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川柳的逍遥 人の世の一家言
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居酒屋の壁にぐじぐじ独り言    新家完司



「鎌倉町 豊島屋酒店白酒を商う図」
江戸最古の居酒屋神田川沿い鎌倉河岸の豊島屋では、一杯の酒と田楽が
二文で売られ、行商人、日雇い、船頭馬方、奉公人で賑わった。
(尚、豊島屋は慶長元年(1596)の創業で、現在も東京都千代田区
猿楽町に本店を置いて事業を続けている)



「江戸の風景」 居酒屋・屋台……川柳で綴る

庶民が気軽に腹ごしらえ、あるいは気晴らしの飲食に利用したのが、
いわゆる「居酒屋」である。
居酒屋は、酒の小売店が一杯酒を飲ませたのが、そもそもの始まりで、
「居ながら」飲むことに由来する。また、さまざまな煮しめなどを売る
煮売り屋が、酒も飲ませる「煮売酒場」となり、ここでも居酒屋の客と
同じ風景が、数々の川柳に詠まれている
煮売屋へなんだなんだと聞いて寄り
黒鯛をたてもににする煮売店
居酒屋でねんごろぶりは立って呑み
※ 常連客が店を覗いて「今日の魚はなんだい?」と亭主に訪ねる。
それまでもなく、立物(目玉商品)は「黒鯛だよと看板にあり」、
その横では鮟鱇が、自慢げに軒につらされている。


気分屋の鬼と半身で呻る酒  上田 仁



酒や簡単な料理を出す煮売り屋の様子が描かれた絵


煮売り屋でつまみ食いするあぶら虫
居酒屋で止めた子細は革羽織
居酒をば仕らずともむごく書き
※ 油虫とは、無銭飲食をするやから。革羽織は、鳶の頭や職人の棟梁
らがよく着るが、ときにはならず者が、こけおどしに着ることもあった。
いわゆるやくざっぽい男が着る定番の革ジャンである。
そんな連中に出入りされると、しだいにほかの客の足が遠のき、
やがてはあ閉店においこまれる。つまり「仕らず(つかまつらず)」
つまり商売にならず店仕舞いに追い込まれるのである。


赤鼻のトナカイの前足の煮こごり  酒井かがり




居酒屋は鰓(えら)を吊るすを見栄にする
鶏の羽衣居酒屋の軒にさげ
お手前らあんどんの燗酒知るめえが
※ 店先の軒の下には、酒の肴の「ゆでダコ」「野鳥」「魚」を吊り下
げており、どのような魚が店にあるかを知らせていた。
注文とともに日本酒に燗ををつけるのは、江戸時代からの食文化である。



真夜中の湯割りに浮かぶお釈迦様  中川隆充



江戸庶民の食事処
絵の左下にチロリがみえる。
チロリとは酒を温めるのに使う銅や真鍮製の筒型の容器。



八文は味噌を片手へ受けて飲み
有りやなしやと振ってみる角田川
徳利は井戸へ身投げの冷やし酒
※ 居酒屋で酒の肴といえば、田楽豆腐をはじめ、湯豆腐、ふぐ汁、
スッポン煮、あんこう汁、マグロの刺身、そして鍋物のネギマや野菜、
軍鶏の鶏鍋など、豊富なものだった。
その酒の肴は、お膳、折敷という低いお盆のようなものに器をのせて
床や床几の上において座って飲食をした。
酒は徳利でなく、「チロリ」という容器に酒を入れ、銅壺で湯煎して
温め、いい温度になったらチロリを席まで運び、そこから酒を注いで
飲んでいた。


ビールの泡を美味しく飲ませる備前焼 靍田寿子 



  近江居酒屋



つまるところ酒屋のための桜咲く
薬代を酒屋へ払う無病もの
酒樽もすでにさいごのいきづかい
※ 居酒屋をはじめ、飲食店の繁盛はめざましかった。
「岡田助方の風俗随筆『羽沢随筆によれば、
「凡そ都下に、食類を商う店の多き事。わずかに2、30年以来なり。
近き頃、何れよりか赤坂池のほとりに、市店が移されしが凡そ3、4町
が程、終に字して、赤坂食傷町(グルメ街)と唱う」とある
寛政7年(1795)には、江戸の酒の消費量が93万樽に達し、文化
8年には1808軒の居酒屋があったという。
(これは今日の酒場・ビアホールの割合とほぼ同じである。そんな中、
安政3年に江戸下谷に「居酒屋・鍵屋」が誕生。今もその建物が小金井
桜町に「江戸東京建物園鍵屋」として残り、見学ができる)



聞き役が酔ってしまってごめんなさい  新川弘子



 
   酒のみ道



「おまけの10句」
たいこ医者お燗の脈をみるばかり
 小判にて飲めば居酒も物すごし     
二日酔い飲んだ所を考へる
ぼた餅をこわごわ上戸ひとつ食い
神に下戸なし仏には上戸なし
忍ぶれど色に出にけり盗み酒
神代にもだます工面は酒が入
剣菱も百万石もすれ違い
酔覚めの水のうまさや下戸知らず
禁酒して何を頼りの夕しぐれ



満開の屋台に寅さんがひとり  桑原伸吉



※ 江戸期に誕生した居酒屋には、二つのルーツがあったという。
「茶屋/煮売茶屋と酒屋」だ。古くから街道沿いで団子などの軽食や
お茶を出していた茶屋が、江戸期に芝居茶屋や料理茶屋へと進化。
一方では明暦の大火からの復興需要で、爆発的に増加した人口を
養うために発展した煮売屋台が登場。ファーストフード的に手軽な
煮物や焼き物と茶や酒を提供したものだったが、これが常態化して
煮売茶屋へと変化し、店舗数を増やしていった。



ポイ捨ての種から百の物語  合田瑠美子



高輪廿六夜待遊興の図
江戸高輪の月見の様子が描かれている。
右から、氷菓子屋、寿し屋、水売屋、焼イカ屋、天婦羅屋、
二八蕎麦屋、麦湯屋、団子屋、汁粉屋、などの屋台が並んでいる。



