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川柳的逍遥 人の世の一家言
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教えてください虹の端の描き方  高野末次



高田馬場の仇討

元禄7年、堀部安兵衛菅野六郎左衛門らの助っ人として村上庄左衛門
らと決闘した高田馬場。徳山五兵衛がこの決闘を目のあたりにし、安兵
衛を心の師
にして剣術に打ち込み、後々、日本駄右衛門と刃をまじえ…。
 
 
「鬼平犯科帳」でお馴染みの池波正太郎氏に質問を投げかけた。
「日本の泥棒で、ナンバーワンは誰でしょう?」
その質問に池波氏は、間をおかず、「日本左衛門でしょう」と答えた。
ならば「火付盗賊改」のお頭は、誰がナンバーワンになるのだろうか。
中山勘解由でも長谷川平蔵でもなく、日本左衛門と正面対決し、捕らえ
徳山五兵衛が、ナンバーワンのということにならなければならない。


こだわりの一つ一番鶏が鳴く  岩城富美代
 


    徳川吉宗 vs 尾張宗春


「徳山五兵衛」 将軍・吉宗に見初められた男ー①


時は元禄――旗本・徳山重俊の一子・徳山五兵衛(権十郎)は、妾腹の
子ゆえに父から疎まれていた。剣の修行に明け暮れる14歳の初夏の事、
侍女への無謀な振舞いがもとで、父子の不和は決定的となった。
ある日、権十郎は、たまたま高田の馬場の堀部安兵衛の仇討を見、その
勇ましい姿に憧れ、剣の道に活路をみいだす。やがて権十郎は、父との
不和の修復は不可能とみて京都へ出奔した。それから…、


終点か出発点かひと区切り  青木敏子


宝永五年(1708)の春、権十郎が本所石原町の徳山屋敷を出奔して
から、約八ヶ月が過ぎ去った。唯一、権十郎が信頼する実の祖父・駿河
屋又兵衛に異変が生じた。又兵衛が危篤になったのだ。徳山家の男色の
気を匂わせる若党・小沼治作は、すぐさま東海道を上り、大阪・京都と、
権十郎の行方を探しまわった。が、その行方は沓として知れない。
又兵衛が死を迎え、時を同じくしたように父・重俊も危篤に陥った。


ごめんねとラストページの字の乱れ  小野雅美
 


   徳山権十郎と小沼治作


 用人・柴田宗兵衛、「今こそ権十郎様に戻ってもらうべき」と真摯に
説き、徳山家を継承し得るものを持たない重俊は、跡継ぎに権十郎を据
えることを了承した。江戸から権十郎を探しに来た小沼治作が、ようや
く権十郎を見つけ出し、事情を訥々と話し、権十郎は江戸の屋敷へ帰る
ことになった。権十郎が江戸に帰った翌年、五代将軍・綱吉の死を追う
ように、反目しあった父・重俊が病没する。


空席ができたと閻魔から誘い  青木敏子


徳山家も無事、権十郎家督を継ぎ、権十郎は名を五兵衛秀栄と改めた。
結婚を間近にひかえたある日、若き日に剣術の指南であった佐和口忠蔵
の現況を知った五兵衛は、見えざる糸で佐和口と結ばれているのを知る
ことになる。将軍位をめぐる紀伊家と尾張家の暗闘がささやかれる中で、
佐和口忠蔵は、尾張家の暗躍に加担する刺客になっていた。
徳川吉宗の影として生きる御庭番の伴格之介の言葉によると、将軍吉宗
の暗殺計画は「これまでに絶え果てたことがない」という。
「では何者が、そのような大それたことを企むのか」そこへ話がくると
格之介は口を噤んでしまう。推察は推察であって、確証ではないからだ。


曖昧な返事を残すねこじゃらし  美馬りゅうこ
  
 
 
  徳川吉宗像  築土神社蔵(永嶋孟斎筆)
 

「吉宗について」
貞享元年(1684)吉宗は、紀州藩主徳川の4男として誕生。紀州は、
御三家とはいえ吉宗は四男。出世の道は既に閉ざされていた。ところが、
宝永2年(1705)父、長男、三男が次々と急死。吉宗は思いも寄ら
ない形で、紀州藩主の座につくこととなった。
さらに大きな運命が吉宗を待ち受けていた。


女郎花ポンデリングのような雲  前中知栄


正徳6年(1716)3月。7代将軍・徳川家継が病にかかり危篤状態
に陥る。家継はまだ8歳。当然子はなく、徳川宗家の血が途絶えてしま
う一大事。次期将軍候補は、尾張・徳川継友、水戸・徳川綱条、紀州の
吉宗。御三家筆頭である尾張の徳川継友が最有力候補とされていた。
しかし、時の老中・間部詮房が将軍に指名したのは、紀州の吉宗だった。
正徳6年6月26日。吉宗は、江戸幕府・八代将軍に就任した。


雨上がりキツネに道を譲ります  下林正夫


当然、将軍家になると考えていた尾張藩は、後継者争いに負け落胆した。
数年後、その尾張から吉宗にとって不倶戴天の敵、継友の弟、徳川宗春
が現れる。宗春は、元禄9年(1696)、尾張藩三代藩主の20番目
の子として誕生。当然、跡取りの望める様な状況ではなく、宗春は江戸
の町に毎夜くり出し、芝居見物や遊郭で遊ぶ気儘な日々を過ごしていた。
ところが宗春もまた、大勢いた兄たちが次々と死去し、存命の兄も他家
を継いでいた為、宗春が藩主の座を継ぐ事になる。
享保15年(1730)宗春35歳であった。片や4男、片や20男。
出会うはずのない二人が、同じような道を辿り、将軍と御三家筆頭藩主
として、歴史の表舞台であいまみえることになる。


