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川柳的逍遥 人の世の一家言
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耳削いで来れば仲間にしてやろう  井上一筒

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    海援隊の仲間

写真左から

白峰駿馬ー長岡藩藩士。日本最初の造船所を開設する。

千屋虎之助(菅野覚兵衛)ーお龍の妹・君江(紀美)の夫。一時期、お龍の面倒をみる。

龍馬ーこの写真の10ヶ月後に暗殺に遭う。

高松太郎ー龍馬の姉・千鶴の子。龍馬の遺志を継ぎ蝦夷地で活躍する。

岡本健三郎ー龍馬の護衛役。近江屋事件では階下に待機していた。

長岡謙吉ー海援隊副隊長 船中八策・大政奉還副書を起草する。

気が合うね出会いはそんな台詞から あいざわひろみ

”海援隊”を結成する前、龍馬は肝心の船を失い、

経済的に完全に行き詰まり、

亀山社中は、解散寸前の危機にあった。

そこに現れたのが、土佐の参政・後藤象二郎である。

後藤は、土佐商会を運営し、当時、長崎をたびたび訪れていた。

後藤の使命は、土佐藩の海軍力・海運力の強化にあり、

そのノウハウを持つ者を求めていた。

その後藤のアンテナに、龍馬の亀山社中がひっかかったのである。

後藤は、亀山社中が持っていたノウハウに期待した。

風を掬う風を吸う風満ち足りる  山口ろっぱ

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   ”清風亭”使用桐箱

慶応3年1月12日、後藤は、長崎の清風亭に龍馬を招待した。

そのとき後藤は、龍馬が贔屓にしていた芸妓・お元を呼んでいる。

後藤は、抜け目なく龍馬懐柔の下準備をしていたのだ。

この時期、土佐は、薩摩、長州にさまざまな遅れを取っていた。

遠雷を急ぐ自転車のペダル  森田律子

≪軍事力、産業技術力、交易力、国家構想力といった、

 当時、雄藩と呼ばれた藩が、必要としていた、

 すべての面において、遅れていた≫


また、土佐には、薩摩、長州との太いパイプもなかった。

土佐はそれらの遅れに気づいて、

形勢挽回に力を入れ、

その一環として、亀山社中の取り込みを考えたのである。

ライバルの斜め後ろに付くゆとり  上嶋幸雀

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  後藤と龍馬をとりもつ杯

後藤の提案は、龍馬にとっても、悪い話ではなかった。

当時、亀山社中は、薩摩藩の庇護下にあったものの、

資金的な援助はわずかであり、社中の財政は逼迫していた。

龍馬は次の手を打てない窮地にあったのだ。

しかし、土佐藩が出資してくれれば、金に困ることはない。

うまくいけば、土佐藩を動かして、政局をリードできる。

龍馬と海援隊が、幕末の主役に躍り出ることも、可能になる。

龍馬は、後藤の人間力、実行力を見て、

提携できる相手と踏んだのだろう。

そして両者は、過去を問わず、

血塗られた土佐の歴史を乗り越えて、合併した。

怨みからうらみへ向かぬ針の先  森中惠美子

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     土佐・開成館

慶応3年(1867)4月、海援隊が誕生する。

海援隊は、亀山社中と土佐の開成館という、二つの組織が合体して生れた。

土佐の開成館は、

土佐藩が慶応2年、殖産興業、富国強兵を目指してつくった組織。

山内容堂側近の後藤象二郎が、具体的に計画を立て、

 海軍を練成する軍艦局、貿易を振興させる貨殖局、

 産業開発をになう勧業局、外国語を訳す訳局、

 大砲をつくる鋳造局、などから成り立っていた≫

鬼太郎を捻って貧乏から抜ける  本多洋子

開成館の本部は、高知にあったものの、

その組織の性質上、高知では技術の向上を望めない。

そこで、海外交易の中心地である長崎にも、

”土佐商会”
と呼ばれる拠点がおかれた。

やがて、後藤象二郎は、

同じ長崎に拠点を置く、龍馬の亀山社中のことを知り、

提携を考えるようになる。

白い器に僕の野心を盛りつける  和気慶一

それは、土佐藩の上士勢力と、郷士勢力を結びつける、

作業でもあった。

開成館は、土佐でかって実権を握っていた吉田東洋の流れをくむものだった。

