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川柳的逍遥 人の世の一家言
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四角張った話止めましょ花曇り  柴本ばっは



 (拡大してごらんください)
   金原亭馬生画「長屋の花見」
趣味は絵というだけにうまいものです。


「噺家と川柳」

 

昭和5年ごろ、噺家と親交のある川柳家・坊野寿山4代目柳家小さん
と5代目・三遊亭圓生「俳句をするのに、どうして川柳をやらないん
ですか」と声をかけた。寿山とは、明治33年(1900)、木綿問屋の五男
として裕福な家庭に生まれ、落語が好きだったことから、「旦那」とし
て噺家たちと親しく付き合う川柳人である。寿山の川柳は大学在学中の
21歳ころ、川柳六大家の活躍に合せるように始まったという。寿山の
指摘の通り小さんは俳句については造詣が深く、句作にも自信があった。
「俳句が詠めるんだから、川柳だって…」とその気になり、圓生も乗り
気で「寿山先生が教えてくれるというなら、噺家仲間にも声をかけてみ
ましょう」ということで、噺家による川柳の会が発足した。
名称は「鹿連会」になった。そしてその年、根岸の寿山宅を会場に第一
回句会が催され、そうそうたるメンバーが揃った。
メンバーの名はその時、提出された川柳にて紹介。

 

確信犯だと思う貴方との奇遇  前中知栄

 

拳を打つ男同士へ花が散り  黒門町の師匠ー桂文楽
鼻歌で寝酒も寂し酔い心地  柳家甚五郎ー古今亭志ん生
姐芸者こんな香水けなしてる  三遊亭圓生
縁起物お召しのドテラ使われる  ゲロ万ー金原亭馬之助
三階で見ればダンスは足ばかり  毒舌家ー桂文都
誘惑の眼すんなりと美麗な手  8代目小三治
押入れの枕が落ちる探しもの  柳家小さん
言い訳の顔は煙草の煙の中  紙切りの初代ー林屋正楽
また聞きは本当らしい嘘になり  玉井の可楽ー7代目三笑亭可楽
新所帯雑誌を読んで眠くなる  春風亭柳楽ー8代目三笑亭可楽

 

鼻の下由緒正しく持ち歩く  森田律子

 


 (画面をクリックすると画像が大きくなります)
「鹿連会」11人の噺家たち
左から圓蔵、柳枝、正楽、志ん生、文楽、圓歌、西島〇丸、坊野寿山、
右女助、馬生、小さん、三木助、圓生

 

それにしても弱冠30歳の寿山が自分よりも年上の、一癖も二癖もある
噺家蓮中を向こうに回して川柳指導をする。よくもまあ、「こんな会が
成り立ったものだ」と感心するばかりだが、実際のところ寿山の「力」
はなかなかのものだったようだ。しかし寿山の熱意とは別に、好きもの
とはいえ、気まぐれな人たちの集まり、この会(第一次)は、わずか2
年で自然消滅してしまう。
それから23年。寿山は53歳のとき、6代目・圓生が、同じ齢の寿山
に「先生戦前にやっていた川柳会をやってみたいのですが」「それなら
あんたが幹事だよ」と阿吽の息の会話から、圓生が奔走し、寿山ほか四
谷西念寺住職であり川柳会会長の西島0丸(れいがん)が加わり、落語
家11名、計13名のメンバーで「第二次鹿連会」スタートした。
こちらの会は、10年以上続き、毎月句会が開かれた。

 

納豆を食べて粘着質になる  新家完司

 

11名の落語家の作品。
指の爪生まれもつかぬ色になり  園生
借りのある人が湯船の中にいる  志ん生
鳥鍋を突っつきながら金の事  文楽
鼻歌も欠伸もうつるいい天気  右女助
ゼンマイを巻くにノッポは使われる  小さん
総絞り広巾に〆め金鎖  正楽
あれ以来宮本鍋蓋イヤになり  圓蔵
女房の帯から這入る年の暮  三木助
鉛筆の押し売りがくる昼下がり  馬生
ふぐさしは皿ばかりかと近眼みる  柳枝
神近が落ちて喜ぶ牛太郎  圓歌

 

うやむやで済ませた過去が通せんぼ  上田 仁

 


テレビ出演後の記念写真
古今亭金馬や徳川無声の顔も見える。    

6代目圓生、5代目小さん、寿山の三人の当会の感想がある。
(圓生)
「この会は噺家としての看板が揃っていたし、しかも句がおかしんだ」
(小さん)
「うまいんじゃなくて、おかしいのね」
(寿山)
「でも噺家さんは選者の言うことを聞いてくれない。私が出す席題が
気に入らないと、皆、平気で『悪い題だ』って文句いうんだもの」
圓生の言葉通り、鹿連会の同人には、昭和の名人上手がずらりと並ぶ。
そんな大看板が次々と「おかしい句」を拵えるのだから、世間の注目
を集めるのも当然だった。
31年6月、新築した寿山宅での例会が「落語家と川柳」の題でラジオ
東京から放送され。
32年には、雑誌「淡交」「鹿連会」の特集を組むため、句会の取材
にやってきた。それならばと「ミニ茶会」が始まった。
最年少の馬生が緊張で手を震わせながら茶を点て、皆、よそ行きの顔で
川柳を作った。
そして同じ年の暮、人形町末広の高座で鹿連会を開催した。
即席川柳がウケること、ウケること。
その上がりを待って四谷に繰り出し、ついでの忘年会として大騒ぎ、
「猫(芸者)三匹呼んだ」というエピソードまである。

 

大仏が歩きだしたら人気者  ふじのひろし




 
正月 馬生以外家族勢ぞろい

 

「いだてん」の縁で古今亭志ん生の川柳にページをさきます。
志ん生は、川柳の師匠・坊野寿山に川柳を愛するわけを話した。
「川柳くらい、いい道楽はない。安くて人に迷惑をかけず、腹も減らず、
落語にも役に立つ。倅が酔って遅く帰ったりすると、川柳をやれという
んです」
志ん生の句風は自然流。面倒な作句法などは一切なし。暮らしの中で
見聞きしたことを思ったまま、575にする。
ただそれだけなのに、何ともいえない可笑しみのある句を作る。
干物では秋刀魚は鯵にかなわない
サンマの干物を見て感じただけなのに…、昭和の落語名人たちが呆れ、
感嘆したというのだから、落語家はやっぱり面白くておかしい。

