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川柳的逍遥 人の世の一家言
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誰ですか洗面器に顔をわすれた人  舟木しげ子



江戸名所図会 「天枢之部 湊稲荷神社」
左下・稲荷橋 その上、左中央・高橋 左上の長い橋・永代橋
中央手前が湊稲荷神社
  


       高 橋
千石船から荷を積み替えた平舟が高橋を潜る図。

亀島川にかかる「高橋」は、江戸時代に江戸城と深川を結ぶ道にかけら
れた橋で 赤穂浪士堀部安兵衛が渡ったとか。この橋が出来た当時は、
亀島川を物資の輸送で、行き来する船舶が多く、そうした船舶の運行を
支障なくするため橋桁を高くしたので「高橋」という名前がついたと伝
えられる。大型の千石船の荷は、平舟に載せ替えた後、亀島川や八丁堀
経由して、日本橋や京橋など江戸の商業中心地の蔵へ送られた。
もちろん、徳山五兵衛秀栄も江戸城勤番の折に、また伴格之助に江戸城
で会う時も、八丁堀につなぐ稲葉橋から高橋
を渡っていたものだろう。


使い古しの地図に印した僕の位置  高浜広川


 「徳山五兵衛」 将軍吉宗に見初められた男ー⑤



東海道53次・28番宿へのルート

品川   2  川崎   3  神奈川   4  保土ヶ谷   5  戸塚   6  藤沢   7  平塚  
8  大磯   9  小田原  10  箱根  11 三島  12 沼津 13  原 14  吉原 15  蒲原
16  由井 17  興津 18  江尻 19   府中  20   鞠子  21 岡部  22  藤枝 23 
嶋田  24  金谷 25  日坂  26  掛川  27  袋井  28  見附 29 浜松 30 舞阪 


 「品川宿から見附宿まで」
駿府は、かつて徳川家康の本城があったところで、家康が関東へ移り、
後に江戸幕府を興して初代将軍となってのち、一時は松平忠長の居城と
なったが、いまは、幕府が城代を置き、奉行が市政を執っている。
ということは、大盗・日本左衛門は、駿府における犯行によって、徳川
将軍と幕府をも恐れぬ姿勢を示したことにもなる。
「これは捨てておけぬ事」だと、徳山五兵衛は思った。
<それで、大御所様はこのわしを頼みにされ、かの盗賊を捕えさせよう
との思召しであったか。だが、たかが盗賊を捕えるために、2年前の自
分が引退する直前に、わざわざ「御先手組」に任じて、今日に備えたの
であろうか…それほどに慎重な配慮があるならば、何も老いた徳山五兵
衛を頼まぬとも、旗本にはいくらも人材が揃っているはずなのだ。
五兵衛は自問した。


老いること入れてなかった見積書  梶原邦夫
 

「では、この五兵衛に、件の怪盗を捕えよと、大御所様がおおせある
 のか?」
こころみに訊くと、内山弓之助
「その通りでござる」
と強く、うなずいて見せた。
「大御所様が、このお役目を、是非とも御貴台へと仰せられますまする
 には、理由がありまする」
「ほう…?」
「実は、その日本左衛門なる盗賊は、尾張家の御七里をつとめておりま
 した浜島友右衛門の倅にて、本名を浜島庄兵衛と申します」
「なに、尾張家の御七里じゃと…」
「はい」


1+1はたいがいビブラート  くんじろう
 


     七里飛脚


はっと、五兵衛の脳裏へ閃くものがあった。「御七里」とは、いわゆる
御家門大名と呼ばれた将軍の親類にあたる、大名家が設けた一種の通信
機関のようなものだ。尾張藩では、東海道に十三ヶ所の七里役所を設け、
国許の名古屋と江戸との間の、特別通信の受発の敏速をはかっている。
七里役所につとめる者は、足軽にせよ飛脚にせよ、足の速さを誇り、心
の利いた、しっかりした男でなくてはならない。
※ 彼らは、御状箱の扱いのみではなく、藩主の行列が通りかかれば、
先に立って案内もするし、藩士の旅行にも、いろいろと世話をやく。
また、担当の近辺に起った出来事については、絶えず目をひからせて、
これを藩庁へ報告しなければならない。そのため、たとえ身分は軽く
とも、この御七里を務める者は、「なかなかの威勢がある」と、五兵衛
は耳に挟んだことがある。



