- 2026/05/17
- Category : ポエム&川柳
豊臣兄弟ー秀吉・秀長のスピード出世-①
今と過去やさしく包むかたくり粉 上坊幹子
「大田春長公乃受命真柴久吉出陣の図」 (国立国会図書館)
豊臣兄弟ー秀吉・秀長兄弟の出世スピード
織 田 家 合 戦 陣 図
織田信長の重臣といえば、柴田勝家、羽柴秀吉、明智光秀、丹羽長秀、滝川
一益、佐久間信盛を思い浮かべる。このほかにも有力な家臣はたくさんいたが、
信長の「天下統一」過程で、追放の憂き目に遭ったり、あえなく討死したりし
て歴史の表舞台から消えていった者も少なくない。
信長の家臣として究極の地位である「方面軍司令官」に抜擢されたのは、信長
の実子を除けば、わずか数人である。
最終段階では、光秀を含めると秀吉、勝家、一益の四人にすぎない。なかでも
秀吉の出世の速さは、その出自の低さから推測すると驚くべきものであった。
織田信長の重臣といえば、柴田勝家、羽柴秀吉、明智光秀、丹羽長秀、滝川
一益、佐久間信盛を思い浮かべる。このほかにも有力な家臣はたくさんいたが、
信長の「天下統一」過程で、追放の憂き目に遭ったり、あえなく討死したりし
て歴史の表舞台から消えていった者も少なくない。
信長の家臣として究極の地位である「方面軍司令官」に抜擢されたのは、信長
の実子を除けば、わずか数人である。
最終段階では、光秀を含めると秀吉、勝家、一益の四人にすぎない。なかでも
秀吉の出世の速さは、その出自の低さから推測すると驚くべきものであった。
とろみが強すぎて口笛が吹けない 酒井かがり
柴田勝家
「上洛戦段階の最上位九人」
信長は足掛け7年をかけて美濃を平定し、永禄11年(1568)9月、将軍候補の
足利義昭を奉じて上洛した。『信長記』には8人の大将の武功が記されており、
秀吉もこの中に入っている。上洛戦で大将の一人に抜擢されていることから推
測すれば、これ以前に織田家中で確固たる地位にのし上がっていたことが分る。
秀吉もこの中に入っている。上洛戦で大将の一人に抜擢されていることから推
測すれば、これ以前に織田家中で確固たる地位にのし上がっていたことが分る。
信長軍は、4万とも6万ともいわれる大軍を動員して近江を進軍し、敵対した
六角氏を鎧袖一触(がいしゅういっしょく)、蹴散らした。
六角氏を鎧袖一触(がいしゅういっしょく)、蹴散らした。
秀吉は佐久間信盛、羽柴長秀、浅井信広の4人で、六角氏の支城である箕作城
(みつくりじょう)を、一気呵成に攻略し、この勢いに恐れをなした六角承禎
(じょうてい)は戦わずして本城の観音寺城から夜中に逃亡した。
(みつくりじょう)を、一気呵成に攻略し、この勢いに恐れをなした六角承禎
(じょうてい)は戦わずして本城の観音寺城から夜中に逃亡した。
この4人に対し三好方の拠点の勝竜寺城を攻撃したのは、柴田勝家、蜂屋頼隆、
森可成、坂井政尚の4人である。以上の8人に滝川一益を加えた9人が、織田
家の武将として最上位に位置していたと思われる。
森可成、坂井政尚の4人である。以上の8人に滝川一益を加えた9人が、織田
家の武将として最上位に位置していたと思われる。
線で囲った私を出られない 日下部敦也
森 可成
「朝倉・浅井攻略の段階では」
永禄13年(1570)4月、信長は越前の朝倉義景を討伐すべく大軍を率いて出陣
したものの、妹(お市)婿の浅井長政に離反されたために帰陣。
したものの、妹(お市)婿の浅井長政に離反されたために帰陣。
秀吉も従軍していたが、攻略した金ヶ崎城で朝倉軍の反撃を食い止め、信長の
帰陣を安全ならしめた。秀吉の武功・「金ヶ崎の退き口」である。
帰陣を安全ならしめた。秀吉の武功・「金ヶ崎の退き口」である。
その後、信長は本拠の岐阜と京都との通路を確保するため、江南に諸将を配置。
永原城には、佐久間信盛、長光寺城には柴田勝家、安土城には中川重政、また
宇佐山城には、森可成を配置して朝倉・浅井連合軍や六角氏に備えた。
