- 2026/02/08
- Category : ポエム&川柳
大相撲ー横綱を追う
蒼天に髻とけし相撲かな 石鼎
横 綱 授 与 の 図 勝川春英
「相撲の起源」
相撲の起源はハッキリしない。『古事記』にも記述があり奈良時代にも「相
撲節会」があることから、古来の儀式の要素を有した伝統競技とも言われて
いるが鎌倉・室町時代の頃は「武家相撲」で、武術のひとつだった。
それが江戸時代になると「勧進相撲」となった。勧進とは寺社を建立したり
構内を修復するための資金集めのことで、江戸では、貞享元年(1684)に深川
八幡境内で寺社で興行が行われるようになった。
今日、大相撲の番付に「蒙御免」とあるのは、寺社奉行の御免(許し)を蒙
った(受けた)の意の名残りだ。
江 戸 相 撲 番 付 表
おもしろきこともなき世をおもしろく 晋作
当時の人々は、江戸時代を代表する文化の一つとして大相撲を楽しみました。
このブームを牽引したのが、寛政元年(1789)にはじめて横綱土俵入りを
披露した谷風梶之助と小野川善三郎、そして彗星の如く江戸の相撲に登場した
雷伝為右衛門です。そして寛政3年には「上覧相撲」が催されました。
宮相撲廃れ鎮守の宮荒ぶ 秋山英身
大相撲ー横綱を追いかける
谷風梶之助 VS 小野川喜三郎
「江戸のニュース」
寛政3年6月11日、将軍家斉がこの日相撲を上覧した。
上覧相撲は、江戸城吹上苑の庭で行われた。雷伝為右衛門も登場し参加力士
は百六十六名、最後の谷風と小野川の大関同士の取組では、小野川が「待っ
た」をかけた吉田追風ので、小野川の「気合負け」谷風の「気合勝ち」、と
して行事の吉田追風は谷風に軍配をあげた。
寛政の改革の方針である「尚武」に叶うということもあって、相撲が歌舞伎
や遊郭と並んで、江戸の三代娯楽となったのは寛政期であり、谷風、小野川
らの名力士が現れた。仙台藩お抱え力士の二代目・谷風梶之助(四十歳、百
八十九㌢ 百六十一㌔)と、久留米藩お抱え力士の小野川喜三郎(三十二歳
百七十八㌢ 百三十五㌔)が、相撲の司・吉田追風から横綱の伝を免許され、
注連縄を腰に富岡八幡宮の土俵上で四股を踏み、土俵入りを見せた。
(このころ、城や屋敷を建てる際の地鎮祭に、強豪力士などが注連縄をまと
い四股を踏んで、地鎮することが慣わしとなっていたが、これを吉田司家が
相撲興行の上で利あるものとして儀式として採りいれたもの。従ってこの時
点の「横綱」は、単に注連縄を意味し、土俵入りの際の免許の呼称(尊称)
に過ぎなかった)。
月のみか雨に相撲もなかりけり 松尾芭蕉
谷風64連勝のかかった小野川との闘い
「江戸のニュース」
二月の浅草八幡場所の七日目、小野川喜三郎に土をつけられ、六十四連勝の
記録は消えた。
大相撲の黄金期は、この頃より少しあとの寛政年間(1789-1801)だが、のちに
その主役を担う谷風梶之助が、六十三連勝するという前代未聞の大記録を更
新中で、無敵だったのがこの年。これを阻む力士は一人もいないと思われて
いた。大相撲が大人気となる中、谷風の六十三連勝に土がつく。
この取組み以降、実力力士である谷風の前に人気力士の小野川が立ちはだかる
構図が出来上がり、大相撲は一気に黄金期に向かうことになった。
両者の江戸場所での対戦成績は、谷風の六勝三敗・二預かり・二引き分け・三
無勝負だった。谷風の終身成績は二百五十四勝十敗・十四預かり・二引き分け
五無勝負。全盛期の身長は六尺三寸(187㌢)体重43貫(161・2㌔)と伝え
られている。この谷風と小野川は、のちの寛政元年(1789)11月の深川場所で、
ともに横綱となった。この頃の大関は看板(飾り)で関脇の両者の強さが無類
ということで、一気に二人が横綱になってのだが、順序としたは小野川の横綱
免許が12月なので、現在では谷風が横綱第一号とされる。
