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川柳的逍遥 人の世の一家言
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はまぐりが吠えると田螺まで吠える  井上一筒

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加茂川の下部・高瀬川沿いに並ぶ龍馬関連京町絵図

③ 長州藩邸 ④ 池田屋 ⑤ 酢屋 ⑥ 土佐藩邸 ⑦ 近江屋

「龍馬暗殺の真犯人は・・・?」

龍馬を暗殺したのは、当初、近藤勇率いる新撰組みと思われていた。

その近藤勇は明治元年(1868)、

下総流山で新政府軍に捕れえられる。

このとき、近藤は、龍馬暗殺を断じて拒否したため、

真犯人は、いったん闇の中に消える。

その後、明治3年(1870)になって、「自供者」があらわれる。

箱館戦争で敗れた旧幕府軍に、元見廻組の今井信郎という人物がいた。

彼が兵部省と刑部省の尋問に対し、龍馬暗殺を自供したのだ。

吹っ切れてあの空白の日を語る  大堀正明

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京都見廻組・屯所跡

≪現在の千本中立売交差点の近くに「中立売屋敷」と呼ばれる屯所を構えていた≫

今井の証言によれば、龍馬を倒したのは、

彼の属していた「京都見廻組」である。

見廻組は、京都で発足した幕府の治安維持機関だった。

幕府は、すでに治安維持機関として、京都に「新撰組」を送り込み、

その実績を評価していたが、、

内ゲバの多さや行動に一抹の不安を覚え、

新たに新撰組よりも、規律ある組織として見廻組を設けた。

見廻組と新撰組のちがいは、その出自である。

人が人を選ぶ危険なものがたり  森中惠美子

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   松平容保

新撰組が郷士、浪士中心の集団であるのに対し、

見廻組は旗本、御家人クラスから募った。

幕府は、幕臣で組織することによって、

見廻組を信頼のおける治安機構に、育てたかったのだ。

見廻組には、”御所九門内の警備”が命じられていたが、

これは新撰組が受け持ったことのない任務だった。

それだけ幕府は見廻組に、信頼を寄せていたといえる。

見廻組を預かるのは、

新撰組と同じく京都守護職であり、会津藩主の松平容保である。

魂の一部になった黒である  立蔵信子

新撰組にとって、見廻組はライバルであり、

見廻組もまた、新撰組以上の実績づくりを目指した。

見廻組みも新撰組も、

ともに龍馬を狙い、見廻組が成功したのである。

見廻組による龍馬暗殺は、

京都の治安を預かる彼らにすれば、職務を忠実に実行したまでのことである。

月並みを破って明日へ夢繋ぐ  鈴木栄子

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京都見廻組長・佐々木只三郎寓居跡とされる松林寺

龍馬は、前年(慶応2年)の寺田屋事件の際、

伏見奉行所の捕り方のひとりを、ピストルで射殺、逃走している。

≪現代でいえば、指名手配中の危険人物だった≫

見廻組の使命は、龍馬の捕縛にあったが、

ピストルを所持している龍馬の捕縛を目指すのは、

リスクが高いと考え、隙をついての殺害に切り換えたのである。

彼らは、重要人物の暗殺とは考えず、危険人物の排除と考えていた。

≪このころ、大政奉還が成ったこともあって、

 その発案者・龍馬の罪を免じようという指令が、幕府から出ていたといわれる。

 その指令が見廻組には浸透せず、龍馬は斃されることになったのだ≫

ぎりぎりのところで黒糸が足りぬ  山本早苗

「暗殺犯人説は他にもある」

龍馬が暗殺されたとき、ほとんどの海援隊士が京都に不在のなか、

陸奥宗光は京都にあって、すぐに駆けつけている。

紀州藩説ー

この陸奥をはじめとする海援隊士や陸援隊士らは、

龍馬暗殺の下手人を”いろは丸事件”の関連から、紀州藩と決めつけた。

そして陸奥は先頭に立って、

紀州藩の三浦休太郎の宿泊する天満屋を襲撃した。

≪しかしこれは、新撰組の護衛もあって失敗に終っている≫

人並みに腹立つ脳でありがたい  櫻崎篤子

土佐藩としては表向き、後藤象二郎が大政奉還の立役者になっている。

福岡孝弟は維新後、龍馬が、

「それほどの役目を果たした事実さえ初めて知った」

と述べている。

後藤は、その事実を自分だけのものにしていたのだ。

その功績がなくなるのを恐れた後藤による暗殺かなど「怪説」がある。

武力討幕を邪魔されたくない「薩摩」(西郷隆盛)「黒幕説」。

龍馬が暗殺される直前、大久保が京に入っているんところから、

相性の悪かっ「大久保利通説」

その事は企業秘密という極意  和泉冴子

「暗殺の主役が龍馬とは限らない」

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伊藤甲子太郎(いとうかしたろう)