 

笑い過ぎて繁盛亭に住みつく蚊  森吉留理恵

 

戦前の貧乏時代、志ん生(甚五郎)は、お金にまつわる川柳が多い。
抱きついてキッスを見るに金を出し
「志ん生はどんな題が出ても、まず酒と結びつけて句を作る」
とは、鹿連会同人ほぼ全員の見解である。
パナマをば買ったつもりで飲んでいる
この志ん生のすすめで、俳句や絵画が好きだった長男の馬生は戦後、
同会の最年少同人となり、(最後まで最年少の身分は変わらず)
小間使いを兼ねて、いやいや川柳を作ったという。
その作風は「貧乏」が代名詞だった志ん生の家で育ったのに、「貧乏」
を扱った句が見当たらない。志ん生は貧乏そのものを楽しんだが、
馬生は「父ちゃんのおかげで苦労した」という思いが強かったようだ。

 

円周率1000桁言えるのに迷子  清水すみれ

 



志ん生の膝に池波志乃、おりんさんの膝に美濃部由紀子

 


「馬生の次女・美濃部由紀子さんの回想」
祖父・志ん生、父・馬生、叔父・志ん朝は、芸風も性格も全く違う三人
三様なら、趣味も三人三様でした。志ん生の「飲む打つ買う」は有名で
すが、さすがに年を取ってからは「飲む」だけは変わりませんでしたが、
趣味は「川柳と骨董道楽」に落ち着きました。
志ん生の骨董道楽は一風変わっていて、好きで買っても数日で飽きて売
ってしまい、売った先でまた何か買うの繰り返し、何が楽しかったのか、
私が思うに店の店主とのやり取りが楽しかったのではないでしょうか。

 ひっそりと電話を見てる女あり  馬生
 

父・馬生「川柳」もやりましたが「俳句」の方が好きでした。
「日本画・日舞・長唄小唄・カメラ」など多趣味でしたが、晩年はもっ
ぱら俳句でした。父と母は10代の頃、同じ日舞の稽古場で知り合い、
お互い惹かれ合いましたが、弟子同士の恋愛はご法度。そっと俳句で気
持ちを伝えあうという粋なお付き合いをし、結婚しましたので、恋女房
とゆっくりお酒を酌み交わしながら、俳句の話をすることを何よりの楽
しみにしていました。また父は、あの通りの破天荒な人だから、祖父の
替わりに父は10代の頃から家族を養い、祖父が亡くなるまで父親代わ
りに面倒を見てきました。それでも祖父からは、何の引き立てもなく、
自身の力で名人といわれる人になりました。まさに努力の人です。
叔父・志ん朝は志ん生が48歳のときの子。貧乏からやっと抜け出した
後の誕生でしたから何不自由なく育った大店の若旦那の様な人でした。
趣味もやはりそれらしく「車、ゴルフ、ジャズ」
15才の頃にジャズに凝り、ビニールを張った洗面器をいくつも並べ、
ドラムの練習だと暇さえあればボンボン叩き、やかましかった。
三人の共通点は三人とも芸の虫。それでも家で三人が芸談をする事は、
ほとんどなかったと思います。

 

秘書は有能水増しを匙加減   山口ろっぱ        

 

今回の文章は、この回想を語る美濃部由紀子さんと長井好弘さんの共著
『落語名人たちによる名句・迷句「昭和川柳」』を参照しています。
由紀子さんは、志ん生の長男・馬生の次女として、父のマネージャー兼
付き人をしており、写真を見るところ、姉の池波志乃そっくりの色っぽ
い美女である。義兄に中尾彬、叔父に古今亭志ん朝、長男は金原亭小駒
という落語・芸能一家の中で育った。
志ん生の次男・志ん朝(6代目志ん生)は第二次鹿連会には間に合わず、
「仔鹿会」を発会させている。
最後に「仔鹿会」の作品を少し紹介して終ります。

タクシーは客の片手を見逃さず  三升家勝二
岸総理涙をのんで国産車  柳亭小団次
泳いでる人まで逃げる俄雨  柳家小さん(4代目小せん)
トースケがよくて前座の長い夜  古今亭志ん朝
んでない隠居のふところ手  三遊亭余生(5代目圓楽)
くだらない司会でやっと売れてくる  林家三平
めざましにせめられている二日酔い  柳家小ゑん(五代目立川談志)
スタイルを気にする前座背がほしい  橘家升蔵(8代目橘家円鏡)

(志ん朝の「トースケ」とは楽屋の符丁で「ご面相」のこと。
 イケメンは前座でも、二日働けば吉原で遊ぶ金ができると)

 

タクシーで帰るタクシー運転手  くんじろう

拍手[7回]

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膝の皿とり替えてから出直そう  笠嶋恵美子


 



 「落語によく登場する人物」
大家さん
地主から委託された雇い人。長屋の相談役。(長屋の花見)
若旦那
大体が放蕩息子で仕事が出きず、金食い虫。(長屋の花見)
大旦那
まじめで、商売一筋。ケチで小うるさい。(片棒)
権助
商家の使用人。地方出身で真面目で勤勉。(権助提灯)
与太郎
少々おつむが足りず、定職を持たないフリーター。(孝行糖)
熊五郎
真面目だが酒好きで、大雑把な性格。失敗が多い。(初天神)
甚兵衛
相談に乗ったり、仕事を紹介したりする性格のいい人。(火焔太鼓)
おかみさん
職人のおかみさんは働き者でしっかり者で焼きもち焼き。(文七元結)
(噺によって、人物像は多少の違いがあります)

 

ゲートインするなら原液のままで  酒井かがり

 


 (画像は拡大してご覧ください)
魚を打って歩く棒 手 振 り

 

「落語を一席」 芝浜 (いだてんつながり)

 

ここに出てくる主役は、熊さんとおかみさん。
長屋住まいの熊さんは「魚熊」と呼ばれる棒手振りの魚屋さんです。
腕もいいし、評判も上々ですが、酒好きなのが珠に瑕で、しかも
のべつまくない呑んでいたいため、仕事が疎かになってしまいます。
結局お得意さんは離れていき、本人も休むようになり、今も半月ほど、
仕事しないで休んでおります。
暮れも押し詰まったある日、「明日から一生懸命働く」という熊さん
の言葉を信じたおかみさんは、熊さんがすぐに働きに出られるように
支度を整えます。翌朝、熊さんを何とか起こして、市場へ買い出しに
送り出します。
日本橋の魚河岸が有名ですが、芝の浜にも魚市場があり、小魚を専門
に扱っておりました。