あれこれと深読みさせる波の音  奥山節子
 


  外出もままならぬ吉宗


吉宗が八代将軍の座に就いてから、これまで5度にわたって暗殺者の襲
撃を受けている。このため吉宗は近年、大好きな狩りにも、野遊びにも
気軽に出かけられなくなった。そうした噂は1度耳にした覚えがある
兵衛だが、「まさか、それほどのものとは…」考えていなかった。
徳山五兵衛は、凡そ3ヵ月ほどのちに、ふたたび「本所見廻り方に就任
することになるであろう」と、伴格之介が言った。
それから五兵衛の秘密のお役目が始まることになる
その秘密の任務を遂行するためには、「ぜひにも、本所見廻り方を相務
めていただかねばなりますまい」と、伴格之介は言い足した。


風は気儘凹む私を遣り過ごす  石田すがこ


将軍暗殺の異変を吉宗、「可能な限り、隠密裏に葬りたい」として
いる。というのも暗殺団曲者どもの背後にある、徳川家御三家の一つ
尾張家のことを慮ったからである。この事件を、白日のもとに晒して
しまっては、どこまでも相手方を追求せねばならぬし、そうなれば、
天下が騒然となること、いうを待たない。将軍とその親族とが忌わし
い暗殺事件の中心として対決するようなことになれば、「わが治政に
汚点を残す…ことにもなろう」 尾張家が曲者どもへ、あからさまに
「将軍を暗殺せよ」との指令を下したのではない。
だが、曲者どもの暗躍するための費用・隠れ家の設置その他について、
尾張家が、相応の援助していたことは推察できた。


気がつけば刃の上を歩いてる  木口雅裕
 



 
「尾張宗春の無念・遺恨」
兄・継友の跡を継ぎ、徳川御三家の一つである尾張名古屋61万9千石
の太守となった尾張宗春の将軍への反抗ともとれる批判は、吉宗が予想
もせぬかたちをとって表れるのである。
宗春は、尾張藩主となって間もなく『温知政要』と題した政教の書一巻
を著した。これは、尾張藩の施政のあらましと家来たちの心得を説いた
もので、家臣たちへ分かち与えた。その一冊が、吉宗の目に止まった。
吉宗は「温知政要」を見るや、たちどころに内示をもって「絶版破棄」
を命じたという。
 
 
価値観の違いと心裂けてくる  山本昌乃


その本の内容は、吉宗と幕府政治を辛辣に批判したもので、例えば、
「和漢古今ともに、武勇智謀千万人にすぐれし名将…が、いざ、権力の
座につくと、たちまちにして、慈仁の心なく、私欲さかんにんして栄耀
奢りきわめ、人民の救うの本意なかりしゆえなり」と書き、
更に宗春は、
「人には好き嫌いのあるものなり。しかるに、我が好くことは人にも好
ませ、わが嫌いなることは、人にも嫌わせ候ようにするは、甚だ心狭き
ことにて、人の上たる者、べっしてあるまじき事なり」と、つらつら吉
宗の「吝嗇のすすめ」を諷しているのである。


人間国宝級の大バカになってやる  くんじろう
 


猩々緋の装束・鼈甲笠と長い煙管を持つ宗春


宗春の前の尾張藩は、「倹約第一」の将軍に背いてはならぬというので、
藩士たちが遊所へ赴くこと、芝居見物もきびしく禁じていたが、宗春は、
「つまらぬことよ。芝居見物までも封じてしもうては、心にゆとりがな
くなり、いつにても刺々しゅうなって、物を見る目もせまくなり、いざ
というときの用にたたぬものばかりとなってしまうではないか」と、
芝居見物のみか、遊所への出入りも自由にさせてしまった。そして宗春
みずから、猩々緋の装束に、鼈甲笠という姿で、長さ二間の金の煙管
茶坊主の肩に担がせ、これで煙草をふかしながら、寺詣りだの、物見遊
山などをやってのけ、「遊女町などは、どしどし設けさせるがよい、町
が栄える」などと言い、城下町は以前と見違えるばかりに賑わい始めた。


果し状軽く下地に酒二合  上田 仁


夏の盆踊りでは、61万9千石の殿様が白い牛にまたがり、紅提灯を手
にした供回りの家来を従え、城を出て、町中の盆踊りへ繰り出してくる。
ついには「みな、まいれ。まいれ」とばかり、町民を下屋敷の庭へ入れ、
笛や太鼓で大さわぎしたあげく、「ほうびを、つかわすぞよ」と金銀を
ふり撒く。
「余は金を使うが、使う事によって世間に金が回り、民の助けになるか
ら使う。口だけの倹約とは決して異なるものぞ」と、いって憚らない。


修飾語とるとのっぺらぼうの僕   永井 松柏


 
    歌舞伎『傾城夫恋桜』   
町へ繰り出しちやほやされる大人気の宗春

 
 
この振舞に、宗春の人気は急速に広がる一方で、「近々、尾張公が公儀
を相手に、一戦挑むそうな」といった不穏な噂までもがでる始末。
この噂は、尾張藩士たちに強い危機感を与えた。
また、その宗春の振舞の結果、宗春が藩主を継いだ享保16年は、総差
引2万7千両もの赤字に転じ、隠居前年の元文3年(1738)には、
総差引14万7585両の赤字となっていた。赤字補填のために領民に
多額の借上金を命じて、庶民の暮らしを圧迫することになっていた。
こうした諸々のことで、尾張家の藩士に分裂はじまり、宗春が参勤交代
の留守の間に、反宗春派によるクーデターが起こったのである。


世の中も吾も矛盾ののどぼとけ  石丸弥平


行政を無視した尾張の当主が、このような体たらくでは、治政をあずか
吉宗も、将軍として黙っているわけにはいかない。
「藩主宗春、行跡常々よろしからざる故もって隠居謹慎せよ」
尾張で起こったクーデターの責任をとらせる形で、吉宗は、将軍の威令
をもって宗春をしりぞけ、尾張家の分家にあたる松平友著(ともあき)
の嫡男・宗勝に本家を相続させたのである。吉宗としては、耐えに耐え
やむを得ない決断だった。


