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川柳的逍遥 人の世の一家言
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美しく書き足してあるエピローグ  新川弘子

「歴代団十郎」の画像検索結果三代目・団十郎
「詠史川柳」 団十郎ー3.4.   5 代
三代目・団十郎は、初代・団十郎の弟子筋(三升屋助十郎)の子で、五歳の時、
二代目の養子となった。従って血脈に関係はない。享保20年 (1735) 二代目は、
50歳になったのを節目に、養子の市川升五郎に三代目を襲名させ、自らは隠居
して二代目・市川海老蔵を名乗った。このとき三代目は、まだ14歳で将来を
嘱望されていたが、寛保元年(1741年)に大坂で『毛抜』を初演していた際、
突然病いに倒れ、そのまま翌寛保2年、22歳で早世してしまう。
進化論いつかは人になれそうで  竹内ゆみこ
後継者を失った二代目・海老蔵は、老躯に鞭打って舞台に立ち続けることさら
に12年に及んだ。そして65歳になった海老蔵は体力の限界を感じたのか、ここ
に至って高弟の二代目・松本幸四郎を改めて自らの養子とし、これに市川宗家
を継がせることにした。これが四代目・団十郎である。彼は3歳の時、初代松
本幸四郎の養子になり、9歳の時松本七蔵と名のって初舞台。24歳までは女形
として舞台に立っていたが、享保の末から立役に転じ、享保20年(1735)11月、
二代目が海老蔵、升五郎が三代目・団十郎を襲名した興行で、七蔵も25歳
で二代目・松本幸四郎を襲名している。
靴紐を結びなおして生きて行く  吉崎柳歩
実は、四代目こと七蔵は、江戸堺町の大茶屋和泉屋勘十郎の次男とされるが、
茶屋の娘に生ませた二代目の落胤であり、四代目の継承を誰にするか、跡取
り息子が妾腹では世間体がどうかと揉め、いったん門弟の二代目市川升蔵に
引き取らせたうえで、そこからいとこの芝居茶屋和泉屋勘十郎の養子に出し、
数年後に改めて自分の養子として迎えるという、手の込んだ気配りをした経
緯がある。こうして団十郎の名跡は12年間の空白が続いた。
こうして七蔵が四代目を襲名したときは、すでに45歳になっていた。
跨いでいくしかない凡庸なオトコ  山口ろっぱ

「歴代団十郎」の画像検索結果四代目・団十郎
四代目は、神経質で喧嘩早い感情家であったらしい。体つきは長身で手足が
長く、顔は面長でふくらみに欠けた。二重の瞼で三角の険しい目つきは、実
悪(じつあく)の役者にふさわしく、また悲壮深刻な役に向いており、やく
ざ者などをものともせず一喝でやり込めたかと思うと、桃太郎という孫が八
つで早世したときは、傍目もかまわず泣き悲しむといった、そうした陰影の
ある芸と人とは、あるいは生い立ちによるものかも知れない。このような精
神性に特徴を持っていた四代目は、初代、二代目が作り上げた「市川団十郎」
のイメージとは明らかに異質で明快で楽天的な荒事の性格には不向きだった。
しかし、自分の芸風に適した「景清」のような役に活路を見出して精進し、
市川団十郎の名を恥かしめない名優になっただけでなく、息子の五代目へと
「市川水の流れ」の継承を果たした。
器ではないがいずれはしてみせる  磯部義雄
次の五代目・団十郎は異色の人である。
45歳で父・二代目・幸四郎が四代目・団十郎を襲名すると、入れ替わりに
三代目・松本幸四郎を襲名。また、父が松本幸四郎の名に戻すと、五代目・
団十郎を襲名する。明和7(1770)年、29歳の時であった。五代目は役者
というより、むしろ文人肌で大田南畝や狂歌堂真顔、山東京伝といった文人
墨客との交遊を好み、いろんな雅号で『狂歌友なし猿』『市川白猿集』など
かなりの述作も残している。烏亭焉馬(からすていえんば)などは団十郎を
崇拝し、団十郎の音を真似て立川談洲楼(たてかわ だんしゅうろう)」と
名乗ったほどである。
時どきの定形外が面白い  小谷小雪
とにかく五代目は洒脱な人柄で、江戸市村座で市川蝦蔵を襲名したときには、
「親父は海老蔵を襲名したが、おれはえびはえびでも雑魚えびの蝦」と語り。
同時に俳名を白猿としたが、これにも口上で「祖父の栢筵の音だけを頂戴し、
名人には毛が三本足らぬおれは白猿」と述べたという。
芸のほうでも、荒事から女役まで申し分なくつとめ、古今の名優の一人にあ
げられてきたがこうした役柄は、実は父・四代目が開拓したものを奇麗に洗
い上げて示したものにすぎず、『忠臣蔵』の由良之助を市川家としてはじめ
て演じたことが、画期的といえばいえるくらい。
落し蓋の下で弾んでいる男  谷口 義