土俵入りまけるけしきが見へぬなり
安永7年(1778)頃から、それまでの8日興行から10日興行(雨天・寺社の行
事がある日を除く)が行われることとなり、そこに一人のスーパースターが現
れたというわけ。谷風梶之助である。体重43貫の堂々たる体躯で、この年3
月の深川場所から、以後4年負け知らずの63連勝を記録し、のち、寛政元年
(1789)、大関よりも強い「横綱の位に初めて就いた大力士だ」。この初代横綱
の登場で相撲人気は大沸騰した。
月のみか雨に相撲もなかりけり 松尾芭蕉
「安政期の横綱と平成期の横綱 比較」
谷 風 梶 之 助
188㎝ 160㎏ 勝川春英画
188㎝ 160㎏ 勝川春英画
小 野 川 喜 三 郎
178㎝ 135㎏ 勝川春英画
178㎝ 135㎏ 勝川春英画
雷 伝 為 右 衛 門
197㎝ 170㎏ 勝川春亭画
197㎝ 170㎏ 勝川春亭画
豊昇龍 188㌢ 150㌔
大の里 192㌢ 188㌔
琴櫻 189㌢ 178㌔
安青錦 182㌢ 140㌔
照ノ富士 192㌢ 176㌔
白鵬 192㌢ 155㌔
大鵬 187㌢ 153㌔
千代の富士 183㌢ 123㌔
曙 204㌢ 232㌔
武蔵丸 191㌢ 223㌔
絵に描かれた谷風、小野川、そして雷電、という3人の力士の活躍によって、
天明~寛政期(1781~1800)にかけて江戸の大相撲は黄金期を迎えた。
寒取や土俵箒の掃き応へ 龍雨
江戸払いか旅立ちか
「江戸のニュース」
力士の雷伝為右衛門が江戸払いに。
人気力士として知られた雷伝為右衛門は、信濃国小県郡大石村(現長野県
東御市)出身で、身長が六尺五寸(197㌢)体重が四十五貫(169㌔)もある
巨漢だったと言われている。
江戸の浦風林右衛門の門下で、寛政二年に関脇に付け出され、同八年大関
に昇進して十六年務めた。この間、三十二場所中、二百五十四勝で、負けた
のはわずか十回(勝率九割六分二厘)という驚異的な記録を残す。
文化八年(1811)、四十四歳で引退して、松江藩の相撲頭取に任じられている。
しかしこの年、大火で焼失した江戸赤坂の報土寺に寄付した鐘に、大量の金
を鋳込み「天下無双の雷伝」と彫り込んだことが、幕府上層部の不興を買っ
てしまう。その結果、江戸払いに処せられ、鐘も取り壊された。さらに文政
二年(1819)には、松江藩の財政難のために、相撲頭取を解任される。
晩年は妻八重の出身地下総国臼井(千葉県佐倉市)で過ごし、文政八年二月
二十一日、五十八歳で他界した。
雷電がつなをはなして雲を行く
雷電はその強さから「雷」に例えられその横綱級の風格と強大さを表現した。
[相 撲 取 組 之 図] 勝川春章画
「優勝経験のない横綱」
● 大錦卯一郎(第28代横綱)
横綱・大関に歯が立たず、連勝記録も少ないことから「歴代最弱横綱」と呼
ばれた。
● 男女ノ川登三(第34代横綱)
巨漢で人気があったが、引退後の晩年「下足番」をしていたという逸話が有
名で、その没落ぶりが「最弱横綱」のイメージと結びついたものとされる。
しかし「最強横綱双葉山」を「俺が強くしてやったんだ」と負け惜しみとも
とれる面白い発言を残している
● 安藝ノ海節男(第37代横綱)
1939年に双葉山の連勝を70で止めた「世紀の一番」で有名。小柄ながら
速攻相撲で活躍し、戦前・戦中の大相撲を支えた。横綱在籍時1勝あげている。
● 前田山英五郎(第39代横綱)
前田山の性格から前代未聞となる但し書き付き横綱に「粗暴の振る舞いこれあ
りし、時には自責仕る可く候」とのこと。在籍2年の5月場所、力道山に勝利
しただけで5連敗を喫し、大腸炎を理由に休場・休業・廃業帰京した。
● 吉葉山潤之輔(第43代横綱)
新横綱になってから急性腎臓炎・糖尿病により初日から全休。その後も左右両
足の捻挫、銃弾貫通による後遺症と足首に残ったままの銃弾の影響で思うよう
