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川柳的逍遥 人の世の一家言
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奈落から聞こえる泳げたいやき君  森 茂俊



           享 元 絵 巻
尾張の徳川宗春の政策によって栄えていた名古屋の町。



 8代将軍・徳川吉宗

 かつては暴れん坊将軍と言われ、テレビでも大活躍した将軍・吉宗
寄る年波には勝てず、延享3年(1746)に、命にかかわる大病を患
っている。当時は中風と診断された、脳卒中である。右半身麻痺と言語
障害の後遺症が残った。
中風発症から4か月後、症状が落ち着き、床も上げた後のこと。吉宗は、
しきりに、何かをしゃべるのだが、側近は理解できない。しばらくして、
大御所は大好きな「鷹狩り」のことでは、と訊ねると「そのことじゃ」
と答えたという。<このことから、吉宗は自分の意思を言葉にすること
はできないが、側近の問いかけを理解して、反応することができるので、
典型的な運動性失語であったと診断>された。
 この病は、リハビリで改善されると聞いた吉宗は、リハビリに清心した。
御側御用取次であった小笠原政登によると、朝鮮通信使が来日した時に
は、小笠原の進言で江戸城に『だらだらばし』というスロープ・横木付
きのバリアフリーの階段を作って、通信使の芸当の一つである曲馬を楽
しんだという。その後も、小笠原と共に吉宗は、リハビリに励み、江戸
城の西の丸から本丸まで歩ける程まで回復したという。
そのころ徳山五兵衛は、日本左衛門一味捕縛に、東海道を上っていた。


老いぼれて肋骨歌を歌いだす  通利一辺


「徳山五兵衛」 将軍吉宗に見初められた男-⑧
 


            見 附
見附の本来の意味は「見張り所」「警備」で江戸時代、東海道では、
形式的な入り口を設けた。


日本左衛門捕縛に同行する小沼治作が、戦況の報告のために、五兵衛の
一間に入ってきたときのことである。
「殿…」
小沼が生唾を飲みこみ、何かを言い躊躇っている。
「いかがした?」
「は…」
「何ぞ、異変でも起こったのか?」
「いえ、実は…ただいまこの本陣裏にて、召し捕りましたる賊どもの人
 体を、つぶさに見てまいりましたが…万右衛門宅にて捕えましたたる
 老婆のことのことにござりますが」
「その老婆が、何といたした?」
「向こうは、私めに気づかぬ様子でしたが、まさに…」
「まさに…?」
「誰とおもわれまするか?」
「わからぬな」
「お玉でござります」
「お玉……まことか?」
「紛れもございませぬ」


結末に咲いてる花はきっと赤  清水すみれ


正徳5年(1715)徳山五兵衛が初めて、本所見廻り方を拝命した年
の初夏のこと。26歳の五兵衛が網笠に表をか隠し、小沼治作を連れて
市中の見回りに出た折、両国橋の西詰で、佐和口忠蔵と共に歩んでいる
お玉を見かけたことがある。すぐに五兵衛は、小沼に二人の尾行を命じ
たのだが、その時の驚きを、今も忘れていない。
佐和口忠蔵と何やら親し気に語り合いつつ、村松町の方へ行くお玉の、
見違えるばかりに成熟した後姿を、五兵衛は脳裡に思い起こした。
お玉は、たしか五兵衛より二つ三つ年下であるから、今は、54,5に
なっているはずだ。


浮雲に繋がる時のコンセント  みつ木もも花


「お玉ですが、いかがなされます。これへ連れてまいりましょうや」
「……」
数舜、五兵衛は沈思したのち、
「まぁ待て。その前に、そのほうに申すことがある」
五兵衛が、小沼の耳元へ、日本左衛門の顔貌について語ると、
小沼は、<えっ!>と驚きも隠さず、白髪が興奮にふるえはじめた。
「これは、何としたことで」
「驚いたか?」
「驚かずにはおれません」
「いかに思う」
「これは、殿のお考え通り、まぎれもなく佐和口忠蔵の子でござ りましょう」
「…それで、今度はお玉のことじゃ」
「は…」
「日本左衛門は、佐和口とお玉との間に生まれたのではあるまいか」
「……」
「いまふと、そう思うたが…」
「ま、まさに…」


直撃を顎にくらった黒あざみ  河村啓子


それから徳山五兵衛は、かなり長い間を沈思していたが、
「やはり、わしは会うまい、会わぬほうがよい」
「心得ました」
「それで、な、」
「はい」
「お玉のみは、別に押し込めておくように、取り調べも致すなと、磯野
 源右衛門へ申しおいてくれい、なれどこのことは口外いたすなよ」
「畏まりました」
と、言い慌ただしく、小沼治作は、五兵衛の部屋を出て行った。


うしなった方からやってくる答え  徳永政二
 

         護 送 篭


捕えた者の取り調べは、江戸へ護送してから行われる。
まず、見附の万右衛門、赤池法印、菅田の平蔵、白輪の伝右衛門の4名
は、江戸へ送られ、残る7名は、駿府へ送りとなり、公儀の裁決によっ
て処刑をされることになる。
万右衛門宅にいた老婆は、奥庭の土蔵へ押し込められたままである。
「そっと、顔をお改めになさいましては?」
と、小沼はすすめたけれど、五兵衛は、
「いや、やめておこう。かくなってみれば、何事も、辻褄が合うように
 おもえる」
「なれど今もって、佐和口忠蔵やお玉の仕業が、尾を引いておりましょ
 うとは…」
「二人が生んだ子は、尾張家の御七里を勤めていたとか申す、浜島友右
 衛門とやらが、密かにもらい受け、我が子として育てたのであろうか… 
 そのように、思われてならぬ」
「さすれば、いまもって尾張家は、天下を騒がす企みを…?」
「いや、それはない。いまの尾張家は、ひたすら将軍家と公儀に、恭順
 いたしておる」


