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川柳的逍遥 人の世の一家言
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一つ目の信号が青だったので   森田律子

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    信長・信忠の碑

「信長死す」の報せは、備中・高松にいる羽柴秀吉の元にも届いていた。

秀吉は、しばらくは子供のように、泣きじゃくっていたが、

突然、泣き止むと、何やら考え込む。

やがて、顔を上げると、軍師の田官兵衛に言う。

秀吉  「官兵衛。お屋形様の首は、まだ見つかっておらんと言うたな。

官兵衛  「は、ははっ。 本能寺は一棟も残さず燃え尽きたと・・・」

秀吉  「帰るぞ」

官兵衛  「帰る?」

秀吉  「近江じゃ。引き返す!

     お屋形様のお命を奪った逆賊、明智光秀めを、この手で討ち果たしてくれる!」

息止めてスポットライトの下に立つ  笠原道子

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   天王山の戦いへ

それからの秀吉の行動は速かった。

織田方の諸将に、『信長無事』との偽の書状を出し、

誰も、明智側につかないようにしながら、

戦闘中の毛利には、和睦を申し出て、後方の憂いをなくしたのだ。

あとは光秀のいる近江まで、駆け抜けるのみであった。 

憤怒いま抑えきれない日の阿修羅  竹森雀舎

秀吉  「行けーっ! 進め進め進めーっ! 馬を乗りつぶすのは今ぞ!

     足軽どもは死ぬ気で走れええーっ!

     ついて来た者には、金銀をくれてやる!

     お屋形様はご無事じゃ。生きておいでじゃ!

     されど、にっくきは、お屋形様に刃を向けた大逆賊・明智光秀!

     あのものを断固討ち果たすのじゃ!

     親方様ああーッ! おのれ― 光秀ええーッ!」

秀吉軍は、猛烈な速さで、中国から畿内に向けて走り抜けていた。

「その速さがどれほどかといえば」

備中・高松からわずか一日半の間に、姫路に到着するほどだった。

いわゆる、『中国大返り』である。

二等辺三角形の波だから  井上一筒

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           山 崎 の 光 秀 軍 陣 地

その報せを聞いた明智勢は驚いた。

まさか、そんなに早く攻め込んで来るとは、思ってもみなかったからだ。

悪い知らせは続くもので、

頼りにしていた摂津の諸大名が、ことごとく明智勢から離反して、

羽柴軍と合流しているという。

だが、光秀は慌てていなかった。

光秀  「慌てることはない。・・・・まずは京に入り、帝にお味方いただく」

白檀の香り漂う敵か味方か  竹内ゆみこ

「光秀の謀叛の行動は、結果から見るほど無謀だったのではない」

浅井重臣・阿閉貞征、京極高次、武田元明など呼応した武将、

また足利義昭、細川藤孝、、毛利輝元などなど、

本願寺・武田、上杉の残党など含め、味方はいくらでもいたが、

あまりにも、羽柴軍の中国からの上洛が早かったことと、

家康が、無事に逃げ帰ったことが

「洞ヶ峠」
を決め込んだ筒井順慶のように、ほとんどの支援が、

形にならなかったのである。

もう誰も冬の桜に目もくれぬ  片岡加代

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         山 崎 の 秀 吉 軍 の 陣 地

天正10(1581)年6月13日。

「山城国・山崎に陣」
を構えた明智軍は、

羽柴軍の京への進軍を阻止すべく対峙した。

片や羽柴軍は、数では明智軍を圧倒していた。

秀吉  「・・・戦は数じゃ!兵の多い方が勝つ」

官兵衛  「しかも陣形は、われらが優位にござりまする」

秀吉  「それよ。勝つなといわれても無理じゃわ」

官兵衛  「どう攻めますかな?」

秀吉  「まずひたすら押しまくるのみ! 

     見ておれ光秀。日暮れまでには片を付けてやるわ」

睨み合いの後、ついに戦端は開かれ、両軍入り乱れて戦った。

どちらが勝ちだろうと素うどんはつづく  壷内半酔

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その頃、清洲城に着いたは、や姉たちと涙の対面を果たした。

江は、母に堺でのことから、命懸けの伊賀越え、

そして、光秀に会ったことまで、すべてを話してきかせた。

市  「まさか明智殿と会うとはな。そちの母でおると、命がいくつあっても足りはせぬな」

  「伯父上を討った相手なのに・・・憎い敵であるはずなのに・・・、

    どうしても、明智様を憎む事ができないのです・・・・」

市  「・・・憎むべきは人ではない。戦であり、戦をもたらす世の中のありようなのじゃ」

江  「私には難しいことはわかりません。

    でも、もう私は・・・・どなたにも死んでほしくはありませんて」

喉元を只今ウツが通過中  谷垣郁郎

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光秀VS秀吉が対峙する山崎の戦い

一方、「山崎の戦さ」は、明智勢の一方的な敗戦で、幕が引かれようとしていた。

敗走する明智勢たち。

その中に、光秀や利三たちもいる。

一旦、坂本城まで戻って態勢を建て直して、

捲土重来を期そうとする利三に対し、光秀は言う。

光秀  「・・・わしは勝ちたいとは願うてはおらぬ。

     ただ、天下が泰平となればよいと思うておった。

     お屋形様が、そうお考えであったようにな・・・・・」

ヨーイドンばかりで終るしゃぼん玉  山本早苗

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光秀の最後(土民に取り囲まれる光秀)

