川柳的逍遥 人の世の一家言
「この人はいったい誰?」 「坂の上の雲」の出演者がみな、ほかのドラマなら主演を張るような名優が、 顔を揃えるなかで、軍神・広瀬武夫役だけが新顔。 それでも、その演技力と存在感は圧倒的で、 藤本隆宏さん、40歳である。 ソウル五輪、バルセロナ五輪の水泳・200m・400m個人メドレーで活躍した顔である。 和尚さん和服で会うと只の人 秋貞敏子 お茶を飲む手は、細く長い指ながら、その指を広げると短く見える。 見事な水かきが、びっしり張っているからだ。 水かきは、水中運動への適応のために、後天的に発達した主体作用とされ、 その手が持ち主がいかに、『努力の人』であるかを物語っている。 雑学も無駄ではないと信じてる 吉岡 民 この努力の人が、第9話・『広瀬死す』で壮絶に最後の演技を披露してくれる。 この旅順港閉塞作戦の場面は、マルタ島で撮影され、 実際の爆弾や濁流と格闘しながら、闇夜の中で10日間つづいたという。 撮影が終ると、若手俳優全員から、Tシャツと花束を貰った。 Tシャツにはこう書かれていた。 「隊長 ありがとうございました」 藤本には、この上ない嬉しいサプライズだった。 藤本の彼らに対する何気ない気配りが、脇役陣にそんな行動をとらせたのだ。 「彼らの気持ちが痛いほど分かっていましたから・・・、 マルタにまで来て、命からがらの演技をしたのに、セリフがほとんどない。 『自分も同じ立場の出身者なんだ』 ということを分かって欲しかったし、 大きな役をいただいても、『みんなのお陰で自分が生かされている』 という 感謝の気持ちを忘れたくなかった」 ≪それにしても、秋山兄弟や正岡子規を始め、広瀬武夫、東郷平八郎など、 探せばきりがないが、明治の男たちのなんと魅力的なことか。 建国という熱いエネルギーがあったにしろ、祖父や曽祖父が暮らした身近な時代が、 あまりにも遠く感じられる・・・と藤本は思う≫ うしろの正面仲間がいてくれる 山本希久子 明治という時代に、どっぷりつかった藤本は言う。 「自分は日本人でよかった、とつくづく思いました。 こういう祖先にもって誇りに思います。 純粋で、他人のために自己犠牲もいとわない。理想の人たちです」 選手時代に日本を背負ったメンタリティーに通じるものを、藤本は感じたのだろう。 広瀬武夫 1868年(慶応4)、豊後(大分県)の岡藩士の次男として生れる。 西南戦争で自宅を焼かれ、飛騨高山を経て、明治18年に海軍兵学校へ入学。 日清戦争後にロシアへ留学。 海軍将官のアリアズナと恋仲になった。 帰国後、戦艦・「朝日」の水雷長として日露戦争に出征し、 旅順閉塞作戦の主導的役割を担う。 第二次・閉塞作戦で、 離船の瞬間、敵弾により爆死する。 1904年(明治37)3月27日、享年36歳であった。 港町かなしい匂いのするところ 宇治田志津子 広瀬は少佐だったが、戦死後中佐に昇進し、海軍で初めての「軍神」となった。 竹を割ったような気性で柔道の達人、男らしく豪胆だが、心優しく部下思い。 まさに理想的な日本男児の典型であり、国民的英雄だった。 ≪真説―広瀬は砲弾に撃たれたのではなく、戦艦レトヴィザンから放たれた、 複数の内火艇による一斉射撃で戦死した・・・≫ こんにゃくも持てなくなったヘラクレス 井上一筒
腹決める酒だ心がほろ苦い 碓氷祥昭
