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川柳的逍遥 人の世の一家言
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あと一段見落としていた僕の足  武市柳章
 


            小伝馬町牢屋敷


小伝馬町牢屋敷の広さは、敷地2618坪(うち奉行の役宅480坪)
周囲には濠が巡らされ、表門は南を向いている。表門から入って「宣告
場」「張番所」があり、「獄舎」は御目見え以上の罪人を入れる揚屋敷
6、5坪、士分・僧侶を入れる揚屋が9坪、百姓町人以下の大牢15坪、
同婦人の女牢が12坪と四ヶ所に分かれており、他に、「拷問場」「処
刑場」「検死場」、病囚のための「薬煎所」「役人長屋」となっている。
日本左衛門は、延享4年(1747)1月7日に京都町奉行・永井丹波
守尚方に自首し、裁かれたのち、江戸に送られ、北町奉行・能勢頼一
って、小伝馬町の牢に繋がれた。
(日本座衛門の自首は、大坂町奉行・牧野信貞の説もある)
 
 

        牢内の図 (徳川幕府刑事図譜)
 
 
エンマ様のお裁きを待つあばら骨  大野たけお


「徳山五兵衛」 将軍・吉宗に見初められた男ー⑨


日本左衛門が、延享4年(1747)1月、自首してきた。
京都町奉行は、永井丹波守尚方であったが、その役宅へ日本左衛門は町
駕籠を乗りつけたらしい。黒紋付に麻の裃をつけ立派な大小を腰に帯し、
堂々たる風采であったが、すっかり痩せ衰え、杖をつきながら、右の足
を引き摺っていたいたようだ。
奉行所には、日本左衛門の人相書きも廻っていたし、京都市中の探索も
疎かにしてはいなかったが、それだけに意表をつかれ与力・同心たちは
あたふたと落ち着かない様子だったようで、日本左衛門は、
「わざわざと名乗り出たるからには、逃げ隠れをいたすわけもござらぬ。
 お心静かになされ」
と、さも愉快気に言い放った。


兵法にあるのだろうか泣き落とし  ふじのひろし


なにはともなく縄を打ち、日本左衛門を白洲へ引き出すと、
「何ぞ、腰にかける物を下さらぬか。それがし、遠州の見附宿にて、
 お役人の頭と見ゆるお人に、右の太股を斬り払われ、その傷が、
すっかり拗(こじ)れてしまい、歩むことも坐ることもかないませぬ」
と言い出た。
調べてみると、なるほど右の太股が化膿し、そのあたりが、まるで毬の
ように腫れあがっている。見附宿の捕物陣を単身で切り抜け、諸方を逃
げ隠れしていた日本左衛門は、全国手配の犯罪者として、医者の手にか
かるわけにもいかず、自分の手で膿を除いたり、薬を塗ったりして何と
か逃げ延びていたという。


時効などさせない神さまの手錠  荻野浩子
 


       江戸のお裁き

 
京都町奉行・永井丹波守は、
「腰をかけさせるがよい」
許可を与えてから吟味を開始をした。
「いずこに潜みおったのか?」
日本左右衛門は、
「まず伊勢の古市に…、それから、長門の国の下関まで落ちのびました」
と、言った。
果たして本当だろうか。
この間に伊勢の古市に住んでいた中村左膳という者が捕らえられた事件
がある。中村左膳は、古市の遊女を斬り殺したらしい。
尾張の浪人で、日本左右衛門一味ではない。
中村左膳と日本左右衛門は、ずっと以前からの知り合いであったので、
「古市の中村宅へ潜みおりましてござる。ところが、慣れぬ他国の下関
にいても落ち着きませず、ふたたび伊勢の古市に戻ってまいりましたが、
中村左膳が、お縄にかかってしまい、匿ってくれる者もなく…」
と、おおまかな経緯を語った。


