋になる  岩根彰子

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武家の中では、最も遅い参着だった、が、

それだけにインパクトは大きかった。

「清盛が味方についた」

というので内裏方は、大いに気勢が上がったし、

新院方の衝撃は大きかった。

柱一本立てると勢いが付いた  神野節子

こうして、鳥羽の死後わずか8日にして、

「保元の乱」の幕は上がった。

内裏方にはおよそ一千騎、

対する、新院方にも五百騎余りの武者が集結し、

賀茂川を挟んだ形で睨み合った。

双方の陣営の間を、物見の武者が盛んに駆け回り、

市中は、家財道具を積んだ荷車を引いて、

右往左往する者たちで、混乱をきわめた。

富士山が噴火するので逃げなさい   井上一筒

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芒野とねずみの肝とアンチモン  井上一筒

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  悪源太義平

源氏の棟梁・源義朝の長男。

15歳のとき義平は、大蔵合戦で武名をあげ、


「鎌倉悪源太」と呼ばれるようになる

(クリックすると画面は大きくなります)

「大蔵合戦」

久寿2年(1155年)、義平は父・義朝が叔父・義賢と対立した際に、

義賢の居館・武蔵国の「大蔵館」を急襲し、

義賢や義賢の舅・
秩父重隆を討ちとった事件。

このとき、2歳だった源義賢の子・
駒王丸は、斎藤実盛の計らいで、

信濃国の中原兼遠のもとに逃がれた。

この駒王丸が、後の
木曾義仲である。

義仲は命の恩人である実盛と、「大蔵合戦」から28年後の、

「篠原の戦い」において首実検の場で、

悲劇的な対面(再会)をしている。

首筋に歯型くっきり虫しぐれ  増田えんじぇる

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「主流派対反主流派」

保元元年(1156)7月2日、鳥羽院が崩御した。

鳥羽院の遺志を継いだ美福門院は、

後白河天皇守仁親王・関白・藤原忠通を中心に、

鳥羽院旧臣や後白河天皇近臣を束ねて、

派閥の解体を防ぐ一方で、

鳥羽院・美福門院の意向を受けた武家・

平清盛・源義朝・足利義康・源頼政・源重成・

平実俊・関信兼、
などに参集を命じた。

ひとりづつ味方につけていく粘り  立蔵信子

一方、反主流派は、

崇徳天皇・左大臣・藤原頼長を中心に、

彼らの側近や摂関家に仕える、

源為義平忠正、大和源氏の宇野親治といった、

京の武者や、為義が呼び寄せた家人に限られていた。

河内源氏には、為義が頼賢を嫡子に選んだことで、

長子義朝とのあいだに軋轢があり、

鳥羽院は、そこにつけ込んで、

義朝を、院政派(主流派)に引き入れた。

擬態して別の世界で生きてみる  三村一子

両者の衝突は、久寿2年に大蔵館にいた源義賢を、

悪源太義平が急襲して討ち取った、

「大蔵合戦」となってあらわれた。

南関東を勢力圏に収めつつあった義朝の離反は、

大きな痛手であった。

最初から知っていたんだこの痛さ  安土理恵

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平忠盛の後家・池禅尼は、

崇徳院の乳母であったが、

美福門院の勝利を確信し、息子・頼盛に対して、

「清盛とともに天皇方に参ずるよう」 命じた。

家族同様の乳母子にまで離反された崇徳上皇は、

予想外の事態に驚き、

白河北殿に移って、武士を参集させようとしたが、

美福門院はいち早く、

検非違使を京の入口に派遣して、道を封鎖した。

思ったとおり怒ってる泣いている  奥山晴生

7月6日、宇野親冶の子は、

白河北殿に向かおうとしたが、

法住寺付近で平基盛と合戦となり、討ち取られた。

美福門院の手際のよさは、

鳥羽院が最期を意識し始めたころから、

崇徳上皇一派を、武力で制圧する、

意図を持っていたと思われる。

正面の顔がやっぱり阿修羅像  小林満寿夫

7月10日、両派の軍勢は鴨川を挟んで対峙した。

一触即発の情勢に、京の町に緊張が走る。

上皇側は白河北殿、天皇側は高松殿を拠点とした。

そして、7月11日未明に合戦は始まった。

青空へバケツ一杯汲みに行く  和田洋子

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美福門院は、藤原信西源義朝が、

先制攻撃を主張したので、

御所の警固は、官人に委せ、

武家は、新院御所攻撃に向かわせた。

合戦にいたる政治的な駆け引きは、

鳥羽院の遺志を継いだ美福門院が主導してきたが、

いざ合戦になると、

後白河天皇の乳母夫・藤原信西の手に移っていった。

丁寧に畳まれている蚊帳の外  笠嶋恵美子

崇徳院側では源為義が、

「白河北殿を守り切れないことはないが、

  万一の時には南都に移り、

  源家の家人を集めて、京に攻め込むのがよい」


と主張した。

この会議が続いてるところで、

物見に出していた武者所の官人から、

敵が動いたと報告が入った。

空き缶がころげ出てくる左耳  岩田多佳子

