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川柳的逍遥 人の世の一家言
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ヒマがなきゃ誰も出来ないヒマつぶし  ふじのひろし


 

  (画像は拡大してご覧ください)
  伊勢参宮略図(広重)

 

江戸時代の旅で一番人気は「お伊勢さん詣り」。
庶民が伊勢神宮を詣でることができるのは、一生に一度あるかないか、
かかる費用だけでも大層なことだった。
それでも懐に多少のゆとりがある場合は、伊勢から足を延ばして京都や
大阪の有名な寺社名所を廻る。もっと時間と資金にゆとりのある場合は、
瀬戸内海を渡って、讃岐の金毘羅山に参詣することもあった。
さらには、帰りに中山道コースで信濃の善光寺を参拝することもあった。


 

「詠史川柳」 江戸の景色6-② 江戸小咄と旅事情





    旅 駕 籠

 

単に旅に出ると言っても、当時の移動手段は、基本的には自身の足だけ、
馬や駕籠もあるが料金が高くて、庶民の懐では全行程利用するのは無理。
お伊勢さん参りの場合、一度旅に出れば少なくとも1、2ヵ月は要する、
費用もかかる。そこで考え出されたのが講である。
講とは、同じ信仰を持つ者が集まって金を出し合い、金を積み立てて、
資金が貯まったところで、講中から幾人かが代表して目的地に行く。
代表を決めるのは大抵の場合、くじ引きで決まる。
一度行った者は、もう権利がないので、最終的には講中のメンバー全員
が行けるようになっているという、公平なシステムである。


 

裏庭に吹いた西瓜の種芽吹く  くんじろう


 

小咄ー6
 母、親爺にむかい
「おはなも、だいぶ手があがりました。もう百人一首でもございませぬ、
 ちと伊勢物語でも読ませたらよいでしょう」
親爺うなずいて
「なるほど、よかろう、どうせ伊勢へは参られないから」
これは在原業平が書いた歌物語の『伊勢物語』を勘違いし、
伊勢参宮の案内書と思った無学者のお笑いである。
小咄ー7
 仙台者が二人連れで伊勢参りに出かけるが、一人は目が不自由。
連れの男、赤子の捨ててあるのをを見つけ、
「これちょぼ市、ここに子めが 俵にいれて捨ててある」
「なんだ、米が捨ててある、ひろえひろえ」
「いやさ、赤子めだ、赤子めだ」
「赤米でもいい、ひろえひろえ」
「いやさ人だ人だ」
「四斗なら二斗ずつわけるべえ」


 

ガラクタは僕を宇宙へつれていく  徳山泰子




  53次・戸塚宿

 

懐と相談しながら旅は京都・大坂へと向かう。京都には寺社が多い。
京都見物というと、大方は寺院や神社を見て歩くということになる。
川は幾つもないが、鴨川には有名な橋が架かっていて、これが三条の
大橋、これが五条の橋と、一つ一つ渡るたびに古い昔が偲ばれる。
今でも京都の観光地ナンバー1といえば、清水寺。清水の舞台からは
京都市中を眺望することが出来る。
小咄ー7
 さる所に若息子、女郎を連れて清水へ参り、舞台にて、遠眼鏡で
五条の橋を見れば、友達の吉兵衛の通るが手に取るように見えたので、
その友人に「これ吉兵衛、必ずここで逢うたといのではないぞ」

 

神さんがくしゃみしてはる間に悪さ  居谷真理子




  京都三条大橋

 


次の小咄は、芝居の忠臣蔵に出てくる高師直(吉良上野介)が欲張り
だったというところから創作された。
小咄ー8
 師直、賄賂の金銀をしこたま溜めるに従い、一向使わず、その金銀を
舐めて楽しみけるが、のちには鉄、赤がね、真鍮、鉛まで舐めるという
病となり、
「われいまだ塔の上なる玉を舐めてみず、なにとぞ五重塔の上にある
    擬宝珠(ぎぼし)を舐めてみたい」
と望み、権勢第一のお方のおおせ、さっそく五重塔へ足代を掛けさせ、
てっぺんの擬宝珠を舐めてみ「多年の望み達したり」と喜びける。
「あの貴殿には塔の擬宝珠をお舐めなされたか」
「舐めましたとも 舐めましたとも」
「どのようなものでござるな」
「いや思うたほどにもござらぬ、橋の擬宝珠に塩気のないものじゃ」


 

股ぐらに貼った両面ガムテープ  井上一筒




  53次・冨士見     53次・藤沢


 

一般的に東海道は、江戸から京都までを、宿場の数で五十三次と呼ばれ
ているが、大坂まで足を延ばす旅行者も増え、また参勤交代の宿の手配
も必要であったため。伏見・淀・枚方・守口の4か所に宿場を設置し、
実際には、「東海道五十七次」というのが正しい。
因みに、大坂から京へは京街道、京から大坂へは大坂街道を通行した。
が、何のことはない名称は違うが、同じ道なのである。
さて足の疲れはなんのその、いよいよ旅は大坂・堺へと入る。
旅は道連れ世は情け。各地からの旅人が京都で出会って、一夜の友と、
話も故事来歴にひっかけて、小話が弾んだりもする。

 

頭肩膝小僧みんなヨシヨシしてあげる  酒井かがり


 

小咄ー8
「京都ほど諸品安い所はない。東山で名代の八坂の塔が五十(五重)
   じゃが」

「そういいないな、大坂にも安いもんと言うたら、仏法最初のお寺、
 聖徳太子ご建立天王寺が3文(山門)じゃ」

「わしは西国者じゃが、それよりも安いは、平家の大将・清盛、重森、
 宗盛、知盛、維盛、敦盛、経盛これを合せて一文(一門)じゃ。

「これこれ西国のお方、その平家は安うても、いまはない人や、
 やくたいじゃ、当時ご繁盛の源氏の御代、わしが国というたら津の国
 じゃ、初めて源氏の名を賜りし六孫王・経基さまのご嫡男、これより
 安いものはござりません」

「一文より安いは、なんじゃ」
「多田の満仲じゃ」
これを、「ただの饅頭」と読んで落ちになっている。

 

沢庵も人のうわさもまだ噛める  美馬りゅうこ

 

さて大坂は、商業の町だから商売に関する小咄が多い。
小咄ー9
 通町の鏡屋に、天下一は漢字にして鏡屋は「かかみや」と仮名で書き、
看板いだせし家あり、いたずらな男、店先へ来たり、
「なぜ内儀さんを出しておかぬ」
というと亭主、
「それは何のことでござる」という。
「あれほど看板に、天下一のかか(嚊々)見や と書いて、
 何とて女房を出しておかぬ」
「まことにそれは誤りました。さりながら、これほどにかがみますれば、
 堪忍あれ」とやり返した。

 

伝えようアザミ程度の微笑みで  真島久美子


 

まだまだ小咄はありますが、一端はここまで。
小咄ー10
 とある箱屋の親父、風が吹くを喜び、
「かか、商売が流行るぞ、酒買うてこい」
と言えば、
「それはどうして忙しいぞ」
と女房が問う、
「はてこの風で人の目に埃が入ると、目を患うので、三味線を習うに
 よって、三味線の箱が大分売れる」
これは明和5年(1768)の関西の『絵本軽口福笑』である。
これが後の「風が吹けば桶屋が儲かる」の話に作り変えられていく。