≪元新撰組参謀で、分離して御陵衛士(ごりょうえじ)を組織した伊藤は、

慶応3年7月、中岡に対し、「新撰組が命を狙っている」 と忠告している。

さらに同年10月18日には、龍馬とも会談し龍馬にも警告を発したとされる。

≪なお伊藤は、龍馬暗殺の三日後、新撰組によって暗殺されている≫

近江屋事件で龍馬は暗殺されるが、

実際のところは、中岡慎太郎を狙ったものと考えられないだろうか?

慎太郎は長州の奇兵隊にも所属し、高杉晋作とも深い交流があった。

恨みを買う行動も多々あり、長州との関係は、龍馬より深い。

慎太郎は、薩摩藩主・島津久光の暗殺をも企てた人物である。

また上記の伊藤甲子太郎の忠告を、まっすぐに読み取れば、

龍馬より慎太郎が、刺客に狙われていた感が伝わる。

考えれば、中岡慎太郎を狙う動機は、いくらでも出てくる。

黒だったから目立たなかったのね きっと  山本昌乃

ともかく、龍馬のいる近江屋へは、慎太郎の方から訪ねている。

刺客は、慎太郎をつけねらっていた。

刺客は、龍馬が一人でいるときを狙わず、

慎太郎が近江屋に到着してから、まもなく突入している。

一方、龍馬を殺害するための、動機は浅い。

龍馬自身、この時点では「明治新政府」に未練は持たず、

もっぱら商売人として生きることを決めていたのだ。

慎太郎が龍馬の道連れになって死んだと、言うのも不自然なのである。

守るものあって刃を抜きました  あいざわひろみ

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火を逃げて五年十年火をくぐる  森中惠美子

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  暗殺・激闘のあった部屋

『「暗殺の日」-②  ≪~①からのつづき≫』

間髪を容れず、2人の刺客が奥の八畳に躍り込む。

1人が、「コナクソ」と一声もろとも慎太郎の後頭部を斬り、

もう1人が、龍馬の額を横に払った。

龍馬は、背後の床の間に置いた佩刀を取ろうと、中腰で後ろに向いたところを、

右の肩先から左背まで、袈裟懸けに浴びせられる。

怯まず刀を摑んで振り返る。

そこへ、三の太刀が襲ってきた。

刀を抜く暇がなく、鞘のまま受け止める。

刺客の刀勢は、猛烈だった。

寺町や紫陽花の首猪の首  石田柊馬

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龍馬が受け止めた鞘の2えぐれ”

衝撃で鞘の鐺が、天井を突き破り、

鞘越しに刀身に食い込んで、刃を九センチほど削り、

さらに流れて、龍馬の額を鉢巻なりに、ザックリと斬り割った。

血しぶきが飛び、白い脳漿が露出した。

龍馬は悲痛な声で、

「石川(中岡の変名)、刀はないか、刀はないか」

と叫びながらその場に昏倒する。

凍音に変わるロクサーヌのブルース  山口ろっぱ

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   鴨居に残る刀傷

慎太郎も短刀で必死に戦ったが、全身に11ヶ所の傷を負って気絶した。

敵はなおも、臀部に二太刀斬り付ける。

反射のありなしで、生死を確かめるのである。

慎太郎はその痛みで、意識を取り戻したが、死んだふりをしていると

「もういい、もういい」

という声がして、

一団は風のように、すばやく段梯子を駆け下りて、消え去った。

きみはもう雲と遊んでいるだろうか  あいざわひろみ

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龍馬の激死を見ていた暗殺の額

しばらくすると龍馬も蘇生したと見え、

刀を抜いて、行灯の前ににじり寄り、
刃を火光に照らして、

「残念、残念」

と呻くように呟いていた。

「慎太、慎太、どうした。手は利くかー」 

「手は利く」

龍馬は行灯を提げて、次の六畳までにじり進み、

「新助、医者を呼べ」

と階下に声を掛けたが、何の応答もない。

声もしだいに弱まり、

「慎太、僕は脳をやられたから、もうだめだ」

その言葉を最後に、ガックリと落ち入る。

慎太郎は、裏の物干しまでいざってゆき、大声で助けを呼んだが、

近江屋の家内はシーンと静まりかえっていた。

つま先はそんじょそこらの貝である  井上一筒

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龍馬のために鶏鍋の具を買いに出かけていた峰吉

龍馬殺しの実行者7人のうち、

渡辺吉太郎・高橋安次郎・桂隼之助・桜井大三郎は、

翌・慶応4年早々、鳥羽伏見の戦で戦死し、土肥仲蔵は行方不明。

佐々木只三郎は、淀で重症を負い、それがもとで間もなく死んだ。

明治まで生き残ったのは、今井信郎だけで、

この男は後に、妄想か売名か、自分が龍馬を斬ったと≪告白≫して、

世の話題になった。

近江屋の外に出ると、十五夜の月が、雲を割って明るく町を照らしていた。

佐々木は、”その時、義経少しも騒がず”

