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川柳的逍遥 人の世の一家言
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生乾きの過去をときおり陽にあてる  新川ひろこ

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清盛の血入り曼荼羅図

清盛が高野山に奉納した「曼荼羅」は、

胎蔵界大日如来の宝冠に、


清盛自身の頭の血を混ぜて描いたとある。

パプリカの定理を喋り過ぎる赤  くんじろう

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「平家の道ー③」ー”平家にあらざれば”

清盛の父・忠盛の死後、

その跡を継いで平氏一門の棟梁となった清盛には、

公卿たちの風当たりもやわらかだった。

忠盛が昇殿を許された際は、

強烈な拒否反応を示し、

また白河院に詠歌を献じようとした場合も、

「武士にしてその前例なし」

と反対したが、清盛には寛容だったのは、

やはり、ご落胤説の真実を示すものだろうか。

雲だった昨日小雨になる明日  中野六助

清盛の歩みは順調である。

肥後・安芸・播磨の国司を、太宰大弐を歴任、

祖父・正盛や父・忠盛が西国を基盤として、

平家の根を広く強く張ったように、

彼もまた、西国経営に意欲的であった。

瀬戸内の海上交通や、

港湾の開削、改修に取組んで積極的であった。

芽吹くまでの一途な思い身にまとう  山田葉子

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 古代大輪田泊の石涼

「父祖のご遺志を絶やすまいぞ」

清盛は、父の「日宋貿易」に思いをめぐらせ、

深く思念した果て、

「ここにこそ、わが平家伸長の鍵がある!」

と攝津・「大輪田泊(神戸港)の修築に着手した。

この大輪田泊の完成によって、

宋船の廻航が可能になり、

日宋貿易による平家の財政は、飛躍的に潤沢となった。

血小板に彫り込んである家訓  井上一筒

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  音戸の瀬戸(現在)

清盛はまた、

安芸の「音戸の瀬戸」の開削にも着手しており、

厳島神社を崇敬することによって、

海上交通や西国武士の組織化をはかるなど、

かっての源氏武士団に劣らぬ、

強大な平氏へと変貌をとげていった。

清盛はこれらのことを、都の公家たちが、

舞や蹴鞠の巧拙にうつつをぬかしている間に、

冷静に意欲的にやってのけたのだ。

冴えております頭を打ってから  酒井かがり

ことに「平治の乱」で源氏の棟梁・義家を撃破してからは、

もはや部門唯一の棟梁は、清盛だったから、

かれは源氏の遺領を次々とわがものとし、

北陸・東国の国司までも、

平氏から任命するにいたった。

問いかけはわたし答えるのも私  嶋澤喜八郎

日本全土、六十六国、

平氏はその半分の三十余国を領するとまで評されたが、

そのころには、

清盛も太政大臣・従一位の高官にまで登りつめており、

その娘たち八人も、

例えば徳子(建礼門院)高倉天皇へ入内して、

安徳天皇を生む。

ほかにも、摂関家に嫁がすなど、

目も眩いまでの華やかさであった。

善人は報われるはず童話なら  伊庭日出樹

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また男子は、嫡男・重盛が大納言で、

宗盛が左衛門督、

知盛が左中将の資盛(すけもり)というように、

平家一門の族勢は、もはや揺るがぬものと思われて、

ついに、

「平家にあらざれば人にあらず」

と豪語するまでに至った。

目立つのが好きでキリンの首になる  中 博司  

たしかに清盛は、父祖の悲願を果した。

宮廷貴族に奉仕する侍の身が、

自身、殿上人に列せられるに至ったのだから、

父祖の望む以上のものを、完璧に果したといってよい。

そして、反平氏の狼煙をあげた以仁王(もちひとおう)

源頼政の挙兵を、たちまちにして鎮定したし、

源氏の棟梁・義朝の遺志・頼朝も、

伊豆・蛭ヶ島にとじてあるのだ。

いまの平家には、

なんの不安もないかに見うけられた。

神さまがズボンをぬぐと砂が落ちる  定金冬二

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   神戸の夜景(現在)