 

断崖に来ると押したくなる背中  森田律子

 

魚市場に着いても夜が明けませんし、まだ魚市場も開いておりません。
おかしいなァと思っていると、明六つを告げる切通しの時の鐘が
ゴーンと鳴りはじめます。
「かかあのやつ、時刻を間違えやがった…」
ようやく一時ほど時間を間違えて早く起こされたことに気がつきます。
仕方がないので浜へ出て一服していると、お天道様が出てきましたので
手を合せ。顔でも洗おうと思って海に入ると、足元に紐が見えます。
革の財布の紐であることがわかり、手に取ってみるとずっしりと重く、
驚いた熊さんは、一目散に財長屋に帰り、おかみさんに話します。
中身を確かめてみると、小粒(二分金)で50両も入っております。
これはもう仕事どころではありません。

 

司教様ワタリガニどすお導きを  山口ろっぱ

 

「これだけありゃあ、もう好きな酒飲んで、遊んで暮らしていけらぁ」
と大はしゃぎ。
「今日ばかりは思う存分呑んでもいいよ」と、
おかみさんにもすすめられ、酒を呑んで、ひと眠りして、湯屋の帰りに、
飲み友達を連れてくるし、酒と仕出し料裡を届けさせて、
どんちゃん騒ぎです。
あげくの果て熊さんは、すっかり酔い潰れて寝てしまいます。
日の暮れの頃、おかみさんに起こされ
「酒と仕出しの支払いをどうするの」
と尋ねられます。
「50両渡したじゃねえか」と答えると
「知らないよ」と言われてしまいます。
おかみさんは、熊さんが拾ったお金のことを本当に知らないようです。


 

あらいやだ押すと凹んだままになる  小林すみえ

 


「朝、芝の浜で拾ってきた財布を預けたじゃねえか」と、
言ってみても
「なに寝ぼけて馬鹿なこと言ってるんだい。夢でも見たんだろう。
この家のどこにそんな五十両なんて金があるんだい。
しっかりしてくれなきゃ困るよ」と、
言い返されてしまうなど、埒のあかない同じようなやりとりが続きます。
何度も「おかしいなァ」と思いますが、おかみさんが、あまりにも
はっきりと言いますので、自分の方が間違っていると思い直し、
「金拾った夢なんて、われながら情けねえや。これというのも酒のせいだ。
よし、もう酒はやめて商売に精と出すぜ」
と反省、改心し、明日からは酒を止めて、一生懸命働くことを約束します。

 

嘘少しまぜて話を丸くする  上田 仁



(画像は拡大してご覧ください)
商人や侍などで賑わう豊島屋商店前

 

もともと腕がよくて、いい魚を仕入れてきますから、
お得意はどんどん帰ってくるし、商いも順調です。
三年もしないうちに長屋住いの棒手振から、表通りに見世を構えるよう
になります。
そして、ちょうど三年目の大晦日の夜、熊さんが湯屋からさっぱりして
帰ってくると、何故か畳が新しくなっています。
そして、おかみさんが年越し祝いの福茶を入れながら、あらたまって
「見てもらいたいものがある」と言い出します。
「この財布、見覚えがあるかい」と言って、
おかみさんが出してきたのは、50両入った革の財布です。
「へそくりとしては随分と貯めこんだもんだなァ」と、
感心いたしますが、やはり見覚えはありません。

 

時刻表にはなかったバスがやってくる  竹内ゆみこ

 

「三年前にお前さんが芝の浜で拾った財布だよ。
夢なんかじゃなかったんだよ…」
おかみさんの言葉から、ようやく3年ばかり前に、芝の浜で革の財布を
拾ったことを思い出します。
「なんだと、こん畜生め!」
熊さんがむくれるのは当たり前、そこでおかみさんが
「ちょっと聞いておくれ。あの時、お前さんがこの50両で遊んで暮ら
すって言うから心配になって、お前さんが酔いつぶれて寝ている間に、
大家さんに相談に行ったんだよ。そうしたら、
≪拾った金なんぞを猫糞したら手が後ろ回ってしまう。
おれがお上に届けてやるから、全部、夢のことにしてしまえ≫と、
言われて、
お前さんに嘘ついて夢だ、夢だ、と押し付けてしまったんだよ。
自分の女房にずっと嘘をつかれて、さぞ腹が立つだろう。
どうかぶつなり、蹴るなり思う存分にやっとくれ」

 

不安的中右脳左脳がショートする  宮井いずみ

 

ちょっと間をおいて熊さんは、
「おうおう、待ってくれ。
おれがこうして気楽に正月を迎えることができるのは、みんなお前の
お蔭じゃねえか。おらぁ、改めて礼を言うぜ。この通りだ。ありがとう」
と言います。それを聞いたおかみさんは
「そうかい、嬉しいじゃないか……久しぶりに一杯飲んでもらおうと
思って用意してあるんだよ。さあ、もうお燗もついてるから…」
「えっ、ほんとか、さっきからいい匂いがすると思ってたんだ。
…じゃあ、この湯呑みについでくれ。おう、お酒どの、しばらくだなあ、
たまらねえや どうも、だが、待てよ」
「どうしたんだい?」
「よそう、また夢になるといけねえ」

 

言わぬが花過去はきれいに折りたたむ  山本昌乃

 

酒に溺れて仕事を怠けてしまった人でも、心を入替えて真面目に働けば、
いい暮らしが手に入るという教訓と。
酒が過ぎるとどうなるかという反面教師も含んだ噺。
内助の功、嘘も方便というキーワードも含まれている。
ちょっとほろっとさせる人情噺。いい噺に仕上がっています。

 

あざやかな指摘人生やり直す  三村一子

拍手[3回]

つぎ足してつぎ足して描く夢の画布  加藤ゆみ子

 


           (題字・ 横尾忠則)



NHK大河ドラマ「いだてん」 田畑政治の巻

 

NHK大河ドラマ「いだてん」は25話より、金栗四三(中村勘九郎)
からバトンを継いで、政治記者田畑政治(阿部サダヲ)に変わります。
視聴者からは、「この人誰?」と囁き声が聞かれるほど、田畑政治は、
過去に「おんな城主」の井伊直虎(柴咲コウ)以上に知名度が低い。
さてどうなりますことやら。そこで田畑政治がどんな人物で、何をした
人なのか、短くご紹介してまいります。

