川柳的逍遥 人の世の一家言
あたふたとオセロの恋は裏返る 内田真理子
元服を控える光る宮 「前号までのあらすじ」
源氏の心をとらえた「桜の精」こそ、先帝の姫、藤壺。
亡き桐壺更衣に生き写しという、姫の入内を帝は熱望します。
嫉妬うずまく後宮にしりごみする藤壺も「あの御子に会えるかも」という淡い
想いに入内を決意。しかし、帝の前で再会した2人を待っていたのは、義理の
母子というあまりにつらい宿命でした。 「こんなはずじゃなかった」を陰干しに きゅういち
藤壺の局を訪れる光源氏 式部ー藤壺--白鷺
①
桐壺更衣がまだ生きていたころ、宮中のお妃や女房たちが、余りにひどい苛め
をするので、帝は自分の住む清涼殿の西側にある局を、更衣の控えの間として 与えました。 そこは後涼殿と呼ばれる建物で、もともと別の更衣が住んでいました。 その更衣が、今は出家してここに登場する後涼院です。 (原作では、局を追い出された後涼殿更衣が、桐壺更衣をひどく恨んだという
くだりがあります) 羊羹をバナナのみたいに剥いて食う 山本さくら
華やかな内裏を去り、郷里に旅立つ鈴鹿が、お仕えした後涼院の庵にお別れの
挨拶に訪れる。 後涼院「遠い伊勢の鈴鹿まで供は、あの者ひとりですか」
鈴鹿「いいえ 後涼院さま。郷里の父からの伝言では洛中では供はひとり、
でも何人かの見えつ隠れつの警護をつけてあるからと…。羅城門を出て
からはまとまって鈴鹿へ向かいます」 後涼院「ああ それなら安心。近頃の火付け・夜盗のひどいこと、耳に入るの
は恐ろしい噂ばかり」 鈴鹿「私のようにお仕えしていた女房たちも、ひとり去りふたり去り、内裏の
昔を思えばこんな山の中に」 後涼院「いいえ 私は今の方が幸せですよ。帝の愛を我こそと競り合った内裏は、
彩りだけは華やかでも闇の日々でしたもの。私が出家の決意をしたのは あの雪の夜です。 鈴鹿「桐壺更衣さまがお倒れになったあの時に…?」
後涼院「ええ桐壺更衣の控えの間にするからと、私が清涼殿から出された時です」
針山の中はふんわりやわらかい 山田 雅子
※ 蘊蓄
都として栄え、華麗な王朝文化が花開いた平安京も、その治安は決して安全
とはいえませんでした。昼間こそ賑やか大路小路も、夜ともなれば、真の闇、 その中を夜盗や魑魅魍魎の群れが跋扈していたといいます。 なかでも「袴垂(はかまだれ)」という名の男は、狙った獲物は絶対に逃が
さないという大盗賊が出没しました。 「藤原保昌月下弄笛図」 月岡芳年 ※ 『今昔物語』には、有名な豪傑の藤原保昌をそれと知らずに襲い、逆に 圧倒されてしまう話もあります。 笛を吹き悠然と歩く保昌に襲いかかろうとする袴垂だが落ち着き払った相手
の気迫にどうすることもできない。 一喝され、邸へついていくと「欲しければまた来い、気心も知れぬ者を襲っ てケガなどするなよ」と、立派な着物を与えられたという。藤原保昌は音に 聞こえた大豪傑で、恋多き女和泉式部の晩年の夫となった。 世の中を斜にながめるねぎぼうず 吉岡 民
②
桐壺更衣を忘れられず、どんな女性にも心を動かさなかった帝ですが、藤壺が
入内してからはすっかり様子が変わります。
それにしても、宮中では、相変わらず女たちの、どす黒い思惑が渦巻いている
ようです。帝の動向に一揆一憂し、一族繁栄のためには、ほかの女御や更衣を 陥れても帝に愛されなければならない。そんな強迫観念から解放された後涼院 は、今、むしろ、すがすがしい気持ちです。 鏡の中で消えた笑窪を探します 宇治田志寿子
後涼院の庵から伊勢の実家へ旅立つ鈴鹿。
後涼院「だからといって すぐ出家ではあまりにも直截すぎてかえって惨め、
出家の時機を待っていたのですよ」 去るものは日々に疎し。あれほど愛された桐壺更衣なのに、その形代に入内
した藤壺女御ひとりに帝は、もう心を移している。 後涼院「弘徽殿の女御でさえ、もう影は薄い。ましてや私などは」
鈴鹿「後涼院さま、そんな!」
後涼院「慰めはいりません。今、私は幸せなのですよ」
<この光、風、小鳥のさえずり、野山の四季…内裏の御簾と几帳の中では分ら
ぬこと…> 後涼院「内裏で見たこと聞いたことは、鈴鹿のこれからに役立ちましょう。
受領の父御のもとに帰ったら、健やかな若い男と幸せな日々を過ごす
のですよ」 残された時間を人として生きる 井本健治
建礼門院が庵を結んだ大原の寂光院
※ 【蘊蓄】
平清盛の娘として高倉天皇に入内し、安徳天皇を産んだ建礼門院も、平家滅亡
の後、鄙びた山里洛北の大原にひとり隠棲し生き永らえた。栄華を極めた御所 での暮らしとは、似ても似つかぬ詫び住まいでした。 ③
鈴鹿は何年も前に野で見かけた、まるで絵のように美しい母子をずっと忘れる
ことが出来ませんでした。秋の野で出逢ったその母子は、ありし日の桐壺更衣 と幼い光源氏。偶然にも、故郷へと発つ日に、鈴鹿は光源氏に再会します。 そして、形見の布とともに、桐壺更衣の心根の優しさを伝えます。
源氏の心のなかには、顔さえ覚えていない母の伝説が、またひとつ増えていく
のです。 少年の一途に恋の矢がささる 河相美代子
京を去る日、鈴鹿は桐壺更衣と光る君にはじめて会ったありし日の野に,光る君、
惟光、大輔の3人の屈託なく遊ぶ子どもたちを見かけます。 惟光「ひばりの卵見つけたよ、三つも」
大輔「わたしはすみれよ」
光る君「母鳥が嘆くよ 返しておいで」
鈴鹿「まさか、あれは 光る君では!」
鈴鹿、子どもたちの近くへ寄って
鈴鹿「光る君さま!鈴鹿と申します。都の最後の日にお目にかかれるとは!
