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川柳的逍遥 人の世の一家言
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化粧しても耳はけもののままである  新家完司

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能面を被った家康のからくり(岡崎城)

「徳川家康」

その腹黒さとしたたかさから

「狸親父」
との異名を持つ徳川家康

表面上では、化けて周囲の目を欺きつつ、

内心では、虎視眈々と逆転を狙っている。

そんな家康のイメージは、

老獪さが身についた、晩年からのものだと考えられているが、

決してそうではなく、若い頃から、

しっかりと将来を見据え、じっくり考え、

行動に移す人であった。

枯葉一枚さて人間を欺そうか  森中惠美子

「人の一生は重き荷を背負いて遠き道を行くが如し。

  いそぐべからず・・・」

    

は、徳川家康の遺訓とされている。

その言葉のとおり、

家康はまさに”回り道”の男といえるだろう。

三河の国の一土豪にすぎなかった徳川家(松平)に、

生まれた家康は、
6歳から19歳まで、

織田氏、今川氏のもとで、人質生活を余儀なくされた。   

なにはともあれ進むしかないカタツムリ  加納美津子

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家康が能を踊るカラクリ時計(岡崎城公園)

   

信長と組んで、東海一帯に勢力は伸ばしたが、

信長の死後、秀吉が台頭すると、その臣下となり、

小田原の北条氏滅亡後は、秀吉の命じるままに、

当時はまだ、草深い寒村の江戸に移った。

家康は機が熟すのを、ひたすら待った。

しかし、それは無為の日々ではなく、

来るべき時に備えて、

着々と実力をたくわえる、雌伏のときだった。

だんだんと削って凡人になった  たむらあきこ

秀吉が、伏見城で一生を終えたとき、

いよいよ家康は、天下取りに立ち上がった。

このとき家康は、すでに57歳であった。

跡取りの秀頼は、わずか6歳。

人の好い顔をそろそろ脱ぐとする  牧浦完次

秀吉は、      

「五大老の筆頭・家康が秀頼を補佐して豊臣政権が存続する」

      

ことを願っていた。

五奉行の石田三成らも、同じ考えであった。

つまり、   

「秀吉政権は秀吉によって樹立され、基礎固めも済んだので、

  幼い秀頼ではあるが、世襲してやっていける」

   

という判断である。

「心配」と表札あげて赤とんぼ  時実新子

しかし、家康の考え方は違っていた。  

「まだ、世襲制でやっていけるほど安定はしていない」

  

という考えである。

また、「天下は実力あるもののまわりもち」

という思いもあった。

迷いなく着こなすライバルの黒よ  山本昌乃

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      若き日の家康

家康の頭の中には、本能寺の変後、

秀吉に一歩先を越された苦い思い出があった。

しかし、家康が、秀吉に一歩譲ったのは、

秀吉の器量を家康が、認めたからである。

つまり、家康は、秀吉の器量を認めても、

その子・秀頼の器量を認めていたわけではない。

このあたり、三成の、

「秀頼は名目にしても、まわりが固めれば豊臣政権は存続する」

という考え方と決定的に違う。

四角三角をとどめて石心室  岩田多佳子

「秀吉の臨終の枕で、家康が秀頼の補佐をしたのは汚い。

  腹黒いやり方だ」

とよく言われることがある。

これが、「家康狸説」の発端になっているところだが、

三成以下、豊臣家の方から見れば、そうなるのである。

家康の方から見れば、 

「秀吉だから臣従したのであって、   

  ”実力ある者が天下を盗る”

   という戦国の習いに照らしてみれば、
秀頼より自分が上」

 

という意識があった。

手の内は綺麗な嘘で飾りつけ  谷垣郁郎

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最も男前に描かれている家康

「天下分け目の戦い」といわれた関が原の戦いを制し、

征夷大将軍として江戸に幕府を開いた家康は、

全国支配の手を、次々と打っていった。

わずか2年で、将軍職を子の秀忠に譲ったあとは、

徳川の世を、万全のものにするために、

駿府城で大御所として力をふるい、

家康最後の仕上げは、

依然、大坂城に君臨していた秀吉の遺児・秀頼を、

倒すことだった。

裏切りも絆 心に痛く深く置く  森 廣子

1615年、大坂夏の陣で淀殿、秀頼母子が自害することで、

それは果たされたが、 

「秀吉の死から15年かけた」
 
というその周到ぶりに、
家康の性格の一端がうかがえる。

まさに家康は、沈思黙考の人、

狸に化けていた人間というか・・・?(もしかしてその反対か?)