 

ちょっとだけ味噌が足りない僕の脳 大塚のぶよし





  平知盛と弁慶

 

詠史川柳


 

≪平清盛≫

 

清盛の医者は裸で脈を取り
清盛も時疫だろうと初手はいい
汲み立てがよいと宗盛下知をなし
ゆでだこのように清盛苦しがり
入道は真水を飲んで先へ死に


 

平清盛は大変な高熱を発する病気で死んだと言われている。
『平家物語』には、病室の中は耐え難い暑さだったとある。
結局、清盛は1181年に死亡、この4年後に平家は壇ノ浦で滅亡。
平家一門は、潮水を飲んで死んだが、清盛は真水を飲んで死んだ幸せ者
である、と川柳子。

 

八月の空は終身禁固刑  上嶋幸雀         


 

≪平重盛≫


 

異国から納豆もらう小松殿
育王山和尚押し込み案じられ
案の定日本で跡の訪い人なし
潮風にもまれぬ先に小松枯れ


 

平重盛は清盛の長男。
重盛は、六波羅小松第に住んでいたので「小松殿」と呼ばれた。
平家物語には、重盛は日本では後世を弔ってもらえるかどうか心配で、
宋の育王山寺へ千両寄進し、また宋朝へ寄進して、育王山へ田畑を与えて
もらうよう依頼したと書かれている。
小松殿はお返しに育王山の名産である納豆をもらっただろう と川柳子。


 

ポケットに軽い本音を押し込める  靍田寿子


 

≪平知盛≫


 

そもそもこれはおっかない土左衛門
ことわらずといいのに幽霊なあり
反吐を踏み踏み弁慶は祈るなり
引き潮でないと幽霊まだ消えず

 

平知盛は、清盛の四男。
武勇に優れた人物だが、謡曲「舟弁慶」に出てくる幽霊として有名。
謡曲の中では、義経が西国へ逃れようと摂州大物の浦から知盛の幽霊
(土左衛門)が現れる。大嵐で全員船酔いで苦しんでいる中、弁慶が
「数珠さらさらと揉み」祈ると幽霊は次第に遠ざかって行き、やがて
「また引く塩に揺られ流れて、跡白波になりにける」と消えたという。


 

君が代を歌いつづける海の底  大森一甲             


 

≪平敦盛≫


 

熊谷は不承不承の手柄なり
敦盛は討たるる頃は声変わり
花は散り青葉は残る一ノ谷
その後は衣で通る一ノ谷


 

一ノ谷の戦に敗れた平家軍が我先に船へ逃げる中、源氏の熊谷直実
敵方の武者を発見、組み打ちし押さえつけて、首を掻こうとしたら、
まだ17歳ほどの少年だった。直美は可哀そうに思い見逃してやろう
としたが、味方の軍勢が迫ってきたので、泣く泣く首を掻いた。
少年は平経盛の子・敦盛であった。


 

錠剤の割る音ひびく夜半の月  河村啓子


 

≪平家滅亡≫

 

幽霊のみな横に行く平家方
豆蟹も一匹まじる壇ノ浦
緋の袴ふんどしに縫う下関
平飯盛ともいいそうな下関


 

平家蟹は壇ノ浦で海中に沈んだ平家の怨霊だという伝説がある。
現代の人は、そんなことお構いなしに平家をむしゃむしゃ食っている。


 

勝因は潮の変化さ壇之浦  松下和三郎

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いい日旅立ち知らない街が呼んでいる  片岡加代




 (画像をクリックすると拡大されます)
東海道53次細見図会 日本橋

 

品川周辺には縄文時代から集落があったとされるが、中世を迎えると、
東京湾へと注ぐ目黒川の河口に位置する地の利を生かし、武蔵野平野
全体への物資の集散拠点として繁栄をみせる。
そして、その隆盛を確実なものとするきっかけとなったのが、幕府が
慶長6年(1601)に制定した、東海道の宿駅伝馬制度である。
以来、品川はその第一番目の宿場となり、西国へ通じる陸海両路の
玄関口として活況を呈した。

 

「詠史川柳」 江戸の景色-6-①  江戸の小咄と旅事情

 

いまも昔も、旅は庶民のおおきな楽しみの一つ。
街道や宿場が整備された江戸時代、庶民は何かと窮屈な中でも旅費を
やりくりし、名目を立てて近場へ遠方へと足を延ばした。
旅の起点はお江戸日本橋だった。
当時は京都に朝廷があったから、京都の方へ行くことを「上る」といい、
京都から諸方へ行くことを「下る」といった。
江戸っ子はおのぼりさんになって、仲間内や親方などに見送られながら、
夜中に日本橋から品川の「宿場」へ向かう。


 

すこやかに生きて情けのど真ん中  上田 仁




 
東海道53次細見図会 品川

 


【宿場】 宿場は、将軍の御用で荷物や人を運ぶ馬や人員を確保する
目的で設置されたものであった。
そのため将軍や幕府の用の場合は無料であったが、大名や町人も有料で
使用することが出来た。
その後寛永12年(1635)大名たちの参勤交代が制度化されると
街道はますます整備が進み、設備などが充実する。
街道には一定の距離ごとに宿場が設けられ、一里ごとに道しるべとなる
「一里塚」が設けられ、さらに街道の脇には木が植えられるなど、
安全な旅が出来るようになっていった。


 

時々は心に風を通さねば  靍田寿子

 

品川が見送り人との別れの所で、ここらで夜が明けて、提灯の灯を消す。
小咄ー①
ある男が京へ旅に出ることになり、親方や仲間が品川まで送ってきた。
送ってきた人からはここらで餞別ををくれることになっている。
「いい親方だ、きっと別れにははずんでくれるよ」と仲間が言う。
男は期待していたが、さて別れ際となると親方は、
「じゃあ道中無事で行ってこいよ」と言ったきりだった。
男、あとでひとり言。
「だれが無事で行くものか」


 

二番出口もともとなかったことにする  河村啓子

 

品川をあとに京都まで、急いで13、4日、ゆっくり行くと20日から
1ヵ月はかかろうというのが、当時の東海道の旅だった。
新幹線で2時間ほどで行ってしまうの現在とは違い、大方は徒歩で行く
のだから、それくらいかかるのは当たり前なのだが、途中、最大の難所
は箱根山だった。
ここには江戸へ出入りする者を取り締まる関所があった。

 

Y字路に来るたびサイコロを投げる  岸田万彩




 
東海道53次細見図会 小田原

 

【関所】 宿場が整備されると同時に「関所」が設けられた。
江戸時代は軍事態勢下であったため、西国の大名などから、江戸を攻め
られぬよう取り締まりをするためである。
しかし箱根の関所は、従来、言われていたような、厳しい取り締まりが
行われていたわけではなかった。通行手形も必須ではなかった。
箱根の関所の管理は小田原藩に任されており、あまりにも関所で問題が
多い場合には、小田原藩の責任となる。
こうしたことを回避するためにも、重箱の隅をつつくような取調べは、
しなかったのである。

 


神様もリセットしたい過去がある  前中一晃

 


江戸っ子は箱根まで行けば、当時は話の種になった。
行かないで知ったかぶりをする者もあった。
小咄ー②
ある男が宿屋へ行くと、亭主が挨拶をして序に箱根の話をした。
「このあたりには見られないが、山椒魚は、さて風味のよいもので
 ございます」