≪その吉田東洋は、尊皇攘夷を唱える武市半平太の土佐勤皇党一味に殺される。

 いっぽう、亀山社中には、土佐勤皇党の流れを組む者が多くいた。

 勤皇党は東洋暗殺後、一時、土佐の実権を握るが、

 容堂によって解散に追い込まれ、

 半平太は切腹、多くの党員が裁かれた≫

もうひとつのかけがえのない息遣い  笹田かなえ

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     海援隊約規

上記写真の記述は ”土佐藩および、そのほかの藩を脱藩した者、

海外に行きたい者なら、誰でも入隊できる”とある。

亀山社中の者たちは、後藤を憎んでいたし、

後藤は後藤で、東洋暗殺に関連した亀山社中の者らを、

快く思っていなかった。

だが時代の流れが、相容れないはずの、両者を結びつけた。

龍と象の約束のシェイクハンドぜよ  坂本龍馬

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白旗をうつくしく持つときもある  森中惠美子

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≪清風亭は、龍馬と対立していた後藤象二郎が初めて会談を行った料亭≫

第二次長幕戦争で、幕府は、長州一藩に敗北する。

その途中、将軍・家茂が亡くなり、

将軍空位の時期がしばらく続くという、異常事態でもあった。

その結果、”割拠の時代”といえるような状況が、現出したのである。

諸藩で、「これからは割拠の時代だ」 という、叫びにも似た言葉が綴られるようになる。

「もう幕府の言うことは聞かなくてもよい」

「藩が独自に富国強兵を目指すべきだ」

ということが、平気で語られるようになった。

おかしくて実から笑いがこぼれおち  河たけこ

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鉄砲の音がゴマをいるように聞える(長幕戦争)

それは、

「これからは軍事力を持たない藩は、政治的発言力もない」

という裏返しにも繋がる。

こうした世情を受け、薩摩や長州に遅れをとった土佐藩でも、

龍馬たちの価値を、評価しようという機運が出てくる。

≪それまで土佐藩は、土佐勤皇党の弾圧などによる分裂状態が続き、

 国事に積極的に参加することが出来なかった。

 ところが、気がついてみると、

 郷土の土佐出身で土佐勤皇党の一員でもあった龍馬が、

 脱藩浪士となって、薩摩や長州の薩長の間を取り持つなど、

 政局の行く末に大きな影響力を、発揮していた・・・≫

今や今 今この波を逃したら  杉山ひさゆき

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龍馬に近づいたのは、

土佐勤皇党によって暗殺された吉田東洋甥・後藤象二郎である。

後藤は東洋の暗殺後、一時失脚したが、

のちに藩政に復帰して、大監察という重職につき、

武市半平太ら、土佐勤皇党の弾圧を主導した。

つまり龍馬にとって、”仇敵”といっていい男である。

ところが藩の参政となった後藤は、

土佐藩が、中央政局で存在感を増していくためには、

”龍馬の海軍”を無視できない現実に直面していた。

そもそも、土佐は、船で海を渡らなければ、

畿内や江戸といった、日本の中枢に、でることが出来なかったのだから、

どうしても、海軍を入手しなければならなかった。

ソロバンを弾き尻尾が飾られる  谷垣郁郎                  

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龍馬から後藤象二郎に宛てた手紙

≪坂本龍馬の手紙には、

 鎌倉幕府以来、700年近く続いた武家政権を、返上させる大政奉還への思いが、

 強い筆致で記されている≫

龍馬にとっても、後藤は、不倶戴天の敵である。

しかし、亀山社中の経営が危機に瀕した今、

龍馬の目指す海軍を、維持するためには、

是非とも、土佐藩を後ろ盾にしておきたかった。

また、薩摩と長州だけが暴走することを、抑えようとしていた龍馬にとって、

土佐が海軍力を手に入れて、発言力を増すことは、

重要な意味を持っていたのだ。

くちばしの先を伸ばせばオフサイド  井上一筒

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海援隊本部・酢屋(京都三条)

