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川柳的逍遥 人の世の一家言
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自分史に便利な消せるボールペン  掛川徹明



        徳川吉宗の葬儀が行われた上野東叡山


徳川吉宗大岡越前守との関係は<切っても切れぬ…>ものであった。
越前守が千九百二十石の旗本から一万石の大名格となったのは、吉宗の
引き立てによるもので、越前は、吉宗のその抜擢にこたえ、片腕ともな
って職務に精励したのである。また、越前は吉宗政治を支えると同時に、

町火消の創設、小石川養生所の設立、サツマイモの栽培普及など、江戸
庶民の生活に深く関わる政を行い、白洲のお裁きの中では、遠島や追放
刑を制限、囚人の待遇改善に取り組み、咎人への残酷な拷問を取りやめ、
時効の制度を設け、連座制を廃止したりと、画期的な改革を推進した。



  江戸の町奉行・大岡忠相


 晩年には、大岡越前は、町奉行から奏者番へ転じ、寺社奉行を兼務した。
 奏者番という役職は、専ら、武家に関する典儀を司るのだが、大岡越前
の場合は、大御所の吉宗と将軍・家重との間に立ち、種々の重要な案件
や意見の疎通を図り、老中・若年寄への進言を行ったというから、名実
ともに幕府の重臣となっていたのである。吉宗の越前守への信頼は、絶
大なものであった。
 
 
エンドロールの先に流れている銀河  赤松ますみ


「徳山五兵衛」 将軍吉宗に見初められた男ー⑩



           江戸の絵巻①



「大御所、本所に御放鷹(ごほうよう)あり、西尾隠岐守忠尚陪遊して
 鴨を得たり」
寛延4年(1747)の春、徳山五兵衛が、小田原で尾張九衛門を捕え、
現地において取り調べを行っているころ、大御所・徳川吉宗は久しぶり
で、本所へ狩りに赴いている。一時は、健康を損ねていた吉宗が、元気
を取り戻したことになる。しかし、死は着実に吉宗へ迫っていた。
まもなく吉宗の病気が再発し、五兵衛が江戸へ戻って間もなく、<大御
所の御病気は、非常に重い>との声が、五兵衛の耳へも入ってくるよう
になった。そして、ついに6月19日に至って、吉宗は危篤に落ち入り、
翌20日の朝、68歳の生涯を閉じた。


もうすぐの真冬がそっと置いてある  中野六助


大御所・吉宗の葬送は、閏6月10日(7月10日)に行われた。
江戸城から、上野東叡山の幽宮へ向う葬送の列に、名奉行と謳われた
岡越前守忠相も加わっている。このとき大岡越前守は、町奉行から寺社
奉行に転じていたが、ことさら吉宗の恩顧を受けていた越前守は、自ら
の病患が重く、顔面蒼白となりながらも威儀を正し、粛然として、最後
のお役目をつとめた。75歳の大岡越前守は、このとき、結核症状が全
身におよび、腹部からの出血もひどかったらしい。越前守は10月に至
って寺社奉行を辞し、12月19日に病没している。


でかしたと節くれだった指が言う  藤村タダシ



             江戸の絵巻②


吉宗葬送の当日、徳山五兵衛は盗賊改方の与力・同心をひきい、葬列が
すすむ前後を、密かに警備することを命じられている。吉宗の葬送が終
わってのち、本所の屋敷へ戻って来た五兵衛は、小沼治作に、
「これにて、われらの世は終わったようなものじゃ」
しみじみと、そう言った。
<わしが…このわしが、この手で、あの大御所様の御頭を、打ち叩いた
ことがあろうとは、世の人の夢にも思うまい>
小沼治作にも、このことだけは洩らしていない。
吉宗にしても、あのとき、五兵衛の姿を見てはいるが、布で隠した面体
は見られていない。一時、<もしや、御存知では…>と、思うことがな
いではなかった。
<初めて、本所見廻り方>を務めていたころのことだ。
しかし、
<今にして思うと、やはりお気づきではなかったようじゃ>
あれやこれ、将軍吉宗を偲ぶ五兵衛であった。