〔未来予告〕

福原への遷都を強行した当夜、

天空の一角で奇怪な現象が起きた。

夜半遊歩の奇癖をもつ若き公卿、歌人の藤原定家が、

三条大橋のあたりでそれを目撃し、

自著・『明月記』に、

「椀ほどもある流星が、空中で破裂しておわんぬ」

と記録しているのである。

この大流星が、平家にとって、

吉凶いずれを暗示するものか、

この時点での清盛には、

もとより、判る筈はなかった。

直立不動のくらげにあるお告げ  岩田多佳子


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「清盛曼荼羅奉納のいわれ」

清盛鳥羽院の命にて、「高野山の大塔」の修理を行いました。

修理完成時に参詣した清盛は、一人の老僧に出会います。

その老僧は大塔の修理のお礼を述べ、

荒れている厳島の修理を清盛に依頼しました。

奥之院の方へ去る老僧の姿は、しばらくすると、

ふとかき消えてしまいました。

清盛はこの老僧は
弘法大師の化身であったと知り、

ますます信仰を深め、金堂に
「曼荼羅」を奉納しました。

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あやまち多き身に太陽は傾いて  森中惠美子

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二位尼坐像 (宮島町立歴史民族館)

池禅尼が、情にほだされておかしたミスが、

「平治の乱」における頼朝の助命であった。

逃亡中に義朝とはぐれて捕えられた頼朝が、

亡き家盛に生き写しだったことから、

禅尼は、「自分の命に代えても助けたい」

と清盛に懇願したという。 『平治物語』

どの顔も犯人に似る免許証  奥山晴生

もとより清盛は、斬首するつもりであったが、

継母のたっての願いに負けて、

伊豆への配流にとどめたのである。

≪頼朝が家盛と似ていたかどうかは、確かめようがないし、

    そもそも
「それが助命の理由だったのかどうか」もわからない≫

ただ、禅尼の厚意によって頼朝の首がつながったことは

『愚管抄』にもあり、平家都落ち以後の、

平頼盛に対する頼朝の待遇をみても確実である。

我が胸に敵も味方も棲んでいる  庄田潤子

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清盛にしてみれば、頼朝ひとりを斬ったところで、

「どうなるものでもないし、これ以上血を見たくない」

という思いもあったのだろう。

「保元の乱」で死刑の復活を命じた信西の首が

獄門にさらされたばかりでもあり、

復讐の連鎖が繰り返されることを、

恐れたのかもしれない。

しかし、頼朝を助命した最大の理由は、

何よりも、継母である禅尼への、

遠慮であったのではないだろうか。

偶数で囲むと風邪をひく男  森田律子

頼朝死後の北条政子の例もあるとおり、

武家では棟梁の死後、

その正室が家長を代行する立場になることがあった。

清盛がいくら家督であっても、

慣例的に、父・忠盛の正室である禅尼の意向は、

尊重しなければならない。

加えて、「保元の乱」における恩義もあるならなおさらだ。

善玉の綿に限界説の壁  井上一筒

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禅尼は長寛2年(1164)ころに、亡くなったといわれるが、