「歴代団十郎」の画像検索結果五代目・団十郎
五代目は芸の信条を記したものを残している。
例えば、「下手と組まず、上手と組む。下手と付き合わず、下手と外歩かず。
巻き添えにならぬように引きずりこまれぬように」というものである。この
箇条だけをみても、過不足なく、守勢一方の消極的態度がわかる。
とにかく彼は良識に富む賢明なる文化人であった。松浦静山の『甲子夜話』
には、小さな別荘を本所の地に持っていたが、その辺で御鷹狩などある時は
「河原者の身として御通路傍にいることは恐れ多い」とわざわざ本宅に帰っ
たとある。すなわち何事にも慎重な五代目は、幕府に咎められぬよう用心に
用心を重ねた生活をしている証なのである。
透明になるまで自転しています  合田瑠美子
五代目は寛保元年(1741)に生まれ、文化3年に死んでいる。すなわち
その活躍期は田沼時代から天明の大飢饉、そしてその結果の「寛政の改革」
という多難な時代である。もし、五代目が後の7代目のように意の赴くまま
奔放に生きていたら、おそらく追放になったろうし、歌舞伎は手痛い制裁を
受けて衰亡していたかもしれない。彼は、風の強い土地の樹木が枝葉を縮め
て自己防御するように、謹慎堅固に身を持して、改革の風を頭上にやり過ご
したのだった。松尾芭蕉の作風を慕い俳諧もよくし、残した辞世の句がある。
「木枯らしに雨もつ雪の行衛かな」
地下茎を太らせながら風を待つ  前岡由美子
【詠史川柳】

関連画像松浦佐用姫
≪松浦佐用姫≫ さよひめ
松浦佐用姫は万葉集などに出てくる伝説上の人物。
山の上で領巾(ひれ)を振りながら見送り、悲しみのあまりそのまま石に
なったという話が伝わる。次の句は、この話を詠んだもので、身体が石に
なったからには、涙は砂利になったろうというわけである。
早う戻ってくだんせと石になり
彦様のうと言ううちに足は石
まさに貞女の鑑であるが、すんなりと褒めないところが、江戸川柳。
貞女でも石になるとは悪堅い
なんぼ留守でも堅過ぎるは佐用姫
「悪堅い」とは頑固なまでに堅いという意味。
決心はダイヤモンドの堅さほど 髙田美代子
≪衣通姫≫ そとおりひめ
神話上、木華咲邪姫(このはなさくやひめ)と並び称される極上美人が
19代・允恭天皇(いんぎょうてんのう)の后の妹の衣通姫
肌が抜けるように白く、しかも燦燦たる光を放ち、衣装を通して肉体が
見えたという伝承から。
緋の袴召さんとみんな透き通り
十二枚召しても肌が透き通り
≪木華咲邪姫≫
木華咲邪姫はルックスもバディも抜群のミス神代である。
三国一の富士山をあざむくほどの気高く清い美しさから、富士山と
同一視され、富士山頂の浅間神社の御神体として祀られ。
咲邪姫俗名「お富士さま」と云い
咲邪姫日本一の山の神
美しい会釈でずっと席を立つ  山本昌乃

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紐つきのファイル蔵から出してくる 河村啓子

 ã€Œå¸‚川団十郎 初代」の画像検索結果元祖・団 十 郎

「詠史川柳―⑤」 団十郎初代~2代目

市川団十郎が、代々江戸の歌舞伎界に君臨した名優の名で
あることは言うまでもない。昭和40年癌のため57歳で
惜しまれつつ逝った11代・団十郎。未完の大器であった
ものの芸格の大きさにおいて、また類い稀な役者ぶりにお
いて、紛れもなく、戦後20年の歌舞伎を代表する名花
った。その父が早世したあとは、その長男である10代・
海老蔵が39歳で12代目・団十郎を継承、若々しい魅力
と独特な愛嬌・格調の高い芸風を発揮し、お家芸の「歌舞
伎十八番」はもとより、荒事、世話物、義太夫狂言、新歌
舞伎と多彩な役々を演じ分けた。しかし十二代目は58歳
で白血病を患い、9年間に及ぶ闘病の末死去した。
それから7年,途絶えていた市川団十郎の名跡が11代・
海老蔵から十三代目・団十郎白猿として、2020年5月
に蘇ることとなった。ここから団十郎のルーツを綴る。