影だけがどんどん伸びる逃亡者  赤松ますみ


ともかく日本座衛門は、曖昧で詳しいことは何も語らない。
長門の下関の何処にいたのかと訊かれても
「さて、忘れてしもうてござる」
悪びれもせず答える。
伊勢の古市にも居られず、それから京都へのぼり、この日まで何処かに、
潜伏したいたのだが、
「その場所は?」
との訊問に対して、
「橋の下、寺の境内、あるいは諸方の木立をえらび、潜みおりました」
「いずこの橋の下じゃ?」
「さて、京の町は不案内にて、ようわかりませぬ」
「野宿していた者が、どうして、真新しい黒紋付や麻裃を身につけるこ
 とができよう」
行く先々で、日本左右衛門を匿った者がいるにちがいないのだが、
しかし彼らは、おそらく一味の盗賊ではなかった者だろう。


信楽のタヌキの頃を引きずって  中野六助


自首してきたとき、日本座衛門は、懐中に十両の金を残していたという
から、<日本左右衛門のこれまでの逃亡を助けたのは、金の力と言って
よいのではないか>、その金も尽きかけ、このままでは傷が悪化し、
ついには命取りになることを悟り、
「どうせ死ぬなら」
こちらから名乗り出て、<日本左右衛門らしい悪の最後を遂げよう>
そう決意を固めたもの、と、奉行・長井丹波守は推し量り、
「こやつ、いかに締め付けようとも、この上の事は白状いたすまい」
と結論づけた。


もうろくという字を思い出している  黒田忠昭


最後に、日本左右衛門は、しみじみとした口調で
「それがしは天下未曾有の大盗とあって諸国へくまなくお手配にて
かくなってはもはや大綱と申すものと存じました。
わが腹を搔っ切ろうかとも考えましたなれど、
醜い死体を他人に見せるよりは、
自ら大綱にかかり恢恢疎にして漏らさぬとの金言を真のものといたしたく
かくは出頭つかまつってござる」
「…」

「それに…それにまた見附にて斬りはらわれたる太股の傷が、
かほどに悪くなろうとは思いませなんだ、盗賊と申すものは
お役人より何より、己の手傷・病に弱いものでござります」
 
 
団栗がコロンと落ちただけのこと  合田瑠美子



          打 ち 首


その後、日本左衛門は江戸の北町奉行所へ護送され、さらに吟味をうけ
たが、京都町奉行での吟味と同様の結果となった。
そこで、<いたしかたなし>ということになり、延享4年3月11日に、
獄門を申しわたされた。
当日、江戸市中を引き回しの上で、処刑されるのだが、何故か、火炙り
にも磔にもならず、引き回しののち、ふたたび、伝馬町の牢内へ戻され、
其処で首を打たれることになった。


自分史の最期は「ん」で締め括る  梶原邦夫
 

 
                             市中引き回し


処刑の当日、市中引き回しの馬へ乗せられたとき、上体を厳しく縛られ
日本左衛門が付き添っていた役人に、
「見附宿にて捕物の采配をお振りなされたお方の御名を、冥途の土産に
 聞かせていただきとうござる」
「火盗改方、徳山五兵衛殿じゃ」
「とくの、やま、ごへい、どの…」
すると、日本左衛門こと浜島庄兵衛は、
「はて…?」
何やら、しきりに首を傾げているので、役人が
「何とした?」
「いや…その御名を、ずっと以前に耳にいたしたような…」
「何を申す。そのほうどもの関わり知らぬお方じゃ」
「はい……はい……」
処刑の日の日本左衛門は、いかにも神妙であった。


悔いのないきれいな灰になるつもり  津田照子


五兵衛から受けた太股の傷も、医薬の手当てによって、どうにか軽快と
なり、顔色もよく、いくらかは躰も肥えたようである。
「あれが、日本左衛門だ」
「ざまを見ろ」
「あんな悪党は、滅多にいないということだ」
「押込み先で、女を手篭めにするなぞは、まったくもって、犬畜生にも
 劣る奴だ。石を投げてやれ」
「投げろ、投げろ!!」
群衆が引き廻される日本左衛門に石を投げつける。
この大盗の罪状を書き記した紙幟と捨札を先頭にかかげ、槍・捕物道具
を手にした40人ほどの警護がついているけれども、石を投げる群衆に
は知らぬ振りをしている。縄つきのまま馬上にいる日本左衛門の顔は、
血だらけになったという。


