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川柳的逍遥 人の世の一家言
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終わる旅はじまる旅の影絵かな  前田扶巳代



小枝橋にて激突する幕府軍と新政府軍。
 幕府陸軍の日の丸と桑名藩の九曜紋。


右側に薩摩藩の旗  右下に長州藩の旗 。


「青天を衝け」 帰国それから


「振武軍」「東征軍」の攻撃を受けて壊滅した翌日にあたる慶応4年
(1868)5月24日、新政府は、懸案だった徳川家への処分を公表
する。その処分内容とは、
慶喜の水戸での謹慎・隠居を受けて、徳川宗家の16代目を継いでいた
田安徳川家の亀之助(徳川家達)に、駿府城と駿河・遠江国70万石を
与えるというものだった。ここに「静岡藩」が誕生する。
だが、徳川家からすると江戸城は取り上げられた上に、それまでの身上
からすると大減封を強いられるものだった。天領とも称された徳川家の
所領は400万石である。旗本に与えた所領を含めれば、約800万石
にも達するとされた。駿河・遠江70万石への移封とは、10分の1以
下の大減封である。5月15日、一日も要さずに、彰義隊を壊滅させた
ことで徳川家は完全に牙を抜かれた格好である。徳川家は、この処分を
甘受したが、徳川家家臣にとっては、転落への始まりであった。


腹切る時はゴボ天で一文字  井上一筒
 


 
箱館五稜郭の戦い (幕府、新政府、最後の戦争)

5月、新政府が決定した徳川家への処置は、駿河・遠江70万石への減封
というものであった。これにより、約3万人の幕臣を養うことは困難と
なり、多くの幕臣が路頭に迷うことを憂いた海軍副総裁の榎本武揚は、
蝦夷地に旧幕臣を移住させ、北方の開拓にあたらせようと画策した。
 
旗本が約6千人、御家人が2万6千人で、幕臣の数は優に3万人を超え
ていたが、70万石の大名が抱えることが出来る可能な数は、5千人と
見積もられた。徳川家は2万人以上のリストラせざるを得ず、同年6月、
家臣に対して3つの選択肢を提示した。

① 新政府に出仕する。
② 徳川家にお暇願いを出し、新たに農業や商売を始める。
③ 無禄覚悟で徳川家達とともに静岡に移住する。
藩としては、①か②の新しい自活の道を探ってほしいとの願望があった
が、無禄でも静岡藩氏であることを望むものが多く、5千人をはるかに
超えるものだった。(『静岡県史』)


その中の一葉は踏絵かも知れぬ  笠嶋恵美子


 そして8月9日、徳川家達は、江戸改め、東京を出発して静岡に向かう。
入れ替わるように、9月20日、明治天皇一行が京都を出発して、東京
に向かう。10月13日に天皇一行は、江戸城改め、東京城に入城した。
以後、東京城は、皇居と定められ、11月3日には、慶応から明治へと
元号が変えられた。


分かった振りするしかない地動説  三宅保州
 


家康、江戸を建築する
以後、江戸は260年続いた。


一方、篤太夫昭武一行は、新政府から帰国命令を受け、慶応4年9月
4日、マルセイユ港でベリューズ号に乗り、フランスに別れを告げた。
そしてベリューズ号が香港・上海に寄港してのち、横浜港に入ったのは、
明治に改号された11月3日のことである。11年と10ヶ月ぶりの日本
だった。
篤太夫は、上陸して横浜にいた友人に函館の様子を尋ねた。が、なんと
成一郎が、榎本武揚艦隊に身を投じて、函館へ向かったという。大いに
失望した篤太夫は、成一郎に向けて書状を送った。
「そんな烏合の衆に加わっても、先は見えている。もはや、生きて会う
ことはないだろう」という趣旨であった。


手招きですぐに靡いて行く尻尾  百々寿子


昭武らと別れた篤太夫は、横浜で帰国事務に忙殺されるが、11月7日
には、東京へ向かう。東京では、日本不在中の様々な出来事を知る至る。
見るもの聞くもの、すべたが不愉快であった。ヨーロッパ諸国を歴訪し
たものの、フランスでの留学は中止となり、満足に学ぶことも出来ずに
帰国を強いられた。帰国すると、親友たちの多くが、命を落としたか、
離散したかのどちらかであることを知った。有為転変の世の中であると
嘆息せざるを得なかったのである。


引っ張ればずるずる解けるクモの糸  宮井いずみ


中でも、兄貴分だった尾高長七郎の死は痛恨の極みであった。この年に
ようやく出獄したものの、4年にも及ぶ牢内の生活は長七郎の体を蝕み、
情緒不安定に陥っていた。自由の身となった後は、故郷で療養したが、
11月18日に悲運の生涯を終える篤太夫は、帰国していたが、再開
をはたすことはできなかった。長七郎は、横浜焼き討ちを主張する自分
を、必死の思いで諫めてくれた命の恩人であった。文武両道に優れた偉
丈夫が郷里に埋もれたまま、生涯を終えたのは、何とも痛ましいことだ
った。それも幕府が倒れて新時代が到来した年なのにである。


葬式と墓のCM目立ちすぎ   村上玄也



栄一の血洗島村の実家


篤太夫は、文久3年(1863)冬に故郷を出て以来、領主安部家との
関係がこじれたこともあって、帰郷を躊躇していたが、もうほとぼりも
覚めたことで、血洗島村に帰郷しようと考えていた。篤太夫は、帰郷の
予定を知らせる書状を実家に送ったが、父・市郎右衛門のほうから上京
してきた。当時、篤太夫は、神田明神下に住んでいたが、11月23日
に、神田向柳原町で武具問屋を営む横浜焼き討ち計画以来の友人である
梅田慎之助から、父・市郎右衛門が来ている、と報せが届いたのである。
篤太夫は、父と6年ぶりに対面する。市郎右衛門は、息子の無事な姿を
喜ぶとともに、亡国の遺臣となった篤太夫に身の振り方について尋ねた。
「お前は、これからどうするつもりなのか」と。


型崩れしてもでっかい父の背な  高東八千代


勘当を申し出た時に言われた言葉と同じ切り出しだ。それに答えて。
『今から函館へいって脱走の兵に加わる望みもなければ、また新政府に
媚びを呈して仕官の途を求める意念もありません。せめてこれから駿河
へ移住して、前将軍家が御隠棲の傍らにて、生涯を送ろうかと考えます。
それとても、彼の無禄移住といって、その実は静岡藩の哀憐を乞い願う
旧旗本連の真似は必ず致しませぬ。何か生計の途を得て、その業に安ん
じて余所ながら旧君の御前途を見奉ろうという一心である』と、言った。
                         (『雨夜譚』)


跳んでみて年相応の水溜り  下林正夫



静岡城

篤太夫は、新政府に仕える気はなかった。幕臣の大半が選択した静岡藩
氏への道を選ぶつもりもなかった。静岡に移住して、新たに農業や商売
を始める決意だった。静岡藩の禄を食まず、あくまでも自活するという
もので、静岡に移住すると決めたのは、恩寵を受けた慶喜様の行く末を、
近くで見守りたいという信念からだった。静岡に行けば何か仕事がある
かもしれない。何もすることがなければ、農業をするまでのことと割り
切っていた。


