柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺 子規
子規生涯最後の写真
≪一般的によく目にするこの写真は、病気のため、起き上がることができず、
寝たまま撮影したという≫
正岡子規は一体、どんな状況下でこの「柿食えば・・・」の句を生み出したのだろうか。
当時の気象記録や、子規の随筆などの資料から見てみると、
そこには、不思議な符号と、知られざる美少女の面影が浮かんでくる。
松山で共同生活していた夏目金之助(漱石)から、旅費の援助も受けて、
子規が念願していた”大和路への旅”は、明治18年10月19日松山~始まる。
送られて一人行くなり秋の風
旅装姿の子規
広島~須磨を経由して大阪へ、そこから奈良へ向かい10月30日帰京までの道中、
秋風や囲ひもなしに興福寺
般若寺の釣鐘細し秋の風
大和路をあるき、法隆寺まできて茶店に憩い、
柿赤く稲田みのれり塀の内
人もなし駄菓子の上の秋の蠅
と詠んだ。
≪この時、柿食へば・・・の句を詠んだとされるが・・・’実はそうではないようだ’≫
ともし火や鹿鳴くあとの神の杜
鹿聞いて淋しき奈良の宿屋哉
軸足をずらし優しい風を待つ 倉地美和
≪よっぽど一人旅が寂しかったのだろうか・・・宿屋で淡い恋心らしきものが生まれる≫
・・・東大寺南大門近くの旅館・「角貞」、部屋に落ち着くと、
ほんに可愛い女中がやって来て、子規の大好きな富有柿を剥いてくれた・・・。
秋暮るゝ奈良の旅籠や柿の味
その時の様子を子規は、随筆の中で回想している。
『下女は、直径二尺五寸もありそうな大丼鉢に、山の如く柿を盛りて来た。
此女は年は十六七位で、色は雪の如く白くて、目鼻立ちまで申分のない様にできてをる。
生れは何処かと聞くと、月ヶ瀬の者だといふので余は梅の精霊でもあるまいかと思ふた。
やがて柿はむけた。
余は其を食ふてゐると彼女は更に他の柿をむいてゐる。
柿も旨い、場所もいい。
余はうっとりとしてゐるとボーンといふ釣鐘の音がひとつ聞こえた。
彼女は初夜が鳴るといふて、尚柿をむき続けてゐる。
余には、此初夜といふのが非常に珍しく面白かったのである。
あれはどこの鐘かと聞くと、東大寺の大釣鐘が、初夜を打つのであるといふ。
そして女は障子を開けて外を見せた』
長き夜や初夜の鐘つく東大寺
美味しい美味しい柿。
しかも可愛い娘が次々と剥いてくれる。
冴え渡った静けき晩秋の夜に、趣深く鐘の音が響いている。
・・・子規はどんな目で、この娘を眺めたのだろうか?・・・
このとき、‘柿食へば・・・法隆寺’の句がうまれている。
≪「東大寺」ではなく、なぜ「法隆寺」になったのか、なにか秘密にしておきたい事情、
もしくは、子規の純情のあらわれだったのだろうか・・・?≫
・・・子規がこの句を詠んだ明治28年10月26日の天候は、‘雨’だった。
≪10月26日、この日を「柿の日」と制定される≫
時雨が続いて、底冷えがするそんな日に、
病身の子規が、震えながら、柿を齧り付くとも考えられない・・・
いく秋をしぐれかけたり法隆寺
子規庵の縁側に座る子規(第一回蕪村忌が行われた時の写真)
「疑問点」
子規の’柿食へば’よりも早く、愛媛松山の「海南新聞」に掲載された句がある。
鐘撞けば銀杏散るなり建長寺
柿食えばの句に類似しているが、子規の作ではない。
作者は、夏目漱石。
漱石の句は9月6日に、そして子規の句は11月8日に同じ海南新聞に載った。
子規が真似たか・・・・・な!?
≪漱石の俳句は、「子規を囲む会」で生まれたか、
あるいは’子規が選んだ句ではないか’と、NHKは解説する≫
建長寺の句が、子規の頭のどこかにあり、法隆寺の句をつくるとき、
「それが無意識に媒介になった」と考えられるというのだ。
長けれど何の糸瓜とさがりけり 漱石
明治29年の作、この句に、子規は二重丸をつけた。
子規は、「明治29年の俳句界」で、子規門の俳人として、
「漱石は明治28年始めて俳句を作る。
始めて作る時より、既に意匠において句法において特色を見(あら)はせり」
との評する。
いわゆる、「柿食へば・・・」の句は漱石に、指導する意味において、
暗黙の中で建長寺の句を、
自分のものと比較させるように、しむけたのかも知れない。
漱石は子規にとって、友人であり、弟子であり、恩義のある人なのである。
そして、「柿くへば・・」の句は、
≪また療養生活の世話や奈良旅行を工面してくれた漱石の、「鐘撞けば・・・」の句への、
返礼の句ともいわれているが・・・~((((( ~ 〓~)□~((((-_-;) ウツセミノ術≫
行かばわれ筆の花散る処まで
子規と漱石の二人句
ふゆ枯れや鏡にうつる雲の影 子規
半鐘と並んで高き冬木かな 漱石
ありがとうの数だけ友情が芽生く 前田咲二
『正岡子規』 (1867~1902)
日本を代表する俳人。
短歌や随筆、評論なども創作し、日本の近代文学に大きな影響を与えた。
秋山真之の一年年上ながら、小学校から中学、大学予備門まで同学年。
その後、真之は中退して、学費のかからない海軍兵学校へ。
子規も肺結核を発病後、帝国大学文科大学国文科を中退して新聞記者へと、
二人は別々の道を歩むことになった。
33歳の子規
≪病床にあっても俳句・短歌・小説と創作意欲は旺盛だった≫
子規は、寝たきりになってからも、門人の「高浜虚子」や「河東碧梧桐」らが、
口述筆記するなどして、創作活動を続けた。
無宗教で、戒名も、「無用に候」「葬式の広告など無用に候」。
本人が書き残した墓誌には、「月給四十円」と結んでいる。
死ぬときに飾るものなど残さない 森中惠美子
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