「司馬遼太郎氏が語る日露戦争の成り行き」 『満州に居すわったロシアは、北部朝鮮にまで手をのばしている。 当然ながら日本の国家的利害と衝突する。 ・・・・・〈中略〉・・・・・ 日本は、朝鮮半島を防衛上のクッションとして、考えているだけではなく、 李王朝の朝鮮国を、できれば市場にしたいとおもっていた。 他の列強が、中国をそれにしたように、日本は朝鮮をそのようにしようとした。 笑止なことに、維新後30余年では、まだまだ工業力は幼稚の段階であり、 売りつけるべき商品もないにひとしいというのに、 やり方だけはヨーロッパのまねを、つまり、手習いを朝鮮においてしようとした。 そのまねをしてゆけば、やがては強国になるだろうと考えていた。 自然、19世紀末、20世紀初頭の文明段階のなかでは、 朝鮮は、日本の生命線ということになるのである』―「司馬遼太郎氏-坂の上の雲」 半分に聞いてもでかい夢を吐く 嶋澤喜八郎 「なぜ日露戦争は避けられなかったのか・・・?」 ロシアは、満州の独占的支配をはかろうとして、清に対し、 「ロシアの合意なしに、満州の港や市を、外国に開放しないこと」 「ロシアが占領中に獲得した満州の権利は、撤兵後も有効とすること」 など、7ヵ条の要求を突きつけている。 当然、清はロシアのこの要求を拒否したが、 朝鮮から、さらに満州へと進出することをねらっていた 「日本の政府の考え方」 と、 衝突するのは、ごく自然の成り行きであった。 ただ、日清戦争以来、急速に海軍の増強をはかってきた軍部も、 ロシアと戦争に踏み切るだけの自信はなく、 軍事力が増強されるまでは、交渉によって、 何とかロシアの満州・朝鮮への進出を、くいとめようと考えた。 たとえば、明治36年(1903)8月、駐露公使・栗野慎一郎は、 「日本は韓国に、ロシアは満州の鉄道経営に、それぞれ特殊利益をもち、 これを保護するための出兵権を、お互いに認めること」 「ロシアは、日本が朝鮮の鉄道を、延長させて満州の鉄道につなげるのを、妨げないこと」 「ロシアは、日本が朝鮮政府に対し、援助と助言の専権をもつことを、認めること」 などの内容を含む6か条の この日本提案に対するロシア側の回答は、 「北緯39度以北を、中立地帯とすること」 などを要求するものであり、結局、この「日露協商」は決裂してしまった。 「朝鮮を思うままに、支配下に置こう」 と考えていた日本政府の思案は、はずれる結果となり、 あとは、「大人しく引き下がるか」「ロシアと一戦まじえるか」、 の2つに1つの選択となったのである。 その後、政府は日露開戦の道を選ぶわけであるが、 決断の一番大きな要因というか背景は、 さきに締結していた「日英同盟」であった。 九条も腹をくくって鐘を聴く 井上一筒 ところで、日露開戦に至る経過の中で、一番気になることは、 政府がこうしたロシアとの交渉を、 「国民に秘密にして進めていた」 「交渉しても、はじめから日本の要求通りの答えは、得られないだろう」 と判断していたことも理由の1つだろうが、 日英同盟を結んでる以上、 「ロシアとの交渉は、公にせず進める」 そして結果、これが、ロシアとの開戦をあおる動きにつながった。 ロシアが、北清事変で出兵させた兵を明治36年4月に、 「第2次撤兵の期限がきても、撤兵させていない」 という状況が、新聞によって公表される。 すると、それを知った国民は、 ロシアへの不信感を抱くようになり、あげくの果ては、 「満州からロシアを追い出せ」 日本とロシアの軍事力を、冷静に比較してみる前に、 しかも、ここで注目しなければならないのは、 そうした国民の大合唱が、 むしろ、マスコミによって形成された側面があることだ。 明治36年に結成された対・露同志会や、戸水寛人ら、 東京帝国大学の7人の教授たちが、意見書を出し、 主戦論を唱えたことを新聞が大々的に報じ、 国民の意識を、開戦の方向にもっていく作用を果たした点は重要だ。 