 

 

明治31(1898)年12月1日、浜松旧家で「八百庄」という造り酒屋に
生まれた田畑政治は、子供のときから水泳が大好きで、かなりの実力が
あったようです。しかし中学校在学時、盲腸に大腸カタルを併発し、
「泳げば死ぬ」と医者から言われ、水泳を諦め、指導者の道を歩むこと
になります。
 大正13年、東京帝国大学を出て、朝日新聞社に入社、政治部に配属
されて、戦後の首相となる鳩山一郎や有力政治家とも知己となり、その
立場を利用して日本の水泳を国際的にどんどん強くしていきます。
浜名湾を目の前にして育ち、一時は、神童スイマーと期待された田畑で
したが、よく当たる占い師から「30歳まで生きられない」と脅され、
波乱万丈ながら、一つ一つ山を乗り越え戦後の復興に期待し、スポーツ
振興及び、オリンピックの道に一生を尽くす人物のものがたりです。


 

床の間の七福神がけしかける  井上登美




 
前列右端・人見絹江、後列左二人目及び三人目・南部忠平、織田幹雄

 

大正13年10月31日、日本水泳界は「大日本水上競技連盟」を創設、
田畑は理事に就任します。理事になり、昭和3(1928)年開催の第9回・
アムステルダム・オリンピックを目指します。そこで 田畑は、水泳競技
の強化のために鳩山一郎を通じて、大蔵大臣・高橋是清(萩原健一)に
面会し直談判して水泳競技への補助金支出の約束を取り付けます。
そしてアムステルダムに10人の選手を派遣することになります。
結果として、陸上競技三段跳・織田幹雄、競泳男子200m平泳・鶴田義行
(大東駿介)の2名が金メダルを取り。
陸上競技女子800メートル競走で人見絹枝菅原小春)と競泳800mリレー
米山弘、佐田徳平、新井信男、高石勝男が銀メダルに輝きます。
さらに競泳男子100m自由形で高石勝男(斎藤 工)が銅メダルと輝やか
しい実績を残します。これで自信のついた田畑は、昭和7年(1932)に
開催のロサンゼルスオリンピックに向け、常勝日本を目指して打倒水泳
最強国アメリカを目標に掲げます。

 

どっこいしょを枕言葉に動き出す  松浦英夫


そしてそのロサンゼルスオリンピックロサンゼルスでは、5個の水泳を
含む、金メダル7個、競泳4個を含む、銀メダル7個、競泳2個を含む
銅メダル4個を獲得。合計18個のメダルを獲得しっます。
世界中に水泳大国日本をアピールし、さらに田畑と競泳日本代表チーム
は昭和11(1936)年のベルリンオリンピックも同様のローテーション
で本番に向かうことに決定します。
 この時、田畑は35斎。幼少期に命にかかわる病にかかり、ある時は
「30歳までには死ぬ」と言われながらここまで生きてきたことに田畑は、
自らも驚きながら水泳一筋に生きてきた人生を見直し、昭和8(1933)に
妻・菊枝(麻生久美子)と結婚して、公私ともに充実期を迎えます。



 

くされ縁燃えさかるもの抱いている  三村一子


 


 

 

迎えた昭和11(1936)年のベルリンオリンピックでは、金メダル6個
(競泳の4個)銀メダル4個(競泳2個)銅メダル5個(競泳5個)と
ロサンゼルスオリンピックに匹敵する成績を残し、水泳大国日本の地位
を磐石にしました。
蛇足です、このベルリンオリンピックの女子200m平泳ぎで、前畑秀子
(上白石萌歌)がゴール寸前までドイツのマルタ・ゲネンゲルとデッド
ヒートとなり、これを実況放送したNHKアナウンサー河西三省(トータ
ス松本)の「前畑がんばれ!前畑リード!勝った、前畑勝ちました」
我を忘れた実況は、ほとんどの日本人が固唾を飲み、解説のない実況と
して、今も語り草になっていることは、多くの方の知るところでしょう。


 

外反母趾が骨盤に乗り移る  井上一筒





 日本最初の金メダル


戦後最初となるロンドンオリンピックは、イギリスがドイツと日本の参
加を拒否し、出場を断念することになりました。

 「エピソードー①」
「我々は《プリンス・オブ・ウェールズ》を忘れない」
プリンス・オブ・ウェールズとは、太平洋戦争開戦直後の昭和16年
12月10日、日本軍の上陸を阻止するため出動したイギリスの戦艦で
マレー沖にさしかかり、日本海軍航空機から爆撃を受け、僚艦のレパル
スと共に沈没してしまいました。
プリンス・オブ・ウェールズが撃沈されてから7年後、戦争が終わって
から3年後の昭和23(1948)年。日本水泳の古橋廣之進、橋爪四郎が
揃って未公認ですが世界新記録を出していました。
それを知り恐れてのことか、イギリスは日本のロンドン・オリンピック
への参加を認めませんでした。その時の通達の最後には、
『われわれはプリンス・オブ・ウェールズを忘れない』とあり。
怨みなのか、古橋、橋爪にびびったのか。
大英帝国の根性の無さを見た一幕でありました。


 

満月も刺股状になる妬心  山本早苗




日本で一番最初の銀メダル
アントワープオリンピックで熊谷一弥がテニスで獲得
 


「エピソードー②」
その通達を知った水泳連盟会長の田畑は、「記録の上で世界と戦おう」
という計画を立案しました。いわば、日本水泳界が世界に叩きつけた
挑戦状です。大会プログラムには、「田畑政治のロンドン大会に挑む」
と題した「檄文」が掲げられました。
そして、オリンピックの水泳競技と同じスケジュールで、日本選手権を
神宮プールで開催することを決め、そこで挨拶に立った田畑は、
「もし諸君の記録がロンドン大会の記録を上回るものであるならば……
ワールド・チャンピオンは、オリンピック優勝者にあらずして、
日本選手権大会の優勝者である」と言い切りました。


 

受けて立ちますと剣山のやる気  川畑まゆみ



 


