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川柳的逍遥 人の世の一家言
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浮草も終の住処をさがしてる  津田照子



                  麻疹流行年数  歌川芳宗
江戸時代、感染症の麻疹が約20年ごと流行していたことを記す。


「江戸時代の感染症流行」



                  麻疹養生之伝 (歌川義虎)


昨年からのコロナ禍の拡大により、いまではオミクロン株が凄い勢いで、
広がりを見せており、日本をはじめ世界中の国が、対策に追われている。
が、実は、江戸時代にも、人々の命や生活を脅かす感染症が何度も流行
していた。実際、感染症流行時には、多くの命が奪われ、江戸の町はパ
ニックに陥るが、現代より知識も医療も未熟な時代でありながら、都市
崩壊を免れている。
そこで、百万都市江戸が執った対策を考察してみる。
当時は、医療のレベルが現代とは比較にならないほど低い上に、感染症
の特効薬やワクチンもなかったため、感染を防ぐ一番の方法は、人との
接触を避けることであった。正体の判明しない恐怖感から、町や町民は、
上からの指示を待たずに感染防止のため、日々の行動をみずら制限した。
やはり、「自粛」である。


コロナ禍の街を流れている妖気  新家完司



      麻疹退治  (歌川芳藤)
養生のため禁忌となった湯屋や娼妓らが、感染症を広める悪神に襲い掛
かっている。


一方、人が集まる銭湯、髪結床あるいは、料理屋や芝居小屋、遊郭など
盛り場では閑古鳥が鳴く、その結果、経済活動が停滞して景気が悪化し、
生活困難に陥る者が続出した。(コロナ禍の現在と同じ光景である)
幕府はこうした状況を危険視し、興味深い施策を取る。
感染の有無に拘わらず、生活苦に陥った江戸庶民を対象に、「御救金」
一律に支給したのである。その規模は、江戸の町人人口の半数を超える
約30万人にも及んだ。日々の生活を維持するための「持続化給付金」
に他ならないが、その事務局として、設置されたのが「江戸町会所」だ。
江戸の都市行政を預かる町奉行所の、外局のような組織である。


経済も地球もご機嫌斜めなり  武友六歩


ただし、ここで問題となったのは給付金の財源である。財政難の幕府は
対応に苦慮するが、当時幕府のトップとして寛政改革を進めていた老中・
松平定信は、無駄遣いが多かった「町入用」に目をつける。
町入用とは、江戸の町を運営するための行政費だが、幕府ではなく町人
たちが拠出していた。


結論はいつも諭吉が引き受ける  ふじのひろし
 
 

       麻疹疫病除 (歌川芳艶)
 

要するに、江戸の町は、町人たちの積立金をもって運営された自治組織
だったが、定信は、積立金の一部を財源に充てることで、幕府の懐を傷
めずに、庶民生活を持続させるための財源を確保しようと目論む。
幕府主導の元、共済組合のようなシステムを構築しようとしたのである。
現代に喩えると、自助でも公助でもない「共助」のシステムだった。
町人からの積立金を預かるとともに、感染症流行時には、給付金支給の
窓口となった町会所では、積立金の一部を貸し付けに回すことで利殖を
はかり、その増資にも努めている。さらに、積立金を資本に大量の米を
買い入れて備蓄米とし、飢饉や火災・水災・震災時には、お救米として
町人に給付した。町会所は、江戸の食料危機を未然に防ぐ役割も果たし
ていた。


こうもりの穴で戦火に耐えていた  楠本晃朗



     麻疹見立て金附 (歌川芳盛)


そんな町会所が、感染症流行を理由に、「持続化給付金」支給したのは
享和2年(1802)である。この年の3月、江戸の町では、インフル
エンザが大流行した。前年の暮れに、オランダ船や中国船が唯一入港で
きた長崎から感染が始まり、日本を縦断する格好で、世界最大級の人口
を抱える江戸にも感染が広がった。
やがて、感染の流行に伴って経済が回らなくなり、生活が立ち行かなく
なる町人が続出する。社会不安が広まり、「都市崩壊」の時が刻々と近
づいていた。
よって町奉行所は、感染の有無に関わりなく、町会所をして、持続化給
付金を一律に支給することを決定する。
感染の有無を一々調査していては、給付に時間が掛ってしまうからだ。