父母の一語一語を接ぎ木する  井上恵津子

市川団十郎を襲名するにあたり、現海老蔵が述べた口上。
「俳名として二代目・団十郎から栢莚(はくえん)を名の
り、その俳名を五代目が、人間に及ばない猿という俗信を
ふまえ、名人に及ばないという意で白猿に変えました。
私も父や祖父にまだまだ足もとにも及ばぬ、これからもっ
と精進していこうという気持ちも含め、白猿を俳名として
名のることにしました」と、同時に、海老蔵の長男・堀越
勸玄(かんげん)が八代目・市川新之助として、5月の初
舞台を行う。そして新之助も7代目以降、団十郎へ繋がる
名前となっており。時が繰れば、勸玄こと新之助が14代
目へと続いていく。しかし、ここに至るまで、改革に巻き
込まれた7代目のように、様々な団十郎の生き様があり、
芝居のような出来事がある。

ゆらめいて早うおいでと背後霊  木口雅裕

元祖・団十郎侠客の父と母の間に万治3年(1660)に生ま
れる。幼名は堀越海老蔵。幼い頃のことは不明だが、16
歳で団十郎を名乗り、荒事を創始し、江戸の劇界の注目を
一手にする。その荒々しい芸と逞しい芸魂には、士族の血
(武田家の家臣)を引く先祖と侠客の父から受けた雄健豪
放な血脈が、原動力になっていた。七代目が武家の芸能だ
った「能」を忠実に真似て『勧進帳』を創演するのも、九
代目が、「忠臣義士」を主題とする史実一点張りの活歴劇
を演じたのも血のなせるわざなのだろう。
だが初代は、荒事一辺倒でそれなりに画期的存在ではあっ
たが、芸術性においてはあまり高い評価はされていない。
芸とは別に柄が貧弱で、音調ははなはだ急、つまり、せき
こんだ口調だったらしい。
似顔絵が残っているが、顔は四角張って、目はつり上がり、
歯をむいている。荒事にうってつけだが役者面とはいえず、
深い知性や情感が感じられるものではなかった。その役者
生活30年、44歳の時(元禄17年(1704)2月)市村座の
『わたまし十二段』佐藤忠信の役で出演中、役者の生島
半六に舞台で刺殺された。半六は「恨みがございました」
というだけで、あとは黙秘を貫いた。何らかの事情があっ
てことだろうか、真相は隠蔽された。

紙芝居ほどのジャンルで生きている  武本 碧

「市川団十郎 二代目 」の画像検索結果二代目・団 十 郎

名実ともに「団十郎」を江戸随一に、また名跡への礎を築
いたのは、二代目である。初代の実子だが、はるかに美男
で声もよく、流れるような台詞の持ち主だった。この天与
の柄を生かして、二代目は上方育ちの「和事」芸を身につ
け、近松門左衛門の最初の世話浄瑠璃『曽根崎心中』を演
じもした。父譲りの荒事にその和事の艶めかしさを取り入
れて、『助六』を創演したのも二代目、父が紅と墨で無造
作に塗りたくって出た顔の化粧を、白粉地に紅でぼかし隈
をとるという、今日見るような「隈取」に進化させたのも
二代目であった。

裏側の貌は見せない薔薇の艷  前岡由美子

「助六」を初演した正徳3年(1713)の立春の日に二
代目は、親交のあった俳人・其角を訪ねているが、その時、
其角は「今宵は唐では鍾馗さまの画像を門に貼るというが、
わが日本ではあなたの舞台姿を描いて門に貼れば、悪魔も
降伏するだろう」と言って大太刀をさした鍾馗の墨絵を描
き、賛として次の一句を書き添えて渡している。

”今ここに団十郎や鬼は外”

言うまでもなく悪魔外道を追い散らす超能力の顕現として
の荒事への賛美だが、もうここまで団十郎の力が浸透普及
していたことが察せられる。

狙いますあなたのハート鷲摑み  藤内弥年

【付録】 2代目ルーツ

天目山の戦いで武田氏が滅亡した天正10年、堀越十郎は、
下総の幡谷村に落ち延び帰農、定住する。この堀越十郎が、
初代・団十郎の曾祖父とされる。そして父・重蔵の代に至
って江戸に出る。農業を嫌ってのことだが、その後、彼は、
堀越ではなく出身地である幡谷重蔵と称した。重蔵は学問
があるうえ、武士の血を引いたせいだろう、剛毅な気性で
町民の畏敬の的となり、地子総代人に立てられた。が一方
唐犬十右衛門はじめ、当時名うての遊侠の徒と親交を結
「菰の重蔵」とか「面疵重蔵」と異名をとったという。
また侠客の世界で知り合った妻女もただものではなかった
ようだ。ところで、先に書いたが海老蔵という名は、もと
もと初代・団十郎の幼名で、以来今日まで、市川宗家にた
びたび現れる名称だが、もとは侠客の親分・十右衛門が、
男子出生を祝ってつけてくれた縁起のよい名前であった。