≪酢屋の二階の左窓側に龍馬の机がある≫

そして、慶応3年(1867)1月、

龍馬と後藤は、長崎の”料亭・清風亭”で、

恩讐を超えた歴史的な会談を行い、

利害が一致したこともあり、

両者は、たちまち意気投合をした。

後藤は、龍馬の先進的な考えや、藩の枠に囚われない、

広い視野に感嘆し、脱藩の罪を解いて、

土佐藩支配下の「海援隊」隊長に任命した。

≪酢屋に本隊をおく海援隊の誕生である≫

≪この後、後藤象二郎は、

龍馬の大政奉還策を藩論として、”大政奉還”の実現に寄与することになる≫

維新という大歯車を廻した龍馬  木村良三

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『龍馬伝』・第40回-清風邸の対決 あらすじ

馬関での戦いを終え、龍馬(福山雅治)は、長崎に戻るが、

奉行所のお尋ね者になっていて、出歩けない。

一方、”土佐商会”の主任として、長崎で商売をしたい弥太郎(香川照之)は、

どこでも龍馬の紹介が必要と言われ、

後藤象二郎(青木崇高)に言い出せない。

そこへ時勢を見極めた土佐の山内容堂(近藤正臣)から、

「薩長と密かに繋がれ」 

との命が下る。
 
点線で割る濡れおかきの領域  山口ろっぱ


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小曽根乾堂(本田博太郎)お慶(余貴美子)から、

「どうして龍馬に頼まないのか」

と言われた象二郎は、これまでの私怨をこえて龍馬に会うと決心。

しかし、会談がうまくいかなかった場合は、

「龍馬を斬れ」

という命令も出す。
 
腹に一物作り笑顔がぎこちない   倉 周三

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龍馬の居場所を探す弥太郎だったが、

引田屋に、龍馬が突然現れて、

「象二郎と会おう」 と言う。

龍馬は”大政奉還”のためには、

徳川家を大事にする土佐藩を、薩長側にひきこんで、

武力討幕を止めるという、もくろみがあった。

清風亭で、対決する2人。

話の展開次第では、象二郎側の上士や社中の面々が、

斬りこもうと部屋の外で構える、

長い沈黙コーヒーがさめてます  荒井慶子

そして・・・・・

弥太郎が見守る中、龍馬は、象二郎に、

「徳川の世はもう終わる、徳川家を守るには大政奉還しかない、

 薩長と繋がるのなら、しっかり、手を組む覚悟でなければだめで、

 土佐が新しい日本を作る要になるのだ」

と説くが・・・。

黄昏の手前で捨てる破れ傘  荻原鹿声

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後藤象二郎の邸宅跡(長崎)

象二郎は土佐に”開成館”を設置すると、

その出先機関である「土佐商会」を長崎に設け、

自ら代表となり、土佐の特産品である”樟脳”輸出している。

≪後藤象二郎宅は、後に、岩崎弥太郎が譲り受けた≫

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中島川に架かる長久橋のたもとにある、土佐商会跡の碑

土佐商会の運営は、岩崎弥太郎が任され、武器の輸入などの貿易を行った。

弥太郎は、海援隊の資金管理なども担当した。

≪土佐商会が閉鎖された後、弥太郎は

  大阪商会、九十九商会を経て、三菱商会を設立している≫

美しい国へ目薬二階から  たむらあきこ

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傷ついた桃ならさっき食べました  森田律子

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  長幕開戦図(龍馬使用)