「屋台」
居酒屋より、いっそう身近で簡便な存在が「屋台」である。
「屋台見世は、鮓・天婦羅を専らとす。その他皆食物の店のみ也。
鮓と天婦羅の屋台見世は、夜行繁き所には、毎町三四か所あり」
『守貞謾稿』とあり、「天婦羅の味方に夜鷹蕎麦屋つく」の句があり、
相性のよさから、寿し・天婦羅に蕎麦を加えて「三大屋台」といった。



どこ行った天六角のたこ焼屋  雨森茂樹



下卑た風鈴湯気のたつ上でなり
客二つ潰して夜鷹三つ喰い
※ 蕎麦売りの屋台には、よく風鈴が吊るされていたところから
「風鈴蕎麦」といい、夜鷹と呼ばれる下級の女郎に親しまれていたので
「夜鷹蕎麦」といった。夜鷹の遊び代は、24文二人分で48文、これで
蕎麦三杯は食べられるという勘定である。


花陰で手招きするは老いた魔女 油谷克己



「近世職人尽絵詞」
明暦の大火(1657)からの復興事業以降、江戸では、外食を求める
独り者に食事を提供する煮売屋台が出現。にぎり寿し、鰻や天婦羅など
江戸の味が連なり、それがやがて居酒屋に並ぶようになる。



天婦羅の店に蓍(めどき)を建てておき
天婦羅のゆびを擬宝珠へ引きなすり
※ 蓍は、占いに用いる50本の細い棒。屋台の天婦羅は串揚げなので、
食べた後のその串が易者に筮竹(ぜいちく)のように置かれている。
油のついた指を橋の擬宝珠に行儀の悪い連中がいた。
妖術という手で握る鮓のめし
にぎにぎを先へ覚える鮓屋の子
押し鮓やなれ鮓に目が慣れているから、目新しい握り鮓を握る手つきが
妖術にも見えるというのである。


いい風を入れようひとり暮らしです  阪本こみち



「大江戸芝居年中行事 風聞き」
二八蕎麦に並ぶ庶民の様子が描かれている。



四文屋は吉田町では台屋なり
本所の吉田町は夜鷹で有名。台屋は遊里の仕出し屋。
四文一とは、なんでも四文均一のこと。
(これが回転ずしのルーツである)
佳肴(かこう)珍味を盛りならべ四文一
※ 煮売屋は、何でも一つ4文で売ったことから「四文屋」とも呼ばれ、
焼き豆腐、コンニャク、鮑、スルメ、レンコン、刻み牛蒡、
などを醤油で煮ぞめ、大皿に並べ売っていた。
また魚や野菜のどの煮物を食べさせた、持ち帰りができた。



盃を伏せて男の今日終わる  佐藤后子

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ストーカーとして残暑を逮捕せよ  美馬りゅうこ


 
 (画像は拡大してご覧ください)
 小伝馬屋敷と振袖火事




町牢屋敷の広さ
高さ7尺8寸(約2、4m)の練り塀でめぐらした敷地2618坪(86
39㎡)。 うち、牢屋奉行屋敷380坪、牢屋役人の長屋、庶務所、
炊事場、米蔵、米搗き場など台所、薬調合場、拷問蔵、処刑場、試し切り
場などで、全体の6割ほどを占め、残りの敷地に、男と女を別にした大牢、
二間牢、揚屋がそれぞれ二つずつとなっている。

「江戸の風景」 小伝馬町牢屋敷 (犯罪‐人情美談)





  小伝馬町牢屋敷断面図

 
江戸小咄の中にある犯罪を拾ってみると、殺人とか強盗とか詐欺、汚職
や横領、煽り運転や愉快犯などという、今流行りの、呆れるような犯罪
はありません。江戸小咄の中の犯罪は、みんな愛嬌があり人間的でした。
しかし、どういう犯罪でも、見つかって捕えられれば、牢屋にぶち込まれ
て調べられて罪が決まる。
軽いのは敲かれる程度で釈放ですが、重いと島流しや死刑になります。
しかし、次のような嘘のような本当の話も実際にあってようです。
江戸時代は、十両のカネを盗むと「死罪」と決まっていました。
 泥棒、そこで九両二分三朱まで盗んで、あとの一朱をとらないという
法律通がいたといいます。そういう泥棒を捕え調べて、一朱足りないた
めに奉行が「死罪を課せられない」「どうして九両、二分三朱なんだ」
と言って、口惜しがったことがままあったとか。

 
人間てどんならんなとカラス鳴く  宮井いずみ


 
「実際はそんな馬鹿げたものじゃありません」
慶長年間(1618~)に牢屋ができてから、明治になって市ヶ谷の監
獄ができるまで、270年間は江戸市中で捕まった犯罪人は、小伝馬町
の牢屋に連れて来られました。
60万人の大都市の江戸の犯罪者すべてを、この牢屋敷でまかなってい
たのです。どうして賄うことができたのか。軽罪人は、町奉行所の牢や
町名主や身元引受人に預けられることもあり、裁判のほとんどが、1回
の即決で放免される者が多かったこと。また当時は死刑が刑罰の主流で、
今のように判決から執行まで時間はかからず、判決後ベルトコンベア式
に死刑執行されていました。また牢内の衛生状態の悪さと、牢名主らに
よるリンチなどによる牢死者も多かったことで、牢内はオーバーフロー
することはなかったのです。

 
キセル繰り返した駅に降りてみる 竹内ゆみこ

   小伝馬町牢獄内の「牢法」
江戸時代の牢内では、入牢式から雪隠の使用方法まで
独特な習慣(法)があった。

 
牢屋敷は、現在でいえば未決囚の収容所で、一時的に留置しておくため
のもので、牢獄は「重罪人用、軽罪人用」とあり、「東大獄と西大獄」
の2つに分けていました。囚人の数は、多い時には400人、少ない時
でも100人以上が常時いたようで、獄舎は身分によって区分けされて
おり、庶民は大獄二間牢、御家人・大名家臣・僧・医師らは揚り屋、
旗本・高僧・神主らは 少し設備のいい揚り座敷、女性は身分の別なく
西の揚屋に収容されたようです。
そして東大獄には、戸籍のある有宿者を、西大獄には、戸籍がない無宿
者を収容していました。この無宿者収容の西大獄が、文字が示すように
大変なところだったのです。
 