と言われて、男、ものしり顔で
「あのぴりぴりとした辛味が、すごくいい」
山椒魚というから、植物の山椒の実のようにぴりぴり辛いものと思って
知ったかぶりを発揮したのである。


 

二枚目の舌がこむら返る夜  笠嶋恵美子




 
東海道53次 箱根湖水図


 

箱根を越すと富士山が見える。
江戸時代は空気が澄んでいたから、秋から冬の終わりまで晴れた日なら
市中から富士山がよく見えた。もちろん明治大正にも見えた。
見えなくなったのは昭和の終わりころから、経済成長などのあおりで
スモッグのカーテンが富士山を隠してしまったからである。
小咄ー③
床の間の掛物を見て、男が
「ははァ、これは立派、立派、わたしはこの間富士へ参りましたが、
 いやこの通りでござる」
「するとあの山の上からは、わしの家までも見えましたでしょう」
「とんでもない、どうしてあの山の上から、ここが見えるものですか」
「はてな見えるはずだが、わしの家の物干しからは富士がよく見える」


 

画布全て私色に染めてゆく  中川 尚

 

【川越え】 東海道には川があるが橋がない。
旅を続けるためには川を渡らなければならない、どうして川を渡ったか。
川越し人足というのがいて、肩車や背負ったりして渡してくれたり、
蓮台渡しといって、台の上に乗せて渡してくれる。
そういう川で一番有名なのは、駿河と遠江を流れる大井川だった。
水かさが増すと、川止めといって、水が歩いて渡れるほどに引くまで、
何日も足止めをくらうことがある。
旅人は大きな川になればなるほど、川越えには苦労したが、一方、
小さい川には川越え人足などいないから、みんな川の中へ入って歩いて
渡る。ところどころに深いところもあり、溺れる人もあった。


 

心電図ルート66が終わらない  岩田多佳子


 


東海道53次 岡崎・矢矧の橋

東海道の岡崎宿を通る参勤交代の大名行列


 

小咄ー④
4,5人の巡礼が川にであった。見ると橋はなし船もない。
川の瀬も知らずさて困ったと向こうを見ると、首だけ出して渡っている
人がある。心細く思ったが、「南無観世音薩」と祈り、手に手を組んで、
川へ入って行ったが水は脛までもない、これは有り難い、きっと観音の
ご利生だろうと、喜んで川を渡りきり、先ほどの人を見ると、
岸へあがってきて「抜け参りに一文くださいまし」と言った。
見ればいざりであった。
(抜け参りー親や主人に内緒で家を抜け出し、手形もなしで伊勢参りに
 行くこと)


 

有情無常賽の河原のかざぐるま  加納美津子


 


当時の東海道は、いまの東海道線とは違い、桑名から四日市へ抜けて、
伊勢の山中を草津へ出て、琵琶湖畔から京都へ入る。
桑名の名物は蛤。その蛤で失敗する話がある。
小咄ー⑤
「これ八兵衛」
「はい」
「この蛤をこの鍋のままかけて、蓋を取らずによく煮ろ、蓋をとるもの
 ではないぞ」
「はいはい」
というわけで火を焚いていると、蓋がむくむくする。
これは飛んだことになってきたと思い蓋を取ってみて、
「もし旦那さま、とんだ不調法をいたしました」
「どうした」
「つい蓋を取りましたなれば、みんな裂けました」
なかで蛤が開いたのを、八兵衛は自分が蓋をとったから、裂けたとのだと
思ったのである。

              さて次は京都・大坂へ足を延ばしましょ。

 

終電の終着駅で待つ始発  近藤北舟




  西 行

「心なき身にもあわれは知られけり 鴫たつ沢の秋の夕暮れ」


 

詠史川柳 


 

≪西行法師≫

 

柿本人麻呂、芭蕉とともに、日本三大詩人と称されている西行法師は、
平安末期から鎌倉初期の人。
戦乱の世に無常を感じ、出家して山奥に隠遁することが流行りました。


 

北向きの武士やめて西へ行き
折りふしは佐藤兵衛の時の夢



北向きの武士が西へ向かう…川柳子のやったーの声が聞こえる一句。
西行も北面のエリート武士でしたが佐藤兵衛義清と名乗り旅にでます。
持ち前の社交性から各界各層の人と親しくつきあい、
またヘビースモーカーの上、大の旅行好きで


 

西行と狩人一つ店に住み
すり鉢をを伏せて西行煙草にし


親しい人と住む店は借家。すり鉢は富士山の事。
西行は愛煙家のように詠まれているが、当時の日本に煙草はなく、
「風に靡く富士の煙の空に消えて 行くへも知らぬ我が思いかな」
の句の煙に絡めたもの。


 

一割ほど乗せさせてもろてます  雨森茂樹


 

鴫が立たぬとへんてつもないところ
命なりけり快気して二十なり


 

一句目は名所「鴫立沢」。
「心なき身にもあわれは知られけり 鴫たつ沢の秋の夕暮れ」を題材に。
二句目は「年たけてまた越ゆべしと思いきや 命なりけり佐夜の中山」
の文句取り。佐夜の中山は名所「東海道・日坂」。
西行の旅好きが見える作品は多々ある。




西行冨士見図


 

富士山がなければはっち坊主なり
きさらぎのその望月に西へ行き


 

鉢坊主は、托鉢をして回る乞食坊主。
ボロボロの装束で冨士を見ている西行だが、
「冨士見西行」で富士山が描いてあるから西行とわかるというのだ。
そして旅の最後に訪れた場所は西方弥陀の浄土であった。
「願わくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」から。

 


地球外生命体に添い寝する  酒井かがり

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偏平足の話でしばし盛り上がる  竹内ゆみこ


 

(画像は拡大してご覧ください)
 三 囲 の 景(広重)

 

三囲(みめぐり)の名は社殿の下から掘り出された翁がまたがる白狐の
神像から白狐が現れて、三遍回って姿を消したことに由来するとされる。
元禄6(1693)年6月28日に俳人・宝井其角が雨請いのために、
「夕立や田を見めぐりの神ならば」の句を捧げたところ、雨が降ったと
いうことでも有名。神社は低地にあり、鳥居も土手の下に立っていた為
隅田川の方から眺めると、鳥居は土手にめりこんだように見えたという。



 

「詠史川柳」 江戸の景色ー⑤ 俳句(芭蕉・其角・千代女)




 
  芭蕉と曽良


 

≪松尾芭蕉≫ (1644~1694)

 

藤は捨て芭蕉で広く名を残し



 
俳諧を芸術にまで高め「俳聖」と謳われた松尾芭蕉。若年の頃は、伊賀
上野の藤堂家に仕え、身分は料理人でしたが、主君の藤堂良忠が俳句を
することから共に俳諧を嗜むことになる。寛文6(1666)年良忠の死ぬと
仕官を退き俳諧に精進。当時40歳。「奥の細道」の旅にでます。
これが訳ありで、生まれたのが忍者の里・伊賀であること、旅費のこと、
健脚で移動速度の速いこと、行き先が東北方面であること、などから
仙台藩の謀反の調査を兼ねた密偵が目的ではないかといわれました。
深読みすれば、名句「いざさらば雪見にころぶところまで」が、忍者説を
暗示するかのように聞こえてきます。それが川柳子にかかると、
 