そこに、落武者狩りの土民が現れて、竹槍で光秀の横腹を突く。

光秀は、もはやこれまでと、覚悟を決め、切腹の準備をする。

光秀  「姫様・・・・約束を・・・・果たせませなんだ・・・」

そう言うと、光秀は脇差しを自分の腹に突き立てる。

光秀が自刃したことが、

尾張の江たちのもとに、もたらされたのは、翌日のことだった。

ほな行くわほなさいならと逝けたなら  内藤光枝

信包  「戦場から敗走し、近江へ逃れようとしていたところを落武者狩りに襲われたという」

市  「なんと・・・・」

信包  「束の間の、まさに吹けば飛んでしまう夢であったな。

     皆が、明智の三日天下と笑うておるわ」

江  「おやめください!」

  「江・・・」

江は、持って行き場のない悲しみ、虚しさに、泣いて飛び出すと、

わけもわからず、馬を飛ばす。

そして朝昨日に穴のあいたまま  八田灯子

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 中国大返しの陶板図

【豆辞典ー①】-中国大返し

織田信長の死を知った豊臣秀吉が、3万もの兵を引き連れながら、

一日50キロという驚異的なスピードで、行軍したとされる”中国大返し”。

この早すぎるスピードには、

「信長の死を前もって知っていた」

「秀吉本隊だけ先に行軍していた」

などの理由が考えられているが、

実は秀吉には、これよりさらに速いスピードで、行軍した記録がある。

つむじ風だったと思うキミのこと  加納美津子

それは、柴田勝家と天下を争った”賤ヶ岳の戦い”でのできごと。

このとき、秀吉は、1万5千の兵を引き連れながら、

52キロを、わずか5時間で駆け抜けたのだ。

時速にすると、約10キロである。

一度走ってみれば分かるが、時速10キロはかなりきつい。

そのスピードの甲斐もあり、

秀吉の登場を予想していなかった柴田軍は、

混乱状態に陥り、敗走することになった。

鬼のいぬ時間が少なすぎないか  片岡湖風

「なぜ秀吉は、これほどまでのスピードを実現できたのだろうか?」

それは、行軍に必要不可欠な兵糧・武器を道中で、

調達できるようにしたからだった。

秀吉はまず、先発隊を賤ヶ岳に向けて出発させ、

その道中の村に、協力を要請した。

恩賞と引き換えに、兵糧・武器を準備するように命じたのだ。

我慢力勝機の風が吹いてくる  丹後屋肇

そして、本隊はろくに荷物も持たずに出発。

道中で村人たちから、握り飯や松明をもらい、

休まず行軍した結果、

恐るべきスピードで、戦場まで到達したのだった。

敵は織田家家臣時代にも、鬼柴田と恐れられた勝家の軍勢である。

このスピードがなければ、

山崎の合戦も、勝敗はわからなかっただろう。

革命の彩が沈んでいる歩道  森中惠美子

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  山崎の戦いの石碑

【豆辞典ー②】-洞ヶ峠(ほらがとうげ)

有利な方につこうと形勢を見ること。

「洞ヶ峠をきめる」、「洞ヶ峠を決めこむ」という。

≪京都府八幡町と大阪府枚方市の境にある峠≫

天正10年(1582)の”山崎の合戦”のとき、筒井順慶がここで戦況を眺め、

「秀吉につくか」「光秀につくか」、態度を保留にした故事による。

「日和見の順慶」と呼ばれた。

喝采の消えた持論をもち歩く  たむらあきこ

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1ページだけの絵本に月が出る  井上一筒

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   木造織田信長坐像

「信長の遺産を手にしていた朝廷」

”本能寺の変”から4日後の6月6日、

信長の居城だった安土城に入っていた明智光秀のもとに、

誠仁親王の勅使として、吉田兼見が訪れ、

京都の治安維持を光秀に命じた。

これに対して光秀は、9日に上洛して兼見邸に立ち寄り、

朝廷の勅使派遣に感謝の意を表し、天皇と親王に、それぞれ”銀500枚を献上”。

朝廷は返礼として、兼見を通じて、”女房奉書”を、光秀に手渡したという記録が

残されている。

二番手の野心鋭く爪を研ぐ  碓氷祥昭

献上された銀子は、すべて、光秀が安土城から持ち出した「信長の遺産」である。

それを受け取り、御礼までした朝廷は、

光秀の行動を正当と認めたといえるだろう。

一説によると、誠仁親王は、

9日に兼見を通じて、光秀を”征夷大将軍”に任命していた、

とも考えられているのだ。

 女房奉書=(天皇の命令などを伝えるために、女官が発行した文書)

