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川柳的逍遥 人の世の一家言
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マッチ一本こんなに熱く語れます  市井美春



                   明治35年発行された渋沢栄一肖像の10円紙幣


日本銀行ホームページ・「お札に肖像として選ばれた人」によれば、
肖像画の人物選定に特別な制約などはないが、強いて言えば「極力実在
の人物で、業績があり、知名度も高く、親しみ易く、国民から尊敬され
日本を代表するような人物」であること。また、偽造防止の目的から、
「なるべく精密な人物像の写真や絵画を入手できる人物であること」
いうことであるらしい。
そんな規定の中で、令和4年20年ぶりに刷新される新紙幣の顔として
選ばれたのが、「北里柴三郎」千円札)、「津田梅子」五千円札)
「渋沢栄一」一万円札)である。


人間が乗る一枚の磁気カード  猫田千恵子


ところが、渋沢栄一が紙幣の肖像画に描かれたのは、初めてではない。
(上の写真)明治35年、日本が植民地として統治していた大韓帝国で、
数年間だけ、第一銀行が発行した紙幣に、栄一が、肖像になっている。
このため、栄一が新紙幣の肖像画のモデルになると、
「植民地支配の被害国への配慮に欠けている」と、韓国国内から、
批判が出た。無理もない。


シミの付いた紙は白紙とは言えぬ  みぎわはな


「青天を衝け」 お札の顔



  同じ聖徳太子でも発行年によって、表情が微妙に異なる。
どれも聖徳太子だが、なにか顔色・表情が違って見える。
昭和5年(百円札) 昭和25年(千円札) 昭和32年(五千円札) 
昭和33年(一万円札)

「一万円札の顔」
始めて一万円札が登場したのは、昭和33年ことである。
そのお札の「顔」には、聖徳太子が選ばれた。
聖徳太子は、昭和5年に百円札に登場以来、お札の常連である。
さて、昭和5年とは、どんな年だったのだろうか。
 東京まで降灰した浅間山の爆発
 豊作飢饉と呼ばれる米価大暴落
 9月14日 - 独総選挙でナチ党が躍進
 濱口首相が東京駅で佐郷屋留雄による狙撃事件
 世界大恐慌の誘引で日本経済が危機的状態になる…。 など。
そんな年にお札の顔として、聖徳太子が選ばれたのは、
「和を以て貴しとなす」(十七条の憲法)の精神で、国民融和を図ろう
とした一面が窺える。財布からお札を取り出す度に、太子の尊顔を拝し、
和の心を取り戻して欲しい、と期待した、のである。


人形の顔で見ていることがある  赤松ますみ


その期待に応え、聖徳太子の御利益は大きく、この間、日本は高度成長
の波に乗り、オリンピック、万国博などを成功させ、世界の主要国の仲
間入りを果たした。日本の成功は、アジア各国の経済成長のモデルにな
った。しかし、経済的成功を成し遂げた日本は、やや尊大になり、バブ
ル景気へと突っ込んでいく聖徳太子は、「お札」の代名詞となり、国中
に聖徳太子で溢れた。そんなことからも、聖徳太子の一万円札は、昭和
61年まで28年間、使用されることとなった。


欲の皮たっぷりついて迷いなし  小西美也子
 
 
 
        福沢諭吉
 
 
昭和59年には、一万円札の「顔」は、福沢諭吉になる。
福沢諭吉と言えば、「学問のすすめ」や慶應義塾大学創設の顔がある。
高度成長のあとは、「文化立国を目指す」考えがあったようだが、
福沢の万札時代は、残念ながら、日本の低迷期と重なってしまった。
バブル崩壊後の長く続く低成長に加え、阪神淡路大震災、東日本大震災、
福島原発事故、コロナ・パンデミックなど、国民生活を直撃する災害が
多く発生したものである。


口癖は明日はきっとうまくいく  水田トンボ
 


         渋沢栄一


「このままではいけない。文化国家より経済国家だ」
と、考えた政府は、一万円札の「顔」は、福沢諭吉から「日本資本主義
の父」と尊称され、生涯に500社以上の会社を立ち上げた、という、
「渋沢栄一の登場」ということになる。
渋沢栄一、「私利私欲で、誰かが、利益を独占することを嫌い、多く
の経済活動、社会活動に関わり、日本の社会全体の利益を重視し、発展
していくことを目指す」とした人物で、新紙幣の肖像画に描かれること
になった。
「富を成す根源は何かといえば、仁義道徳。正しい道徳の富でなければ、
その富は、完全に永続することができぬ」と語っている。
何やら難しいが、ともかく、好い運を運んでくれることを期待する。