言い訳が済むまで生きることにする    いわさき楊子


27日、篤太夫の父・市郎右衛門は、血洗島村に戻る為東京を離れたが、
篤太夫が帰郷したのは、12月1日夜のことである。篤太夫が帰ってき
たのを知ると、親戚縁者や知り合いが次々と集まり、篤太夫は、久々に
我が子を胸に抱き、悲喜こもごものことを千代や母、尾高惇忠ら皆と朝
まで語り明かした。こうした久方ぶりの故郷を堪能すると、7日朝、家
族たちの見送りを受けて、血洗島村を出立した。この後、篤太夫は、東
京で残務整理したのち、慶喜のいる静岡に向かった。


ふるさとは僕の漬け物石である  岩崎雪洲  

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後戻り出来ぬ思いのひとり言  靏田寿子
 
 
 
上野戦争
徳川家の菩提寺・寛永寺に集まった彰義隊は、大村益次郎の作戦により、
わずか一日で壊滅した。
 
 
「青天を衝け」 彰義隊


「篤太夫がフランスへ出発する直前、友へ」
篤太夫は、渡仏の前に会っておきたい者がいた。
文久3年(1863)に血洗島村をともに出た渋沢成一郎である。
従兄弟である以上に、死生ををともにしようと約束した友人だった。
『自分は幸に、この命を受けたから誠に幸運だが、それについても貴契
の身上が思い遣られる。…中略…それにしても、ただ末路に不体裁な事
がないようにしたい。僕は海外に居り、貴契は御国に居て、その居所は
隔絶することになったが、この末路に関しては、共に能く注意して、恥
ずかしからぬ挙動をして、いかにも有志の丈夫らしく、死ぬべき時には
死恥を残さぬようにしたいものだ』と決別した。(『雨夜譚』ゟ)


百均の雑巾掛けの拭き残し  中岡千代美


フランスに向かう篤太夫にとり、心残りは、国内に残る成一郎のことだ。
最初は幕府を倒すため、故郷を出たはずだったが、運命のいたずらか、
その幕府に仕えることになった。
しかし、幕府の命運は尽きており、長くはもたないだろう。「互いに亡
国の臣となることは、覚悟しなければならないが、恥ずかしくない行動
をとり、死後に恥じだけは残さないようにしたいものだ」と述べ、篤太
夫は成一郎に別れを告げた。篤太夫は、3歳年上の成一郎のことを非常
に心配していたが、「これが現実のもの」となる。


2人分作ってしまう さみしいね  北原照子


「彰義隊・頭取・渋沢成一郎」
慶応3年(1867)2月11日、徳川慶喜が寛永寺の一室に謹慎した
前日のことである。
「慶喜公は尊王のために誠忠を尽くし、去年冬には、大政を朝廷に奉還
された。しかるに、奸徒どもの策謀に堕ちて、朝敵に転落したことは切
歯に耐えない。君辱められれば臣死する時である。一致団結して多年の
御恩に報いるのはこの時だ。ついては百般ご相談申し上げたくお集まり
いただいた」
慶喜の汚名をそそぐ意をもって、江戸郊外の鬼子母神の門前茶屋「茗荷
屋」に陸軍付調役並の本多敏三郎や同役の伴門五郎たちが、この「廻状」
の呼びかけに応じて集まった。この呼びかけに応じて集まった者たちが
「彰義隊」の始まりだった。


遠眼鏡虹の向こうを追いかける  藤村タダシ


この最初の集りには17人の参加だったが、三回目の集まりには、渋沢
成一郎天野八郎も参加した。当時、成一郎は奥祐筆格に昇格していた。
奥祐筆とは、幕府の機密書類を預かる重職であり、慶喜の信頼の厚さが
わかる人事だ。まさに慶喜側近の1人になっていた。成一郎は、慶喜の
後を追いかける形で、江戸に戻るが、本多たちの強い要請を受け、21
日の会合に参加したのである。当初、成一郎は渋っていたものの、江戸
に出てきていた尾高惇忠の勧めもあって参加を決めた。


しっかりと踵下ろして見る視線  津田照子


ーーーーーー
天野八郎             天野の恰好よすぎる錦絵


一方、天野八郎は、群馬県南牧村の名主・大井田家に生まれ、幼名を
井田林太郎といった。江戸に出て、学問や剣術に勤しんだが、慶応元年
に与力・広浜利喜之進の養子となって八郎と名乗り、幕臣となる。幕臣
といっても、その出自は多種多様だが、三河譜代の旗本などは、新参者
の幕臣に好感を持ち得なかったことは想像がつく。幕末には武士の身分
を買い、農民から武士になる裕福な農家もあったのだ。こうした「にわ
か幕臣」にすぎない者たちが、慶喜を奉じて「彰義隊結成」のレールを
敷いたのである。


決心のついた玉子を裏返す  下戸松子


3回目の会合に成一郎が参加したことで、同志の結集には弾みがついた。
初回からみて4倍に増えた同志は、次回の会合の参加者はかなり増える
とみて、本多たちは場所を浅草本願寺に変更する。実際、さらに2倍の
130名にまで増えた。この日、会合名が「尊王恭順有志会」と名付け
られる。尊王の志が厚い慶喜が、恭順の意を示していることを踏まえた
名称であったが、隊の名前も付けることにした。そして試行錯誤の結果、
「彰義隊」と決まる。頭取、副頭取、幹事も決まる。成一郎が頭取に、
天野八郎が副頭取におされた。彰義隊は「同盟哀訴申合書」を作成して
徳川家に提出したが、こうした一連の幕臣たちの間で広まったことで、
彰義隊への参加者が急速に増え、たちまち千人ほどに達した。


止まぬ激論びっくり水を注いでやる  柳川平太
 
 
 
東叡山文珠楼焼打之図(横浜市歴史博物館)

 慶応4年2月に結成された彰義隊は、5月15日に2千名程が上野の山
にたてこもり、約2万の薩長連合軍と戦った。朝から昼過ぎまで砲撃を
受け、その砲声は、江戸市中にとどろいたといわれる。

 
彰義隊が寛永寺に移ってきたのは、4月3日のことである。当所に謹慎
する慶喜にとり、その存在はあまり好ましいものではなかった。
当時、境内には、徳川家の指示を受けて、護衛の幕臣たちが、多数駐屯
していた。護衛の幕臣の数は、千5百から千6百。境内が広大とはいえ、
彰義隊が寛永寺に移ることで、慶喜護衛の幕臣たちとトラブルが起きる
恐れがあった。彰義隊が徳川家の命を受けて駐屯したわけではなかった
からだ。


その辺に私の声が落ちている  高田佳代子


「成一郎が晩年に語ったところによれば」
彰義隊が千人以上にも膨れ上がったことで、隊内の規律が乱れ、統制し
きれなくなったという。東征軍に反感を抱く血気盛な幕臣たちが次々と
加わり、過激な言動に及んだという。過激な言動とは、「東征軍との戦
いも辞さない」という主張だ。恭順路線を強いられた幕臣たちの不満の
表れであり、いつ暴発するかもわからなかった。江戸城開城に先立って、
東征軍の兵士が続々と江戸に進駐しており、市中は、一触即発の状況に
あった。