桐壺更衣さまのお引き合わせでしょう…」
「…?」 鈴鹿は、
「この布は、光る君の母上桐壺更衣さまの衣の布です」といい、小さな布を 光る君に手渡しします。 鈴鹿「私がこの野で指を怪我をしたとき、ご自分の衣を裂いて手当てをして
くださった布です。今まで、私のお守りにしていた布です」 光る君「ぼくの母上の…? 全然ぼくは覚えてないな」
鈴鹿「あの時、光る君は、まだお小さくて。その母上さまの布です、これか
らは、光る君のお守りです。お渡ししますね」 といい、軽く会釈を残し、伊勢へむかって発っていく鈴鹿でした。
光る君「ありがとう。 鈴鹿」
お別れの際は細く息を吐く 酒井かがり
④
物を贈るセンスも抜群の光源氏です。子供ながら、花や紅葉など季節の自然の
趣を贈り、そのタイミングもじつに心得ていました。 後には、気の利いた歌を添えたりもするようになります。王朝貴族たちは何に つけても、とにかく自然の移ろいに敏感で、その繊細な感覚を持つ人こそが、 「雅」でした。うまれついての上質の雅を、身につけている光源氏は、やはり 時代のヒーローなのです。 春の野から光の君らは内裏へ戻ってきます。
「そんなに急いでどこへ行かれる」光る君が渡り廊下を歩いていると、弘徽殿
の女御に出くわし、訝しい口調で声をかけてきます。
「あっ!弘徽殿の女御さま。藤壺女御さまにこのすみれを差上げようと思って
きれいでしょう。弘徽殿の女御さまにも半分あげましょう」
「あ-----ありがとう」弘徽殿のそばについていた女房ふたりが「かっわいい」と
目を細めると「なにが!?」と弘徽殿の女御は、相変わらず嫌ごとを吐いている。 削りすぎた芯も心もたあいなし 荒井慶子
『源氏物語画帖 箒木』 土佐光吉
※ 【蘊蓄】 絵巻物を読み解く
絵巻物をはじめ、日本古来の「大和絵」には、雲のようなものが多くえがかれ
ています。これを「霞または金雲」といい、場面の転換や連続しない、いくつ もの空間を一画面に描くために用いられました。 ほかにも銀泥で描かれて「夜」を象徴するなど、霞はいろいろに工夫され効果
をあげています。
芒よりバラを飾れとお月さま 近藤北舟
⑤
弘徽殿の愛息・一の皇子が元服の式を行ったのは3年前のこと。
いよいよ今度は光源氏の番です。皇太子より格は落としますが、帝がどの皇子 よりもかわいがった光源氏の元服式です。 形式ばった心のこもらない儀式にならないよう、帝みずからあちこちの役所に 声をかけておきます。光源氏の美しい元服姿を見たい、という人々の思いも、 あいまって内裏は浮き立っていっました。 こうなると、面白くないのは弘徽殿女御です。
光る君元服の前日 光る君が元服する前日、その準備に内裏があわただしい。
弘徽殿「何をしている?」
女房達「あ--弘徽殿の女御さま! 清涼殿の東廂(ひさし)の間へ光る君さま
の初冠のお式の調度を運んでおります」 弘徽殿「東廂の間ねぇ」
弘徽殿の心の声が聞こえてきます。
<東宮になった私の第一皇子の時は紫宸殿…格は落としてある。でもあの調度
の出しっぷり唐櫃の多さ、禄も帝のお声がかりで、下々までも行き届くお気の 入れようとか…東宮の時より賑やかで宮中がもう華やいでいる。チッ> ※【蘊蓄】 元服の儀など、大きな儀式や行事の折には、主催者は、参加した人に贈り物を
するのが常でした。禄とよばれるこの品には、衣類や布類があてられることが 多く『源氏物語』でも、「白き大袿(うちき)に御衣一領」が通常用いられた 禄であったと記されています。 今どこに位置しているかあなたのことば 姫乃彩愛
⑥
光源氏は藤壺といるのが楽しいのです。
なんとか喜んでほしくて季節の花をプレゼントしたりもします。
亡き母にそっくりだという藤壺を見て、”母”とはこういうものかと思う源氏。
もっともっと慕って甘えたいのに、元服してしまえば、親子といえ、もう今
までのように、藤壺の御簾のなかに自由気儘に入っていくことはできません。 口にこそ出しませんが、それが寂しい源氏です。
溝の無いネジを回している独り 稲葉 良岩
元服を明日に控えた光る君は、藤壺の局で藤壺女御と花鎖を交換します。
<ぼくは藤壺さまに花鎖を…藤壺さまも、ぼくに花鎖を…明日からは「ぼく」
ではなく、「私」になるんだ…> 藤壺「光る君 一曲合奏しましょうか 最後の夜ですもの」
光る君「最後の…?」
藤壺「<ぼく>といえる最後の夜ですものね」
光る君「…?…?」
豈はからんや胸襟は開きっぱなし 山口ろっぱ
光源氏(筝)と明石の入道(琵琶)のセッション
※ 【蘊蓄】 雅楽について 平安時代に盛んに演奏された音楽は、日本人好みの室内楽的なものになり、
大きな音の出るものはなくし、三管(笙、篳篥(ひちりき)笛)二鼓(琵琶、 筝)三鼓(鞨鼓(かっこ)太鼓、鉦鼓)で編成されました。 (雅楽は、儀式の場では、専門の楽人が演奏しましたが、『源氏物語』では、 むしろ貴族たちによる私的な場での演奏が多くみられます) ⑦
音楽は当時の貴族にとって必須の教養、女性は弦楽器、男性は管楽器を嗜なみ
ました。光源氏と藤壺、どちらもたしかな腕前のうえ、お互いに特別の気持ち を持っているのですから、その音色が人の心を打たないわけがありません。 さて帝は、源氏をとにかく立派に元服させてやりたい一心で、打ち合わせにも
余念がありません。婚姻相手となる添臥も、左大臣の姫に決まり、すべてOK といきたいところですが…。 愛一途こころの殻が割れる音 渡辺幸子
源氏の笛に、藤壺の筝。心寄せあった者だけに奏でるハーモニーが美しく内裏
に響きます。清涼殿で、光る宮の元服の打ち合わせをしている、帝や大臣らの 耳にもその音色が届いてきます。 帝「あの筝は藤壺女御だね。笛は光る君だね」
左大臣「よう合うておいでだ」
右大臣「まるで母子のようなお気の合いよう」
帝「光る君の身内はこの私だけ、外戚に後見もいない。
それだけに、明日は立派な式を挙げてやりたい。東宮元服の時、加冠の役 は祖父の右大臣であったな」 右大臣「はい いかにも」
帝「では明日はその役を、今度は左大臣に頼もうか」
左大臣「光栄です。よろこんで」
帝「ついでに加冠は成人のしるし、添臥しも決めてやらねば…、少し年上の姫が
よいな。左大臣家の姫はどうかな?」 左大臣「葵ですか、光栄です」
桜花賞にはシマウマを走らせる くんじろう
「扇面古写経の模本」 (東京国立博物館所蔵)
起き上ろうとする女性の横で男性が、女性の腰を支えている。
貴族の男女の優雅な添い寝の情景である。
※ 【蘊蓄】 添臥(そいふし)
成人した東宮や皇子が、その夜をともにする添臥の女性には、いくつかの条件
がありました。まず、それなりに身分が高いこと。つぎに添い臥しの手ほどき ができること。こうしたことから公卿の娘で年長者が選ばれることになります。 桜咲く日を夢に見て一歩ずつ 新家完司
⑧
左大臣の妻は、桐壺帝の妹です。そこえ左大臣の娘(葵の上)と帝が寵愛する
源氏が、結婚すれば、帝と左大臣家は、さらに太いパイプで繋がれることにな ります。帝は、権勢欲の強い右大臣を牽制する意味でも、結婚を推し進めます。 葵の上を自分の孫(東宮)の妻にと、考えていた策略家の右大臣はあてが外れ
ました。葵の上は光源氏より4ツ年上。深窓で大切に育てられたお嬢様でした。 指示通り岡持さげてまちぼうけ 山本早苗
その夜、左大臣家。
光る君の正妻に左大臣の長女を!帝の決定にあてが外れ、焦る右大臣。
<私の娘・弘徽殿の産んだ東宮の妃に、あの娘(紫の上)をもらう約束を…
左大臣の北の方とは、もうしてあったんだが、こんなことなら左大臣にもさっ
さと話しておけばよかたった。もう手遅れだ、帝のお言葉は変えられない> 一方の左大臣家では、北の方の約束事に揉めている。
左大臣「なんだと!こともあろうに、知らんかったのは儂だけ!」
北の方「だっていつもあなたは堅すぎて…右大臣とは水に油の仲、まとまる話
も壊れます」 左大臣「……」
北の方「東宮妃とはやがては中宮、女にとっては、最高の位なのですよ。
右大臣家からの申し出を受けるのは、当然、だから私は、葵をそのつ もり育てたのです。それを何もわざわざ、臣籍に下られた光る君煮など」 左大臣「言葉が過ぎるぞ!」
ハイハイとあなた真面目に聞いてるの 太下和子
こんな例も------嫉妬して道長を追いかけまわす倫子