に白星を稼げず、横綱時代では一度も賜杯を抱くことが出来ず「悲劇の横綱」
とも言われた。歌舞伎俳優の御面相もあって人気はあったが。
● 双羽黒光司(第60代横綱)
優勝決定戦までの取組は数度あったが、そこで勝てず、優勝が一度も無いまま
横綱に昇進したことから「千代の富士の一人横綱状態を解消するための仮免横
綱」と呼ばれる。ちゃんこの味付けについて立浪と大喧嘩した北尾は、仲裁に
入った女将を突き飛ばすなど素行に問題があり、トラブルも多かった。そして
北尾以降横審は「横綱の品格」を問うようになった。
● 三代・若乃花勝(第66代横綱)
史上初の兄弟横綱として期待されたが、約5年間の大関在位時で多くの怪我に
苦しみ、「不知火型」のジンクス通りに「短命横綱で終わるのではないか」と
懸念されて的中。横綱在位は11場所だった。
● 稀勢の里寛(72代横綱)
二場所連続優勝で昇進したものの、横綱昇進直後に大怪我を負い、その後は
休場と不振が続き「史上最弱横綱」と評された。が、その真摯な姿は多くの
ファンに愛された。
入念の仕切らち(埒)なや負相撲 瓢亭
照ノ富士 対 朝日富士
「ひとこと苦言」
「照ノ富士関は とにかく重い。白鵬関より一回り大きく見える」
と照ノ富士との勝負のことを語った朝日山に、北の富士コラムゟ は厳しい。
右の相四つというのが、朝乃山にとって不幸なことではあるが、伸び盛りの
大関が、序二段まで番付を落とし、ようやく関脇まで戻ってきた照ノ富士に、
手も足も出させてもらえないとは、合口が悪いではすまないだろう。
体力も若さもすべての面で恵まれている朝乃山が、なぜ照ノ富士に勝てない
のか。もし、相撲界に七不思議があるならば、一番の謎であろう。
もし、私が原因を挙げるとしたら、一番に精神力の違いだろう。
一度地獄を見ている苦労人と、大した壁に当たることなく、大関に昇進した
両者では、天と地ほどの違いがある。
昔は、若い力士に「ちゃんこの味がしみていない」と言ったものだが、まさ
に朝乃山は、土俵の塩の苦さも、ちゃんこの味も足りていない。
(令和8年初場所は、9勝と頑張りましたがまだまだですな)
幾秋ヲ負ケテ老イヌル角力カナ 子規
雨天休みの力士の景色
力士の酒盛りと聞けば料理や酒が山のように並んでいるかとイメージするが
、この図には料理が火鉢の上と横にある程度で、むしろ質素な印象を受ける。
当時はこの程度のものであったのではないかという推測も立つが、雨天時の
興行は中止だったため、この図は雨天時の関取たちの素顔と過ごし方の様子
が描かれたものではないだろうか。
「最後に小咄をひとつ〔久造さんの試し酒〕」
五升(計算は簡単で一升瓶5本のことです)の酒が飲めるか勝負することに
なった久造さん。
「ちょっと考えさせてくれ」と外へ出て行き、しばらくして戻ってくると
「やらせてもらうべえ」と言って飲み始めると、あれよあれよという間に
五升の酒を飲み干してしまう。
びっくりした主人が「久造さん、あんたさっきちょっと考えさせてくれと
言って外へ出ていったが、あの時、いくらでも酒が飲めるまじないか何か
してきたんじゃないか?それを教えてくれ」と聞くと久造さんは、
「いやあ何でもねえ何でもねえ、おら五升なんて酒飲んだことがねえから、
飲めるかどうか表の酒屋で試しに五升飲んできた」
「令和の酒豪」 episode
元横綱白鵬は焼酎60本を一晩で飲み干した記録を持つが、その上がいた。
白鵬が「自分より酒が強いと思った人はいるんですよ」と言う。
「X・JAPANのYOSHIKIさん…あのスリムな体のどこに入るのか驚いた」
と教えてくれた。
と教えてくれた。
投られて酒債飛散る門角力 亀公
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