にんべんを繕いコスモス揺れている  嶋澤喜八郎

 ã€Œå…‰æ˜Žçš‡åŽã€ã®ç”»åƒæ¤œç´¢çµæžœ

≪光明皇后≫

千人目鼻をつまんで湯を浴びせ

光明皇后は、奈良時代の聖武天皇の皇后。仏教への信仰が
厚く、施行風呂を建てて千人の垢を落そうと決意されたが、
丁度千人目に体中膿だらけで、悪臭を放つ男がやってきた。
しかし皇后が、我慢してその身体を洗い、膿を吸われたと
ころ、男は光明を放って、自分は阿閦如来だ、と名乗った
という伝説がある。

千人の垢万代に名が光り

というような貴い施行風呂の話も、細かい観察で茶化して
しまうのが川柳子である。

垢擦りを貸せとりきんで勅(みこと)のり

白綾の垢擦りもあり施行風呂

皇后様は意気込んで、垢すりを貸せと命じられただろうが、
その垢擦りも皇后さまがお使いなのだから、きっと白綾製
だろうと川柳子は推測する。

頑な私にまぶす塩麹  松本柾子

「阿倍仲麻呂」の画像検索結果

≪阿倍仲麻呂≫

日本の寝言だという天の原

阿倍仲麻呂は、717年に吉備真備などと一緒に遣唐使
して、唐に渡ったが、真備たちが735年に日本に帰
ると
きも同行せず唐に残り、玄宗皇帝に仕えて学問を続
けた。


他人劫の入ったのは安倍仲麻呂

他人劫(たにんごう)は他人の入知恵のこと。ここでは
仲麻呂が他国で知識を得たことを一捻りして表現した。
753年になって、日本に帰ろうとしたとき、唐の友人
たちが餞別の宴をしてくれた。そのときに仲麻呂は、
天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも
という一首を詠んだ。

四角な文字の中で詠む三笠山

仲麻呂は月を見上げては、望郷の念に浸っていたが、
在唐54年に及び,かの地で生涯を終える。

仲麻呂は頭を垂れて山の月

遣唐使が帰国するたびに、仲麻呂の消息が天皇に伝えら
れ、(
奏問とは天皇に伝えること)

月の歌ばかり帰朝と奏問し

小道具になってくれないほつれ髪  佐藤美はる

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馬鹿なことやめたらきっと死ぬでしょう 中野六助

 DanjÅ«rō Ichikawa VII as Benkei cropped.jpg
七代目・団十郎(五代目・海老蔵)

「詠史川柳」―七代目・市川団十郎と江戸の改革

文化・文政の時代から天保にかけて、7代目団十郎の全盛を詠った川柳がたくさんある。ことに世の中は団十郎や今朝の春が有名”。また狂歌には〝江戸見ては外に名所もなかりけり 団十郎の花の三月“というのもある。まことにわが世の春であった。天保11年、(1840)「助六」・「勧進帳」を創演し『歌舞伎十八番』を天下に宣したこのころが、海老蔵こと団十郎の最良の時であった。
だが、それからわずか2年後、団十郎はご法度に背いた罪で江戸を追放、7年間の地方巡りの末、許されて復帰したときは、すでに老境に入っており、しかも頼みに思う長男・八代目の自殺…という芝居にもみられない波乱の体験を持っている。

尻尾のない男が一人まぎれこむ  居谷真理子

七代目が南町奉行・鳥居甲斐守の役所へ、家主付き添いで出頭を命じられたのは、天保13年4月6日のことである。奢侈取り締まりのお触書に背いたということで、「手鎖」を受け、吟味が済むまで、家主お預けを申し渡されたのである。このとき彼は、河原崎で「歌舞伎一八番乃内」とうたって『景清』を演じていたので、“景清は牢を破って手錠喰い”という川柳が生れたが、折から芝居はこの河原崎座一軒だけでもあって、3月7日の初日以来大入りを続けていた矢先の、椿事であった。
なぜ興行していたのが河原崎座だけだったかというと、江戸三座のうち中村座・市村座の両座は、前年の10月7日に火事で焼けたまま、再建の許可がおりず、大晦日になって強制移転を命ぜられ、てんやわんやの騒ぎだったのである。