倫子の母親は、祭りや行列で見る道長の姿に「並の男ではない」と判断、倫子に
道長との結婚を勧めたという。 ※ 【蘊蓄】 娘の結婚
平安時代、娘の結婚は、婿の身分や地位が家の存続にも影響するので、親にとっ
ても一大事。最終決定権は、一家の大黒柱たる父親にありましたが、母親がその 決定におよぼす力も、小さくはなかったようです。 当時、正妻格の女性は、その家の不動産をはじめとする財産や夫の人間関係まで、
管理する役割を担っていました。 その力は娘にも及んだようで、母親は普段から、娘の結婚相手を吟味し、気に入っ
た相手がいれば結婚へと導きました。 モニターの癖に暑いとか言うな 森 茂俊 PR 丁度旬です哀愁がでてるでしょ きゅういち
『源氏物語色紙絵 蛍』 (土佐派筆) 前庭に咲き乱れている朱赤の百合は、鬼百合だろうか。 物語の季節が、夏であることを知らせてくれる。美しい玉鬘に執心の兵部卿宮 が忍んできたところへ、源氏が几帳の陰からたくさんの蛍を放った瞬間である。 蛍の光は、赤い点で示されている。 「兵部卿宮、源氏と仲違い」
兵部卿宮という人物、優雅な外見の下に、なかなか計算高い俗な一面を持って
います。それが原因で互いを認め合ったかに見えた源氏とのふたりの間は険悪 になります。桐壺帝の譲位、そして、崩御と世の中が進むにつれて、宮中では 弘徽殿女御と右大臣が力を強め、源氏と左大臣のグループを圧迫していきます。 そうした中でおきた源氏の須磨退去は、源氏側の敗北ともいえる事態でした。 源氏のこの苦難に際して、兵部卿宮は、見舞いの手紙一本書こうとしません。
宮の目には、右大臣側の勝利と映ったのでしょう。この際源氏と付き合うのは
得策でないと考えたようです。計算高く右大臣側にすり寄るのですが、
それが結局、宮の不運と失意を招きます。
許されて都に帰った源氏は、 栄達を重ね、その一方で兵部卿宮は、源氏に疎まれ宮中では軽んぜられていく
ことになります。
小首傾げて九官鳥は黙秘する 笠嶋恵美子
式部ー藤壺-花陽炎②
【前月号迄のあらすじ】
父帝の配慮で臣籍として生きることとなった光源氏の君。
執念深い弘徽殿女御の手から逃れるため、乳母の大弐命婦は、すべての秘密と ともに出家する決心をかためます。そんな折、乳母子の惟光とともに内裏の外 へ遊びに出た源氏は、舞い散る花吹雪の下、この世のものとも思えぬ美しい女 性に出会うのでした。 意外なと美人でしたと噂され 岡本遊凪
藤壺雪の朝帰り
桐壺更衣そっくりの四の宮とは…。 ①
成人した女性が男性に顔を見られるのはタブーだった時代。
結婚の決め手は、噂や人づての情報でした。
「あの桐壺更衣にそっくりな女性がいる」と、その情報をもたらしたのは三代
の帝に仕えた信頼のおける典侍(ないしのすけ)で、しかも御簾の中の姫の姿
を実際に見ていうのですから、帝が心を動かされるのも無理はありません。 噂の姫君は、先帝と后の間にもうけられた、4番目の皇女。家柄も申し分あり ません。 姫君のうなじにも蚊の刺した跡 筒井祥文
②
典侍の情報に、すっかりその気になった帝は、四ノ宮入内を丁重に申し入れ、
立派な贈り物を届けます。
しかし、四の宮はまだ少女と呼んでもいいような年ごろ。 当時の女性は、12歳から14歳で成人の儀式を行いましたが、まだまだ
年若い少女の部分を残していました。母親の庇護のもと素直でシャイに育 った四の宮にとって、父親ほど年の離れた帝との縁談など、まるでピンと こないことでした。 美人だと担ぎ出されて人柱 宮井いずみ
兵部卿宮と四の宮(藤壺) 先帝の里邸に四の宮、王命婦とともに戻る。
古参の女房「姫さま!どこへいっておいでだったのですか?」
王命婦!軽率ですよ。入内前の姫に何かあればどうするのです」
王命婦 「申しわけありません」
女房「兵部卿宮がずっとお待ちですよ」
四の宮「兄上が?」
兵部卿「どこへ行っていたのだ。帝から贈り物が届いたというのに」
入内を待ちかねる帝から、立派な贈り物が届いていたが、なぜか四ノ宮の顔は
浮かない。 兵部卿「主上さまは、入内は明日でもいいと…それほどお待ちのようだよ」
帝は、まだ見ぬ四ノ宮に弘徽殿より立派な藤壺の局を用意して待つという。
四の宮「私はいやです。参りません」
兵部卿「今になって何をいう」
四の宮「兄上!私はやっぱりいやです。内裏にはあの恐ろしい弘徽殿の女御が
いらっしゃるわ。桐壺更衣さまの死はあの女御のせいでしょう?
そのはかにも大勢の女御さまがいらっしゃる。
競いあって生きていくなんて、私はいやです。それに主上さまは亡くなっ
た父上ほどのお年…私はいやです」 兵部卿「だからね、主上さまも女御というより娘を迎えるつもりだから、気を楽
にしてとの仰せだよ」 女房「賜ったお局も、弘徽殿よりずっと立派な飛香舎です。飛香舎はお庭の藤が
美しい藤壺でございます。姫さまにぴったりだと…」
重力の重さなんでしょ秋の鬱 銭谷まさひろ
現在の京都御所にある藤壺
藤壺は渡殿で天皇の住む清涼殿にもっとも近い場所にある。
手前の大屋根は飛香舎、その右手は若宮御殿、姫宮御殿の屋根。
※ 参考書
藤壺の住んだ飛香舎は、藤の花の館。
内裏の清涼殿の後ろには、妃の住む「後宮」12舎ありました。
弘徽殿をはじめとする7つの殿と5つの舎がそれにあたり、殿の方が舎より
格が上だったといわれています。 入内した四ノ宮が住むことになった飛香舎は、5つのなかで一番大きな舎で
南に面した壺(中庭)に藤が植えられていたことから藤壺と呼ばれています。 「源氏物語」ではこの藤壺女御(四ノ宮)をはじめ、今上帝(朱雀帝の皇子)
の女御が飛香舎に住んでいます。 ええ氏の家やな襖があるなんて 岡田陽一
③
弘徽殿女御の陰湿ないじめが桐壺更衣を死に追いやった。
と、世間では噂しています。四ノ宮を宝物のように育ててきた母君は、
帝たっての願いとは言え、そんな怖いところに娘をやるわけにいかないと 考えていました。しかしその母君も亡くなり、誰も反対するものはいなく なります。 先帝と桐壺帝の系譜は不明なので、帝と四ノ宮の血縁もはっきりしません
が、当時は、叔父と姪の結婚もごく当たり前でした。 兵部卿宮は、四ノ宮に入内を説得する。
四ノ宮「兄上だって母上も入内に反対だったのは、御存知なのに」
兵部卿「知っているよ。でも母上も亡くなった。兄の私としては妹を寂しい
ひとりぼっちにさせたくないのだよ」 四ノ宮「……」
兵部卿「私たちは先帝の子だからね。姫には誰一人…あの弘徽殿の女御でさえ
も指一本ふれさせないよ」 入内しないのなら仏門にと、兵部卿は脅迫めいた言葉で四ノ宮に迫る。
女房達「それは あんまりな」
兵部卿「姫がとは言ってはいない。後見のなくなった先帝の姫にはよくある話だ。
それしか生きていきようがないからだ」 月冴える反旗は微笑絶やさずに 新川弘子
④
あんなに姫君のことを思ってくれた母君が亡くなると、もう己を捨ててまで守
ってくれる人はいません。そんな四ノ宮に帝は「自分の娘と同じように扱う」 から、早く入内するようにと申し出ます。 女房たちも、後見人も、兄の兵部卿宮さえそれぞれの思惑から、四ノ宮に入内
をすすめます。この兄の兵部卿宮は、いずれ登場する紫の上の父親で、先帝の 息子ですが、けっこう、世俗的な欲にまみれた人物なのです。 一色の紫陽花としてきえてゆく 高橋レニ
塗り籠事件 騒がしい閨室 塗籠に籠り続ける源氏
兵部卿宮 や 中宮大夫 も参上して、「僧を呼べ」「御祈祷を」と騒がしい。
源氏は塗籠の中で、為す術もなくひどく苦しい思いで室内の喧騒を聞いている。
※ 参考書
あまりにみじめ…後見のないお姫様
女房など周囲の者の流す噂が、殿方を惹きつける何よりの手段だった平安時代
のお姫様。それだけに経済力の要となる後ろ盾を失い、頼りの女房たちが離散 してしまうと、その生活はみじめなものでした。日々の収入は閉ざされ、守っ てくれる男性も噂が流れないことには寄ってきてはくれません。 どんな美しい姫君でも、誰にもその存在を知られなければ、どんどん落ちぶれ
てしまうのが道理。 (『源氏物語』の「末摘花」の帖にも、宮家の姫に生まれながら、あばら家同
然の邸に住む哀れな末摘花の姫が登場しています) サボテンはサボテンとして雲にのる 酒井かがり
⑤