もう敗者なのだよ君も吊革も   樋口 仁


宗春の蟄居が決まると側近たちは皆泣き崩れた。一人宗春だけは違った。
宗春はみじんも敗者の装いを見せず一言呟いたという。
「おわり(尾張)初もの」。自らの藩主人生の「終わり」、「御三家
筆頭藩主に対する初めての仕打ち」と洒落てみせたという。
幽閉中の仕打ちとは、基本的に外出は禁止、母親の葬儀にさえ参列する
ことは許されなかった。宗春は、明和元年(1764)、歴史の表舞台
に戻ることなくこの世を去る。69歳であった。
今日、宗春の肖像画は一枚も残されていない。それどころか宗春在命中
の正式な記録は闇に葬り去られた。       つづく


食べ尽した男をゴミに出しました  渡辺富子

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ふるさとの変わらぬ棚の置き薬  ふじのひろし
 


慶喜が蟄居していた宝台院
 

「青天を衝け」ー篤太夫、再会


篤太夫が明治元年12月1日夜から7日の朝までの7日間、故郷・血洗
島に滞在したあと、東京に戻ってきたのは、12月8日のことである。
凡そ10日、公私の用務を整理し、19日、昭武慶喜宛の親書、並に、
渡仏一行の費用の勘定書を携え静岡に到着、20日に駿府城へ登城して
いる。昭武としては、直接対面したいところであったが、兄慶喜は謹慎
中の身であり、それは憚られた。それ故、篤太夫が使者となって書面を
届け、書面では書ききれない昭武の思いを、口頭で伝えるよう願ったの
である。


コンパスと定規がもめる未来地図  五味尚子


「再会」
篤太夫が城下の宝台院に謹慎中の慶喜に拝謁した12月23日のこと。
「私が、暫く御待ち申して居る間に慶喜公は、その醜い狭い薄暗い室へ
御出座に相成つて、私の直ぐ顔前に御坐りになられたのである。が、羽
織袴の御姿で座布団も召されず、直接に一本葦の汚れた畳の上に座られ、
拝謁を賜はつたのである。2年前に15代将軍として拝謁した時とは、
全く打つて変つた御姿である。私は、此の御姿を拝見した時には、頭が
ハツと下つたままで上らず、<なんといふ情けない御姿になられたのだ
らう>と思ふと、泣けて泣けてたまらなくなり、しばしの間は、何と申
上げようもなかつたのである」


違和感てなんじゃ痛いんか痒いんか  高野末次


だが、慶喜公におかせられては、いささかも哀しまれたような模様なく、
取乱しの趣きなどは更々、お見受け申し得なかつたのみか、眉一つさへ
お動かしになつたでもなく、私が愚痴を申上げようとするのをお制(と)
めになり、『既往のことは、何によらず話してくれるな。そんな話をさ
れては困る。仏蘭西留学中に於ける民部の模様を聞こうと思つて遇つた
のだから民部の話をしろ』との仰せであつたのである」渋沢栄一伝記』


水という寂しいものに金魚足す  蔦清五郎
 


 
慶喜が謹慎していた宝台院の屋敷
 

「解説」
慶喜公の謹慎していられる宝台院というお寺へ行って、一室でお待ちし
ていると、行燈の傍らへひょろりと誰か来た。誰か側近の方かと思った
ら、その方が慶喜公であった。ただ一人、しょんぼりお坐りになったの
であった。その時ばかりは感極まって哭いた。―こんな情けないお姿を
拝し申そうとはー何と申してよろしいかーと申し上げると、慶喜公は、
『今日はそんな愚痴をきくために会ったのではない。お前が民部のこと
に就いて、フランス滞在中の報告に来た、との事であったから、それで
会おうと言って置いた筈だ』ととどめを刺す とでも言おうか、平然と
して言われた。


風が吹くただそれだけで痛い朝  前中知栄


「誠に慶喜公は、あんな場合には、人情があるのか無いのか、それとも
感じがあるのか無いのか、と思われる方である。それで私も『恐れ入り
ました、それでは何も申し上げますまい、唯ご残念でございましょう』
と言って、それから民部公子の御渡欧について、詳しくお話申して引き
下がった次第である」
拝謁を終えた後、篤太夫は、慶喜昭武宛の返書を預かり、水戸に向か
う予定だった。ところが、ほかならぬ慶喜の内命を受け、静岡にとどま
ることになる。内命とは「篤太夫を静岡に留まらしめ、勘定組頭となし、
尋(つい)で勘定頭支配同組頭格御勝手懸り、中老手附を命ず」 という
ものであった。


てにおはにうっかりバレている本音  上坊幹子



愛犬と写真に納まる昭武


いずれにせよ、篤太夫は、昭武宛の返書を預かり、すぐにでも水戸に向
かいたかったが、翌24日藩庁から呼び出しがかかる。出頭したところ、
「勘定組頭を命ずる」という辞令書を渡された。静岡藩士に取り立てる
というわけである。だが、篤太夫としては、慶喜の返書を水戸の昭武に
届ける方が先だった。「組頭職を拝命する前に、水戸に向かいたい」
申し出たところ、「昭武宛の返書は、別の者に持たせるので、水戸に向
かうには及ばない。勘定組頭の職を請けてほしい」というのである。
これを聞いた篤太夫は、憤慨した。


ぺらぺらと海馬のネジが取れかける  柴辻踈星


篤太夫を水戸に向わせようとせず、静岡で藩の仕事をさせよう、という
慶喜の指示は、自分の帰りを心待ちしている昭武の気持ちを踏みにじる
もので、不人情である。そんな慶喜を、諫めない藩士にしても不人情だ。
徳川家は、そういう人情の機微が分かっていない者ばかりであったから、
慶喜は、朝敵の汚名を受け、所領も大減封されたのだ。こんな者たちが
揃っている静岡にはこれ以上いられない。篤太夫の剣幕に驚いた静岡藩
は、藩政を取り仕切っていた中老格の大久保一翁が事情説明にあたる。


命令が足の先まで届かない  山田葉子


説明によると、水戸藩から篤太夫、「是非とも藩士に取り立てたい」
という交渉が静岡藩に来ていたという。しかし、篤太夫が水戸へ行けば、
民部公子(昭武)が、厚く慕われる余り重く用いたいと思われるに違い
ない。そうすれば水戸の藩士たちの嫉妬を浴び、生命の危険さえも生じ
かねないことを慶喜は危惧をした。当時、水戸藩政は、混乱して政情不
安定でもあった。よって、静岡藩の方で「篤太夫を必要としている」
水戸藩には伝えることにした。さらに、篤太夫に昭武宛の返書を水戸へ
持参させてしまうと、民部公子の情にほだされて水戸藩への仕官を承知
してしまう恐れがあるので、他の者に持参させるようにした、というの
である。