舌二枚これさえあれば大丈夫  楠本晃朗


日本左衛門こと浜島庄兵衛の亡父・友右衛門は、遠江・金谷の宿場の七
里役所にいた尾張家の足軽であった……そうなると、
<これは単なる盗賊一味ではない。徳川将軍へかける尾張家の恨みが、
まだ尾を引いているのであろうか>
前将軍・吉宗は、蜻蛉組や締戸番に命じ、長年にわたり、尾張家の反抗
と暗躍の実態を探り、これと闘い、密かに弾圧をおこなっている。
いまの尾張家は、完全に、将軍へ恭順の姿勢をとっているが、尾張家を
飛び出した者たちの反抗というのなら、頷けないことはない。


針はもう千本以上飲んでいる  新家完司


吉宗は、若き日の五兵衛が、京都へ上る途中で体験した事件や、尾張屋
源右衛門・佐和口忠蔵などとの関係を知っているわけではあるまいが、
何といっても五兵衛は、蜻蛉組と共に将軍暗殺を計る曲者たちを探り、
ついには、将軍の身代わりにもなった。
通常の旗本の中で、「御意簡牘」ぎょいかんとく)の所有を許され、
尾張家との秘密の事件に働いたのは、五兵衛ひとりだけだろう。
ゆえに吉宗は、日本左衛門一味の殲滅について、
「五兵衛秀栄なれば、万事、心得ていよう」
と、内山弓之助に洩らしたのである。そして吉宗は暗に
「天下を騒がせることなく…密かに始末せよ」
と、言っているのだ。


未解決のままで集めた綿ぼこり  郷田みや



     日本左衛門


内山弓之助は、日本左衛門一味が犯行の折に<押込み先の女に、乱暴を
はたらき始めるようになった>五兵衛に告げた。
これは首領の日本左衛門がするのではない。
その手下どもの何人かが暴行をはたらくらしい。
自ら「義賊」と称するだけに、押込み先で、人を殺傷することはないが、
代官所や陣屋の役人などへは、些かの容赦もなく凶刃を揮(ふる)う。
「それで、日本左衛門の面体は知れてあるのか?」
「それは、もう……」
何しろ覆面もせずに押込み、指図をしている上に、被害者を殺さないの
だから、顔も見られている。<見かけは30前後、背丈は六尺にもおよ
ぶ大男で、色白の鼻筋の通った、なかなかの美男子だ>という。さらに
<額に一寸あまりの引疵がある>、と、内山弓之助は語り終えて、
「では、わたしくしこれにて」
というところへ
「いま少し、過ごしてまいられよ。酒でも酌もうではないか」
と、徳山五兵衛が引き留めると、内山弓之助は
「は…いま一度か二度、お目にかかるかと存じます。その折にゆるりと
 馳走になります」
と、言葉をのこし帰っていった。

 
 祝膳仏壇閉じてから食べる  浦上恵子
 
 
内山弓之助の帰りを見届け小沼治作が入ってきて
「なんぞ出来いたしましたか?」
「小沼、どうじゃ、わしと共に旅に出てくれるか」
「旅に…?」
「ちょっと骨が折れる旅じゃ。この老骨には面倒なれど、出かけねば
 なるまい」
「お上の御用にて…」
「さよう、大御所様直々のお頼みらしい」
その後、半月ほども、内山弓之助からは何の連絡もなかった。
また、幕府から特別の下命があったわけでもない。
しかし徳山五兵衛は、小沼治作と共に、連日のごとく邸内の道場へ出て、
配下の与力・同心たちへ剣術の稽古をつけはじめた。