吠えまくる奴が一匹輪の中に  相田みちる


しかし慶喜の懸念は杞憂に終わる。4月11日、江戸城開城の日、実家
水戸藩のお預けの身となった慶喜は、粛々と水戸へ向かった。寛永寺で
護衛していた幕臣のうち500人が水戸までお供をした。彰義隊も見送
りの形で、千住まで御供したが、成一郎は、さらに松戸まで慶喜を見送
っている。15日、慶喜は水戸に到着し、藩校・弘道館での謹慎生活に
入る。

ひっそりと生きる余生の持ち時間  佐藤后子


「彰義隊分裂」
慶喜の寛永寺退去を受けて、今後どうするのかが、彰義隊の課題となる。
慶喜を守護する目的だけならば、もはや寛永寺に駐屯する理由はない。
成一郎は寛永寺を退去し、別の場所に移ることを幹部に提案した。慶喜
から「くれぐれも軽挙妄動しないように」と懇論されており、隊員が暴
発して、東征軍と戦争になるのを恐れたからだ。しかし、成一郎の江戸
退去の提案は、隊内から猛反発を買う。


その辺に私の声が落ちている  高田佳代子


成一郎への反発が強まる中、対照的に副頭取の天野が支持を集めていく。
天野は、学問も武術も秀でていたが、もともとは農民出自であるために、
武士であることに強いこだわりを持っている。義を重んじ、直情怪行な
性格の持ち主でもあった。
「男なら決して横にそれず、ただ前進あるのみ」と言って、将棋の駒の
香車を好んだという。武士であることに誇りを持つ天野にしてみると、
成一郎の言動や行動は反発せざるを得なかった。さらに、2人は慶喜
対する思い入れがまったく違っていた。ついには渋沢派の隊士は、天野
派の隊士と決別。渋沢派の隊士は寛永寺を去った。


ためらえば過去も未来も黄昏れる  平尾もも子


寛永寺を出た成一郎は、栄一の従兄弟である須永伝蔵、尾高淳忠、養子
渋沢平九郎ら、渋沢派の隊士を伴い西へ向かい、多摩郡田無村に拠点
を置いた。田無村は、江戸から5里ほどの距離にあったが、成一郎たち
が本拠を置くと、人数もおいおい集まり始める。彰義隊を抜けた隊士や
水戸藩士などで300~400人にまで増えた。成一郎は、彰義隊から
分派した部隊を「振武軍」と名付け、大寄隼人(おおきはやと)という
名で隊長となる。振武軍は、前軍、中軍、後軍の三隊から構成されたが、
中軍頭取の下で組頭を務めたのが渋沢平九郎だった。実兄でもある淳忠
榛沢新六郎と名乗り、会計頭取を務めた。


つまづいた石を布石に立ち直る  高矢芳加津


振武軍は、田無村から東征軍の動静を展望することにしたが、軍資金や
兵糧が足りなくなる。そこで振武軍は、田無地域のほか、府中・日野・
拝島、所沢、扇町谷地域の村々に対し、御用の筋があるとして、田無村
西光寺への出頭を命じた。御用の筋こそ軍資金調達の要請であった。
ミニエー銃を装備した振武軍の軍事力に恐れをなした格好で、多摩郡の
村々は合わせて三千六百~三千八百両もの大金を献納する。軍資金を手
に入れた振武軍は、さらに田無村から西へ5里離れた箱根ヶ崎村へ移動
を決める。東征軍の奇襲を避ける距離を考えたものである。


運も又運次第だと運が言う  下林正夫



彰義隊の戦い①
右端下、戦の様子を見る天野八郎



一方、天野率いる彰義隊への参加者は、最盛期には2千人とも3千人に
とも膨れ上がった。譜代大名の家臣たちも加勢した。
越後高田藩の「神木隊」若狭小浜藩「浩気隊」などである。彼らは新政
府に帰順した主家に反発し、脱藩して馳せ参じてきた面々だった。徳川
家内部の抵抗勢力が彰義隊として結集し、有栖川を戴く東征大総督府が
入城した江戸城に、東から威圧をかける形であった。


風の音なのか大地が軋むのか  新家完司



彰義隊の戦い②
 
 
危機感を強めた新政府は兵力不足に悩みながらも、彰義隊の武力鎮圧を
決意する。その勢いで、徳川家への過酷な処分を公表することも決める。
5月15日朝、東征軍は寛永寺に籠る彰義隊に総攻撃を開始。午前中の
戦況は一進一退だったが、午後に入り、佐賀藩砲兵隊が最大な射程を持
つアームストロング砲で、寛永寺の堂社の数々を焼き討ちにすると、彰
義隊は浮足立つ。これを機に形勢は一気に東征軍に傾き、勝敗は決した。
上野戦争ともいう彰義隊の戦いは、一日もかからず終わった。


ひとりずつこの世を抜ける喪の知らせ  梶原邦夫



彰義隊の戦い③
 
 
振武軍に「彰義隊開戦」の一報が入ったのは、その日の夜のことである。
開戦の折には、別動隊として東征軍との戦いに参戦するつもりで、振武
軍は、彰義隊の助勢に向かったが、朝も明けるころ、高円寺村まできた
ところで、彰義隊の敗北を知る。振武軍は、そのまま引き揚げてきた田
無村には、敗走した彰義隊の残兵が続々と集まってきた。今となっては、
破れかぶれで江戸に突入しても仕方がなかった。成一郎は箱根ヶ崎から
2里ほど北に位置する一橋家の領地があった飯能村へ転陣し、能仁寺に
本営を構え、ほか四ヶ寺に兵士を駐屯させ、追撃にくるだろう東征軍を
迎え撃つことにした。


百鬼夜行見張りの役はろくろ首  前中一晃


一方、彰義隊の戦いの前から振武軍の動向をキャッチしていた東征軍は、
彰義隊の残敵掃蕩もかねて、討伐軍を派遣することを決める。振武軍は、
東征軍の一隊が迫ることを知り、迎え撃つため出陣、両軍は同日夕方、
入間川で小競り合いが始まった。そして、飯能を戦場とした振武軍は、
彰義隊を破ったばかりで勢いに乗る東征軍のもはや敵ではない。
数時間の激戦の末、振武軍は、東征軍の前に敗れる。


雑草に残る轍の後を追い  宇都宮かずこ


勝敗が決すると、生き残った振武軍の面々は、血路を開き、戦場を次々
と脱出していく。成一郎淳忠は北に向かう。上野国まで落ち延び、伊
香保や草津に潜んだ。その後、淳忠は故郷へ戻るが、成一郎は榎本武揚
率いる徳川家の軍艦に乗って蝦夷地へ向かう。翌明治2年(1869)
まで、新政府への抗戦を続けた後、みずから軍門に降り、東京へと護送
された。