いざさらば雪見に呑めるところまで
いざさらば翁も酒がなると見え
転んでも汚れねぇのが名句なり

 

しがらみのすべてを虹にしてしまう  山本昌乃


 

転びそうになって「おっとどっこい 転んでなるか」
などと言いながら、芭蕉は、また二三丁頑張って歩きだすのです。


 

どっこいと言い言い芭蕉二三丁
膝や手をはたいて翁一句詠み 


 

転んだのは、「下駄の鼻緒が切れたから」と言い訳をし
「転ぶところまで」と言っているからには、転ばなければ
果てしなく行くことになります。


 

転ばずば翁の雪見果てがなし


「芭蕉は転ぶところまで」と言っているが、俺たちだったら



 

いざさらば居酒屋のあるところまで


 

捕まえた陽射しと午後のお茶にする 吉川幸子


 

芭蕉の川柳はパロディーが多い。
ご存知「古池や蛙とび込む水の音の名句には、


 

芭蕉翁「ぽちゃん」というと立ち留まり
古池にその後とび込む沙汰もなし


 

「夏草や野良者どもが夢の跡」には


 

夏草や野良者どもが出合い跡



 

「無残やな甲の下のきりぎりす」には



 

むざんやな梯子の下の草履取り


 

「煮売屋の柱は馬に喰われけり」には


 

道のべの木槿は馬にくわれけり


 

なぜかあっしも危険分子の一部 山口ろっぱ





其角と大高源吾


≪宝井其角≫ (1661~1707)


 

師は寒く弟子は涼しい名句也


 

これは、宝井其角の句「夕立や田をみめぐりの神ならば」と、松尾芭蕉
の雪見句とのセットで、子弟対照を詠んだもの。
其角は芭蕉門下の雄に収まらず元禄俳壇の大立者として活躍しました。
後年、芭蕉は「草庵に梅桜あり、門人に其角嵐雪有り」と記し、其角は
桃に、服部嵐雪は桜になぞらえて「両の手に桃とさくらや草の餅」と詠ん
でいます。ただ芭蕉の弟子とはいえ、其角の作風は師の目指ところの
「わび・さび」とは遠いところにあり、人々の生活を華やかに唱い洒落を
きかした句がメインです。これを疑問とする森川許六は芭蕉に「いいので
すか」と問いました。それに対して芭蕉は、「自分の俳諧は閑寂を好んで
細く、其角の俳諧は、伊達を好んで細い、この細いところが共通する」
と答えたといいました。


 

やんちゃな男が四角を丸にする  福尾圭司

 

江戸時代の随筆集・『墨水消夏録』(三囲稲荷)燕石十種(えんせきじっ
しゅ)から、川柳子は句を考えます。

 

宗匠へ蓑よ笠よと土手の雨
人の田に水を引かせたは其角

 


墨水消夏録には、農民が其角をとりまき、ぜひ雨乞いしてくだされ」
と頼んだと書き出しにあり。其角は止むを得ず…向島土手下の三囲神社
「ユタカ」の字を折句にして「ゆうだちやたを三囲の神ならば」と詠
んだといいます。すると夕方近くになって、筑波の方から雷は鳴りだし、
盆を覆すほどの雨が降り出した、というのです。其角の自選句集に、
牛島三囲の神前にて、雨乞いするものに代わりて」と前書きをしてこの
句が載り「翌日雨が降る」と書き添えてあるところからみると。まんざ
ら事実のようで、川柳子にかかると普通の雨が豪雨になっていますが。


 

脳内へ隠し包丁式包丁  山本早苗


 

一句吟ずればゆたかの雲起こり
よく詠んだなあと褌まで絞り


 

頭文字「ゆ・た・か」が豊作を呼んだと農民は大喜び。
 旱天の雨は金のように価値があり、


 

金の降る雨は宝の井から湧き
たなつもの持って発句の礼に来る

 

たなつもは穀物のこと。農民はお礼をもって其角を訪ねました。





世間体しばらく雲に載せておく  岡田陽一




 井戸端の千代

 

≪加賀の千代≫ (1703~1775)


 

朝顔で千代万代に名を残し

 

芭蕉が俳句作りの旅に出発し、東北・北陸を巡り、紀行文「奥の細道」
を元禄15年(1702)に出したこともあり、千代女が生まれた時代、
土地(加賀松任)では、蕉風俳諧が隆盛を見せていました。
千代女は、このような時代背景の元に生まれ、その影響で幼い頃から
俳諧に興味を持ち、親しんでいました。
代表作はいうまでもなく「朝顔に釣瓶とられてもらい水」です。
このため
松任では毎年、「千代女朝顔祭り」が開催され、朝顔はこの町
のシンボルの花にもなっています。


 

起きて三つ寝て三つ蚤を六つ取り



 

千代女は田沼時代の俳人。加賀松任の表具師の娘に生まれ、結婚をして
一子を産みましたが、最愛の夫、子供と死別し、以後は俳諧一筋に暮ら
しました。親子三人仲良く寝ていたのにと、しみじみ思い詠んだのが
「起きて見つ寝て見つ蚊帳の広さかな」でした。



 

眠られて寝られぬ蚊帳の広さかな
起きて見つ寝て見つ蚊帳の穴だらけ
お千代さん蚊帳が広くば入ろうか


 

教科書をはみ出たとこで咲いている  笠嶋恵美子


 


千代が17歳の頃、諸国行脚中で芭蕉門下の俳人・各務(かがみ)支考
出合い「弟子にしてください」と頼むと、支考は「さらば一句せよ」と、
ホトトギスを題にした俳句を詠むよう求められました。
千代女は俳句を夜通し言い続け、「ほととぎす郭公(ほととぎす)とて
明にけり」
という句で、遂に支考に才能を認められ俳句の道に進むこと
になりました。


 

「お千代さんさぞ眠かろう」時鳥

 

千代は、心優しく風流のわかる女性です。井戸水を汲み上げる釣瓶に朝顔
の蔓が巻き付いているのを見ても、無理に切ったりせず、そのままにして
おいて、他所に水を貰いにいったのですが、世の中には無粋な奴もいて、


 

朝顔に振り向く千代の空手桶
無雅なやつからんだ蔓を切って汲み


 

朝顔は千代女を有名にした花でもあり、無雅なやつの仕業に懲りて、翌年は
井戸端から離れたところに朝顔を植えただろうと川柳子の推理が働きます。


 

翌年は千代井戸端をよけて植え

 

わがままも言ってくれたら風は初夏  森田律子

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美しい車力熊野の湯葉へ来る  説教節



「詠史川柳」
江戸の景色 湯屋ー② 山東京伝 黄表紙





         
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『賢愚湊銭湯新話』
曲亭馬琴の師であり、また半世紀早く金の取れる唯一の作家として
活躍した山東京伝は、遊里短編小説としての洒落本の第一人者であり、
浪漫的な伝奇小説、読本、そして黄表紙においても一流の作者である。
その京伝が著した『賢愚湊銭湯新話』は、享和二年(1802)出版の
黄表紙で、寛政改革時に厳しい出版取締令が出た後の出版であるため、
教訓的姿勢が濃厚であり、文芸的価値の点では、高く評価されないが、
江戸文化における「銭湯」を知るための資料として貴重なものである。
ついでながら黄表紙について、絵と文とを同時に並行して見、読むと
いうところは、現代の劇画に似ているが、軽妙、洒脱、機智に溢れて、
泰平の江戸の住人の興味を、そのまま反映しているところに、特殊な
価値を有するものである。
黄表紙とは、こんなものであったことを絵と合せ読んでみてください。