これも定めそう割り切って雲を追う  新井加寿



        品 川 宿


延享3年(1746)7月21日に、御先鉄砲頭の加役である盗賊並火
付方御改いわゆる「火付盗賊改」のお役についてから、一月と19日も
過ぎた9月9日、徳山五兵衛は、老中・堀田相模守から呼び出されて、
「遠州へおもむき、日本左衛門一味を捕えよ」
と、命じられた。
火付盗賊改方への下命は、若年寄から達せられるのが、通例なのだが、
わざわざ老中から五兵衛へ申し渡したのは、幕府も、この事件を重く
視ているからに相違ない。
五兵衛は、筆頭の磯野源右衛門以下3名の与力と、同心は堀口十次郎
以下10名を選び、ほかに小沼治作柴田用人の倅・平太郎が加わり、
五兵衛の身の回りを世話をする足軽の長井禄蔵と小者の丈助を連れて
行くことにして、18名ということになる。
さらには締戸番に所属している密偵を4人、内山弓之助がさしむけて
くれた。総勢22名となった。
 
 
包丁を研いで明日を整える  菱木 誠
 
 
翌朝、4人の密偵が先発した。午後になると与力・岩瀬半兵衛と、同心
辻駒四郎が旅装をととのえて徳山屋敷を出発した。これは、宿泊その
他のことを、打ち合わせと狂わぬようにするためであった。
その翌日には、与力1名、同心7名が、前後して江戸を離れた。
いずれも火付盗賊改方という役目は、あくまでも、隠して行動せねばな
らない。徳山五兵衛は帰国する備前岡山藩士大沢甚太夫一行というふ
れこみで、与力・磯野源右衛門に同心2名、それに小沼治作以下4人の
付き添いの者を従え、最後に江戸を離れた。延享3年9月13日である。
  
  
初期化した脳味そ連れて旅の空  杉本光代
 
 

        戸 塚 宿


徳山五兵衛は、日本左衛門追捕の隊を作り、西へ向かった。
両国橋へさしかかったとき、五兵衛が振り向き、
「小沼、大丈夫か」
「大丈夫かと仰せられますのは、何のことで…」
「いや何、今日は一気に戸塚までまいるゆえ、な」
東海道・戸塚宿は、江戸から10里半(約42㌔)、男の旅にしても、
出発第一日目の行程としてはきつい。
「何の…」
と、小沼治作は不機嫌に
ようも仰せられることよ」
 <そちらこそ 大丈夫なのか>との言葉は飲んだ。
この隊の中で最も若い柴田平太郎は、ついていくのがやっとである。
日本左衛門一味の逮捕に向う、火付盗賊改方一行の本拠は、
遠州の袋井に置くことになっている。
東海道・袋井宿は、江戸より59里余り(約232㌔)。
これを4日で到着するつもりの五兵衛であった。


順調な加齢と悟るどっこいしょ  美馬りゅうこ


「40年前に回顧して」
あの朝、戸塚の宿を出て、一里ほど行った所にある松林で、五兵衛は、
曽我の喜平治・お玉の父娘に出会った。父娘は、3人の旅姿の男たちの
脇差に囲まれ、まさに危険な状態だった。そこへ五兵衛が通り合わせて、
曲者を追い払い、父娘を救ったのだ。いま小沼治作たちを従えて、千本
松といわれる松林へさしかかると、五兵衛の足が止まった。
小沼治作が訊いた。
「いかがなされました」
「いや何、40年前のことを思い浮かべていたのじゃ」
「あ……あの折の」
「この松林で、わしは、喜平治とお玉を助けた」
40年前の、あの時、喜平治・お玉の父娘を救った五兵衛は、森の中の
百姓家へ導かれた。<道中切手もなしに<これから大阪へ行く>つもり
の五兵衛へ、喜平治は、老爺の伊之蔵を付き添わせて、小田原の手前の
酒匂川(さかわがわ)の茶店へ送り届けてくれた。あの時、お玉は15,
6歳の小娘であったから、今も生きているとすれば、54,5歳の老女
になっているはずだ。
 