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平家の微妙な立場を反映して、

鳥羽院の容態が悪化したとき、

御所を守るために召集された武士の中に、

清盛の姿はなかった。

鳥羽の恩顧に報いるか、

崇徳との縁故を優先するのか、

自身の決断が、一門の運命を左右するということを、

清盛自身は痛切に感じていた。

断捨離とニアミスをした薬指  和田洋子

もともと後白河天皇は、皇子の二条が即位するまでの、

「中継ぎ」として擁立された。

ただし、中継ぎとはいえ、天皇である以上、

朝廷の頂点に君臨する絶対的な権威、

であることにかわりはない。

後白河の兄である崇徳に院政を行なう資格はなく、

崇徳方につくことは『賊軍』への転落を意味する。

風の要素たるべく不定愁訴  山口ろっぱ

清盛は悩み抜いた。

そして、清盛が結論を出したのは、

鳥羽の死から三日後の、7月5日だった。

京随一の勢力を誇る清盛が、

どちら側につくか、その戦力の差をもって、

戦いの帰趨は、始まる前から、決していた。

足首を19センチ開放す  小嶋くまひこ

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シュレッダーの刃に横顔がひっかかる  くんじろう

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「観音霊験記 西国巡礼十五番・山城京今熊野  後白河」

(画面をクリックすると画面が大きくなります)

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「建春門院(平滋子)」


滋子(しげこ)は、堂上平氏・平時信の娘。

清盛の妻・時子時忠とは、異母兄弟である。

もとは後白河院の姉・上西門院統子に仕える女房で、

小弁と呼ばれていた。

その関係から後白河院の寵愛をうけ、

応保元年(1161)憲仁親王
高倉天皇)を産んでいる。

(余談だが、のちに時子の娘・徳子が高倉天皇に入内している。

  いわゆる、いとこ同士の婚姻が行なわれたことになる)


真珠から神が検出されました  湊 圭史

仁安3年(1168)高倉天皇の即位により、

皇太后に冊立、

嘉応元年(1169)に院号宣下を受け、

女院になっていた。

清盛と同じ平氏とはいっても、

時子滋子が属した平氏(堂上)は、

武士ではなく、代々摂関家の家司を務める公卿で、

故実に通じた貴族であった。

言の葉にうっすら紅を載せてみる  合田瑠美子

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後白河院は、生涯で34回も熊野参詣に行っているが、

建春門院も、それに何度か同道している。

また福原における千僧供養にも、

後白河院は、建春門院を伴っており、

非常に寵愛していたことがわかる。

いつも唯笑って君の傍にいる  森吉留里恵      

建春門院については、

藤原定家の姉・健寿御前が記した『たまきはる』に、

何事にも几帳面で、

周囲への細やかな気配りを欠かさないなど、

その聡明な人柄が記されている。

また、建春門院のもとに初めて出仕し、

対面を果たした健寿御前は、

「この世の中には、こんなに美しい人がいるのかと思った」

と記している。

≪また、建春門院は、後白河院が熊野詣でなどで不在のときに、

    政務運営に参加していた・・・と推測される≫


声をかけられずに横顔を見つめ  杉本克子

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「たまきはる」にも、建春門院が、

「政治において思いのままにならないことは何もなかった」

と記されている。

建春門院が、このような人物であったからこそ、

政治的に対立を深めつつあった清盛と、

後白河との間に立って、両者を仲介する、

役割を果すことができたのであろう。

清盛にとって建春門院は、

後白河院との関係維持のため、

欠かすことのできない、貴重な存在であった。

コーナーキックからお茶室に移る  井上一筒

建春門院が両者の間に立って、

政治的に仲介する役割を果たしていたため、

なんとか、協調関係は維持されていた。

そんな中、安元2年(1176)6月初旬頃から、

建春門院の体調不安が伝えられ、

7月8日、種々の祈祷もむなしく法住寺において没し、

2日後、蓮華王院の東の法華三昧堂に葬られる。

(そのわずか1年後に鹿ヶ谷事件が起こる)

※  蓮華王院=京都し東山区にあった法住寺殿の一院として、

   後鳥羽法皇が造営。俗称ー
三十三間堂。

真下から真近で説教白い骨  岩根彰子

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     本 宮
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     新 宮
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     那 智