8のつく日今日はハライソ詰め放題  吉川幸子


翌年の正月になって、五兵衛は、老中の堀田相模守から呼び出された。
<ようやくに、お役目から解き放たれるらしい> と思った。
何といっても63歳になってしまい、昨年の小田原や奥州・川俣への出
張が躰にこたえている。
「小沼、これにてようやく肩の荷が下りそうじゃ」
「ようござりました」
小沼治作も、主人の解任を疑わぬようだ。
五兵衛の活躍で、このところ江戸市中も平穏であった。
58歳になった奥の勢以も、
「これよりは、ゆるりとお過ごしなされますよう」
と言ったほどである。


自由にはなった不自由にもなった  谷口 義



             江戸の絵巻③


ところが、堀田老中の許へ出頭してみると、「盗賊改方解任」のことで
はなかった。老中・堀田相模守が徳山五兵衛
「つつしんで、拝領いたすように」
と言って、手渡されたものは、一振の脇差であった。大御所吉宗が
「われ亡き後に、内々にて徳山秀栄へ…」
形見として下げ渡されたのである。
<大御所様は、わしのことを、お忘れではなかった…>
年齢をとった所為もあってか、五兵衛は帰邸してから、感涙に咽んだ。
「内々に…」
という一言が、特別の親密さが籠められているように思われてならない。


すくっても掬ってもおぼろ月夜  市井美春


五兵衛は帰邸した折に
「やはり、御解任にて…?」
問いかける小沼治作や、柴田勝四郎へ、
「何の、そのようなことがあろうか」
きっぱりと答えて、奥へ入っていったものだから
「はて…?」
小沼と柴田用人は、不審気に顔を見合わせた。
大御所の吉宗が、一人の幕臣へ形見分けをしたのだから、これが公式の
場であれば、<非常なこと>である。
だが、吉宗は、<内々のこと>として配慮されたのである。
「五兵衛よ。余とそのほうとの間には、余人には申せぬ秘密の出来事が、
いろいろあったのう」
吉宗の声が、冥府から聞こえてくるような、そんな気がした。


サイコロの転がる先の花言葉  みつ木もも花



             江戸の絵巻④

五兵衛は、吉宗の形見の脇差について、家族や家来たちにも洩らさなか
ったが、長男の次郎右衛門頼屋へのみ、打ち明けている。
「大御所様が、わざわざ、かように父のことを御心にかけらるるは、父
もそれだけの働きをしているからじゃ…」
五兵衛は、醒めやらぬ興奮をおさえながら、誇らしげに倅に語った。
五兵衛が言いたかったことは、将軍・吉宗から受けた徳山家にとっての
名誉を代々の後継へ伝え、<名を汚さぬよう、お役に務めよ>というこ
とであった。


結び目をほどくとそうか そうなんだ  山本昌乃


吉宗の葬送が終わると、五兵衛は、ふたたび火付盗賊改方の役職に精励
しはじめた。
「殿様は、近ごろ若やいでまいられたような」
76歳の用人、柴田勝四郎が倅の平太郎へ洩らしたように、その後も、
五兵衛は、数件の盗賊一味を捕縛するという活躍をみせている。
その柴田勝四郎は、依然矍鑠(かくしゃく)として用人を務めていたが、
ついに、この年、宝暦2年(1752)の11月5日に心の臓の発作に
よって急死をとげた。
柴田勝四郎の葬儀も済み、間もなく、宝暦2年の年も暮れた。大御所・
吉宗もこの前年に死去した。これまでの、五兵衛に関わっていたという
よりも、五兵衛の人生を<つくりあげてくれた、とも言うべき人びとが
つぎつぎに消え去り、いまは、勢以小沼治作のみになってしまった。


年ごとの変化やっぱり老化だね  安土理恵
  
 

