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川柳的逍遥 人の世の一家言
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カラスなぜ泣く母と歩いた道ばかり  森中惠美子

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    小谷城背景

落城はもはや時間の問題だった。

浅井長政は、お市と娘たちを、信長に引き渡すことに決めた。

長政は、を呼び、3人の娘を連れて城を出るよう命じた。

「そなたまで命を落とすことはない。信長も、実の妹と娘たちまで殺すことはなかろう」

このあたりは、長政と信長の相談のうえでの判断とも、

長政独自の判断とも言われ、

真相は、よくわかっていない。

≪しかし、いずれにせよ男の子については、命が助かる保証はないので、

 あらかじめ、城を出させていたことは、間違いない≫

落日よ思い出は皆無色なり  武内美佐子

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       市

城を出たお市と三姉妹は、信長に保護され、

信長の弟でお市の兄にあたる織田信包(のぶかね)に、

預けられることになった。

お市が信長の妹だったから、命を助けられたわけであるが、

当時、”離縁したときなど、娘は女親につけられる”という慣習もあり、

三姉妹がお市につけられたのも、その慣習に従ったという解釈もある。

≪しかし、男子はそうはいかない。

 男子の場合、成長すれば「親の仇」といって、敵対する可能性が高く、

 事前にその芽を摘んでしまっておこうという動きになるからだ≫

穏便な処置に異論は許されず  中島久光

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上野城址は現在公園になっている。

信包は信長より9歳年下で、信長の連枝衆(親族の家臣)としては、

信長の長男・信忠、次男・信雄(のぶかつ)につぐ、3番目の地位にあった。

当時の伊勢は、複数の武家が共存しており、

彼らを併合するのに、信長は苦労していた。

北伊勢、神戸家には、三男・信孝を、南伊勢・北畠家には、次男・信雄を、

それぞれ養子にさしだしたものの、それでもなお統合には至らず、

天正四年(1576)には、

信雄に命じて、北畠具教を暗殺、家を乗っ取っている。

そんな中で信包もまた、北伊勢の長野氏の名跡を継いでいた。

ポケットの底たくらみはかび臭い  墨作二郎

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現在も残っている(安濃)津城の堀と石垣

信包は、「伊勢上野城」「安濃津城(あのつ)」を拠点としており、

お市と三姉妹は、そのいずれかで

「本能寺の変」
(1582)までの10年間を過ごした。

信長は浅井・朝倉や足利幕府を倒したとはいえ、

依然周囲を強敵に包囲されており、

「和睦の持ち駒」として、お市たちを嫁がせる」

という選択肢もあった。

しかし実際には、この10年の間、

お市はもちろん、長女・茶々次女・初にも、縁談が持ち込まれたという

記録は残っていない。

「これはなぜか・・・?」

蓋をしておくウワサバナシの因子  山口ろっぱ    

お市は、落城時には27歳。

当時の年齢からすると、まだ再婚が可能であった。

長女・茶々は、6歳。

初はその一つ下。

お江は0歳。

彼女たちが、ここで暮した約10年近い日々と、

この時代の女性の初婚時期が、10代半ばであったことを考えると、

茶々とお初については、

すでにすでに適齢期であったといえるのだが・・・。

下駄のつもりを解っているブーツ  井上一筒

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戦国時代、同盟の人質として女性が差し出されるケースは多い。