永原城には、佐久間信盛、長光寺城には柴田勝家、安土城には中川重政、また
宇佐山城には、森可成を配置して朝倉・浅井連合軍や六角氏に備えた。
秀吉も江北で最前線の城砦を任され、すでに3千人もの軍勢を差配できるまで
に成長していた。
に成長していた。
そしてこの年の6月、織田家は「姉川の戦い」で朝倉・浅井の連合軍を破り、
浅井氏の居城である小谷城攻囲戦が始まる。この主力を務めたのが秀吉である。
浅井氏の居城である小谷城攻囲戦が始まる。この主力を務めたのが秀吉である。
秀吉はそれまでの功績が認められ、浅井氏の旧領を拝領し、一国一城の主に匹
敵する城持ち大名となった。
敵する城持ち大名となった。
一方、実弟の秀長(小一郎)は、秀吉の家来ではなく直臣(主君の直接支配下
にある家臣)だったようだが、このころから信頼できる史料に登場する。
にある家臣)だったようだが、このころから信頼できる史料に登場する。
スゴイッと言われて凄くなってきた 下谷憲子
佐久間信盛
将軍義昭と信長に両属するかたちで存在感を増しつつあった明智光秀は、元亀
2年(1571)の比叡山焼き討ち後には、義昭を離れて信長の直臣に転じ、坂本城
を築城して近江滋賀郡の支配を開始するなど、外様ながら地位を高めていた。
2年(1571)の比叡山焼き討ち後には、義昭を離れて信長の直臣に転じ、坂本城
を築城して近江滋賀郡の支配を開始するなど、外様ながら地位を高めていた。
天正2年(1574)7月、秀長は、「第三次長島一向一揆」攻めに従軍したことが
『信長記』確認できる。秀吉の武将として派遣されたといわれるが、秀吉の家
臣だったという思い込みによる推測に過ぎず、信長の直臣として参陣したもの
で、秀吉とは別行動で武功を挙げた。秀吉は、同3年の越前一向一揆討伐戦で
は明智光秀らとも協力して一揆勢を討ち取っている。
『信長記』確認できる。秀吉の武将として派遣されたといわれるが、秀吉の家
臣だったという思い込みによる推測に過ぎず、信長の直臣として参陣したもの
で、秀吉とは別行動で武功を挙げた。秀吉は、同3年の越前一向一揆討伐戦で
は明智光秀らとも協力して一揆勢を討ち取っている。
柴田勝家は、大国越前の支配を任され、不破光治、佐々成政、前田利家、金森
長近、原政茂らの「越前衆」を与力に加え、大きく分限を拡大した。
長近、原政茂らの「越前衆」を与力に加え、大きく分限を拡大した。
線上にカミツキガメと黒兎 大葉美千代
丹羽長秀
浅井の旧領を拝領して一躍出世していた秀吉だったが、先輩格の勝家には改め
て水をあけられるかたちになった。光秀は、越前平定後は主に丹波国の侵攻戦
に従事したが、苦戦を続ける。一益は、北伊勢に所領を持ちつつ、遊撃軍的に
出陣していたが、分限はまだ小さかった。
て水をあけられるかたちになった。光秀は、越前平定後は主に丹波国の侵攻戦
に従事したが、苦戦を続ける。一益は、北伊勢に所領を持ちつつ、遊撃軍的に
出陣していたが、分限はまだ小さかった。
天正5年(1577)8月、信長は、上杉謙信の北陸からの南下に備え、越前を領国
としている柴田勝家を総大将に据え、越前衆のほか、一益、秀吉、丹波長秀ら
織田家中の錚錚たる武将を派遣して迎撃させた。
としている柴田勝家を総大将に据え、越前衆のほか、一益、秀吉、丹波長秀ら
織田家中の錚錚たる武将を派遣して迎撃させた。
なごませて下さる言葉「さすがだね」 新家完司
滝川一益
この時点では、勝家が総大将を務めており、前線に近いということもあるが、
勝家の方が秀吉らよりも格上だった。
勝家の方が秀吉らよりも格上だった。
もっとも秀吉は、理由は不明ながら無断帰陣して信長から責を受けた。
信長の逆鱗に触れた秀吉は、信貴山城に籠城して信長に反旗を翻した松永久
秀父子討伐戦に従軍し、信長嫡男の信忠指揮の下、信貴山城を攻略した。
秀父子討伐戦に従軍し、信長嫡男の信忠指揮の下、信貴山城を攻略した。
これと相前後して、秀吉は、信長から中国方面への出陣を命じられていたが、