あーそうかこれが坩堝ということか  高見澤直美


「渋沢栄一に連れて就任する・お札の顔」
 

 
      
津田梅子と北里柴三郎


  津田梅子
梅子は官費女子留学生の一人として、吉松亮子、上田悌子、永井繁子
ともに、岩倉具視らの米欧使節団の加わった。6歳の時である。
アメリカに11年滞在し、幼少からの長い留学生活で、日本語能力は、
むしろ通訳が必要なほどになってしまうが、この間、女子教育をする塾
をつくる夢を抱いた。だが、帰国した日本は、男尊女卑の社会であった。
男子と渡り合える女子を教育する場を、切実に願った梅子は、伊藤博文
への、英語指導や通訳のため雇われて、伊藤家に滞在、下田歌子からは、
日本語を学び、英語教師を勤めたのち、留学中に知り合ったアメリカ人
女性たちの協力を得ながら、女子英語塾を開いた。留学中に教育や人格
形成の見本である、ヘレンケラーやナイチンゲールとも親しく交わった。
下田歌子=伊藤博文らの勧めで良妻賢母主義による上流子女教育を目的
とした桃夭女塾(とうようじょじゅく)を開いた。


毎日が一期一会と水の私語  石神由子
  

北里柴三郎
千円札の肖像画のモデルの入れ替わりは、野口英世から北里柴三郎へと
奇しくも同じ細菌学者となった。
熊本・東京の医学校で医学を学んだのち、内務省衛生局の役人になった
柴三郎はドイツに留学。細菌学者コッホのもとで、破傷風菌の純粋培養、
さらに、血清療法の実験に成功する。
帰国したのち、官立伝染病研究所を設立し、香港でペスト菌を発見。
ドイツ時代の功績によって第一回ノーベル生理学・医学賞候補となるが、
野口英世と同様、受賞にはいたらなかった。

官立伝染病研究所が内務省から文部省に変更になることに断固反対した
柴三郎は、私立の「北里研究所」を設立。「病の原因とその治療法」
見つけるために尽力した。野口英世よりも前に肖像画のモデルとなって
いてもおかしくなかった人物といわれる。


気がつけば私は白い梅だった  居谷真理子





 
 

「歴代のお札の顔」


樋口一葉   (2004年)
文芸誌に数々の作品を発表。中でも「たけくらべ」が高い評価を受ける。
しかし、作家人生は短く、肺結核のため、25歳の若さで死去した。
こうした短い生涯でも、「自分の夢を貫き実現させた強い女性」として、
お札の顔に選ばれた。


本当に命が惜しい花の下  加藤佳子


野口英世 (2004年)
ノーベル賞候補にもなった細菌学者。
アメリカで細菌学を学び「梅毒スピロメーター」が世界的に認められる。
再度の渡米で黄熱病の研究に没頭。しかし当時、光学顕微鏡では、細菌
よりも、はるかに小さな病原体であるウイルスを、観察できるほどの分
解能がなく、光学顕微鏡の限界に、研究業績の一部を否定された。
それでも野口は、アフリカで黄熱病の研究を続け、自ら黄熱病にかかっ
てしまう。そして51歳で亡くなってしまう。不屈の実績に一票を…。


身の丈を計り違えていた誤算  津田照子



   
 

紫式部  (2000年)
言わずと知れた「源氏物語」の作者。
紫式部の名は、ペンネームで、日本最初といわれる。
紙幣でば、二千円札の肖像画として採用され、話題にはなったものの、
国民には浸透せず、日銀には在庫の山となる。
紫式部の人気にあやかって船出をした新札だったが、大失敗…。
これは式部の人気が原因ではなく、2千円札の有用性の問題だった。


プラスαお役に立っているつもり  津田照子


福沢諭吉(1984年)
アメリカに留学中、身分制度のないアメリカ文化に触れ「自由と平等」
の考えに感銘し、『西洋事情』を刊行、これが大ベストセラーとなり、
徳川慶喜将軍も愛読したといわれる。
その後、慶應義塾を作り、「学問のすすめ」を刊行する。
お札では「諭吉」と呼び捨てにされるほど親しみをこめられたが、
先に述べた通り、悪い時期にお札の顔になった為、名にあ含まれる
の印象がない。