鮎の骨きれいに抜けて深情け  美馬りゅうこ



篤太夫、静岡藩士になる


「静岡で藩の仕事をせよ」という藩命の裏には、こうした慶喜の深い考
えがあった。大久保一翁から事情を聞いた篤太夫は、深く恥じ入る。
その意思に従って篤太夫は、静岡にとどまり、静岡藩の財政改革に尽力
することになった。明治元年12月27日、篤太夫は、静岡藩勘定頭支
配同組頭御勝手掛り中老手附を拝命した。静岡藩士に取り立てられたの
である。そして、静岡藩士として篤太夫は、藩の仕事に従事しつつも、
当初の考え通り、ここ静岡の地で慶喜の行く末を見守ることに決めた。


産毛より耳毛を剃っておきなさい  くんじろう

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ばらんすとふらんす美しい日暮れ  柴田比呂志



日本銀行業の原点
明治6年6月11日、日本初の銀行である第一国立銀行が設立された。
当時、大蔵少輔の栄一が、三井組・小野組などから出資を募って設立
準備を進め、官職を辞したのち、自身が頭取に就任した。


「青天を衝け」 渋沢栄一、欧州に学ぶ


ナポレオン三世の近習に、経済学者のミッシェル・シュバリエ・社会学
者のフレデリック・プレーらのブレーンがいる。彼らが理想としたのは、
「サン=シモンド主義」といわれるものだ。
当時「社会主義者は、金持ちをなくし、その金を貧乏人に配る」という
平等分割を目指していた。しかし、サン=シモンド主義者は、「それで
はあダメだ」と訴えた。
なぜなら、「パイをできる限り均等に分けるのでは、世界を貧しくする
だけだ」と、説く。


贅沢を透けて見せてるゴミ袋  穐山常男


サン=シモンド主義が言うのは、「まずパイ自体を大きくして、1人当
たりの分配量を増やさないと、社会は豊かにならない。パイを大きくす
ると同時に、できる限り不公平のないよう、個々の働きに応じて、均等
に分ける」というものである。
そこで「鍵」となるのがサーキュレーション(循環)だった。工業にし
ても、農業にしても、それ自体で富が増えるわけではない。金と物とア
イデア、すべてを流通・循環させることで富は生まれるというのだ。


天秤の支点あやつる助詞一字  徳山泰子


「万国博覧会を真似たオリンピックの金・銀・銅」
サン=シモンド主義を支持するナポレオン三世は、まず、金銭の流通を
促す「銀行と株式会社」を作るところから改革を始め、次に、物と人の
流通のため、「鉄道と運河」を整備した。その上で、彼らが取り組んだ
のが、「アイデアの循環」で、そのための「万国博覧会」であった。
世界中から、創意工夫に満ちたものを集め、審査委員の公正な判断によ
って順位をつけ、金・銀、銅のメダルを与える。賞金はないが、メダ
ルによって、商品の価値が高まるため、出展者たちは、切磋琢磨する。
この競争が、さらなるアイデアを生み、総じてアイデアの循環を図る。


渋柿も垣根を越えてワンチーム  山本早苗
 
 

セーヌ川河岸に建てられた楕円形の万博会場


「渋沢が目を丸くした ①」
「アイデアの循環」というサン=シモンド主義の理念は、パリ万博の会
場そのものにも非常によく表れていた。パリ万博の巨大な会場は、楕円
形で中央に温室庭園、その周りを7つの回廊が、同心円に広がる構造だ
った。それぞれの回廊は、芸術作品、家具、鉄鋼業関連というジャンル
で分かれており、ひとつの回廊を巡ると、世界中の同ジャンルのものが
見られる仕組みとなっていた。さらに、円の中心から放射状にも道が作
られており、この道を歩くとひとつの国の産業を、まとめて見ることが
できた。そしてメイン会場の外周には100軒を超える各国の展示会場、
売店や遊園地、レストランなどが立ち並び、人気を博した。


落ち着きのない魂ですみません  竹内ゆみこ



パリ博の目玉になったエッフェル塔


さらに、開催国として多くの参加国を募る為、呼び物になる展示やモニ
ュメントが必要であった。そこで、シャン・ド・マルスに約312mに
達するエッフェル塔が建設された。塔は、700近くの設計案から選ば
れたエッフェル社に発注された。そして会場内ではシャン・ド・マルス
から小型電車が10分おきに発車し、周辺約3キロの会場を電車から見
て回ることができるようにした。塔は夜には、三色のサーチライトでラ
イトアップされ、会場内は、白熱電灯が照らし、万博史上初の夜間開場
が実現した。栄一の驚きはまだまだつづく。


真ん丸を歩いて過呼吸になった  森井克子
 


 「渋沢が目を丸くした②」
篤太夫のパリ道中の記録に『航西日記』がある。
その中で、篤太夫が強い印象を受け、ノートにしたのがアラビア半島と
アフリカ大陸の狭間、「スエズ運河の開削工事」についてであった。
スエズ海峡を開削して、地中海と紅海を結び、ヨーロッパとアジアを最
短距離で連結する巨大工事。2年前に始まり、45年後の完成を目指し
ているとの説明を聞き、留学生たちはその規模に驚いた。
が、篤太夫は少し違った。


この釘を抜いても何も変わらない  吉川幸子
 
 
 
イスマイリアのスエズ運河
 

篤太夫、「これだけ巨大な土木工事をやるのに、資金は一体どこから
出てくるのか?」、そこに疑問を持ったのだった。
カイロの元領事・レセップスというフランス人が起こした、スエズ運河
会社が工事を担っていると聞き、篤太夫は、さらに大きなショックを受
ける。「会社とは一体何だ」とこれが篤太夫の「株式会社」とのファー
ストコンタクトだった。事業をやるという会社の仕組みを知り、篤太夫
は目の覚めるような思いを抱いた、のである。