災の字を思う見たくない忘れない  市井美春
 


振武軍のイケメン・渋沢平九郎


 「渋沢平九郎の最期」
さて、篤太夫のもう一人の従兄弟、平九郎である。
飯能での乱戦の中、平九郎は成一郎惇忠とはぐれ、山中に逃げ、越生
(おごせ)の境にある顔振峠(こうぶうりとうげ)に辿りついた。
峠の茶屋の女主人は、すぐに平九郎が、旧幕府軍の隊士であると見抜き、
新政府軍の目の届かない秩父へ抜ける道を教えた。それなら農民に変装
して落ち延びようと、平九郎は、大刀を茶屋の女主人に預け、何か考え
があってのことなのか、茶屋の女主人に、逃げ道を指南されたものの…
平九郎は別の道、越生方面へと下りていった。


道しるべ判別できず赤トンボ  山本早苗
 


越生にて激闘する平九郎。
中央の平九郎、広島の斥候と刀を交わすも銃弾に倒れる。
 
 
越生町黒山村に下った平九郎は、新政府方の広島藩・神機隊四番小隊の
藤田高之一隊の斥候と遭遇する。平九郎は、腰に一本だけ手挟んでいた
脇差で斬り結ぶことになった。敵方3人に小刀で応戦し、1人の腕を切
り落し、1人にも傷を負わせたが、右肩を斬られ、足には銃弾を受けた。
平九郎の気魄に恐れをなした斥候隊の一人が、仲間を呼び戻ってくると、
平九郎は川岸の岩に座して、観念の自刃を遂げていた。東征軍の兵士た
ちは、すでにこと切れている平九郎に向けて、銃を乱射した後、その首
を刀で打ち落としたという。5月23日午後4時だった。
首は越生の法恩寺門前に晒され、その後、境内裏の林の中に埋められた。
 その後、遺骸は黒山村・全洞院に葬られる。享年22歳だった。



全洞院黒山・平九郎の墓参に訪れた渋沢家一家
 明治7年年12月、渋沢平九郎の骸は、法恩寺に埋葬されていた首と
ともに、東京谷中の渋沢家墓地に改葬されて、栄一は2度参っている。
 
 
四季おりの便りは枯れ葉にてかしこ  山本昌乃

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文明にさらして吊るして腐らせて  山口ろっぱ




飯田町中坂九段・火付盗賊改の役宅があった周辺図


長谷川平蔵は、寛政7年4月、とつぜん病に倒れた。病気が何かは不明
だが、病勢は日ごとに重くなった。このことは将軍家斉の耳にも達し、
5月6日に、将軍家秘蔵の高貴薬・「乩瓊玉膏」(けいぎょくこう)が届
けられた。しかし、快方に向かうことなく、4日後の5月10日に死去
した。
平蔵の死があまりに急であったために、長谷川家では、家督継承を無事
にすませるため、その死を秘匿し、5月14日になって「大病に相成り
候につき御加役御免」を願い出た。16日に辞職が聞き届けられるとと
もに、永年の勤続に対して、金3枚と時服二領が下賜された。
嫡男の辰蔵宣義が父の「死亡届」を若年寄・京極高久に差し出したのは
5月20日で、その届には、「寛政七年五月十九日病死」とあった。
 

 枯れ蓮の侘びは輪廻を知っている  美馬りゅうこ
 
 
平蔵の死を受けて、その一年後の寛政8年6月に「火付盗賊改」の役に
付いたのが、森山源五郎孝盛である。この森山は、平蔵のことが嫌いの
ようで、何かあると悪口を吹聴し、自著『蜑の焼藻』(あまのたくも)
に平蔵の悪口を書きのこしている。
『(長谷川平蔵は)八年が間、さまざまの奇計をめぐらしたるにより、
世上にては、口々に長谷川がことを批判したりけり。元来、御制禁の目
明・岡引というものを専ら使いたるゆえに、差し掛かりたる大盗・強盗
なんどは、忽ち召し捕って手柄を顕わあしたれども、世上は却って穏や
かならず。大火も年々絶えずけり…中略…然るに翁(森山自身)思いよ
らず、捜捕の職を命ぜられければ、つくづくと考うるに…』と、。


煎餅が薄くなったと奈良の鹿  嶋田捨一



役人は奉行所から両国橋を渡り八丁堀へ通った
長さ94間(約170m)、幅4間(約7m)



「両国橋・納涼」 広重

千人が手を欄干やはしすずみ  其角
このあたり目に見ゆるものみなすずし  芭蕉



「京橋 広重」

 
 この橋の袂から八丁堀がのぞめる。


  「火付盗賊改」 森山孝盛の肝っ玉


長谷川平蔵ののち、対照的な2人の先手頭が相次いで「火付盗賊改」
なった。森山源五郎孝盛、次いで池田雅次郎政貞である。
平蔵と森山・池田の3人は、いずれも10代将軍・家治のお目見をはた
し、田沼意次から松平定信へ移った両政権下で、番方の役人として役目
を競い合って昇進してきた。
平蔵と森山の家禄は、ほぼ同じ400石。ただし家祖の活躍からすると
長谷川家が格上であった。森山家は甲斐武田氏の家来であったが、武田
勝頼の死後に家康に臣従した。この家格の差は、旗本の子息が最初につ
く役目に直結する。平蔵のスタートが書院番士であったのに対し、森山
は大蕃士であり、その後の出世・昇進のコースとスピードで差が広がる。


鰓呼吸はじめました夕まぐれ  酒井かがり


平蔵の出世がずば抜けて早いのは、父の平蔵宣雄の余慶で、松平武元
田沼意次という2人の有力な老中の信任が厚かったせいである。森山も
全盛期の田沼意次の屋敷へ熱心に挨拶に伺っているが、いっこうに要職
にめぐまれなかった。松平定信が老中になってから、ようやく芽が出た
のである。そして、普通ならば、隠居してもいい58歳という高齢で、
しかも平蔵の後任として「火付盗賊改」に就任したのである。


手招きですぐに靡いて行く尻尾  百々寿子


『寛政7年5月、加役つとめ居たりし長谷川平蔵重病にかかりて、危う
かりければ、翁(森山自身)を召して捜捕の役を命じられぬ。彼長谷川、
小ざかしき性質にて、8年の間、加役勤めるうち、さまざまの計をめぐ
らしけり…森山がいう平蔵の「小賢しい』とは、何のことを言うのか。
『火事現場に、長谷川平蔵組の高張提灯が、いち早く掲げられたのを、
「愚かなるものの目には、はた長谷川の出馬せらたると、驚き思わせる
ためなり』…、『奸計だ』と、言うのである。
しかし、混乱と雑踏の火事場に火盗改めの提灯を立て、同心が見張って
いれば、犯罪や事故の防止になる、のだが。


啄木鳥の巣に不都合をひとつ置く  くんじろう


さらに平蔵は、自分が刑死させた罪人については、寺に墓塔をたてて菩
提を弔ったり、また、路上に物乞いに銭をめぐんだりもしたが、このこ
とも森山の目には、「小賢しい奸計」と映って、悪口を浴びせている。
森山は、そんな風に勘ぐる肝っ玉の小さい、性格の人物であった