先の自分の像を見据え、緻密に練り、

それを、実行していく人であった。     

≪周知のとおり、 

 これによって、天下動乱の時代は終わりを告げ、

 

    以後、260年余りにわたって、天下太平の世がつづくことになる≫

    

矢印の通りに進むニシキヘビ  井上一筒

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  地獄門(ロダン)

『余談』―「考える人」

有名なロダンの作品・『考える人』は、

実際は、像の人物は、”考える人”などではなく、

地獄の入口で、地獄へ落ちていく罪人達を、

「上から見下ろしている人」なのだ。

いわゆる、考える人の職業は、地獄の門番だった。

「考える人」の本当の姿は、

現在の世から末の世を睨む「管理人」なのである。

その奥を覗いて帰れなくなった  居谷真理子

”近代彫刻家の父”と呼ばれる、

この”考える人”の作者・ロダンは、

姉の勧めで美術を学び始めたが、彫刻は独学だった。

初めて発表した彫刻・「鼻のつぶれた男」は、

美しいものが評価される時代だったこともあり、酷評を受けた。

そのショックは、しばらく、

創作活動を行うことが出来なくなるほどだった。

わたくしが試されている試練とは  赤松ますみ

しかしその後、ロダンは創作活動を再開し、

「青銅時代」という作品を発表。

これが高い評価を得て、

「国立美術館のモニュメントを作ってほしい」

というオファーが届いた。

そこでとりかかったのが、

”ダンテの神曲”に登場する『地獄の門』を題材としたものだった。

その中の一部が、「考える人」なのである。

真相が漏れるロッカールームから  合田瑠美子

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ところで、「考える人」という題名の由来は、

ロダンとは作品の鋳造を通じて、長い付き合いがある

鋳造家・リュディエという人にある。

この「考える人」も、このリュディエが鋳造した。

この像が生まれた経緯を知らないリュディエは、

「何かを考え込んでいる姿」

と、勘違いして、

『考える人』と、命名したというわけである。

ただ、その経緯を知るも知らぬも、

この像は、「考える人」に違いない。

前頭葉の痛み上書き虫刺され  蟹口和枝

拍手[7回]

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目に刺さる三角定規直定規  時実新子

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           醍醐花見図屏風

「秀吉最期」

慶長3年(1598)7月上旬、        

「太閤秀吉が伏見城で病床についた」

        

家康から、江戸城に報せがあった。

秀忠は、あわただしく江戸城を出立した。

秀吉の病名は、咳気(がいき)だ。

咳気とは、咳き込むことだが、

肺炎また肺癌と考えられる、重い病気だった。   

整いましたと神さまから返事  桑原伸吉

同年3月、   「醍醐花見図屏風」に、

秀吉が京都の醍醐寺で、盛大に花見を行ったことが、

描かれている。

秀吉は気晴らしにと、花見を計画した。

3月15日に、醍醐寺で行われたその花見に参加したのは、

豊臣家の女たちとその侍女、

そして大名の女房衆だけという、異様なものだった。    

夜桜の優しさごっこ受け入れる  前中知栄

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醍醐の花見で能を舞う秀吉

    

その中で、秀吉は、思い切り楽しんだ。

これは慶長の大地震によって亡くなった、

多くの女性たちを弔うだけでなく、

秀吉自身が元気な様を、大勢に見せつけ、 

「最期が近いことを感じさせまい」

 

