川柳的逍遥 人の世の一家言
肉球の跡がある六法全書 片岡加代
「永寿堂店先」 (初代歌川豊国 東京国立博物館蔵)
鱗形屋から代替わりで繁盛する版元・西村屋与八の店が「永寿堂」である。
江戸時代には「著作権」の概念がなかった。
あったのは版元の「出版権」である。 著者から原稿を受け取った版元は、彫師に「板木」を作らせて、それを所有す
ることで「出版権」を得た。これを「板株」という。 板株の権利は、とても強く、ある版元が新刊を出版する際には、過去に似たよ
うな内容がないかなどを「仲間」に計り、出版の了承を得る必要があった。 「著作権」はなかったが、「出版権」には、うるさかったのである。
いろいろな規制を加えようとしてくる「お上」に対しては、版元同士結束して、
自分たちの権利を守ろうともした。
さむ空へ陽の射す道を選りながら 細見さちこ
蔦屋重三郎ー江戸の本屋
須原屋通り一丁目店
須原屋は左に看板がみえるように薬屋も商っていた。 江戸の書物問屋の代表格は、須原屋茂兵衛で、万治年間(1658-61)初代茂兵衛は 紀州有田から江戸へ移住したと伝えられる。 その後、分家が多く出たので江戸で、須原屋を名乗る本屋はほぼ分家といって よい。茂兵衛から分家独立して、江戸の文人墨客の書を精力的に刊行した書物 問屋に、須原屋市兵衛がいる宝暦年間(1751-64)に独立した市兵衛は、平賀源内 の浄瑠璃本『神霊矢口渡し』等、太田南畝の『寝惚先生文集』等や森島中良の 『紅毛雑話』等を出して活躍する。 この市兵衛にやや遅れて、市兵衛が先鞭をつけた江戸在住の、武家知識階級の
著作意欲に便乗し、彼らの趣味的余技から始まった「戯作類」を刊行すること によって、急成長を遂げたのが、地本問屋・蔦屋重三郎にほかならない。 神様はきっと見てますその努力 津田照子
鱗 形 屋
店先で粋にかまえているのが鱗形屋孫兵衛 松会三四郎は、「江戸出版文化の代表」ともいうべき、戯作類とは無縁な版元 だったが、仮名草子などの初期教養書や浮世絵・菱川師宣の絵本類を刊行し、 江戸独自の文化の隆盛に貢献した点では、記憶される地方問屋である。 その松会三四郎と雁行して、江戸の出版界をリードしていったのが、須原屋と
同じく万治年間に開業されたとされる鱗形屋で、仮名草子や師宣の絵本はもと より、浄瑠璃本なども手がけていた。 鱗形屋は、八文字屋本の江戸売捌元となって、家業はいよいよ盛んになり、 何より江戸独自の草双紙類、つまり赤本・黒本・青本からやがて黄表紙時代を 告げる恋川春町の『金々先生栄花夢』を出して江戸版元の主導的役割を果した。 しかし番頭が今日でいう著作権問題を起こし、天明年間(1781-89)に家運は衰微、
没落後は、その孫兵衛の次男が同じ江戸の地方問屋・西村屋与八の養子となって 西村屋の隆盛を招くといった皮肉な巡り合わせとなった。
予感的中うれしいようなこわいよな 鮒子田嘉子
蔦屋重三郎の店・蔦屋 その鱗形屋より版権を譲渡され、鱗形屋に取って代わるように、出版界をリー ドしたのが蔦屋重三郎であった。蔦屋もまた、山本九左衛門の最期の当主浮世 絵師・富川吟雪より、店をそっくり譲り受け鶴屋喜右衛門と並んで、江戸戯作 の出版界におけるバックボーン的役割を果たした。 一方、鶴屋喜右衛門は、はじめ京都鶴屋の江戸出店だったようだが、独立した
初代喜衛門時代に逸早く草双紙出版に手を染めて成功し、書物問屋兼地本問屋 として中心的な活躍をする。初代没後も二代目の才覚によって家運上昇は続き、 老舗として蔦屋と並立する版元として確たる地位を固め、五代目まで出版書肆 としての活動は続いた。 紆余曲折をただ真っ直ぐに突き進む 蟹口和枝
鶴 屋 喜 衛 門 の 店
これ等地本問屋に続く新興地本問屋は、蔦屋と西村屋に代表されるが、その他 に、浄瑠璃本の版元から草双紙まで広く手がけた西宮新六、寛政半ば頃に没落 するものの草双紙界では、多色刷りの絵題箋を工夫するなど独自の活躍をした 伊勢屋治助、そしてこれも浄瑠璃本から草双紙まで幅広い版行で幕末まで家業 を続けた伊賀屋勘右衛門等がいる。 こうした新興地本問屋のほとんどは、浮世絵の版行により財政的基盤を築いた ともいえる。 魂をざぶざぶ洗う本の中 竹岡訓恵
江戸川柳が詠む本屋
「須原屋」 本家は日本橋通り一丁目西側にあった江戸屈指の出版商である。
この店の特徴は、武士階級の職員録とでもいうべき『武鑑』の刊行で、柳多留