もうあかんビリケンの足さすっても  くんじろう


新渡戸稲造(1984年)
日本初の農学博士である。
著書「武士道」のベストセラー作家として、世界中でも名前を知られる。
白人と黄色人種の結婚なんて「とんでもない!」という時代に、アメリ
カ在学中、ドイツ人のメリー・エルキントンと知り合い結婚する。
知名度が高いこと、世界に対して誇れるような人物であること、
と、条件を満たして5千円札の顔になった。


かげろうのままで一粒飲み下す  川嶋 翔


「おまけ」
平成16年に、一万円札・五千円札・千円札がアップデートされた。
 一万円札の肖像は、何故か福沢諭吉が、そのまま居座ったが、五千円札
は、新渡戸稲造から樋口一葉へ、千円札は、夏目漱石から野口英世へ替
わった。中でも樋口は、歴代紙幣登場者中最年少でもある。
日本銀行券初の表・女性登場者として注目された。
女性のお札の顔、第3号。
女性のお札の顔として、平成12年に発行の二千円札の裏面には、
紫式部が遠慮気味に顔を出しているが、樋口は表の顔なのだ。
因みに、女性のお札の顔の第一号は、紙幣に載った最初の肖像人物であ
ると同時に、明治14年登場の神功皇后である。


ウニコール煎じて本当の友達  河村啓子


夏目漱石(1984年)
イギリス留学後、大学英文科の講師になる。
その講師業は、学生に不評で、それに嫌気をさしたか、やがて退職し、
朝日新聞の専属作家になった。41歳で、作家としてデビューを飾り、
「坊ちゃん」「吾輩は猫である」「こころ」などの作品を生む。
これらが小学校の国語の授業でも使われ、人気と名声を得た。
ただ、夏目漱石が、世間の人気だけで、お札の顔に選ばれた理由が、
今一よくわからない。


ネコの時間には毎朝ネコになる  井上一筒


伊藤博文(1963年 )
 伊藤は、初代・総理大臣であり、4度の総理を務めた。
松下村塾で学び、木戸孝允「貨幣制度や鉄道の改革」を進め、近代日
本の基礎を作ったとされる。これだけで、充分、お札の顔に合格。
他に「内閣制度の導入、官僚組織作りで、優秀な人材を確保や大日本帝
国憲法のベースを作った」などの功績がある。


元号がもう変わるのにまだ首相  ふじのひろし


岩倉具視 (1951年)

岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允ら、倒幕派と朝廷を結び
つけ、明治維新の推進に寄与した。
日米修好通商条約の勅許を、公卿らと共に関白・九条尚忠方に押しかけ、
朝廷会議をひっくり返した、などの活躍がある。
他に欧米への「岩倉使節団」の派遣、「征韓論」の抑止、憲法制定の為
の準備など、「新生日本の礎」になった貢献度が目覚ましく、「新しく
れた5百円のお札」になった。


定型があるから活きてくる破調  高浜広川
 
 
  高橋是清(1951年)
第20代内閣総理大臣。
「日本のケインズ」と呼ばれる。
金融恐慌時に日本経済の立て直しを図り、国を破産から救った敏腕は、
わが国最強の財政家として、最近の政治家からも高く評価されている。
日本銀行総裁や総理大臣、大蔵大臣を7度も務めており、まさしく、
お札の顔である。惜しむらく昭和11年2、26事件で凶刃に倒れた。


かも知れぬ喪服の足袋を洗っとく  武内幸子


板垣退助(1948年)  
「板垣死すとも自由は死せず」の名言が有名。
会津攻略の時に、お国の事情で、多くの民衆が逃げ惑う様子を目の当た
りにし、「身分の差なく、心を一つに国民が参加できる政治」について、
考えるようになったと言われる。それを原点に、明治政府の中で「国民
だれもが、平等に政治に参加する自由がある」ということを広めた。
今では、当たり前になっている「国民が選挙で選んだ人が政治を行う」
とは、この人が考えるところから生まれた、のだそうだ。


品格は骨になっても生き続け  通利一辺


二宮尊徳(1946年)     
江戸時代の農民思想家であり、冷害や水害に悩まされていた村人たちを
救い、今の農協や漁協などの助け合い精神である「協同組合」の基礎を
作った。 道徳教育の模範。お札の顔になる条件「道徳」が重要視される。
渋沢栄一の道徳がお札の顔になったように…。