             江戸の絵巻⑤

 
かくて、また、新しい年が明けた。宝暦3年である。
徳山五兵衛64歳。妻の勢以は59歳。小沼治作は74歳になった。
小沼は、以前と少しもかわるところがない。柴田勝四郎が死んだときも、
その亡骸に向って、
「御用人、いずれ近きうちに、そちらへまいりまするぞ」
などと語りかけたときの、小沼の老眼には、むしろ明るい微笑が漂って
いたほどなのだ。邸内の道場へ出て、徳山家の家来や盗賊改め方の与力
同心たちと共に、剣術の稽古に励む日常も変わらない。
<元気じゃのう> 五兵衛が呆れ顔になるのも、当然で、今でも短時間
の稽古なら、70を超えた小沼へ、打ち込める者はいないのである。


素粒子のことは知らぬが支障なし  新家完司



             江戸の絵巻⑥


<小沼は独身ゆえに、あのように健やかなのであろうか…>
<ああ、わしは、小沼よりも先に死ぬるにちがいない>
ある日、小沼治作が、居室に籠り、若い頃より間があれば、描き続けて
きた念願の絵巻に、没頭する五兵衛
「たまさかには、道場へお越しくださりませ」
躰を動かさないことに不満気に言ってきた。
「愚かなことを申せ」
「何が、愚かでござります」
「余命幾ばくもないというに、小太刀を揮って、汗をかいたところで、
 どうなるのじゃ」
「殿も、随分とお変わりなされましたな」
「何とでも申せ」
「あれほど、剣の道に御執心であられましたのに…」
「今は、絵筆に執心しているのじゃ」
「御勝手になされませ」
小沼も75歳となり、五兵衛に対してすっかり遠慮がなくなって、喜怒
哀楽の表情を露骨にする。


優柔不断をずばっと斬ってやろう  福尾圭司


「殿…」
「何じゃ」
「殿が剣をお捨てなされては、小沼寂しゅうございます」
「のう小沼、その方もわしも剣術は三度の飯より好きであった」
「なればこそ、私は…」
「まあ聞くがよい。よいか、小沼。今のわしには絵を描く楽しみがある。
 65にもなった老人の余生は、もはや残り僅かじゃ。
 わしは到底、その方の歳までは生きられまい」
「何を仰せられますする」
「さよう…」
言って、五兵衛は、両目を閉じ右手の指を一つ二つと折りながら
「さよう、あと4、5年の寿命ではあるまいか」
「殿、お躰に、何ぞ変わったことでも…」
「おもうてもみよ、65歳の老人に剣術が相応しいか、
 または絵筆がふさわしいか。その答えを改めて申すまでもあるまい」
五兵衛に優しく言われて、小沼治作は、
「恐れ入りましてございます」
そこへ、ひれ伏してしまった。


平凡という風呂敷の心地好さ  藤本鈴菜



           江戸の絵巻⑦


徳山五兵衛が江戸へ出奔していた期間は別にして、片時も離れずに付き
添って来ただけに、小沼治作は、心安だてに家来の身分を忘れることが、そ
れをまた五兵衛は、一度も咎めたことがなかった。
そのことに小沼は、いま思い及んだのだった。
「まことにもって、不躾なることを申し上げました。
 わが身分をわきまえず、まことに私めは…」
小沼の声は、震えていた。
「まあ、よいわ。わしはその方を…」
五兵衛は小さく苦笑を浮かべて、
「家来とは、思わぬ」
と言った。思わぬ言葉に小沼は、
「何と、仰せられまする」
「そのほうと呼ぶのも、今日から止めにいたそう」
「………?」


鏡の中に他人のような私  ふじのひろし


「小沼、今のわしは、おぬしを、わが友と思うている」
「と、殿…」
「おぬしが道場で一同に稽古をつけているときの、元気な気合声は、
 この居間にいてもわしの耳にはいっておるのじゃ」
「お、恐れ入り…」
「おぬしの気合声を耳にしながら…まだ、小沼治作が健やかにしていて
 くれる。わしの死に水を取ってもらえると思えば、何とも言えぬ安ら
 かな気持ちにもなってまいるのじゃ」
たまりかねて、小沼は男泣きに泣き出した。
この日から後、小沼治作は、五兵衛の耳へ剣術のことを、一言も入れぬ
ようになった。いつの間にか、夏が去り、秋風が立つと病気ではないが、
五兵衛は、日中も書見の間で、うつらうつらと一日を過ごすことが多く
なった。絵筆をとる気分にならないときもある。