即効性のある札束という薬  中野六助

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     誠仁親王

「祝杯をあげていた上流公家たち」

6月7日、死を遂げたばかりの信長と、

親交が深かった上流公家の近衛前久は、

誠仁親王の居所で、前久の嫡子・観修寺晴豊らとともに酒宴を催した、

という記録が残されている。

鷹狩りという共通の趣味を持ち、

信長のさまざまな要求を、朝廷に伝える役を担っていた前久でさえ、

信長の死を、歓迎していたのだ。

味方だと思った人が敵だった  西野栄子

”本能寺の変”が光秀の単独犯行であったなら、

光秀は主君殺しの逆賊である。

しかし、こうした変後の公家衆の対応は、

「逆賊に対するものとは思えない」

との指摘がなされている。

さらに『信長公記』には、

光秀軍が信長の嫡子・信忠を襲った際、

二条御所の前にあった”前久の屋敷”から、

「弓と鉄砲で攻め立てた」

という記述もなされている。

前久は、それを黙認したのだ。

にんげんの匂いが鼻についてくる  古久保和子

また前久は、”山崎の戦”で、光秀が討たれたことを知ると、

慌てて嵯峨に逃げ出し、出家している。

この行動は、前久が隠していた「何か」に対する、

「追及を免れるため」

だったと考えられている。

卵かけ御飯にもある勘どころ  緒方美津子

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      豊臣秀吉

「秘密を握った秀吉への厚遇」

山崎の戦で、光秀を討った秀吉と信長の三男・信孝は、

「本能寺の変はなぜ起きたのか?」

「誰が関与していたのか?」 

という捜査を開始。

変後に光秀を歓待し、銀子を受け取っていた兼見を捕らえ、

厳しい取調べを行った。

このとき窮地に陥った兼見は、誠仁親王に懇願し、

朝廷の仲介によって、ようやく疑いを解かれている。

処世術まずは尻尾を切ってみる  佐藤美はる

この後、秀吉が行ったのは、

御伽衆の大村由己『惟任退治記』を書かせることだった。

同書は、「本能寺の変」は、信長への私怨を動機に、

惟任(これとう)こと光秀が、単独で行った謀叛であり、

それを退治した自らをヒーローとする”合戦物語”である。

秀吉は、『惟任退治記』の内容を既成事実として、公家衆に喧伝し、

親王と兼見には、立会いのうえで朗読を読み聞かせた。

もう土俵割っているのに突き飛ばし  元永雅子

ここに、「本能寺の変」は、

現在まで通説とされている、『逆賊光秀の主謀で、引き起こされた謀反』 と、

認定されたのだ。

これ以降、朝廷は秀吉を、”信長の後継者”として認め、

上流公家でなければ就けなかった「関白」の地位を与えるなど、

秀吉からの、度重なる無理を聞き入れている。

いわば、変後の朝廷は、

秀吉の意のままに、動かされるようになったのだ。

玉ねぎを剥きますゆっくりのドラマ  谷垣郁郎

その背景には、取調べによって得た「朝廷関与」という真実を、

秀吉が創作した『惟任退治記』によって、

「隠蔽したという”功績”があったのではないか」

と考える研究家は少なくない。

そう考える事で、なぜ、変後の朝廷が、

「秀吉を前例のないほど厚遇したのか」

という謎が、説明できるからである。

ショートショート的コント的ユートピア  山口ろっぱ

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           慈照寺東求堂

銀閣と共に東山殿の遺構として現存する建物

前久は、信長の死後出家、豊臣秀吉には疎まれ徳川家康を頼り、

晩年は慈照寺東求堂に隠棲した。


我が首とゆかりの寺の花の首  森中惠美子

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ブルータスの役が五人もいる悲劇  中野六助

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「本能寺の変」

5月20日、近江・安土城。

信長は、光秀と作戦会議をしていた。

光秀が、秀吉が陣を張る備中へ出立するのが6月1日。

信長は、

「京を経て、秀吉の元に行くので、到着は5日か6日になるだろう」

という。 すると、光秀が、

「主だった家臣はすべて戦に出ており、京の信長の守りが手薄になるのではないか」

という。 だが、信長に抜かりはなかった。

嫡男の信忠の軍勢を、堺においておくというのだ。

もし、京が攻められたら、即座に、堺から援軍が来るという仕組みだった。