予約などないのに列について行く   山口ろっぱ 





    牢 内

 
「地獄の沙汰も金次第」
牢内の囚人には、厳粛な序列制度があり、役人も手出しができません。
暗黙の「牢法」というのがあり、囚人のボス「牢名主」を筆頭として、
12人の牢役人と呼ばれる囚人たちが、獄中を統治していました。
この牢役人は、新参の犯罪者がどんな犯罪を犯して捕まったのか、家庭
環境などを吟味して、待遇が決められていました。牢役人による統治は、
苛烈を極め、地獄の様相そのままだったようです。
牢名主は、10枚ほどの畳を重ねて、最も高い場所に座ったのに対し、
平の囚人は一畳に8人から10人がすし詰めで座し、まともに足を延ば
すことすらできず、拷問に近い状態を強いられたのです。
少しでも広いスペースをもらうには、入牢時に少しでも多くの持ち金を
牢役人に渡したり、何か物を差し入れする事がコツでした。

 

冷蔵庫に寝かされ一日は黙る  山本早苗


 

 
「犯罪を示談ですます」
間男は列記とした犯罪です。
しかし、江戸時代のこの犯罪は、大方、示談ですませたといいます。
時代によって差がありますが、その慰謝料は五両とか七両二分とか。
いまは「不倫は文化」と言われるように週刊誌のタネにはなっても、
男女平等の憲法下では、犯罪にはなりません。
しかし、三つ四つほど時代を遡れば、「姦通罪」というのがあり、
不義密通の罪は、放火、強盗、殺人などに次ぐ重い罪なのです。

 
わたくしだって真っ直ぐだった中二まで  杉浦多津子

「江戸小咄ー①」
ある男、間男を女の亭主に見つけられて、いろいろと詫びをして、
結局のところ四両払うことにして、ともかく自宅へ帰る。
そして男が女房に
「カネを四両出してくれ、これこれだ」と包まず話せば、女房が
「一回やって四両かい」
「おおさ」
「それなら、お前さんあの人のところへ行って、差引勘定だからと言って、
あべこべに四両とっておいで」
こっちの女房は、カネを請求してきた男と二回お遊びしていたようで…。

 
ばれたらしいともかく土下座しておこう  前中一晃

 
「ちょっと泣ける話」
「火事、喧嘩、伊勢屋、稲荷に犬の糞」これは江戸市中で目立って多い
ものをランキングしたもので、やはり群を抜いて火事が一位でした。
 万治3年(1660)正月2日から3月24日までの3か月足らずの
間に105回も出火したという記録が残っているくらいですから。
「万民昼夜共に安座の心なし」と火事は、江戸の民衆を嘆かせました。
とにかく江戸は火事に弱かった。江戸幕府が設立されて半世紀、安寧の
世になって、気の弛みもあったのかも知れませんが、当時の家屋の屋根
は藁ぶき、茅葺き、板葺きが主だったから、防火という点では全く無力
で焚火造りの家屋の密集だったのです。



 
右足はもう結界を踏んでいる  森田律子






 火元は本妙寺(俗説)

 
江戸時代の三大火事の一つ明暦3年(1657)1月18日から19日
に跨り「振袖火事」とも俗称されている、本郷丸山の日蓮宗本妙寺から
出火した大火がありました。死者の数凡そ7万人以上、負傷者数知れず、
江戸城の天守が消失、町の大半が焼失した明暦の大火災です。
 いわくつきの紫縮緬の振袖を、本堂の前で焼いて供養をしていると、
火のついた振袖は、折からの季節風に煽られて本堂の屋根に燃え移り、
やがて四方八方へ飛び火して、衝撃的な火災となりました(他説もあり)
江戸城本丸を含む江戸府内の、ほぼ6割が焦土と化し、死者の数は凡そ
10万人、負傷した者数知れず、天火未曽有の大火事でした。


 
終る刻コトンと音がしませんか  桑原すゞ代





    切 放 し
 
この明暦3年の大火の際、小伝馬町牢屋敷の奉行の任に石出帯刀吉深
(よしふか)就いていました。石出帯刀は世襲名で町奉行の配下にあり
給料は、めちゃめちゃ安い300石。
任務は牢屋敷一切の監督取締り、死刑、敲の執行、赦免や宥免の申し渡
しの立ち会いなどです。ここからが泣ける話です。
 この明暦の大火の鳴りやまぬ半鐘の音を奉行屋敷で聞いた石出吉深は、
焼死が免れない立場にある罪人達を哀れみ、「大火から逃げおおせた暁
には必ずここに戻ってくるように…。さすれば死罪の者も含め、私の命
に替えても必ずやその義理に報いて見せよう。
もしもこの機に乗じて雲隠れする者が有れば、私自らが雲の果てまで追
い詰めて、その者のみならず一族郎党全てを成敗する」
と申し伝えた上で、一時的に解き放ちを独断で実行しました。
囚人とはいえ人の子です、吉深は囚人たちを信じ、後日お咎めがあった
際には、自ら腹を切る覚悟であった。三日目に鎮火してその三日後から、
囚人たちは吉深と約束を交わした場所、浅草の善慶寺へ1人、2人と戻り、
120人程いた囚人は全員戻ってきたのです。
 


感涙に土足で入り込まないで  西 啓子
          

「江戸小咄ー②」
夜中に、「火事だー」という声を聞いて、亭主が
「おいおい、起きろ!」
と寝ている女房を揺り起こそうとすると、女房けだるそうに、
「今夜は、もう堪忍しておくれ」
(飛んだ気楽な火事騒ぎです)
 