おまへんか よう切れる縁切り鋏  高野末次



ポール・フリュリ=エラール
パリ出身の資本家。日仏の貿易関係拡大に尽力し、昭武の遣欧使節団を
名誉日本総領事として歓待した。栄一は、このエラールから、経済学や
金融を学んだ。また商人のエラールが陸軍大佐と対等に接しているのを
見た栄一は、日本の「官尊民卑」の打破を考えるようになった。


パリ道中で見聞きしたことの多くに、篤太夫は、カルチャーショックを
受けるが、それは必ずしもヨーロッパ産業社会の事物そのものに対して
ではなかった。篤太夫に大きな影響を与えたのは、むしろ、産業社会に
おける人々、とりわけ「官と民」の関係だった。
昭武一行には、フランスからの世話係として、政府の役人・ヴィレット
フリュリ・エラールという銀行家が付いていた。この2人のフランク
な関係に、篤太夫は大いに驚くのであった。


名は知らぬが酒の好みは知っている  橋倉久美子


日本風にいえば、ヴィレットであって、エラール両替屋である。
武士と町人が、なぜ対等に接しているのか、このとき篤太夫、「そも
そもなぜ、日本において商人は、社会的評価が低いのか」を考えた。
昭武一行が、パリ滞在のための借家を探し始めたときのことである。
適当な賃貸住宅があるというので、篤太夫は通訳の山内文次郎を連れて、
下検分に行った。
この時、篤太夫は先方の提示した家賃が少し高すぎると思い、値下げの
交渉をするよう山内に頼んだ。しかし「そんな失礼なことを話せるもの
ですか」と断られてしまう。「商取引と同じようなものだから、失礼で
はない」と、いくら力説しても、結局、山内は頑として譲らなかった。


融通のきかぬ男の小引出し  嶋沢喜八郎


日本の武士は、金銭交渉を卑しいことだと考える。それはもとを辿れば、
商人が儲けのために、高値で売り付けたり、騙したりすることにも原因
があった。篤太夫「日本がフランスと同じようになるには、商人が誠
実さを最大の売りにするように、変わらないといけない」と考えるのだ
った。篤太夫は、パリ道中の一年半で吸収した様々なことを、日本で大
いに役立てることになる。


ぼくの知らないぼくをGAFAは知っている  落合正子


【蘊蓄 余談】
万国博覧会の始まりは、嘉永4年(1851)のロンドン万博で、パリ
万国博覧会は、安政2年(1855)に初めて開かれ、昭武一行が参加
したパリ博は、フランスが主催する2度目のもの。


空なんてこれだけのものか井のカワズ  松浦英夫

拍手[5回]

生きてゆく重さ海月にある重さ  前中知栄



目黒行人坂之図 広重
行人坂を登りきったところに富士を眺める茶屋がある。


「江戸っ子のわらんじ(草鞋)をはくらんがしさ(騒がしい)」
江戸っ子とは、江戸ことばを話す根生い(江戸生まれで江戸育ち)の
人々のことで、明和8年(1771)この川柳に詠まれた「江戸っ子」
が最初とされている。句は江戸の男が旅立つとき、やたら大騒ぎする
のを皮肉ったもの。
この年は60年ぶりに「お蔭詣り」が流行した年でもあり、4月から
8月までの四ヶ月間に、諸国から200万をこえる人が、伊勢神宮へ
おしかけた。
 長谷川平蔵宣雄(のぶお)が、「火付盗賊改」を命じられたのは、
この狂熱がようやく沈静へむかったころ、同年10月17日である。
53歳であった。


ペアルックでした魔法が解けるまで  三浦蒼鬼
 

「火付盗賊改」 長谷川平蔵宣雄


 
目黒行人坂之図 
<目黒へ下る坂をいふ。寛永の頃、湯殿山の行者某、大日如来の堂を建
立し、大円寺と号す>
富士見茶屋(左上)から行人坂を下って太鼓橋(中央下)までの中ほど
に、木々に囲まれた「大円寺」がある。


明和9年2月29日、江戸には南西の寒風が吹く荒んでいた。
午後1時を過ぎたとき、江戸郊外の目黒行人坂の大円寺から出火した。
折からの強風に煽られて猛火は、麻布・芝・桜田へと広がり、和田倉・
馬場先から江戸城曲輪内の評定所や、老中らの屋敷が並ぶ大名小路をも
襲った。さらに火勢は、日本橋から神田・下谷・浅草・千住にまで燃え
広がり、ようやく翌日夕刻にいたって、鎮火したのも束の間、新たに本
郷菊坂から出火があり、この火は駒込・千駄木・谷中、そして寛永寺も
焼き尽くして、夜半に鎮火した。「目黒行人坂の大火」と呼ばれ、明和
の大火に匹敵するものだった。しかし、明暦の大火のときにはなかった
「火付盗賊改」が生れており、その役にあったのは就任間もない長谷川
平蔵宣雄、つまり平蔵宜以(のぶため)の父親であった。


チャンネルを回すと死者が増えてゆく  河村啓子


平蔵宣雄は、この大火は付け火とみて、大円寺一帯の聞き込みに与力・
同心を投入した。すぐに同心の1人が、大円寺周辺をうろついている武
蔵熊谷無宿・潮五郎を捕らえ、追及すると、放火を白状した。潮五郎は
真秀と名乗る願人坊主であった。ところで火付け犯が、火盗改の同心に
早々に捕まることはよくあることだった。疑わしい者を片っ端から捕縛
するからで、中山勘解由山川安左衛門のように、十分な取り調べをせ
ずに拷問をして、早々に自白で決着をつける乱暴な火盗改が少なくなか
った。かなりの数の者が冤罪で火あぶりになっていた。
しかし、平蔵宣雄は違っていた。