つぶやきは第2犬歯に絡ませて  井上一筒
 



森山孝盛の日記


森山孝盛「火付盗賊改」として盗賊・火付けなどの凶悪犯と対決したり、
市中に屯する無宿者の取り締まりを、率先して行うタイプではなかった。
和歌を京都の冷泉家に学び、自ら歌人・和学者としてふるまい、日記も含
め大量の著述を遺した。松平定信は、森山が武人というより、文人肌のと
ころを評価して抜擢したのである。森山は、平蔵を書くとき、平常心を失
って過激に非難してしまい、そのため独りよがりの自慢と自己弁護を書き
連ねることになる。


切れ味の鈍いナイフがよく馴染む  成田智子


森山平蔵が世間から批判されていたように書いているが、一部の幕臣
の間では平蔵の批判はあっても、「世上」では、むしろ逆の評価をされ
ていた。平蔵の悪評を「よしの冊子」に表した定信の側近・水野為永
さえ『殊に町方にでも一統相服し、本所辺りにては、将来は本所の御町
奉行になられそうな、どうぞしたい』と、町人から町奉行への就任が期
待されるほど、人望があったことを伝えている。一方、為永は森山孝盛
については『いずれ一体根生むずかしき男のよし』と、根性が曲がって
いる男といっており、旗本屋敷の隣人間で、トラブルメーカーであると
書いている。


完璧のはずへまさかの平手打ち  西尾芙紗子


森山が老中に上申した「御仕置伺い」は18件あるが、彼が行ったこと
で重要なのは、犯罪の取り締まりや、犯人の捕縛・裁判よりも、後任の
ために火盗改めの職務内容を書きまとめたり、職務上備えるべき物品を
リストアップした「控帳」を整理・記録したことである。火付盗賊改の
役宅内に設ける仮牢や白洲の仕様も、書き残している。
こうした記録がこれまでなかったので、自分は現場の仕事に取り掛かれ
なかったと、前任者の平蔵への非難も忘れずに書いている。
(因みに、平蔵の「御仕置伺い」は8年間で201件)


鏡を見ない一日だった独り部屋  瀬川瑞紀



日本橋の賑わいの様子

日本橋はこの混雑を利用して、盗人が大きな顔をして、入り込み
また仕事を終えて逃亡を助ける、大都会の玄関口なのである。


森山は寛政8年6月、1年で役替えになったが、これが余程悔しかった
ようで、自分に取って代わった後任の塩入利恭(しおいりとしのり)を
老中・戸田氏教のコネで火盗改めになった『大兵にて無芸無学」(大男
の大バカ)と口をきわめて、罵詈を浴びせている。その塩入は、7ヶ月
後に病死し、後任になったのが池田雅次郎である。


木枯らしがこの一年を問うてくる  靏田寿子

拍手[4回]

ピース缶開けたらベルが鳴り響く  酒井かがり
 


幡随院長兵衛を襲う旗奴。旗本奴の傾奇者で初代福山藩主・水野勝成
の孫である水野成之は大小神祇組を束ねた。


「火付盗賊改」 中山勘解由 & 八百屋お七


明暦3年(1657)「明暦の大火」は、江戸の町が、火事とそのさな
かに跳梁跋扈する盗賊に、まったく無防備であることを露呈した。
幕府は火事に対しては、翌年の万治元年、4代将軍・家綱のとき旗本4
人に火消し役を命じて「定火消」を設けた。「町火消」が組織されるの
はさらに60年後、8代将軍・吉宗のときである。


あれこれと出来ない儘の走馬灯  西陣五朗


一方、「強盗・放火」といった凶悪犯罪に対しては、既にある南北の町
奉行所だけでは手に負えないことが明らかとなり、寛文5年(1665)
「盗賊改」が新設された。放火犯を取り締まる「火付改」「盗賊改」
に加えて置かれたのは「盗賊改」から18年後、明暦の大火からは26
年も過ぎた、天和元年(1683)1月である。


今生のまだ染み抜きが終わらない  清水すみれ



 捕縛の図 撃ちこみ 寄せ棒 鉤縄
 
 
「中山勘解由」
このころ江戸では、押込み強盗の前後に放火する凶悪な犯行が頻発した。
「町奉行所」「盗賊改」が取り締まったが、犯行に追いつけない状態
で、ついに、放火を取り締まる専任の役職を設けることになった。
最初の「火付改」には3千石の旗本、先手筒頭の中山勘解由直守が命じ
られた。徳川綱吉が5代将軍になって2年後である。これによって江戸
の治安警備体制は南北の町奉行、盗賊改、それに火付改の4人となった。
本来ならば総合に連携し合って、江戸の平安を実現するところなのだが、
中山勘解由は独り突出して取り締まりを行い、江戸庶民だけでなく武士
にも恐れられた。


ゴマ塩がそれぞれ歌うローレライ  井上一筒


中山勘解由は、仏心の篤い男であったが、火付改を命じられると、2人
の息子を前に、「今日からは慈悲では治まらぬ!」と、父祖代々の位牌
をまつる仏壇を叩き壊したという。そして、配下の与力・同心・目明ら
総勢50人余りを様々に変装させ、江戸市中に潜行させた。いわゆる後
の鬼の平蔵の変装での町散策の先駆けである。
『中山組の与力・同心は火事場で捕えるだけでなく、江戸中で怪しい者
とみれば捕まえ、「誤認逮捕」がおびただしい。そして尋問(拷問)が
きびしく死ぬまで攻めるゆえ、火付をしていない者も苦痛を逃れるため
「火付けした」と言い、科人でないのに処刑される者が数多いというこ
とである』(『御当代記』)


無農薬野菜食べてもいつか死ぬ  くんじろう





勘解由の詮議には、犯罪人を無理やり作りだすところがあった。しかも
見込み逮捕や誤認逮捕と拷問によるでっち上げが多く、人々は、中山勘
解由を「鬼勘解由」「鬼勘」と呼んで恐れた。中山組の与力・同心は怪
しいとみるや、町人・無宿者に限らず武士も捕えて詮議した。
普通ならば、管轄違いで、役所間の縄張り争いになるのだが、勘解由に
対しては、町奉行も勘定奉行も目付も恐れて、異議を唱える度胸はなか
ったという。このため町奉行も勘定奉行らの火付改に対する反感が鬱積
していって、中山退任後には、火付改に対する町奉行らの逆襲があって、
「火付改」は一時廃止されるのだが、のちの話である。


身のうちの角を落として春を待つ  津田照子


  
男の中の男・幡随院長兵衛       水野十郎左衛門
 
 
「勘解由、市中の旗本奴ら二百数十人を処刑」
貞享3年(1686)、勘解由「火付け改」に就いて4年目に入って
いた。綱吉の初政は「天和の治」と呼ばれる文治政治で「町奉行」には、
北条氏平甲斐庄正親という穏健な名奉行が勤め、助役の「盗賊改」
能吏の山岡十兵衛であった。
そのため、江戸の火付け、盗賊さらに傾奇者(かぶきもの)と呼ばれる
無法者の取り締まりは、勘解由がおのずと一手に引き受ける形となった。