「熊野詣」

紀伊国の熊野本宮・新宮・那智の三社(熊野三山)への参詣。

極楽往生を願う人々の信仰を集め、

全盛期の院政期~鎌倉初期には、

後白河34回、後鳥羽30回など、

頻繁な御幸があった。

従者も千人に及び、沿道の農民の負担は大きかった。


京都からの道筋の随所に熊野王子が祀られ、

100を超えて超えていたという。


わが首とゆかりの寺の花の首  森中惠美子


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「藤原頼長の命運」

院政の続く天皇家の内部抗争と、

時を同じくして、

藤原摂関家でも、家督争いが起きていた。

藤原忠実は、長男の忠通より、

次男の頼長の方を寵愛し、

一度は忠通に家督を継がせて、

近衛天皇在任中に忠通が関白を務めるが、

事ある毎に引退をすすめる。

しかし、忠通は拒否し続け、

とうとう忠実は忠通を勘当して、頼長を内覧にしてしまう。

≪関白の忠通とは別に、内覧もいるという奇妙な事態が発生する≫
        
氷点下28度のおうどいろ  蟹口和枝

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一方頼長は、せっかくの地位まで昇りながら、

鳥羽上皇の寵臣と喧嘩し、

乱闘騒ぎを起こして、

鳥羽天皇の信頼を失ってしまう。

更に、仁平5年(1155)近衛の後継者をめぐっては、

兄の忠通が推薦した後白河天皇が即位してしまう。

ときに後白河 二十九歳。

順番にボタンを押して涙橋  森 茂俊

そして、その年の暮、頼長が拠り所としていた、

妹で鳥羽上皇妃の高陽院・泰子が死去してまう。

更に、近衛天皇が死んだのは、

「忠実・頼長親子が呪詛を掛けたからだ」

という噂が流布する。

頼長の命運はまさに、尽きようとしていた・・・。

あとはもう最終改札口ひとり  片岡加代

拍手[3回]

かさぶたの下仄かに煮えることがある  たむらあきこ

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    保元合戦図屏風

画面左に「白河北殿」、右側に攻め寄せる「源義朝軍」を描く。

右面・後方でひときわ立派な黒馬に乗り、戦況を見守るのが
義朝

門脇では、弟の
為朝が強弓を引いて応戦する。

門内で騎馬の一団を率いるのは、二人の父親・
為義である。

殿内には、不安そうに戦況を見守る公卿が描かれている。

左上・高欄から身を乗り出しているのは、
藤原頼長だろうか。

(画面上でクリックすると画像が大きくなります)

おいでおいでと四面体のキツネ  山口ろっぱ

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「開戦秒読み」

藤原家親子の葛藤が、火に油を注いだ形で、

人々は、「新院方」「鳥羽方」に競って参集しはじめ、

そうした異様な雰囲気が、盛り上がるなかで、

鳥羽の死が、伝えられたのだった。

何色に咲くのか知らぬ種をまく  杉本克子

その夜から、早くも、「新院謀叛!」

という噂が市中を駆けめぐった。

新院方(崇徳方)では、

不穏な情勢下での警護の強化という名目で、

武家に召集をかけ、

柳ノ水の御所には、源氏、平家の武将たちが、

続々と集まり始めていた。

市中を駆ける兵馬は、

いっそう、人々の不安と興奮を煽った。


右向け右の列の怖さを忘れない  森 廣子

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一方、鳥羽の亡骸を守る側は、後白河がいることから、

「内裏方」(鳥羽・美福門院方)と呼ばれ、

得子と入道・信西、忠通らが、新院方の動きに呼応して、

こちらも武家に召集をかけ始めた。

信西は鳥羽の第一の寵臣と、誰もが認めてきた人物で、


下級の公家では、

「うだつが上がらない」 と出家して、

院政体制に食い込んできた辣腕の政治家だった。


眼の奥に消えないものが咲いている  ふじのひろし

当時の武家は、公家階級に比べると、

格段にその地位が低かった。

内裏や御所の警備にあたり、

地方の反乱鎮圧に向かう、

武力行使の専門集団という程度の、存在でしかなく、


摂関政治のころは、

指令を発する藤原氏を主筋と仰いできた。


粘るとはこうして今日も生きること  河村啓子

だが、院政時代になって、

少しづつ意識も変わりはじめ、

しだいに"自我"が芽生えてきた時期にあたる。

こうした情勢下で、摂関家が親子二つに割れ、

鳥羽の死とともに、

それぞれが、武家に召集をかけ始めたのである。

そこのけそこのけと直線を通す  高島啓子


新院方には、源氏の頭領・為義頼賢(よりかた)