どうやら恐ろしい噂ばかりが聞こえてくる宮中への参内は、逃れようもありま
せん。四ノ宮は孤独と不安の渦のなかにいました。 弘徽殿女御のように一族の繁栄を背負い、目的意識と上昇欲の強い女性ならば、
喜び勇んで宮中に参ったのでしょうが、この深窓の姫君は違います。 容貌ばかりでなく、そういう控え目な性質も、帝が、今なお忘れられない桐壺
更衣に似ていたのかもしれません。 泣き止まぬ自分を追い出せないでいる 本多洋子
⑥
たしかに触れ合った。確かに” 何か "はあった。でも、それは…。
源氏の君も、池のほとりで出逢った姫君のことが忘れられず、眠れぬ夜を過ご
します。 <…幾度となく甦るあのシーン。何故だろう? あの女性は確かに この手を受け止めたのだ> 「夢…か。誰だったのか、どこの姫君なのか…あの姫君も私に手をさしのべて」
そこへ乳母子の大輔が顔をのぞかせて、
「やっぱり、光る君はおやすみになれませんか」
源氏「大輔! やっぱりって?」
大輔「御存知ではないのですか? 明日、新しく女御さまが入内なさるそうです。
それが桐壺更衣さまに生き写しのお方ですって」 源氏「亡くなった、ぼくの母上に…似ていると」
大輔「似ていることを典侍が主上さまにお話ししたそうです」
源氏は新しく入内するお妃が、母の桐壺更衣にそっくりだという話を耳にするが。
源氏「でもぼくは母上を知らない」
母の顔すら覚えていない源氏。
その女性を、いったい、どう受けいれていくのでしょうか。
運命の女性の入内を前に、源氏は思い悩みます。
唐紙の向こうへ冬の蝶ふわり 森田律子
『源氏物語図屏風 紅葉賀』 (狩野氏信筆)
老女、源典侍が琵琶を弾き、その美しい音色に聞き惚れる源氏
典侍とは、律令制に基づいて置かれた後宮12司のうちのひとつ。
内侍司に務める高級女官で、天皇の側で世話をするほか、掃除や点灯などを行
う女嬬を監督したり、尚侍がいないときには天皇のメッセージを伝達する役目
をはたす。 ※ 参考書
主上をお世話し、女官を仕切る典侍(ないしのすけ)
典侍とは、律令制に基づいて置かれた後宮12司のうちのひとつ、内侍司に
務める高級女官です。長官である尚侍(ないしのかみ)に従って、主上の側で 世話をするほか、掃除や点灯などを行う女孺(にょうじゅ)を監督したり、
尚侍がいない時には、主上のメッセージを伝達する役割も果たしました。
(『源氏物語』では桐壺院に仕える源内侍が登場し、身分も才気もあって上品
ですが、本気で若い光源氏に恋をする好色な老女として描かれています) とんがった耳はどこでもドア越えて 富山やよい
⑦
ビデオも写真もない時代のこと、三歳で失った母の面影を追うには、人づてに話
を聞くか、あとは自分の想像力で思い描くしかありません。 亡くなった人は年齢をとりませんから、光源氏のなかにいる母はいつまでたって
も若く美しいままでした。 ぼんやりと思い浮かべてきた母のイメージが、今、目の前に、現われようとして いるのです。四ノ宮との対面を前に、源氏の期待はいやでも高まっていきます。 目をつむる微笑む君が見たいから 岸井ふさゑ
四ノ宮の入内の儀式が終わって…。
大輔「入内の儀式が終わればきっと、主上さまがお招きになるわ。
だって…主上さまだって桐壺更衣さまのお形代としてお召しになった方
ですもの」 <お形代…。母上にそっくりな女…、どんな方だろうか>
形代とは面影をうつした人のこと。四ノ宮との初体面に、どんな方が、と源氏
の胸は高鳴るばかり。 源氏「父上、参りました」
貴人の前に進み出る場合、礼を重んじるには数歩手前で一度着座し、膝立ちの
まま進まねばなりません。光は礼に従い主上の近くへ膝行します。 主上の横には、袖で顔を隠した四ノ宮が控えています。
主上「私の二の皇子、光る君だよ」
新しい母は、前に出逢った女性でした。幾たびも夢にでてきた女性。
運命の歯車が今、回り始めます。
主上「光る君よ、この女御母と思い…いやいや母子というよりまるで姉と弟、
まぁどちらでもよい、仲良くな」
何かの縁があるとは感じていた。しかし、よもや母と子になろうとは!
母と子、2人の指先が触れ合うほどの、あの日の小川が…今、ふたりを隔てて
滔々と流れる大河に変わったのを、光る君も藤壺女御も感じた。 怖い美しい切ない放さない 徳山泰子
⑧
入内した四ノ宮、つまり藤壺女御は、源氏物語にあまた登場する女性のなかでも、
最高の理想的の女性として描かれています。 姿形はもちろん、身分も先帝の御子ですからあの弘徽殿よりも上、気品も高く、
後宮でも、誰も彼女を貶める余地がないほどでした。 そして光源氏と藤壺の年の差はわずか4,5歳。 この素晴らしく美しい女性を " 母 " と呼ばせるのは、あまりにも酷なことだった かもしれません。 ふり仰ぐ胸に悲の字を縫いつけて 太田のりこ
※ 蘊蓄
愛された紐飾り、総角
髪を左右に分け、耳の上で巻いて輪をつくる男の子の髪型は「総角」「みずら」
と呼ばれました。そして元服前の源氏がつけていた髪飾りに似た、紐の結び方に、 やはり総角と呼ばれるものがあります。 これは両端を軽く一結びにし左右の輪を結び目の間に通して固く締めたもの。 源氏物語の帖名にもその名が認められます。 陽炎まとうシャイな人間 武智三成 一瞬に恋 永遠の呪縛 木本朱夏
「源氏物語図屏風 紅梅」(梶田半古筆 横浜美術館蔵)
狩衣の後ろの裾を短く仕立てたものを、半尻といいます。
これは子供の着る童装束で、特に天皇や摂関家の子供が着用していました。
袖括り(袖を括る紐)は、華麗に糸を組んだ置き括りで、布地も織物を用いた
豪華なもの。もとは童装束ではなく、公家の人々にだけ許された服だったとも
いわれています。 夏は通気性のよい紗織り、冬は白地の二重織物で仕立てました。 【前号までのあらすじ】
祖母、北の方が急逝し、いよいよ孤独の若宮。そんな折
はるばる日本へ来た高麗相人は、若宮の類まれな人相に「帝の位さえ望めるが、
それはいいことではない」といって、「ただの臣下におさまる相でもない」と 予言。我が子の将来を思う桐壺帝は、若宮の臣籍降下を決め、 ここに” 光源氏の君 "は誕生します。 唐紙を一枚あけて覗く明日 田村ひろ子
『源氏物語画帖 花宴』(土佐光吉筆 京都国立博物館蔵)
桜の宴の果てた月明かりの夜、忍び潜む源氏に気付かず、歌を口ずさみながら
歩いてくる若く美しい女性。そののびやかな姿態に惹かれた源氏は,、暗がりに
引き入れて、あわただしく契りを結び、暁にのなかで女君と扇を取り換え、 またの逢瀬を願うのでした。 式部ー藤壺・花陽炎-①
入内前の四ノ宮時代の藤壺 入内後の藤壺女御の時代
① 帝は、愛する桐壺更衣が、宮中でいじめ抜かれて亡くなったことがよほど
こたえたのでしょう。残された光源氏の処遇については、じつに慎重です。
実力者、右大臣と弘徽殿女御の親子の気分を逆撫でしないように、
第一皇子を皇子に指名後も、さらに源氏を臣籍に下す念の入れよう。
乳母の大弐の気持ちとしては納得がいかないのですが、帝のこの政治的判断
でとりあえず宮中の平和は保たれました。
皹われたハートをつなぐオロナイン 笠嶋恵美子
②
テレビもパソコンもない平安時代、乳母や女房こそ情報源として重要な役割を
果たしてきました。特に乳母は皇族や身分の高い貴族の子供を、実の親以上に 養育する立場にありましたから、自然に貴人たちの裏の事情に詳しくなります。 原作では「夕顔」の帖に登場する弐大ですが、もちろん赤ん坊の時から光源氏 の面倒を見ていて、自分の欲望のためには手段を選ばぬ弘徽殿女御の恐ろしさ
も十分知っていました。 弘徽殿女御から若宮を守った大弐命婦は出家を決意します。
<弘徽殿の女御にとって今一番の邪魔者はこの私……。
内裏に私がいることは光る君にもよくない。乳母としてのお役目も、もう終わ
った。仮病を使い長男の五条の屋敷へ下り、病気平癒祈願を理由に髪をおろそ
う> 外れかけの顎 桜貝のボタン 井上一筒
藤 原 道 長 出家 藤原道長は、若い頃から仏教に帰依しており、出家を将来の夢として いた。官職を辞し、出家した後は「御堂殿」や「入道殿」と呼ばれた。 道長は、摂政を退くも実権は握ったまま、頼通に摂政の地位を譲った。
1017年(寛仁元)3月16日、頼通26歳の時である。
道長の思惑が落着いたころ、病をかかえ道長は出家をしたのである。