おそらくこの機会に、秀長を与力に配されたと思われ、兄弟は一致協力して
対毛利戦線へ向かった。これが秀吉に幸運をもたらし、織田家中でも屈指の
軍団を形成することにつながった。
おそらくこの機会に、秀長を与力に配されたと思われ、兄弟は一致協力して
対毛利戦線へ向かった。これが秀吉に幸運をもたらし、織田家中でも屈指の
軍団を形成することにつながった。
失言と言っているいるけど本音です 高橋太一郎
坂井政尚
豊臣兄弟は播磨へ出陣し、国中から人質を徴し、さらに但馬へ侵攻して岩瀬城、
竹田城を相次いで攻略した。秀長は、竹田城を増強して城代として守備するな
ど対毛利戦は順風満帆の滑りだしとなった。
竹田城を相次いで攻略した。秀長は、竹田城を増強して城代として守備するな
ど対毛利戦は順風満帆の滑りだしとなった。
しかし天正6年(1578)早々、秀吉からの援軍にも頼りながら、天正8年(1580)
1月、別所が拠る三木城を開城させた。その間、但馬方面は主に秀長が平定戦
を進めた。三木城攻略の次の標的は、山陰方面の鳥取城。三木城攻めでの経験
を活かし、秀吉は付城群を構築して完全包囲し、徹底した兵糧攻めを仕掛けた。
事前に城下から兵糧米を買い占めていたともいわれる。秀吉軍は、この両城の
城攻めで大きなノウハウを得て、その後の飛躍に結びつけた。
を進めた。三木城攻略の次の標的は、山陰方面の鳥取城。三木城攻めでの経験
を活かし、秀吉は付城群を構築して完全包囲し、徹底した兵糧攻めを仕掛けた。
事前に城下から兵糧米を買い占めていたともいわれる。秀吉軍は、この両城の
城攻めで大きなノウハウを得て、その後の飛躍に結びつけた。
跳ねるという字はほんとうに跳ねている 三宅保州
羽柴秀吉
天正8年には佐久間信盛、が追放されており、分限としては勝家と秀吉・秀長
兄弟が拮抗していた。
信盛を追放した時の折檻状に家中での武功について信長の評価が記されている。
兄弟が拮抗していた。
信盛を追放した時の折檻状に家中での武功について信長の評価が記されている。
要約すると「丹波国での働きは天下の面目をほどこした。次に秀吉の数か国で
の働きは比類がない」。
の働きは比類がない」。
池田恒興は、分限が小さいが花熊城を攻略し、これまた天下の覚えを取った。
勝家は、これらの武功を聞いて、越前一国を支配していながら、武功を挙げない
ようでは世間の評判に関わると思い、加賀一国を平定した。
ようでは世間の評判に関わると思い、加賀一国を平定した。
土壇場に強い人ですシクラメン 曾根田夢
「和漢百物語 小田春永(織田信長)」 月岡芳年
「信長の家臣を評価する指標として引用される文言である」
一般的には光秀の名前が最初に出てくることから光秀の武功が第一とする見方が
多い。しかし、国の大小はあるものの、丹波一国の平定と数か国での活躍を比較
すれば、おのずと秀吉の武功が第一である。
多い。しかし、国の大小はあるものの、丹波一国の平定と数か国での活躍を比較
すれば、おのずと秀吉の武功が第一である。
光秀と秀吉の順番を入れ替え、分限の小さい恒興の活躍をその後ろに置き、さら
に翻って勝家の武功を誉めそやしているのである。
に翻って勝家の武功を誉めそやしているのである。
要するに、この時点での織田家中の武勲では、秀吉・秀長兄弟が最高位であった。
兄弟は、江北に加え、播磨・但馬の二か国、因幡・伯耆の一部、与力各の宇喜多
氏を加えると備前、美作にまたがる国々を影響下においていた。
兄弟は、江北に加え、播磨・但馬の二か国、因幡・伯耆の一部、与力各の宇喜多
氏を加えると備前、美作にまたがる国々を影響下においていた。
ライバルの勝家は、本国の越前に加え、加賀を手始めに能登、越中への侵攻を本
格化させつつあった。
格化させつつあった。
さすがだね泣かせておいて笑わせる 徳永政二
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