歴史は男性が書き残すので、

つい、『か弱い女性が人身御供に』 と想像しがちであるが、

「実のところ、意外と本人の意思が、尊重されていた」

同盟の人質として、差し出した娘が自害でもしたら、

同盟なんぞ吹っ飛んでしまうからだ。

友愛を捻ると無理心中の仲  菱木 誠          

とはいえ、仮に縁談が持ち込まれるとしたら、

彼女たちの血縁の濃さから考えて、

信長の希望(あるいは命令)としか、考えられない。

だとすれば、彼女たちはあの信長さえ、手出しができないほどの、

「強固な意思を持っていた」と言えるだろう。

気が強いともいえるが・・・。

≪いずれにせよ、この時期のお市とお江たち三姉妹は、

 中央の政治から距離をとり、

 まるで世捨て人のごとく、ひっそりと穏やかに暮していたものと思われる≫

ものごころついた頃からほうれん草  山本早苗

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大河ドラマ『お江』-第二回・「父の仇」-あらすじ

落城する小谷城から逃れた市と茶々、初、そして江は、

信長の弟で、市の兄でもある織田信包(小林隆)のもと、

伊勢上野城で暮していた。

一方、天下統一に向け、着々と勢力を拡大する信長(豊川悦司)は、

天正7(1579)年、琵琶湖に程近い近江・安土の地に、

巨大な城・安土城の壮麗な天守を完成させ、

人々にその威風を示していた。

そんなある日、その信長から、

「城を見にこい」 

との誘いを受け、市(鈴木保奈美)江(上野樹里)たち三姉妹は、

安土を訪れる

江は、ずっと会いたいと思っていた伯父との対面が、

楽しみでならない。

深入りしそう女心をかきたてる  山本昌乃

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        茶々                  初

しかし、茶々(宮沢りえ)初(水川あさみ)の表情はさえなかった。

2人は、信長が父・長政の仇だと知っている。

一方、父が亡くなったとき、まだ赤子だった江は、

何も覚えておらず、

その後も、父の死にまつわる事情を知らされずに、育ってきたのだ。

絢爛豪華な城内を案内された後、いよいよ信長と対面した江。

だが、彼女はそのとき、

信長と市が、緊張感あふれるやりとりを交わす様子に驚く。

姉たちに信長は、

「さぞわしを恨んでおろうな」

と声をかける。

「自分の家族と信長との間にいったい何が・・・・」

と何か、江の胸中を横切るものがあった。

後れ毛に揺らぐ心は隠せない  上田 仁

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「ずっと、おわび申し上げとうございました。

 長政様を、ご切腹に至るまで、追いつめしことにございます!」

混乱する江に、

長政を切腹に追い込んだことを詫びる秀吉(岸谷五朗)の言葉が、

突き刺さる。

彼女はそのとき初めて、

父が信長の軍勢に攻められて、自刃したことを知ったのだ。

『余談』

≪さて、今回のドラマの見どころは、9歳時のお江が、登場する。

 9歳の江を演じるのは、ドラマの主役・上野樹里ー24歳。

 なんぼなんでも、9歳は、無理があるのではないか!?

 逆の意味で、楽しみでもあるか≫

桶のない寺の屋根から水たまり  森 廣子

これが9歳の上野樹里ですー。

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オニギリの梅が異変で芽を出した  樋口百合子

拍手[6回]