逝去は1027年(万寿4)12月4日、62歳だった。
そして頼通は、36歳になっていた。
※ 出家
俗世を捨てて仏門に入ることを、出家といい、女性の場合は、肩のあたりで
黒髪を切り落します。平安のころからは、家を出て寺などに入る女性を尼
(尼法師・尼御前とも)在家のまま髪をおろす者を尼入道、尼女房などと
呼んで区別しました。総じて男性の出家者である比丘(びく)よりも地位は
低く、その戒律は厳しいもの。
それでも仏教に深く帰依し、あるいは病に悩み、親しい者の死を悼むなど、
出家の道を選ぶ女性はあとを絶ちませんでした。
後ろ手でしめる襖の闇一つ 柳本恵子
③
仏門に帰依するために一芝居打つ大弐。自分の子供以上に大切に思う光源氏を、
どろどろした思惑が渦巻く宮中に残す決意ができたのも、息子の惟光がいたか らです。光源氏と実の兄弟のように仲良く育った惟光は、やがて母、大弐の願 い通り、光源氏の側近中の側近に成長していきます。 惟光がいたおかげで、恋の逢瀬を楽しみ、逆境を乗り越えることができる
ことにもなります。
人間は一人ぼっちが苦手です 能勢良子
④
現代の少年たちがサッカーで遊ぶように蹴鞠をし、内裏の塀を乗り越え野原へ
出て行く活発な少年、光源氏と惟光。この2人も、そろそろ気になる女の子の
ひとりやふたりいてもおかしくない年頃です。 桜の花びらに引き寄せられるようにしていくと、その先には美しい女性の姿が、
母を亡くし祖母を亡くした若宮時代は幕を閉じ、いよいよ「光源氏の物語」が
はじまろうとしています。 時は春、宮廷近くの池のほとりに立つ桜の木の下に…。
桜の精と見まがうほど、まるで夢のように美しい女性がそこにいました。
里山にオオムラサキを見ましたか 井上恵津子
※ 参考書 蹴鞠 蹴鞠といえば、平安貴族の優雅な遊び。四隅に柳・桜・松・楓などを植えた
専用コートの「懸」では、それぞれの木の下に2人づつ、8人一組の「鞠足」
たちが競技をします。ルールは、まず、松の根元にいる「上鞠」役が3度蹴 り上げて、次にトス、あとは順に鞠をパスし、これを下に落とさずに、どれ だけ続けられるか競いました。 回有りには、外に出た鞠を蹴り返す「野伏」が4人、ほかに数人の「見証」
(審判)が鞠の行方を見定め、独特の節回しで回数をカウント。数え始めは
50からで1000回を極点としましたが、さすがに500を超えることは
めったになかったようです。
ラジオ体操日本人なら皆出来る 能勢利子
⑤
源氏物語はトータルで約70年にもおよぶ年月を描いた壮大なドラマです。
これだけの大長編ですから、ストーリーも恋愛小説、政治小説などさまざまな
読み方が可能ですし、登場人物も多く、それぞれが織りなす多彩な人間模様を 眺める楽しみもあります。 そのなかでも、もっとも重要な人物のひとりがここに登場する。
後の「藤壺」です。
光源氏との関係が、物語のひとつの太い柱になっていきます。
罌粟の香が消えないべっぴんの家系 中野六助
桜 の 精 ※ 参考書 桜の精 桜は歌に詠まれ、美術に表現されてきましたが、伝統芸能の能には「桜の精」
がたびたび登場しています。有名な演目に『西行桜』があります。 「桜の歌人」と呼ばれ、桜を詠んだ歌を数多く生んだ西行法師と年老いた桜
の精が、桜の歌を論じあうもの。桜の精は西行法師との出会いを喜び、京都
の桜の名所を数え上げて、その美しさを称えます。
花見の賑わいと、夜の静寂のなかで舞う桜の精の幽玄さが対照的な美しさを
表す能です。
探査機は静かの海へ散歩中 森 茂俊
⑥
やがて、光源氏が永遠の理想の女性として慕う藤壺は、これから登場する
女性たちにくらべ、どこか夢のような存在です。
原作で、源氏が藤壺に実際に出逢うのは宮中ですが、はじめて逢った時の
イマジネーションは、さぞかし幻想的なものだったでしょう。
登場人物の女性に対して、時には生々しく、時には手厳しい皮肉っぽい、
表現を随所にした紫式部も、藤壺の描き方には繊細な気遣いが感じられます。
蝶番のわたしとドアノブのあなた くんじろう
源 氏 の 恋 空 蝉 ※ 参考書 源氏の恋
源氏は、さまざまな女性と恋愛を重ねていきますが、20歳前には年上の女性
との恋に落ちることもしばしばでした。
亡き母を思わせる藤壺女御には、母の面影を求める気持と恋愛感情を、ないま
ぜにした複雑な想いを抱きます。
老齢の受領の後妻、空蝉は、源氏と関係をもつものの、人の妻であることから
「若いころのままだったなら」と嘆きます。
亡き東宮の未亡人、六条御息所も年上の恋人です。
教養に優れ、見目麗しく、このうえなく素晴らしいこの女性に対して、若い源
氏は息苦しさを感じることもありました。 また変わったところでは、老女・典侍にいい寄られ、一夜をともにしてしまう
エピソードもあります。 ハムレットそろそろパンツ穿きなさい 月波与生
⑦
男性にとり、最初に出会う女性は母親。
でも光源氏は母・桐壺更衣の顔を覚えていません。
このことは源氏の女性観、物語の展開に大きな影響をおよぼします。
王命婦とともに去る女性は、年もさほど離れていないにもかかわらず、
その後、「義理の母親」になる運命にあります。
この女性との「許されぬ恋」を描くことで、紫式部は「源氏物語」を、
単なる王朝の恋物語を超えて、日本文学の不朽の名作にしたといえます。
人を刺すペンはキレイな凶器です 永井 尚
※ episode 一風変わった姫君
美しく華やかで、奥ゆかしく屋敷の奥で暮らしている姫君といえば…そんな
イメージが思い浮かびますが、しかし、なかには変り者の姫も。
当時の奇談・珍談を集めた『今昔物語集』には、女性らしからぬ、腕力の強
い逞しい姫君が登場しています。
彼女は相撲取りの妹ですが、ほっそりとして美しい姫君です。
ある日、人から追われている男が、彼女の家に逃げ込み、姫君を人質にとり
ます。ところが姫君はそばにあった竹を、手でバリバリと折り、その力の強
さに驚いた男は、思わず逃げ出しました。
この姫君は、大きな鹿の骨でも、枯れ木を折るように砕いてしまうほどの力
の持ち主だったそうです。
地球では生きていけない宇宙人 東 定生 活火山だったと知った鼻の穴 くんじろう
紫式部が源氏物語の「宇治十帖」を書いた場所は、京都府宇治市です。
宇治十帖は、紫式部が記した『源氏物語』の五十四帖のうち、
最後の十帖で、宇治を舞台としています。 宇治十帖を執筆するところか机上の前の紫式部
「藤壺女御の兄・兵部卿宮」
兵部卿宮は、藤壺の兄であるだけでなく、源氏の妻になる紫の上の父でもある。
つまり源氏が終生、想いを寄せる恋人の兄、そして、最愛の妻ということで、 浅からぬ縁で結ばれています。 ふたりは三条の里邸に下がった折に、偶然、出会うことがあります。
いつにもまして親しく口をきく機会となったこの時、源氏は近くであらためて
接した兵部卿宮を「女にしたらすてきだろうな」と思うのでした。
宮もまた、源氏に対して「女にして逢ってみたいもの」と同じ印象を持ちます。
藤壺と紫の上という、物語中で1,2を争う美女の兄にあたり、父になる人物
ですから、宮がなまめかしく優雅な貴人だったとしても不思議はありません。 王朝の美意識では、宮のような、女にしたいほどなまめかしく優艶な容姿こそ、
理想的な男性美でした。その代表は、もちろん源氏です。 美女との恋の遍歴を重ねるその源氏が即座に「女にしたいものだ」と思うので
すから、宮の容姿が相当なものだったことは間違いありません。 式部ーどうにもとまらないー賢子 宇治十帖絵巻とともに
右藤壺、中央・光源氏、左上・太宰師宮、左下・権中納言(頭中将)
とりあえず、賢子の部屋の中に思い思いに座を座を占めると、先ず頼宗が藤袴
について質問を始めた。 それぞれに公平に問いかけ、一通りのことを聞き出すと、 「なるほど、故大納言源時中殿の御息女ですか。あの方にそんなに若い娘が
いたとは初耳ですね。それに朝任殿からもそんな話をきいたことはないな」
「やはり頼宗さまも、不思議にお思いになられましたか」
頼宗の傍らに、ちゃっかり座り込んでいた小式部が、頼宗にすり寄るような
素振りを見せながら言った。 「あら、不思議って、どういうこと?」
頼宗の両隣の席の片方を小式部にとられてしまった良子が尋ねる。