とした目的もあったとされる。

そして、花見から2ヶ月もしない5月5日、

秀吉は、伏見城で病床の人となる。

日本中重い気分の花便り  松本としこ

また病床の秀吉は、自分の死後、

豊臣家と秀頼の将来が不安で仕方なく、

新しい政治体制として、五大老と五奉行の制度を定めた。

五大老は、徳川家康を筆頭に、

前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家である。

政治をとりしきる集団指導制ではあるが、

顔ぶれを見れば、

家康に牛耳られてしまうことは必定だった。 

毒は微妙に輪の中で熟れていく  山口ろっぱ

 

そこで秀吉は、大老をチェックする「奉行制度」も作った。

石田三成を筆頭に、

前田玄以、浅野長政、増田長盛、長塚正家の五人が、

あらかじめ細目を決め、五大老にあげる仕組みだ。 

「よしよし」

 

秀吉は病床で安堵した。           

≪しかしこれがのちに、「関が原の戦い」を引き起こす要因となった≫

           

これでいいこれでよかったこれでいい  嶋澤喜八郎

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7月半ば頃になると、秀吉は再起しがたいことを悟り、

秀頼と豊臣家の将来を、いろいろと憂慮し、

大名たちを集めて、「11か条に及ぶ遺言」を述べた。

「第一条」は、家康に対してである。

秀頼を家康の孫・千姫の婿にしたのだから、

その孫婿・秀頼を取り立ててほしいと、

前田利家はじめ、五大老の前で何度も懇願した。  

雨降って拝み降らなくても拝み  通 一遍

  

「第二条」は、

若い頃から付き合いのある前田利家に対して、  

「秀頼の守り役として面倒を見てもらいたい」

  

と、咳き込みながら語った。

「第三条」は、秀忠に対してであった。  

「親の家康殿が年をとられ、いずれ秀忠の時代が来たら、

  家康公と同様に、秀頼の面倒を見てもらいたい」

  

と頼んだ。 

繭吐いたあとが大きな穴になる  赤松ますみ

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秀吉花押

五大老と五奉行は、それぞれ記請文をしたためて、

その命令に背かないことを神に誓い、

これに「花押」を書き、血判を押した。

「なごりおしく候。秀頼をよろしく頼む」

家康に最期の言葉を残して、

息絶えたのは8月18日だった。

享年62歳。 

経を読む第三頸椎が憎い  岩根彰子

 

天下人である太閤秀吉といえども、

最期は、このような姿をさらすことに、

秀忠は、実に気の毒に思った。

秀忠は、お江に秀吉の最期を詳しく話した。

秀吉はやせ衰えて声も細くなっていたが、

死ぬ2・3日前に、お江に対して、     

「今後は余を父といわず、家康を父と呼ぶがよい」

     

と、秀頼に話したことも伝えた。

散っていく最後の力ふり絞り  河村啓子

「秀吉辞世の句」  

”露と落ち露と消えにし我が身かな なにはのことは夢のまた夢”

  

『豆辞典』

≪辞世の句というのは、本当にその期に及んで詠むものでなく、

あらかじめ用意しておくもので、秀吉のこの句は、

孝蔵主が預かっていたものといわれる≫

蓮華座をほぐせば辛子明太子  井上一筒

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大河ドラマ・『お江』-第31回-「秀吉死す」  あらすじ