慶応2年6月の「四境戦争」とも呼ばれる、幕府による”第二次長州征伐。

幕府の軍勢は、長州の4つの口、芸州口、小倉口、石見口、上関口から、

攻め込もうとした。

ところがすでに長州は、

2年前に幕府に戦わずして、屈服した”長州藩”ではなかった。

和睦後、高杉晋作らがクーデターを起こして、藩の実権を握り、

帰藩した桂小五郎大村益次郎を起用して、

軍事装備を一新させていたのだ。

高杉や大村らに指揮された長州軍は、最新の兵器で幕府軍を迎撃。

幕府方をさんざんに破った。

バーベルで鍛え大ジョッキは軽い  伊藤博仁

この戦争に、長州の海軍総督・高杉から参戦を求められ、

龍馬は、亀山社中を率いて長州側に加勢した。

龍馬の”乙丑丸(ユニオン号)”と、高杉の”丙辰丸”は、

門司と田ノ浦の敵陣めがけて、砲撃を開始、

敵側の砲台を沈黙させた。

完全に倒れ完成するドミノ  平尾正人

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双方が生き残りをかけた、第2ラウンドではあったが、

この戦争の最中に、別のステージでは、

戦況に影響する重要な変化が起きている。

慶応2年(1866)12月、のことである。

大坂城で病死した将軍・家茂のあと、

第15代将軍に、慶喜が擁立されたこと、

そして同じ月、攘夷論者でありながら、

佐幕的立場をとっていた孝明天皇が突然死んだこと。

冬のことあなたはどこで知りました  南野耕平

孝明天皇の死は、毒殺の疑いがかけられているが、

可能性は非常に高い。

たしかな証拠があるわけではないが、

佐幕的立場をとる孝明天皇では、

長州藩、薩摩藩にしても、

倒幕を唱える急進的公家たちにしても、

やりにくかったはずだからだ。

幼少の新天皇を擁立し、それを「玉(ぎょく)」として使いながら、

自分たちの思う方向へ進ませようと、考えたのではなかろうか。

こうして新しい将軍・慶喜、新しい天皇(明治天皇)へ、

と幕府も朝廷も、代替わりしたのである。

塩化水素ひとりでは死ねないのです  山口ろっぱ

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家茂が死んだため、長幕戦争は中止となったが、

幕府の威信をかけた軍事行動を、中止したことにより、

威信は、大きく低下することになった。

もはや幕府は、倒壊寸前のところまできていたのである。

事実、慶喜は京都で将軍になったが、

そのまま京都にとどまり、

江戸へ戻ることができないでいた。

例外をひとつ許してから雪崩  片岡加代

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京都を離れれば、

その隙をついて薩長が、朝廷と幕府の間を割くことが考えられ、

朝廷が、

「幕府に政治を委任するのはやめる」 

と言い出せば、

それで幕府は終ってしまうからだ。

そこで考え出されたのが”大政奉還”という手であった。

≪この大政奉還には、龍馬がからんでいた。

 というよりは、この発想そのものは龍馬から出てきたものである≫

悪口を言わせぬように立たぬ席  下田幸子

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さて、社中の同志とともに、下関へ参戦した龍馬であるが、

大きな心配事が一つあった。

「師の勝海舟が幕府海軍の司令官として、参戦すること」

そうなれば、海舟は幕府海軍を率いて、必ず、”関門海峡”を封鎖する。

海舟の優秀な弟子である龍馬は、

師がその立場に立ったら、

「当然そうするであろう」

と予想していた。

そして龍馬のこの予想は、半分当たっていた。

ふんどしがずれた2分の1気圧  井上一筒

というのは、それまで謹慎させられていた海舟は、

5月28日に突然、江戸城に呼び出され、

「もとのとおり軍艦奉行を命ずる」

と言われていたのである。

「このたびは、どんな仕事をするのか」 

と驚きつつ海舟が聞くと、

「薩摩藩が、第二次長州征伐への出兵を拒否した。

 会津藩(京都守護職)が怒っている。

 両者の間で戦闘が起こるかも知れない。これを調停して来い」

というものだった。

「またそんなクダラナイ仕事をさせるのか」

と、海舟の胸のうち。

ケモノの血薄れ草食系男子  新家完司

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    関門海峡(現在)

