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川柳的逍遥 人の世の一家言
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煙突が傾いている寒さかな  嶋澤喜八郎

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 宮城を襲った津波の爪跡

百年後には、「平成の大地震」と呼ばれているるだろう三陸沖を震源とする地震が、

2011年3月11日(PM2時46分)に発生。

マグニチュードー9 震度ー7 明治以来、観測史上最大だという。

正式には、「平成23年 東北地方太平洋沖地震」と命名された。

この地震によって、東京以外の神奈川、千葉、茨城、長野などに、

別の断層を呼び起こし、関東・東日本は大揺れに揺れている。

人間の知恵は、自然の前に、いとも簡単に打ちのめされた。

人工のすべてが無力と思い知る  原 隼

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陸上に打ち上げられた船が家の上に

もちろん東京も”震度5”の針がぶれ、揺れた。

このブログを打っている時点でも揺れているそうだ。

コンビニから単3の電池とカップ麺が消えていく。

ただ東京の場合は、横浜のような地割れもなく、揺れただけである。

どういう意味かと言えば、地震観測によれば、

東京23区の地下には、「断層」が存在しないのである

失礼な言い方をすれば、貧乏ゆすりの前の机が揺れている状態なのだ。

そんな東京(江戸)を、家康は”首都”と決めた。

自然体でいなさいと無理な注文  清水すみれ

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   江戸城内総監図   

「太田道灌は、江戸城の真下に、

   ”断層がないことを知っていた”かのように江戸に城を築いた」

扇谷上杉氏の家宰太田道灌は、

古河公方方の有力武将である、房総の千葉氏を抑えるため、

両勢力の境界である利根川下流域に、城を築く必要があった。

康正2年(1456)に着工。

翌、長禄元年(1457)4月、ほぼ完成し入城。

現在の”江戸城の内本丸”の一帯で、

自然の地形を利用した中世的な、城であったとされる。

このころは、江城といわれ、まだ江戸城とは呼んではいない。

広目天なら体温をあずけよう  森中惠美子

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    太田道灌

『永享記』には、

『資長(すけなが)が「霊夢のお告げ」によって江戸の地に城を築いた』 

とある。

道灌は、諸書を求めて「兵学」を学び、殊に『易経』に通じ、

当時の軍師の必須の教養であった『易学』を修め、

また「武経七書」にも通じていた。

なぜ城の位置が、この場所(江戸)になったのかは、

道灌が、数々の教養と「陰陽五行」、『中国風水学』を駆使したものと思われる。

”わがいほは 松原つづき 海近く 富士の高嶺を のきばにぞみる”

一服の煙を吐いて街を見る  両澤行兵衛

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御城内外御作事御手伝方丁場絵図

「江戸城は、鬼門・裏鬼門をはじめ、風水学を計算してつくられていた」

江戸城は、慶長8年(1603)、徳川家康によって江戸幕府の本拠地とされる。

道灌が築城した江城に、家康が幕府の拠点を置いたのは、

家康・秀忠・家光の三代の将軍に仕え、

108歳で大往生した、

天台宗の天海僧正の、献策があったからといわれている。

昨日燃えつきました右脳五グラム  山口ろっぱ

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天海僧正は、徳川幕府の永代存続を祈願して、上野山に寛永寺を建立。

寛永寺は江戸城の東北方「鬼門封じ」のために、建てられた。
 
上野山という”龍脈”の突端に建てられた寛永寺は、

おそらく、江戸城の”鬼門除け”としては最強であったとされる。

ちなみに、易学では東北鬼門方位は”艮(ごん)の卦”で示され、

「万物万象の終結を成すところであり、かつまた開始を成すところでもある」

とする。

江戸城が、自然災害に強く、江戸幕府が、270年間存続できたのは、

「天海僧正お陰」といわれる由縁である。

* (龍脈とは、地気が蜿蜿起状して突起し連なった山脈)

* (艮の卦ー周囲に闇の静けさが広がっていく状態。
   その穏やかな暗さは、人に安堵をもたらす瞬間なのだという)

裏側は地球を背負う摩崖仏  海老地洋

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         日本列島を襲う津波の様子

『お江とゆかりのあるー「天正大地震」』


天正13年(1586)11月29日。

(この翌年に、お江千姫を出産している)