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栄光の時知っている飾り棚  杉本克子

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   浅井久政

「浅井家戦国大名へ躍進」

浅井三代の初代・浅井亮政(すけまさ)は室町時代後半に、

相次いだ主君・京極氏の、家督争いによる内紛に乗じて勢力を伸ばした。

16世紀前半の頃には、ほぼ湖北を支配下に置き、

亮政の跡を継いだ久政を経て、

孫の長政の時代には、戦国大名へと成長していく。

浅井氏の勢力範囲は、他の戦国大名に比べると、かなり小さい。

しかし、

「北近江という畿内から東海、北陸、さらには東国へ向かう要衝に位置した」 

ため、一躍歴史の表舞台に立つこととなった。

水滴を集め命を飼い慣らす  谷垣郁郎

浅井久政は、亮政と側室・尼子氏の間に生まれ、

天文11年(1542)に、亮政が死去すると家督を相続した。

久政の時代には、六角氏との戦闘が行われていない。

これは、久政が六角氏の旗下に入っていたためで、

六角定頼の花押と久政の花押が、類似していることが象徴的である。
 
さらに久政は、弘治2~3年(1556~57)にかけて、

六角氏が行った伊勢侵攻にも従軍している。

この対、六角融和路線は、久政が軟弱な当主であるとの印象を与えてしまい、

”浅井三代記”などには、無能の当主として描かれた。

男の椅子の座り心地は聞かぬもの  森中惠美子

しかし久政は、この平和な時期に、湖北三郡の領国経営で手腕を発揮している。

領内の水争い(用水争論)などの「調停者」としての役割や、

土豪間の土地争いの調停で活躍した。

内政面で手腕を振るった久政は、決して、暗愚な領主ではなかったのだ。
 
しかし、六角氏の傘下に入るという消極的な姿勢は、

家臣の反発を招いてしまい、

永禄3年(1560)に引退して、子の長政に家督を譲ることになる。

おはようからおやすみまでのコマ送り  兵頭全郎

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     浅井長政
 
浅井家の領土を最大にした長政は、

天文14年(1545)に父・久政と母・井口氏の間に生まれた。

永禄2年(1559)正月に元服して、「賢政」と名乗る。

これは、六角義賢から一字を得たものであり、

六角家家臣・平井定武の娘を妻として迎えている。

しかし、同年4月に平井の娘を離縁して親元へ送還。

翌年の永禄3年8月には、愛知県野良田(滋賀県彦根市)で、

六角氏と合戦に及び、歴史的勝利を挙げた。
 
この前後に久政から家督を譲られ、

永禄4年(1561)5月頃に、浅井賢政は「長政」に改名した。

≪「長」は織田信長の一字で、長政への改名は、長政と信長の妹・お市との婚儀、

すなわち「浅井・織田同盟」の成立による改名と考えられる≫

一本の川の流れに身を添わす  清野玲子

長政の登場によって、浅井氏は、戦国大名への進化を、

加速させていくことになる。
 
戦国大名へと成長していく浅井氏を、支えていた家臣団は、

旧国人領主である上層家臣と、土豪である下層家臣に分かれていた。

上層家臣は、坂氏・赤尾氏・堀氏・安養寺氏・三田村氏などで、

彼らは京極氏家臣としても名が見えるため、国人領主であろう。

この中で、特に赤尾氏は重臣で、赤尾清綱は長政の時代に、

筆頭家老の地位を確保していた。

髭になる組軟骨になった組  井上一筒

磯野氏雨森氏・海北氏などは、浅井氏時代に台頭した村落領主で、

その規模から言っても磯野氏以外は、

一般の下層家臣と、大きな差異が見られないのが現実である。

長政の重臣には、阿閉貞征・遠藤直経・中島直親などが名を連ねる。

彼らは京極氏の家臣ではなく、村落の領主から台頭として、長政に重用された。

浅井氏家家臣団の中では、上層家臣(国人)と下層家臣(土豪)の差は、

あまりなかったと思われる。

欠く義理と欠かない義理の使い分け  小西 明

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長政一家の銅像(長浜市役所浅井支所前に建つ)

≪お市が指を指し、一家が目を向ける先に小谷山がある≫
 
浅井氏に仕えた家臣の多くは、

居住地に築かれた一辺70メートルの堀と、土塁で囲まれた城館に居住し、

村の農民を被官(家臣)として軍事動員していた。
 
さらに信長との小谷城の戦いでは、

重臣たちが、次々に降伏していったが、

土豪出身の下坂一智入道垣見助佐衛門、片桐孫右衛門など、

小谷落城の直前まで篭城戦を戦った家臣たちもいたのである。

長政は、織田信長の妹・お市を妻として、

織田家と同盟関係を結びながら、最期は敢然と信長に立ち向かい、

そして、敗れた悲劇の武将として、

「今も湖北の人々に語り継がれている」

のである。

飾り過ぎたかかさむけが痛み出す  奥山晴生

拍手[4回]

夫の無能力化は着々と進む  井上一筒 

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光射す琵琶湖・近江と竹生島   

「小谷城落城」

全国の山城のなかでも、屈指の名城といわれた小谷城は、

小谷山の頂上から下ってきたところの、稜線に築かれている。

居館はもともと麓の清水谷にあったが、戦乱が激しくなって、

山上に女たちまで住める、

居館まで備えた「小谷城」ができたのである。

近江路を今も見ている伊吹山  武智三成

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右から、御茶屋、御馬屋、桜馬場、大広間、赤尾屋敷、本丸、堀切、