あきれながらも海舟は、京都にいって調停にはいった。

ところで、元治元年(1864)の9月11日に、

海舟は、薩摩藩との会談で、

「幕府を見限って、西南雄藩が連合して新しい共和政府をつくりなさい」

と助言している。

それを聞いた西郷隆盛大久保利通は、

「勝先生、冗談キツイですよ」

と一笑に臥しましたが、このときの海舟の心のなかには、

「幕府艦隊をまかせてくれれば、必ず関門海峡を封鎖する」

と考えていたといいます。

すなわち、龍馬の考えは、半分あたっていたのである。

勝海舟が、長伐戦争に加わらなかったことは、

龍馬にとって幸いした。

替え芯を下さい夕陽見たあとで  立蔵信子

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やんわりと包んでみたが地雷です たむらあきこ

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   桜山神社の招魂場

高杉晋作の発議で、明治維新の志士たちを祀るために築かれた。

吉田松陰から、無名の奇兵隊隊士まで、396柱の霊標が並ぶ。

師の松陰以外はみな同じ高さである。

(むかって松陰の左に久坂玄瑞、右に高杉晋作)

「長州とは・・・?」

長州藩領とは、いまの山口県に相当する。

真ん中に中国山脈が横たわり、平野部が少ない。

稲作も充分にできず、

米だけでは食べてゆけぬ長州藩は、

塩、紙、蝋といった特産品開発に、力を注いだ。

さらに、北前船(きたまえぶね)交易を、本州最西端の”馬関(下関)”で牛耳る。

麦畑明日の作戦立てている  杉山ひさゆき

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    現在の下関港

財政改革に成功し、幕末になると表高は、

36万9千石だが、実力は100万石以上と噂された。

欧米列強や日本全国を相手に、戦い抜き、

薩摩藩とともに、新時代のリーダーとなれたのは、

精神力はもちろんだが、

永年にわたり蓄積された、経済力があればこそなのだ。

銃や軍艦も、経済力がなくては手に入らない。

ひと蹴りでV字人気のオサムライ  ふじのひろし

長州藩は、人材育成に熱心だった。

萩の藩校・明倫館を核とし、藩内各地に郷校、私塾、寺子屋が設けられた。

吉田松陰という若き兵学者も、そうした教育熱の中から生れる。

欧米列強が、アジアを侵食していた時代、

松陰は、

「三千年続く日本の独立を、維持するために働きたい」

との志を立てた。

あとがきを先に読むのが私流  岩田明子

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   吉田松陰・村塾

外圧の実態を知ろうと考えた松陰は、

伊豆・下田からアメリカ密航を企てたが失敗。

”かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ大和魂”