当時、三河にいた松平家忠の日記によると、

『地震は亥刻に発生し、翌日の丑刻にも大規模な余震が発生。

その後も余震は続き、翌月23日まで一日を除いて、地震があった』

と記されている。

震源地は、岐阜県北西部、マグニチュードは7.9 - 8.1と推定。

近畿から東海、北陸にかけての広い範囲に跨って、

甚大な被害を及ぼしたと伝えられ、このことから、この地震は、

”複数の断層がほぼ同時に動いたもの” 
と推定されている。

海岸線が後ずさりしている地球  籠島恵子

琵琶湖では、下坂浜千軒遺跡となる現・長浜市の集落が、液状化現象により、水没。

越中国では木舟城が地震で倒壊、

城主・前田秀継前田利家の弟)夫妻など多数が死亡。

また、飛騨国帰雲城は、帰雲山の山崩れによって埋没し、

城主・内ヶ島氏理とその一族は、全員死亡し、内ヶ島氏は滅亡した。

そして、周辺の集落数百戸も、同時に埋没の被害に遭い、多くの犠牲者を出している。

また、お江ゆかりの美濃国・大垣城が全壊焼失、近江国・長浜城が全壊し、

城主・山内一豊の息女・与祢姫、家老の乾和信夫妻が死亡している。

海破れるたった二行のペンの先  増田佐代子

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    江戸城中の門

「江戸時代、江府内で石垣が崩壊するほどの大地震」

寛永5年(1628)寛永地震、 寛永7年(1630)寛永2次地震、

正保4年(1647)正保地震、 慶安2年(1649)慶安地震、

元禄16年(1703)元禄地震、 宝永3年(1706)宝永地震、

安政2年(1855)、篤姫、和宮らが経験した安政地震の、

7回が記録されている。

木々に風失くしたものに声がある  一戸涼子

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このうち最大級の被害をもたらしたのが、「元禄の大地震」ある。

震源地房総半島沖・25Kmで、推定マグニチュード8.2 という巨大なものであり、

震源地に近い安房、上総や三浦半島では、震度7 の強い揺れが襲ったという。

この地震で、家屋倒壊や土砂の崩落もとより、

巨大津波 も発生し、人的被害も甚大で

江戸を除く、安房、上総、相模、伊豆の地域だけでも、

7千名以上の犠牲者が生じている。

一方、江戸でも、石垣の崩落など地震による大きな揺れがあり、

死者も相当数のぼった。

(この死者のほとんどは、地震後の火災が原因といわれる)

六角に裁断された水の耳  井上一筒

地震は、鎌倉、小田原、箱根などで大きく、

特に小田原での被害は甚大で、

小田原城が大破し、城下町の建物は大破、倒壊が夥しく、

直後の出火によって壊滅状態となった。
 
また、地震直後に発生した津波によって、

相模湾沿岸や房総半島の太平洋沿岸、伊豆半島東岸などが、

甚大な被害を受けた。

ごらんの通り、この「元禄の大地震」は、

今回の「平成の大地震」にそっくりなのである。

台本にない人生にうろたえる  太田 昭

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   江戸城虎ノ門

【江戸城ー豆辞典】

関が原の合戦(1600年)に勝利した家康は、慶長8年(1603年)江戸に幕府を開く。

家康が入城した当初は、道灌築城時のままの姿を残した、

比較的小規模で、質素な城であったため、

全国の大名を動員の天下普請によって、

江戸城造営の本格工事に着手する。

そこはかと飢えたピラニアの輪郭  酒井かがり

慶長9年6月1日、江戸城大増築工事が発令されたが、

実際に郭の石垣工事は、家康が将軍職を秀忠に譲った翌年、

慶長11年3月から藤堂高虎の設計で建設が始まり、

この工事によって、雉子橋から溜池に至る外郭・本丸・二ノ丸・三ノ丸の石垣と

本丸御殿の一部が造営され、

同年9月23日、落成した本丸に新将軍・秀忠が移った。

(この年の6月、お江が家光弟・忠長を出産している)

また慶長12年(1607)五層の天守閣が落成。

(この年から家康は、駿府城に移り、お江春日局の確執がはじまる)