かくしてシラタキは白髪ネギに負けたんだ 山口ろっぱ
 
 
徳山五兵衛秀栄の名は、日本左衛門の処刑と同時に江戸市中へ広まった。
見附宿の捕物の鮮やかな手際もさることながら、みずから強力の日本左
衛門とわたりあい、
「生け捕りにしようというので、何とわざわざ、日本左衛門の太股を斬
 ったというのだから大したものだ」
「その場では逃げられたものの、結局、徳山殿より傷のために自首をし
 て出たと申すのだから、生け捕りにいたしたも同然じゃ」
「いずれにせよ、見事な働きではないか」
「年少の頃には、かの堀内源左衛門より薫陶を受け、赤穂浪士の堀部安
 兵衛とも同門であったそうな」
「ほう……さようでござるか。なるほど、なるほど」
などと幕臣の間でも、えらく評判になった。


喝采を遠くで聞いたとろろそば  柴辻疎星
 

 
                                  盗 賊 追 捕 の 図


大御所・吉宗からは、別に何の沙汰もなかったが、老中、掘った相模守
を通じて、<遠路を苦労であった>との言葉が、五兵衛の耳へもたらさ
れた。吉宗はこの年、64歳になっていたし、やや健康を害しているら
しい。
徳山五兵衛の火付盗賊改方就任は、日本左衛門逮捕のためであったが、
あまりにも評判が高くなったためか、幕府は五兵衛を解任しなかった。
五兵衛は、
「まだ、このお役目を務めねばならぬのか…」
幾分、うんざりしたものだったが、江戸市中での盗賊追捕をやりはじめ
てみると、次第に気が乗ってきて、立てつづけにそれと知られた盗賊の
首領を2人も捕えた。


雑巾になるまで使い切る命  笠嶋恵美子


となると、解任の望みはいよいよ遠くなる。
「60の声を聞こうというのに、このような忙しい思いをせねばならぬ
とは…」
五兵衛は毎日のように、小沼治作へ零した。
それならば、何も一生懸命にお役目を務めなくても、怠けていればよさ
そうなものだが、兇悪な賊どもが1人でも消え、絶えるならば、それだ
け江戸市民の難儀が減ることなのだから、遣り甲斐がなくもない、とい
う考えに落ち着いてしまう。


真っ直ぐに生きて付録の中にいる  吉川幸子


火付盗賊改方の長官として、徳山五兵衛秀栄な名は、江戸府内において
<だれ知らぬものはない>、ことになった。盗賊どもも恐れをなしたか、
一時は、江戸府内に盗賊の跳梁が絶えた。
そういうこともあり、寛延2年(1749)の秋になって、
五兵衛は盗賊改方を解任になった。後任は別になかった。
「やれやれ」
五兵衛は60歳になった。小沼治作は70歳である。
しかし小沼は、いよいよ元気で、
「このようなことを申し上げては、如何かと存じますが、近ごろ私は、
 このまま、もう死ぬことはないのではないかと、そのような気がいた
すこともござります」
などと言い出したりして、五兵衛を呆れさせた。


一日でならずローマもこの皺も  岡本なぎさ


ところが、
2年後の寛延4年の正月、ふたたび「火付盗賊改方」を仰せつけられる。
幕府がまたも徳山五兵衛を必要としたのは、諸方盗賊どもの跳梁がはじ
まり、ことに相州から甲州にかけて、<尾張九右衛門>と名乗る盗賊が
現れたことによる。


走ることはない私の道だから  佐藤正昭

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