と詠み、

萩に送り返された松陰は、”松下村塾”を主宰し、

主に下級武士の子弟たちを教えた。

ところが外圧に屈して開国した幕府を、激しく非難した松陰は、

『安政の大獄』に連座して江戸に送られ、

安政6年(1859)10月、30歳で処刑されてしまう。

今日の話題をおくやみ欄で探す  新家完司

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この松陰の死が、門下生の魂を、激しく揺さぶる。

その代表が、雷電・風雨にたとえられた「高杉晋作」だ。

晋作は、松陰門下の逸材として、若いころから期待された。

長州藩の大身の御曹司ではあるが、性格はかなり過激で奔放。

江戸で英国公使館焼き討ちを決行し、

”尊皇攘夷派”のなかでも、一目おかれる存在となる。

冷蔵庫の残りも食べに来てくれる  西美和子

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晋作は、藩命で中国・上海に渡航したおり、

アヘン戦争後、欧米列強の支配を受ける街を目撃し、

「日本も二の舞になる」 

と危機感を抱く。

そして農民や町人から、広く兵を公募して奇兵隊を組織。

そして”第二次長幕戦争”では、

海軍総督として、軍略の才を発揮し長州を勝利に導いた。

爬虫類ではないが近いと言うておく  井上恵津子

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  晋作の妻・マサ

「晋作を支えた女性」

第二次長州征伐での幕軍撃退を成し遂げ、

幕末の快男児として、自由人的な印象が強い晋作だが、

実は郷里に妻がいた。

名前はマサという。

マサは、長州藩の上位藩士・井上平右衛門の娘である。

また高杉家も戦国以来の名門藩士であり、家格の釣り合う結婚であった。

晋作の父とマサの父は、同世代の同僚、

この結婚は、親同士の話し合いで進められたようだ。

誤字のない求愛にためらっている  山本トラ夫

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晋作が描いたと言われる”おうの”の後姿。(東行のサインが右下に見える)      

晋作は自筆の履歴の中で、

「父母の命により、井上家の娘を娶る」

と書く以外に結婚について何も語らず、関心は薄かったらしい。

晋作の両親は、ハネッ返りの息子に所帯をもたせることで、

落ち着かせようと考えたのだった。

万延元年(1860)の結婚当時、晋作は22歳、マサは16歳である。

マサは、「萩城下一の美人」と称される美貌であり、

晋作は結婚1年後に、藩士としての出仕をスタート。

このままいけば、美男美女の若夫婦として、

つつましく生活を送っていけるはずだった。

夏の所為だと思う手も握らない  森田律子

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”西に行く西行、東に行く東行”        

だが時代は、晋作を放っておかない。

彼は結婚2年後に、藩命を受けて上海を視察し、

その後は、尊皇攘夷のために各地を奔走。

ほとんど実家に帰らず、結婚生活7年のうち、

妻とは1年半程度しか、一緒に生活しなかった。

寄りかかるのは椅子だけと決めている  八上桐子

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また晋作は、美人の妻がいるにもかかわらず、

洒落者で遊郭好きの男である。

元治2年(1865)に、

藩内クーデターを起こして俗論党を打倒した際には、

芸者たちに三味線を弾かせながら、藩庁に入城するほど、

彼は花街を愛した。

そして晋作といえば、芸妓・おうのとの愛が有名である。

正妻の家には、帰らなかった晋作だが、

おうのといると、心が安らいだようで、

時間の許す限り、近くにおいたという。

こんな世に極楽がある膝枕  菱木 誠

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晋作の墓、奥が東行庵ー(近くに、おうの・[谷梅處尼]が眠る)