その結果、自由形400mでは、オリンピック金メダリスト・ウィリア
ム・スミス(米)の記録4分41秒0に対し日本の古橋は4分33秒4。
1500m自由形では、金メダリスト・ジェームズ・マックレーン(米)
の記録、19分18秒5に対し古橋は、18分37秒0を出し。
橋爪は、18分37秒8を出しました。金、金、銀の結果です。
これらは公認記録として認められるものではありませんでしたが、
応援席には、天皇陛下、皇太子殿下も観戦にお見えになり、大きな拍手
をされ、感激した片山哲首相からは、特別に総理大臣杯を贈られました。
尚、その後も9月の学生選手権の400m自由形で、古橋は自己記録を更新
する4分33秒0、800m自由形で、世界記録である9分41秒0を
出しています。


 

思いきり鈴を鳴らした願い事  両澤行兵衛


「エピソードー③」
その記録を耳にしたアメリカの水泳連盟は、古橋や橋爪など6名の選手
がロサンゼルスで行われる全米選手権に招待されることになり。
そこで古橋は、400m自由形で4分33秒3、800m自由形で9分
33秒5、1500m自由形で18分19秒0(世界新記録)を出して
優勝します。
こうした日本の水泳チームの活躍に、アメリカの新聞は、競技の前に
掲載された日本の水泳選手に対する揶揄への謝罪文が掲載され、
古橋は「フジヤマのトビウオ」と呼ばれました。
こうした記録と事務方の努力があって、昭和24(1949)年6月15日に
日本水泳連盟は、国際水泳連盟(FINA)に復帰を果たしています。


ほぐしたら一本線になりました 合田瑠美子

 


しかし、田畑の人生すべてが、順風満帆というわけではありません。
昭和27年、常務取締役の役職にあって田畑は、朝日新聞社を退社。
日本選手団団長として乗り込んだヘルシンキオリンピックでは、
銀メダル3個だけの成績に終わります。
昭和31年のメルボルンオリンピックでも、田畑は日本選手団団長とし
て参加するも、金メダル1、銀メダル4個と惨憺たる成績に終わり。
昭和32年に行われた日本水泳連盟の会長選においては、対立候補に
かつて田畑の指導下にあった高石勝男が立ち、僅差を競う激烈な戦いに
密約をもって、1年のみの続行を条件に会長を続けたといいます。


 

全身をアンテナにして風を聴く  小林すみえ



江戸東京博物館・特別展『江戸のスポーツと東京オリンピック』より


 

その後日本が高度成長へとひた走る中、田畑は、昭和39年、東京五輪
の招致と開催に尽力します。

「エピソードー④」
東京五輪招致のためには、IOC委員の東竜太郎を東京都知事にするのが
最善だという意見が大勢を占めていたなかで、田畑はスポーツと政治が
癒着することを警戒し、自民党の推薦で東が出馬することに難色を示し
ました。結局、それを受け入れることになりますが、田畑は、昭和55
年にアメリカがソ連のアフガン侵攻に抗議して、モスクワ五輪をボイコ
ットし、これに日本が従うことになったときにも、強く反対し、最後ま
で参加の道を模索したといいます。スポーツ愛を貫く田畑の真骨頂を伺
い見る二コマでした。

 

埃なら書棚にたんと積ってる  杉浦多津子

 


「エピソードー⑤」
東京五輪に向け、田畑は日本選手が活躍できる舞台を増やす必要性から、
柔道と女子バレーボールのオリンピック競技への採用を強く主張します。
男子バレーボールがすでに正式採用されていたために、男女平等の観点
から、田畑は、委員会で熱心に説き、女子バレーボールもオリンピック
競技に正式採用されることになりました。これが大松博文監督率いる
「東洋の魔女」が誕生するきっかけとなったのです。
同時にIOC委員であった嘉納治五郎が作り上げた柔道も、東京から正式
種目となり、今も個別に世界大会が催されるほど成長し、堂々、両種目
ともオリンピックに欠かせないものになりました。

 

ト書きではここで空気になれとある 美馬りゅうこ

 


東京オリンピック組織委員会の事務総長として着実に準備を進めていた
田畑でしたが、当時のオリンピック大臣であった川島正次郎との折り合い
が悪く事あるごとに対立していました。 その影響か東京五輪を二年後に
控えて、田畑は大会組織委員会事務総長を辞任せざるをえなくなります。

 「エピソードー⑥」
黒澤明は日本オリンピック組織委員会から、4年後の「東京オリンピック
公式記録映画」の総監督をお願いしたいとオファーを受け、黒澤も快諾を
していましたが、田畑辞任の煽りを受け、田畑肝煎りの「五輪映画計画」
も白紙になってしまいます。
実際、黒澤はローマオリンピックまで下見に行き、綿密な計画を立てて
試算までしていました。そこで黒澤が提示した金額は、5億5000万円。
これもネックだったかも知れません。
黒澤明の後任には、市川崑に白羽の矢が当たりました。
市川崑提示した予算は2億7000万円。記録映画『東京オリンピック』
は大ヒット。25億円の興行収入を得ました。その時、黒澤明は何を
思った?のだろうか。「わしは撮りたかった」かな。

 

5ミリほど残る未練とここにいる  桑原すヾ代

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ヒマがなきゃ誰も出来ないヒマつぶし  ふじのひろし


 

  (画像は拡大してご覧ください)
  伊勢参宮略図(広重)

 

江戸時代の旅で一番人気は「お伊勢さん詣り」。
庶民が伊勢神宮を詣でることができるのは、一生に一度あるかないか、
かかる費用だけでも大層なことだった。
それでも懐に多少のゆとりがある場合は、伊勢から足を延ばして京都や
大阪の有名な寺社名所を廻る。もっと時間と資金にゆとりのある場合は、
瀬戸内海を渡って、讃岐の金毘羅山に参詣することもあった。
さらには、帰りに中山道コースで信濃の善光寺を参拝することもあった。


 

「詠史川柳」 江戸の景色6-② 江戸小咄と旅事情





    旅 駕 籠

 

単に旅に出ると言っても、当時の移動手段は、基本的には自身の足だけ、
馬や駕籠もあるが料金が高くて、庶民の懐では全行程利用するのは無理。
お伊勢さん参りの場合、一度旅に出れば少なくとも1、2ヵ月は要する、
費用もかかる。そこで考え出されたのが講である。
講とは、同じ信仰を持つ者が集まって金を出し合い、金を積み立てて、
資金が貯まったところで、講中から幾人かが代表して目的地に行く。
代表を決めるのは大抵の場合、くじ引きで決まる。
一度行った者は、もう権利がないので、最終的には講中のメンバー全員
が行けるようになっているという、公平なシステムである。