何処となく秋風に舞うクエスチョン  渡邊真由美



太鼓橋



真秀の自白を聞くと、真偽を確かめるために大円寺へ連行して現場検証
をした。境内へはどの道から入ったのか、付け火をしたのは何処かなど、
詳しく実地で尋問したのである。宣雄は、自供だけで火罪にすることを
ためらい、老中・松平武元に町奉行の判断を願い出ている。宣雄の一連
の取り調べには、優れた配慮があり、事実認定に並々ならぬ真摯さがあ
るとして、武元は、町奉行に判断を求める必要はないとした。
結果、真秀は町中引き廻し、5カ所に科書・捨札を建て浅草において、
火罪の判決が下された。


形式の鎖を根気よく解く  下谷憲子


この目黒行人坂の大火」「明暦の振袖火事」文化期の「車町火事」
とともに「江戸の三大火事」と呼ばれるが、火事の原因がはっきりして
いて、しかも犯人が捕らえられた唯一の大火である。おのずから火付盗
賊改・平蔵宣雄の評判は高くなった、が、平蔵は淡々としていた。


金太郎飴は依怙贔屓をしない  平井美智子



京都町西町奉行所跡
江戸時代、千本通押小路東入ル北側一帯西町奉行所があった。


幕府は11月16日、人心を一新するため、「明和」「安永」と改元
した。この改元が行われる1ヵ月前の10月15日、平蔵宣雄は「火付
盗賊改」を免じられ、京都町奉行に抜擢された。この父に従い、京都に
暮らした宣雄の嫡男・平蔵宜以が、のちに火付盗賊改として活躍するが、
京都町奉行としての父の姿を、つぶさに見ていたことが役立っている。
京都には東西の両町奉行所があったが、平蔵宣雄が就任をした西町奉行
所は、東町奉行所よりも格上と見られていた。ともに、市政全般を担当
しているが、京都特有の門跡寺院や古い寺社がかかわる訴訟は、西町奉
行所が専管することになっていた。


それとなく線が一本引いてある  嶋沢喜八郎


由緒のある係争者は、平安・鎌倉時代からの権利書や慣習を持ち出して
きたりして、裁きには難題が多かった。しかも寺社には、弁論・口論の
達者がおおく、日頃から自己の利益・理屈を押し通すのに熟達している。
平蔵宣雄の行き届いた取り調べぶりをよく知っていた老中・松平武元が、
適任者とみて白羽の矢を立てたのだろう。宣雄は従5位下・備中守とい
う大名並みの官位を与えられて赴任した。


気位の褪せないように青を足す  美馬りゅうこ


宣雄は審理のとき両者の言い分を十分に言わせ、無言で耳を傾けている。
双方の弁論が終わると、争論の筋道を整理し、証拠の品を一つづつ道理
をもって検証し、その日のうちに毅然と裁決した。
その裁きぶりは快刀乱麻を断つごとくで、東町奉行所が4,5件の事件
を処理する間に、西町奉行所は20件も裁くと評判になった。


まあるい人だ寒さを知っている人だ  徳山泰子


また宣雄は、質素な暮らしが身についており、これは、京都でも変わる
ことなく、地付きの与力・同心は、宣雄に心服・感化されて奉行所内の
奢侈の風が改まった。ところが、赴任8カ月後、安永2年(1772)
6月22日、宣雄は病を得て、突然亡くなる。病が何だったのかは不明
である。55歳であった。
宣雄は、「客死をしていなければ、江戸の町奉行に進んでいただろう」
と囁かれる痛い死であった。(客死=旅先での死)


般若心経左折する赤トンボ  藤本鈴菜


宣雄の急死で、嫡男・平蔵宜以への家督相続の末期願いについては、
京都東町奉行だった酒井善左衛門忠高が円滑に処置してくれた。
酒井は宣雄より10年先に「火付盗賊改」を務めあげ、奈良奉行を経て
3年前から京都東町奉行に就いていた。30歳年下の平蔵宜以のために
「判元見届」を無事にすませている。宣雄の後任の京都西町奉行には、
山村良旺(たかあきら)が決まり、平蔵宜以は妻子・家臣を引き連れて
江戸に戻ることになった。
(判元見届=武家から、末期養子(後継者)の申請が出された際、幕府
の役人が派遣されて行う確認作業)


ためらった父の仕事を歩む今  本田智彦


いよいよ西町奉行所を立ち去るというとき、与力・同心らが見送りに出
たところ、先輩でもある彼らに平蔵は、面と向かって演説をした。
『各々方(おのおのがた) 御堅固に御在勤あるべし。後年、長谷川平
蔵と呼ばれては、当世の英傑と世に言われんことを思う。…中略…。
各々方御用として参府あらば、必ず訪わせらるべく候、と、暇乞いいた
しける』
京兆府尹記事』(けいちょうふしん)』


鶏頭は空の高さへ背伸びする  くんじろう


奉行の平蔵宣雄には敬服していたものの、28歳の若造といってもよい
息子から別れ際にいきなり、「わしはいずれ当代の英雄豪傑となるから
、江戸に来たときは、屋敷に参られよ」
と言われたので見送る者たちは、
あっけにとられた。
平蔵宜以が京都町奉行所に暮らしたのは、わずか8カ月だったが、大き
「自負」を言い放つほどに成長して江戸へもどった。
尚、平蔵宣雄の「火付盗賊改」退任から、子の平蔵宜以の火盗改(助役)
就任の間には、15年の間がある。この館、延べにして26人の火盗改
が次々と入れ替わった。


京都から歩いて帰ることはない  森本高明


【余談】
 
 
  
目黒行人坂の火事
 
 

  <火事と喧嘩は江戸の華> 江戸は火事が多く、ほとんど毎日のように
発生していた。そして、江戸三大大火と呼ばれる一つに、「目黒行人坂
の火事」
がある。真秀という願人坊主が、盗み目的で目黒行人坂の大円
に、明和9年2月29日正午過ぎに、忍び込み放火したのである。
火は西南の強風にあおられ、千住まで、江戸の三分の一を焼き尽くし、
翌日の午後になってようやく鎮火した。死者1万5千人にもおよんだと
いう。(真秀は、間もなく火付盗賊改方に捕縛され、小塚原で火刑に処
せられた)