 


賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)と湯屋の湯番は高きところに上りゐて、
その形よく似たり、賓頭盧は衆生を済度するが役目、湯番は人の出入り
を守るが役目なり。これ軽き役にあらず、たとはゞ天道様ありて、人の
善悪を見分け給うがごとし。然れども湯番はもとが凡夫なれば、をり々
居眠りをして、出入の人に草履を履き違へさせ、帯を間違へさせること
などもあれど、天道様は居眠りなどはし玉わず、つねに日月の眼を押し
開きて、人の善悪を見分け玉ふ故に、あなたに少しも誤りあることなし。
天道様が見通しといふは、此故なり。
「わしが草履をかぼちゃのやうな頭のぢいさまが履きちがへて行ったと
いふことだ。裸足では帰られず、これは当惑千万だ。
ぞうりでかぼちゃが当惑とは、此の事であんべい」



 

    定
一、神儒仏の教は不申及主人父母の命をかたく相守可申候事。
一、身の用心大切に可仕候事。
一、極老の御方貪欲の源 入被成間敷(いりなされまじく)候。
一、浮気と云う悪敷病ある御方、色里へ御入込御無用の事。
一、心に奢りの風立候節は、何時成共御断なく身上しまわせ申候。
一、金銀其外大切の品御持参の御方、旅の夜道御無用の事。
一、名聞利欲の喧嘩口論、喜怒哀楽の高声御無用の事。
一、魂魄(こんばく)の失せ物不存候。
一、地水火風のあづかり物不仕候。

   月 日


   定
一、ひとむかし  拾ねん
一、子供のうち  八ねん
一、わかざかり  廿ねん
一、札銭人間一生ニ付  五十枚
一、陰徳をほどこす時は人間一生二度入りの御方となり、
  百年の寿命も保たれ申候。
一、右の通りご承知の上、正直に世渡り可被成候。

   月 日




 

そもそも銭湯の風呂口を石榴口といふは、むかし鬼子母神千人の子を
腹のこの中へ隠し玉ひしことあり。
風呂口も千人万人の人を隠しいるゝところなれば、鬼子母神の縁により
て石榴口と名付けたるよし。又諸人風呂へ這入る姿は蟒蛇(うわばみ)
に呑まるゝやうなりとて、蛇喰口とも名づくるよし、つくづく考ふるに、
正直なる人は楽しみ多く、邪なる人、愚痴なる人は苦労多し。
故に邪苦労愚痴なるべし。
されど尊きも賎しき湯へ這い入る時は裸となる。
これ天地自然の姿にて、風呂口より出る人は、産湯を浴びて生れ出るが
如く、着物を脱捨てて風呂へ這入る人は、この世金銀家財を残し置きて、
死して沐浴を受くるがごとし。
いかほど不精な人も此の二度の湯はぜひ々浴びねばならず、
死あるが故に生あり、生あるが故に死あり。
生死一重が儘ならぬと唄いしも此の事なり。





 

「すべるは すべるは どこい どこい。
 いちばん滑ってくんさるなら、かたじけ流しの真ン中だあも さ。
 こいつは朝湯なのせりふだ。
「おぎゃあ おぎゃあ おぎゃあ。だが、ふく坊は風呂へ這入って
 いい子になったぞよ。かかァが乳をためて待っていよふぞ。
「ことしは静かな良い春じゃ。去年中の心の垢を洗い落として、
 恵方参りとでかけやう。




 

諸人入込の銭湯は、貴賤老若混雑の世界によく似たり。
初会の床の当推量、辻占いの八つ当たりも、大概は衣装着物で見てとる
なれど、湯へ這入る人はみな裸なれば、貴賤上下おしなめて見分け難く、
襟に瘕(なまづ)のできたは鰻屋の隣の人か、顔に雀斑(そばかす)の
あるは饂飩屋(うどんや)のかみ様か、額に疥(はたけ)、肩に田虫が
できたは百姓の息子か、鳩胸は豆屋の亭主か、鮫肌は蒲鉾屋の隠居か、
手の長い人には油断なるまい、内股に膏薬を貼った人には滅多なことは
言われまい。小賓(こびん)に痣のある人は景清が末葉ならん。
背中に竜を彫った人は水滸伝の九紋龍が子孫かと、これ皆当推量の目利
きにして、まことの目利きにあらず。
人の心の善悪もなりふり顔つきで見分けがたきこと、この道理なり。



 

「お前の背中は猫背中だから、鼠の糞のような垢がよれます。
「二百はずむからずいぶん糠袋を買いつかんで、脂垢を西の海へさらり
 と流してくりやれ。よく、洗いましょ、垢落しだ。
「南無金毘羅大権現大平饂飩蕎麦か。
「あなたは桂馬様ではございませんか。お飛車しや 々
「かやうに金を握って申すは失礼でござるが、貴公の歩はお達者かの。





 

朝湯の人の身にひゝりとしみるは、此ごとく朝から家業を身にしみろと
いふ教え、仏嫌いな爺様も、湯へ這入れば我知らず南無阿弥陀南無阿弥
陀と念仏を申す。皆これ銭湯の湯徳也。
「人裸になれば貴賤上下を分け難し、然れども、土佐裃に外記袴、
半太羽織に義太股引と、一ㇳ口づつの湯屋浄瑠璃、豊後正伝唄祭文、
潮来四つ竹新内節、猫じゃ猫じゃに到るまで、ただその好む所によりて、
人柄の上下が知れるなり。
隅にいる人がいふ。
「さつきから聞いていれば、謡いもあればめりやすもあり。
 触り文句に責念仏,神祇釈教恋無常、これはとんだ乗合舟だ。
「一家も一門もない、きなかものでござい。ごめんなさいまし。




 


「これは強勢に熱い湯だ。
 焦熱地獄の銅壷の蓋か、不動様の背中ときてゐる。
「たがひの心うちとけて、うわべはとけぬ五大力、さはさりながら、
 変る色なき御風情っさ。
「あゝいゝ加減な湯じゃ。これがほんの極楽往生、あゝ南無阿弥陀 々。
「おぬいは涙せきあへず。恋は女子の癪の種。
「阿蘇の宮の神主友成とは我が事なり。






 

湯屋の流しも折々砂をつけて磨かざれば、人を滑らして大きな怪我を
させることある故、毎日々怠らずこれを磨くなり。
人の渡世も亦折々気をつけ、十露盤の玉をもって磨かざれば、
商いに上滑りがして人の身代に怪我をさせるのみにあらず、
我が家蔵の腰をぶんぬき、大工の骨接ぎ、左官の鏝療治(こてりょうじ)
でも治らず、晦日物前に打身がおこりて、終に病のもととなる。
怠らず商売を磨くべし。
「玉磨かざれば光なしだ。流しも洗わねば、溝板同然だ。
「さっさとこすれや、節季候 節季候。







 

草木こころなしといへども湯にも心あり。人の心には私ありて、
湯の心には私なし。それはまた何故といふに、人ひそかに湯の中にて
放屁する時は、直にぶくぶくと音がして、泡のやうなるもの浮み出る。
これすなわはち人の心に私ありて、湯の心に私なき証拠なり。
「もふ昼だそふで、腹が少し北山の武者所だ。酒を一杯熊谷なら、
 せめて二八の敦盛でもしてやりたい。
「かう毎日柄杓を持つが商売とは、梅が枝が川留めにあったやうだ。
 芝居だと手裏剣を受け止めて、巡礼に御報謝という役だ。