頼仲、為朝など、息子たちを引き連れて参集した。

平家からも、清盛の叔父の忠正

一族の長盛、康弘などの武将が、

手勢を率いて駆けつけた。


てのひらの感情線を握りしめ  谷口 義

一方の内裏方には、為義の嫡男・義朝が駆けつけた。

愛人の常盤が、亡き近衛帝の中宮に仕えていたためで、

源氏一党の落胆は大きかった。

が、為義は源氏嫡流に代々伝わる鎧を届けて、

別れを告げた。


さよならさよなら流れて行くのだね  安土理恵

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60余年前に白河が院政を始めるまでは、

長いこと、摂関政治が行なわれてきた。

つまり、摂政・関白を出す藤原家が、

天皇を補佐するという名目で、政権を握ってきたわけで、

それを天皇家に取り戻そうというのが、

白河が院政を始めた理由だった。


忠実頼長には、新院方について、

重仁とともに、再び

「摂関政治を復活させたい」 という思惑もあった。


どぶ板の含み笑いを聞き流す  井上一筒

拍手[3回]

人生の上がりに匂う沙羅双樹  片岡加代

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雅仁親王の周りが騒がしくなる。

近衛帝が重篤になったとき、

崇徳院の屋敷に、にわかに人々が集いはじめた。

誰もが後継天皇は、

「崇徳の嫡子・重仁の即位しかない」

と考えたからである。

崇徳に寄った人々は、「新院方」と呼ばれ、

その筆頭には、

摂関家の藤原忠実と次男の頼長がいた。

集客力がある3階の野原  井上一筒

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一方、こうした、新院方の動きに対する反発や、

鳥羽の絶対権力を頼みとする人々が、

鳥羽殿へと集まり始めた。

「鳥羽方~内裏方」である。

その筆頭には、なんと忠実の嫡男・忠通がいた。

娘を近衛のもとに、入内させていたこともあったが、

父や弟との不仲から、

対立の道を選んだものだった。

シルエットだけから言えば狢です  合田瑠美子

この藤原家親子の葛藤が、火に油を注いだ形で、

結果、「崇徳院(新院方)」を中心とする勢力と、

「美福門院・近衛天皇(鳥羽方)」を中心とする勢力とが、

対立することになった。

美福門院の従兄弟は、

鳥羽院の一番の寵臣・藤原家成であり、

力関係は、美福門院の方が優勢であったが、

崇徳院派も、外戚である閑院流を中心に、

無視し得ない勢力をもっていた。

※ 閑院流=三条・西園寺・徳大寺など、藤原北家支流の公家の一門

発酵はまだアクセルとブレーキと  前中知栄

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ところが、「保元の乱」の前年の久寿2年(1155)

近衛天皇が17歳の若さで亡くなり、

バランスが大きく崩れてしまう。

近衛天皇に子がなかったため、

「誰を次の天皇にするか」

 の問題が、いよいよ熱をおびてくる。

おひさまのくしゃみに迷う磁気あらし  藤本鈴菜

そこで、候補として浮上したのが、

美福門院が、養子として迎えていた、

重仁親王と雅仁親王の子・守仁王の2人だった。

それまでの待遇は、

院の皇子である重仁の方が、格上であり、

守仁は、仁和寺に入って出家する予定であった。

並列の前後で散らかしてばかり  山本早苗

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ところが、いざ近衛天皇が死去すると、

重仁親王を即位させたのでは、

父・崇徳院の力が強くなり過ぎ、

美福門院たちを圧迫しかねない。

結局、鳥羽院は、美福門院のために、

崇徳院と重仁親王を切り捨てた。

矢印の太さに引き摺られている  たむらあきこ

とはいえ、守仁はまだ13歳。

政治的に独り立ちできる年齢ではない。

しかも、健全な父親を差し置いて、

子が即位するというのは、先例のないことであった。

最初から迷路の口は開いていた  佐藤美はる

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このとき、鳥羽院と美福門院との間には、

近衛天皇のほかに男子がなく、

娘の八条院を即位させる案も出されたが、

実現には至らなかった。

こうして、鳥羽院を中心に、協議が行なわれた結果、

後継者選びは、意外な人選で決着する。

鳥羽院と待賢門院との間に生まれた、

第4皇子・雅仁親王に白羽の矢が立ったのだ。

後白河天皇である。

都合よく裏口の鍵落ちている  安土理恵

いろいろと事情を考慮して、父の後白河天皇が即位し、

守仁は皇太子とされたのである。

つまり、後白河天皇は、

もともと、皇位を継承する予定ではなく、

守仁が即位するまでのいわば、

「中継ぎ」として立てられた「天皇」だった。

ワンランク上げた噂はもり上がる  山本昌乃

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