秀吉(岸谷五朗)が、火事の見舞いに徳川屋敷を訪れた。

秀吉は、江(上野樹里)秀忠(向井理)の、

夫婦ぶりに目を細め、
  

「嫁いでよかったであろう」
  
などと言い、余裕のあるところを見せる。

だが、人目もはばからず、

拾(須田琉雅)の肌着の匂いをかぐといった、

異常な行動を隠そうともしない様子は、

彼の老いと衰えを物語っていた。 

とりあえず午後から雲の動くまま  山本昌乃

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秀吉はその後、再び朝鮮に兵を送ると決める。

また、切支丹の弾圧にも乗り出した。

さらに、4歳の拾を元服させ、名を秀頼と改めさせる。

そうした行動を見て、家康(北大路欣也)は、

「殿下は、生き急いでおられるのやも」

と漏らす。

つまり、残された時間が長くないと悟り、

幼い秀頼のためにできるだけのことをしようとしていると・・・。 

鹿は野をかけるいつかは骨になる  墨作二郎

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迎えた慶長3(1598)年の夏、

ついに秀吉は、伏見城で回復することのない病に倒れる。

病床でひたすら秀頼の将来を案じ、

大名衆に、 

「秀頼を頼む」

 

と念を押すその姿はもう、衰弱した1人の老人にすぎなかった。 

三日月の欠けた部分がわたしです  岩田多佳子

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初(水川あさみ)は、秀吉を見舞うため、

高次(斎藤工)とともに急ぎ伏見城へ。

もちろん淀(宮沢りえ)も、秀吉のそばを離れない。

そして江は、秀吉にいよいよ死が迫ったころ、ようやく姿を見せる。

「私はあなたを殺したい。病などで死なれてはならぬのです」

涙をこらえながら、屈折した思いをぶつける江。

コンパスで正方形を書いている  和田洋子

そんな江に、秀吉は、「ひとつ頼みがある」と語りかける。

江は  

「秀頼のことなら知りませぬ」

  

と答えるが、それに対して秀吉は、

江の予想を裏切る意外な言葉を口にするのだ。 

昭和に戻れと出来ない事を言う  前中知栄

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その後の徳川の伏見屋敷では、秀忠と江は、

秀吉に死が迫り、家康が、天下に吹く次の風を、

読もうとしているところ、

絆を深めたかに思われた江と秀忠は、

相変わらず、微妙な距離のある関係を続けていた。

命を救われた江が、  

「あなたの妻として一心不乱に生きていきます!」

  

と力んだところで、

秀忠の反応は冷めたままなのだ。
 

妥協してもっと孤独になる夕日  杉野恭子
 
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だが、そんな状態であるにもかかわらず江は妊娠。

やがて、千と名付けられる女の子を産む。

秀忠は、千の誕生にも、

あまり感情を動かさないように見えたが、

実は驚くほど子煩悩で・・・。 

良かったね無事到着にまた感謝  庄田潤子

 

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ドドーンと花火ぼくを笑ってくれないか  立蔵信子


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  淀川花火の日の明と暗         まもなく打ちあがります

「タマヤー! 鍵ヤー!」

江戸時代・川柳が誕生した文化・文政の頃(1800年頃)に、

「両国の川開き」で、玉屋と鍵屋が競って、

花火を上げていた。

これが、「東京・隅田川花火大会」の原型である。

帯に下駄淀川花火の忘れもの  幸松キサ

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江戸の様々な風俗を記した、

「守貞漫稿」(もりさだまんこう)という、
当時の随筆に、

小舟の上で花火を打ち上げる人を、

描いた絵が載っている。

当時の花火は、練った火薬玉をアシの筒につめて、

火の玉を飛び出させる方式だった。

花火師が火花を散らす夏の陣  ふじのひろし

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両国橋を境に、上流側は、「玉屋」が、

下流側には、「鍵屋」が陣取った。

ただ、玉屋は失火事故を起こし、一代で江戸を追放される。

30余年の活動だった。

一方、ライバルの鍵屋は、東京江戸川区で、

今も、
「宗家花火鍵屋」として、

現在15代目が元気に頑張っている。

タマヤ―と江戸の花火は祭り好き  松本あやこ

ところが、平成になっても、上の川柳のように、

かけ声というと
「タマヤ―」の印象が強い。

当時は、玉屋の人気が圧倒的だったらしい。

”橋の上 玉屋玉屋の声ばかり なぜに鍵屋といわぬ情なし”

という狂歌もある。

情(錠)がないから、鍵屋と言わない、というココロだろう。

(折りしも、今年は東北震災のため、隅田川花火は延期になった)

