川柳的逍遥 人の世の一家言
浄土真宗の宗祖・親鸞の思想のキーワードは、 「悪人正機」・「往生」・「本願」 悪人正機―法律や倫理・道徳を基準にすれば、 この世には、「善人と悪人」がいるが、 どんな小さな悪も見逃さない、仏の眼から見れば、 すべての人は、『悪人』だと、親鸞は説いている。 半眼の弥勒の笑みにうろたえる たむらあきこ 「悪人・家康の企み」 (親鸞展より、家康にコラボしています)
秀吉の死の翌日、 という噂を聞き、家康は、 江と秀忠を密かに江戸へと向かわせた。 畿内から遠く離れた江は、 義父と三成の関係が悪化していると聞いても、 何の手立てもできなかった。 2人の争いは、秀頼を守る姉・淀と自分が、 敵と味方になることを意味していた。 親鸞坐像 親鸞はすべての人の本当の姿は、『悪人』だと述べている。 「善人」は、真実の姿が分からず、善行を完遂できない身である事に 気付くことのできていない、「悪人」であるとする。 「前田利家との対決」 利家は、大坂城で秀頼君のお傳役であり、 北政所や茶々と常に側におり、 しかも、信長の家臣だった大名や、 秀吉が取り立てた武将たちとは、旧知の間柄。 ところが家康は、織田家でも豊臣家でもなく、外様である。 家康には、焦りがあった。 そこで、家康は朝鮮から帰った武将達など に懇ろに、接するように心がけた。 親鸞布教の姿
三成のことについて、不満を漏らす武将たちに、
「お前たちの気持ちは分かるが、太閤殿下は、 差配を任したのだからしかたないどろう。 口が悪いわりには悪い男ではない」 と諭し、なだめたのに対し、家康は、 「武辺の者としては、もっともなことよのう。
三成はすぐに証拠を示せなどというが、戦場では、 不満武将の思いは、よく分かると理解を示した。 こうなれば、彼らの気持ちは、自ずと家康に向いていく。 時には爆発をする言葉です 温い 神野節子 その頃、家康は公然と豊臣政権時の定めを破り、 伊達政宗、蜂須賀家政、福島正則といった大名方との 姻戚関係を作っていた。 これを聞いた利家たちは激怒し、 大老、奉行を集めて、家康に対して激しく問責をした。 この詰問に家康は、
「手続きをしていないとは、うっかりしておりました。 と、はぐらかし、とりあえず謝ってこの場を取り繕った。 親鸞の旅路を支えた杖
たびたび、こういうことがあり利家は、 家康の日ごろの無謀を叱咤した。
読みの深い家康は、利家のこの挑発には、 3月11日、今度は、家康が大坂の利家を訪ねた。
この日の利家は、 やって来るいちばんずるい角度から 八上桐子 寿命を悟る利家は、この会談の折、 「肥前守(利長)のことをよろしく頼む」 と言ったという。
これをもって、 利家は、このときも、場合によっては家康を、刺す覚悟だった。 「自分の死後、3年間は大坂に留まるように」 と、家康に用心という意味で、利長に言っているのだから、 「利長を自分の後継者として同じように尊重して欲しい」 という意味があった。 若き日の修業を伝える装束 利家が亡くなったのは閏3月3日。 その翌日に、とんでもない事件が起こる。 三成に不満を持っていた福島正則ら武断派の七将が、 三成の屋敷を襲撃する事件が起きたのだ。 三成は、命からがら屋敷を抜け出すと、 なにを思ったか、敵対する家康の屋敷に逃げ込んだ。 家康は、居城の佐和山城へ閉居することを条件として、 仲裁をすることにした。 ≪通説ー三成が家康の屋敷に逃げ込み保護を求めたというのは事実に反する≫ モザイクをほぐすと見えた舌二枚 上嶋紅雀 このあとはもう、家康のやりたい放題である。
朝鮮の蔚山城攻防戦にて、 城の放棄を容認したとされた軍監の早川、竹中らなど、
処分した秀吉の裁定は取り消され、 仏具や生活品を収めて親鸞が背負っていた笈
また家康は伏見では、
大坂城では、 これで、世の中の人のかなりが、 家康が天下人になったと感じることになる。 黒幕のひとりは菩薩かもしれぬ 清水すみれ そして家康は再び、公然と大名姻戚関係を作っていった。 その1人が、生まれたばかりの江の次女・子々姫(珠姫)だ。 相手は前田家二代目当主・利長の弟で、 次の当主となる利常だった。 その婚約は事前に、江には知らされてなかった。
そんなことをすれば、 そのことを後で聞いた江が、 激怒したことは言うまでもない。 親鸞が書き綴った仏歌 「親鸞」 保元・平治の乱などの戦乱や地震などの天変地異が続き、 政治・社会が混迷した平安末期。 来世の「往生」を願った富者は、財を尽くして功徳を積み、 僧侶は教義論争に明け暮れる中、法然が登場する。 民衆を含む万人の救済を考えた法然は、 「念仏をとなえれば誰もが救われる」
と「阿弥陀如来の名号」を唱えることを説き、 阿弥陀如来立像 その教えを受けたのが、親鸞(1173~1262)である。 親鸞は、養和元年(1181)、9歳のとき出家し、 比叡山で20年の修行を積むが、 悟りを得ることができず、京都六角堂に参籠。 遠回りしたのに黒猫に遭った 森田律子 ある日、親鸞は夢のなかで聖徳太子の言葉を授かり、 法然を訪ねて、「専修念仏」に帰する。 40歳年下の親鸞は、法然と同じく、比叡山で修行を積んだ後、
29歳のとき法然に出会い、 その教えを信じて、念仏をすると決断した。 恵信尼公坐像(9歳年下の妻) しかし、「専修念仏」の教えは、既成教団から弾圧を受け、
法然は四国へ、 赦免後、関東の各地において20年にわたる布教活動を行った。 ≪その後、二人が再会することは叶わなかった≫ そのとき親鸞は、「在俗のままでの仏道修行」と、 「民衆に宣布する」という使命を実行するために、 法然を選んだと考えられている。 ≪この時、僧として初めての妻を娶った≫ 弘長2年(1262)、親鸞は90歳で没する。 もぐら叩きまた増えている薬瓶 桜風子 『豆辞典』―「悪人正機」
「悪人こそ救われるべきである」
『善人なおもて往生をとぐ,いはんや悪人をや』 善人は、自己の能力で悟りを開こうとし,仏に頼ろうとする気持が薄いが,
煩悩にとらわれた凡夫(悪人)は、 「阿弥陀仏」に救われるとした思想。 ふらふらと湯立て神楽の湯を浴びる 岩根彰子 「往生」 様々な浄土への往生があるが、 一般的には、阿弥陀仏の浄土とされている「極楽への往生」を言う。 往生とは、『往』は、極楽浄土にゆく事、 『生』は、そこに化生(けしょう)することを言う。 賽銭箱にねじ込んでおく祈り 井上一筒 「本願」
「他力というは如来の本願力なり」
現実に生きていることが、 目覚めさせられることにより、救済されるとする。 春野菜が首飾りになるきっと 蟹口和枝 PR |
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