と『船弁慶』の一節を高らかに謡いながら、落ち着き払って現場を立ち去った。

鴨川がわずかに憶えている竜馬  黒田忠昭

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すれすれを吹き抜けてゆく男の訃  たむらあきこ 

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エジャナイカの集団     

冬の京都は、底冷えがきつい。

地面の下から這い上がる寒気が、骨を凍てつかせる。

慶応3年(1867)11月15日、午後8時頃、

先斗町の料理屋を出てきた”七人の男”が、辻々で踊り狂う

"エジャナイカ"の人波を避けて、急ぎ足に道をたどり、

河原町通蛸薬師下ルの「近江屋」という、「醤油屋」をめざして歩いていった。

数珠をもつ遠く近くの死を思う  森中惠美子

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中央に近江屋の名前が見える名簿

男たちは、京都見廻組」の一団だった。

新撰組と並んで、幕末の京都で活躍した”治安組織”である。

幕府旗本の子弟だけで、構成されていたので、

農民上がりと蔑む新撰組との対抗意識も強く、功名手柄を焦っていた。

この日も組頭の佐々木只三郎は、

配下の今井信郎・渡辺吉太郎・高橋安次郎・桂隼之助・土肥仲蔵・桜井大三郎を呼び寄せ、

「これから重罪犯の逮捕に取り掛かる」

と差図を与えた。

耳よりも指揮振る人に目が走る  ふじのひろし

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龍馬が放ったピストルの弾痕(寺田屋)

「土佐藩の坂本龍馬に不審の筋があり、先年、伏見で捕縛しようとしたところ、

 敵はピストルを発射して抵抗。

 伏見奉行所同心2人を射ち倒して脱出し、残念ながら取り逃がした。

 その坂本が、今夜、近江屋に滞在中である。

 今度ばかりは、逃がさずに捕縛すべし。

 万一手に余ったら、討ち取ってよろしい」

狙われた坂本龍馬は、幕府側から見れば、指名手配中の凶悪犯であった。

綿菓子の死角でちょっとしたスリル  山本早苗

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龍馬を斬ったといわれている、小太刀の名手・見廻組・肝煎桂早之助の脇差