長幕の戦に勝利した高杉晋作だが、肺結核が悪化。

馬関新地の庄屋林算九郎邸の離れで療養するも

慶応3年(1867)4月14日に没する。

享年29歳だった。

晋作は、この死の間際、

「吉田へ・・・・・」

と、うわごとを言ったという。

奇兵隊の本拠地・吉田郷のことと皆が思い、

遺体は、吉田の清水山に葬られた。

おうのと晋作、二人の出会いから、わずか4年で愛の終焉を迎えた。

≪晋作の死後、明治14年、おうのは剃髪、、谷梅處(たにばいしょ)」(梅処尼)と名乗り、

  明治42年8月7日 、67歳でこの世を去るまで、

  42年間、「東行庵」と名付けた庵で、生涯、晋作の菩提を弔った≫

  「谷」の姓は、晋作が晩年 藩主から授かった苗字で、晋作の死後、

  梅処尼に引き継がれた≫

無いはずのものがレントゲンに写る   井上一筒   

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『龍馬伝』・第39回-馬関の奇跡 あらすじ

慶応2年(1866)6月7日、ついに幕府と長州との戦が始まった。

総勢15万の幕府軍に対し、長州藩はわずか4000。

このまま手をこまねいていては、長州がやられる。

龍馬(福山雅治)は、苦悩の末、

亀山社中の面々とともに、長州側として参戦する覚悟を決めた。

ブーツ履きもう隅っこを歩けない  桑名知華子

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だが、兵力に圧倒的な差があったにもかかわらず、

戦況は互角。

中でも、高杉晋作(伊勢谷友介)が率いる騎兵隊の活躍は、

目覚しいものがあった。

農民や商人など、武士ではない者たちも混在する奇兵隊。

龍馬は、身分にとらわれることなく団結する彼らと交流し、

「こういう人たちのために、新しい世の中を築かねば」

と思いを新たにする。

船乗りの描く魚はみなでかい  石井華連

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そして、長州軍は社中の操船術をいかした奇襲作戦を敢行。

その結果、長州軍は大勝利を収める。

さらに将軍・家茂(中村隼人)も死去し、幕府は停戦する以外になかった。

長州では、これに乗じて幕府を武力で倒そうという機運が高まる。

一方弥太郎(香川照之)は、溝渕(ピエール瀧)を土佐商会に入れ、

長崎で商売を始めようとしていた。

あしたが見たくて地球儀を回す  森中惠美子

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温泉で男をやわらかくしよう  森中惠美子

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      高千穂の峰

日ごろから、霧島の温泉の効用を知っていた小松帯刀らの助言により、

龍馬とおりょう、寺田屋で負った傷の治療のため、霧島への旅に出る。

現在の人々が旅の前に、ガイドブックなどで訪問先を確認するように、

龍馬も『西遊記』などで、霧島に関する基礎知識を得ていたようである。

日当山(ひなたやま)や、塩浸(しおひたし)、硫黄島栄乃尾といった温泉を楽しみ、

犬飼滝高千穂峰などの大自然にも触れる旅は、

龍馬とおりょうに深い印象を残したことだろう。

ゆっくりとつかる温泉ふたりづれ  高畠陽子

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 高千穂頂上

「高千穂峰登山」

龍馬とお龍は、小松帯刀から「弁当のかわりに」と、

渡されたカステラを持参して、高千穂の峰を登った。

頂上で二人は、抜くと火を噴くとも伝えられていた”天の逆鉾”を、

「エイヤ!」 と引き抜いたという。

また登山途中には、美しい霧島ツツジ(ミヤマキリシマ)の咲き方に感動したり、

御鉢の火口を、興味深く眺めたりしたと言われている。

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坂本龍馬が故郷の姉に宛てた手紙の中では、

登山の様子を図入りで綴っている。

若ぶって筋肉痛に泣いている  森 廣子

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「霧島神社」

6世紀の中頃、慶胤という僧が、霧島山に建立したのが始まりとされ、

その後、霧島山の噴火などによって、焼失が繰り返されたが、

現在国指定の”重要文化財”に指定されている壮麗なつくりの社殿は、

正徳5(1715)年に島津吉貴によって、寄進されたものである。

その本殿では”ニニギノミコト”以下、7柱が祀られている。

歴代藩主の崇敬は篤く、

島津斉彬も嘉永6(1853)年、巡検の際に参拝している。

半畳もあればわたくしを置ける  たむらあきこ

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「塩浸(しおひたし)温泉」

龍馬とおりょうが霧島の旅のなかで、

一番逗留した地がここである。