     中丸、京極丸、小丸、山王丸


山上の大手口にあたるところに、番所があり、

そこから少し上がった江戸時代に、「桜馬場」と呼ばれたあたりからは、

湖北一帯を眼下に見下ろすことができ、信長の本陣があった「虎御前山」がすぐ下に、

その向うに琵琶湖が拡がり、「霊所・竹生島」が可愛らしい姿を見せ、

遠く湖西の山々も、見渡すことができる。

そこからさらに上がって行くと、

山上の「御殿の跡」と言われる場所や「本丸」がある。

(天守閣にあたる建物があったかどうかは不明)

思い出のシーンを溜め込んだ枕  河津寅次郎

「小谷城落城」のきっかけになったのは、

清水谷から密かに水手口を上がってきた木下藤吉郎が、

内応する者の手引きで、本丸の背後の「京極丸」を占領したことにある。

この城が、このような攻撃を想定して、

「設計されていない」 
ことを見抜いた藤吉郎が、

奥にあった「小丸」浅井久政と、

本丸の浅井長政との「連絡道」を、遮断してしまったのである。

8月29日、祖父の久政が自刃。

ついで、織田信長自ら本丸を攻撃され、

9月1日長政も、本丸の横にある「赤尾屋敷」で自刃した。

魂だけ残してみんな捨ててゆく  前たもつ

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三姉妹と、お市がどうやって脱出したのか、

茶々5歳、は4歳、お江は生れたばかりだった。

先に長政の姉が、住職をつとめる実幸院という尼寺に、

匿われていたという説もあり、

藤掛永勝という、織田家から、お市の方の嫁入りについてきた者が、

先導したともいう。

前もって、逃がされていた兄の万福丸は、わずか10歳の若さで、

関が原で信長の命令を受けた藤吉郎によって、磔にされ、

又残酷にも、長政の母(井口阿古)は、

関が原で指を1本ずつ切り落とされ、刑死させられた。

こうして小谷城は落城し、浅井家は滅亡する。

井戸水が涸れて幽霊干からびる  小谷竜一

三姉妹は、信長弟の津城主・織田信包(のぶかね)方の世話になることになる。

信長としても、妹のお市の方と、顔を合わせるのは気まずいので、

そのように手配したのだろう。

小谷城はとりあえず、木下藤吉郎あらため、羽柴秀吉のものになるが、

まもなく秀吉は、すぐに長浜に新城を築いて移り、

5年後には、「破城」が命じられ、

石垣なども、すぐには補修して使えないように崩されてしまった。

知らぬ間にずれてしまった砂の城  田原喜久美

小谷城落城天正元年(1573)9月から、

「本能寺の変」の天正10年(1582)6月2日までの、おおよそ10年間、

お市と三姉妹が、どこで過ごしていたのかについては、確かな記録は残されていない。

≪信包の居城である伊勢上野城にずっといた、清洲、岐阜、安土のどこかに移った。

 などの説があるが、あくまでも推測である≫

古里を聞かれ流浪の民と言う  奥田みつ子

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大河ドラマ『お江』-第一回・「湖国の姫」-あらすじ

力ある者たちが、領土拡大や天下取りのため、

血で血を洗う戦を繰り広げた戦国時代。

尾張の風雲児・織田信長(豊川悦司)は、

近江の戦国大名、浅井(あざい)長政(時任三郎)に、

妹の市(鈴木保奈美)を嫁がせて同盟を締結。

京への道を開き、天下統一への動きを加速した。

しかし、野望を隠さない信長に、各勢力が反発。

長政も、大恩ある越前の朝倉氏が信長の攻撃を受けるに至って、

義兄に背くことを決断する。

けじめつけ無くした物の多かりし  籠島恵子

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それは、市にとって身を裂かれるような事態だった。