手のひらをそっと返してまわしもの 内藤光枝 当時の新聞をみると、社説の中で、 ”ロシアと戦うべし”との論調で、読者をあおったものもあり、 一般の記事でも、開戦を要求するグループの集会の模様を、 そうした動きの中で、はじめ非戦論を唱えていた”萬朝報”ですら、 ついには開戦を主張するようになり、 マスコミは一斉に、熱狂的な論調でロシアに対する敵愾心を、あおったのである。 新聞だけではなく、雑誌も主戦論を展開していき、 戦争反対を唱えるのは「国賊的扱い」をうける状況が、 つくりあげられていった。 鬼退治本当の鬼は桃太郎 山田こいし 「『坂の上の雲』・第8回 「日露開戦」 あらすじ」 外国勤務を解かれ、イギリスから帰国した真之(本木雅弘)は、 帰国後、胃腸を病んで入院している間に、資料を取り寄せ、 瀬戸内水軍(海賊)の戦法を学んだのち、 清国から戻り騎兵第一旅団長となっていた好古(阿部寛)は、 すぐに、シベリアのニコリスクで行われるロシア陸軍の、 ロシア騎兵将校と酒を酌み交わし、演習を見学。 その実力のほどをしかと確かめ、ハバロフスク、旅順経由で帰国する。 それは世界一と自負する陸軍を見せることで、ロシアに対する戦意をくじこうとする ロシアの目論みだった。 日露開戦が避けられないことを理解している児玉源太郎(高橋英樹)は、 対露戦研究の権威であった陸軍の参謀本部次長・田村怡与造が急死すると、 異例の降格ともいえる人事を、自ら望んで後任についた。 そして、休職中の乃木希典(柄本明)を陸軍に復帰させる。 一方、海軍大臣の山本権兵衛(石坂浩二)は、 艦上勤務を離れ舞鶴にいた東郷平八郎(渡哲也)を、連合艦隊司令長官に任命。 宮内省御用掛・稲生真履の三女・季子(すえこ)(石原さとみ)と結婚した真之は、 ふたたび常備艦隊参謀となり、東郷平八郎と会い、 その人物に惚れて帰ってくる。 真之は、東郷から作戦参謀を任命され、 宮中では、行き詰まりを見せる対露交渉についての、議論が交わされていた。 日本政府は、外交交渉による前途に絶望して、 そのつど明治天皇(尾上菊之助)は許さなかった。 「秋山真之と東郷平八郎」 秋山が季子と結婚したその年、 才気煥発な秋山に、人事局員が伝えた。 「近く常備艦隊の作戦参謀に抜擢されるから、長官の私宅を訪ねて、 その夜東郷は、夜更けまで待っていたが、秋山は姿をみせなかった。 発令はデマとみて、すっぽかしたのだ。 たいへんな非礼を犯したことになる。 翌日、秋山は海軍省の一室で東郷と対面した。 「私が秋山少佐です」 と名乗っただけで、昨夜の非礼を詫びようとしなかった。 「このたびのこと、あなたの力に待つこと大である」 それっきり東郷は、一言も発しなかった。 おそろしく無口な老提督から、秋山は人徳のようなものを感じたが、 将としての器とは、別のものだ。 「日本海軍に自分より勝れた作戦参謀はいない」 という自信があるから、 秋山には誰が長官かということは、さほど問題ではなかった。 顎すこしあげておとこを見きわめる たむらあきこ ”才気走った生意気な若僧”ということにもなろうが、 東郷は一向に気にしなかった。 要は天才的な頭脳から、奔放自在な作戦を引き出すことだ。 ”小男で外見の貧相”な東郷が、常備艦隊の長官に据えられたとき、 秋山も部内の下馬評に同調して、東郷を一介の凡将と見た。 裏返ししたい上司がいるのです 山本憲太郎 しかし、秋山の東郷観は次第に修正されて行く。 東郷が初めて、秋山に待ったをかけたのは、旅順港の”閉塞作戦”である。 陸上砲台の射程距離内を突進して、湾口に接近し、 汽船数隻を沈めて、ロシア艦隊を封じ込めるというものだ。 秋山は、米国留学中に米西戦争を体験した。 ハバナ軍港にスペイン艦隊を閉じ込めた、アメリカ艦隊の”封鎖作戦”を、 詳さに観戦しているから、いわばその道の権威である。 