合計18日間の滞在は、この温泉の効用と無関係ではなさそうだ。

江戸後期に記された地誌である「三国名勝図会」には、

「刀や斧による傷になどに薬効がある」

と記されており、

左手に傷を負った龍馬には、打って付けの泉質といえるかもしれない。

現在は使われていないが、

この時に龍馬夫妻が入浴したとされる湯舟が、

脇の川沿いに今も残されている。

釣ったサカナに餌をやってる惚れてるな  有田一央

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「花林寺跡」

霧島神宮(西御在所霧島六所権現)の別当寺で、

”霧島山錫杖院”と号する真言宗の寺。

その歴史は古く、霧島山の火山活動によって、焼失する時期もあったが、

文明16(1484)年に島津忠昌によって、再建されている。

その規模は大きく、支坊も天保年間には、6坊あったという。

そのひとつに坂本龍馬は、一泊している。

また島津斉彬も、支坊の華蔵院に立ち寄り、

霧島六所権現に参詣している。

現在は当時を偲ばせるものとして、

支坊の石垣や累代住職の墓などが点在している。

思い出をつまむ前田のクラッカー  本多洋子

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     犬飼滝

「和気神社」

坂本龍馬が、この地域を訪れたときには、まだ神社は祭られていなかった。

和気神社の成立は、

この地が和気清麻呂公にゆかりのある地であるとして、

昭和12年に、和気祠堂が建立されたことに始まる。

そして終戦後にあたる昭和21年に、鎮座祭が行なわれ現在に至る。

和気清麻呂は、神護景雲3(769)年の宇佐八幡宮神託事件によって、

当時の権力者である道鏡によって、大隈国に配流されたが、

後に中央政界に復帰し活躍した人物である。

あの日とこの日を糸電話で繋ぐ  岩田多佳子

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  高千穂を望む日当山

「日当山温泉」

特に西郷隆盛のお気に入りだった日当山温泉へ、

龍馬とお龍は、行きと帰りの両方で滞在している。

つまり3月16日と4月8日である。

ほぼ同時期には、西郷隆盛も湯治に訪れていることが、

大久保利通の記録で確認されていて、

この地の浴場での、ふたりの語らいが想像される。

ちなみに西郷は、明治維新後は頻繁に滞在しており、

釣りやうさぎ狩りなどを、楽しんでいたようである。

老眼鏡かけて混浴してる  山本真照

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浜乃市の湊

「浜之市」

古くから湊として栄え、戦国期には島津義久が、付近の富隈を居城にした。

それは、湊を重要視してのことと考えられる。

特に藩政時代には、鹿児島城下から日向方面へと向かう、

道筋に位置する湊として利用され、

坂本龍馬らも、鹿児島城下を船で出発し、ここに降り立ち、

帰りもここから船を利用して、

鹿児島城下へ向かっている。

明治以降も浜之市は、姶良(あいら)郡部の重要港として、

機帆船も就航していた。

現在は、鉄道の開通や道路設備によって、

漁港としての役割が強くなっている。

夫を背負い三段跳びができる  井上一筒

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     栄乃尾温泉

【余談-1】

さて、新婚旅行の第一号は、

坂本龍馬が妻おりょうと塩浸温泉に行った、慶応2年(1866)とされて来たが、

「薩摩藩家老・小松帯刀のほうが10年早かった」

と鹿児島の郷土史家が紹介した。

帯刀は結婚直後の安政3年(1856)に妻・お近と、

高千穂の栄之尾温泉に行き、

12日間滞在したと日記に記述。

龍馬と親しかった帯刀が後に、勧めたのではないかと推察している。

あれも道これも道標識は僕  壷内半酔

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【余談ー2】

『「幕末の京都で起きた”寺田屋騒動”」の旅館・「寺田屋」は、
 
騒動後の1868年に起きた、鳥羽伏見の戦いで焼失したと考えるのが妥当。

いわゆる、偽装があったものと判断した』

と京都市が発表した。

2008年9月のことである。

心にも欠片見つけた刺してみた  松宮きらり

この発表に対して、複雑な残念感が残る。

偽ものであった”残念感”と、嘘も方便的な情が無かったことの”残念感”。

決して嘘は良くない事だけど、それを見た人間にとって、

また龍馬の一フアンとして、

ファンタジックなロマンは、残しておいてほしかったなと・・・

こんなに大袈裟にしなくても、「良かったのではないか」と思うのである。

もともと歴史なんて、ほとんどが仮説の上に、出来上がっているものなのだから・・・。

≪しかし、この余談二つも余計なお世話か・・・ ( iдi ) ハウー

棺桶に釘を打たれて目が覚めた  上原昭彦

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