「私も亡き大納言さまのご息女について、耳にしたことがなかったから、
不思議に思ったのですわ。だって大納言のご息女なら、少しは噂になって
当たり前ではありませんこと?」
確かに、大納言とは朝廷の政治を担う、大臣に次ぐ官職である。
大納言の娘であれば、天皇にお仕えすることも夢ではないし、頼宗のような
大貴族の正妻になることもあり得た。
賢子たちの中に、そのような父親を持つ者はいない。
つまり格が違うのである。 ジメジメのジメの隙間に夜来香 雨森茂樹
たちよらむ 蔭を頼みし 椎が本 むなしき床に なりにけるかな- 薫 - 巻46
藤袴が、烏丸たちから、いじめを受けていたことについては、頼宗に話して
いない。頼宗が不審に思うのではないかという忠告に気付いて、賢子は、 はっと頼宗の顔色をうかがった。 だが頼宗は、何か考え事に耽っている様子で、賢子の言葉をまともに聞いて
いなかったようである。ちょっと寂しい。
「あの、頼宗さま?」
賢子が頼宗の顔をのぞき込むと、
「いや、済まない。少し用事を思い出したので、今日はこれからすぐに皇太后
さまに挨拶だけして失礼いたします。
また参りますので、お話合いの仲間に私も誘ってください」
頼宗はっそれだけ言うと、見送りもろくに受けずに去って行ってしまった。
頼宗がいなくなると、部屋の中はまるで光が消えてしまったように味気ない
ものとなる。
来週もその気にさせる予告編 清水すみれ 総角に 長き契りを 結びこめ おなじ所に よりもあはなん - 薫 - 巻47
残された4人の会話は、烏丸たちの報復についてのこととなる。
良子は、いつにない気弱な表情を見せると、
<あら気になるの?> 小式部は、さして気に病んでもいないらしく小馬鹿に
したような目を向けて訊く。
「中将君が気にかけるのは当たり前だわ、私も心配だもの」
「小馬さまが------?」
賢子が意外という顔で言う。
小馬は正義感が強く、賢子が苛められているとき、なんとかしてやろうと前に
たちはだかってくれたことがあるのだ。今は、小馬の瞳は、不安に揺れていた。
「私が御所へあがったばかりの頃、あの人たちから、ずいぶん嫌がらせを受け
たわ。中関白家の回し者って言われてね」
中関白家は、定子や御匣殿の家であるから、彰子の敵とみなされたのである。
小馬の母・清少納言が定子に仕えていたから、そんな苛めをうけたのだろう。
その苛めた相手が、烏丸たちだったことは初耳であった。
平凡をすこし粗末にしています 美馬りゅうこ
この春は たれにか見せむ 亡き人の かたみにつめる 峰の早蕨 - 中君 - 巻48
賢子が思い出したように呟くと、小馬はおもむろに頷いた。
「烏丸さまや左京さまは、確かに意地の悪い人たちだけれど、
自分の考えで苛めをしているわけじゃないのよ。
さっき言っていたでしょう、自分には大物がついているって」
「そういえば…小馬さまには、その大物に心当たりがあるのですか」
「はっきりしたことは分らない、でもね、ある方から『お前のしぶとさには
ほとほと呆れた』と言われた直後、苛めがふっとやんだの」
「つまり、その人が烏丸さんたちに苛めを命令していて、やめる時も指図した
ってこと?」
「烏丸さまが認めた訳じゃないから、あくまで推測よ」
「それって、どなたのことなのですか?」
良子が身を乗り出すようにして尋ねた。
「------稲葉さまよ」
それは、彰子が宮中へ入った12歳の頃からずっとお仕えしているという、
紫式部や和泉式部よりももっと古い女房の名であった。
振り返る時間を呉れる砂時計 油谷克己
宿り木と 思ひ出でずば 水のもとの 旅寝もいかに 寂しからまし - 薫 - 巻49
良子の懸念は、決して行き過ぎではなかった。
翌日から早速、賢子、良子、小式部、小馬への嫌がらせが始まったのである。
中心となっているのは、烏丸と左京で、もちろんのこと、藤袴への嫌がらせは
続けられていた。名指しで呼ばれた時以外は、皇太后の御前からも締め出され、
場所をとるのを邪魔されるようになった。
部屋に嫌がらせの文や虫、塵芥を投げ込まれるようになり、
渡殿などですれ違えば、裳の裾を踏みつけにされる。 良子はこれまで仲よく付き合っていた女房たちからは、あなたと話をすると
烏丸さんたちからにらまれるので、と申し訳なさそうに絶交する言ってくる
らしい。
藤袴も同じような嫌がらせを受けているはずだが、良子のように泣きついて
こないうえ、賢子の方も人目のある所で話しかけることが出来ないから、
どうしているものか心配である。
<早く何とかしなければ>賢子はあれやこれやと思案をめぐらすのだった…。
愛読書増えて薬が減っていく 春名恵子
さしとむる 葎やしげき 東屋の あまり程ふる 雨そそぎかな - 薫 - 巻50 烏丸を動かしている因幡の標的は、藤袴である。
因幡は新人が入ってくるたび、無差別に苛めをさせているわけではない。
なぜなら、賢子は烏丸たちから苛められたことはない。
小式部もその被害は受けていないという。
でも小馬は苛められていた。
<小馬と藤袴に共通するしているのは何なのだろう>
賢子は、藤袴の兄・源朝任さまから何かヒントを得るかもしれないと、
直感をはたらかせ、<お聞きしたいことがある>と文を認め、
従者の雪に使いをさせた。
意地という厄介者を飼っている 通利一遍
たちばなの 小島は色も かはらじを この浮舟ぞ ゆくへ知られぬ- 浮舟 - 巻51
<果たして朝任はいつやってくるのだろうか……
できるだけ早くと文には、書いておいたのだが> 二時間余りが過ぎたころ、驚いたことに朝任が訪ねてきた。
さらに驚いたことにもう1人、付き添いがいた。
「粟田参議さま!」
賢子より先に、その名を口にしたのは雪であった。
粟田参議とは、藤原兼隆のこと。
賢子に文を寄越してくる貴公子の1人である。
文の使いは恋の誘いの使いである。
雪はすっかり賢子の文を、それと勘違いしいらぬ気を利かせたのである。
野良猫の後をぶらぶら暇な午後 森 茂俊
「驚きましたよ。私が越後弁殿からの文を読んでいたら、粟田参議殿が突然、
お見えになったのですから」
朝任が苦笑しながら言葉を添えた。
「見せろと仰るので弱りました。
見せてはおりませんけれど、越後弁殿に呼ばれ たと申し上げたら『ならばすぐに行こう、私が付き添ってやる』と仰って」
つまりは、強引な兼隆にひきずられるような形で、朝任は賢子のもとへ来たと
いうことのようであった。
「それにしても、私にお尋ねしたいこととは、よほど大事なことのようですね」
「はい、妹君のことを伺いたくて…」
と賢子は切り出したが、部屋に座り込んだ兼隆がいる、<どうしたものか>
席を外してください、と言いにくいし、兼隆がいることで、朝任が真実を話し
にくいかもしれない。
水飲み場あたりで夢はよく転ぶ 小林すみえ
「小式部殿にも訊かれましたが、藤袴のことですね」
賢子は覚悟を決めた。
「あの方、変っていらっしゃいますよね。受け答えも何だか普通と違っていて、
『竹取物語』のかぐや姫のような…この国でない場所でお育ちになった方の
ようにおもえましたわ」
「そうですか。そんなに変わっていますか」
「ずいぶん冷めた言い方をなさるのですね。藤袴殿はそのせいで…
ちょっとした、嫌がらせを受けていらっしゃるのに」
朝任は先を続けた。
「小式部殿にも言いましたが、私は妹とは、ほとんど面識がないのですよ」
賢子は、怪訝な表情を浮かべ黙って聞いている。
物忘れウワサも一緒忘れたい 靏田寿子
「宮仕えといえば何かと物入りなわけですが、そうしたことも我が家では、
一切面倒を見ていないのです。
妹には誰か援助をしてくれる後見がいたのでしょうか、妹と私はまったく
他人も同じなのです。
嫌がらせに遭っていると聞けば、気の毒とは思いますが、私は妹よりも
越後弁殿の御身の方が案じられるくらいですから」
「私とて、越後弁殿の御身を案じておるぞ。それゆえ、取るものもとりあえず、
こうして参ったのですからな」
兼隆が妙な競争心をかき立てられたのか、横から余計な口を挟んでくる。
銀杏が風の宴に参加する 橋戸秀子
身を投げし 涙の川の 早き瀬を しがらみかけて 誰かとどめし - 浮舟 - 巻53 賢子は、それを完全に無視して言葉を続けた。
「朝任さま、正直にお答えください。
もしかして、誰かに口止めされているとか?