その後16~17年にかけて、西丸の修築工事、

18年~西丸下の石垣工事が、”大阪冬の陣”で中断されるまで続いた。

手加減を知らぬ自然の恐ろしさ  古田哲也

関東・東日本の地震に被災された方々に心より、お見舞い申し上げます。

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できごころ「ニーチェの言葉」買うてもた  浜田さつき

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     現在の余呉湖      

「北ノ庄城終焉」

戦国の常として、敗北した柴田勝家軍からは、

見限った家臣たちが、どんどん脱落していった。

天正11年(1583)4月21日のうちに、勝家本人は北ノ庄城に帰還したが、

勝家の主力1万5千の将兵は、わずか3千ほどにまで減っていた。

もっとも、武田勝頼が滅亡したときには、

手勢数名ほどだった、ことから見れば、

勝家はかなり人望が、厚かったというべきかもしれない。

おむすびの転んだ方について行く  本多洋子

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加藤清正対山路将監の組討ち

4月22日、秀吉は越前府中の前田利家のもとを訪れ、

彼を秀吉隊に合流させた。

そして翌日の4月23日、秀吉は北ノ庄城を包囲し、軍議を行う。

秀吉は、

「勝家が投降するのを待とう」

と家臣たちに、はかったが、

「池に毒蛇を放つがごとく、庭に虎狼を飼うがごとき所業」

と反対され、断念した。

情報にかきまわされぬように生き  上山ヒサヲ

勝家は同日の夜、覚悟の酒宴を行った。

股肱(ここう)の臣のみ80人ほどで、

天主から織田信長からの下賜品などを、引き出して陳列したという。

これは一ヵ所に整理することで、

秀吉方の足軽たちが乱入した際に、

略奪で散逸するのを避けるためだろう。

繰り返し進行形を消している  清水すみれ

酒宴は盛大で、

「珍肴珍菓(ちんこうちんか)、山のごとく前に置き、

 身分や男女の上下なく、酒を酌み交わした」 (柴田退治記)と、

秀吉サイドの記録にも残されており、

秀吉側とは、夜間の「休戦協定」ができていたと見られる。

今日という一日だけのショータイム  北原照子

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   賎ヶ岳・武将の像

勝家の最後の晩餐は深夜には終わり、各人は、勝家お市を残し、

それぞれの持ち場に戻った。

お市の方は

「勝家と秀吉の和睦の人質」
といった立場でもあるので、

両者の和睦が破棄されれば、勝家と一緒にいる義務も理由もない。

勝家も、

「そなたは城を出て生きてくれ」

と説得したが、市は拒んだ。

市は自分の意思で、わずか9ヶ月、一緒に暮らしただけの、

柴田勝家とともに、死ぬことを望んだのだ。

悔いのない今日を重ねてから逝こう  有田晴子

なぜお市が勝家と死ぬことを望んだか?

確かなことは不明である。

「秀吉を嫌悪した」と説明されることが多いが、

「秀吉が嫌い」から「勝家と一緒に死ぬ」では、

話がつながりにくい。

そこまで秀吉が嫌いならば、出家すれば済むことなのだ。

正解はチンして混ぜるだけのこと  藤本秋声

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市の喉仏が納められているという稲増家の土蔵

『さらぬだに 打ちぬるほども 夏の夜の 夢路をさそう  郭公かな』

もう一度、お市の辞世の句を検証してみる。

「郭公(ほととぎす)」 とは秀吉のことをさす。

ホトトギスが、雛をウグイスに育てさせる『托卵(たくらん)』については、

万葉の時代からよく知られていた。

「われわれは、子供たちを秀吉に託して、ともに死のう」

といった意味になる。

原点に戻り小さい方を取る  山本早苗

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       市の碑

”夏の夜の、夢路はかなき、あとの名を 雲井にあげよ、山ほととぎす”

不思議なのは、

「夢路」を、勝家が受け継いでいるところである。

「夢路」とは、夢の中で、ゆきかう道」の意味である。

夢で行き交うもなにも、

市と勝家は、その場で、向かい合っているのだから、

本来の贈答歌の常識から考えると、この箇所はおかしい。

踏み切りで向き合っているモアイ像  北村幸子

つまり、

「市と勝家が共通して知っていて、しかもこの世にはいない人物を詠っている・・・」

とみるのが、妥当な解釈である。

二人はこの贈答歌では、誰を念頭においているのだろう・・・か?

信長かあるいは、市の前夫・浅井長政か・・・

いずれにせよ市は、勝家に対して、

先に極楽浄土へ行った者への想いを、歌で伝え、

勝家はその想いを歌で、答えたということになる。

さざ波をつまんで捨てるピンセット  井上一筒

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 炎上する北ノ庄城(CG)     