東郷が注文をつけたのは、 「文字通りの決死隊にならぬように、閉塞隊員の生還に万全を期せ」 ということだった。 これこそ、作戦すべての核心に触れるものだ。 凡将の口から発せられることではない。 秋山は東郷への見方を改めた。 不器用にアンモナイトの回復期 岩田多佳子 「日露戦争ー短期決戦しかない」 いよいよ時局は、”日露開戦”に向かっていく。 内務大臣・文部大臣を兼任している児玉源太郎は参謀次長となり、 戦費調達交渉のため、財界の大御所・渋沢栄一に会い、協力を取りつける。 政府は、最終段階として対ロシア交渉に入っていたが、 ロシアの態度は強硬にして倣満だった。 政府は、ロシアと戦争をすることに恐怖を抱いていた。 政府の財政状況も緊迫していたが、世間は、 人払いして長ネギ茹であがる 井上一筒 明治37年2月4日の御前会議において、 ついに”日露開戦”は決定されることになる。 明治37年2月6日、日本はロシアに国交断絶を通告した。 ロシアの宣戦布告は、9日、日本の宣戦布告は10日だが、 戦争はすでに始まっていた。 国交断絶前日の2月5日、 連合艦隊司令長官・東郷平八郎は、指揮官らに大命が下った旨伝達し、 海軍大臣・山本権兵衛から下された「連合艦隊命令第一号」を伝えた。 連合艦隊参謀長・島村速雄は、真之にひそかに言っていた。 「すべて君に一任する」 と。 2月6日午前9時、連合艦隊は佐世保を出航。 海軍に課せられた任務は、旅順艦隊を撃って、制海権を握り、 朝鮮の仁川港に、陸軍部隊を揚げることにあった。 秋山真之参謀は、「三笠」の艦橋にいた。 その任務は、ロシアの旅順艦隊を撃破して、 「制海権を手に入れる」 「朝鮮仁川港に陸軍を陸揚げする」 ことであった。 一等巡洋艦の浅間を中心とした瓜生戦隊(瓜生外吉司令官)は、 主力が出た2時間後に抜錨し、仁川に向かったのであるが、 その途中で、仁川港から脱出してきた三等巡洋艦・「千代田」に出会う。 死ぬ暇のないほど今が忙しい 井上恵津子 その報告では、 「二等巡洋艦ワリャーグと砲艦コレーツが、仁川港に停泊している」 とのことで、早速、仁川港に赴いてロシア艦に出航を迫り、 港外に出たところで戦闘を開始した。 この時に浅間から発砲された8インチ砲弾が、 ”日露戦争の海戦における第1発目” ≪結果は、ワリャーグは大破、コレーツは無傷であったが、 海が泡だつ人間はいくさ好き 森中惠美子
生きたいと願うきれいな土ふまず 森中惠美子
高浜虚子句(下村為山画) 子規逝くや十七日の月明に 高浜虚子 子規は高浜虚子を、後継者と考えていた。 文学を志すといいながら、高校への入退学を繰り返し、 同級生の河東碧梧桐とつるんで、遊び暮している虚子に、 苛立ちを覚えながら、愛情をもって接している。 後継の話を持ち出したのは、 子規の脊椎カリエスが発見されて、直後のことだった。 芋阪の団子の起り尋ねけり(明治31年) 文政2年(1819)創業の老舗の団子屋の団子・餡と焼き ≪子規や漱石のはか、田山花袋、岡倉天心、泉鏡花らも愛好した≫ 子規は、道灌山にある茶店で駄菓子を勧めながら、 「学問をして自分の跡を継げ」 「好意に背くことは忍びんことであるけれども、自分の性行を曲げることは、 私(あし)には出来ない」 と言うものだった。 虚子は飄然としていながら、妙に我の強いところがある。 こうして後継の話は立ち消えになったが、子規の愛情は変わらなかった。 漱石が来て虚子が来て大三十日(おおみそか)(明治28年) ≪だが少し後に、柳原極堂が松山で発行していた俳諧誌『ホトトギス』を、 東京で引き取ることになり、編集責任者となった虚子は、 「子規をしのぶ」 伊予松山という佐幕の小藩出身者では、子規や真之のような才幹であっても、 中央で驥足(きそく)を展ばせないのは、目に見えていた。 