 
ザリガニが一匹耳の中に棲む  井上一筒
 
 
あのとき、徳山五兵衛を案内して小田原へ向かう伊之蔵が、
「喜平治殿は、いったいどういう人なのだ?」
と、不審を抱いた五兵衛へ、
「これお頭のことは、何も訊きなさるなよ」
と、きびしく、窘めた。
そのとき、「お頭」という呼び方が、18歳の五兵衛の脳裡へ、異様な
響きをもって刻みこまれた。その後、酒匂川畔の茶店へ導かれ、老婆の
おとき、寅吉の母子に引き合わされ、さらに、小田原城下の針屋堺屋
太兵衛へ連絡をつけてもらい、太兵衛の案内で、暗夜の山越えに熱海へ
送りこまれた過程において、<徒の、お頭ではないな>感が増大した。
 
 
もやもやとしたまま畏まりました  岸井ふさゑ
  
 

    小田原宿の一駅手前・大磯宿
 
 
喜平治太兵衛が、日本左衛門につながる盗賊ではないかという疑念を
もつ五兵衛は、その夜、小田原城下の本陣・保田利左衛門方へ旅装を解
いた。針屋太兵衛については、この夜のうちに、凡そのことが分かった。
「20年ほども前になりましょうか、折角に商いも繁盛してきたという
 のに、京のほうへ引き移ってしまいましたよ」
堺屋太兵衛の店舗は、すでに城下から消えていたのである。
20年ほど前といえば……、五兵衛が将軍・吉宗の身代わりをつとめた、
あの事件の前夜ということになる。

 
 シャッター通り同じ顔して店仕舞い  竹中ゆみ
 
 
夜が更けて五兵衛は、一行を本陣の奥間へ集め、与力・磯野源右衛門へ、
「明日は箱根を越え、三島泊りのはずじゃな」
「はい。本陣・樋口伝左衛門かたにござります」
「明日、わしはちょっと寄り道をいたしてまいりたい。それゆえ一同は
先に発ち、三島にてわしの到着を待ってもらいたい」
「お供は、いかがいたしましょうか」
磯野源右衛門がいうと、五兵衛は
「足軽の長井禄蔵と小者の丈助のみでよい」
と答えた。そしてひとり残った小沼治作へ、
「酒匂川の小屋は、今もあるそうじゃ。老婆はすでに死んでいようが、
 息子の寅吉は、64,5になろうか。行ってみて確かめたい」
といった。


イエスともノーともとれる咳をする  嶋沢喜八郎
 


       小田原・酒匂川の渡し


五兵衛が足軽の長井禄蔵と小者の丈助を供に、本陣の安田利左衛門方を
出たのは昼近くになってからである。
昨日の夕暮れに、小田原城下へ入ったとき、五兵衛は、件の茶店の有無
を確かめておこうとも考えたが、<ま、急くこともあるまい>と、思い
直したのである。
酒匂川の堤にでると、川向うに見覚えのある茶店の藁屋根が目に入った。
<茶店は、いまも店を開いているではないか>
「ゆるせよ」
と聲をかけ、塗笠をとって五兵衛は、茶店へ入っていった。
「おいでなせえまし」
奥から、躰つきの逞しい男があらわれ、頭を下げた。
「いた、まさに寅吉じゃ」
寅吉は、注文の茶と団子を、五兵衛と2人の従者の前に運びおえると、
そくさくと奥へ引っ込んでいった。
40年前の、おとき婆の倅の面影を、五兵衛は老爺の顔のなかに、はっ
きりと見出していた。
 

生き様を皺の深さに漂わす  小原敏照
 
 
本陣へ戻った五兵衛は、すぐさま2人の同心を奥の間へ呼んだ。
「このたびの日本左衛門一味に関わる男、と申しても、60を越えた老
 爺
じゃが、夜に入ってから召し捕りにまいる」
驚いたのは同心よりも、同行の長井禄蔵丈助であった。
「茶店には、その老爺ひとりのみでござりましょうや」
「いや、上に誰かいたような…」
長井と丈助が顔を見合わせ、またまた驚いた。
<殿様は縁台から少しも、動くこともなさらぬというのに…
よくも上の
ことが、わかるものだ>と、思ったのである。