それ以後も頼盛は、重用され続けた。

頼盛の妻は、大荘園領主として隠然たる勢力を誇った

八条院(鳥羽上皇の娘)の乳母の子だったことから、

頼盛には、八条院と平家を結ぶ懸け橋としての役割が、

期待されたと考えられている。

また、頼盛は自ら大宰府に下って貿易に取り組み、

福原にも豪壮な別宅を建てるなど、

日宋貿易に理解と共感を寄せていたから、

清盛としても、頼もしく感じるところがあったに違いない。

また君かいとテトラポットは温い  酒井かがり

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   紺地金泥法華経

では、ふたりの関係は絶えず円満だったのだろうか。

嘉応2年(1170)清盛頼盛が協力して、

「紺地金泥の法華経」を書写し厳島神社に奉納したのは、

兄弟の結束を確認する意味もあったのだろう。

逆にいえば、

結束を確認しなければならないような、すきま風が、

絶えずふたりの間に吹いていた、とみることもできる。

事実、治承3年のクーデターでは、

頼盛は、清盛によって解官させられただけでなく、

清盛が「六波羅の頼盛を攻める」という風聞までたっている。

三日月うぃ絞るうっすら血が染む  笠嶋惠美子

しかし、実際に清盛が頼盛を攻めることはなく、

まもなく朝廷への出仕を許されて、

その後も、順調に昇進を重ねた。

たとえ、煙たい弟であっても、

断絶を決定的にしてしまえば、一門の結束にひびが入る。

それを清盛は恐れたのだろう。

禅尼の決断により、一門が結束して、

保元の乱を乗り越えた経験は、清盛の心に、

一門融和の大切さを、刻み込ませたのかもしれない。

切ないね棘ある水に馴染んでる  岩根彰子

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しかしその頼盛も、

清盛死後は主流派と距離をおいた。

その結果、寿永2年(1183)「平家の都落ち」では、

途中まで行幸に従いながら、

突如車を返して、京に逃げ戻り、

あろうことか頼朝を頼って、身の安泰をはかったのである。

鎌倉に下った頼盛は、子どもたちともども、

頼朝に手厚くもてなされた上、

頼朝の口添えによって、

都落ちの際に没収された所領を取り戻し、

正二位権大納言に返り咲いた。

長生きのためにプラグは抜いている いわさき妖子  

禅尼の温情は、平家滅亡の遠因となったが、

息子の命だけは救うことができたわけだ。

しかし、一門を裏切ったという自責の念は、

頼盛の心身をむしばみ、

平家滅亡の翌年、文治2年(1186)6月、

54歳で帰らぬ人になる。

蹴った樹のしずくに濡れる自己嫌悪  有田一央

拍手[3回]

字引きから 《寝耳に水》 は削除する  岩根彰子

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乱後、後白河上皇二条天皇が協調する

政治体制となったが、

院政を続けようとする後白河上皇と、

親政を目指す二条天皇の間には、火種が燻っていた。

縦糸に水 横糸に水蒸気  井上一筒

そんな中清盛は、双方の良好な関係が維持されるよう、

気を配りつつ、両者に奉仕していく。

清盛としては、時の天皇である二条天皇を重んじる一方、

天皇家の家長として二条天皇を後見する後白河上皇も

尊重すべきと考えた。

「よくよく謹みて、いみじくはからいて、

   アナタコナタ しけるにこそ」


(用心し、よく配慮して、後白河と二条の双方に心を配っている)

                                                            『愚管抄』

がまんがまん丸虫のようになる  筒井祥文

権力者2人の間でバランスを保つのは、

「清盛の優れた政治力の表われ」 といえるだろう。

そんな清盛を

「貴族のようで、武士にあるまじき者」

と評する者もときにはいるが、、

清盛は、決して武士を捨てたわけではなく、

むしろ武士でありながら、

朝廷政治に加わることのできた存在なのだ。

清盛は、単に諸方面に気を配るだけでなく、

明確な政治スタンスを持っていた。

自転公転レモン一顆を遊ばせる  前中知栄

清盛は、保元・平治の乱のいずれも、

終始一貫して天皇を支持している。

いわゆる「時の天皇」に忠実でいるということ。

そのため、この時期の清盛は、

どちらかといえば、二条天皇寄りにも見え、

二条天皇も清盛の力を背景として、

少しずつ政治権限を強めていった。

キャベツ色して蝶々になりすます  山本早苗

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    二条帝

また二条天皇との関係で見過ごせないのは、

二条天皇の乳母が、清盛の正室・時子であるということ。

かつて、信西が後白河上皇の乳父として、

権勢を振るったように、清盛は二条天皇の乳父であり、

それが二人の強いつながりになっていた。

虚空引き裂く母方遺伝因子  山口ろっぱ

ところが、応保元年(1161)9月、

上皇と天皇の協調体制が崩れる事件が起こる。

上皇の皇子で天皇の弟・憲仁親王(高倉天皇)