阿保ばなし酢だち絞って召し上がれ  桑原伸吉





  「十思之疏」
 


当時は、10両以上の盗み、3回以上の盗みには、死罪が言い渡された
時代でした。 明治8年に伝馬町牢屋敷にいた囚人たちを新築の市ヶ谷
監獄へ移すまでの約270年間に、入牢者は10万人、そのうち数万人
が処刑されたと言われています。 
寛永16年(1639)には、原主水ら江戸キリシタン1500人余り
が入牢し、宗旨変えをしなかった信徒たちを、浅草の鳥越刑場で処刑し
ています。他には、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎ら維新の志士50
人処刑されました。その場所も今は福祉センターが立ち。
宋の司馬光の「十思之疏」が石板にして飾られています。
人の上に立つ者の心得として、10カ条がありますが抜粋して三つだけ。
①欲しいと思っても、足りれば十分であることを知って、徒に多くを望
 まないこと。
②満ち満ちている時には、心をおさえて奢ることがないようにすること。
③刑や罰を行う時には、怒ったあまりに、不適当な刑や罰にしてしまう
 ことのないようにすること。


 
サボテンよ罪滅ぼしが間に合わぬ  山本昌乃


 
「土壇場」とは、江戸の小伝馬町の牢屋で生まれた言葉で、
首切りの刑の穴の前の土の壇をが語源になっています。
「江戸小咄ー③」
泥棒で捕まった男、刑死の土壇場で
「この世の名残に辞世の歌を…」 というので首切り役が
「盗っ人のくせに和歌をたしなむとは風流な奴じゃ。
よしよし聞いてやるから、どんな歌だか詠んでみろ」というと
「かかるときさこそ命の惜しからめ かねてなき身と思い知らずば」
と深刻ぶって詠みあげた。
途端に聞いていた人たちが怒り
「馬鹿め!それは太田道灌の詠んだ歌ではないか!」と言うと
「はい。これがこの世での盗み納めでございます」


世はうねり妙な正義が巾きかす  近藤北舟

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骨壺を振ってときどき会話する  三村一子


八百屋お七と佐兵衛
「江戸の風景」 治安③ 残酷刑罰




         穴 晒 箱



戦国の時代は、決まった形はなくさまざまな「残酷刑罰」が存在した。
江戸時代は、人心の安定のため社会のあり方にも、少しづつ変化が見え、
17世紀の終わり頃には、五代将軍・綱吉が「生類憐れみの令」を制定し、
「捨て子の禁止」「行き倒れの病人の看護」を命じる時代になると、
人道的な感覚も出てきた。
例えば、土の中に体を埋めて頭だけを外に出し鋸で少しづつ首を切る
「鋸引仕置」という残酷な刑罰がある。
戦国時代は、実際に首を切っていたといわれているが、江戸時代には
形式的なものになった。
穴晒箱(あなさらしばこ)という箱を土中に埋め、罪人を座らせ首だけ
を外に出す。側に鋸を立てるが、罪人の肩を傷つけて刃に血液をつける
だけで、実際に首を切ることはなかった。

月の出を待って介錯いたします  笠島恵美子


  鋸引仕置の図
「鋸引仕置」 (レベル5)反逆罪など
50センチ四方の木箱に罪人を入れ、首だけ外に出して土中に埋める。



鋸仕置は主殺しなどの重罪人に適用される刑だが、この儘では死なない。
二晩三日晒した後、市中を引き廻し最後に磔にするという流れだ。
江戸時代の死刑にも罪の重さによって殺し方があり、斬首、磔(槍で刺
し殺す)火炙りにするの3パターンがある。
ここに付加刑として「鋸仕置」「獄門」「引き廻し」がある。
当時は、罪人の自白が重要視された。
証拠や証言などで罪状間違いなしという場合でも、自白が求められ、
口を割らなければ、「拷問」にかける。
最初は「笞(むち)打ち」それで駄目なら「石抱」(山型に組んだ木の
上に正座させ、重い石を膝に載せるというもの)になる。
自白がなくても、結果的にはお上の裁きで刑罰が下るので、意味のない
ことのように思えるが、当時は、自白の目的は改心させることにあった。

菜の花の一つがうしろ向いたまま 嶋沢喜八郎



   磔 刑 の 図
「磔刑」(レベル4)  殺人など
女は足台のついた十字の罪木に縛る。男は複十字型の罪木に縛る。
処刑の際は槍を脇腹から肩先まで貫き、ひとひねりして抜く。



仏像を間近に罪を数えてる  松本としこ


        火 刑 の 図
「火刑」(レベル4) 放火
死刑のなかでも、火炙りは極刑である。
生きたままの罪人を柱に縛り、体が見えなくなるほど薪を積み上げ、
風上から点火し、生き地獄のすえ絶命した死刑囚の鼻を止め焼き殺した。
焼死体は二夜三日晒して見せしめにした後、捨札は30日間立て捨てた。




「放火犯の報復刑」と呼ばれ「火付けには火あぶり」というのが、江戸
の刑罰の原則で、火つけの罪は火あぶりと決まっていた。 
放火が厳罰に処せられるのは、江戸の町が木造建築の密集地帯のためで、
江戸はたびたび大火に見舞われたが、その原因としては放火が多かった。
女や子供でも、火つけの場合は、容赦なく火あぶりが待っていた。
ただ江戸時代、この刑になった女性は「八百屋お七」ただ一人である。



躓いたところへ飾る余命表  桜 風子
        


   獄 門 の 図
「獄門」(レベル3) 窃盗など
死刑のなかで獄門は一番の重罪。斬首のあと、首を獄門台にのせ、三日
二晩刑場に晒す。台には長い釘が突き出て、首を刺すようになっている。