それは皇太后さまでいらっしゃいますか」
賢子は考えていたことを思い切って吐いた。
藤袴に何か秘密があるとしても、皇太后の御所で雇われている以上、
彰子が知らぬはずがない。
朝任に口止めするとしたら、藤袴本人か、雇い主である彰子しかいない。
今の様子からすれば、朝任は藤袴に対し愛着も義理も持っていないようだ------
とすれば、藤袴より彰子の可能性が高い------
それまで穏やかだった朝任の表情が一瞬変わった。
縦書きでなければ海は流れない 杉原正吉
賢子は、その一瞬をを見逃さなかった。
「まったく、越後弁殿。あなたは大したお方ですな。
あなたの誘導に引っかかかったようです」
「ならば、本当のことをお話しくださいますか」
朝任は困惑した顔つきで、兼隆を見た。
「私は口が堅いぞ」
兼隆が憮然とした口ぶりで言った。
「それに、私は皇太后さまの身内だ。私が知って困るようなことはあるまい」
確かに、兼隆は彰子の実の従兄であり、義兄でもある------だからこそ、耳に
入れにくい話ということもある。
<やはり、兼隆さまには席を外していただこう>
破れ襖全域マナーモードです 高杉 力
法の師と たづぬる道を しるべにて 思はぬ山に 踏み惑ふかな - 薫 - 巻54
夢浮橋だが、賢子が口を開くより先に朝任が「分かりました」と頷いてしまった。
「しかし、お二方とも、このことは他言無用ですぞ」
朝任の念押しに賢子も兼隆も、決して他言はしないと誓った。
朝任は覚悟を決めた様子で頷くと、ようやく切り出した。
「事の起こりは、昨年の末のことです。私のもおとへ、皇太后の使者が
参りました。『ある娘を皇太后さまに宮仕えさせたいと考えている。
ついては、亡き父時中の娘ということにしたいので、承知してほしい。
無論、皇太后さまもご承知のことであり、この申し出があったことは、
他言無用』と」
「で、では、藤袴は、時中さまのご息女ではないのですか?」
賢子は目を丸くして、思わず声をあげてしまう。
結論を髪の匂いが惑わせる 宮井元伸
「あまり大きな声でお話しなさいませんよう」
朝任から注意され、賢子は慌てて口を両手で覆った。
「その通りです」
朝任は、賢子の言葉を素直に認めた。
「申し出を受けた時は、正直、驚きました。
口裏を合わせるのも大変だと思いましたしね。
しかし、その娘について問われたら、別々に育ったから何も知らぬと答えれ
ばよいと言われました。 宮仕えのための世話などいっさい迷惑はかけない、とも。
皇太后さまのご意向でございました」
なるほど、だから、朝任は藤袴に対して、まったくの他人行儀な物言いをして
いたのだ。
彰子がそのような工作をした事情は分からないが、もう一つの謎がある。
彰子の使者となって、朝任にそのことを依頼した人物とは誰なのか。
哲学の道であかんを考える 太下和子
橋姫の 心をくみて 高瀬さす 棹のしづくに 袖ぞぬれぬる - 薫 - 巻45 『源氏物語』五十四帖のうち、最後の十帖は宇治を主な舞台とするため、 「宇治十帖」と呼ばれています。宇治十帖は、光源氏が亡くなった後の物語で、 光源氏の子とされる薫と孫の匂宮の二人の、貴公子と、大君、中の君、浮舟と いう宇治の八の宮の姫君をめぐる恋模様が描かれています。 朝任は、意図的にその人物の名を隠しているようだ。
<まさか>という思いが、賢子の中に生まれていた。
小式部には、事実を語らなかった朝任が、賢子には、割合あっさり明かし
てくれたのも引っかかる。 「その皇太后さまのご使者とは------?」
賢子は思い切って尋ねた。
「あなたのお母上、紫式部殿ですよ」
朝任はいつものような落ち着いた声で、おもむろに答えた。
その返事は、ある程度予想していたこととはいえ、賢子の耳には、落雷の
ような衝撃をもって鳴り響いた。 間もなく、因幡は体の具合が思わしくないことを理由に、宮仕えを辞めた。
烏丸と左京も申し合わせたように実家に帰っている。
後の2人は辞めたわけではないが、しばらくは御所に戻って来ないようだ。
おかげで、賢子たちは、御所での暮らしがすこぶる快適なものとなった。
一方、藤袴は賢子はもちろんのこと、良子や小式部、小馬たちとも
親しくするようになった。 (賢子はとまらないいゟ)
炭坑節シラフのときは歌わない 新家完司 ご案内しましょう別のけもの道 芳賀博子
和 泉 式 部
藤原頼通(渡邊圭祐)と和泉式部(泉里香)
恋多き和泉式部の晩年の歌 あらざらむこの世のほかの思ひ出に いまひとたびの逢ふこともがな 「紫式部のひとりごと」 和泉式部のこと
私と同じころに宮仕えをしていた女房のなかに、和泉式部という方がいます。
この方は、生まれつきことばの持つ魅力をご存知だったようです。
彼女はたいへん自由奔放に恋愛を重ねた女性で、私からすれば、少々考えもの
と思えるふしもございますが、歌も自然に自由にお詠みになり、才気あふれる 歌をつくりました。
気軽に走り書きした恋文などのちょっとした文書にも、ことばの艶やかな魅力
がにじみ出ていました。 深く考えなくとも、自然に歌が口をついて出てくる方だったのでしょう。
天性の詩ごころに恵まれていた、とでも申しましょうか…、そんな詠み方で、
逆に申せば、歌についての知識や理解は、あまり深くないかもしれません。
伝統に則った端正な歌人とは、少々違う情熱的な歌詠みではないかと思います。
大江山いく野の道の遠ければ まだふみも見ず天の橋立 娘小式部の歌
おおらかな人間観で平和説く 西美和子
式部ーどうにもとまならない賢子
女房たちの局と渡殿 (京都風俗博物館) こそこそと悪事をめぐらす4人の女房 そこは、女房たちの局が並んでいる渡殿であった。
渡殿というのは、広くて長い廊下であるが----、一部を区切って部屋として用い、
この御所に暮らす女房たちに貸し与えているのである。 一つ一つの部屋には壁もあるし、戸もついてはいるが、いずれも取り外し可能で
あった。そのため、話し声などはわりと漏れやすい構造である。 良子が賢子を連れていったのは、藤袴の部屋であった。
その戸口に四人のお姉さまたちが立ちはだかり、中にいる藤袴にあれこれと言い
がかりをつけているところらしい。 近づくにつれて話し声が耳に入ってきた。
「あのー。出て行けとおっしゃられても、わたくし、まだこちらへ来たばかり
でございますし」 と、おっとりした声は、藤袴のものだ。
くすぐってごらんメダカの脇の下 吉川幸子
「あのねえ、来たばかりだこそ言ってるの。御所の雰囲気になじめなくて、
すぐ辞める人も多いんだから、あなたも、もうやっていけないって、
泣きつけばいいのよ」 せかせかと苛立ったように言い返しているのは、烏丸の声。
背が高すぎて、痩せぎすなことを気にして、いつも猫背で歩いている。
しかし、興奮すると、それをわすれてしまうらしく、今は他の仲間たちより
頭が半分ほど上へ突き出ていた。
トラブルの中にいつもの顔がある 靏田寿子
藤 壺 「泣きつくって誰にですか」
「あなたの後見よ。父君がいないのだから親戚のお世話になっているんでしょ。
その人に言えばいいの。 私はもう、御所でお勤めするのは無理だって」 烏丸に高い位置から甲高い声でわめかれると、それだけで相当の威圧を感じる
はずであったが、 「別に、無理でございませんわ。わたくし、見るもの聞くものすべて珍しくて、
もっとこの御所にいたいと思いますもの」
応じる藤袴の声は、あまりこたえたふうでななかった。
叫んでも拗ねてもおだやかなゴボウ 森田律子
「はあー? 誰があなたにお伺いを立てたのよ。あなたの意見なんか聞いちゃ
いないの。出ていけって言われたら、 黙って出て行けばいいのよ」
少し蓮っ葉な物言いは、左京のものだろう。
「それとも何? もっとつらくて、痛い目に遭わなければ、出て行くことがで
きないって言いたいわけ」 左京が足をずいと前へ出したようだ。
藤袴の衣装の裾でも踏んで、動けないようにしたか。
それとも、足を踏みつけて、言葉通り、痛い目に遭わせているのか。
いずれにしても、黙って見てはいられない。賢子はその場に飛び出していた。
「皆さま、おやめください」
土壇場でふと目を覚ます力瘤 新海信二
宮中の嫌がらせに絶句するまひろ 烏丸や左京たちの目が、一斉に賢子の方に集まってくる。
年上のお姉さまたちからじろりと睨みつけられるのは、賢子でも少し怖かった。