三つ指をついてても猫の目の動き  一階八斗醁


その夜の五つ時(午後8時)
「さて、そろそろまいろうか」
五兵衛は、樋口、横山の二同心と足軽の永井緑蔵を従え、本陣の裏口から
外へ出た。城下の商家はほとんど大戸を下してしまっている。
堤の道へ出たとき、五兵衛が同心たちへ
「相手を斬ってはならぬぞ、必ずひっ捕らえるのじゃ」
戸の前へ立った五兵衛が、長井の手から龕灯(がんどう)を受け取り
「長井、戸を蹴破れ」
と命じた。
長井は茶店の戸へ体当たりをくわせた。一度の体当たりで、戸が外れた。
五兵衛は、すぐさまがんとうを長井へわたし、
「ぬかるなよ
言うや、ずいと茶店の中へ踏み込んで行った。


落葉の季節遺言書を書かす  小林満寿夫


暗い土間から飛び出して来た人影が、
「誰だぁ!」
喚き声をあげ、五兵衛へ掴みかかった。寅吉であった。
右手に提げた樫の心張棒を揮うこともなく、五兵衛の左の拳が、寅吉の
胸下へ突きこまれた。気を失った寅吉を長井緑蔵が外へ引きずりだした。
その時、外にいた丈助が「殿様ぁ!」と、叫んだ。
中二階の雨戸を叩き外した人影が、堤の道へ飛び下りてきたのだ。
すかさず走り寄った五兵衛の足を、飛び下りて片膝をついた男が、抜き
打ちに薙ぎはらってきた。浪人風である。
跳躍してこれをかわした五兵衛が、心張棒を浪人の肩先へ打ち込んだ。
数刻、男は抵抗を試みたが、勝ち目がないことを悟った浪人は、身を転
じて逃げにかかった。
五兵衛が腰を沈め、手にした心張棒を投げつけた。
心張棒は、見事に浪人の両足にからんだ。
前のめりに浪人が転倒したところへ、五兵衛は浪人の顎を蹴りつけた。
そして、仰向けに倒れた男の胸下へ、五兵衛の拳が突き入れられた。


天国の天気予報はいつも晴れ  新家完司
 
 
 
                                  三 島 宿


翌朝、五兵衛は単身、小田原を発し箱根を越えて三島の宿駅に入った。
三島宿の本陣・樋口伝左衛門方には、先着の与力の磯野源右衛門、小沼
治作、柴田平太郎の三名が、じりじりしながら五兵衛の到着を待ち構え
ていた。五兵衛が着いたと聞き、三人が飛び出してきて、磯野が、
「いかがでございましたか?」
「先ずはうまくいったようじゃ」
次に小沼が
「で、どのように相成りましたか?」
五兵衛はこみあげてくる笑いをおさえて、
「一味の者を二人ほど、ひっ捕らえたわ」
五兵衛は、越後浪人・佐藤忠右衛門の懐中から出て来た紙片を広げ
「ここに遠州みかの村・金兵衛方とあるのは、おそらく日本左衛門一味の
 連絡の場所、盗賊仲間で申す盗人宿であろう。浪人へ盗賊一味から、
 この紙切れが来たのは、金兵衛方へ集まれとの事とみてよい。先ずここ
 から手をつけねばならない」
三島から見付までは約25,6里ある。
五兵衛はこれを2日で進むつもりでいる。
「苦労をかけるが磯野、明朝、馬を仕立てて発足してもらいたい」
「畏まりました」

磯野は即答した。だが、盗賊改め方の本拠は、見付より1里半手前の袋井宿
へおくことになっている。
 
 
尻尾にも尻尾の意地がありまっせ  前中一晃

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