ちなみに柴田勝家と秀吉との間で、

お江たち三姉妹は、

秀吉が引き取って、育てることで合意が成立していた。

そして、天正11年4月24日、

秀吉方の総攻撃が始まった。

勝家は天主に放火して、お市とともに自害したのである。

別れ住むひとよいくさのない国に  森中惠美子

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              勝 家 出 陣

『「お江ーわかれ」・あらすじ-第10回の見どころ』

北ノ庄城では、勝家(大地康雄)が、市(鈴木保奈美)と三姉妹との、

最期の別れをしていた。

勝家  「・・・すまぬ。そなたたちとの約束を守れず、

     小谷の時と同じ思いを味わわせることになってしもうた・・・。

     思えば、この半年が、わしの人生の花であった・・・。

     思いもかけず、美しき妻に恵まれ、娘を三人も持つことができた・・・」

そういうと、勝家は市と三姉妹の顔をみつめると、

「さらばじゃ」 と部屋から出ていった。

市  「追うでない!・・・武士にとり、敵に首を挙げられるほどの恥はないのじゃ・・・!」

後を追おうとした三姉妹を、市が制する。

係累を断ってさまよう武士の剣  上田 仁

勝家は、家臣たちと天主の最上階で、最期の宴を賑やかに催した。

部屋に残った市、茶々(宮沢りえ)、初(水川あさみ)、江(上野樹里)は、

秀吉(岸谷五朗)からの遣いを待っていた。

茶々  「小谷と同じことになるのでございますね・・・。」

  「こたびは違う」

茶々  「・・・・・え?」

  「小谷の時と異なるのは、そなたたちは城から逃れ、母は残るということじゃ」

市の言葉に泣き崩れる三姉妹。

適当な言葉が出ない日の焦り  森口美羽

市  「母の生きる場所は・・・もうどこにもない。

    たとえ生き延びたところで、猿の側女にされるだけ」

茶々  「猿の側室・・・」

  「生き地獄よりも、死ぬ道を選びたいのじゃ」

市は、小刀を抜いてプツリと髪を切ると、

文箱から桐の箱を出して、姉妹の前に置く。

その箱のふたを開けると、中には、

姉妹それぞれの好みの帯を使って縫った、袋が出てくる。

死に際の態度笑顔が美しい  竹森雀舎

  「『浮島』・『空蝉』・『東大寺』・・・そなたたちが好きだと言うた香が入っておる」

市はそれぞれの箱の中に、切った髪を三つに分けて置いた。

そして、茶々には浅井長政から賜った刀を、

初には、姉と妹をまとめて欲しいとの願いから、元結を形見に渡す。

そして、江には信長より賜った『天下布武』の印判を渡す。

市  「兄より賜りしものそなたには織田家の誇りを守ってもらいたい。

    ・・・そして、兄上様がそうであったように、そなたはそなたらしく、思うまま、

    生きたいように生きるがよい」

横波を受けて睡蓮の沈黙  森田律子

やがて、迎えの輿と一緒に石田三成(萩原聖人)がやってくる。

市は、三成に三人の娘を頼むと言うと、

自分は残ることを伝える。

  「秀吉に伝えるがよい。娘たちに指一本ふれることあらば、

    この市と、信長が許さぬとな!」

娘たちは泣き叫ぶが、市の覚悟は変わらない。

三人は家臣たちに、部屋から引きずり出されるしかなかった。

決心はダイヤモンドの堅さほど  高田美代子

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江は最期の力を振り絞って家臣の手から逃れると、

母の近くに駆け寄る。

江  「母上・・・」

市  「江・・・」

江  「私が死んだら・・・また母上に会えまするか?」

  「ああ、一番にあえるぞ」

  「では、その日を楽しみにいたしまする」

  「江・・・そなたは希望じゃ。それを忘れるで・・・ないぞ。

    江・・・母を許せよ・・・許せよ・・・」

市は、家臣に江を戻すように目で合図すると、情を断ち切るように、

ピシャリと扉を閉めさせる。

チクタクの音が私を追い抜いた  黒田忠昭

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死に装束に着替えた市の前に、勝家がやってくる。

勝家  「これで良かったのか?」

市  「はい・・・」

勝家  「まことなら、浅井長政殿と逝きたかったであろうにの・・・」

市  「共に命を散らせることを選んだ相手は、あなた様でございます」

勝家  「そうか・・・」

そう言うと、勝家は大刀を抜いて構える。

市は短刀を胸に当てる。

  「茶々・・・初・・・江・・・。さらばじゃ!」

一定の距離の間に深い溝  ふじのひろし

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輿に乗って城から出て行く三姉妹。

突然、大音響とともに天守閣が爆発する。

ふり返ると、天守閣は消え失せており、

激しい炎と煙が、吹き上げていた。

城のほうに駆け出そうとする三姉妹。

だが、四方から伸びる家臣の手が、その行く手を遮る。

その手を振り払って互いに抱き合い、

声を振り絞って号泣する茶々、初、江の三姉妹だった。

江  「(泣きながら)母上・・・!」

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      余呉湖夕景

夢でしか逢えなくなった父と母  中村 和

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生命線も運命線も汗をかく  森中惠美子

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          賎 ヶ 岳 合 戦 図 屏 風

左隻には、大岩砦、岩崎山砦への柴田勢の猛攻、

秀吉方”中川清秀の奮戦の様子”が描かれている。

右隻には、翌日退却する柴田軍と追撃する秀吉軍が描かれ、

”中央に扇を掲げて喜ぶ秀吉の姿”が見られる。

柴田勝家は、清洲会議以後、羽柴秀吉との対立を深め、

ついに両者は、近江余呉湖畔で対陣する。

戦争は平和を守るためでした  矢須岡信

「賤ヶ岳の戦い」

織田家の幼主となった三法師は、

いったん清洲からの岐阜城に戻ったあと、安土城に移るはずであった。

安土城は、”本能寺の変”で、天守閣などは焼かれたが、

すべての殿舎が、失われたわけではない。

応急で新しい御殿も設備され、本能寺の変から三年後に、