「あら、越後弁。ごきげんよう。私たちに何の御用?」
左京が先ほどの蓮っな物言いとは異なり、やけにもったいぶった口ぶりで言う。
「あ、あの。藤袴が困っているようでしたので。別に出て行きたくないと言う
人を、無理に追い出そうとしなくても、よいのではないでしょうか」 第一、それは、あなたたちが決めることではないでしょ------
そう付け加えたいところではあったが、相手が年上の方々だということを考え、
賢子は辛うじてこらえた。
「あら、なあに。越後弁ったら、私たちがまるで藤袴をいじめているみたいな
ことを言うのねえ」
烏丸の嫌味が飛んできた。
賢子は仕方なく「申し訳ありません」と、言ってお姉さまたちに向き直った。 軽く打つジャブで出方を確かめる 久世高鷲
「私たちはね。別に藤袴が気に食わないから出ていけとか言っているわけじゃ
ないのよ。藤袴がいることで、この御所の平穏がかき乱されるから、
出て行ってくださいとお願いしてるわけ」
「平穏がかき乱されるって、どういうことですか」
賢子は下手に出で尋ねた。
「あらあなた知らないの藤袴は、先帝の御匣殿(みくしげ)にそっくりだって、
古い女房の方々がおっしゃっていることを------]
御匣殿とは、一条天皇の愛していた女房(定子)のこと、源氏物語の桐壺更衣
のことである。一条天皇の後宮における様々な問題は、彰子の人生にも深い影 をおとしていた。 「もちろん、知っておりますわ」
賢子の背後から声がした。振り返ると良子がいる。
どういうわけか、小式部と小馬もいた。
わたくしもいたのと話盛り上がる 太下和子
修 理 典 侍 修理典侍は、派手で厚化粧の若作りに余念がない人。 御年58歳にして20歳の源氏とよい仲になった恋多き女性である。 「古くからこちらにお仕えしておられる方々は皆、一様に不吉な心地がすると
仰っておいでですもの」
烏丸たち相手に、堂々と言い返したのは良子であった。
「ですから私、宮中にお仕えしているお母さまに、そのことをお伝えしてみま
したの、そうしたら、他人の空似などよくあることだし、不吉だの恐ろしい だのと騒ぐのは、愚かだって叱られましたわ」 「なっ、中将君(良子)の御母上って、内侍の修理典侍さまよね」
左京が少し怯んだようになる。
「中将君のいう通りだわ。そもそも不吉だと騒ぐのって、皇太后さまが御匣殿
に呪われてるった言ってるようなものですもの。 それって失礼なことですわよね。小馬さまも小式部殿もそう思われるでしょ」 賢子は勢いに乗って、良子のうしろに従っていた小馬と小式部を巻き込んだ。
(良子の母とは紫式部の夫の藤原宣孝の兄・説孝(ときたか)の妻の源明子)
その首晒すダボハゼの鰓の先 井上一筒
源 朝 任 そこで舌足らずな甘い声で、小式部が言う。
「誰が御所に来ようと、御所から出て行こうと、私には、何の関わりもありま
せんわ。興味もありませんし。もっとも藤袴殿の兄上の朝任さまから、頼ま れたっていうなら、話は別ですけれど」 源朝任は、小式部と親しい貴公子で、大納言時中の息子だから藤袴の兄という
ことになる。 「はあ?朝任さまがどうしてここに出てくるのよ、小式部の頭の中ときたら、
殿方のことしか入ってないわけ? まったく、殿方と付き合いが多い母君
そっくりね」
左京が負けずと反撃する。だが小式部はひるまない。
「あら左京さまこそ、お頭の中に、少しは殿方のことを入れた方がいいんじゃ
ありませんか? 嫌ですわ、いいお年をして背の君(恋人)もいらっしゃら
ないなんて」 「失礼ね、私に恋人がいるかどうかなんて、知りもしないくせに勝手なこと、
言うんじゃないわよ」 「これは失礼を、若い子を追い出そうとなさるなんて、殿方から相手にされ
ない女のひがみかと、勘違いしてしまいましたわ」 「何ですって!」
左京の眉間に青筋が立った。
ジャブの応酬 脳トレ代わりの口喧嘩 安土理恵
「ちょっとおやめなさい」話がそれていくので烏丸が止めた。
「越後弁に中将君、それから小馬、小式部。あなたたち4人は、この藤袴の
肩をもつというわけね」
「その通りですわ!」
すかさず叫んだのは賢子だけであった。
残る3人は曖昧であったり、とぼけたりしている。
「まあ、いいわ。あなたたち、いつまでも母親が守ってくれると思って大きな
顔をしてるんじゃないわよ。私たちにはねもっと大物がついているんだから」
「余計なことを言ってはならぬ」
烏丸がすかさず言い、左京は<しまった>という顔をした。
それ以上、この場にいても、藤袴を追い出す目的は達せれないと判断した烏丸
らは、藤袴の部屋から出て行った。 人間は風を起こしてかき混ぜて 森井克子
『小倉百人一首』大弐三位 (国立国会図書館蔵) 大弐三位・賢子は紫式部の娘で、藤原頼宗の愛人だったと伝わっている。
女流歌人との交流が盛んだったようで、和泉式部の娘で女房三十六歌仙
のひとりである小式部内侍も頼宗の愛人として名前が挙がっている。
「ねえ、藤袴殿。あなた大丈夫なの?」賢子が声をかけた。
「あのね、烏丸さまたちから何かされなかったの?」
「何かって?」
「ひどいことを言われていたではありませんか。
御所から出ていけ、というような-------.」
「ええ、まあ、聞いたことのない口の利き方でしたけれど…。
あとは、ちょっと私の衣の裾を足でお踏みになったくらいですわ。
左京殿は眼があまりよくないのでしょうか。
あれでは、宮仕えなさるのもご苦労でしょう。お気の毒ですわ」
もしや、藤袴は、あのような仕打ちをされても、相手を憎んだり恨んだりする
ことがないのだろうか。その無防備で純真な笑顔を見ていると、賢子は不安を 感じざるを得なかった。 「藤袴殿、困ったことがあったら声をかけてちょうだい。約束よ」
とにかくそれだけ言い残し、賢子はその場を離れた。
「はい。困ったら声をおかけいたしますわ」
いくたびの修羅場を越えた人間味 澤山よう子
藤 原 頼 宗 4人が賢子の部屋に戻ると、女童の雪が慌てふためて飛び込んできた。
「そんなに慌てて 何があったの?」
賢子が尋ねると、雪は「お客様がお見えです」と早口で答えた。
「三位の中将さまでございます」
「今光君がいらっしゃているの?」
賢子より小式部が口をひらいた。
今光君と聞いた途端、良子と小馬がそわそわしはじめた。
賢子は嬉しさ半分、嘆かわしさ半分といった複雑な気分である。
三位中将は「今光君」と呼ばれ、左大臣道長の二男・藤原頼宗のこと。
賢子の初恋の人であり、他の3人にとっても憧れの美男子である。
最近、頼宗は正妻を娶ってしまった今となっては…、遊びの恋とでも
割り切らないかぎり、虚しいことだと分っているが…。
うしろ髪ひかれてひょいと前のめり 小山紀乃
「おや、おそろいでいらっしゃいますね」
朗らかな声がして、賢子の部屋の中から、若く美しい男が顔をみせた。
眩しすぎて、まともに目を合わせていられないような気がする。
妻を娶って頼宗がどんな風に変わってしまったのか、気になったが、
特に目につくような変化は見られなかった。
「久しぶりに御所へ参上なさったと思ったら、越後弁殿のところへいらした
のですか」 小式部が、頼宗を軽く咎めるような目を向けながら尋ねた。
「おやおや、私は公平な男ですよ。もちろん、小式部殿、中将君、小馬殿の
局にもご挨拶に行こうと思っていました」
頼宗はそれぞれの女房の顔をじっと見つめながら、にこやかに応じる。
誰にでもそうすると分かっていながら、頼宗の熱い眼差しで見つめられれば、
恨めしく思うどころか嬉しくなってしまうのが女心であった。
ハンサムじゃないがグサリと刺す笑顔 くんじろう
「でも最初にお寄りになるのが越後弁なのですのね」
ひつこく小馬が皮肉ぽく頼宗に話しかける。
「それは越後弁殿があなた方の中で、御所へ上がった順番がいちばん遅いから
ですよ」 「相変わらず、新しい方がお好みですのね」
この4人の中で最も年上で、最も古い女房になってしまった小馬が、
苦笑まじりに続けた。
「だったら今、頼宗さまが最も興味がおありなのは、藤袴のことになりましてよ」
気取った口調で良子が言った。
「ほう。新しく入った女房のことですな。少しは耳に挟んでおりましたが、
ぜひその方のことを聞かせていただきたいものです」
つづく
知ってます自分の弱さ誰よりも 敏森廣光 |
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