「室内の闘争を予期して、小太刀の名人のみを二階に闖入(ちんにゅう)させた」

 実行者の間で、手筈が整った。

7人のうち、渡辺・高橋・桂の3人は二階に踏み込む。

今井・土肥・桜井の3人は、台所辺りを見張り、必要があれば助太刀する。

首領の佐々木は、家内に入らず、離れて立って成行きを見届ける。

近江屋はもう、大戸を閉ざしていたが、家内では人声がしていた。

表戸を叩き、出てきた男に

「拙者共は、松代藩の浪士でござる。

ごく内々の用件で、至急坂本先生にお目に掛かりたい。

夜分失礼とは存じながら推参致しました」

と取次を依頼する。

希望という名刺カオスへ散布する  唐木浩子

意外にも相手はまったく怪しまず、今井ら3人を店内に入れてくれた。

当の龍馬は、近江屋二階の奥座敷で、

同志の中岡慎太郎と国事を論じていた。

頑健な大男のくせに、寒がりの龍馬は、

その日、風邪気味で、真綿の胴着の上に舶来絹の綿入れを着込み、

さらにその上に、黒羽二重の羽織を重ねて、

火鉢を抱え込むように座っていた。

目の前にあるけど見たくない未来   岡田陽一

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事件当夜の近江屋二階・間取り図と暗殺者の進路。

黒線は刺客の襲撃経路、右下が階段、上右が床の間

火鉢を真ん中に、龍馬・慎太郎へ刺客はまっすぐに忍び寄った。

応対に出た男は、藤吉といい、相撲取りをしていた肥大漢だった。

「松代の旦那でござんすかい」

と、人を疑わず、巨大な体躯を運んで取次のため二階に上がる。

それに付け入って、足早に階段を駆け上がり、

襖を隔てた奥座敷に、名刺を通じて出てくる藤吉を、いきなり斬り倒した。

バッタリ倒れる大きな音に、

奥から、「ホタエナ!」

と、土佐弁で
叱責する声が聞えた。

暗殺の日-1-②へ・・・つづく

お茶室で太極拳をしています  井上一筒      

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テロ憎むうつくしい花咲く限り  森中惠美子

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    佐々木只三郎

『龍馬暗殺に成功した京都見廻組のリーダーは、「佐々木只三郎」という人物である』

佐々木は、幕末の剣客の中で、最強のひとりだったという説もある。

龍馬は、最も恐るべき男に狙われたといっていい。

七味とはいえ辛味しかわからない  清水一笑

佐々木只三郎は、会津藩の生まれである。

会津精武流の使い手で、その”小太刀の腕前”は日本一とさえいわれた。

佐々木は、見廻組だけでなく、

新撰組誕生をめぐっても、キーマンの役割を果たしている。

彼の兄である手代木直右衛門は、会津藩の若年寄で、

藩主・松平容保の懐刀のような存在だった。

この兄弟のラインが重要なのだ。

カメラでは捉え切れない無言劇  谷垣郁郎

佐々木只三郎は当初、新撰組の前身・浪士隊に取締役・並出役として参加。

浪士隊が東西に分裂したとき、京都に残った浪士隊は会津藩に預けられ、

これが新撰組となる。

この周旋工作をしたのが、佐々木だったと考えられるのだ。

佐々木は、兄・直右衛門と緊密に連絡し、

その兄が会津藩を動かしたのである。

与野党でオセロゲームの陣地取り  八木 勲

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新撰組誕生の主・清河八郎

見廻組の誕生にも、手代木・佐々木の兄弟ラインが、深くかかわっていたとみられる。

佐々木只三郎の名を一躍轟かせたのは、清河八郎の暗殺によってである。

清河八郎は、新撰組前身の浪士隊創立の呼びかけ者であり、

普通は3年かかる北辰一刀流の目録伝授を、1年で成し遂げた男である。

当代屈指の剣客であり、

新撰組の近藤勇、芹沢鴨ら荒くれ者も手を出せなかった。

あきらかに転ぶあきらかに嘲笑  中野六助

佐々木は、幕閣から清河抹殺の任を負うと、清河の隙を待ち続け、

ある夜、旧知の清河と、偶然出くわしたかのようにして挨拶、

清河が油断したところを、仲間とともに、一撃で仕留めている。

佐々木は、人を油断させるのが巧みで、龍馬もまた、油断させられてしまったのだ。

佐々木は、龍馬暗殺において、実行犯の奥に控えた。

仮に、龍馬が刺客の攻撃をかわし、階下に逃げたとしても、

そこには、佐々木只三郎が待ち構えている。

佐々木に狙われた以上、すでに龍馬に逃げ道は、なかったといっていいかもしれない。

劇薬と書いといたのに減っている  島田握夢

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龍馬暗殺の部屋

「余談」

幕府当局の目から見れば、龍馬は去る慶応2年1月23日、

伏見の寺田屋で、奉行所同心を殺傷した逃亡犯であるにすぎなかった。

佐々木只三郎は、報復の一念と大魚を屠る野心に燃えていた。

勝海舟は、

「佐々木に上から指示を下したのは、

 大坂町奉行から大目付に転じた松平大隈守信敏、

 ならびに、その下役だった目付の、榎本対馬守道衛だったのではないか」

と推定している。  (『海舟日記』明治3年4月15日)

≪当時の記録には、『時に坂本、名を変じて才谷梅太郎という。

 幕吏の探偵を避くるなり。しかるもなお流言あり。

「土佐の豪侠坂本は、頃日、浪士300人を率い窃かに京都に入り込めり”

 幕吏のこれを忌憚する事甚し」 

とあり、
デマ混じりの噂が書き残され、いかに危険人物視されていたかがわかる≫

破れない壁に明日へ覇気もらう  吉村久仁雄

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鳥羽伏見の戦いで着用したとされる鎖帷子ー丈は約70センチ。(霊山歴史館)

麻と鉄で作られ、佐々木家の家紋・四つ目結が見られる。

右下に銃創を受けた血糊と、左肩口に斬り込まれた跡がある。

「佐々木只三郎・辞世の句」

”世はなべて うつろふ霜にときめきぬ こころづくしの しら菊のはな”

死ぬ少し前に、飛び込んだ酒屋で酒代の代わりに、襖に書き付けたという。

暗殺の日・1-①へ・・・つづく

流れる砂転がる砂仏になる砂  山口ろっぱ 

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一幕四場の俺のドラマのあとわずか    大海幸生

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近江屋に履き捨てられた下駄ー(この下駄に近江屋の刻印が残る)