近江領主となった豊臣秀次が、安土の城下をそっくりに、

近江八幡に移すまでは、城も町も存続していた。

ところが信孝は、お傅役に予定されている堀秀政らが、

羽柴寄りであることもあって、三法師の引渡しを渋った。

盗癖がある一乗寺下り松  井上一筒

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      岐 阜 城

秀吉信雄、「引っ越しを早くするように」催促していたが、

越前に雪が降って、柴田勢が動けなくなるのを待って、

天正10年(1582年)12月、

勝家の甥で、長浜城主だった勝豊を攻めた。

勝豊は養子であったが、勝家ともうひとつ、しっくりいっていなかった。

そこを見越しての攻撃で、勝豊は二日間で、城を明け渡すことになる。

いけ好かぬ顔向うからやってくる  山本翠公

この報せは、北ノ庄にも届いたが、すでに雪が降り積もり始めており、

勝家は、なすすべもなかった。

秀吉と信雄の連合軍は、こんどは岐阜城を囲んだ。

雪で閉じ込められた越前からの援軍も、期待できず、

信孝は、三法師を引き渡して、安土に移すとともに、

大切な生母と、自身の娘を人質に出さざるえなくなった。

人の世は言葉ひとつで裏返る  皆本 雅

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    柴田軍佐久間隊

悔しくてたまらない勝家は、春になったら秀吉と戦うべく、

各地に手紙を出し味方をつのった。

とくに毛利家では、小早川隆景が秀吉シンパだということで、

兄の吉川元春や、備後にいる足利義昭に味方するように工作をした。

2月になると、秀吉は伊勢の滝川一益を攻めた。

一益は、信長軍団でも軍司令官としては、もっとも有能な武将であったが、

本能寺の変のときに、上野の厩橋にあって北条勢に囲まれて、

逃げ帰ってきたことから、宿老の地位を失い、

領地も旧領の伊勢長島周辺だけになっていた。

あちらこちらにト書きうっかりしておれず  山本昌乃

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  左・秀吉軍 右・勝家軍

いたたまれなくなた勝家は、

3月9日、雪がまだ積もる中で強行出撃をする。

秀吉は急いで軍を近江に戻し、湖北の木之本付近で、柴田軍と睨みあった。

この情勢を見て、動き出したのが信孝である。

美濃国内の稲葉一鉄や大垣の氏家直道といった、秀吉派大名の領地へ攻撃を加えた。

秀吉は、一旦、美濃に転進するとともに、

人質にとっていた信孝の母を、殺してしまうことになる。

このことは当然、信雄も同意していた。

乗せられた船には穴が空いていた  辻 葉

母を人質にとられていたのに、

どうして信孝が、大胆な動きをしたのか判然としない。

信孝の犠牲は、大きいものであった。

この母は、蒲生氏郷夫人である冬姫の母でもあった。

氏郷は、この戦いで秀吉軍の有力武将として、

伊勢で滝川勢と戦っていたのだから、

戦国の掟とはいえ、残酷なことである。

几帳面でおしゃれな母であったのに  柏原才子  

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    攻める秀吉軍

このとき、秀吉が岐阜に向かったのは、柴田軍をおびき出す意図があった。

果たして柴田軍の佐久間盛政は、中川清秀が守る大岩山砦を急襲した。

その近くにある岩崎山砦にあった、高山右近は撤退し、

清秀にも、それを勧めたが、清秀は踏みとどまって戦死してしまった。

武将としての美学を通したのである。

≪ただ、この清秀の頑張りによって、

  中川家は豊後竹田藩七万石の大名として、生き残ることができた≫

向うから仕掛けられたら受けて立つ  堀江くに子

さて、盛政は、緒戦の勝利に酔ってしまい、

勝家の忠告を無視して、羽柴軍を深追いしてしまう。

陣形が伸びてしまったところに、

急を聞いた羽柴軍が、農民に松明を焚かせ、食事を炊き出しさせて、

常識破りのスピードで戻ってきた。

≪午後4時に大垣を出発して、賎ヶ岳までの50キロを、

5時間で走ったと言うから、誇張があるにしても、驚異的なスピードである≫

勝てそうな気がする一丁噛んでみる  有田晴子

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迅速な行動は、羽柴軍の得意とするところ、

盛政軍は、あわてて退去しようとしたが間に合わず、

羽柴軍にさんざんに打ち破られた。

福島正則、加藤清正のほか浅井旧臣片桐且元、脇坂安治など

 ”賎ヶ岳の七本槍”といわれる羽柴軍の若手武者たちが、

 活躍したのはこのときのことである≫

ライバルはおへその裏に棲んでいる  小谷小雪

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 扇をふりあげ奮戦する秀吉

しかも、この戦いでは、

後方を支援するはずの前田利家軍が傍観し、

戦況不利と見ると、早々に戦場を離脱している。

柴田の与力とはいえ、秀吉とは若いときから懇意で、

娘の豪姫を秀吉夫妻の養女として、出しているほどだったから、

もともと、しぶしぶ参加していただけなのだ。

それは、勝家も分かっていたことであった。

そこで勝家は、北ノ庄への帰路、府中の城に立ち寄り、

利家の従軍に感謝し、後事を託して落ちていった。

そのあとに、秀吉が訪ねてきて、利家まつ夫妻に会い和解したという。

こんにちは さよなら言うただけの今日  泉水冴子

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生命線を辿ったら砂漠に着いた  壷内半酔

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賎ヶ岳合戦屏風

「市の人生」

戦国時代、一番の美女と称された

だが、織田信長の実妹であったがゆえに、

その運命は、過酷なものとならざるを得なかった。

政略結婚で嫁いだ北近江の大名・浅井長政とは、

うらやむほどの仲睦まじさであったとされ、

茶々、初、江が、次々に誕生した。

ところが三女の江が生まれてすぐに、市の運命は暗転する。

切り株がいちにち獏の席になる  たむらあきこ

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    勝家が架けた刀狩の鉄で鎖で繋いだ「舟橋」(福井名所)   