しかし、歴史とは大きな偶然でもある。 子規と真之の偉いのは、思わぬ偶然から、文学と海軍の世界に進む道が、 分かれながら、ひたすら、「近代日本のために、何事かをなさん」 とする、健気な青春をてらいなく過ごした点にある。 初日さす硯の海に波もなし(明治26年) 子規は西洋嫌いの祖父の命令で、まげ姿で小学校に通っていた。(明治7年) 上京して2年後、初めて帰郷した際に母と記念写真。(明治18年) 19歳、第一中学校予科(東京大学予備門)の制服姿。(明治20年) 茶の花や利休の像を床の上(明治20年) ≪旧松山藩の子弟のために、旧藩主の久松家が建てた寮≫ 『常磐会寄宿舎2号室(子規の部屋)は、坂の上にありて、 家々の梅園を見下ろし、いと好(よ)きながめなり』 坂の上の雲ー(1) (ここは、元・坪内逍遥の家で、坂の下には、樋口一葉が住んでいた) 大学時代の子規は、俳句や短歌のほか、ベースボールにも熱中した。(明治22年) 鴬や東よりくる庵の春(明治25年) 幸せは今日も同じ顔に会う 野村増二 常磐会宿舎に4年間暮した後、根岸に移る。 名月や我は根岸の四畳半(明治26年) 俳句や短歌の革新を志した子規は、 激痛を伴う重病にかかりながら、 「もっともっと日本の夜明けのために、国民の啓発のために働きたい」 のに体が許さず、切ない思いに泣く子規。 子規は、海軍の若きエリートとして、 (しかし同時に友人の幸運を素直に祝福もしている) いくさかな我もいでたつ花に剣(明治28年) 子 規 堂 子規が17歳まで暮した住居を、正宗寺住職の仏海禅師が境内に復元した。 子供時代の子規の三畳の書斎や、子規が使用の机・遺墨・遺品・原稿など展示。 ≪入館料50円・・・とは、うれしい≫ 脊椎カリエスのために伸ばせない左膝を入れるために、机は特注している。 床の間には晩年の子規を描いた自画像を展示している。 樽柿を握るところを写生かな(明治35年) 「子規と漱石」 日露戦争を描く『坂の上の雲」の登場人物に、 司馬遼太郎は、なぜ漱石でなく、子規を選んだのでしょう。 本来ならば、漱石こそが適役のはず。 なにしろ子規は、日露戦争の前に死んでしまうのですから。 実際、ロンドン留学中の漱石は、1902年の”日英同盟締結”を現地で知り。 ヴィクトリア女王の葬儀と、 月のかけらも皿のかけらも物議あり 荒井慶子 漱石は、「坂の上の雲」のなかでは、表立った存在感を示していない。 子規の友人として、間接的に物語に登場し、文学を志しながら、 軍人への道に転じた真之との対比で語られるだけだ。 20世紀的国際情勢をロンドンで肌身にしみて感じとり、 日本の立場を思いやったのは、漱石なのである・・・が。 ≪ロンドンにて子規の訃を聞き、虚子よりの要求で書いた追悼句≫ ドラマ性も、ニュース性も、併せ持った漱石が、 三人目の登場人物としていれば、 また違ったロマンのある物語が生れたのではないかと思うのである。 ≪小説のなかの子規は、何度も真之に漱石を紹介しようとするが、 不思議なことに間が悪く、この二人は最後まで邂逅することはない≫ 母・八重(右)と妹・律(左) ≪子規の死後、叔父・加藤拓川の息子・忠三郎を養子にして家を継がす≫ いもうと律は、どれだけ子規の支えだったか。 ”坂の上の雲”NHKのドラマでも、律の健気に泣かされる。 母と二人いもうとを待つ夜寒かな(明治34年) いもうとの帰り遅さよ五日月(明治34年) 覚悟してこっそり落ちた寒椿 早泉早人 「子 規 庵」 (空襲で焼失ー昭和25年再建) 子規が亡くなるまで、10年間住んだ旧前田候下屋敷の長屋。 ≪愛用の机は、伸ばせなくなった左足を入れるため、一部がくりぬかれている。 