吹雪襲来わたしがなにをしたという  夏井せいじ

やがて河原崎座も同じく移転命令をうけるのだが、この三座の移転あるいは強制隔離と、芝居界の頭領七代目団十郎の追放とは、「天保の改革」という法令の、芝居に及ぼしたなかで、もっとも顕著なものであった。しかし、この厳しい弾圧は突然降って湧いたわけではなく、有名無実になりつつあった「寛政の改革」以来の取り締まりの強化だった。
寛政元年に始まる歌舞伎
界への政策を振り返ってみると。舞台日常など「万端質素」にすること。終演は夕7ツ時(午後4時)限りとし、暗くなっても灯火は防災上一切禁ずる。役者の給金を5百両以内とする。役者がみだりに宴席その他で一般人との交際を禁ずる。芝居者はすべて遠くから通わず劇場近辺に住むこと、など。ただしこの寛政の改革も享和から化政にかけて弛みはじめたため、文政の末頃から、ふたたび弾圧は強化されたのである。

石垣の石はスクラム組まされる  籠島恵子

文政10年(1827)10月、町奉行・筒井伊賀守の許に役者関係者代表が召喚された。このとき七代目は「歌舞伎役者惣代」として出頭している。寛政取り締まり条項の再通達である。趣意書には、「役者給金千両余に相成候由」「役者共著に長じ法度の衣装をも相用候様成行」という文言がある。このとき七代目の給金はいくらだったか、明確ではないが、千五百両は下らなかったと思われる。10年前までは千両役者といっても、実際は、七百両くらい相当に暮らしていたのに、今は高給取りに借金が多いのは、生活が贅沢になり過ぎたからだ」というのである。その頭目が七代目だったのはいうまでもない。
彼は愛妾とたくさんの子を抱えながら、質素倹約どころか豪邸を金銀朱塗りの建具調度で飾り立て、庭には高価な灯篭や石を数多据えるなどという贅沢ぶり。借金がかさむのは当然だった。が、「役者惣代」としてたびたび召し出されても改める様子もなく、江戸・上方の劇場から巨額の前借りを続けていたのである。

オクラほどの粘りが性に合っている 下谷憲子

水野忠邦が意気込む改革の再引き締めも、歌舞伎界では、惣代の七代目がこんな具合だから成果があがるはずもない。奉行所が対策に苦慮していると、幕府にとっては幸いにも、天保12年10月に中村・市村両座が家事に見舞われ焼失した。忠邦はこの機をとらえて一挙に粛清すべく、遠山金四郎をブレーンにして慎重に検討を重ね、三座の強制移転に踏み切ることにした。もっとも忠邦は芝居のとりつぶしを考えたが、そこが金さん民心の安定・治安維持のため芝居の必要性を説き、廃滅は免れる。そして当時としては辺鄙な浅草聖天町に転地がきまり、新しい地域は猿若町と名付けられ、天保14年5月開場し、歌舞伎の新たな出発となる。
そして愈々、この三座移転と並行して,6月22日、幕府は七代目団十郎の江戸追放を実行する。北町奉行・御番所において、遠山左衛門尉から
七代目は罪状・処罰を申し渡される。要するに、「万事質素にせよとの命令に背いて、芝居は人気商売だからと称して、贅沢な暮らしを続けていること、加えて土蔵内に飾った不動像の金箔の彫物、朱塗りの須弥壇、金の天井、唐櫃、木彫り彩色の雛やその付属品いっさい迄細かく、調べ上げた上で」のお裁きである。

嫌悪という不条理ヘビの背はぬらり  加納美津子

再三の警告にも大衆(見物人)のためとということを盾にとって、いっこう改めないのだから、幕府がこんどこそ厳罰に踏み切ったのも無理もない。が、団十郎にしてみれば、大衆観客の支持こそ芝居存立の第一条件なのだから、それを盾に取ることはいわば正当防衛のようなものだった。
手錠にも追放にもめげず、平気な顔で芝居が続けられたのも、こうした大衆の絶対支持の力をつねに背後に感じていたからである。
それから三日後、やむなく七代目・団十郎は江戸を離れ、ひとまず先祖の地・下総(千葉)の成田山新勝寺延命院に謹慎する。
むろん彼ばかりが処刑されたわけではない。この前後には、一般人と交わったかどで歌右衛門ほか4人が、衣装の贅沢と実物に紛らわしい鉄砲を「忠臣蔵」の勘平で用いたかどで菊五郎が、遠くに住みかつ往来で編笠をつけなかったかどで菊五郎・宗十郎そのほかが、また女湯へ入ったかどで菊次郎・しうかが、手鎖や罰金刑を受けている。しかし、なんといっても七代目の追放は最高の厳罰であった。“海老蔵は役者のなかで大きな目”という川柳がある。七代目は大きな目玉を持っている。この親玉を締め出せば、少し芝居も大人しくなるだろうと言うのである。因みに、団十郎は42歳で八代目に譲り、自身は海老蔵を名乗った。