には次のような句がたくさん詠まれている。 「武蔵野と須原に諸侯名を列らね」 「武鑑」という書は、諸家大風のあらましを、市井にて記したる者ゆえに、
誤りも漏れもあるはずなり。後略」編集にはどんな人が当たったのだろうか。 同店の売薬順気散も有名である。また柳多留にも人気があった。
「吉原は重三 茂兵衛は丸の内」
「須原屋は袖へ纏を十本入れ」
「桜木へ武士を須原屋彫て売り」
「御役がへ茂兵衛ちくいちかしこまり」 など。
惚けにに効く薬本屋で買ってくる 岩本浅男
「蔦屋・耕書堂」
今や、蔦屋重三郎は、大河ドラマでも主役になって話題を集める。
安永の初め吉原50軒町に開店、吉原細見の株を買い刊行、天明3年に通油町
に移転。蔦唐丸で狂歌の作があるが、狂歌絵本、洒落本、黄表紙、錦絵の刊行 書が多く江戸地本屋の第一人者。柳多留に次のような句がある。 「蔦重は五葉の松を細く見せ」
「原の百姓蔦屋重三郎」
生真面目な干し大根の顔になる 田村ひろ子
鱗形屋発刊 吉原細見 (国立国会図書館蔵) 「鱗形屋」
鱗形屋は、大伝馬町にあった出版商で、川柳時代よりも古く、菱川師宣などの
絵本類の版元として知られる。元日の夜、枕の下に敷いて寝て、初春の吉夢を 祈った宝船を何枚と言わずに、欲深く、船を数える艘でいった 「数万艘鱗形屋は暮れに摺り」という柳多留がある。また、
「竜宮武鑑版元は鱗形」では…
魚族の王城である竜宮城で、武鑑のようなものを編集したら、鱗形屋が版元に なるだろう川柳子はみている。金儲けには、執念をみせた人だったようですな。 「かわらけへとなりの書物きざみこみ」
一言の重さ軽さを問うている 笠嶋恵美子
「鶴屋」「鶴喜」
鶴屋喜右衛門は日本橋通油町で<鶴屋><鶴喜>として商う。
柳亭種彦の「偽紫田舎源氏」の版元として著名。
元禄年代は、浄瑠璃本の版元としても名高く、明治維新後も、本石町3丁目で、
学術書・中学師範学校図書を販売、江戸の店は京都から移転したものという。
「廻り合ふ春を鶴屋は蔵で待ち」
「子を思ふ夜るの鶴やへ草さうし」 の柳多留がある。
お越しやす立ち読みできる本屋です 田中おさむ
地 本 問 屋 (十返舎一九作画)
「永寿堂」は、馬喰町2丁目南角に店「永寿堂西村屋」をかまえ、安永6年~ 天明2年(1777-1782年)にかけて活動した。 当初は、磯田湖龍斎の『雛形若菜の初模様』を蔦重と合梓により版行したが、
まもなく袂を分かち西村屋は、鳥居清長の作品を中心に出版。 寛政には入ると、西村屋与八は美人画を、対して蔦重は歌麿や写楽を推して
対抗した。 二人は、西村屋の二代目も含めて、蔦重のライバルとして江戸の出版界を牽引し ていく。
「柳樽池の汀でひらくなり」
書店に並ぶ本の動きで知る世相 窪田善秋
「西宮新六」
本材木町一丁目に店をかまえ、俗に合巻物の権興といわれる『雷太郎極悪物語』
の版元であり、式亭三馬と関係の深い店で次の柳樽の句も、三馬の恵比寿講の 上客は西宮新六であろうと、兵庫県西ノ宮のエビス様を祭ってある広田神社を 頭においての作である。 「三馬が恵比寿講上客は西ノ宮」
幸運は多分歩いて来るんやね 肥田正法
「星運堂・花屋久次郎」
星運堂・花屋久次郎は下谷五条天神裏に店舗があったので、菅理という俳名で
川柳の作句もあり『柳樽』その他の俳書の版元でもあり、二代目雷成舎として 『ケイ』の編集にも当る。 「僕不思議花屋で本を売りますか」
「花屋の店に生茂る柳樽」
書店に並ぶ本の動きで知る世相 窪田善秋
蔦屋重三郎 須原屋市兵衛 西村屋与八
横浜流星 里見浩太朗 西村まさ彦 鱗形屋孫兵衛 鶴屋喜衛門 駿河屋市衛門 片岡愛之助 風間俊介 高橋克実 「べらぼうー第7話はこんな話」 片岡愛之助が演ずる地本問屋・鱗形屋の主人である孫兵衛が、字引『節用集』の
「偽板の罪」で捕まった第6話につづく------。
この機を逃すまいと動く蔦重(横浜流星)は、皆が「倍売れる」と思えるような 『吉原細見』(吉原のガイド本)を作ることを条件に、地本問屋の仲間に加えて もらえるよう約束を取り付ける。 しかし、老舗地本問屋は、それを快く思わず、西村屋の主人・与八(西村まさ彦) は、浅草の板元である小泉忠五郎(芹澤興人)と新しく『吉原細見』を別に作る ことで、蔦重の参入を阻もうとする…。 今でしょと明日は今日より若くない 靏田寿子 PR |
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