信長が、浅井家と古くから盟友関係にあった朝倉義景を攻めたため、

長政と信長の同盟関係は崩れ”姉川の戦い”で、対立は決定的となる。

やがて織田方の大軍によって、本拠の小谷城は包囲され、

長政は父・久政とともに自害、小谷城も落ちた。

市は長政の懇願を受け入れ、娘たちを連れて織田家に帰還した。

市は三人の娘とともに、信長の弟である織田信包を後見として、

信長の庇護を受けながら、清洲城や伊勢上野城で暮らした。

怨みからうらみへ向かぬ針の先  森中惠美子

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    北ノ庄城の鬼瓦

だが、夫の仇である兄に対し、市の心境は複雑だったはずだ。

その後、"本能寺の変"で信長が死に、明智光秀、羽柴秀吉に倒されると、

市は娘たちを連れて、柴田勝家と再婚した。

市たちは”越前・北ノ庄城”に迎えられたが、

結婚の翌年、信長の後継問題で秀吉と対立した勝家が、

”賎ヶ岳の戦い”で敗れ、

篭城した北ノ庄城は、秀吉軍に取り囲まれてしまう。

人の世を底なし沼と言うらしい  浜田さつき

北ノ庄城への攻撃は、4月23日に始まる、も翌日には大勢が決し、

勝家は、「敵の手で討ち取られるよりは」

と、自決する覚悟を述べ、

「城から落ちたいものは、好きに出て行くよう」

に認めたにもかかわらず、そこに残った家臣や妻妾たちは、

「勝家とともに果てる」ことを望んだのだという。

市に対しても、勝家は、

「娘たちとともに、秀吉に帰順せよ」

と諭したが市はそれを拒否した。

女の過去に負けぬ男の深い傷  高原まさし

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しかし、勝家は執拗に、

「浅井家の血を絶やしてはならない」

と遺言し、娘たちだけを秀吉の陣に、送り届けさせた。

その後、一族そろって念仏称名を唱え、この世に別れを告げ、

おのおの自決したり、差し違えたりと地獄絵が繰り広げられたという。

『長政を失って以降の「市の人生」は、

 自らの死に場所を探し求めるものだったのかも知れない』

競争の最たるものは生きること  三宅保州

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勝家を父に認めて、なごやかな北ノ庄城

「お江・『義父の涙』-あらすじ」

秀吉(岸谷五朗)は、京の大徳寺で信長の葬儀を、盛大に執り行った。

だが、その葬儀は、越前の柴田勝家(大地康雄)市(鈴木保奈美)たちには、

知らされていなかった。

明らかに勝家に対する挑発であった。

勝家  「猿をこのまま捨て置くわけにはいかぬ」

茶々  「秀吉との争いになるのですか?」

  「戦が起こるのですか?」

  「戦はいやにございます!」

勝家  「文を書くのじゃ」

茶々  「ふみ?」

勝家  「秀吉の手前勝手なふるまいを面白からず思うものは少のうない。

     皆に声をかけ、猿を黙らせてくれるまでじゃ」

噛み付いた言葉の奥の不眠症  山本芳男

だが、秀吉は黙ってはいなかった。

秀吉は、勝家の所領である近江の長浜城を、攻め落としたのであった。

長浜城は、もともと秀吉が浅井・朝倉攻めの手柄として、

信長より拝領し、秀吉にとっては初めての城だった。

だが、「本能寺の変」後の清洲会議で、勝家の所領と決まったのであった。

秀吉は、

「もともと自分の城だったものを取り返したのだから何が悪い」

というが、明らかに勝家に対する挑発以外の、なにものでもなかった。

里芋の葉っぱ被っているルパン  井上一筒

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市は相手が秀吉だけに、「これだけでは終わらない」と感じていた。

そして、秀吉による更なる挑戦が始まった。

岐阜の織田信孝(金井勇太)のもとにいた幼い三法師(庄司龍成)を、

力づくで奪い取って、安土城に住まわせるようにしたのだという。

「三法師は、信長の跡取りに決まったのだから、安土城に入るのが当然だ」