皇太子にしようとする企ての発覚で、

これは、時子の弟・平時忠が仕組み、

後白河上皇が加担したものだった。

憲仁親王の生母は、時忠の妹・滋子(建春門院)であり、

時忠は外戚の立場を得ることで、

平氏一門の繁栄をもたらそうとしたのだろう。

人生です紙風船を吹いてます  田中博造

しかしこの時、清盛は断固たる態度をとった。

二条天皇を擁護する立場をとって、

時忠を処罰するのみならず、

後白河上皇の院政を停止させるのである。

あくまでも、時の天皇を重んじる清盛は、

二条天皇の意向を無視した立太子を、

非常に無礼なことと考えたのだ。

祈る手は雑巾しぼる手に似てる  兵頭全郎

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この時、後白河上皇と清盛の間に、

感情のしこりが生じたのは間違いない。

滋子は清盛の義妹であり、後白河上皇が

「平氏一門の子が皇太子となれば清盛も喜ぶ」

と清盛にとっても良かれと思い、

為したことと、考えられなくもないからだ。

後白河上皇は、清盛に怒りを覚えたはずである。

俎板の窪みに溜まる雨の音  笠嶋恵美子

一方一門の子が、皇太子になり得たにもかかわらず、

それを阻止した清盛は、非常に筋を重んじたといえる。

後白河院政の停止後、二条天皇の親政が始まった。

もっとも清盛は、

後白河上皇への奉仕をやめたわけではない。

応保2年(1162)には、上皇から官職任命の儀式について

諮問を受けたり、後白河上皇のために、

蓮華王院(三十三間堂)を造営するなどしている。

≪この時期の清盛と後白河上皇について、

   政治的な対立があったとよく強調されるが、

   少なくとも、清盛にはそのような気持ちは一切なかった≫


三杯酢かけて亀裂を修復する  内藤洋子

この頃、一門の政治基盤を安定させるため、

清盛は摂関家に接近し、長寛2年(1164)に、

関白・藤原基実を娘の婿にとる。

翌永万元年(1165)7月には、僅か2歳の六条天皇に譲位し、

上皇となっていた二条天皇が崩御する。

ここで幼い六条天皇にかわって、

執政する立場となったのが、婿の藤原基実で、

清盛は8月に権大納言となった。

≪基実を支えるための任官である≫

ところが肝心の基実が、

あくる仁安元年(1166)7月病没し、

清盛は、二条天皇、藤原基実と立て続けに、

後ろ盾を失ってしまう。

うっすらと濡れている運命線の端  蟹口和枝

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これらを受け、再び後白河上皇による院政が始まる。

後白河は過去の経験から、

「清盛と提携した方が政権が安定する」と分っている。

そこで清盛と再び組むためにも、

清盛と縁の深い憲仁親王を皇太子に立てた。

清盛もこれを容認し、東宮大夫(とうぐうだいぶ)となった。

六条天皇は幼く、

母親が摂関家でも平氏出身でもないからである。

天皇家の安定を見据えるなら、

後白河、憲仁の系統が一番だと考え、

清盛は再び後白河と結んだのである。

一言めの「だから」の意味を解いている  佐藤美はる

拍手[3回]