残したくない足跡がついてくる  下谷憲子


「日本左衛門は、実の父親が、佐和口忠蔵であることを知っておりまし
 ょうか」
「知っていよう」
五兵衛の答えに、ためらいはなかった。
「見せたかったぞ、小沼。わしに立ち向かってきたときの日本左衛門を
 、な」
「さほどに」
「強い。やはり、佐和口の血を引いておるのであろう」
5日後、4名の賊を護送する徳山五兵衛一行は、見付の本陣を出発し、
東海道を下って行った。


一日の終わりに思い出す名前  中野六助
 


    日本左衛門手配書

  人相書之事 十右衛門事   浜嶋庄兵衛
 一 せひ五尺八九寸程 小袖鯨さし 三尺九寸程
 一 歳弐拾九歳 見掛三拾壱弐歳ニ相見候
 一 月額濃引疵壱寸五分程
 一 色白歯並常之通    一 鼻筋通り
一 目中細ク    一 皃おも長なる方
 一 ゑり右之方江常かたき籠在候
 一 ひん中ひん 中少しそり元ゆひ十ヲ程まき
一 逃去り候節着用之品
    こはくひんろうしわた入小袖
    但紋所丸之内橘
    下ニ単物萌黄袖紋所同断
    同白郡内ちばん
 

お玉については、見附・袋井の両本陣の主へ
「かの老婆は、盗賊どもとさして関わりないと判明したゆえ、我らがこ
 こを発して、3日後に追い放つがよい」
徳山五兵衛は、そのように言い渡し、
「何やら、哀れにもおもえる、これを渡してやれ」
金包みを、田代八郎左衛門へ委ねた。
こうして日本左衛門一味の捕物は終わった。
取り逃がした日本左衛門については、幕府が全国に人相書きをまわし、
手配を行っている。
「今度、何処かで悪事を働けば。一も二もなく足がつき、捕えられてし
まうだろうよ」
と、五兵衛は小沼に言った。


生きるとは許す訓練かもしれぬ  杉山太郎


徳山五兵衛は、日本座衛門一味の盗賊どもを護送する途次、小田原藩の
牢獄へあずけておいた寅吉爺佐藤浪人を引き取り、これを密かに釈放
してしまった。与力・磯野源右衛門小沼治作が、護送の一行が江戸へ
去るのを見送ったのち、小田原の本陣へ残り、寅吉と佐藤浪人の始末を
行った。小田原藩へは、
「かの両名には罪なきことが判明いたしたので、解き放ち申す」
と、徳山五兵衛秀栄の名をもって申し入れ、2人の身柄を引き取ったの
である。磯野と小沼は、2人を酒匂川の茶店まで連行しここで釈放した。
磯野源右衛門は、
「こたびの事を、よくよく思い極め、これより先は、少しでも世のため
 になるように働けよ」
と、言った。
寅吉は、磯野と小沼が茶店を離れるまで<この場で、首でも打ち落とされ
るのではないか…>と思っていたようだ。


許そうと決める大きな深呼吸  秋田あかり


護送の一行へ追いつくために、足を速めながら、磯野源右衛門小沼に、
「両人とも、狐に化かされたような顔つきであった」
「まったく、そのようでありました」
「のう、小沼殿」
「はい?」
「このことを、何と思われるな?」
「寅吉と浪人を解き放ったことでござあるか?」
「いかにも、あの両人は、日本左衛門一味に関わる者どもに違いない。
 それを解き放つというのは…どうしても分からぬ」
「殿のやることは、時に分からぬことが、しばしばございますからな」
あらかたの事情を知る小沼だが、こうとしか答えようがない。


いつ呼吸しているのやらよくしゃべる  青木敏子


「なれど、殿には殿に、深い御存念があってのことでありましょう。
 これが町奉行所などとはちがい、盗賊改方のお頭としての、
 臨機応変のなされ方なのではござるまいか」
と、小沼が付け足した言葉に、磯野源右衛門
「さ、その臨機応変が、よく分からぬのだが……」
「人の世の事は、分からぬことばかりでありますな」
磯野は、合点のいかない首を振りながらも<お頭のなされたことだ、
よも、間違いはあるまい>と、思い込むことにきめた。


たらればは言わないことに決めました  安達悠紀子



         お 裁 き


日本左衛門一味の取り調べと処刑が、すべて終わったのは、
この年の12月下旬のことであった。
だが、日本左衛門は捕まってはいない。
徳山五兵衛は、老中・堀田相模守へ委細を報告し、
「首魁の日本左衛門を取り逃がしましたること、申し訳のしようもござ
 いませぬ」
と、詫びた。
しかし、病の癒えた大御所・吉宗は、堀田老中から事情を聞き取り、
「ようも、してのけたものよ、さすがに徳山じゃ」
 「大御所は、至極、満足しておられたご様子であった」と堀田老中は
五兵衛に伝えた。
そして、この年も暮れ、延享4年(1747)の年が明けた。
その正月7日。何と、日本左衛門こと浜島庄兵衛が、京都の町奉行所へ
自首してきたのである。


エンマ様のお裁きを待つあばら骨  大野たけお

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