出し抜いて四月の馬鹿という眺め  岩田多佳子


これまで旗本奴は、鶺鴒組(せきれい)・吉屋組・山手組・大小神祇組
などの徒党を組み、町奴も唐犬組・笊籬組(いかき)を組織して対抗し
ていた。勘解由の使っていた手下には、やきもち九兵衛・なんぴん四郎
右衛門といった異名もちの者がおり、江戸のあぶれ者たちの動静をぬか
りなく掴んでいた。貞享の9月、勘解由は奴連中の一斉検挙を断行した。


一発で天狗の鼻を叩き折る  池部龍一


大小神祇組は、町奴の幡随院長兵衛を殺した3千石の旗本・水野十郎左
衛門が首領だった旗本奴の徒党である。水野は22年前に切腹させられ
ていたが、徒党はまだ残っていたのである。勘解由は神祇組にかぎらず、
旗本奴、町奴をとわず、配下の与力・同心に捕縛を命じて、片っ端から
しょっ引いた。リーダー各の11人を斬罪にしたという。


胸底のドカンドカンが鳴り止まぬ  山本昌乃


家康のときから百年近く一掃できなかった傾奇者・旗本奴・町奴の首を
勘解由はポンポン斬って落としたのは、貞享3年9月。そして三か月後
に勘解由は、火付改を退任した。その10ヶ月後の7月2日、55歳で
没している。鬼より恐ろしい勘解由にして「火付盗賊改」の役職は、重
く、厳しいものであったようだ。
 その後、「盗賊改」「火付改」「博打改」の三者が合体して、正式に
「火付盗賊改」となる。先にも述べたが、八代将軍・吉宗のときである。


遺言を書いてはまたもシュレッダー  下谷憲子
 



 
(※1, 中山勘解由は容疑者をかなり厳しく取り調べ、勘解由が着任
している間は、放火の罪で処刑される人数が増加している。「海老責」
という拷問方法を考案もし、拷問を含む厳しい取調べで恐らくは冤罪も
多かったであろうと推定されている。
しかし、史実とは反対に「八百屋お七」の事件では、お七の命を何とか
救おうと努力する奉行として登場する。
狩野文庫『恋蛍夜話』では、奉行の勘解由がお七に「お前は15歳だな」
と聞き、もしもお七が「はい」と答えれば、助けられたものを、奉行の
真意が読めないお七は、正直に「いいえ」と答えてしまった。そのため
お七は定法に則り「火炙りの刑」宣告することになってしまった。

※ 馬場文耕の『近世江戸著聞集』のなかでも、お七の年齢をごまかし
助けようとする奉行・中山殿の名前が出てくる。
余談だが、勘解由とお七は、「お隣りさん」というほど、互いの家は、
近かった(歩いて5分)ことを書き加えておく。


飛び込みの下手な蛙の水の音  宇都宮かずこ


(※2 「天和の大火」で、八百屋お七が焼け出されたのは、天和2年
(1683)12月28日の火事で、勘解由が火付改を命じられる一か
月前、そして、お七が捕まったのは、2か月後の翌年3月2日で、勘解
由は火付改になったばかり。鬼と化して、放火犯を追っていたさなかで
ある。この日、勘解由が「放火の賊あまた捕えしをもって金五枚給う」
(『徳川実紀』)とあり、逮捕者の中には、お七もいた、のだろう。)


愚かさの先で待ってる蜘蛛の糸  岸井ふさゑ


(※3 幕府の公式記録には、「八百屋お七」の名はどこにもないが、
「駒込お七付け火の事、この三月の事にて二十日時分より晒されしなり」
『御当代記』と書き加えている。
また、お七の恋を仲立ちした遊び人の吉三郎(喜三郎)が3月29日に
火罪になった判決記録『御仕置裁許帳』は残っている。)


悔い残し余白残して綴ず暦  上田 仁


(※4 「八百屋お七の物語」は、恋人の名や登場人物、寺の名やスト
ーリーなど設定はさまざまで、井原西鶴『好色五人女』で八百屋お七
の物語を取り上げており、また、江戸で頻発した大火の見聞記『天和笑
委集』では、お七処刑の天和3年(1683)のわずか数年後に出され
た実録体小説としてお七事件も取り扱っている。それが、これ!と ↓ )


マッチ一本月下美人の乱れ跡  山口ろっぱ



お七と庄之助


『天和笑委集』(お七事件)
江戸は本郷森川宿の八百屋市左衛門の子は男子2人女子1人。娘お七は、
小さい頃から勉強ができ、色白の美人である。両親は、身分の高い男と
結婚させる事を望んでいた。天和2年師走28日の火事で、八百屋市左
衛門は、家を失い正仙院に避難する。正仙院には生田庄之介という17
歳の美少年がいた。庄之介は、お七を見て心ひかれ、お七の家の下女の
ゆきに文を託して、それから2人は手紙のやり取りをする。やがてゆき
の仲人によって、正月10日人々が寝静まった頃に、お七が待つ部屋に
ゆきが庄之介を案内する。ゆきは2人を引き合わせて同衾させると引き
下がった。


相聞の愛は中心まで赤い  秋田あかり


翌朝、ゆきはまだ早い時間に、眠る両親の部屋にお七をこっそり帰した
ので、この密会は誰にも知られる事はなかった。その後も2人は密会を
重ねるが、やがて正月中旬新宅ができると、お七一家は、森川宿に帰る
ことになった。お七は庄之介との別れを惜しむが、25日ついに森川宿
に帰る。帰ったあとも、ゆきを介して手紙のやり取りをし、あるとき庄
之介が忍んでくることもあったが、日がたつにつれ、お七の思いは強く
なるばかり。思い悩んでお七は病の床に就く。3月2日夜風が吹く日に
お七は古綿や反故をわらで包んで持ち出し、家の近くの商家の軒の板間
の空いたところに炭火とともに入れて、放火に及ぶが、近所の人が気が
付きすぐに火を消す。お七は放火に使った綿・反故を手に持ったままだ
ったのでその場で捕まった。


マッチ擦る十五の夜の路地裏で  河村啓子


奉行所の調べで、若く美しい、悪事などしそうにないこの娘がなぜ放火
などしようとしたのか奉行は不思議がり、やさしい言葉使いで「女の身
で誰を恨んで、どのようなわけでこのような恐ろしいことをしたのか?
正直に白状すれば、場合によっては命を助けてもよいぞ」と言うが、お
七は、庄之介に迷惑かけまいと庄之介の名前は一切出さず、「恐ろしい
男達が来て、得物を持って取り囲み、火をつけるように脅迫し、断れば
害すると言って打ちつけるので」と答える。奉行が男達の様子を細かく
尋ねると、要領の得ない話ばかりする。これでは助けることは出来ない
とお七は、鈴ヶ森刑場で火あぶりの刑が決まる。


