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川柳的逍遥 人の世の一家言
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もみ洗いですかつまみ洗いですか  前中知栄
 

 
                  孔 夫 子


「人を見るに細心なれよ」
孔夫子(孔子)が説かれてある遺訓、悉く「視、観、察」の三つを遂げ
ようとすれば勢い、探偵が人に接する時のように細かくばかりなって
しまい、甚だ面白くない。
 しかし、私としては、随分、念にも念を入れて、充分その人を観察し
た積もりでありながら、後日に至り、その人に意外の行動があるのを知
って、自らの不明を愧(は)じることがしばしばある。
人を観るという事は、実に、難中の難で、決して容易なものでは無い。
就中、その人の安んずる所を察するのが、最も困難である。
困難ではあるが、人の真相を知ろうとすれば、何よりも最も注意して、
その人の安んずる所を、察するのに力を致さねばならぬものである。
その安んずる部を知りさへすれば、九分九厘までは、その人の全貌を知り
得る事になる。


疲れたら千年杉の声を聞く  望月 弘
 
 
「青天を衝け」栄一語る、維新時代の人物像


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「徳川慶喜」               草薙 剛
慶喜公は、一種変つた心持を持つて居られたお方で、自分で自分を守る
処をチヤンと守つて居りさへすれば、世間が何と謂おうが、他人が何と
非難をしようが、そんな事には、一向頓着せられなかつたものである。
これが、「恭順の真意」を、幕軍の者どもへ打ち明けて御話しにならず、
突然、大阪から船で江戸へ廻られ、上野に籠つて恭順の意を表せられる
に至つた所以だろうと思う。慶喜公は、世間が如何に誤解しても、
「知る人は知つてくれるから」と、いふ態度に出られる方であつた。


血圧計低くなるまで測る人  ふじのひろし


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「西郷隆盛」               博多華丸
大西郷は偽らぬ人。まづ、西郷さんの容貌から申上げると、恰幅の良い
肥つた方で、平生は、「何処まで愛嬌があるか」と思はれたほど優しい、
至つて人好きのする柔和なお顔立であつたが、ひとたび意を決せられた
時のお顔は、また、丁度、それの反対で、恰も獅子の如く、何処まで威
厳があるか測り知られぬほどのものであつた。
「恩威並び備わる」とは、西郷公のような人を謂つたものだろうと思う。
(恩威=いつくしみと、人を従える威光)


ちょうどいいブスとは私のことです  森光カナエ


維新の頃の人々の中で、知らざるを知らずとして、いささかも偽り飾る
所のなかつた英傑は誰であらうか、と申せば、矢張、西郷隆盛公である。
西郷公は決して偽り飾るといふ事のない、「知らざるを知らず」として
通した方であるが、その為、又、思慮の到らぬ人々からは、往々、誤解
されたり、真意が果して、何れの辺にあるか、理解されなかつたりした
ものである。これは一に西郷公と仰せられる方が、至つて寡言の御仁で、
結論ばかりを談られ、結論に達せられるまでの思想上の径路などに就き、
余り多く、口を開かれなかつた為であろうかとも思う。


反対の声も静かに聞いている  津田照子
 

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「大久保利通」              木場勝巳
大久保公は、西郷公江藤さんの中間にあつた人で、仁に過ぎず忍に過
ぎず、「仁半忍半」という如き傾向の方であつたが、いづれかと申せば、
仁よりも、寧ろ忍に近い方で「仁四、忍六」の塩梅であつたように思う。
「仁五忍五」であつたと申上げたいが、何というか私は、そう申上げか
ねるように思う。
大久保公に、果して「天、徳を予に生ず」の自信があつたかどうかは私
には分からないが、兎に角、大久保公は細かい処に気が付き、鋭いとこ
ろのあると同時に、又、計略のあつた人である。
(天、徳を予に生ず=天が、人に授けてくれた徳)


着流しは猫侍でございます  くんじろう


私が大久保公に、初めて御目に懸つたのは、明治4年であつたように思
うが、オランダから、万国電信同盟へ加入しないかと政府へ照会があっ
たので、その可否を決める前に、「私の意見を聞きたいから遇ひたい」
と言って来られたことがある。
当時、大蔵省の役人であつた私は、これに旨く答弁をする自信もなく、
当惑うばかりだったので、「詳細は追つて、大蔵省の改正掛に於て調査
の上、お答えする」と述べ、引き退ったものである。
後日、大隈重信侯へこの事を話すと「堂々たる大文章なんかで答へたら
飛んでも無い馬鹿を見るぞ。貴公が答えられないことぐらい、先刻承知
しながら、大久保は、これを機会に渋沢とはどんな人間か、評判だけで
は解らないから、一回、遇つて知つて置こうと、わざわざ貴公を喚んだ
のだろうよ」と、大隈侯は、笑つて大久保公のお人柄を語って居られた。