いい人の明るい刺を持てあます  丸山 進


日本武尊(1945年)    
聖徳太子が現れる少し前にいたとされる人物だが、実在不明。
様々な伝説の中の人物である。どうしてこのような人物が、お札の肖像
に選ばれることになったのか…、あなたも考えてみてくれますか。
日本武尊伝説には、こんなものがある。
 女性に化けて勝利したクマソ征伐
 相手の刀を木刀にすり替え勝利したイズモタケル征伐
 オトタチバナヒメの入水(生贄として)


神様もリセットしたい過去がある  前中一晃


聖徳太子(1930年)
聖徳太子は、中国の文化や制度をお手本に、冠位十二階や十七条憲法を
定めたり、「天皇中心の国家の礎を築いた」飛鳥時代の人。
お札の顔については、前述の通り。


愛されて心の欲が溶けてくる  靏田寿子
 
 
  藤原鎌足(1891年)      
飛鳥時代、天皇を凌ぐ権力を持ちつつあった蘇我氏に驚異を覚え、中大
兄皇子(天智天皇)と共に蘇我氏を倒し、天皇中心の国づくりをした。
「大化の改新」だ。
「時代に見合った国造りを行う」のも、お札の顔になる条件である。
晩年、天智天皇(中大兄皇子)よりその功績を讃え藤原姓を贈られたが、
名誉の名前を贈られた翌日に亡くなった。


傘立ての雫が切れる頃別れ  藤本鈴菜



    和気清麿呂(1890年)  
この人も、又、藤原鎌足と同じ「天皇中心の国造り」に尽力した。    
「皇位を皇族以外の者に継がせてはいけない」という考え方から、僧侶
道鏡の皇位簒奪を防いだ。しかし、道教を寵愛していた称徳天皇は怒り、
清麻呂を左遷してしまう。
清麻呂が政治に復帰した後は、桓武天皇に仕え長岡京遷都や平安京遷都
などで力を発揮し、貢献した。もし清麻呂がいなければ、
「純粋な天皇
の血が途絶えてしまっていただろう」、と言われる。


温室の花に負けぬと路地の花  石神由子



    
二百円円札           一円札


  武内宿禰(1889年)     
宿禰、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5人の天皇に仕えた人。
紙幣の肖像にするにあたっては、西郷隆盛の似顔絵でお馴染みの、
大蔵省印刷局主任彫刻官・キヨッソーネが、まず手を付けている。
エピソードがある。
大正5年の「お札の改変」に際し、彫刻者・大山助一は、キヨッソーネ
の宿禰は「目が窪み、鼻筋が高く彫られている為、西洋の老人のように
見える」と言い、目の凹みを少なくし、鼻を低くし、頬の彫刻画線を改
めて、「日本の老人らしく見えるようにした」という。
その顔が、128年間という歴代最長の「お札の顔」になった。


日に晒す指紋だらけの私を  菊池 京



     菅原道真

菅原道真 (1888年)       
教育といえば、「学問の神様」として知られる菅原道真。
天満宮と名のつく神社は千を超え、すべて菅原道真をご祭神としている。
菅原氏は代々学問の家系で、道真も幼い頃から漢学の教育を受けて育つ。
普通22歳頃に合格すれば良し、とする難関の文章生に18歳で合格し、
33歳で、現在でいう漢文学・中国史の大学教授のような地位にあたる
文章博士になる。政治家としては、その秀才ぶりが、妬みの対象とされ、
大宰府に飛ばされるなどの不幸にあう。お札の要件は100点満天。


ありとあらゆるところが痒くなる薬  井上恵津子



        神功皇后

神功皇后(1881年)        
初代のお札の人物とは先に述べた。
第14代・仲哀天皇(ちゅうあい)の皇后。
妊娠中に夫・仲哀天皇が亡くなり、「腹帯を巻き男装をして戦地に赴き
みごと勝利した」「子の応神天皇が産まれてすぐに歩いた」ということ
などが逸話にある。
ではなぜ、神功皇后が最初のお札の顔に選ばれたのだろうか?
理由は、「彼女の名を国民に知らしめるため」であった、らしい。
当時、朝鮮侵略を目指していた政府は、そのことを世間に流布しようと
試みたのだ。
「神功皇后は、朝鮮征伐に成功した」という逸話のおまけもある。
「安産の神様」「子安の神様」と拝まれるなら、「○○の神様」として、
もっと適切な「安」のつく喩えがあってもよさそうなものだが…。


濡れた手で何をつかむと言うのです  前中知栄

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