というのが、秀吉の言い分だった。

確かに理は通っていた。

だが、何万もの兵で城を囲むのは、あまりにも度が過ぎていた。

拭き取ったがもう一つ奥の顔見えず  小谷竜一

勝家の怒りは、既に沸点に達していた。

いつもだったら即座に出陣であった。

だが、今は大切な家族があった。

家族の為にも、なるべく戦はしたくなかった。

信孝からは、「年があけたら挙兵するつもりなので、一緒に戦おう」

という書状が届いた。

そして、年が明けた天正11(1582)年の正月。

信孝が、秀吉相手に

挙兵し、志を同じくする大名たちも加勢した。

だが、簡単に、やり返されてしまったのだ。

味方だと思い込んでた敵の敵  笹倉良一

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信孝からの書状を読む勝家は思わず言う。

勝家  「この時期に無茶なことを・・・・。共に立てば猿を挟み打ちにできたものを・・・」

  「戦は避けられないのですね・・・」

勝家  「わ、わしは、そのようなことはいうておらぬぞ。・・・うむ。ひとことも言うておらぬ」

その夜、市は勝家が寝床から抜け出していることに気付き、捜しに行く。

すると、勝家が夜着一枚で、じっと月を見つめていた。

その表情は、必死に何かを堪えている様子だった。

谷底でいくら満月眺めても  谷垣郁郎

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翌日、市は娘たちを説得する。

  「敵方にああまでされたら、行くしかないのが男というもの。

    なのに、ひたすら耐えておられる。

    勇猛な戦いぶりで名を轟かせ、鬼柴田とまで呼ばれたお人がじゃ。

    勝家様が心置きなく戦うには、そなたたちの助けもいるのじゃ」

茶々  「私にはわかりませぬ」

市  「茶々。そなたは浅井の父・長政様の死を心より悲しんでおる。そうじゃな?」

茶々  「無論です。それも戦で命を落とすなど・・・」

市  「しかし父は果たして、哀れなだけ、不幸なだけであったのか・・・?」

茶々  「・・・どういうことでしょう?」

玉手箱置き忘れたか母の海  ふじのひろし

  「誇りを貫き、武士として死ねたことは、父の喜びではなかったか・・・。

    女にはわからぬが、敗れようとも戦って死にたい、それが男なのやもしれぬ」

  「私たちと別れてもですか?」

  「そうじゃ。長政様ばかりではない。私は兄・信長も見てきた。

    その兄を討った明智光秀殿も同じ思いで死んでゆかれたのであろう。

    ・・・男とは、武士とは、かくも不可思議な生き物なのじゃ」

茶々 「・・・とめぬことは、できぬのですか?」

市  「これ以上とめるのは、死ねというよりむごいことやもしれぬ。・・・勝家様は男ゆえな」

知らぬ間に相手の踏絵踏んでいた  武本 碧

市の必死の説得により、茶々(宮沢りえ)初(水川あさみ)は、

勝家の出陣を認めることにした。

二人の申し出に勝家は喜んだ。

だが、江(上野樹里)だけは認めなかった。

  「義父様は約束なさいました。戦はせぬと仰せになりました。なのに・・・。

    義父上は嘘つきにございます・・・」

横槍を入れてきた来たのは赤ワイン  井上恵津子

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やがて、出陣の朝となった。

勝家は、市、茶々、初に見送られて出陣することとなった。

だが、江はとうとう姿を見せなかった。

諦めて行こうとしたところ、江が息せき切って駆けてきた。

江は、布袋を勝家に手渡す。

お守り袋であった。

それは、二日間、寝ずに縫ったもので、

不細工だが、義父・勝家に習った刺繍も施されてあった。

江の手は、その悪戦苦闘が物語るように、針傷と膏薬だらけだった。

矢が当たるまでは自由な夢を見る  武智三成

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お守り袋というからには、中身のお守りがなければならなかったが、