緞帳はゆっくりおろすことにする  竹内ゆみこ

「久米の仙人」の画像検索結果

≪久米仙人≫ 

人が降ったと洗濯をやめて逃げ

昔、吉野にいた久米仙人は、空を飛んでいるときに、洗濯をしている女性の白い脛を見て、神通力を失い墜落をした。空から人が降ってくれば、誰でも驚くのが当たり前。落ち着いたら、気絶している仙人を介抱したり、「気付け薬を持ってきて」と頼んだりと、川柳子の目は優しい。今昔物語集では、「衣を洗うとて、女の脛まで衣を搔き上げたるに、脛の白かりけるを見て、久米心けがれて其の女の前に落ちぬ」とある。

仙人様あと濡れで手で介抱し

洗濯をやめやれ気付けやれ気付け

その後は、間抜けな話を聞いたかいと村中に噂話が広がる。

久米がすこたん聞いたかと仙仲間

「すこたん」はぼんくらな人のこと。次は仙人をあざける究極の句。
脛を見たくらい目まいを起こすくらいなら…

女湯の番をしたなら久米即死

…となるだろうと久米仙人を心配する川柳子である。

思いっきり笑う 馬鹿バカと笑う  田口和代

≪柿本人麻呂≫

末世まで明石の浦で目を覚まし

足引の 山鳥の尾の しだり尾の なが々し夜を ひとりかもねむ

百人一首の三番。ちなみに意味は、〈山鳥の垂れ下がっている尾がいかにも長いように、なんとも長い夜を、私は恋しい人の訪れもなくただ一人さみしく寝なければならないのだろうか〉が有名だが、しかし川柳には
”ほのぼのと あかしの浦の 朝霧に 島がくれゆく 舟をしぞ思ふ” (古今集)を題材にした句が多い。句の上句と下句を分けて、朝起きの呪(まじない)としたのである。寝る前に上の句を唱え、朝目が覚め次第、下の句を唱えるというのである。。

明石から起こし人の来る花の朝

花見とか芝居見物とか、早朝に起きねばならない時は、もっぱらこの歌を頼りにした。

人丸に恥をかかせる寝濃いこと

寝濃いとは寝坊のことで、呪いが効かなかったと人麻呂に恥をかかせる狙いがある。明石にある「人丸神社」に盲人が詣ったところ目が明き、不要となって捨てた杖から花が咲いたという「盲杖桜」の伝説がある。

袋とじから安倍清明をお出しする  松下和三郎

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枯れてほしいものを残してみんな枯れ  島田握夢



「詠史川柳」―天保の改革

天保の改革は、合巻の代表的な戯作者二人を「風俗に拘わる」として葬りさった。また版元にも苛酷であった。版元鶴屋「田舎源氏」の評判を得て一時傾きかけた家をやや持ち直したが、この改革で「其板を失ひ忽ち没落せり」という憂き目に遭った。好色本を画いた絵師、国貞国芳英泉にもお咎めの手は伸びた。歌舞伎役者・遊女・女芸者等の錦絵は風俗に拘わるので、新規の出版はもちろん既刊のものも今後は一切売買禁止。団扇絵も同断。合巻については、芝居の趣向取りや登場人物の役者似顔は禁止。ひたすら忠孝貞節・児女勧善の主旨に徹すること。また表題・上包の色摺も禁止された。

見たくないでも見たくなる蛇の穴 藤井寿代

この改革は天保12年5月15日、幕閣の人事異動から始められ、老中に就任した水野忠邦の采配にはじまる。ここでは、天保13年12月末、53歳の為永春水が風紀粛清に触れたという疑いで北町奉行所に出頭を命じられたところから、天保の改革を見てみる。春水の取調べは遠山の金さんの綽名をもつ遠山景元である。歳末多忙の際なので一応の取調べのみで、ひとまず年を越すことになった。が、いかに我々が知るところの遠山の金さんが取調官の長だからとはいえ、テレビドラマのような具合にゆかない。

銘水の味を損ねる紙コップ  岸田万彩

それどころか随分と厳しい訊問だったようである。なにしろ、改革の推進者の水野忠邦のこの改革における意気込みは凄まじく、それは例えば「烏頭大黄(うずだいおう)の激剤相施し申さず候ては、とても効験得がたく候」と言うように、かなりきつい目の薬を飲まさねば、成果は出ないということで、寸分の仮借もない。なお、春水召喚の半年ばかり前、合巻『偐紫田舎源氏』柳亭種彦が死に追いやられている。偐紫田舎源氏の内容や歌川国貞の挿絵が、将軍・家斉や大奥をモデルにしているのではないかと詰問され、絶版にされたのが因で種彦は自殺したのである。