一念を通した性に悔いはない  碓井祥昭


     
「木戸孝允」
木戸孝允卿、「維新三傑」のうちでも、大久保卿とは違ひ、西郷公
も異つた所のあつた御仁で、同卿は、大久保卿や西郷隆盛公よりも文学
の趣味が深く、且つ、総て考へたり、実行に移すことが組織的であつた。
しかし、器ならざる点に於ては、大久保、西郷の二傑と異なるところが
無く、凡庸の器に非ざるを、示すに足る、大きな趣のあつたお方である。
木戸孝允公なども、仁の方に傾かれた人であるから、木戸公に若し過失
があつたとすれば、それは矢張、仁に過ぎるより来たものだろうと思う。


石段を登る一段ずつ休む  藤村タダシ


「維新三傑」
維新三傑のうちにあつても、大久保公とか木戸公とかのように計略の多
い方々は、如何しても「義に勇む」という処が少かつたように思われる。
これに反し、「計略智謀」には乏しいが、何方かと云へば、蛮勇のある
ような方は、義に勇む人々が多いものである。
明治維新の諸豪傑の中で、仁に過ぎて、その結果、過失に陥るまでの傾
向があつた御仁は、誰かといえば、西郷隆盛公などが、即ち、その人で
あろうかと思われるのである。
「明治10年の乱」が起つた事なども、畢竟、西郷公が部下や自分を頼
って来る者に対して、余りにも、仁に過ぎた所、と言わざるを得ない。
西郷公は、飽くまで、他人に対するに、仁を以て接せられた方で、遂に
一身をも、同志の仲間に犠牲として与へられたので、遂に、彼の10年
の乱を見る始末となつたのである。


場ちがいへそそくさ帰ることにする  山本昌乃


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「岩倉具視」               山内圭哉
岩倉具視公は、京都の公卿には、珍らしい策の持った方で、三条実美公
が朝廷を長州へ結び付けることに骨を折られていた一方で、朝廷を薩州
へ結び付けることに骨を折り、薩州の志士と往来したり、又、これより
先き、孝明天皇の皇妹・和宮様を徳川将軍家茂の御台所として御降嫁を
請い「公武合体」を策したりしたお方である。
岩倉公に果して「天、徳を予に生ず」の自信があつたか何うかは知らな
いが、公も「征韓論」のことから、明治7年1月14日、高知県人・
市熊吉以下5名の刺客に、赤坂喰違いで危うく刺されようとしたことが
ある。維新前後にも猶、刺客に窺はれたのは、しばしばあつたとの事だ。


悪がきのままじいちゃんになりはった  片岡加代


※ 勝安房守も刺客には、しばしば狙われたのだが、勝伯は、刺客に襲
われても、危険を顧みず、堂々として面会したとの事である。
勝伯に「天、徳を予に生ず」との自信があつたか何うかは知らないが、
岩倉公にしろ、勝伯にしろ、兎角、策のある人が要路に立つと生命を狙
われる傾向にあるようだ…。


ポルシェなど要らぬもうすぐ霊柩車  新家完司


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「勝海舟」                遠藤憲一
勝伯は達識の方で、凡庸の器でなかつたには相違ないが、大久保、西郷、
木戸の三傑に比べれば、いづれかといえば、器には近いが、器までには、
行かなかつたように思う。
大政奉還後、徳川家は、静岡に居て七十万石を天朝から賜はっていた頃、
榎本武揚の函館戦争の頃で、神田の錦町に静岡藩の役所があつたので、
私が仏蘭西から帰朝してから、しばしば、勝伯とは会っていたのである。

当時、徳川家朝敵名義で懲罰にならずに済み、静岡一藩を賜はるよう
になったのも、つまるところ、勝伯の力であった。
又、勝伯を殺そうとするものが、幕臣の中に数多くあるにも拘らず、
何れも、勝伯の気力に圧せられて、近づくことも能わぬなどと、伯の評
判は、実に、嘖々として喧しいもので、私も亦、当時は些か自ら気力の
あることを、恃みにしていた頃だから、気力を以て鳴る勝伯とは、好ん
で会つていた次第である。
然し、当時の私と勝伯とは、全然段違ひで、私は勝伯から小僧のように
眼下に見られ、「民部公子の仏蘭西引揚には、栗本のような解らぬ人間
が居つたんで、さぞ困つたろう、然し、お前の力で幸い体面を傷つけず、
又、何の不都合もなく首尾よく引揚げられて結構なことであつた」
などと賞められなんかした。


手の内を見せる私の秘策の秘  青木敏子


       
「大隈重信」               大倉孝二
世間には好んで他人の言を聞く人と、他人の言には、一切、耳を傾けず、
自分一人でばかり喋って、他人に聞かせる人との二種類がある。
明治中央政府における大隈重信侯の場合は、他人の言を聞くというより、
他人に自分の言を聞かせる、のを、主とする御仁であった。
とにかく、こちらの談話の終るまで、黙つて聴いて居られず、中途から
横道に談話を引き込んで、聞かせようとされる癖がある。
 それでも件の談話に取りかかる前に、予め、注意を致して、聴いて下
さるよう御頼みして置けば、聞かせるばかりにならず、聞いてもらえ
ることの出来るようになる、のである。