 

芝居にも土用休みあり。職人にも煙草休みあり。
湯屋にも定まれる休み日があって、風呂場を乾かし、小桶を干し、
風を入れ、日に照らすは、水に腐らせぬ用心なり。
大酒を好むものも此の道理にて、毎日々酒浸しになって休み日が無ひと、
腹が小桶のやうに張って、鼻が石榴口のやうに赤くなり、
壁のあばら骨があらわれ、四十四の骨の柱が腐って、命のを失ふこと
目前なり。慎みて大酒を好むべからず。
「此の本には女が少ないとて、おいら二人が此処へ書かれたのさ。
畢竟(ひっきょう)作者のおさきだま。
両方から駒下駄を履いた女中が来て、
「おやおやどうしやうの、休みじゃ無へと思ったに。
「わっちもさ。照らされたよ。どうしやうの。
と二人ながら下駄で来た故、げたげたと笑ふ。これを湯屋笑ひといふ。









湯屋の若い衆、休み日に奢りかける。
「かう奢っては明日の貰い湯を台無しにするぞよ。
「はて酔ったら儘の川千鳥、足がひょろつくぶんの事だ。
 もふ一つ もふ一つ。
 絵の△は、京伝の宣伝が書いてある。
一、忠臣水滸伝 売り出し中、お求めのほどよろしく。
一、京伝煙草入新型 京伝は煙草入れを発明したことで有名。






 

湯屋にも仁義五常あり。
湯をもって人を温め、草臥れ(くたびれ)を休めるは仁なり。
人の桶に手をかけぬは義なり。
田舎者でござい、冷え者でござい、御免なさいとは礼なり。
糠洗い粉軽石糸瓜の皮で垢を落すは智なり。
風呂の板を叩けば承知して水をうめる、これ信なり。
「湯は陽にして天の象(かたち)による故に、円き柄杓をもって円き
小桶に汲み入るゝ。水は陰にして地の象による故に、四角な水槽より
四角な升をもって汲みとる。
湯は男なり。水は女なり。男の熱き熱湯の中へ、女の冷き水をうめれば、
よき加減の湯となる。夫婦和合の道理、此ごとし。
熱湯の儘にて使へば火傷をする。水ばかりでは風邪を引くなり。




 



「動左衛門様、もうお上がりか。お前は烏の行水じゃの。
「商人は手拭を絞るにも、身の脂をしぼる気にならねばならぬ。
「けふもだいぶん湯が込むかへ。
「湯へ這入る所は誰でも、ざまの悪いもので、湯のよる処へは、ざまが
 よるとは此の事だ。
「そりゃ焼十能でござい。御免なさいまし。






 

男湯と女湯の分かるは、男女別あるの道理なり。
楊貴妃が驪山(りざん)の浴室には、玄宗の涎を流し、
塩谷が妻の湯上りには、師直のうつつをぬかす。
これらは皆煩悩の垢なれど、光明皇后は千人の垢を流して、仏の化身に
あひし事もあり。
煩悩あれば菩提あり、盆前もあれば大晦日もある道理なり。
「そもそも湯上りの時美しき女はまことの美人なり。雀斑(そばかす)
疥(はたけ)、疣(いぼ)、黒子、頬の赤きも大痘痕(あばた)も、
紅粉白粉でくろめれば、相応に見ゆるものなり。人の心もまずその如く
追従軽薄の紅粉白粉で彩しは真の心にあらず。
正直の糠袋で洗ひあげたる所が無疵の実心なり。
此の二人娘、粂三かお七といふ気取りで自惚れている。
「なんだか悪臭い匂いがするのう。
「あれは水虫へつける薬に糠の脂をとるのさ。
「お竹さんを人がいゝいゝといふが、気が知れねへよ。
「そふさ。あの横顔を見なゝ。精霊さまの馬を見たやうだ。
「これから帰って狆に湯を浴びせてあらふ。






 

「さあ々湯へ這入りましょ。坊やいゝ子だぞ 々。
「だいぶ御成人でござります。おとなしいお子じゃ。
「おつぼさん待ちなよ。付合いを知らねへ子だのふ。






 

湯の中で温まれば酒麩のやうに縮まった睾丸も自然とだらけてくる。
人の身代も内証が温まってくると、そろそろ金袋がだらけて、思わぬ
無駄銭を使ふかも、盛って入る時は、又盛って出づる道理。
ただ銭金を湯水のやうに使えば、じきさま休み日の湯屋のやうに、
身代の内証が空っぽしやぎとなるは目前なり。
「あゝいい心持ちだ。さっぱりとしてよいぞ々。
 おれが形は干し大根で作った文覚上人ときている。
「御隠居様この頃は碁はどうでござります。
「これ小僧、冗談をするな。小桶戻れば千里も一里だ。






 

「これはいかいこと小桶が並んだ。
 小人島で沢庵漬の問屋をするようだ。

「これはけしからぬ混みやう。おらが方へおはちの廻るは夜が遥かだ。







 

長湯を好む老人などは、たまたま湯気に上りて目をまわすことなどあれ
ども、気付けを用ゆるに及ばず。
顔へ水を吹きかけるとたちまち気がつくなり。
銭湯人殺さずとは此の故ならん。
「誰だと思ったら八百屋のお爺さんか、やれやれあんまり長湯をなさる
 からの事じゃ。長湯もあれば短湯もあるは八百屋の隠居様、
 これもうし気が付きましたか、気がつきましたか。
「頭が唐茄子のやうで、鼻が胡桃のやうで、手足が干し大根のやうで、
 睾丸が何首烏(かしう)のやうだから、八百屋のお爺さんだと思った。







ずっと大昔は、湯屋で物を掠めたがる者もありけるよし。
もしさやうの者ある時は、顔や体へ一面に鍋墨をなすって、辱しめたる
となり、これ何故なれば、崑崙国(チャンバ王国)の人は俗気多く、
珊瑚樹などを奪いて逃げ出す所、絵にもよく書くやつなり。
故に黒ん坊となして、恥を与へけるとぞ。
「まづ此の薪雑把を食わせるがいゝ。
「こいつはとんと黒ん坊の生捕りときている。
 珊瑚樹のかわり十能を見知らせてくりやう。どっちも赤いものだ。
「憎い八つ目鰻だ。おもいれ油をとってやれ。




 

湯屋の二階で売る駄菓子を食ふにも謂われなきにあらず。
教化別伝不立文盲な咄をして尻を腐らせる人は、達磨糖をしてやり、
お釈迦様の開帳話をしながら、さがおこしを食ふもあり。
生姜糖をしてやる薬取りもあり。
昼寝の夢のお目覚ましに粟の岩おこしを食ふもあり。
頭巾を被った人が大黒煎餅をせしめ、大ころばしを食って雪隠へ行きた
くなるお爺が、飴一本四文、大福餅あったかいにも故事来歴あるべし。






「今日はよい天気でござります。香煎をあがりまし。
「明日は大師河原へ行くつもりだが、気はなしか。
「昨日は堀の内へ参って、強勢に草臥れた。遠いぞ 々。
「番公変ることもないか。
「八兵衛が来るはずだが、まだ見へねへ。