もういいよそしてだあれも浮いて来ず 嶋沢喜八郎

同じころに、歌舞伎の七代目・市川団十郎が江戸十里四方追放になっている。七代目は「大江戸の飾海老」おおえどかざりえび)と呼ばれて江戸市民の誇りでもあった千両役者だった。さらに幕府は、「風俗矯正・質素倹約」の実をあげるためといい、たとえば、「川筋の日覆船(ひおおいふね)は寒中といえども簾を巻き上げておくこと」というような馬鹿げた命令も出している。男女の客が簾を下げたままいかがわしい行為に及ぶことが多いので、それを防止したいというのだ。ほかにも、野菜の促成栽培やもやし豆まで贅沢だからという理由で禁じている。

その紐を引くと雷落ちますよ  西田雅子 

このような騒ぎの最中に奉行所からの差紙が舞い込んできたのであるから、春水が驚いたのは無理はない。ひょっとすると種彦の二の舞いになってしまう。翌天保14年は正月下旬から北町奉行所の吟味が再開された。そして吟味中に手鎖、6月16日に裁許落着、現実に題材を求め風俗に害をなす人情本を書いたというかどで、春水の人情本版木が大八車に5台分没収焼却された。桜の刺青と共に権力を背中に背負った遠山の金さんにとってみれば、「これにて一件落着」の台詞ですべておしまいになるのであるが、裁かれたほうはそうはいかない。すべての厄介は、裁判官が「一件落着」と言ったところから、新たに始まる。春水は憂悶を発して苦しみ、その年の12月22日、神田多町の自宅でついに死んでしまう。

国境をまたぐと飢餓の臭いする  菱木 誠

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≪神功皇后≫ 

茶筅髪三韓までも掻き回し

神功皇后仲哀天皇の皇后だが、天皇急死の後、神言によって新羅を攻め、三韓(高句麗・新羅・百済)を征服して凱旋する。茶筅髪は江戸時代の髪型で神功皇后の時代にその髪形があったわけではないが、川柳独特の「時代ごちゃ混ぜ」の句で、茶筅で茶をかき混ぜるように三韓を掻き回したというのである。この時皇后は、妊娠中で凱旋後九州で出産。のちの弓矢神とされる応神天皇である。

新羅攻め前御鎧のご注文

新羅攻めの前に妊婦用鎧をきっと注文されるたのだろう。

勝ち給うはず腹中に弓矢神

何しろお腹の中には弓矢神がおられたのだから、戦勝されるのは当たり前なのだと。

黙っているだけで華やかなオーラ― 荻野浩子

≪仁徳天皇≫

御製(ぎょせい)にも漏れしかまどの一人者

ある時、仁徳天皇が高い山に登って四方の国をご覧になると、炊事の煙が見えない。これは民が困窮しているからだと気づいて、三年間税の取り立てを免除された。そのため宮殿は荒れ果てたが、三年後に再び国中をご覧になると、煙がいっぱい立ち上り、みんな豊かになったのだと喜ばれた。「高き屋にのぼりて見れば煙り立つ民の竃はにぎはいにけり」新古今和歌集をふまえている。

ありがたい御代は竃に立つ煙

三度づつ御製に叶う有り難さ

これは仁徳天皇を称えるふりをして、実は徳川の治世を礼賛している。べんちゃらをしているのである。最初の句は、一人者の竃は、御製に漏れた存在であるから、めったに炊事の煙なんか立てないというのである。

煙突を抜けると美しい敬語  山本早苗 

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うしろの正面不動明王にらみおり               田口和代

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 山東京伝黄表紙

寛政の改革は、天明7年(1787)から寛政5(1793)にかけて、享保の改革を下敷きに老中・松平定信が行った幕政改革である。改革における禁止条目は、増加することはあっても減るようなことはない。先の享保の改革では、まだ緩やかだった取り締まりが、寛政の改革でいっそう厳しいものになる。

「詠史川柳」-寛政の改革

田沼政治を覆した白河藩主・松平定信は、御三家や11代将軍・徳川家斉の実父・一橋治済(はるさだ)の強力な推薦を受け、1787年6月老中に就任、寛政の改革を開始した。定信は8代将軍・吉宗の孫であり、新参成り上がりの田沼の政治に対し、不満をもつ大名グループの指導者であった。彼は老中に就任するや、これら同志の大名を次々に幕府の要職に登用し、改革推進の体制固めを行った。定信は、けっして独裁せず、改革の重要政策は彼らと十分協議し、さらに御三家および治済の意見を聞いたうえで実施された。定信は率先して倹約を励行し、華美な風俗を取り締まり、綱紀を粛正した。