ねずみ花火を首筋に入れる刑  井上一筒

「平成23年8月6日・淀川花火大会写真集」

五連発で始まった花火の饗宴

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花火師の構図夜空を画布にする  吉村雅文


花火見上げる赤い顔・青い顔

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音だけの花火都会のビルで聞く  杉本克子

約一時間のドラマのど真ん中

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花火師の魔法に嵌まるつもりです  井丸昌紀

華やかに儚く花が咲き乱れ

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花火ドカン知らんオバンに抱きつかれ  北川ヤギエ

目を凝らして見ればキティやUFO

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線香花火はしゃいで姉の顔になる  桑原伸吉

一発の花火が落ちるてくるまで

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隙のない花火で仲間になどできぬ  たむらあきこ

山下清の絵のような

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花火大きくちいさく山下清描く  森中惠美子

クライマックス

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線香花火ボトンと恋をあきらめる  本多洋子

フィナーレ

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この花火終わるとあしたから他人  泉水冴子

拍手[5回]

喜怒哀楽を匿名希望  兵頭全郎


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 徳川秀忠

「秀忠という人」

秀忠は、6歳年上のに、頭が上がらない恐妻家だといわれる。

しかし表の顔は、知略に秀でた政治家タイプの将軍だ。

「関が原の戦い」に遅れて、参戦できないなど、

武勇において、芳しい話がないため、

凡庸と評されることが多いが、

そもそも二代目というのは、損な役回りである。

自画像にマスクを描いた自己嫌悪  有田一央

初代が偉大であればあるほど、

普通にしていても、評価は低くならざるを得ない。

逆にいえば、それを引き受けるだけの度量がないと、

二代目は務まらない。

さらに言えば、政権を維持することは

創始することよりも数段難しい。

見かけほど気楽ではない鳩時計  有田晴子

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   秀忠誕生の井戸

家康に比べて、秀忠は確かに凡庸な男だった。

偉大な父を持った息子の、悲哀でもあった。

どんなことをしても、父を抜くことは有り得なかった。

大勢の前で弁舌を振るうなどは、最も苦手なことだった。

父の前に出ると体が硬直した。

父を尊奉し、言いつけは堅く守った。

秀忠は、律儀ものだった。

左回りの時計でも0時です  井上一筒          

家康はそこが心配だった。  

ある時、

「正信そちが教育してくれぬか、少しは嘘もつくようにいえ」

といった。

正信が、秀忠に告げると、

「それは駄目だ。父上はたとえ嘘をついても買い手はあるが、

  自分の嘘は買い手がない」

と言って笑った。

ひとしきり笑って壁を黙らせる  湊 圭史

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ドラマ・お江ー秀忠・向井理

確かに秀忠の嘘はぎこちなくて、ばれてしまうだろうと思われた。

秀忠は、唯の一度も「父を超える」など、

思ったことはなかった。

ただし、お江を妻にしてからは、随分変わった。

「あなたは、徳川家を継ぐお方です」

お江は、ことあるごとに言った。

秀忠は、年上のお江の意のままだった。

若い秀忠は、毎晩のようにお江を求め、

秀忠のひたむきな愛に、お江は、身も心も癒された。

温泉で男をやわらかくしよう  森中惠美子

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ドラマお江ー千姫役・芦田愛菜ちゃん

秀忠が男をあげた「慶長伏見大地震」のあと、

4月11日、お江は伏見屋敷で、女子を出産する。

千姫である。

「秀頼と結婚させよう」

秀吉は、妙にはしゃいだ。

お江は、しばらく伏見にとどまったが、

秀忠は、9月2日に江戸に戻った。

原色を着ます攫われないように  赤松ますみ

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ドラマでは火事の設定になっているか?

『慶長の大地震』 とは? 