リバーシブル今日のあなたに合わせます  津田照子



            江戸の絵巻⑧


宝暦6年の年も、あと半月ほどで終わろうというある日の午後、暖かい
日和ゆえ、居間の縁側へ毛氈を敷きのべ、五兵衛は、半切に軽く墨竹を
描いていた。60を超え、お役御免の身となった自分に、絵を描く楽し
みが残されていたことを、五兵衛は<ありがたい>ことだと思っている。
さて、手本もなしに、墨竹を描き終えた五兵衛が、縁側へ立ち上がり、
奥庭の木の間から落ちかかる日の輝きに、眼を細めたとき、突然、眩暈
をおぼえた。
ぐらりとよろめいたことは覚えているが、後は、おぼえていない。
気がつくと、五兵衛は庭へ落ちていた。さいわい誰にも見られなかった
らしい。<醜態じゃ>と思いながら<もはやわしもいかぬか> と呼吸
を整えつつ、寂寥感を感じた。
1年ほど前から、自分の躰が急に衰え始めたことを自覚している。
それでいて、医師に診せようとは思わなかった。


散り際を模索している影法師  細見さちこ
 
 

そして宝暦6年の年が明けた。徳山五兵衛67歳である。
絵巻はほぼ完成した。<これでよし、これでよし。いつ、死ぬる日が来
てもかまわぬ。さあ、いつにても来い>の思いを、五兵衛は胸に畳んだ。
この年の夏の暑さも相当なものであったが、五兵衛は無事に乗り切った。
ところが、秋風がたち染めて、間もなくの或朝、目覚めて半身を起こし
た途端、またしても激しい眩暈が五兵衛を襲った。
<あっ…>おもわず、低く叫び、五兵衛は、突っ伏してしまった。


ヘソの尾か竜巻なのか暴れだす  田口和代


目覚めると横に医師の遊佐良元が脈をとっている。妻の勢以もいる。
長男の次郎右衛門がいる。小沼治作も家来たちも、五兵衛の床へ集まっ
てきていた。
それから1ヵ月ほどして、五兵衛は、床をはらった。
いったんは衰えた食欲も出てきたし、血色も見違えるほどよくなった。
医師の遊佐良元も
「もはや、大丈夫…」
と受け合ってくれた。
床上げの日の午後に、小沼治作が居間へやって来て、
「御本懐、おめでとうござりまする」
神妙な顔で祝を述べたとき、五兵衛はくすりと笑い
「小沼、心にもないことを申すな。おぬしには、よう分かっているはず
 ではないか。なれど、たしかに気分はようなったわ。良元殿の手当て
が効いたのであろう」
小沼は黙って頷いている。


神さまの目配せスルーしてしまう  美馬りゅうこ



            江戸の絵巻⑨
 
 
「のう、小沼、蝋燭の灯が尽きようとする直前には、最後の炎をあげ、
 一瞬、ぱっと燃えさかるとか…いまのわしがそれじゃ…。
 これより、残り少なくなった明け暮れを、神や仏が楽ませてくれるの
 であろうか…」
時代は、9代将軍・家重の世になって、大きく移り変わろうとしている。
五兵衛次郎右衛門に、こう言った。
「これからは大変な世の中になろう。おぬしが気の毒じゃ。何事につけ、
せせこましく、息苦しく生きていかねばならない。こころしておけ
もはや、今の五兵衛秀栄には、時勢の変転に、心をくばっている時間も
ない。そして五兵衛は、ぷっつりと絵筆を捨てた。
そして毎日、居間に座り込み、奥庭を眺めては瞑想にふけり、夜に入る
と書見の間に引きこもり、かの絵巻をながめることが日課となった。