織田家に命を捧げる覚悟で浅井家に嫁いだ彼女だったが、

長政の妻として、茶々(芦田愛菜)、初(奥田いろは)という、

愛らしい姫たちと生きる日々が、その心を変えてしまっていたのだ。

市の苦悩をよそに、織田と浅井は全面戦争に突入。

居城・小谷城にこもる長政は、徐々に追い詰められ、

誰の目にも落城は間近と思われた。

そんな中、市は自分の体の異変に気づく。

子を身ごもったのだ。

薄靄にこんな所で囲まれる  森 廣子

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城が落ちれば自分は死ぬ身。

どうせ助からないならばと、

彼女は毒を飲んでその子を堕ろそうと決意するが・・・・。

母・市が身ごもった子を堕ろそうとしていると知り、茶々は身をていして、

それを止めようとする。

有情無情かなしい腕が二本ある  森中惠美子

拍手[7回]

おみくじに女は思い当たること  森中惠美子

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大河ドラマ「お江」に揃う美女五人衆

「まず、クイズです。 次の華麗なる親族を持つ女性は誰?」

叔父は、織田信長。

義兄は、豊臣秀吉。

義父は、徳川家康。

主人は、二代将軍・徳川秀忠

息子は、三代将軍・徳川家光。

孫娘は、初代女帝・明正天皇。

二回目夫・秀勝との娘・完子(さだこ)の系譜から、今上天皇へと辿り着く。

嘘っぽい家系図イカの墨で書く  井上一筒        

1573年(天正元年)生まれ、

父は、浅井長政。

母は、お市。

姉に、茶々お初

戦国時代最も有名な三姉妹の「三女・お江」である。

幼名を「お督」といい、

近江の江州の「江」、または江戸の「江」から、住居名を「お江」となる。

北近江の戦国大名、浅井氏は織田信長に敗れ、

浅井久政・長政父子の首は、信長により、

漆塗りにされた上に、金箔をほどこされて、

無残にも,正月の酒宴で、家臣らに披露された。

ここに浅井氏は滅びた。

しかし、それは、男の系図であって、

「女系図から見れば、その浅井氏は戦国史上、最大の勝者となったのである」
 
信長の妹お市の方は、

長政の妻となって2男(万福丸作庵)3女を産んだ。

才色兼備神は美人に甘すぎる  前原正美 

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     浅井三姉妹             

落城後に処刑されるなどとした兄弟に対し、

「三姉妹」は、母お市の薫陶を受けて立派に成人し、

大きく血脈の翼を広げた。

長女茶々は、両親を死に追いやった秀吉の側近にさせられるが、

秀頼の生母として、天下人秀吉の有した権力を共有し、

秀吉の死後、豊臣家を必死に守った。

一方、二女お初は、養父となった秀吉によって、京極家に嫁ぐ。
 
そして、変転の人生を身をもって体験した三女お江のもと、

華麗な系譜が誕生した。

三姉妹で恋人取るか取られるか  立蔵信子

お江は、秀吉に人生を翻弄され、3度嫁がされた。

2度目の羽柴秀勝との結婚では、夫が朝鮮に出兵して病没したが、

忘れ形見として、完子を授かった。

そのお江を、「戦国のシンデレラ」にしたのは、皮肉にも秀吉だった。

跡継ぎ秀頼のために、徳川の後ろ盾が欲しく、家康の息子秀忠に嫁ぐ。

だが、関ヶ原合戦で家康が覇権を握って、

お江は、徳川家のファーストレディーに変身する。

しかも、母のお市と同様、

お江も織田家の血を引いて多産系で、2男5女を産んだ。

朝顔は系統好きをもて弄ぶ  岩根彰子

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長女・千姫は豊臣家に嫁ぎ、悲劇を潜り抜けて本多忠刻と再婚し、