好奇心忘れることに忙しい  美馬りゅうこ



鈴ヵ森にひかれるお七

 
お七は3月18日から、他の悪人達と共に晒し者にされるが、その衣装
は豪華な振袖で鮮やかな化粧と島田に結い上げ、蒔絵のついた玳瑁の櫛
で押えた髪で、これは多くの人目に恥ずかしくないように、せめてもと
下女と乳母が牢屋に通って整えたのだと言う。お七および一緒に死罪に
なる6人は、3月28日、やせ馬に乗せられて前後左右を役人達に取り
囲まれて鈴が森に引き立てられ、大勢の見物人が見守る中で処刑される。
大人の4人の最後は見苦しかったが、お七と少年喜三郎は、おとなしく
処刑されている。お七の家族は、縁者を頼って甲州に行きそこで農民と
なり、2人の仲が知れ渡る事になった生田庄之介は、4月13日夜にま
ぎれて旅に出て、終いには高野山の僧になっている。
(※5 「天和笑委集」柳亭種彦豊芥子などの評論などによって、
各種の作品の中では、事実に近いであろう物として評価されている。)


紫の雲に隠れた夜半の月  宇都宮かずこ
 


お七と吉三郎


『好色五人女』八百屋お七物語
元は加賀前田家の足軽だった八百屋太郎兵衛の娘お七は、類の無い美人
であった。天和元年、丸山本妙寺から出火した火事で、八百屋太郎兵衛
一家も焼け出され、小石川円乗寺に避難する。円乗寺には、継母との間
柄が悪く、実家にいられない旗本の次男で、美男の山田左兵衛が滞在し
ていた。お七と山田左兵衛は互いが気になり、人目を忍びつつも深い仲
になっていた。


愛憎のその真ん中は震度三  中島 華


焼け跡に新宅が建ち、一家は寺を引き払うが、八百屋に出入りしていた
あぶれ者で、素性の悪い吉三郎というものがお七の気持ちに気が付いて、
自分が博打に使う金銀を要求する代わりに、二人の間の手紙の仲立ちを
していた。やがて吉三郎に渡す金銀に尽きたお七に対して、吉三郎は、
「また火事で家が焼ければ左兵衛のもとに行けるぞ」とそそのかす。
吉三郎はお七に火事をおこさせて、自分は火事場泥棒をする気でいる。


火を借りて口説き文句を考える  中村幸彦


お七は火事が起きないかと願うが火事は起こらず、ついに自ら放火する
気になったお七吉三郎、「焼けるのが自分の家だけなら罪にならん、
恋の悪事は仏も許すだろう」と言い放火の仕方を教える。
風の強い日にお七は、自分の家に火をつけ、八百屋太郎兵衛夫妻は驚き
お七を連れて逃げ出す。吉三郎はこの隙にと泥棒を働くが、駆けつけて
きた火付盗賊改役の中山勘解由に捕縛された。拷問された吉三郎は、
「火を付けたのは自分では無く、八百屋太郎兵衛の娘お七だ」という。


ひだりむねの肋骨辺りから失火  清水すみれ



土井利勝


中山勘解由が、お七を召しだして尋ねると「確かに自分が火をつけた」
と自白するので牢に入れ、火あぶりにしようと老中に伺いをたてる。
そのときに幕府の賢人・土井利勝、「悲しきかな。罪人が多いのは政
治が悪いからだ」とも言い、又「放火は大罪で火あぶりにするべきだが、
か弱い娘がこのような事をする国だと朝鮮・明国に知れると日本は恐ろ
しい国だと笑われるだろう」と言い、中山勘解由に「15歳以下なら
ば罪を一段引き下げて遠島(島流し)にできるではないか。もう一度調
べよ」と命ずる。


逃げ道をそっと残して責めてやる  奥野健一郎


井大炊頭の意を汲んで勘解由は、お七が14歳だということにして牢を出
し部下に預ける。しかし、このことを聞いた吉三郎は、自分だけが処刑さ
れるのを妬み、奉行中山を糾弾する。中山は怒り吉三郎と口論するが、吉
三郎は谷中感応寺の額にお七が16歳の証拠があると言い、実際に感応寺
の額を取り寄せたら吉三郎の言うとおりだったので、中山も仕方なく天和
2年2月、吉三郎と一緒にお七を火あぶりにする。


今ならば助けてやれた深い悔い  細見さちこ


  
     井原西鶴              馬場文耕
 
 
実は古来より、お七の実説として、『天和笑委集』『近世江戸著聞集』
(馬場文耕)が、「恋のために放火し、火あぶりにされた八百屋の娘」
伝えて
いるが、実は、お七の史実はほとんどわかっていない。
お七時代の江戸幕
府の処罰の記録『御仕置裁許帳』には、西鶴の好色五人
女が書かれた貞享
3年(1686)以前の記録には、お七の名を見つける
ことができない。

「お七の年齢も放火の動機も処刑の様子も」事実として知る事はできず、
それどころか「お七の家が八百屋だったのか」すらも、それを裏付ける確
実な史料はない。真相は「闇」の中、いや「炎」のなかなのである。


千の葉の千の散り方秋深む  合田留美子

拍手[5回]

二条城の鶯張りは江戸訛り  岸井ふさゑ



『子供遊世直し祭り』 (慶応4年・作者不明)

と書かれた酒樽の横で子供が天子の菊紋の扇子を広げ踊る、その神輿
を担いでいるのは「丸に十の字紋」の薩摩と「一文字三星紋」の長州。
先頭
の衣冠束帯の子は有栖川宮。その後ろでたじろいでいるのが和宮
篤姫
オレンジの腹がけの子は、徳川慶喜という設定。


渋沢篤太夫たちがパリへ旅立った後も、引き続き徳川慶喜は、幕府の立
て直しに取り組んでいたが、長州藩の処分や兵庫開港などの問題を巡り、
薩摩藩と対立する。西郷大久保が主導権を握っていた薩摩では、慶喜
を将軍の座から引きずり下ろし、天皇をトップとする政体の樹立を目指
そうという声が日増しに大きくなった。そのためなら慶喜との武力対決
も辞さないという気運も高まる。


正直でありながら人間でいられるか  蟹口和枝



慶喜の処遇で会談する勝海舟と西郷隆盛

 
「青天を衝け」 慶喜、その後


「鳥羽・伏見の戦い~」
西郷隆盛たちは天皇による政治、つまり、王政復古の実現を唱える公家
岩倉具視とはかり、「慶喜追討」の天皇の命令書の交付を朝廷に願い
出る。慶応3年10月14日薩摩・長州藩主宛に倒幕の密勅が下ったが、
同じ14日に慶喜が「大政奉還」の上表を提出、すなわち政権を朝廷に
返上したことで、西郷たちが打倒を目指していた幕府は倒れた。24日
に慶喜は将軍職を表明し、諸侯の列に下りた。260年余、政権の頂点
にあった徳川は、一介の大名になったのである。


甘い夢すてよとドクダミの臭気  銭谷まさひろ


むろん慶喜は、転んでもただで起きるつもりはない。慶喜は幕府をみず
から消滅させるという奇策により、政局の主導権を握ろうと企んだので
ある。「長らく政権から離れている朝廷に政治は行えず、自分(慶喜)
を頼って来るだろう」という算段があったのだ。
こうした意を受けて親幕派から、慶喜を新政府のリーダとして、擁立し
ようとする動きが盛んになりつつあった。「倒幕はなったが、徳川政権
が形を変え存続しかねない」という、討幕派の思惑とは異なる事態を受
けて、西郷らは、危機感を覚え、慶喜をはじめ親幕派の会津藩を排除し
ようという計画が企てられる。