しずめてはうかべて祈ることばかり  赤松ますみ

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              「平家納経」

長寛2年(1164)9月、清盛は一門の繁栄を祈願して、、

法華経をはじめとする装飾経・三十三巻を厳島神社に奉納した。

国宝・
『平家納経』である。

料紙には、
「金銀」が贅沢にちりばめられ、

見返しには、「優美な大和絵やさまざまな模様」

が描かれており、その美しさは,目をみはるばかりである。

軸には「水晶と透かし彫りの金具」が用いられ、

経を納める経箱も「雲龍」をあしらうなど、

賛美を尽した意匠は、現存する「装飾経」の、

最高水準を示すものといわれる。

艶っぽいお経へゆれる絵ろうそく  山本昌乃

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清盛の願文には、

「厳島の霊験により家門の福禄、子弟の栄華がもたらされ、

この世の願望はすでに満ち足りました。

一門と家人32人がひとり一巻を分担して、

善美を尽して経づくりに励んだので、

その功徳をもって、往生を遂げることを願います」


と、厳島明神に対するあつい信仰と極楽往生の願い、

そして、一門の栄達への感謝の念がしたためられている。


6Bの芯に注ぎこむ僕の芯  新家完司

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「夢のお告げ」

海の中にそそり立つ大鳥居、

長い回廊に囲まれた朱塗りの社殿が

海の上に浮ぶさまは、

あたかも天上界のような美しさだ。

瀬戸内海有数の観光地のひとつ宮島。

そこに鎮座する厳島神社は、

江戸時代から松島・天橋立と並ぶ「日本三景」に数えられ、

平成8年(1996)には、

ユネスコの世界文化遺産に登録された。

真っ先に麒麟に放つ蜃気楼  岩根彰子

厳島の歴史は古く、社伝によると、

創建は推古天皇の時代にさかのぼる。

古代から弥山を中心に、

島全体が神としてあがめられ、

安芸国第一の零社として、瀬戸内の民の尊崇を集めた。

ただし、安芸国一宮といっても、

この時点では、地方の一神社に過ぎない。

その厳島に上皇の御幸をあおぎ、

都人がこぞって参詣するほどの、

名社にしたてあげたのが、清盛であった。

どこまでが海かどこからが君か  くんじろう

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清盛の厳島信仰は、

安芸守だった仁平元年(1151)から、

保元元年(1156)までの間に、始まったと言われている。

それは不思議な因縁であった。

清盛が安芸守の再任を願って、

高野山の大塔を造営していた時のこと。

材木を自らかついで造営を進めたが、

ある日、香染めの衣をまとった僧侶が現れ、

「日本国の大日如来は、

伊勢大神宮と安芸の厳島である。

大神宮はあまりにも尊い。

汝はたまたま安芸の国司となった。

早く厳島に奉仕しなさい」


といって忽然と姿を消した。

香染衣=丁子の煎じ汁で染めた衣服。

たらちねと凌ぐ過去の過去の昨日  山口ろっぱ

その後、厳島に参詣し社殿の修築を行なったところ、

巫女の口をとおして、

「あなたは従一位太政大臣になるであろう」

と告げられ、果たしてそのとおりになったという。

                   鎌倉初期の説話集『古事談』

暇に飽かして大気圏脱出  酒井かがり

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何とも神秘的な話であり、荒唐無稽に思えるが、

長寛2年(1164)に平家一門が、

厳島神社に奉納した「平家納経」の、

清盛自筆の「願文」にも、

夢に一沙門(僧侶)が現れて、

厳島を信仰するようすすめ、

その「お告げ」通り、ひたすら信心した結果、

その恵は明らかであったと、

『古事談』の逸話をなぞるような、

体験が記されているから、

神秘的な宗教体験が、

厳島信仰のきっかけになったことは、

事実のようだ。

一万回聞いても分からないお経  新家完司           

「『平家物語』にも同じような話がある」

高野山の大塔修理が終わり、清盛が、

弘法大師の廟のある奥の院に参ったときのこと。

まゆ毛の白い、ふたまたの杖をついた僧侶が現れて、

「厳島を修理すれば、

肩を並べる人もいないほどに出世するだろう」


と予言した。

見知らぬ人の心に残る思いやり  森 廣子

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弘法大師の化身であると感じた清盛は、

厳島の造営に着手する。

やがて工事が終わり、清盛が厳島に参詣すると、

うたたねの夢の中に、童姿の神の使者が現れて

「この剣ををもって一天四海をしずめ、

朝廷の守りとなれ」


といって銀柄の小長刀を清盛に与えた。

その後、厳島大明神のお告げがあり、

「高野の聖がいったことをわすれるな。

ただし悪行があれば、子孫まではかなうまいぞ」


と述べたという。

優しげな顔してきついことを言う  藤井孝作

未来に起こる平家の滅亡を前提として、

「悪行があれば、栄華は一代限りである」

とクギを刺しているところが興味深い。

神仏に対する信仰というものは、

このような神秘体験があると、

いっそう深まるものである。

まして、清盛のように、

破格の出世をとげた人物はなおさらであろう。

事実、清盛の厳島に対する熱烈な信仰は、

年を追うごとに高まり、一門はもちろん、

都の貴族たちにも、

大きな影響をおよぼすようになる。

鰐鮫の目ヤニの色はルビー色  井上一筒

≪当時、清盛は従二位権中納言、

  嫡子・
重盛も正三位の公卿に任じられ、

   平家の栄
華は絶頂期を迎えつつあった≫

拍手[6回]