生まれた娘・勝姫池田光政の妻となり、備前岡山藩を揺ぎないものにした。

二女・珠姫前田利常に嫁ぎ、加賀百万石を不動のものにした。
 
だが何といっても、お江は徳川の「初代御台所」となり、

世継ぎ家光を産み、将軍家を安泰に導いた。

しかも、末娘・和子後水尾天皇の中宮(皇后)になり、

その娘が”明正天皇”となった。

落日にふとバンザイをしてしまう  嶋澤喜八郎          

さらに、先に羽柴秀勝との間に生まれた完子は、

公家の九条家に輿入れし、

夫・忠栄も、また生まれた息子・道房も、ともに関白となった。
 
お江は自ら武家の女として、最高位の御台所となり、

娘・和子は中宮として天皇家の頂点にのぼり、孫娘は女帝となる。

またもう一人の娘完子は関白夫人として、公家女性の最高位にのぼり、

息子・家光は3代将軍。

「こんな華麗な家系譜を持った女性は日本史上、お江しかいない」

滅びたはずの浅井氏は、

比類まれな女系譜を描き、

「見事な復活を遂げた」といえるのである。 

ゆったりと川の流れに沿い生きる  田中洋子

拍手[8回]

一生に一度の今日へ何遺そう  前田伍健

「天皇の起源は神話にある」ー天皇の正月

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祭祀が執り行われる皇居内の宮中三殿

皇居御所がある吹上御苑の森の東南に、『宮中三殿』と称される「三つの祭殿」がある。

それぞれの回廊で結ばれ、

真ん中の一番高くひと回り大きいのが、天照大神を祭る「賢所」。

左側が歴代天皇・皇后・皇族の御霊を祭る「皇霊殿」。

右側が百万(やおよろず)の神々を祭る「神殿」である。

この聖域の中心にある賢所のご神体は、『三種の神器』のひとつ、

「八咫鏡(やたのかがみ)」である。

≪三種の神器とは、八咫鏡草薙剣、八尺瓊曲玉(やさかにのまがたま)をいう)≫

中でも、天皇の祖先である“天照大神の魂”を宿した鏡が、

別格に重要なものとされ、

剣と玉が、天皇のお住まいである御所の寝室の隣の、

「剣壐の間」けんじのま)にあるのに対し、

「鏡」は、「賢所」の奥深くに安置され、滅多に動かされない。

≪皇居の神器のうち、鏡と剣は「分身」、「八咫鏡」の本体は、伊勢神宮に、

「草薙剣」の本体は、熱田神宮にある≫

[分身]=レプリカとか複製と説明されることが多いが、「模造品」ということではない。

 神道における「分祀」が、ろうそくの火を分けるように、

神様の分身を増やすのと同様、[分身]も本体に準ずる神器なのである。

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左から、皇霊殿・賢所・神殿

スサノオノミコトの乱暴狼藉に恐れをなした天照大神は、

「天の岩戸」に引きこもり、世界は闇に包まれてしまった。

そこで神々は、一計を案じ、「鏡」「曲玉」を作って、

天の香具山から掘り起こしてきた榊に掛け、祝詞を唱えて祝福した。

そして、アメノウズメノミコトが神がかりして踊ると、高天原が鳴りとどろくばかりに、

八百万(やおよろず)神々が、どっと一斉に笑った。

天照大神は、それを不思議に思われて、

「私がここにこもって、すべて暗闇となっているのに、

どういうわけでアメノウズメは舞楽をし、神々はみな笑っているのか?」

「あなた様にもまさる貴い神が、おいでになりますので、喜び笑っております」

そういう間に、鏡を差し出し天照大神にお見せすると・・・

天照大神は、ますます不思議に思って、鏡の中を覗こうとする。

その瞬間、戸のそばに隠れていたアメノタジカラオが、天照大神の手をとって、

外に引き出し、フトダマノミコトが注連縄を張った。

こうして太陽が戻り世界は明るくなった。

一方、高天原を追放されたスサノオノミコトは、出雲の国に降り、

クシナダヒメを救うために、「ヤマタノオロチ」の退治を引き受ける。

酒に酔いつぶれたヤマタノオロチを、スサノオはズタズタに切る。

そして、オロチの中ほどの尾を切ったときに、剣の刃がこぼれた。

不審に思って尾を裂いてみると、すばらしい「剣」が出てきた。

スサノオノミコトは、この剣を天照大神に献上した。

この神話に登場する「神鏡」・「曲玉」・「宝剣」『三種の神器』である。