遠島出船の図
「遠島」(レベル2)  賭博など
刑罰の一つである「流刑」「遠島」(島流し)ともいった。





追放より重く、死罪より軽いが、「誤って人を殺してしまった者」、
「賭博の常習者」、「女犯の僧」などがこの刑に科せられた。
江戸時代の主な流刑地は、江戸からは、伊豆七島や佐渡島へ送られ、
大阪以西からは、壱岐、隠岐、天草諸島だった。
時代が下ると、八丈、三宅、新島の三島と壱岐に限られる。
島での生活では、労役はない。
しかし生活は保障されず、自分で生きるのである。だから流人には、
貧しい生活の者と楽な暮らしの者の二通りが存在するようになった。
職人は腕を活かし、学識のある者は手習いを教え、僧侶などは、
島民に布施をもらって比較的楽に暮らせたという。
島から脱走して捕まると、再度、島に戻され処刑に処された。

散骨にしてくれ閉所恐怖症  播本充子






敲(たたき)仕置の図
敲仕置 (レベル1) 窃盗
古来以来の刑罰「笞」「杖」の系譜に繋がるもので「敲仕置」がある。
「軽敲」は鞭で50回、「重敲」は100回以上打つ。
裸にして背後から押さえつけ肩、背中、を敲く。

         
江戸の小伝馬町牢屋敷では「笞(むち)打ち」「石抱き」「海老攻め」
などの拷問が行なわれた。笞打ちは、上半身を裸にし、左右の肩の背後
まで締め上げ、背中の筋肉を肩先まで押し上げてから縛る。
ムチが骨を砕かないようにするためである。
最初は打ち役は一人。
竹で囚人の肩を力をこめて敲き、与力が尋問する。
自白しなければ打ち役二人が左右から打ち、牢役人が水を浴びせて皮膚
の破れを防ぐが、肌はもはや真っ赤で湯気が立つ。
やがて皮膚が裂けて血が走るので、砂をかけて血止めする。
100回ほど打っても自白しなければ、殺さず、その日は牢へ戻す。
こうして、数日に渡って厳しい攻めが続く。
無住寺へバキュームカーを置き忘れ  井上一筒





 石抱きの図
笞打ちで自白しない者には第二段階として「石抱き」をさせる。
さらに第三段階は「海老攻め」が待っている。
石抱きとは、座った膝の上に13貫目(49k)の石を置く拷問。
それでも口を割らないと、石がもう一つ重ねられる。
海老攻めは、下着だけにした囚人を、脱いだ着物の上で胡坐をかかせ、
足首を左右重ねて細引きで縛る。
両手を背に回させ、二の腕を四方形にして左右両手首を縛り固める。
さらに細引き二本を肩から前に回して両脛一回りさせ、上に強く引いて
両足を顎が密着するまで締めつけ、その先を両手に固定する。
形が海老に似ているのでこの名がついたが、このまま1,2時間かけ、
笞で敲きながら尋問を続ける、というから酷い。

パンドラの箱から乾いた唇  森田律子

  三段切りの図
三段切り (レベル4)  姦通・背任など
各藩も厳しく罰していたが、金沢藩ではとくに残酷な「生吊るし胴」
通称「三段切り」が行なわれていた。



「生吊るし胴」と呼ばれるこの刑は、受刑者にとっては残酷な仕打ち
であるが、刑を執り行う者には相当な技量が要求される。
半端な腕しか持たない者であれば、不安定に吊られた人間の胴体を、
ひと太刀で切り落とすことは難しい。
ことに、この刑は町衆の見守る中で行われるから、失敗すれば、処刑
人の家名に後々あとまで傷が残ってしまうのである。
受刑者はもとより、処刑人にとっても実に残酷な刑だった。
「吊し胴」とは、両手を頭上にして吊るし、腋腹を横に一直線に斬り放し
「放し斬」は、両手を後頭部に縛り目隠しをして罪人を歩かせながら後ろ
から胴体を横一文字に斬り放すのだから凄まじい

惨劇の一部始終を見た金魚  油谷克己



  斬罪仕置きの図 
下手人(レベル2) 詐欺、盗賊、博打など
刑場に土を盛って「土段場(土壇場)」というものを作り、そこに目隠
しをした罪人をうつぶせに横たえて、2名の斬手が同時に頸と胴を斬り
放すものである。

逃げるよりいっそ無様に斬られよう  桑原伸吉

不義密通の罪(曽根崎心中)       
(レベル3) 不義密通は死罪
「密通の妻と密通の男」は死罪と決められていた。



武家や商家では「不義はお家のご法度」で妻に寝取られた夫は、
密通の妻と間男を殺しても無罪になった。
「心中」が美化されるようになったのは、近松門左衛門『心中天網島』
あたりから。
近松はほかにも『曽根崎心中』など、心中ものに名作を残している。



天国は死ぬ心配がありません  寺川弘一



江戸時代、男と女の仲は、厳しい決まりで縛られていた。
許されない恋では、あの世で添い遂げようと、お互いに手と手をとって
死出の旅にでるほかはなかったのである。
まず、結婚には親の許可がなくてはならない。身分違いの恋も駄目。
不倫はご法度となれば、二人の気持ちは心中に向かうのも止むをえない。
では、片方が生き残ったらどうするか?
男が死んで女の方が生き残った場合には、女は低い身分にされる。
反対に女が死んで男が生き残った場合には、男は下手人(死罪)になる。
心中は「片相手は死罪」と決まっていたのだが、
女の命は助けられていたのである。
もう一度生きても多分この程度  徳島一郎





「詠史川柳」 八百屋お七




 火刑(報復の図)


天和の大火(1683)の放火の犯人は「八百屋お七」でした。
これより3年前、本郷丸山町のお七の家は類焼を受け、
近くの小石川の円乗寺に仮住まいをしていました。
ここでお七は寺小姓の佐兵衛吉三郎)と深い関係に陥りましたが、
やがて丸山町に八百屋が再建されたので、一家は引っ越しました。
お七は佐兵衛のことが忘れられず、


芝居よりお七楽しむ寺参り




デートも重ねましたが、やがてお七の父親の久兵衛の知るところとなり、
監視の目が厳しく、外出をすることもままになりません。
会えないと思うと、そこは恋する乙女です。