悲しみを各種揃えた冬の駅  星出冬馬
 


     麻疹を軽くする伝 (歌川芳宗)

 
町人人口(約50万人)の半数を超える28万8千人を対象に、独身者
は、銭3百文、2人暮らし以上の家庭には、一人当たり銭2百50文の
割合で給付することで、社会不安の拡大を抑え込もうとした。
そして、給付は次のような手順で実施された。
対象は町人のうち、「その日稼ぎの者」限定された。
その日稼ぎの者とは、棒手振り、日雇稼ぎの者、その日の商いや手間賃
だけで家族を養う職人などを指す。この基準、つまり、ガイドラインに
基づき、江戸の各町に置かれた名主が、給付対象者のの選定にあたった。
先に述べた通り、江戸の町は、町人たちにより、運営され、町奉行所は
その自治を監視するスタンスにとどまっていた。
各町の行政事務は、町人から任命された名主に委託されたため、名主は
町役人とも呼ばれた。名主は、小さな自治体の首長のような存在であり、
その家が役場だった。


充電をしないとただの箱になる  藤本鈴菜
 


    麻疹送り出しの図 (歌川芳藤)


江戸には、名主を長とする260程の役場があり、町奉行所による都市
行政を支えたが、名主だけで一連の行政事務を切り盛りしたのではない。
「町代」「書役」と呼ばれた事務職を雇用して膨大な事務を処理した。
そこには「人別改」といった戸籍事務も含まれており、町人たちの生活
実態はよく分かっていた。
町奉行所はこれに目を付け、役場に対象者の選定をあたらせたのである。
名主が、奉行所から該当者の調査を命じられたのは、3月17日のこと
だが、早くも翌18日より、その日稼ぎの者の名前が報告され町会所も
即座に銭を給付している。感染の有無を一々調査していては、こんなに
早く報告できなかったはずだ。もちろん、給付もかなり遅れただろう。


逆らわず笑顔をひとつ置いてくる  前田咲二



  麻疹全快御目見え口上 (月岡芳年)


この時は、3月18日~29日のわずか12日間で給付が完了しており、
1日あたり2万人以上に給付した計算だ。それだけ江戸の自治システム
が、高度なレベルに達していたことが確認できる。
このスピード感ある給付により、江戸の社会不安は鎮静化する。
こうした迅速な対策により、インフルエンザの流行も終息していった。
それから20年後の文政4年(1821)にも、インフルエンザが再び
国内で流行し、江戸では、2月中旬から3月始めにかけて、感染者が激
増する。またしても経済が回らなくなって、社会不安が蔓延したため、
町会所は、持続化給付金の一律支給に踏み切る。一人当たりの給付額は
前回とおなじであった。対象者は前回より8千人以上多かった。
それにも関わらず、2月28日~3月4日までの7日間で、給付が完了
しており、そのスピードの速さが、何といっても際立っている。


市場から猫が咥えてきた明日  くんじろう



      麻疹退散の図 (歌川芳盛)


この後も、感染症は繰り返し江戸で流行した。
インフルエンザのほか、幕末にはコレラや麻疹が流行してパニックに陥
るが、この時も町会所が都市崩壊の事態を未然に防いだ。
例えば、安政5年(1858)のコレラ流行時には、52万3千に白米
2万4千石余りを給付している。その日稼ぎの者という枠に限定せず、
町人全員を対象としたが、この時は、備蓄米が豊富にあったことから、
銭ではなく米が支給された。町会所による給付金(米)という生活支援
策により、江戸は都市崩壊の危機を乗り切ったのだが、原資は町人から
の積立金であり「共助」に他ならない。

当時の医療水準では、感染症の流行に有効な対策が取れず、自然に流行
が終息するのを待つしか手立てがなっかった。
その点は今も同じだ。経済が回らなくなって、生活が立ち行かなくなる
町人(庶民)が多数出ると、現在のような、「給付金制度」による生活
支援で都市崩壊を防いだ点も今と同じだ、が、そのスピード感ある給付
という点では、江戸の方が、勝っていると言わざるを得ない。


かくれんぼしたい鬼ごっこもしたい  雨森茂喜

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