 

「わりゃァよくおれが睾丸を糠袋と間違へてつかんだな。
 それで湯をぶっかけたが何とした。此の黒砂糖の固まりめ。
 柿のやうな眼を剥きだしても怖かあねへぞ。
「こいつが々、わりゃァまたおれが眼の柿のやうなをどの眼で見た。
 悪く笛を鳴らすが最後、犬に褌を咥へさせ大津の宿へしたにやるぞよ。
 漆掻きの尻を杖で突つくとはちがふぞよ。
「これさ二人ともきん玉があぶないあぶない。
蓼の虫葵に移らずといへども、襤褸襦袢より羽二重の小袖へも移るは
湯屋の虱なり。
人も又此の湯屋の虱の如く、襤褸襦袢の賎しきより羽二重の尊きへも
移らざるといふことなし。




 

もし旦那、それそれ葵虱が二つ胴に二匹連れ、裾までよって這います。
それからご覧じろ。こいつは続きの二匹だはへ。
「はて合点のゆかぬ。
 裁(き)りたての小袖へ千手観音のあらわれ給ふは心得ぬ。
 察する所、時は弥生の半なれば、こいつ花見虱じゃな。
 何にもせよ、むさいこの場の風呂屋じゃなァ。






 

大晦日の夜はいづくの湯屋も夜通しなるが、東雲のころ、風呂の栓を
抜きけるに、悪臭き匂いして、湯いちどきに流れ出で、湯気霧の如く
立ち昇るうちに、異形の物あらわれ出でたり、角は鼠の糞の如く、
面は軽石の如く、歯はつるしてある櫛の如く、手は鋏の如く、
胴は小桶の如く、足は手拭・糠袋に似て、糸瓜の皮の褌を締めたる鬼、
洗粉の如き生臭き毒気を吐きて、すっくりと立ちたり。
これをいかなる物と思ふに、一年三百六十日の間、毎日毎日入りくる
人の洗い流したる垢の亡魂なり。










垢の亡魂がいふ。
「色の黒き男色男にならんと洗粉にて磨きたるは、これ色欲の垢なり。
 金の番をする爺様が長き爪にて掻き流したるは、これ貪欲の垢なり。
 その他不幸不忠の垢、不義不仁の垢は申すに及ばず、高慢自惚の垢
 悋気嫉妬の垢、憎い可愛いの垢、嬉し悲しの垢、追従軽薄の垢あり
 て、一人として欲垢に汚れざるものなし。
 その垢積り積りては此の様な鬼となって一生を苦しむぞや。
「これ申し番頭どの、我が身欲垢の鬼となり、焦熱地獄の釜風呂の底
 に沈みて苦しむことを、世の人に告げて心のうちの欲垢を溜めぬや
 うに、よくよく伝えて下され。
 そのお礼には万歳で一つ祝っておきませう。





 

「欲垢に御万歳とは、お湯屋も栄へてましんます。
といいつつ小桶の尻をぽん々と叩き、
消し炭の火鉢のうちを掻き消す如く失せにけり。
「湯屋はけしからぬ化物だ。
「二日の初湯松の内、桃の節句や菖蒲風呂、盆の燈籠二度の貰い湯、
 一年中の人の垢、積り積りて此の姿、
 あゝ苦ししに牡丹で石榴口の絵解きだなァ。
「なんだか無性にめでたい めでたい。





 

夫天地間は湯室(ゆや)で看(みた)よりも大にして。
量り得がたきこと。浴盤を彭翁菜(ごぼう)で探るが如く。
一切衆生湊集(いりごみ)欲界。恰も銭湯の光景に似たり。
邪心悪念人心の垢。箇々十泉を以って。いかでも洗い落すべき。
琉球の洗粉、朝鮮の水石(軽石)。
紅毛(オランダ)の天糸瓜皮は用いるにたらず。
唯神儒の糠袋。仏老の垢擦り。よく心裡の垢をおとす。 
に浴しぶうしぶういふ険悍(ちうつばら)も。 蛮の垢を去り。
身にもろもろの惰的(ぶしょうもの)も。心に日頃の垢をたけな。
あらひ玉へきよめ玉へとまうす。

享和壬戌春  東都  山東京伝誌





【詠史川柳】 誰のことを言っているのか分かればかなりの歴史通



湯治場の評判になる車引き
車止めすこぶる困る照手姫
照手姫毎日そこら握って見



この主人公は、誰の事か今回は書いておりません。

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おとがいはひねもす春の海になる 河村啓子


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式亭三馬の『浮世風呂』に描かれた湯屋

 
「詠史川柳」 江戸の景色ー5  湯屋
江戸に「湯屋」が初めて誕生したのは、天正19年(1591)のことである。
寛政の時代に入ってからは「銭湯」ともいう。
錢瓶橋(ぜにがめばし)のたもとに伊勢出身の与一が永楽銭一文で入浴
できる「蒸し風呂」を開いたのが最初だった。
大きな釜湯を沸かして蒸気を密室へ引き込み、その熱と湿気で垢が浮いて
くると、別室に出て垢をかき落して水で流す式である。
しかし、江戸は火事が多く、幕府は火を出したものは死罪と定めたから、
江戸では、庶民だけではなく、豊かな商人も内風呂を作らなかった。

 
浴びるには少し足りない盥の湯  杉浦多津子

 
江戸は風が強く、埃のたつことが激しいので毎日入浴する習慣がある。
ところが武家屋敷には浴室があって、主人や家族は屋敷内で入浴するが、
そのほかの江戸の家では、大町人の家でも浴室を持たない。
宿屋でも、客は銭湯へ行くのであり、大町人の女房や娘でも銭湯へ行く
のを恥としない。火事を恐れ、また江戸は水が不自由だったからである。
下町は家康の江戸入城後、埋め立てられた土地で、良質の水を得ること
は難しく、同時に山の手は、江戸の俚諺で譬えて「麹町の井戸」という
ように、水脈が深くて水に不自由をしたのである。
江戸に井戸が整うのは200年後の化政時代まで待たねばならならず、
そのため湯屋の数は、増える一方だった。

 
裸婦像が画布を出たがるので困る  青砥たかこ

 
文化5年(1808)には、523軒、文化11年頃には、600軒余
の銭湯が出来た。が、江戸の町方の人口は、50万人を超え、町数は、
1200余町。ほとんどの町人が銭湯を使用しており、しかもほとんど
が毎日入浴したというのだから、銭湯の数は足らない。
そのため、銭湯の新規開業を願う者は多かったが、幕府は、銭湯が火を
焚く商売であり、火災の多い江戸では、火災防止上から無制限に営業の
許可をしなかった。

 
  
蒸しタオルの中途半端な正義感  森田律子



 
が、寛政2年(1790)に少し前向きなお触れが出される。
1、新しい湯屋を開業したいという願いは従来許可しなかったが、
  今後は軒数に応じて許可することにする。
1、江戸城周辺の建て混んでいるところは、二町を限り一軒を許可する。
1、場末の町では、両側町の場合は四町を限り一軒を、片側町の場合は
  五町を限り一軒を許可する。
1、女客専用の銭湯についても、前の二項に述べる通りである。
  ただし男女入込み(混浴)の湯屋の場合は、日を分けるとか、時間を
  分けるとかして女客を入浴させれば、風俗を正しくすることにもなり
  また女湯が少ないことへの対策として、一町に一軒を許可する。
  川柳にも、山の手の湯は女人とて隔てなし と詠まれた。
(やがて湯屋は蒸し風呂形式から、湯船形式が主流になっていく)