 

裏庭に吹いた西瓜の種芽吹く  くんじろう


 

小咄ー6
 母、親爺にむかい
「おはなも、だいぶ手があがりました。もう百人一首でもございませぬ、
 ちと伊勢物語でも読ませたらよいでしょう」
親爺うなずいて
「なるほど、よかろう、どうせ伊勢へは参られないから」
これは在原業平が書いた歌物語の『伊勢物語』を勘違いし、
伊勢参宮の案内書と思った無学者のお笑いである。
小咄ー7
 仙台者が二人連れで伊勢参りに出かけるが、一人は目が不自由。
連れの男、赤子の捨ててあるのをを見つけ、
「これちょぼ市、ここに子めが 俵にいれて捨ててある」
「なんだ、米が捨ててある、ひろえひろえ」
「いやさ、赤子めだ、赤子めだ」
「赤米でもいい、ひろえひろえ」
「いやさ人だ人だ」
「四斗なら二斗ずつわけるべえ」


 

ガラクタは僕を宇宙へつれていく  徳山泰子




  53次・戸塚宿

 

懐と相談しながら旅は京都・大坂へと向かう。京都には寺社が多い。
京都見物というと、大方は寺院や神社を見て歩くということになる。
川は幾つもないが、鴨川には有名な橋が架かっていて、これが三条の
大橋、これが五条の橋と、一つ一つ渡るたびに古い昔が偲ばれる。
今でも京都の観光地ナンバー1といえば、清水寺。清水の舞台からは
京都市中を眺望することが出来る。
小咄ー7
 さる所に若息子、女郎を連れて清水へ参り、舞台にて、遠眼鏡で
五条の橋を見れば、友達の吉兵衛の通るが手に取るように見えたので、
その友人に「これ吉兵衛、必ずここで逢うたといのではないぞ」

 

神さんがくしゃみしてはる間に悪さ  居谷真理子




  京都三条大橋

 


次の小咄は、芝居の忠臣蔵に出てくる高師直(吉良上野介)が欲張り
だったというところから創作された。
小咄ー8
 師直、賄賂の金銀をしこたま溜めるに従い、一向使わず、その金銀を
舐めて楽しみけるが、のちには鉄、赤がね、真鍮、鉛まで舐めるという
病となり、
「われいまだ塔の上なる玉を舐めてみず、なにとぞ五重塔の上にある
    擬宝珠(ぎぼし)を舐めてみたい」
と望み、権勢第一のお方のおおせ、さっそく五重塔へ足代を掛けさせ、
てっぺんの擬宝珠を舐めてみ「多年の望み達したり」と喜びける。
「あの貴殿には塔の擬宝珠をお舐めなされたか」
「舐めましたとも 舐めましたとも」
「どのようなものでござるな」
「いや思うたほどにもござらぬ、橋の擬宝珠に塩気のないものじゃ」


 

股ぐらに貼った両面ガムテープ  井上一筒




  53次・冨士見     53次・藤沢


 

一般的に東海道は、江戸から京都までを、宿場の数で五十三次と呼ばれ
ているが、大坂まで足を延ばす旅行者も増え、また参勤交代の宿の手配
も必要であったため。伏見・淀・枚方・守口の4か所に宿場を設置し、
実際には、「東海道五十七次」というのが正しい。
因みに、大坂から京へは京街道、京から大坂へは大坂街道を通行した。
が、何のことはない名称は違うが、同じ道なのである。
さて足の疲れはなんのその、いよいよ旅は大坂・堺へと入る。
旅は道連れ世は情け。各地からの旅人が京都で出会って、一夜の友と、
話も故事来歴にひっかけて、小話が弾んだりもする。

 

頭肩膝小僧みんなヨシヨシしてあげる  酒井かがり


 

小咄ー8
「京都ほど諸品安い所はない。東山で名代の八坂の塔が五十(五重)
   じゃが」

「そういいないな、大坂にも安いもんと言うたら、仏法最初のお寺、
 聖徳太子ご建立天王寺が3文(山門)じゃ」

「わしは西国者じゃが、それよりも安いは、平家の大将・清盛、重森、
 宗盛、知盛、維盛、敦盛、経盛これを合せて一文(一門)じゃ。

「これこれ西国のお方、その平家は安うても、いまはない人や、
 やくたいじゃ、当時ご繁盛の源氏の御代、わしが国というたら津の国
 じゃ、初めて源氏の名を賜りし六孫王・経基さまのご嫡男、これより
 安いものはござりません」

「一文より安いは、なんじゃ」
「多田の満仲じゃ」
これを、「ただの饅頭」と読んで落ちになっている。

 

沢庵も人のうわさもまだ噛める  美馬りゅうこ

 

さて大坂は、商業の町だから商売に関する小咄が多い。
小咄ー9
 通町の鏡屋に、天下一は漢字にして鏡屋は「かかみや」と仮名で書き、
看板いだせし家あり、いたずらな男、店先へ来たり、
「なぜ内儀さんを出しておかぬ」
というと亭主、
「それは何のことでござる」という。
「あれほど看板に、天下一のかか(嚊々)見や と書いて、
 何とて女房を出しておかぬ」
「まことにそれは誤りました。さりながら、これほどにかがみますれば、
 堪忍あれ」とやり返した。

 

伝えようアザミ程度の微笑みで  真島久美子


 

まだまだ小咄はありますが、一端はここまで。
小咄ー10
 とある箱屋の親父、風が吹くを喜び、
「かか、商売が流行るぞ、酒買うてこい」
と言えば、
「それはどうして忙しいぞ」
と女房が問う、
「はてこの風で人の目に埃が入ると、目を患うので、三味線を習うに
 よって、三味線の箱が大分売れる」
これは明和5年(1768)の関西の『絵本軽口福笑』である。
これが後の「風が吹けば桶屋が儲かる」の話に作り変えられていく。


 

ちょっとだけ味噌が足りない僕の脳 大塚のぶよし





  平知盛と弁慶

 

詠史川柳


 

≪平清盛≫

 

清盛の医者は裸で脈を取り
清盛も時疫だろうと初手はいい
汲み立てがよいと宗盛下知をなし
ゆでだこのように清盛苦しがり
入道は真水を飲んで先へ死に


 