正直でありながら人間でいられるか  蟹口和枝


以後1ヶ月近く、双方は睨み合いを続けるが、翌4年1月3日、京都南
郊の「鳥羽と伏見で開戦」となる。はからずも慶喜はこの戦いに敗れて
しまい、「朝敵」に転落した。禁門の変での長州藩の立場となったのだ。
形成を展望していた諸藩は雪崩を打って、朝廷軍の旗印「錦の御旗」
掲げられ、今や官軍となった薩摩・長州藩の側に付いた。
ここに相次ぐ敗報、さらには朝敵とされたことで、慶喜は戦意を失う。
6日夜、密かに大坂城を脱出すると、海路江戸に向かった。7日、朝廷
、「慶喜追討令」を発した。


人波に漂いたいと思う今  石橋直子
 

ーーー


大坂城を脱出した慶喜が、江戸城に戻ってきたのが同4年1月12日の
ことである。それから約1ヵ月、徳川家では和戦をめぐって激烈な議論
が交わされるが、慶喜は諸般の情勢を分析した結果、新政府に反省の意
を示すことで、寛大な処置を願う恭順路線を選択する。
以後、勝海舟をして新政府との交渉にあたらせた。


如才なく凍土に埋めておきました  加納美津子



弘道館 至善堂


2月12日、慶喜は、江戸城を出て徳川家菩提寺の上野・寛永寺に入り、
子院大寺院の一室に謹慎した。身をもって恭順の姿勢を示したが、これ
に反発する幕臣は多かった。そうした反発が「彰義隊」の結成へとつな
がっていく。慶喜が寛永寺に入って1ヵ月後の3月13日、江戸の薩摩
藩高輪屋敷で総督府参謀の西郷勝海舟との会談が始まる。14日の再
会談で15日に予定されていた「江戸城総攻撃」は延期され、慶喜の助
命も決まる。4月11日、「江戸城明け渡し」が行われ、その日、慶喜
は寛永寺を出て水戸へ向かい、今度は水戸・弘道館 至善堂での謹慎生活
が始まる。


転がっていった淋しい音だった  居谷真理子


 一方、パリにいる篤太夫は、フランスの新聞記事で、慶喜が鳥羽・伏見
の戦いで敗れて、江戸城に逃げ戻ったことが書かれていたが、篤太夫は、
<虚説であろう>と言って、一向に信じなかった、と、使節団の世話役
をしていたビレット中佐が語っているが、3月16日到着の御用状には、
フランス新聞と同じことが書かれていた。この時、慶喜が朝敵になった
ことも知った。篤太夫たちが、徳川家や慶喜の有様に嘆き悲しんだのは、
言うまでもない。そして自軍への怒りも隠そうとはしなかった。


生真面目な方の自分が邪魔をする  中村幸彦


その篤太夫の悲憤慷慨は、昭武信書の名目で慶喜に送った書状でわかる。
 『殿下がさきに大坂を御立退になって関東へ御帰城になったのは実に
頼もしくない思し召しである。また、たとえ御帰東なされたとて、なぜ
速やかに兵を挙げて京都に向かう御手配はなされぬのであるか、今日の
朝廷というは、つまり薩長二藩であるから、これを討滅するにおいてさ
まで困難ということもあるまい、もし、また最初から真に<朝意を遵奉
して恭順を事とする>の思召しならば、何故、伏見下鳥羽の戦争を開か
れしや、既に先端を開いた以上は、万やむを得ざることであるから…、
いわゆる<強き者の申分は、いつも好くなるもの>というフランスの諺
に従って断行したならば、勝遂げぬということはあるまい』『雨夜譚』


スッポンに噛みついたまま9秒9  宮井元伸
 


弘道館 至善堂で謹慎中の慶喜
 

「要約」
大坂城を退いて江戸に戻ったのは、実によくないことである。大坂城を
動かずに薩長両藩と戦うべきであった。たとえ、江戸に戻ったとしても、
兵備を整えて京都へ攻めのぼるべきである。朝廷を奉じて官軍を名乗っ
ているとはいえ、薩長両藩の討滅など、さほど難しくないだろう。すで
に開戦となったのであるから、今さら恭順の姿勢など取るべきではない。
「強者の言い分はいつもよくなる」勝てば官軍)というフランスの諺
も引用し、篤太夫、「戦い抜けば勝てないはずはない」のだと、決戦
を迫った。


日本がアルカリ性に変わるまで  田久保亜蘭



弘道館至善堂二の間・三の間で謹慎する慶喜の下絵
 羽石光志が慶喜の肖像画制作のために描いた構想下絵


パリで歯噛みしていた篤太夫たちに、新政府から帰国命令が下ったのは、
3月21日のことである。慶喜が恭順の姿勢を示すため、江戸城を出て
寛永寺に入ったことを、篤太夫たちが知ったのは、4月13日である。
帰国の命令書が届いたのは、5月15日だが、慶喜の処遇が決まった旨
が記された御用状もこの日に着く。江戸城開城と引き換えに助命され、
水戸での謹慎となった。遠くから何を言っても「今は信じるしかない」
フランスの新聞記事で、17日に、慶喜が水戸へ向かったことも知る。
江戸城も明け渡された。7月15日には、江戸で彰義隊の戦いが起き、
18日には、敗北も知った。9月4日、昭武一行はフランスを離れる。
一行を乗せた船・アルフェー号が横浜港に入ったのは11月3日のこと
だが、篤太夫は、日本不在中に起きていた衝撃の事実に茫然自失となる
のであった。


にんげんをジワリ崩してゆく月日  新家完司


「慌ただしい慶応4年の出来事をまとめてみると」
慶応3年1月11日 昭武一行パリへ立つ。
10月14日 大政奉還
12月9日 王政復古
慶応4年 / 明治元年(1868)
1月03日 鳥羽・伏見の戦い
1月12日 慶喜江戸城に帰城
2月12日 慶喜、寛永寺の子院大慈院の一室で謹慎
2月15日 東征軍、京都を進発
2月23日 彰義隊誕生
3月14日 江戸城総攻撃中止(海舟、西郷会談)
4月03日 彰義隊、寛永寺に移る
4月11日 江戸城開城
4月19日 振武軍、田無村駐屯(隊長・成一郎)
5月15日 彰義隊の戦い
5月23日 振武軍、飯能で壊滅(渋沢平九郎、自刃)
5月24日 徳川家が静岡70万石に封ぜられる。
9月04日 昭武一行、帰国の途へ
9月22日 会津藩降伏
10月13日 明治天皇、東京に入る
11月03日 昭武一行、帰国
「帰国後の篤太夫の行動」
12月01日 血洗島村に帰郷
12月23日 静岡・宝台院で慶喜に拝謁
12月27日 静岡藩勘定組頭格御勝手懸りに


海側の一面 山側の三面  くんじろう

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