中身までは考えてなかった。

すると、勝家は市に促されて「天下布武」の印判を中に入れた。

勝家にとっては最高に心強いお守りが出来た。

勝家  「では、行って参る」

市  「存分に戦って来てくださいまし」

勝家  「うむ」

市と三姉妹が見守る中、

軍勢は動き出し勝家の姿も少しづつ小さくなっていく。

すると、江はたまらなくなって走り出した。

そして、泣きながら叫ぶのだった。

サヨナラの言葉の先を聞きのがす  中野六助

拍手[6回]

戦は済んだポッカリ浮いている  谷垣郁郎

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     鬼の柴田

「柴田勝家伝」

武勇に秀で、無骨な性格のため「鬼柴田」とも称された柴田勝家

織田信長の筆頭家老であった勝家は、最初から信長の家来ではなかった。

信長の弟・信勝の家臣で、最初に信勝が兄・信長に反旗を翻したときは、

信勝軍として戦っている。

ところが、二度目の謀叛のときには、

その動きを信長に密告し、信勝は殺されている。

その功があって勝家は、信長の家臣として迎えられることになった。

遮断機の前に待つのも命がけ  三宅未知子

こうしたいきさつがあり、赦免されてからは信長に絶対の忠誠を誓い、

重鎮として重用された。

天正3年(1575)、信長が”越前一向一揆”を平定したあと、

越前のほとんど、といってよい八郡を勝家に与え、

その後、越後の上杉謙信・景勝との戦いで最前線に置かれ、

北陸方面軍司令官として、

”加賀一向一揆”との戦いでも活躍している。

ジャンプして月に手形をつけました  嶋澤喜八郎

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    北ノ庄城の模型

居城の北庄城には、「九重の天主」が聳えていた。

これは、信長の安土城天主を上回る大きさである。

これからでも、いかに勝家が信長に、信頼されていたかわかる。

しかし、信長死後の明智討伐しかり、

勝家の大きさは、信長がいての勝家だった。

軽トラで盗めぬ知恩院の鐘  井上一筒       

信長死後、お市の方と結婚。

三姉妹ともども越前の北ノ庄城に暮らすが、

義父として、無骨ながらも深い愛情を注ぐ。

父・長政の記憶がないおにとっては、

男親の愛情というものを、身をもって教えられた男かも知れない。

握られた火照り今夜は眠れない  杉本克子

天正10年(1583)、賎ヶ岳の戦い」で敗れたあと、

北庄城での勝家の最期は、「鬼柴田」の異名をとった、

いかにも、「勝家らしい身の処し方」として、

のちのちまで、伝えられている。

落城前夜、最後の酒宴を張り、

そのあと、茶々、初、江の三姉妹を城から出し、

再婚したばかりのお市の方と自害する。

このとき、天守閣にのぼり、

「修理(勝家のこと)が腹の切りざま、見申して後学に仕候へ」

と叫び、

”腹を十文字に割き、五臓六腑までかきだしてから介錯させた”という。

≪これが切腹のときの正式な作法だった≫

石よりも固い頭が邪魔になり  橋本 康

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二人の辞世の句は、次の通り。

『夏の夜の 夢路はかなき あとの名を 雲井にあげよ  山ほととぎす』

                          柴田勝家1583年4月24日没 享年62歳

≪名を惜しむ武士の心が読み取れる≫

『さらぬだに うちぬる程も 夏の夜の 別れを誘ふ ほととぎす』

                          お市の方1583年4月24日没 享年37歳

≪夫婦共に、ほととぎすを読む情の深さを感じる≫

勝家の”夏の夜の”を、市がそれを拾い句に添えた、市の愛情の証拠である。

≪これは、二人が自害する数時間前に、向かい合って詠み残したものと推測される≫

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柴田神社(北ノ庄城の跡地)

≪北ノ庄城公園の中に柴田神社がある。

  柴田勝家を主祭神とし、妻のお市を配祀している≫

男は土に女は風に死ぬという  森中惠美子

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