京を攻めるとしたら、同時に、堺をも攻めなければならない。

それだけの戦力を有する大名は、畿内にはいなかった。

それを聞いて光秀は、安堵する。

だんだんと顔が近づく話し合い  和田直美

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すると、信長は光秀に言う。

信長 「こたびの中国攻めを機に、おぬしの領地は召し上げる」

光秀 「今、何と・・・・?」

信長 「丹波一国と近江の領地じゃ。

    代わりに、中国の石見と出雲は好きなだけ取るがよい」

石見、出雲はまだ毛利の領地だった。

つまり、いまだ自分のものでない領地を、

「自分の手で奪い取れ」
ということだった。

それを聞いた光秀は驚き、絶望する。

領地を召し上げられたら、家臣は路頭に迷うことになってしまうからだ。

それを考えると、光秀の手は無意識のうちに震えていた。

昨日まで確かに背中だったのに  谷垣郁郎

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信長 「・・・そうじゃ」

光秀 「は?」

信長 「考えれば、わしを襲うことの出来る者が、一人だけおったわ」

光秀 「そ、それは・・・?」

信長 「誰よりも都の近くにおる者・・・・光秀おぬしじゃ」

光秀 「(絶句し)・・・・・」

信長 「どうじゃ?謀叛でも起こしてみるか?」

光秀 「め、滅相もないことにございます・・・・・」

笑えない錯覚王様の裸    荻野浩子

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小姓の森蘭丸は、信長の側に控えていて、

いつも信長が光秀に対して、辛くあたることが気になっていた。

そして、光秀が帰ったあとで聞いてみた。   

すると、信長は言う。

信長 「光秀は長い放浪の末、足利義昭に、次いでわしに仕えてきた。

    そのためか、安易に人に打ち解けず、目には見えぬ殻をまとうておる。

    それが人物を小そう、窮屈にさせておるのじゃ」

蘭丸 「見えない、殻・・・」

信長 「それに気づき、自らも脱ぎ捨てねばならぬ。

    わしに万一のことあらば、あとを託せるのは、明智光秀ただ一人なのだからな」

生きざまのひとつひとつに灯がともる  森中惠美子

蘭丸 「お心の内、やっとわかりましてございます。

    ・・・ただ・・・、そのお気持ち、明智様に届くものかと」

信長 「(笑い)それは、あの者の器量次第よ」

信長は、光秀の力量を人一倍買っていて、”自分の後継に決めていた”のだった。

蘭丸は、そんな信長の気持ちが、

果たして、”光秀にわかっているかどうか”心配だった。

その問いには答えない予定です   山口ろっぱ

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5月28日、丹波の亀山城では、光秀が悩んでいた。

信長の自分への冷たい仕打ちに、堪えきれなくなっていたのだった。

手の震えも一段と激しくなっていた。

そんなとき、家老の斉藤利三から、

堺に行くはずの信忠が、信長の警護の為に、京に留まるという話を聞く。

信長の手勢はせいぜ100人前後、

信忠の手勢も1千人に満たない人数だった。

それが一ヶ所に集まっている。

それに対して、自分の手勢は1万を越える。

本の背に心を掴む文字がある  泉水冴子

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光秀の様子がおかしいと思った利三は、心配そうに見つめる。

すると、光秀が言う。

光秀 「利三」

利三 「はっ」

光秀 「わしは、途方もないことを考えておる」

利三 「途方もないこと?」

利三は、それまで震えていた光秀の手が、ピタッと止まっていることに気付く。

立聞きをする時息を止めなさい  井上一筒

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6月1日の夜、光秀の軍勢は、中国目指して出立した。

そして、丹波・老ノ坂の別れ道に差しかかった時、

光秀は行軍を止める。

光秀 「皆の者・・・・、これより東へ向かい、桂川を渡る。

     目指すは本能寺なり。

     明智日向守光秀、天に代わりて織田信長を成敗いたす・・・・!

     天下布武の美名のもと、罪もなき民草を殺戮し、神仏を虐げしのみならず、

     不埒にも自らを神に祭り上げ、あまつさえ、帝をもおのれの下に置かんとする、

     所業の数々、許し難し!