火のついたようにお七は会いたがり
引っ越した晩からお七ヤケになり



ほんとうの恋に絵文字は使わない  阪本こみち
実は父親の久兵衛は、釜屋の武兵衛から二百両の大金を借金しており、
「返すまで担保として娘を寄こせ」と迫られておりました。


「黒物屋に行くのはイヤ」とお七いい


(黒物とは釜や鍋のこと)
お七は強く拒否をしましたが、いつの時代も貸した方が強く、結局、
お七は質草に取られることになり、



御無体な証文武兵衛殿久兵衛



ヤケになったお七は恋人の佐兵衛に仔細をしたためた手紙を送って



「こちゃ釜やせぬ」と小姓にお七云い



とは言ったものの、釜屋の慰み者になる前に、愛しい佐兵衛に一目なり
とも会いたくなり、また火事になれば会えると、一途な乙女心から放火
を考え付いたのでした。
無理ですよ昨日はやって来ないから  太下和子



お七は16歳と数か月。(当時16歳までなら死罪を免れましたから)
お白州で奉行の中山勘解由「16にはなっていないであろう。よくよく
数えて答よ」と謎を掛けました。そこは正直者のお七のこと



「十六」とすってんぺんから申し上げ
(すってんぺんからとはー最初からの意味)
「そんなはずはないと思うが、よいか、こうやって指を折って数えてみよ。
拙者の指は十五で止まるが」と奉行は減刑を暗に教えるのですが、
駆け引きが分からないお七には、伝わりません。
結局、法に従い、江戸・鈴ヶ森の刑場で火あぶりの刑に処せられました。


こしょうにはむせぬがお七煙にむせ
八百屋町むごかった御成敗
八百七の時分は恋も律儀也




都合よく人間やめる花菖蒲   小川一子

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巻き舌で脅かすルート66  酒井かがり




  大賀政談・天一坊事件



「江戸の風景」 治安ー②


「奉行」
江戸市中には、「南町奉行所」「北町奉行所」があります。
といっても二つ奉行所があったわけではない。
江戸八百八町という広大なテリトリーの安全を守る激務だったため、
南町、北町に分け、月交代制で仕事をこなす役所である。
今に云いかえれば、警視庁、裁判所、消防庁、都庁を兼ねた役所で。
月番に当たった場合、「町奉行」は、午前10時頃には江戸城に出仕して
老中と打ち合わせ、午後1時に奉行所に戻り、その日の訴訟についての検
討、処理を始めるという過密なスケージュールがありました。
しかも町奉行には(追放や死罪などの重罪を下す権限はなく)、重大事件
については、寺社奉行や勘定奉行を加えて吟味したり、また目付、大目付
を加えた「上級審議の場」に出席しなければならない。
さらに、江戸の全町における民事訴訟から消防、土木などの行政まで引き
受けるわけだから、体がいくつあっても足りず、時間がいくらあっても間
に合わない職務であった。さてここで有名な町奉行を紹介いたしましょう。



たそがれを紫色で締め括る  岸井ふさゑ





  大岡忠相



「大岡忠相」
大岡忠相(ただすけ)は、八代将軍吉宗に重用され、「享保の改革」を
町奉行として支えた歴史上の実在人物です。
「町火消の創設」「小石川養生所の設立」「サツマイモの栽培普及」
など江戸庶民の生活に深く関わる政を行い、白洲のお裁きの中では、
「遠島や追放刑を制限」「囚人の待遇改善」に取り組み、咎人への残酷
な拷問を取り止め、「時効の制度」を設け、「連座制を廃止」したりと、
当時、画期的な様々な改革を推進しました。


木蓮の白に迷いが吹っ切れる 北川ヤギエ

これらの改革に庶民は拍手喝采。
それまでは名奉行といえば板倉勝重でしたが、庶民の味方、人情深いお
奉行様、ニューヒーロー大岡越前登場!と尊敬と人気を集め、現代まで
名奉行として語り継がれることになりました。
その庶民感覚重視の活躍ぶりを描く『大岡政談』は歌舞伎、講談、人情噺
浪花節など、あらゆるジャンルの大衆娯楽で取り上げられていることは、
承知のところです。特に落語に登場するお裁きは、越前大岡裁として定着
しました。が、ほとんどは外国の故事や古い逸話から脚色されたものです。
『三方一両損』は、板倉裁きだったものがいつのまにか人気の大岡裁きに
なって伝わっています。



人生のロスタイムからファンファーレ  斉藤和子


「三方一両損」 落語から
左官の金太郎は、三両の金が入った財布を拾い、一緒にあった書付を見
て持ち主に返そうとする。財布の持ち主はすぐに大工の吉五郎だと分か
るが、江戸っ子の吉五郎は、もはや諦めていたものだから「金は受け取
らない」と言い張る。しかし、金太郎もまた江戸っ子です、「是が非で
も吉五郎に返す」と言って聞かない。
互いに大金を押し付け合うという奇妙な争いは、ついに奉行所に持ち込
まれ、名高い大岡越前が裁くこととなった。 



好きなのにイエ好きだから目をそらす 雨森茂喜

双方の言い分を聞いた越前は、どちらの言い分にも一理あると認める。
その上で、自らの1両を加えて4両とし、2両ずつ金太郎と吉五郎に分け
与える裁定を下す。金太郎は3両拾ったのに2両しかもらえず1両損、
吉五郎は3両落としたのに2両しか返ってこず1両損、そして大岡越前
は、裁定のため1両失ったので三方一両損として双方を納得させる。 
そして場が収まったところで越前の計らいでお膳が出てくる。
普段は食べれないご馳走に舌鼓を打つ二人を見て越前は、「いかに空腹
だと言っても大食いは身体に悪い」と注意する。すると、二人は答えた。 
「多くは(多かあ、大岡)食わねえ。たった一膳(越前)」 