平清盛は大変な高熱を発する病気で死んだと言われている。
『平家物語』には、病室の中は耐え難い暑さだったとある。
結局、清盛は1181年に死亡、この4年後に平家は壇ノ浦で滅亡。
平家一門は、潮水を飲んで死んだが、清盛は真水を飲んで死んだ幸せ者
である、と川柳子。

 

八月の空は終身禁固刑  上嶋幸雀         


 

≪平重盛≫


 

異国から納豆もらう小松殿
育王山和尚押し込み案じられ
案の定日本で跡の訪い人なし
潮風にもまれぬ先に小松枯れ


 

平重盛は清盛の長男。
重盛は、六波羅小松第に住んでいたので「小松殿」と呼ばれた。
平家物語には、重盛は日本では後世を弔ってもらえるかどうか心配で、
宋の育王山寺へ千両寄進し、また宋朝へ寄進して、育王山へ田畑を与えて
もらうよう依頼したと書かれている。
小松殿はお返しに育王山の名産である納豆をもらっただろう と川柳子。


 

ポケットに軽い本音を押し込める  靍田寿子


 

≪平知盛≫


 

そもそもこれはおっかない土左衛門
ことわらずといいのに幽霊なあり
反吐を踏み踏み弁慶は祈るなり
引き潮でないと幽霊まだ消えず

 

平知盛は、清盛の四男。
武勇に優れた人物だが、謡曲「舟弁慶」に出てくる幽霊として有名。
謡曲の中では、義経が西国へ逃れようと摂州大物の浦から知盛の幽霊
(土左衛門)が現れる。大嵐で全員船酔いで苦しんでいる中、弁慶が
「数珠さらさらと揉み」祈ると幽霊は次第に遠ざかって行き、やがて
「また引く塩に揺られ流れて、跡白波になりにける」と消えたという。


 

君が代を歌いつづける海の底  大森一甲             


 

≪平敦盛≫


 

熊谷は不承不承の手柄なり
敦盛は討たるる頃は声変わり
花は散り青葉は残る一ノ谷
その後は衣で通る一ノ谷


 

一ノ谷の戦に敗れた平家軍が我先に船へ逃げる中、源氏の熊谷直実
敵方の武者を発見、組み打ちし押さえつけて、首を掻こうとしたら、
まだ17歳ほどの少年だった。直美は可哀そうに思い見逃してやろう
としたが、味方の軍勢が迫ってきたので、泣く泣く首を掻いた。
少年は平経盛の子・敦盛であった。


 

錠剤の割る音ひびく夜半の月  河村啓子


 

≪平家滅亡≫

 

幽霊のみな横に行く平家方
豆蟹も一匹まじる壇ノ浦
緋の袴ふんどしに縫う下関
平飯盛ともいいそうな下関


 

平家蟹は壇ノ浦で海中に沈んだ平家の怨霊だという伝説がある。
現代の人は、そんなことお構いなしに平家をむしゃむしゃ食っている。


 

勝因は潮の変化さ壇之浦  松下和三郎

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いい日旅立ち知らない街が呼んでいる  片岡加代




 (画像をクリックすると拡大されます)
東海道53次細見図会 日本橋

 

品川周辺には縄文時代から集落があったとされるが、中世を迎えると、
東京湾へと注ぐ目黒川の河口に位置する地の利を生かし、武蔵野平野
全体への物資の集散拠点として繁栄をみせる。
そして、その隆盛を確実なものとするきっかけとなったのが、幕府が
慶長6年(1601)に制定した、東海道の宿駅伝馬制度である。
以来、品川はその第一番目の宿場となり、西国へ通じる陸海両路の
玄関口として活況を呈した。

 

「詠史川柳」 江戸の景色-6-①  江戸の小咄と旅事情

 

いまも昔も、旅は庶民のおおきな楽しみの一つ。
街道や宿場が整備された江戸時代、庶民は何かと窮屈な中でも旅費を
やりくりし、名目を立てて近場へ遠方へと足を延ばした。
旅の起点はお江戸日本橋だった。
当時は京都に朝廷があったから、京都の方へ行くことを「上る」といい、
京都から諸方へ行くことを「下る」といった。
江戸っ子はおのぼりさんになって、仲間内や親方などに見送られながら、
夜中に日本橋から品川の「宿場」へ向かう。


 

すこやかに生きて情けのど真ん中  上田 仁




 
東海道53次細見図会 品川

 


【宿場】 宿場は、将軍の御用で荷物や人を運ぶ馬や人員を確保する
目的で設置されたものであった。
そのため将軍や幕府の用の場合は無料であったが、大名や町人も有料で
使用することが出来た。
その後寛永12年(1635)大名たちの参勤交代が制度化されると
街道はますます整備が進み、設備などが充実する。
街道には一定の距離ごとに宿場が設けられ、一里ごとに道しるべとなる
「一里塚」が設けられ、さらに街道の脇には木が植えられるなど、
安全な旅が出来るようになっていった。


 

時々は心に風を通さねば  靍田寿子

 

品川が見送り人との別れの所で、ここらで夜が明けて、提灯の灯を消す。
小咄ー①
ある男が京へ旅に出ることになり、親方や仲間が品川まで送ってきた。
送ってきた人からはここらで餞別ををくれることになっている。
「いい親方だ、きっと別れにははずんでくれるよ」と仲間が言う。
男は期待していたが、さて別れ際となると親方は、
「じゃあ道中無事で行ってこいよ」と言ったきりだった。
男、あとでひとり言。
「だれが無事で行くものか」


 

二番出口もともとなかったことにする  河村啓子

 

品川をあとに京都まで、急いで13、4日、ゆっくり行くと20日から
1ヵ月はかかろうというのが、当時の東海道の旅だった。
新幹線で2時間ほどで行ってしまうの現在とは違い、大方は徒歩で行く
のだから、それくらいかかるのは当たり前なのだが、途中、最大の難所
は箱根山だった。
ここには江戸へ出入りする者を取り締まる関所があった。

 

Y字路に来るたびサイコロを投げる  岸田万彩




 
東海道53次細見図会 小田原

 