     よって、これを誅罰するこそ、天の道にかなうものなり!」

しんと静まり返る一同。

唾を飲む者もいる。

光秀は見回すと声を張って言った。

光秀 「敵は・・・・本能寺にあり!」

光秀の軍勢は、進み始める。

取り立てに行きます夢の中だって  くんじろう

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6月2日、寅の刻。

信長が本能寺の自室で寝ていると、表から激しい物音が聞えてきた。

さっそく、蘭丸に様子を探らせると、

何者かが攻め込んできたことがわかった。

既に寺の周辺は、大軍勢に囲まれているという。

信長 「いかなる者の企てか?」

蘭丸 「明智勢と見受けられます」

信長 「明智・・・・・そうか・・・・ 光秀、お前も天下が欲しかったか・・・」

信長は、決して逃げることなく、家来共々奮戦する。

だが、多勢に無勢。

敵の手に落ちるのは時間の問題だった。

真実を辿れば見えて来た火種    楠原富子

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信長は、坊丸に、

「寺の境内のことごとくに、残らず火を放て」

と厳命すると、一室に蘭丸を連れていく。

信長 「よいか!わしの首、骨、髪の一本もこの世に残すな!」

蘭丸 「承りましてございます」

紅蓮の炎が信長を包む。

炎の海に崩れ落ちる本能寺。

刀を抜いたまま叫び、歩き回る光秀。

謀叛の成功に酔いしれる顔が、炎に照らし出される。

光秀 「首じゃ、首を探せ!信長の首をさらせば天下は変わる。

    この光秀のものとなるのじゃ!」

火と煙と騒音の中、狂ったように笑う光秀・・・。

消し忘れたト書きが笑い始める  森田律子 

【豆辞典】

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    森 蘭丸

織田信長の小姓、近習として知られる蘭丸・坊丸・力丸の森三兄弟といえば、

ドラマや映画では、必ずといっていいほど、

美丈夫の男子として描かれる。

もちろん、彼らが本当に美男子だったということを、

示す信頼できる資料はない。

しかし、「本能寺の変」で、燃え盛る炎の中、

信長に従って討ち死にしたのが、

それぞれ18歳、17歳、16歳という若さの盛りであったという事実が、

彼らを永遠の美男子とみなす伝説に、

寄与しているのかも知れない。

プチトマトむかし私もこうだった  西恵美子

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   森 力丸

彼らが信長の近習になったのは、

父である森可成が信長の家臣だったためで、

三兄弟のさらに、兄である可隆長可も信長に仕えている。

父や兄は、桶狭間の戦いや、姉川の戦いに参戦し、

信長の躍進に大きく貢献したが、

三姉妹の父である浅井長政との戦いの最中に、戦死している。

つまり三兄弟にとって、

浅井三姉妹は、親の仇ともいえるのである。

忘れるというマジックを手に入れる  小山紀乃

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   森 坊丸

信長に対する兄弟の忠誠心はゆるぎなく、

取次や奏者としての仕事にも、有能だったといわれている。

なかでも蘭丸は、

奥州から贈られた白斑(しらふ)の鷹、疲れを知らない青馬とならぶ、

信長の三大自慢のタネであったらしい。

”ぬばたまの 甲斐の黒駒 鞍着せば 命死なまし 甲斐の黒駒”

人づてに聞くと嬉しい褒め言葉  高島啓子

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蘭丸の具足(兼山歴史民族資料館)

蘭丸には、その奉公ぶりを示すエピソードがいくつもある。

たとえば、信長が切った爪を捨てる際、

ひと指分足りないということで探しまわったという話や、

蔵の戸が閉まっていることを承知しながら、

閉め忘れたと思っている信長の機嫌を損わないよう、

そっと開けて、再び閉めたという話などが残されている。

もも苺一粒わたくしの時給  杉本克子           

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むかしむかしの狼藉者を忘れかね  森中惠美子 

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光秀が戦勝祈願をした愛宕神社

逆臣、謀反人の汚名を着せられる光秀だが、果してそう言い切れるのか。

怨恨、野望、恐怖、さらには足利義昭や朝廷の黒幕説など、

明智光秀が、主君の織田信長を本能寺に急襲した理由については、

さまざまな憶測があるが、どれも定かではない。

もしかしたら、本人さえ明確な理由が分からなかったということも、

あり得るのではのではないだろうか。

半分の月へゆりかもめは飛んだ  壷内半酔

細川ガラシャの父で、愛妻家としても知られていた光秀は、

諸学に通じ、和歌や茶の湯にも、秀でた文化人でもあった。

行政手腕にすぐれ、領民からも愛されたと伝えられている。

比叡山焼討ちで武功をあげ、丹波国を平定するなど、

知将として信長の信頼も厚かった。

偉大なる凡人などとほめられて  小寺万世

その光秀がなぜ、と、やはり勘繰りたくなる。

毛利元就が光秀に会ったとき、

「彼の中に狼のような一面が残っている」

と、看破したと伝えられているが、

その狼が牙をむいたのが、「本能寺の変」だったのかも知れない。

彼の心理の一面を光秀研究家が、次のように解析している。

諸説あるがスーダラ節で読め遺言  山口ろっぱ

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建勲神社に伝わる「信長公記」

天承10(1582)年5月27日、

中国出陣を命じられた光秀は、京都の愛宕神社へ参詣し、

なにか思うことがあってか、

「おみくじを、二度も三度も引き直した」という記述が、『信長公記』にある。

この翌日に光秀は、

愛宕山西坊で『愛宕百韻』と呼ばれる連歌会を催した。

「本能寺の変」を目前としたこの日、光秀によって発句されたのが、

「ときは今 あめが下知る 五月かな」

という有名な句であった。

この句は、謀反を決意した光秀が、

連歌会の出席者に向けて行った、意志表明だったと認識されている。

凶が出るまで安心して眠れない  島田握夢

「とき」とは、光秀の出自とされる「土岐氏のとき」であり、

「あめ」を天として、下と合わせて、「天下」

つまり、「土岐氏(私)が、ついに天下を取る」

という解釈である。

吹っ切れたようだな語尾がしゃんとする  鈴木栄子

しかし光秀の発句を、決意表明とする見方には、

かねてから多くの疑問が指摘されてきた。

ひとつは―、

「いくら光秀が動揺していたとしても、

 連歌師や社僧に、”本能寺夜襲”といった大事の計画を見破られるような、

 ヘマなことはしなかったであろう」

と光秀研究の第一人者である桑田忠親さんが解析する。 

嘘つけぬ夫がちょっともどかしい  ふじのひろし

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”国史画帖大和桜」に描かれた”本能寺の変”