方向音痴だったのかブーメラン  森井克子




 晩年の金さん

「遠山景元 」
遠山景元、通称・金四郎は江戸時代の旗本で、天保年間に江戸北町奉行、
大目付、後に南町奉行を務めた歴史上の実在する人物です。
老中水野忠邦がすすめる「天保の改革」の実施に当たっては、町人達を
奉行所に呼び集め「贅沢と奢侈の禁止」「風俗取締り」「寄席の削減」
の命令を出しますが、町人の生活と利益を脅かすような、極端な法令の
実施には反対しました。やはり金四郎は庶民の味方でした。
そのため南町奉行矢部定謙や目付の鳥居耀蔵や水野忠邦と敵対します。
その後の悪を許さない金四郎の活躍は、ドラマで見る通り、正義の味方
でした。しかし、二年程の奉行勤務の後、ずる賢い鳥居の策略によって
北町奉行を罷免され、大目付の役に回されます。見た目では、栄転で地
位は上がりましたが、諸大名への伝達役に過ぎず、実質的に閑職でした。
その後、水野が退陣すると次の老中阿部正弘にその人柄と実行力を買われ、
復帰すことになります。



機械です歪な丸が描けません  郷田みや


遠山の金さんの胸から肩への「桜吹雪の彫り物」が気になります。
明治26年に発行された雑誌の伝聞記事によると、金さんの彫り物の絵柄
は桜吹雪ではなく、口に絵巻物をくわえて、髪を振り乱した女の首だっと
あります。金さんが彫り物をしていたという確証はありませんが、時代考
証家の稲垣史生氏は、若年のころ侠気の徒と交わりその際いたずらをした
ものだろうと、推論を転回されています。
彫物をしてたのは間違いないが、これも講談・歌舞伎がある程度、大きく
脚色したものです。ところで本業のお裁きでは金四郎は、越前のような
名裁きをした記録はほとんど伝わっておりません。



ひと巡りして真実になる噂  橋倉久美子





  長谷川平蔵



「火付盗賊改とは」
鬼平でお馴染みの「火付盗賊改」は火付けや盗賊の探索が主な任務ですが、
恐喝や詐欺なども含まれていたようで、その活動は江戸市中にとどまらず、
関東,東海、北陸、東北へも、与力や同心を派遣しています。
犯罪を撲滅するのが目的なので、旗本、御家人、町人の区別なく検挙する。
旗本や御家人を検挙したら、それぞれの監督の目付に引き渡す。
そのほかの者に対しては、どんな拷問もいとわなかったようです。
しかし町奉行とはどうしても持ち場が重なることから、お互いにライバル
視して、諍いが絶えなかったようです。
縁のないボナンザ爪だけは伸びる  森 廣子

「長谷川平蔵」
長谷川平蔵は、池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」で一躍有名になりました
が歴史上の実在人物です。父の宜雄(のぶお)も火付け盗賊改役だったこ
とがあり、京都西町奉行になり、京都で亡くなりました。
平蔵は30歳で家督を継ぎ、時の老中田沼意次へ届けられた進物の係など
を経て、火付け盗賊改役のなったのは、松平定信の寛政の改革が始まった
天明7年(1787)42歳の時です。寛政7年(1795)までの8年間勤めあげ、
お役御免を申し出て認められた3ヵ月後に死去しています。



月の出を待って介錯いたします  笠島恵美子

平蔵の若いころの「放蕩ぶり」「石川島人足寄場の設立」「盗賊の捕縛
や処刑」
は史実ですが、元盗賊の密偵を使うという発想や、「急ぎ働き」
「嘗役(なめやく)」
などの用語は作者が創作したものです。
小説の鬼平は「寛政重修諸家譜」をタネに生みだされました。
この本は、江戸幕府が編修した系譜集で、当時の各大名家・旗本・お目見
以上の幕臣の事跡が記されています。



参道に玉砂利たちの私語を聴く  田崎義秋

拍手[3回]

惜しいから息はときどきしかしない  清水すみれ




江戸の賑わい(駿河町)
「江戸に花をつけて『花のお江戸』というのはなぜだか知っているかい」
「それは、江戸の賑々しさを花の華やかさにかけたのさ」
「なるほど、お前ぇは物知りだ。
 そんなら、「お江戸八百八町」とはどういうことだ?」
「それは江戸中で、おおよそ八百八丁くらいは豆腐が売れるってことさ」
「江戸八百八町」とは、江戸が大都会で、江戸の町数が多いことを示した
言葉で、将軍吉宗の享保9年の調べによると町人人口は64万2190人、
町数は1672町となっている。すなわち八百八町よりも倍多い。
もともと江戸地は、全体の60%が武家地、残りの40%は寺社地と町人
地に等分されていたというので、約20%の狭い土地に、町人たちはひし
めき合って暮らしていたことになる。
(文化3年(1806)の頃になると、江戸は武家人口を合せると百万人を超え、
パリ、ロンドンをしのぐ大都会へと発展した)
街路樹が友達だとは限らない  市井美春
「江戸の風景」 江戸の治安
江戸の町の社交場は湯屋の二階や髪結床だけではなく、居酒屋や水茶屋
なども代表的な社交場だった。
ただ意外な場所としては、「自身番」がある。
「怪しい奴だ、ちょっと番所までいっしょに来てもらおうか」
と岡っ引きに捕まり、しょっぴかれて番所へ連れ込まれるシーンは、
テレビの時代劇ではお馴染みである。
あの番所のことを「自身番」と呼ぶ。
江戸の町人たちは、各町内に簡素な小屋を設置し、
大家や書役などが昼夜詰める体制を作って近隣の治安を守った。
自身番の番人たちは、夜回りをして不審者を訊問する権利も公儀から
与えられていた。自身番の建築費用や運営費は、今でいう町内会費から
支出されており、幕府としては、警察費用が浮き、助かっていたのだ。