コンパスで描いた円はつまらない 
竹内ゆみこ

この寛政の改革のひとつの眼目は、出版に対する強烈な弾圧であった。書物および草紙類の新規出版禁止。禁じたものは、『当世を一枚絵等にすること、通説以外の異説を題材にすること、風俗に拘わる好色本、無用の手を加えた高価なもの、古代を装って不束なことを展開する子供向け草双紙、浮説を写本にして貸し出すこと』義務付けられたのは、『華美贅沢にならないよう質朴を守ること、奥書には、作者と板元の実名を記すこと』もっともどうしても出版したいというのであれば、『奉行所へ伺いを立て許可を得ること』というものであった。

黒子がいいそれが一番よく似合う 
桑原スゞ代

ともあれ今後、書物・草紙屋は、相互に吟味して制禁書物類の密かな流通を見逃さないようにする。また手許に送られてきたら、必ず奉行所へ届け出てその差図を受けるように命じられたのである。この取締り方針は基本的には、享保7年11月の触書を踏襲している。それに現存する諸大名や旗本の先祖について書くことも禁止されたし、博奕及び遊里の趣を書き表すことも厳禁された。

すたすたとやってくるのは冬だろう 山本昌乃

 
 偐紫田舎源氏

これで女郎買いをおもしろおかしく書いて人気を博していた洒落本は息を止められた。寛政の改革に好意的だった「文武二道万石通」の作者・喜三二も、戯作の筆を折ることを余儀なくされ、同じ傾向の「鸚鵡返文武二道」(おうむがえしぶんぶにどう)の作者・恋川春町にいたっては、切腹したという噂が伝わっている。山東京伝「錦の裏」で手鎖50日に、また為永春水は、長い吟味の後、翌13年2月に手鎖50日に処せられ、翌14年2月14日に病死している。柳亭種彦の合巻『偐紫田舎源氏』は十三年の正月出版は叶ったものの旗本の組頭から「高屋彦四郎(種彦)其方に柳亭種彦という者差置き候由、右の者戯いたすこと宜しからず、早々外へ遣わし、相止めさせ申すべし」と断筆を迫られ、その6月19日には病死している。

トトロとすれ違う暗渠の中ほど  
井上一筒

その他では、出版社・蔦屋重三郎は身上半減の罰金、その出版を容認した書物行司ふたりは商売を禁止された上、現住地から追放された。この厳しい改革の中で狂句や川柳がのうのうと風刺を書いていることが許されるわけがない。こうして風刺や滑稽を効かせた575は、詠史川柳へ逃げるほかはなかったのである。

一八〇度の転身をして返り咲く  
清水久美子
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≪素戔嗚尊≫(スサノオノミコト)

どっちらも好きで大蛇(おろち)はしてやられ

天照大神岩戸隠れの原因を作った素戔嗚尊は、神の国から下界へ追放されるが、そこでは「八岐大蛇(やまたのおろち)退治」という偉業をなしとげる。八岐大蛇は八頭八尾を持ち、身体には苔や木が生え、長さは八つの谷や丘にわたり、毎年現れては娘を食べるという怪獣である。スサノオは八塩折(やしおおり)という強い酒を作って八つの酒器に入れ、大蛇がやってきてその酒を飲んで眠ったところを見計らって退治したのである。句は、大蛇が女も酒も両方とも好きだったからやられたのだという。

神代にもだますは酒と女なり

昔も今もとこの句の解釈は不要だろう。スサノオが退治た大蛇切り刻んでいると、尻尾から剣が出てくる。これが草薙剣(くさなぎのつるぎ)で岩戸隠れのときに作った勾玉・鏡とともに「三種の神器」とされる。

名案がある荒縄を置いてゆけ くんじろう

【知恵袋】

素戔嗚尊は「古事記」では須佐之男命。伊邪那岐命(イザナギノミコト)が黄泉国の穢れを落とすために日向の檍原で禊を行なった際、左眼からアマテラス(天照大御神)、右眼からツクヨミ(月読命)、鼻からスサノオの三貴子が生まれた。イザナギは、その三貴子にそれぞれ高天原・夜・海原の統治を委任した。

見込みある男飛びだす土砂降りへ 柴本ばっは

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≪日本武尊≫(ヤマトタケルノミコト)

女形その始まりは日本武

景行天皇の第三皇子である小碓尊(オウスノミコト)は、勅命によって西方の賊・熊曽建(クマソタケル)の平定に出かけ、女装して宴席に潜り込み討ち果たす。その時、熊曽建が皇子を称え日本武尊の名をこう奉ったといわれている。

御神徳氷で草の火を鎮め

日本武尊は続いて東国の平定に向かうが、相模国の草原の中にいた時、地元の国造(くにのみやつこ)が日本武尊を焼き殺そうと火を放った。その危機に日本武尊は、草薙剣で風上の草を払い、火打石で風下の草に火をつけて脱出をしたという。(氷は剣のこと)

ピンチでも平常心という強さ 神野節子

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