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川柳的逍遥 人の世の一家言
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普通でええ賢のうてもええねんで  柴本ばっは
 

 
   論語と算盤とシルクハットと刀の絵」小山正太郎画  渋沢史料館蔵


「車馬衣軽裘」
孔子と弟子の顔淵子路の雑談。(「車馬衣軽裘」)
「どうだ、自分のありたい姿(志)を聞かせてくれるか」
と、孔子が仰った。すると子路が、
「馬や車、衣服や毛皮といったものを友と共有し、譬え、それが破れて
 も、惜しむことがない人間でありたいと思います」
と答えた。顔淵は、
「善い行いをしてもそれを誇らず、人に嫌がる仕事を押し付けない人間
 でありたいと思います。」
と答えた。そして子路が
「出来ましたら、先生の志もお聞かせください」
と、言った。孔子がそれに応えて仰った。
「ご年配の方々には、安心してもらえるように、友人からは、信頼され
 るように、若い人からは、慕われるような人間でありたいね」


無口なので賢い人と誤解され  喜多川やとみ


「青天を衝け」 栄一語る、維新時代の人物像

 
ーーーー
「渋沢喜作」
喜作と私との関係は「車馬衣軽裘」(しゃばいきゅう)を共にし、之を
やぶつて憾み無しの間柄で、喜作には、私も数回に亘つて、随分、迷惑
を懸けられたものだ。それでも、喜一の三男・横浜商店の当主・渋沢義
と私との間が、実の親子のようであつて、私も義一を子のように思い、
義一もまた私を実の父のように思い、無上の親密を維持して居られるの
は、及ばずながら、私に、「車馬衣軽裘之を朋友と共にすれば、仮令敝
(やぶ)れても憾(うらみ)無し」という、志があつたからなのだろう。


縁あって同じ苗字で半世紀  津田照子


喜作は、私よりも二歳の年長者であつた。何事につけ喜作とは、幼年の
頃より、二人揃って行ったものだが、性質は大いに異にした。
私は何事にも、一歩一歩着実にやるのに反し、喜作は、一足飛びに志を
達しようとする投機的気分があつた。さらに、他人を凌ごうとする気性
もあつたので、私をさへ凌ごうとする気風を、示したものである。
元来、喜作は、投機心の盛んな男であるから、遂に米相場に手を出して
大失敗をし、明治14年に、十数万円の大損失を招いたことがある。
その際、私は喜作の保証人にもなつて居たものだから、その借金を私が
引受けて、損失を弁済整理してやつたことがあり、以後、喜作は米相場
に一切、手を出さずに、米は現物の委托販売のみとし、専ら生糸のみを
取扱ふ事を条件にしたのである。


縞馬の群れにカピバラが混ざる  藤本鈴菜


その整理をしてやつてから、3、4年は、喜作も神妙に慎んでいたが、
持って生れた投機心は、中々止まず、明治18年頃より、ドル相場に手
を出したのである。
ドル相場とは、当時、株式会社というものが殆ど無く、株券も無かった
から、株の相場というものもなかった。
代りに明治10年の「西南戦争」で、政府が紙幣の乱発を行つて以来、
貨幣と紙幣との間に、価格の差が生じ、その差に変動があり、又、金銀
貨の間に、比価の変動もあつたりしたので、銀塊の相場が行われた。
喜作は、凝りもせずそれに手を出したのである。
車馬衣軽裘=馬や車、衣服や毛皮といったものを友と共有し、たとえそ
れが破れても惜しむことがない人間のこと。


壁を越えてもまた壁に阻まれる  成田智子


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    井上馨                  福士誠治
「井上馨」
井上侯は、優れた才識のあるお方で、権勢と金力とのあるところを見て、
これに就く事にかけては、誠に敏捷であつた。

が、人物を鑑別する力に於ては、余り優れたお方であつたとは、申上げ
かねるように思える。随つて、陸奥伯の交わられた人や用いられた人は、
必ずしも、善良誠実の人ばかりであつたようにも思へない。

井上侯は、元来が感情家である。
人物の識別に当つては、感情に駆られ、是非善悪正邪の鑑別をしないで、
好きだと、一度思い込んだら、その人に悪い性質のあるなしを考えずに、
盲目になってしまい勝ちに思われるが、決して、そんなことの無かつた
お方である。人を用いるにおいても、先ず、その人物の是非善悪正邪を
識別することに努め、それから後に、始めて、用うるべき人を用いたお
方である。随て「佞人を仁者」であると思い違えて、これを重用する等
の事も無かつた。


人間を好きになるのが難しい  佐藤正昭


違ったところでは、井上公は、大臣までされた大人物なのにかかわらず、
半面には、大の料理通で、中々、精しく殊に、単なる料理通ではなく、
御自身で庖丁を取つて、料理をされるのだから本物である。
私も時々、招待されて井上公の料理の御馳走になつた。
こういう時には、よく料理の事を説明され「旨いだろう」と、言はれる。
よく判らないこともあるけれども、「結構なものです」と、言って私は
賞めておくことにしている。
若し、「不味い」などと言い、御機嫌を悪くしてもいけないからだが―
しかし、なんといつても、御自慢なさる丈あつて上手なものである。
私も幼年時代に能くお給仕に出て、料理はどんなものかくらいは知って
いたが、井上公のは、御自分で料理されるものだから、それには及ぶも
のではなかった。