あかんから生まれて僕がいてあかん  藤井孝作
 


「行人坂の中途の大円寺に慰霊の五百羅漢石像」
 
 
目黒行人坂の火事の折、大圓寺の仏像は、坂の下を流れる目黒川に沈め
て無事であったが、幕府は、火元である大円寺の再建を嘉永元年(18
48)まで許可しなかった。その間、仏像の類は隣の明王院(雅叙園)
に仮安置され、大圓寺の焼け跡には、大火で犠牲になった人々の霊を鎮
めるために、五百羅漢像が石彫で造られ、並べられた。羅漢像は、石工
が2代3代と継いで、50年の歳月をかけて完成したといわれている。


愛憎の絵文字が宙をとんでいる  木戸利枝

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6Bの一色で描く童話  くんじろう
 
 

火付盗賊改方の与力・同心


 「名奉行」と「名火付盗賊改」
火付盗賊改は、寛文期(1661-73)の水野小左衛門にはじまって、
幕末(1860)まで、約200年の間に、延べ248人が就任した。
それに対して、町奉行は、江戸時代260年を通じて95人にすぎない。
ところで「名奉行」といえば、すぐに名があがるのは、大岡忠相遠山
景元であろう。もう一人加えて「三名奉行」を選ぼうとすると根岸鎮衛、
筒井政德、矢部定謙など、意見が分かれる。「火付盗賊改」も同じで、
中山勘解由長谷川平蔵の二人は、衆目の一致するところだが、第三の
男となると、248人もいる中で、適切な人物がみつからない。


ええ、あの子は乾燥機の中よ  山口ろっぱ


国学者の大野権之丞は、第三の男として幕臣の執務上必携の『青標紙』
に於いて矢部彦五郎をあげている。青標紙は、天保11年(1840)
に300部出版された。しかし『武家諸法度』『御定書百箇条』など
の禁令を載せていたため「発禁処分」を受け、大野は流罪となった。
ところが、青標紙は300部限定ではなく、実際には、もっと多く刷ら
れて、幕臣は、役目でミスを犯さないために密かに熟読した。その中に
名高い「三人の火盗改」として、伝説的な中山勘解由長谷川平蔵と並
んで、身近な同僚である矢部謙彦彦五郎の名があり、幕臣たちは驚いた。


「ねばならぬ」重さに耐えている家紋  靏田寿子


「火付盗賊改」 矢部謙彦(さだのり)彦五郎


矢部が先手筒頭に任命されたのは、文政11年(1828)8月で10
月には「火付盗賊改」助役を命じられた。矢部が御頭になった先手組は
中山勘解由(かげゆ)が率いた「先手筒組五番組」であるが、すでに1
40年も過ぎていて中山勘解由の名残りはない。
矢部が大手柄をあげるのは、天保元年末に「火付盗賊改」に再々任され
たときである。腐りきっていた前任の火盗改の御頭・与力・同心を一掃
するのである。


紆余曲折をただ真っ直ぐに突き進む  蟹口和枝


犯罪を取り締まるはずの組織の根幹が、犯罪に汚染されていることは、
古今、珍しいことではない。火付盗賊改では、8代将軍・吉宗のとき、
山川安左衛門組の与力・同心が、目明しの鬼子儀兵衛に汚染され、鬼子
と与力2人、同心5人が死罪になった。しかし、文政・天保期(181
8-44)に警察組織を汚染した部屋頭・三之助の仕掛けは、幕府にと
って、はるかに重大・深刻で、鬼子儀兵衛の比ではなかった。


満腹の腰の刀が錆びている  上嶋幸雀 



口入屋


「部屋頭・三之助」
三之助は、表向きは、商家や武家に奉公人を斡旋する口入屋(人宿)を
営む主人であるが、実状は、武家屋敷の中間部屋を博打場にしている元
締めであった。「人宿」の経営者なので、いつでも求人に応じられるよ
うに「寄子」をたくさん抱えているが、ほとんどが子分とか義弟と呼ば
れる男たちで、奉公先はもっぱら武家、それも大名・旗本屋敷へ中間・
小者を周旋するのを生業にしていた。特に慢性的に家計に苦しんでいた
旗本は、三之助が屋敷内に博打場をひらいて、多額の礼金を納めてくれ
るのを喜んだのである。


北風も音符に変えるミュージシャン  奥山節子


三之助は、人宿の主人だから本来は、町方に居住しなければならないの
だが、奉公人の周旋より博打の胴元で稼いでいたから、自身も武家屋敷
に住みついていた。それが常に、火盗改めの屋敷であった。悪党の親玉
ともなると、ふつう異名があるが、三之助にはそれらしい通り名はなく、
旗本屋敷の中間部屋の頭を隠れ蓑にしていたので、「部屋頭三之助」
呼ばれていた。


ちゃんと名はあります花も咲かせます  八田灯子


博打を取り締まる役所を根城にして、博打をやっていたのだから、これ
ほど安全な賭場はない。三之助は、火付盗賊改のお頭はもちろん、その
用人、また与力・同心に至るまで、寺銭をたっぷりと贈った。付け届け
は町奉行所の内与力や廻り方の同心にも渡されていて、町奉行所と火付
盗賊改という江戸の警察組織の一部は、遅くとも、矢部が火盗改に就く
10年ほど前には、三之助の手に握られていた。火付盗賊改の頭が交代
すると、三之助は前任者に紹介されて、新任者に大金を持って顔つなぎ
の挨拶に訪れ、その中間部屋の頭におさまってしまう。ところが、矢部
彦五郎が就任したときは危険だと感じたのか、近づかなかった。


手招きですぐに靡いて行く尻尾  百々寿子
 


捕り手


老中・大久保忠真は、町奉行と火付盗賊改が、三之助に汚染されている
のを憂え、火盗改に再々任になった矢部を呼んで、内々に三之助の捕縛
を命じた。ふつう老中の命令は、「御下知」となり、命じられた役人は
張り切って大々的に捕物にするのだが、「御内意」となると誰にも知ら
れぬように事を仕遂げなければならない。配下の与力・同心の中には、
三之助に通じている者がいるので、捕える前に逃がしてしまいかねない。
おびき出して捕まえるしかない。