サイコロの転がる先の花言葉  みつ木もも花
 
 
この年が暮れ、また新しい年が明けた。宝暦7年である。
新年を迎えた五兵衛の体調は良好であった。
春がすぎ、梅雨の季節となったので、医師の遊佐良元は3日に1度、
かならず来邸して診察をおこなった。
梅雨の季節も元気に迎え、良元も<これならば大丈夫>と太鼓判をおす。
夏が来た。依然、五兵衛は食欲もあるし、血色もよかった。
体調が、少しおかしくなったのは、秋も入口にある8月10日(今の9
月22日)である。
目覚めのときに眩暈を感じ、三日感覚ほどで、その症状が続いた。
そして8月18日となった。
午後になって、勢以が持ってきた土産のカステーラを二片ほど食べたが、
間もなく気分が悪くなり、吐いた。


ダリのヒゲああ永遠は無いと知る   齊藤由紀子


おどろく勢以
「なに大丈夫じゃ。少し眠ろう」
五兵衛は寝所に入り、身を横たえ、半刻(1時間)ほど眠ったようだが、
突然、激しい頭痛に目覚めた。躰中の力という力が、すべて消え去った
ようで、頭痛は依然として激しい。
次郎右衛門夫妻をはじめ、家来たちが次の間へ入って来ようとしたが、
五兵衛は、勢以に、「居間には誰も入らぬように」と命じ、
書見の間にある、鍵をかけた手文庫を持ってこさせ、
「わしが、息絶えるまでに焼き捨てよ」
と申しつけた。
手文庫には、合間合間に五兵衛が、描きためた秘密の絵巻が入っている。
それを残して<死ぬるわけにはいかない>のだ。


目にしみる涙は遠き日のために  奥山節子
 

 
   歌沢節 横ぐしお富

女江戸中期には多くの侍・市民は習い事をした。
男たちが女師匠に歌沢節
の稽古を受けているのもその一巻である。
歌沢節とは、江戸時代後期に端唄から派生した歌曲。
五兵衛が、趣味とした絵画も、遊蕩時代に習い覚えたものだったようだ。



次郎衛門柴田用人も、小沼治作さえも遠ざけた五兵衛は、家来2人を
呼び入れ、奥庭に面した寝所の障子をあけさせ、庭の土を掘り、そこへ
薪を組み、手文庫を放り込み、「急ぎ、燃やせ」と命じた。
夕闇が淡く漂う奥庭の一隅の穴から、紅蓮の火炎が燃え上がるさまを遠
くから見ていた家来や侍女たちは、<いったい何事が?>と息を呑んだ。
手文庫が完全に灰となるのを見届けてから五兵衛は、ぐったりと臥床に
横たわり、
「皆みなを呼ぶがよい。別れを告げたい」
と言った。


墓石の蜥蜴そろそろ旅支度  くんじろう
 
 
  <こうなる前に、わしの手であの絵巻と櫛の始末をいたしたかったが……
ついに、いまこの時まで、未練を残してしもうた。なれどこれでよい>
土気色にかわった五兵衛の顔には、安堵と放心の色が浮かびあがった。
遊佐良元が駈けつけてきたのはこのときである。
次郎右衛門夫妻や孫たち、分家から小左衛門貞明。小沼治作や用人・
柴田平太郎も五兵衛の枕頭へ集まって来た。
「勢以…これへ…。長年、苦労であったのう」
「いま一度…いま一度、四十余年前に戻って、初めより、やり直しとう
ございました」
五兵衛の耳元へ、涙声で、ささやいた。


こわれかけのレコードのよう子守歌  森光カナエ



          武士の葬儀


次郎右衛門小左衛門が顔を寄せると、
「次郎衛門、小左衛門。正道を踏み外したはならぬぞ」
と父親らしい一言をあたえ、小沼治作が、
「私めも、間もなく…」
ささやくと、両眼を閉じた五兵衛が、
「待っているぞよ」
頷いたが、すぐに昏睡状態となり、夜に入り息絶えた。
ときに、徳山五兵衛秀栄、68歳であった。

小沼治作は、翌年の2月10日に死んだ。五兵衛を追ったとも…)
食を絶ったともいわれ、または、前日まで変わりなく暮らしていたのが、
翌朝となって眠ったまま、息絶えているのを発見されたともいう。
いずれにせよ、五兵衛亡きあと張り合いをなくした小沼は、魂の抜けた
亡骸同様だったという。

 
かぎろひの旅の終わりは彼岸花  内田真理子

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