庭の土蔵には硯や筆、衣服などの遺品が保存され、 また、有名な糸瓜も、毎年植えられている≫ 東京予備門に通っていた子規は、常磐会宿舎で、 根岸に引っ越して来た子規は、『日本』の記者として”日清戦争従軍を希望”していた。 だが、陸羯南に反対されたため、与謝蕪村の再評価に熱中。 従軍記者に欠員が出たこともあり、根負けした羯南は、 子規に清国行きを許可する。 期待などしてませんのでご自由に 井上一筒 しかし、「子規の従軍は、結局こどものあそびのようなもの」に終った。 従軍からの帰路、甲板で大喀血し神戸で入院。 須磨で、転地療養したのち帰郷し、 松山中学校の英語教師として、 その家を、日清戦争から凱旋した真之が見舞う。 子規の病状は悪化するばかりで、ついにカリエスを発症。 ≪このころ、『柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺』を詠む≫ 世の中は、ロシアを中心とする三国干渉に遭い、 近い将来、戦争になるだろうという風潮の中。 秋山好古は、佐久間家の娘・多美と結婚後、陸軍乗馬学校校長に就任。 秋山真之は、日清戦争後、大尉に昇進、海軍軍司令部・諜報課に配属となり、 同課にいる広瀬武夫と邂逅し、同居する。 その後、海外派遣士官となった真之は、アメリカに留学する。 アメリカに発つ前、真之は根岸に子規を見舞う。 今生の別れと思った子規は、 ”君を送りて思うことあり蚊帳に泣く” と詠んだ。 松山市立子規記念博物館には、 正岡子規と秋山真之とが直接交わした書簡が、7通だけ残されている。 残っている7通の真之の書簡うち、最初の書簡は、 真之が海軍兵学校への転校する時に、 真之は、海軍に入ってからも、子規に書簡を書き送っている。 「英国公使館付の駐在武官となり、アメリカからイギリスに渡る」 子規も、相当な数の書簡を、真之に送っているはずだが、 明治30年、真之は、海軍留学生として世界に飛躍することになった。 一方、結核にかかった子規は、病状が進んで寝たきりになってしまう。 子規は、真之が旅立つ日に、 ”君を送りて思ふことあり蚊帳に泣く” という句を詠んだが、その”思うところ”は何なのか、不明である。 吸って吐く吐くのがちょっと面倒で 森田律子 あとで、この句を知った真之は、 「世界をあれほど見たかった好奇心のかたまりたる」 「政治こそ、男子一代の仕事」 「若いころの壮志をおもうと、まだ三十というのに、人生がすぼまる一方であった。 やがて死ぬ、と覚悟しているにちがいない。 なにごとを、この世に遺しうるかということをおもうと、 あの自負心の強い男は、真之のはなやかを思うにつけ、 あの日、真之が去ったあと、おそらく『蚊帳に泣』いたのかもしれない。 真之は、そうおもった」 (「渡米」) 海外の真之は、 「遠くとて 五十歩百歩 小世界」 それは、真之の思いやりだったのだろう。 そうした年賀状などを励みとしながら、子規は病床で名句を生み出していく。 ”正岡子規 絶筆三句” 糸瓜咲て 痰のつまりし 仏かな 痰一斗 糸瓜の水も 間にあわず をととひの へちまの水も 取らざりき 真之が帰国した明治33年8月、その頃から、 子規の病状は急速に悪化して行き、 明治35年9月19日、子規は遂にこの世を去る。 (享年34) 子規は、臨終の時まで、真之との思い出を抱くように、 真之から贈られた、毛の蒲団を肌身離さなかったという。 葬儀の日、真之がやって来たのは、 子規の棺が家を出て、間もなくであった。 原点の大地へ帰りゆく命 中川正子 |
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