慶長元年7月12日発生。

京都三条から伏見で最も被害が大きく、

伏見城天守閣大破、

石垣が崩れ、約500人が圧死。

堺で600人以上が亡くなり、

奈良、大阪、神戸でも被害があった。

余震が翌年4月まで続く。

そして、秀吉に謹慎を命じられていた加藤清正が、

地震の直後、300人の手兵を連れて登城し、

城門を固めるとともに、救助活動を行い、

治安の維持にあたったため、

感動した秀吉に、謹慎を解かれたという逸話がある。

瓦礫この無数の無言の鴎ぞ  きゅういち

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ドラマで火と煙に囲まれるお江

「清正記」)より、

『慶長元年七月十二日乃夜、大地震ゆる事、

  二百年三百年にもかヽる例を不及聞、

  日をこえてやまず、洛中、洛外、伏見、大坂は不及申、

  五畿内押並て地震・・・略・・・』

地震が起こると、すぐに清正は立ち上がり、

200人の足軽に手下を持たせ、

治安の維持にあたった。 

潮騒やあれは電気をおこす音  壷内半酔

その時、秀吉は・・・?

≪秀吉はいずこにと思えば、

 『大庭へ出御被成、御敷物を敷き、幕屏風にてかこひ、

    大提灯をとぼさせ、太閤は女の御装束にて、

    政所様、松の丸殿、高蔵主々々々と・・・・』≫

この地震に秀吉はびびりまくっていた、

と、「清正記」は綴っている。

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宇治川、桂川、木津川の三川合流地に建てられた淀城

文禄元年(1592)に秀吉の隠居城として、

指月の丘に築城した「指月伏見城」は、

この大地震により倒壊。

そして、木幡山に新たな伏見城の築城が開始するも、

慶長3年8月、城の完成を見ることなく、

秀吉は死去する。
  (享年62歳)。

一望の野に咲かしむるしゃれこうべ  時実新子

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大河ドラマ「お江」-第30回・「愛しき人よ」 あらすじ

伏見・徳川屋敷で暮らし始めた江(上野樹里)だったが、、

どうしても、秀忠(向井理)の妻として自覚が持てず、

朝寝坊などしてしまう。

それもこれも、

秀忠とは互いに、心を通わせることがなく

夫婦の契りすら、結んでいないのが原因だった。

隣との距離はげんこつ一個分  吉川 幸

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さびしい毎日。

江はつい、前夫・秀勝の形見などを手にして、

思い出に浸ることが多くなる。

一方、秀忠は、江が秀勝の形見を大事にしていることを知り、

複雑な気持ちに。

一層、江との距離を縮めづらくなってしまう。

そんな中、江は何度か、夫と仲良くなろうと試みるが、

秀忠は、無関心な態度を改めない。

試みの真ん中辺が切れている  山本早苗

すると江も意地になってしまい、関係改善には至らないのだ。

時がたっても、2人の心が近づくことはなく、

ついに江は、自分が徳川家を去るべきだと判断する。

そしてある夜、秀忠に、

「私をこの家から追っていただきたい」

と申し出るのだ。

雨漏りがぽつーりぽつーり胃に刺さる  谷垣郁郎

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江が秀忠との関係に悩んでいるころ、

秀吉(岸谷五朗)は、体調を崩して寝込んでいた。

それを聞いた江は、秀忠や家康(北大路欣也)に、

秀吉の状態について尋ねる。

理由を問われると、

「姉の夫だから」

「天下人に何かあれば、一大事なので」

などと答えるが、

実は江は敵である秀吉に、情がわいており、

彼のことを心から案じていた。

家康は、

「重い病ではないはず」

と答えて江を安心させる。

だがその一方で、

秀吉の病状について細大漏らさず報告させ、

何があっても、すぐに動ける態勢を整えていた。

おーい雲残り時間を知ってるか  笠嶋恵美子

拍手[5回]