もうひとつは―、歴史研究家の津田勇さんによる、

「”ときは今”は、諸葛孔明の『出師表(すいしのひょう)』

からの引用であるとし、光秀の発句を、

”並々ならぬ決意を表明したものだ”とした上で、

「知る」という言葉は、

古代では、「神の力によって土地を知る」という意味であることから、

教養のある光秀が、自分のこととして、

「このような重い言葉を使うとは考えられない」と主張。

そして、「知る」という言葉にあてる主語は

「『天皇』としか考えられない」と結論づけた。

津田さんの解釈による愛宕百韻は、

「朝廷の意向を受けた自分が、信長を討つことの正当性の表明」

だったとする説である。

シロナガスクジラになったしゃぼん玉  井上一筒

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このような解釈は、信長が朝廷との密接な関係を築くために、

「もっとも重用した家臣が光秀だった」という事実と深く関連している。

無骨もの揃いの織田軍団にあって、

和歌を詠み、茶の湯に通じるという粋人で、

教養も高かった光秀は、織田家の代表として、

公家衆との折衝にあたらせるには、打ってつけの人材だったのだ。

結果論針の筵が羽根布団  上嶋紅雀

又かって、光秀とともに、義昭に仕えていた細川藤孝も、

誠仁親王の勅使・吉田兼見の子に、娘を娶らせるほど、

公家衆との交際が広かった。

信長は、朝廷とのコネクションを磐石にするために、

自ら媒酌人となって、

藤孝の嫡子・忠興に光秀の三女・珠(ガラシャ)を嫁がせている。

前ボタンちょっと外して風を入れ  神野節子

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ところが、天下統一を目前とするにつれ、

朝廷を尊重していた信長に、

その権威を否定するような、言動・行動が目立つようになる。

もはや、信長は、朝廷を必要としなくなったのだ。

この政策転換は、この時点で、

完全に信長に依存していた朝廷・折衝役・吉田兼見、近江前久、勧修寺晴豊などの

上流公家、さらには明智光秀、細川藤孝をも、

窮地に追い込んだと考えられる。

シナリオの通りに人間を降りる  和田洋子

拍手[5回]