流されているんじゃないよ流れてる  佐藤 瞳
 

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   伊藤博文               山崎育三郎
「伊藤博文」
伊藤博文公は自慢の人である。
敏にして学を好むと、いう事は、大抵の人の難しとする処である。人は
兎に角、敏捷な才智を持って居れば、学問を疎かにして、勉強などしな
いように成り勝ちである。然し、時偶、千人に一人は、生れついて敏捷
な天品を持ちながら、なお学に勤め励むものがある。
そんな人が、一世に優れて後世にまでも名を遺す大人物になるのである。
又、自分が高位高官にあるとか、或は、社会で高い地位にあれば、人は
兎に角、自分より低い位置の者に、減り下って、教えを請うというよう
なことは出来ないもの。これを為し得る人が、一代に傑出してその名を、
後昆(こうこん)に垂る大人物となるのである。


背伸びしてみても凡人は凡人  柴田桂子


「下問を恥ぢぬ」とは、平たくいへば「知らぬ事は、誰にでも聞く」と、
いふ意味である。
「知らない事は誰かに聞く。自分はそんな事など、恥かしくも何んとも
 ない」と、よく人は言うが、それは口の端ばかりの事で、さて、実際
に臨んで、「虚心坦懐に、知らざるを知らず」として、位置の低い人に、
下つて聞くことは、容易にはできない。大抵の人は、知らざるを知らず
として、教えを他人から受けたとすれば、之によつて自分の位置が引き
下げられたかのように感ずるのである。


胸底に流せぬ借りが一つある  靏田寿子


伊藤公は、あれほどの豪い方であらせられたが、矢張、下問を恥ぢずと
いふまでの心情になつて居らなかつたものである。
否、伊藤公は何事に於ても、常に、自分が一番偉い、という者になって
居りたかつた人である。
総じて長州人は、薩州人に比べれば、人触りは穏当である。
伊藤公も決して、人触りの悪いお方ではない。至極穏当な御仁である。
が、それでも横合から他人が出て来て、伊藤公の知らない事を、お知ら
せしようとでもすれば、「そんな事は遠の昔から知つてるぞ」と言うよ
うな態度に出られた。何事につけ、自分が一番偉く、自分が一番物知り
でなければ、気が済まなかつた性質があった。


太陽がどこよりでかいボクの里   松本壽賀子


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   江藤新平              増田修一朗
「江藤新平」
兎に角、人間といふものは、如何に学問があつても、之を統ぶるに礼を
以てしなければ、遂には、道にも畔き、終を全うし得ざる人になつてし
まうものである。
学問ばかりあつて、能く物を知つていても、礼を弁へなかつた為に身を
亡すことになった人の例は、「佐賀の乱」を起した江藤新平さんである。
江藤さんは、実に何でも能く物を識つておられた方なのだが、刑名学の
学者であつたからなのか、礼のことなどには、一向頓着無く、如何に他
人が迷惑をしようが一切拘はず、矢鱈、自分の無理を通そうとした人で
ある。ともかく好んで三百理屈を捏ねくり廻したりなんかもしたものだ。
遂に、あんな最後を遂げられたのも、之が原因であろうと思う。


碁盤目を斜め斜めに選っていく  前中一晃


  
   三条実美           岩倉具視      山内圭哉
「三条実美と岩倉具視」
三条実美公は、外面の柔和円満に似ず、内面には、硬骨なところのあっ
たお方である。が、(計)略というものは全く無かつた。
岩倉具視公は、三条公と違つて、中々、(計)略に富んだ人であつた。
明治維新の鴻業を成就するにあたり、表面に立って主宰されたのは三条
公である。が、実際には、維新の鴻業を大成し、王政復古の政を施くに
最も力を尽くされたのは、岩倉公である。


てっぺんと底辺すこし違うだけ  新家完司


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   土方歳三              町田啓太
「近藤勇」
幕府の末路に勇名を轟かした新撰組の近藤勇は、今でも一般から「暴虎
馮河(ぼうこひょうが)の士」であったかの如く視られているが、世間
で想ふような、無鉄砲な男ではなかつた。
私より僅かに5,6歳ばかりの年長者に過ぎないが、維新の頃は5つか
6つ齢が上だと、余ほどの年寄りであるかのように考へられていた。
近藤は、武州多摩郡の生れで、幕末に幕府が勇士を募つた時に、同郷の
・土方歳三と共に、これに応じて「新徴組」という壮士の団体に加わ
った。文久3年の春、14代将軍・家茂公が朝廷の詔により、上洛せら
れた際には、扈従(こしょう)して、京都に入り、新徴組が解散すると
自ら隊長となつて新撰組を組織し、以来、京都守護職に属して、京都の
警衛に任じたのである。


悪い流れ断ち切る為の句読点  広瀬勝博
 
 
私は二度ほど近藤に遇つて話をしたことがある。
私は這的事件があつてから後に、近藤勇と始めて会つたが、会つて見る
と、存外穏当な人物で、毫も暴虎馮河の趣きなんかなく、能く事の理の
解る人であつた。然し、近藤は飽くまで薩摩を嫌った人で、薩州人とは、
「倶に天を戴かざる」の概念を示していたものだから、薩州人に対して
だけは、過激な態度を取ったりしたので、一見、暴虎馮河の士のように、
世間から誤解されることになったのである。
倶に天を戴かざる=憎しみしか持てない相手
 

右手には刀左手にはりんご  和田洋子



だが、新撰組の隊長としての近藤勇は、中々の猛者であつた。
新選組の人数は、たかだか二百人足らずだったが、長脇差を差込み手拭
を腰に挟んでいるといったような蛮勇の連中が、幕府に直属してそれを
束ねていたのだから、余程の猛者でなければつとまらない。
いわば、頭山満氏の率いておった玄洋社の壮士が、警視庁の直属になっ
たも同じようなもので、新撰組が幕末に、勢力を揮つたのは当然で、又、
為に能く、京都警護の任をも尽し得たのである。
頭山満=右翼・玄洋社の総帥



よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも魂は東の君やまもらむ  近藤勇


動かねば闇にへだつや花と水  沖田総司

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