『龍馬暗殺は、数ある幕末の暗殺のなかでも、もっとも手のこんだもののひとつといえる』

危険を感じていたはずの龍馬が、まんまと油断させられ、

何ら反撃できないまま、斃されたのだ。

うまく行きすぎると何か恐くなる    宮前秀子

慶応3年(1867)11月15日/午後8時過ぎ、

龍馬が宿泊する”近江屋”に、
数人の武士が訪ねてきた。

武士達は、「十津川郷士」と名乗り、名刺を渡し、龍馬に面会を求めた。

一説には、「松代藩士」を名乗ったともいわれる。

取り次いだのは、龍馬の従者・藤吉だった。

龍馬には、面識がある十津川郷士がいた。

藤吉も、そのことを知っていたので、

疑いを抱くこともなく、二階にいる龍馬のもとに名刺を持っていった。

固まってなにかひそひそ悪だくみ    加山よしお

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藤吉は、龍馬に名刺を渡し、階段を下りてきた。

そこに刺客が待ち伏せていて、藤吉を斬り倒した。

二階の龍馬の耳にも、その倒れる音や藤吉の悲鳴が届いたが、

龍馬は、

「ほたえな!」

と、ひと言で片付けてしまう。

「ほたえな」とは、土佐弁で”暴れるな”・”ふざけるな”という意味だ。

龍馬は、元相撲取りの藤吉が、ふざけて相撲でもとっていると思ったようだ。

これが、最後の運命の分かれ目となった。

鼻血くらいでいつも救急車を呼ぶな  三好聖水

刺客らは、階段を駆け上がり、奥座敷の龍馬のもとに姿をあらわす。

そのとき、刺客らはいきなり戸を開け、襲いかかったという説もあるが、

刺客のひとりは、龍馬の前で、

「坂本様、おひさしゅうございます」

と丁寧に挨拶したともいわれる。

その説に立つと、刺客の挨拶に龍馬は、

「誰だろう?」 

と思案しながら名刺を見た。

そのやりとりで、刺客は、どちらの人物が龍馬であるかを特定できた。

五分五分の可能性なら賭けてみる  嶋澤喜八郎

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龍馬が敵の攻撃を止めた時の、刀の鞘のえぐれ

刺客は突如、刀を抜き、思案している龍馬に襲いかかった。

と、同時に別の刺客が、中岡慎太郎に襲いかかったという。

龍馬に襲いかかった刺客は手練であった。

最初の一撃は、龍馬の額を襲い、第二撃は、肩から背中を斬りつけてきた。

それでも龍馬は、刀の鞘をつかみ、

頭を狙ってきた第三撃を鞘で食い止めた。

だが、龍馬の抵抗もそこまでだった。

刺客は、もう一度龍馬の頭を狙い、刀を振り下ろしてきた。

龍馬は避けることができず、

この最後の一撃で、龍馬の脳漿が飛び出した。

青い絵の中で激しく吠えている    阪本高士

そして刺客は、龍馬が絶命したことを確認すべく、龍馬の脚を刺した。

このとき、「さあよからん」という言葉を残している。

いっぽう、中岡慎太郎を襲った刺客の手際は、龍馬を斬殺した刺客ほどではなかった。

中岡の全身を斬りつけ、中岡に28か所もの傷を負わせたものの、

とどめを刺せないでいた。

龍馬を倒したほうの刺客は、それで十分と見なし、

中岡を相手にした刺客を制止し、引き揚げにかかった

時を吸い尽す紫色の蛭     井上一筒

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刺客が立ち去ったあとの部屋

刺客の去ったのちも、龍馬には、かろうじて息があった。

龍馬は虫の息ながら、中岡慎太郎に呼びかけている。

中岡は、薄れていく意識のなかで、それを記憶した。

「挙動にくむべし、剛胆愛すべし。この剛胆ありて、初めて事をなすべし」

これは、自分を襲った刺客の実行力を、ほめての言葉だろうか。

つづいて、悔恨の言葉を吐く。

「遺憾なり。之をもって奴輩に斬らざりしことを」 

龍馬は、迫る死を無念に思ったのだ。

「余は深く脳を斬らる。とうてい生くるあたわず」 

これが、龍馬のこの世での最期の言葉となった。

≪中岡は、このあと救出され、龍馬より2日ほど長く生き、11月17日に息をひきとった≫

暗殺ー3へ・・・つづく

どん底に居ても明日の設計図  村田己代一

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