も足も出ずに機を待つだんご虫  荒井加寿


ただ、大隈侯に就て、感心させられるところは、あの通り、他人に聞か
せるばかりで、容易に他人の談話を聞かうとされぬ割に、他人がチヨイ
〳〵と話したことを、存外よく記憶して居られることである。
 ついでに言えば、大隈伯は、すこぶいる楽観的で、何ごとに対しても、
その弊(害)を考えられず、その社会に及ぼす効益のみを挙げて、
悦ばれる傾向がある。


お笑い届けますアツアツ届けます  田口和代


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「五代友厚」              ディーン・フジオカ
私の知つて居る維新ころの人で、「仁か佞(ねい)」か一寸判断に苦
しまねばならなかつたお方は、五代友厚氏である。
(佞=こびへつらうこと 仁=他人に対する親愛の情あること)
五代氏は、なかなか目上(長上)に取り入ることの巧みな人で、大久保
利通公などへは、能く取り入つて居つたものである。
碁の相手もすれば、煎茶などもして、人触りの実に巧いものであつた。
さりとて、全くの幇間(ほうかん)に流れて、いたずらに、目上の意見
に附和雷同するのでもない。そこの呼吸が、実に妙を得て居つたもので、
同じ幇間でも、船宿の女将さんの如き幇間でなく、何となく、一物を胸
に蔵した、佞らしき処のあつた幇間である。
或は、実際に、五代氏は「佞の人」であつたかも知れない。


石段を登る一段ずつ休む  藤村タダシ


五代氏も、私が、官界を退いて身を実業界に投ずるころに、矢張り官途
に志を絶つて、実業に従事するようになったが、主として、大阪に居を
構へ働いた人である。五代氏が、官界を去ったのは、自ら期する所があ
ったためか、ひょっとして、官界に居られぬような事情になったためか、
その辺のことは、詳しく分からない。が、私が官界を退いて、実業界に
力を尽すことになると、五代氏は「渋沢は、東京でしっかり活動てくれ、
私は大阪の方で活動するから……」 などと能く申されたものである。
 いささか解り難いが、要するに、己れを晒すことなく、他人に対して、
その人を用いて自分が利そうとか、或はまた、その人に接して、自分が
快い気分になろうとか…、言うような私心を持つこと、なのだろうか?
と思う。


赤ちゃんの頃が一番もてました  秋山博志
 
 
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 「岩崎弥太郎」              中村芝翫
このお方は、多人数の共同出資によつて、事業を経営する事に反対した
人である。「多人数寄り集つて、仕事をしては、理屈ばかり多くなつて、
成績の挙がるもので無い」と、いうのが意見で、何んでも事業は、自分
一人でドシドシ運営してゆくに限るという主義であつた。
私は、「弥太郎の何んでも、自分が独りだけでやる」という主義に反対
であつたから、自然と万事に意見が合わなかつた。
明治6年に、私が官途を辞めてから、弥太郎は、私とも交際して置きた
いとの事で、松浦という人を介して、私の兜町の居宅へ訪ねて来られた
ことがある。在官中、交際した事はなかつたが、それ以来、交際するよ
うになつた。然し、根本に於て、弥太郎と私とは意見が全く違い、私は、
「合本組織」を主張し、弥太郎は、「独占主義」を常に主張し、その間
に非常な差違があつたので、ついにそれが原因で、明治12,3年以来、
確執が2人の間に生じたのである。


アナログの世界で小さくいばってる  靏田寿子


これは明治13年に私が、東京風帆船会社を設立し、三菱の反対を張っ
て見せ、明治15年には、品川弥二郎さんが、「三菱の海運界に於ける
専横を許さず」、共同運輸会社の設立に参画し、三菱会社に挑戦したか
らである。

それでも私は個人として、別に、弥太郎を嫌い、憎く思っていたわけで
はないが、善い事につけ悪るい事につけ、私の友達である益田孝、大倉
喜八郎、渋沢喜作などが猛烈な岩崎反対派で、「岩崎は、何んでも利益
を自分一人で壟断しようとするから怪しからん」と、意気巻き騒ぎ立て、
ことごとく、弥太郎を憎んでいたものだから、私を、その仲間の棟梁で
でもあると思い違い、弥太郎は、私を非常に憎んでいたようである。
結果、明治13年以来、弥太郎が18年に52歳にしてその人生の終焉
を迎えるまで、仲直りもせず終ってしまった。


恐竜が滅びたことを忘れない   西寺桂子


                                                                      
「平岡円四郎」                                            堤 真一
平岡円四郎と云う人は、今になつて考へて見ても、実に親切な人物であ
ったつたと思う。私ども、栄一・喜作の二人が、京都に出て来た理由を
問い訊されたので、事情の始終を隠し包む処なく物語ると、平岡さんは、
両人が一揆を起そうとして果さず、出京したことも既に知って居られて、
その事は、早や幕府の方にも探知され、両人が果して、「平岡の家来な
るか否か」を、その筋より一橋家に問合せに来て居る事情までも話して
呉れたのである。


生きる知恵手塚漫画に教えられ  前中一晃

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