石垣の石はスクラム組まされる  籠島恵子

   自 身 番
自身番の広さは、当初、幅2・7m、奥行き3・6m、軒高さ4・8m
だったが、そのうち二階建てになり、広さも増した。


自身番についた火の見櫓
江戸時代の後期には「火の見櫓を備える自身番」が増え、番所の中には
捕り物道具のほか、消防用具が設置され、火が出た時には、消火活動に
もあたった。さらには訴訟など様々な願書への押印、捨て子や行き倒れ
人の保護、はては喧嘩の仲裁までを担った。
このため番所にはしょっちゅう人々が出入りする。
そもそも自身番は、町人たちが金を出し合って運営している公共施設で、
人々が気兼ねなく自由に上がり込んできた。こうして必然的に自身番は、
庶民の憩いの場となったのである。
自身番に似たものに「辻番」がある。
辻番とは、江戸時代の武家屋敷の辻々に設けられた自警のための番所、
または番人をいう。辻番の多くは老人が務めていたという。
辻番は棒をつかぬと転ぶたち こんな風刺川柳も作られた。
タンポポを見ながら足湯しています 井上一筒



与力の風体
髪は髪結いが通い、月代と髷を整えた。
基本的に出仕時は継袴を着て、草履を履いていた。
普段は十手は懐に隠していた。
外出時は4‐5人ほどのお伴を連れていた。
広い屋敷を貸して家賃収入を得る者もいた。

「与力の仕事」
さて実際の江戸の町の治安を守るのは、「八丁堀」である。
NHKで放映中の中井貴一の「雲霧仁左衛門」や東山紀之の「必殺仕事人」
中村吉右衛門の「鬼平犯科帳」など、捕り物の時代劇を見る時、今ここに
書く江戸の治安の蘊蓄を頭にいれおいて頂くと、なお面白いドラマ観賞に
なることうけあい。
日本橋の南の舟入場は、八丁堀と呼ばれた。
その八丁堀に「与力」「同心」の組屋敷が並ぶ官舎街があったことから、
与力と同心は「八丁堀の旦那」と呼ばれた。
いずれも、町奉行が警察署長としての職務を執行する際に働く事件捜査、
犯人逮捕の実働部隊である。まさに昭和時代の刑事である。
怪しいものですとは誰も言わんやろ  西山春日子
ただ同じ八丁堀の旦那でも、与力と同心には大きな階級の差があった。
南北の町奉行所には25人の与力、100~140人の同心が配属され
ていたが、家禄、待遇、権限のすべてに大きな差がつけられていた。
与力は200石で、同心は30俵二人扶持。
与力は終身雇用の世襲制、同心は1年契約。
さらに与力には、訴訟を処理する権限があり、ほとんどの事件は、
与力の処理を町奉行が白洲で追認していたが、
同心の職務は、捜査、逮捕、取り調べまでだった。
与力は手当を役所から受け取ってはいるが、それだけでは足らず、
大名や商人から金を受け取ることが公認されていた。
しかし、その金で裁きが左右されることはないとはっきりするために、
きちんと領収書を認めていたという。
ひけ目でもあるのか雨がそっと降る  嶋澤喜八郎


同心の風体
髪型は町人にも人気だった「小銀杏」と呼ばれる細くて短めの小振りな
髷を結っていた。
黒紋付羽織に着流しで足元は雪駄という、粋な恰好が庶民の人気を得た。
羽織の裾を帯に巻き込む「巻羽織」も流行した。
100坪ほどの屋敷地に30俵2人扶持の収入で、二人の奉公人を雇わ
なければならなかった。

「同心の仕事」
町奉行所の同心には、警察署の刑事と同じく、「橋回り」「水路回り」
「牢の監督」など色々な職務があった。
花形は、何といっても犯罪捜査と犯人逮捕に当たる「定廻り」
現場検証をし、岡っ引きを情報屋に使い、下手人を捕縛し、番屋で取り
調べを行うのが、定廻りの仕事である。
そして定廻り同心は、取り調べで容疑が固まった段階で、自分の手で
逮捕した下手人を与力に引き渡す。そこから先は権限外だった。
下手人が白洲に引き出されるかどうかは、与力の取調べにかかっている。
 因みに、与力と同心とでは、十手の差し方が違う。
刀と揃えて腹の前に刺すのが与力で、腰の後ろに隠して差すのが同心。
その根拠は定かではないが、現場を動き回る同心としては、町に溶け
身分を悟られるのがまずかったのかも知れない。
現住所はダンボール的屋根の下  山口ろっぱ
定廻りは、夫々の町奉行の下で、担当地区を巡回し、お上が出した法令
が守られているか、如何わしいことはないかなどを監視し、犯罪が発生
すれば取り締まる。犯罪捜査よりもパトロールの意味が強かったから、
それぞれの町に設けられた番屋はもちろん、商家などにも顔を出す。
そこでは、自分の処へ来てくれる八丁堀の旦那に対して接待をするから、
食事はおろか、酒も飲み放題になる。担当地区の大家から付け届けなど
もあり、年収を数倍も上回る収入があったようだ。
武士が公務で出歩くときには羽織・袴だが、八丁堀の同心だけは例外で、
紋付の羽織を着用するが、下は着流しで、帯は博多、雪駄履きだった。
三元号生きて三回転できる 河村啓子



自身番に集う町民


「岡っ引きと下っ引き」
岡っ引きというのは、同心が自分の身銭で雇う町人の情報屋である。
定廻り同心は、巡回のときに「小者」を連れている。
これは正式な配下ではないが、同心直属の部下だ。これに対して、
その区々の持ち場で手助けをする者を「岡っ引き」といった。
岡っ引きは「御用聞き」ともいわれ、江戸以外では「目明し」
関西では「手下」とも呼ばれた。
小者が同心屋敷で生活している下男とすれば、
岡っ引きは、同心に個人的に仕えるだけで、保証らしいものはない。
同心の下には岡っ引きが、2、3人付いているが、
その岡っ引きの下にはまた4,5人の手先が付いている。
岡っ引きも一人前になると、一人で5,6人くらいの手先を使っていた。
その岡っ引きは、さらに手下を抱えている。張り込みや連絡が必要な時に、
緊急で招集をかけるときの手数である。それらを「下っ引き」といった。
神田明神下に住む岡っ引が銭形平次で、下っ引き八五郎という具合である。
この町で咲きこの町の土になる  笹倉良一

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