【関所】 宿場が整備されると同時に「関所」が設けられた。
江戸時代は軍事態勢下であったため、西国の大名などから、江戸を攻め
られぬよう取り締まりをするためである。
しかし箱根の関所は、従来、言われていたような、厳しい取り締まりが
行われていたわけではなかった。通行手形も必須ではなかった。
箱根の関所の管理は小田原藩に任されており、あまりにも関所で問題が
多い場合には、小田原藩の責任となる。
こうしたことを回避するためにも、重箱の隅をつつくような取調べは、
しなかったのである。

 


神様もリセットしたい過去がある  前中一晃

 


江戸っ子は箱根まで行けば、当時は話の種になった。
行かないで知ったかぶりをする者もあった。
小咄ー②
ある男が宿屋へ行くと、亭主が挨拶をして序に箱根の話をした。
「このあたりには見られないが、山椒魚は、さて風味のよいもので
 ございます」

と言われて、男、ものしり顔で
「あのぴりぴりとした辛味が、すごくいい」
山椒魚というから、植物の山椒の実のようにぴりぴり辛いものと思って
知ったかぶりを発揮したのである。


 

二枚目の舌がこむら返る夜  笠嶋恵美子




 
東海道53次 箱根湖水図


 

箱根を越すと富士山が見える。
江戸時代は空気が澄んでいたから、秋から冬の終わりまで晴れた日なら
市中から富士山がよく見えた。もちろん明治大正にも見えた。
見えなくなったのは昭和の終わりころから、経済成長などのあおりで
スモッグのカーテンが富士山を隠してしまったからである。
小咄ー③
床の間の掛物を見て、男が
「ははァ、これは立派、立派、わたしはこの間富士へ参りましたが、
 いやこの通りでござる」
「するとあの山の上からは、わしの家までも見えましたでしょう」
「とんでもない、どうしてあの山の上から、ここが見えるものですか」
「はてな見えるはずだが、わしの家の物干しからは富士がよく見える」


 

画布全て私色に染めてゆく  中川 尚

 

【川越え】 東海道には川があるが橋がない。
旅を続けるためには川を渡らなければならない、どうして川を渡ったか。
川越し人足というのがいて、肩車や背負ったりして渡してくれたり、
蓮台渡しといって、台の上に乗せて渡してくれる。
そういう川で一番有名なのは、駿河と遠江を流れる大井川だった。
水かさが増すと、川止めといって、水が歩いて渡れるほどに引くまで、
何日も足止めをくらうことがある。
旅人は大きな川になればなるほど、川越えには苦労したが、一方、
小さい川には川越え人足などいないから、みんな川の中へ入って歩いて
渡る。ところどころに深いところもあり、溺れる人もあった。


 

心電図ルート66が終わらない  岩田多佳子


 


東海道53次 岡崎・矢矧の橋

東海道の岡崎宿を通る参勤交代の大名行列


 

小咄ー④
4,5人の巡礼が川にであった。見ると橋はなし船もない。
川の瀬も知らずさて困ったと向こうを見ると、首だけ出して渡っている
人がある。心細く思ったが、「南無観世音薩」と祈り、手に手を組んで、
川へ入って行ったが水は脛までもない、これは有り難い、きっと観音の
ご利生だろうと、喜んで川を渡りきり、先ほどの人を見ると、
岸へあがってきて「抜け参りに一文くださいまし」と言った。
見ればいざりであった。
(抜け参りー親や主人に内緒で家を抜け出し、手形もなしで伊勢参りに
 行くこと)


 

有情無常賽の河原のかざぐるま  加納美津子


 


当時の東海道は、いまの東海道線とは違い、桑名から四日市へ抜けて、
伊勢の山中を草津へ出て、琵琶湖畔から京都へ入る。
桑名の名物は蛤。その蛤で失敗する話がある。
小咄ー⑤
「これ八兵衛」
「はい」
「この蛤をこの鍋のままかけて、蓋を取らずによく煮ろ、蓋をとるもの
 ではないぞ」
「はいはい」
というわけで火を焚いていると、蓋がむくむくする。
これは飛んだことになってきたと思い蓋を取ってみて、
「もし旦那さま、とんだ不調法をいたしました」
「どうした」
「つい蓋を取りましたなれば、みんな裂けました」
なかで蛤が開いたのを、八兵衛は自分が蓋をとったから、裂けたとのだと
思ったのである。

              さて次は京都・大坂へ足を延ばしましょ。

 

終電の終着駅で待つ始発  近藤北舟




  西 行

「心なき身にもあわれは知られけり 鴫たつ沢の秋の夕暮れ」


 

詠史川柳 


 

≪西行法師≫

 

柿本人麻呂、芭蕉とともに、日本三大詩人と称されている西行法師は、
平安末期から鎌倉初期の人。
戦乱の世に無常を感じ、出家して山奥に隠遁することが流行りました。


 

北向きの武士やめて西へ行き
折りふしは佐藤兵衛の時の夢



北向きの武士が西へ向かう…川柳子のやったーの声が聞こえる一句。
西行も北面のエリート武士でしたが佐藤兵衛義清と名乗り旅にでます。
持ち前の社交性から各界各層の人と親しくつきあい、
またヘビースモーカーの上、大の旅行好きで


 

西行と狩人一つ店に住み
すり鉢をを伏せて西行煙草にし


親しい人と住む店は借家。すり鉢は富士山の事。
西行は愛煙家のように詠まれているが、当時の日本に煙草はなく、
「風に靡く富士の煙の空に消えて 行くへも知らぬ我が思いかな」
の句の煙に絡めたもの。


 

一割ほど乗せさせてもろてます  雨森茂樹


 

鴫が立たぬとへんてつもないところ
命なりけり快気して二十なり


 

一句目は名所「鴫立沢」。
「心なき身にもあわれは知られけり 鴫たつ沢の秋の夕暮れ」を題材に。
二句目は「年たけてまた越ゆべしと思いきや 命なりけり佐夜の中山」
の文句取り。佐夜の中山は名所「東海道・日坂」。
西行の旅好きが見える作品は多々ある。




西行冨士見図


 

富士山がなければはっち坊主なり
きさらぎのその望月に西へ行き


 

鉢坊主は、托鉢をして回る乞食坊主。
ボロボロの装束で冨士を見ている西行だが、
「冨士見西行」で富士山が描いてあるから西行とわかるというのだ。
そして旅の最後に訪れた場所は西方弥陀の浄土であった。
「願わくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」から。

 


地球外生命体に添い寝する  酒井かがり

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