出発の朝から向こうずねを打つ  森中惠美子

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    現在の本能寺

≪旧・本能寺へは5時間前まで公家衆が信長のご機嫌伺いに訪れていた≫

「本能寺へ・・・」

明智光秀は、ひどい仕打ちや、折檻を繰り返す信長に対して、

かねてから深い憎悪を抱いており、

その感情が、突然命じられた国替えによって、

ついに爆発したとされている。

ところが、それを裏付ける確たる証拠は存在せず、光秀が、

「なぜ信長を殺さなければならなかったのか?」

という謎は、いまだ解明されていない。

「光秀謀反ー怨恨説の真相」

光秀が謀反を企て実行した動機として、もっとも、有力とされているのは、

度重なる信長からの、ひどい仕打ちを受けた光秀が、

激しい憎悪を抱いていたという、『怨恨説』である。

ワタクシを掬い損ねている両手  山口ろっぱ

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丹波八上城で人質の母が殺される図

①-「丹波八上城事件」ー『総見記』より

天正6(1578)年、光秀が八上城を包囲した際、

城主の波多野秀治・秀尚兄弟が屈しないため、

光秀は、自分の母を人質として差し出し、

兄弟の命を保証したうえで、投降させた。

ところが、信長が約束に反して、兄弟を処刑してしまったため、

「報復として、光秀の母が城内で殺害された」

という事件。

裏切られた光秀は、これで信長に遺恨をもったとされる。

こう来ると読んでいたのに来ないとは  谷垣郁郎

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「月下の斥候」ー〔月岡芳年絵〕

≪光秀の家臣である斉藤利三が、本能寺襲撃前に偵察にきているところ≫

②-「利三の一件」ー『川角太閤記、続・武者物語』より

天正8(1580)年、稲葉一鉄の家臣だった斉藤利三を、

光秀が召し抱えた際、

これを不服とした一鉄が、信長に訴え出た。

信長は、利三を「返せ」と命じたが、

それに逆らったために、光秀は髷をつかんで突き飛ばされ、

額を敷居に擦り付けられた、という一件。

頑張ったから下は向かない自負がある  森 廣子

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    光秀肖像画

≪額・頬にかかる傷(シミ)が気にかかる≫

③-「酒宴での折檻①」-『祖父物語』

天正10(1582)年、武田氏を滅ぼした信長が、法華寺で催した酒宴では、

「大変めでたくござります。我らも年来骨折りしたかいがござった」

と発言した光秀に、

「お前は、どこで骨を折ったのだ!」 

と信長が激怒し、光秀の頭を欄干に押し付けたという一件。

④-「酒宴での折檻②」-『続・武者物語』

加えて信長が、家臣たちと夜を徹した酒宴を張った際には、

小用に立った光秀に、

「いかにきんかん頭、なぜ座敷を立ったか」

と信長が、言いがかりをつけ、首に刀をあてたとする一件。

づぼらやのフグの背中に冬が来る  井上一筒

☆ 「上記の怨恨説の検証」

1、「検証」ー丹波八上城事件について

落城寸前の八上城に、母親を人質として、差し出す必要があったか。

光秀の母親に関する記述は、「良質とされる史料」に、一切残されていない。

 このとき母親が存命していたとすれば、70歳以上であったと思われる、が、

「それほど高齢の母親を、光秀が従軍させ人質としただろうか」

という疑問が残る。

判断が片寄らぬよう耳ふたつ  上田紀子

また、この事件が記された『総見記』は、

『信長公記』に創作を加えて、

江戸時代に書かれた『信長記』という書物に、

さらに潤色を加えて、

本能寺の変から120年後の1702年に、成立したもの。

≪これほどの事件が、「120年後に初めて記録に残されるということは有り得ない」

 とする研究家が多い≫

つるつるが裏だったとは気づくまい  嶋澤喜八郎

2、「検証」-斉藤利三の一件

『川角太閤記』の著者は、

秀吉・秀次に仕えた田中吉政の家臣・川角三郎右衛門が、

綴った「秀吉の一代記」で、

光秀を討って天下人となった秀吉の生涯を讃えた作品。

成立は、元和年間(1615-1623)と考えられている。

『祖父物語』は、尾張清洲に住んでいた柿屋喜左衛門が、

自分の記憶をもとに、1607年頃に記したもので、

『続・武者物語』もまた、別名・「武辺咄聞書」の示すとおり、

「伝聞」をもとに、1680年編纂された書物である。

噂など聞くでなかったプチ鬱日  山本昌乃

3、「検証」-『折檻』

光秀が信長から受けた折檻についても、

記された書物はすべて、後世に成立しているため、

「信憑性に乏しい」と、研究家は指摘する。

つまり、こうした通説が、多くの人に信じられているのは、

「江戸時代から、歌舞伎や人形浄瑠璃などで演じられ、

 現代においても、テレビドラマなどで、さかんに描かれているからにほかならない」

としている。

丸い地球誰も落ちてはきやしない  米澤淑子

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江戸時代に流行した『絵本太閤記』

≪信長が光秀を折檻している絵。

 江戸時代の後期の戯作者・武内確斎による秀吉の出世物語で、

 1804年に秀吉人気が高まるのを危惧した徳川幕府によって、絶版になる≫

無防備な耳だ噂が流れ着く  田中輝子

『では、光秀を”信長謀反”にかりたてたものとは、一体何なのか?』

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 『天正10年安土城献立』

⑤-『家康の接待』から

天正10(1582)年、宿敵・武田氏を滅亡させた信長は、

その功労者である徳川家康を安土に招待した。

家康はこの誘いを受け、

5月15日に安土に到着。

信長は、長年の盟友である家康の接待役という「大任」を、

光秀に命じる。

通説では、この任命こそが、

光秀を謀反に向かわせた”決定的な要因”とされている。

夕やけの底に予報士のあした  板野美子

⑥-『川角太閤記』よりー「接待役解任説」

光秀に接待を命じた信長は、家康一行が到着する直前に、

接待場所に予定していた光秀邸の下調べに出向いた。

すると、夏場だったこともあって、

光秀が用意していた魚が腐りかけ、異臭を漂わせていた。

信長はこれに激怒し、光秀を厳しく叱りつけたうえで、接待役から解任。