その後、天照大神の孫である二ニギノミコトが、高天原から地上に降臨する際、

「この鏡は私の御霊として私を拝むのと同じように、敬ってお祭りしなさい」

天照大神は、そう言って剣、玉とともに授けた。

太陽が日本へ出ると拝まれる  岸本水府

二ニギノミコトのひ孫が、初代・神武天皇であり、

「三種の神器」は以降、代々の天皇が受け継ぎ、

現在も鏡は伊勢に、剣は熱田に、玉は皇居にある。

≪宮中の「神器」は記録によれば、

 平安時代以来、何度も火災に遭って、原形を留めていないと言われているが、

 実際にどういう形状になっているかは、誰も知らない≫

聖なるものは、世俗の者の目に触れてはならない。

触れた途端に、聖は俗に堕ちてしまう。

宮中三殿を内掌典が厳しく、「清」・「次」を分けて守っているように、

俗との交わりに厳しく、制限をかけた『聖域』を作ることによって、

神聖さは保たれる。

「豆辞典」

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   昭和天皇の新嘗祭

皇室祭祀は、天皇自らが「祭祀」を行う『大祭』と、

男性神職の掌天長(しょうてんちょう)が、祭祀を行い、

天皇が拝礼する『小祭』に大別される。

≪一年で最も重要な大祭は、「新嘗祭」にいなめさい)(11月23日)で、

 これは、「神嘉殿」という専用の祭殿で行われる≫

天皇陛下は大祭・小祭合わせて、年間30回前後の祭祀にお出ましになる。

天皇は、「国民の安寧をい祈る祭祀王」だから、

欧州でいえば、王室よりもローマ法王に近い。

そもそも、「神話に起源を持つ祭主がいる国」というのが珍しい。

天皇は国民と、対立関係にないから日本では、革命が起らないのである。

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「新年参賀」

ボーイスカウトの子供たちから、日の丸の小旗を受け取り、

手荷物検査とボディチェックを受けた後、

島倉千代子の歌で知られた“ここがここが二重橋・・・”の二重橋を渡る。

≪本当は、我々が外から目にする、この橋は二重橋ではないらしい≫

皇居正門をくぐるともう一つの橋があり、じつはこれが「本当の二重橋」なのだ。

手入れされた木々を眺め、

いよいよ皇居の清浄な空気に触れつつ、

「長和殿」の前の東庭に向かって進んでいく。

そこにはすでに、すごい人々がひしめき合っている。

≪もともと、この一般参賀は、国民のほうが何も期待せずに始めたものであり、

 昭和天皇が厚意で、お出ましになったのである≫

(それが今では例年一日7回にも及ぶ 但し天皇の体調により減らす事もある)

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      正 門

国民が、皇居の中に入れるようになったのは、

昭和20年の「皇居勤労奉仕」に起源がある。

GHQの占領が始まったこの年に、空襲で草が生い茂った皇居の、

「草刈をさせてほしい」

と宮内省に申し出た国民がいた。

62名の男女が自主的に上京してきて4日間奉仕したのが、

「皇居勤労奉仕」の最初である。

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     長 和 殿


いよいよ、長和殿のバルコニーの後ろの襖が開き、皇族の方々がお出ましになる。

皇后・妃殿下・女王のドレスの色彩の明るさ、華やかさ、品のよさが目に心地よい。

天皇皇后両陛下共に、体調が万全でないことが、

ニュースで伝わっていたので心配だったが、

いつものように、あの慈愛に満ちた笑顔で、手を振っておられる。

「万歳!万歳!」・・・

それは天皇が万年までも永く栄えることを願う言葉。

自分のためにする格好ではない。

≪注) 万歳は手のひらを前に向けて挙げてはならない。

降参になってしまうからだ、両の手を向き合うように挙げねばならない。

一般参賀は10分くらいで終了して、ぞろぞろと混雑した道を歩いていく≫

「ある意味一番縁起のいい新年を迎えられた」

と、ほとんどの人は満足気な表情・顔で帰途につく。

ことしはいいぞ大盃をぐっとほす  岸本水府

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