きのうから蜜柑が二つ枕もと  時実新子


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 徳川秀忠・江戸絵

秀忠、お江、二人の新婚生活は伏見城で始った。

お江は、稀代の英雄・信長の血を引くというだけに、

文字通り名門中の名門、貴種であった。

誰の閨閥(けいばつ)かで、人間の評価はがらりと変わる。

秀忠の屋敷には、きりりとした空気がただよった。

今日といういくさへ眉を描いている  たむらあきこ

今をときめく天下人の秀吉も、

もともとは、信長の草履取りだった。

だから、お江には、特別な待遇がほどこされた。

慶長元年(1596)には、

二人の新邸が完成し秀吉も訪れている。

豊臣と徳川の、蜜月の時期だった。

たてよこななめ桃源の風通し  山本早苗

文禄5年(1596)7月12日、畿内一帯で大地震が発生した。

江の住む徳川屋敷も倒壊し、

江はその瓦礫の下敷きになった。

そのとき江を捜しにやってきた秀忠は、

江を見つけると、

瓦礫を退けて助け出し、屋敷外に連れ出した。

江はその日から、秀忠を見直した。

初めて夫として、

秀忠を受け入れることが、出来たのである。

握手して運命線をすりかえる  河村啓子

大地震の被害は甚大で、

家康の上屋敷では長倉が倒壊し、

家臣が犠牲になったとされる。

お江はその報せを受け、

早速、義父・家康に見舞いの文を宛てた。

その文に対する返書として、家康が礼を述べている。

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≪慶長元年の地震の際の

   お江の家康へ送った見舞いの文に対する、家康の返書≫  
 
「徳川家康自筆消息 徳川秀忠夫人浅井氏宛」

という文が、残されている。

海峡を渡る標準語の女  森中惠美子

「文禄から慶長へ」

文禄 4年(1595)

関白・秀次が高野山で切腹(七月)。
聚楽第解体。
家康以下諸大名30名の連署血判をとり、秀頼に忠誠を誓う。
お江が秀忠と結婚(九月)。

慶長元年(1596)

伏見城が地震により全壊。
伏見城、木幡山に再建。
明国へ再出兵。
お拾4歳で「秀頼」と改名。

靴紐が切れたニュースもありました  新川弘子  

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秀吉は、関白・秀次に関するものすべてを、

抹消しようと、
自身が自慢にしていた聚楽第まで、

跡形もなく取り壊してしまった。

取り壊された聚楽第の跡は、

現代では、市街地に埋もれてしまったが、

堀や池の痕跡は「聚楽廻」の名前で残る。

また、広島城は、聚楽第を真似て作られた。

そして、西本願寺の飛雲閣は、

聚楽第から移築された言い伝えが残る、桃山建築の傑作である。

歯ぎしりににて墓石が伸びる音  井上一筒

それから2ヵ月のち、

徳川秀忠の婚儀が執り行われたのである。

お江は秀忠より、6歳年上であったが、

そんなことは、政治的な思惑の前では、誰も問題にしない。

舅にあたる家康にとっては、

身の安全が保証されたようなものだから、

大満足な縁組であった。

清水の舞台の向かいは披露宴  黒田忠昭

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 大御台・お江の方(江戸絵)

披露宴は、お江にとっては、

関八州の太守の奥方になる、身の引き締まるおもいであった。

秀忠は、当時としては大きい身長160センチあり、

身体つきはがっちりしていたが、

澄んだ瞳と、大人になりきっていない初々しくさに、

江は、秀忠に弟を見るような、可愛らしさを感じつつ、

自分の果たすべき、

将来への決意を新たにするのである。

骨量も度胸も見事妻が上  柴本ばっは

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 広島城金鯱瓦

このとき、初の夫・京極高次は6万石に加増され、

八幡山から大津へ移る。

秀次の領地であった尾張は、

大政所の縁者・福島正則に与えられる。

秀吉は初め、

「前田利家にどうか?」

という考えだったが、石田三成が、

「虎に翼を与えるようなもの」 

と反対したいきさつがある。

(これが、三成の後悔をうむ間違いであった。

  三成はのちに利家と組んで、家康と戦うことになるのだから・・・)

トーストの焦げから跳ねだした論理  立蔵信子

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