大いに面目を失った光秀は、用意していた魚、椀や皿などを、

やけになって、安土城の堀へ投げ捨ててしまったという。

何のためコオロギがいる僕がいる  新家完司

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光秀によって定められた「家中軍法」

⑥-『明智軍記』よりー「国替え説」

さらに本能寺の変の五日前、家康接待の大失態で解任され、

中国出陣を命じられた光秀のもとに、信長の使者が訪れた。

そして光秀に

「丹波と近江は召し上げ、中国出陣のはたらきによっては、

 あらたに出雲、石見などを領国とする」

、「突然の国替え」を告げたのだ。

≪これは、長年にわたって丹波・近江の領国経営にあたっていた光秀にとって、

 受け入れがたい宣告であった≫

そして、ついに光秀は、究極の「下克上を決意」したとされている。

一本のネジが自分を主張する  竹森雀舎

☆ 「検証」-『家康の接待』

国書「群書類従」に、このとき光秀が用意した「饗応料理」が、

『天正10年安土城献立』 として記録に残っている。

また、信長の半生を同時代に記録した第一級の史料・『信長公記』には、

「光秀は、京都や堺で珍しい食料を調達し、

 たいへん気を張って接待した。

 15日から17日まで3日間に及んだ」

と記されており、

『川角太閤記』にあるような光秀の不手際は、一切書かれていない。

ペットボトルの水はいつだって味方  立蔵信子

☆ 「検証」-『突然の国替え』

作者不明の『明智軍記』にしか記されていないエピソードで、

元禄年間(1688-1704)に成立し、

「史料的価値は乏しい」と、国史大辞典に明記されている。

身の丈で立てばおさまる偏頭痛  たむらあきこ

「秀吉妬み説」

事あるごとに重用され、出世を続ける秀吉を、光秀が妬んでいたという説がある。

しかし、ふたりの経歴をふり返れば、

この説もまた、根拠のないものになる。

☆ 検証ー「妬み説」

天文23(1554)年頃から、信長に仕えていた秀吉は、

永禄11(1568)年に、初めて信長に会った光秀の先輩で、

光秀が家臣となった頃には、すでにかなりの地位にあった。

しかし、信長からの寵愛を受けた光秀は、

出世街道を邁進し、楽々と秀吉を追い越してしまう。

太陽に向かって坂は下ってる  北田ただよし        

元亀2(1571)年、朝倉征伐の翌年である。

光秀は秀吉より1年半早く、一国一城の主となり、

天正3(1573)年、秀吉より2年早く、丹波攻めの大将に昇進している。

さらに、天正8(1580)年、重臣・佐久間信盛を追放した信長は、

近畿の総司令官といえる地位に、光秀を据えている。

これは、織田家筆頭家老・柴田勝家に並ぶものだ。

≪少なくとも本能寺の1年前までは、信長は光秀をもっとも重用しており、

 嫉妬するとすれば、やすやすと新参者に追い越された、

 秀吉のほうではなかろうか≫

昇進の最大条件詫び上手  ふじのひろし

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      正親町天皇

また、天正9(1581)年2月28日、

信長は、京都で天下に信長軍団の武威を示す「馬揃え」を行った。

この軍事パレードは、正親町(おおぎまち)天皇、京都の公家衆、

織田軍団の主な武将が参加するという、

織田家の重要なイヴェントであった。

この馬揃の総括責任者に光秀を指名しているのだ。

こうした恩恵を受けていた光秀は、

「路傍の石のようだった私は、信長公に召し出され、

今日、莫大な兵を預けられる身となった」

『家中軍法』(1581)の末尾に、感謝の気持ちを記している。

両の手を開けば何もない敵意  菱木 誠

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信長の勘気に触れ屈辱的な扱いを受ける光秀

大河ドラマ『お江』-第四回・「本能寺へ」 あらすじ

馬揃えを開催する信長(豊川悦司)の招きで、

市(鈴木保奈美)と茶々(宮沢りえ)、初(水川あさみ)

そして、江(上野樹里)の三姉妹は、京を訪れた。

母娘は、寺巡りなどをして楽しい時を過ごしているとき、偶然、

光秀(市川正親)と、その娘・(ミムラ)後のガラシャ〕に出会う。

名門・細川家に嫁いでいるという、

たまは、江が思わず見惚れてしまうほどの美しさ。

一方、今回の馬揃えの奉行を務める光秀は、

心ここにあらずといった様子で、挨拶もそうそうに立ち去ってしまう。

メルヘンの森にも怖い1ページ  柴本ばっは

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神をも畏れぬ言葉を発する信長         

天正9年、信長は王城の地・京で、

諸将に騎馬行列の壮麗さを競わせる”馬揃え”を開催した。

20万もの見物人を集め、時の天皇も招かれた前代未聞の催しである。

「みなみな、時は春である。わが春、信長が春である」

華やかな衣装に身を包んで登場した信長は、

押し寄せた群衆を見渡して、そう言い放つ。

誰もが、彼を拒む者はいないと感じた瞬間だった。

生魚の匂いをラップみんな消し 八木 勲 

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信長の勇姿に目を輝かせる江

その夜、江は信長の宿舎である広壮な寺院・本能寺を訪ねる。

馬揃えを見て身が震えるほど感動したと話す江に、

相好を崩す信長。

彼から南蛮の服を贈られた江も、幸せな気持ちで満たされる。

しかし天下人と幼い姪のなごやかな時間は、長くは続かなかった。

錯角がいい夢見せてくれました  一階八斗醁

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       「人は神になれない」と、信長に反論する江 

きっかけは信長の不適な発言。

彼は、

「真なる神があるとすれば、それは、この信長をおいてほかにはない」

と言い切ったのだ。

・・・伯父は変わられた・・・

信長の言葉に衝撃を受けた江は、

「人は神になどなれません」

と、毅然と反論し、悲しみのなかで信長と別れることになる。

ニッポンと叫ぶカエルもゾウ亀も  森田律子

【ちなみに余談】

-光秀が用意したとされる・「天正十年安土御献立」、『続きを読む』に入っています。

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