物隠す神は眼鏡が好きらしい  前中一晃


「まずは三之助がどこに潜んでいるのか」、腹心の同心を使って前任者
たちの屋敷を探らせてみると、6代前の火盗改・松浦忠右衛門の屋敷内
に住んでいることがわかった。矢部は一計を案じ、支配の若年寄に病気
と届け出て、屋敷から一歩も出なかった。
時の火付盗賊改がまったく外に出ないので、「役立たず」と市中の噂に
なった。一方、配下の与力・同心は、御頭が病気といいながら、医者が
一人として往診に来ないのを不審に思った。


出来すぎた話に塩のひと握り  安土理恵


矢部はある日、三之助と結託している与力2人を居室に呼び寄せ、
「わしは長病なれば、お役を辞すべきかと思っておる。されど皆も知っ
ての通り、医者も医薬も用いずにいる。病は四百四病の外にあり、お役
を退くのが無念でならぬ」
与力は畏まって、「お頭 病気は何でしょうか」と、障子越しに尋ねた。
「恥ずべきことながら、貧の病だ。札差(蔵宿)からもほかからも借り
つくして、もはやわしに金を貸す者がない。聞くところによると、部屋
頭の三之助なる者はすこぶる金満家の由。内々に借用できぬものか」
聞き取りづらく、いかにも、か細い声で、矢部は答えた。


なまの声忘れてしまいそう あなた  下谷憲子


与力らは驚いたが、念を入れて、お頭のいかにも心なげな話し声を聞き、
「三之助にお話を伝えましょう」という。
三之助は、かねてから矢部を取り込みたいと思いながら、近づけずにい
たので喜んだ。火盗改のお頭・与力・同心の関係は、一体と思われるが、
与力・同心は、お頭しだいで勝手にふるまう。三之助は、
「貴公らを疑うわけではないが、願わくば殿様にじかにお会いして話を
承りたい」という。


野心家のヒゲは左にカールする  上田 仁



三之助逮捕


日ならず、与力は三之助の返事を持って、お頭の座敷前の縁に座し、
「三之助は、借金に応じるが、さきに面会を願っている」ことを伝えた。
「相分かった。ただ面会は苦しくないが、座敷に通すわけにゆかないの
で、庭先で会おう」矢部は応えた。
当日、矢部は、奥座敷に出ると三之助が庭前に畏まって頭を下げている。
矢部が縁先に出て二言三言何か言うと、手筈しておいた同心たちが駆け
寄って捕縛した。どこからも邪魔の入る暇のない電光石火の逮捕劇であ
った。


逃げ道をふさぎ昨日を帰さない  中野六助



高山陣屋
本来は与力が犯罪者の取り調べ・拷問などをここで行った。
 

早々に、はじめられた三之助の取り調べは、町奉行も火付盗賊改も担当
から外し、公事方の勘定奉行・曽我助弼(すけまさ)が受け持った。
判決は次の通り。
『この日、先手頭・松浦忠右衛門、その忠僕・三之助はじめ家人ら罰せ
らるるにより、咎められて職解かれ、御前をとどめらるる。
先手頭・奥山主税助(ちからのすけ)その前の従僕・三之助が事により、
その家人ら同じく罰せらるるにより、咎められて御前をとどめらる』
(御前をとどめる=出仕をも許さず)


フラスコに罪を8割 水2割  みつ木もも花  


約10年前、火付盗賊改の屋敷を根城にして、町奉行所と火付盗賊改の
役人をカネで牛耳っていた部屋頭・三之助が遠島になった。
当然、八丈島へ送られると思いきや、新島であった。賭博の胴元の刑は
ふつう八丈島へ流される。三之助の場合は、火盗改の屋敷内で賭場を開
帳していたのだから、死罪でもおかしくないと思うのだが新島であった。
幕府内部の与力・同心の腐敗をさらけだすのを避けるため、三之助の処
罰に手心を加えたのだろうか。
三之助は、新島に流されて15年後、弘化3年(1846)に病死する。


サンダルを洗う潮騒きいている  三村一子   


一方、松浦奥山の先手頭2人が罷免・出仕差控の処罰を受け、このほ
か、処分を受けた先手組の同心と町奉行所の同心は、28人に及んだ。
火付盗賊改の矢部彦五郎は、三之助捕縛が評価されて、この年10月、
43歳で堺奉行の転役した。この後の栄進はめざましく、45歳で大坂
西町奉行、48歳で江戸に戻って勘定奉行、53歳で南町奉行に就任し、
北町奉行の遠山の金四郎は、相役であった。しかし、最後は老中・水野
忠邦に反目し、約8か月で罷免された。主因は、水野と対立したために
目付・鳥居耀蔵(ようぞう)の策謀により罷免されたとみられている。
 矢部は、その処分を不服として絶食し、それが原因で死去した。
54歳だった。


いろいろとあって迷子になる時間  清水すみれ


エピソード・「新参者いじめ」 
矢部彦五郎は、剛直な性格で、新参のころ、先輩が定謙をいじめようと
弁当の残りで、お粥を作ることを命じた。彦五郎は、鍋を火にのせたが、
そのままほったらかしにしていた。そのうち焦げ臭くなった。
「小僧、粥が焦げているのがわからぬか。早く何かでかきまぜろ!」と、
偉そうなことをいう。腹を立てた彦五郎は大きな声で、
「それがし小身とはいえ、飯炊きなんぞをしたことがない、火加減など
わからぬ!」と言い、怒りにまかせ、かたわらの大ロウソクを握ると、
力任せに鍋をかき混ぜた。古参の者たちは驚き慌てた。
咎めるものがなかったのは、この新参の若者に怖れを感じたからだろう。
このことが上司に知れて、彦五郎は辞表を出したが、かえってその態度
が立派であるとして許され、先輩の方が処罰された。
老中・水野忠邦との喧嘩も、こうした若いころの性格が、老いても健在
であったことの現れだろう。それにしても、水野は相手が悪かったか。


忘れぬようトゲは刺さったままである  雨森茂樹

拍手[5回]



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