 
うどんでも食べて帰ろかこんな日は 都司 豊



   石 榴 口

 
江戸の湯屋は、入口で番台に入力料を払って、土間から履物を脱いで、
板の間へ上がる。そこは脱衣場である。ここで裸になって服は脱衣棚に
入れて先へ進むと、洗い場が現れる。
その奥の間が「湯船」のある浴室なのだが、洗い場から浴室への入口を
「石榴口」と呼び、唐破風型などの屋根とその下に大きな板を貼りつけ、
鴨井板の下に狭い隙間がある形状になっている。
客はそこからかがんで浴室に入らなくてはならない。
蒸気や湯気を逃がさないために、そうした構造になっているのだ。
浴槽は石榴口より10㌢高く、浴槽の中に沈めば板の間は全くみえない。
因みに浴槽の広さは九尺四方というから、約3㍍四方で狭く、
常に、ごったがえした様子が想像できる。
(因みに、入浴料は大人10文(200~250円)子供6文程)


傷跡のふたつみっつを撫でながら  合田瑠美子




  湯 船

 
入口や脱衣場は男女別々なのに、浴室は一緒になっていることが多い。
湯船を二つ作るには、釜も二つ誂えなければならないので、経済効率の
ためだったとされる。
こうした混浴を「入込み湯」と呼ぶが、浴室には灯や天窓はなく、
密閉されているので互いの姿が見えないほど暗い。
だから浴室入って来た者が先客にぶつかると、身体が冷たいので相手を
驚かせてしまう。このため石榴口をくぐるときは、「冷えもんでござい」
などと声をかけて入るのがエチケットであった。
 石榴口人を呑んだり戻したり 
そんなところから、次のような江戸小咄も生まれる。
※ 田舎客を銭湯へ連れて行ったときのこと。
「冷えもんでござい」と石榴口へ入ると、後から田舎客がそれを真似て
「わしは江州の多左衛門でござります」
 
今日の心は45度でちょうどいい  山口美代子

『東京名所三十六戯撰 芝飯倉』

 
江戸の銭湯には、男湯に限って、湯代とは別料金で12文払えば、
「二階座敷」を利用することが出来た。。
「皇都午睡」に二階の様子説明をしてもらうと、
『番台の傍らに、二階へ上る大段階子有り。
二階は男湯のみにて、高欄付き、二階より往来を見おろす。
座敷には隔てなく、碁将棋の席屋に似たり。
中央に二階番頭が居、白湯を釜にたぎらせ、客の顔を見れば、煮花を拵え
持ち来る。前に菓子、羊羹など重に入有。爪切、鋏、櫛など傍に置有。
贅沢者は、ずっと這入って二階へ行。二階に着物脱入る戸棚あり。
これへ脱ぎ、湯代と手拭を持ち、階下を下りて銭を置き、入湯して二階へ
上って、ゆるりと躰を乾かす。
茶を持ちくる。菓子を喰う、茶を飲み、爪を切って、ゆるりとして着物
を着る…茶店で休まんよりはるか安上がりにてゆるりとす。
勤番の侍衆、近辺の若者などはこの二階にて遊び、碁将棋盤が有りて、
温泉湯治場の如し』とある。
(煮花とは、煎じたての香り高い茶)
 

人生のロスタイムからファンファーレ  斉藤和子



 
二階にいる番頭は最古参の者で、二階で払う金は、彼の収入となった。
このため番頭は、客が喜んで二階に上って来てくれるよう、
さまざまなサービスを提供した。その一つが覗き穴や遠眼鏡の用意だ。
これを用いて階下の女湯を覗かせるのである。
時折、二階の座敷では、講談や浄瑠璃、落語なども催された。
師匠を招いて生け花や囲碁の教室を開催する湯屋もあった。
壁には料理屋や薬屋、寄席の広告があちこちに張り出されていた。
こうした湯屋の二階で男性客はゆったりと寛ぎ、今でいうところの社交
サロンのように歓談に耽っていたのだろう。江戸時代の湯屋は、いまの
スーパー銭湯のような総合娯楽施設でもあった。


 
神さんがくしゃみしてはる間に悪さ 居谷真理子




湯女が男の背を流す洗い場
話は石榴口の先の洗い場へ。
男女共用の洗い場では、男は褌、女は湯文字(下着)をつけているのが
一般的。江戸時代初期には、洗い場には湯女(ゆめ)と呼ばれる女性が
いて、客の垢を巧みに素手でかき取り、背中を流してくれるサービスが
あった。髪を洗ってくれ、櫛で髪を梳いて紐で結んでくれた。
その上、求めに応じて性も売った。こうした状況に幕府は、風紀を乱す
という理由で、明暦2年(1656)に湯女を厳禁。
500余人の湯女を捕まえて吉原に強制移送した。
以後、湯女は完全に廃れ、代わって三助という男が客の背を流すように
なった。


 
自然体もいいけど骨なしになるよ 安土理恵



 
入浴客は、浴槽を出ると、流し板で糠袋を用いて体を洗う。
糠袋とは袋のなかに糠をいれたもので、客は袋を持参し糠は番台で買う。
番台は入浴に必要なものを売ったり貸したりしてくれる。
手拭や爪切り鋏も貸してくれたし、膏薬や水虫の薬まで売っていた。
仏壇仏具コロッケも売ってます  井上一筒 

 
いずれにせよ、湯屋では老若男女、貧富貴賤が入り交じり、さまざまな
会話がなされた。
そのため町奉行所の与力は、湯屋で最新の情報を入手した。
ただ顔が割れてしまっているので、なんと彼らは、女風呂に入って壁越し
に男風呂の会話に耳をすましたのである。
そう、与力は朝の女風呂に入る特権を持っていたのだ。
もともと女は早朝、湯に入る習慣がなかったので、こうした与力の行動が
可能だったのである。
このため女湯には、与力のための刀掛がしつらえられていたという。
ここだけの話が三日で洩れてくる 木村良三

 
「詠史川柳」
五右衛門の処刑


≪石川五右衛門≫

 
五右衛門は生煮えの時一首詠み    
 
石川五右衛門は、安土桃山時代の泥棒の首領。
実在の人物で、京都三条河原で「釜茹での刑」に処せられたのも史実。
その時に「石川や浜の真砂は尽きるとも、世に盗人の種は尽くまじ」
という辞世を詠んだと伝わります。主題句は此の事を詠んだもので、
煮えたぎった油の中で絶命する前、生煮えのうちにに一首詠んだという
のですが、ここらはさすがに作り話。



芋ならばさして見るころ五右衛門歌
 

 
芋は頃合いを見て、串をさして芯まで煮えているか確かめます。
五右衛門は芋なら串を刺してみる時分に辞世を詠んだというのです。
白波の居風呂桶に名を残し
 

 
「白波」「盗賊」の意味。「居風呂桶」(すえふろおけ)は、
かまどを作りつけて、湯をわかし入浴するのに用いるもので、
これが「五右衛門風呂」。五右衛門は風呂にまで名を残したのだという。



無いとアカンのでしょうかキャラクター  雨森茂樹

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