風見鶏風のなさけは当てにせぬ  森中惠美子

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「摂関家との提携」

政治的な発言力を高めるために、

多数派工作が有効なのは、

いつの世も変わらない。

そのために清盛が用いたのが「婚姻政策」だ。

有力貴族に多くの娘を嫁がせて、

平家のシンパを増やし、

政界における平家のプレゼンスを高めようと努力した。

高倉天皇の中宮となり安徳天皇を生んだ徳子は、

その代表だ。

≪ほかにも後年に従一位に進む花山院兼雅

  
後鳥羽天皇の外祖父となる藤原信隆

  
高倉天皇の寵姫でもあった小督(おごう)と浮名を流す藤原隆房

   などの有力貴族に娘を嫁がせた≫


一言で鬼千匹の牙を抜く  笠嶋恵美子

清盛の娘のうち徳子に次いで、

重責を担ったのが盛子だろう。

長寛2年(1164)

清盛は盛子と関白・藤原基実を結婚させ、

摂関家と婚姻関係を結ぶことに成功する。

盛子は正室として迎えられたが、

これが明らかな政略結婚だったことは、

すでに基通という息子までいる

22歳の基実に対して、わずか9歳の盛子が、

あてがわれたことからもわかる。

罪ひとつ軽い形にぶら下げる  吉川哲矢

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   藤原基実

基実が平家との結婚を受け入れたのは、

「平家の武力と財力に期待をかけたからだ」

と思われるが、

清盛に対する親近感も、あったのではないだろうか。

摂関家は、「保元の乱」により、

源為義など仕えていた武士を多く失ったことで、

荘園などの管理にあたる武士が不足し、

各地で混乱が生じていた。

そのため、基実は武門貴族である

藤原信頼に目をつけ、その妹と婚姻し、

彼の持つ武力に頼った。

しかし、今度は「平治の乱」で信頼を失ってしまった。

≪そしと、平治の乱の「六波羅行幸」のおり、

   信頼の妹を妻にもつ基実を、

   快く迎えてくれた清盛の度量の大きさに感銘を受け、

   頼むに足る人物と見込んでいたことも、提携の条件になった≫


竹薮で見た銀色の脚の人  井上一筒

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     藤原基房

清盛にとっても、「摂関家との提携」は、

政治的な発言力を高める、絶好のチャンスだったが、

それ以上に魅力だったのは、

摂関家が全国に所有する、膨大な荘園だった。

清盛は、配下の家人を預所に任命したり、

在地領主を下司に任じたりして、在地支配にあたらせ、

摂関家・領荘園からの中間搾取をねらったのである。

≪ところがその目論見は、

   その2年後に基実が24歳で急死したことで頓挫してしまう≫


金箔を纏えば僕もほとけさま 新家完司

こうした下りにおいて、その後、後白河上皇は、

二条天皇の親政を支えた摂関家を弱体化するため、

「摂関家領は清盛が管理せよ」

という院宣を下した。

いわば、盛子の摂関家領相続は、

政府の公認のもとに行なわれた。

清盛が見た夢の話が、貴族の日記に残る。

砂のない砂場に時を遊ばせる  山本早苗

「あるとき、春日大明神の使者が清盛のもとへ、

宝の山をもってきて、しばらく預かってくれるように命じた。

宝の山には藤の花が盛んに咲いて,

覆っていたというものだ。

その後、基実が亡くなり、

財産を清盛に管理させよという院宣が下された。


筋からいえば辞退すべきであるが、

『神のおはからいである以上、

断るのは恐れ多いのでしばらく預かることにした』
と、

清盛自身が語ったという」


日記の主が基房の弟・九条兼実であるのが面白い。

≪この夢に対し、批判めいたことは一切記されていない≫

斜めに歩いて衝撃を避ける  本多洋子

拍手[2回]



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